俺の小説の書き方 喩えを作る
おじさんやおばさんは、しばしば若者が何を言っているのかがわからなくなる時がある。
いわゆる若者言葉というものが理解できないためである。
かつて、言葉の流行というものは、ラジオやテレビでタレントなどの言動から生まれることが多く、今までも数々の流行語が作られ消費され、そして消えていった。おそらくその歴史は軽く江戸時代くらいまで遡れるであろう。
現代における流行語の多くもまたテレビメディアが主流ではあるが、ここ十数年においてはネットスラングなる造語が闊歩しており、若者を中心に乱用されている。
小説内においてもしばしば、当時の流行語が使われることがある。それらの作品は時代性に鑑みて登場人物に使わせる場合もあるが、作者本人が無意識に「使ってしまっている」ということもある。これは仕方のないことなのだが、後年に読むと痛い文章(←このように)になりかねない。
それと同じくして作品内で、当時の流行を「引用」するケースもしばしば見受けられる。
例えるならドラマやアニメの固有の主人公名などを、伏せ字にして記述してみたり、あるいは明記し、既存の印象を自作に利用する。または当時事件のあった場所に対し、世間が特定の印象を持っていることをバックグラウンドとして利用し、自作の印象付けをしたりすることもあるが、これもまた後年になってみれば当時を知らないものにとっては何の効力も果たさない。
無論我々が、江戸時代の文書を読めるかと言われれば、ほぼ読めない。
明治時代や昭和初期でも完全に理解するには怪しいと言わざるをえない。
しかし、現代語に訳されていれば読めるのかというとそうではなく、やはり端々で単語そのものの意味がわからない事が多い。これは言葉は時代とともに変化するといういい例であると同時に、世界や社会が変化していることを表す。
時代が違わなくとも、文化風習を知らない外国人の小説内の記述は、我々にはやはり捉えにくかったり、理解できなかったりする。
国内においても、小説を読むときにサブカルの予備知識がいるような作品、というのはある。もしくは科学的な予備知識が必要な作品もある。もっと言えば、児童文学と、純文学では読み手の理解度に大きな差があるため、その記述の仕方が大きく変わる。
ラノベというのはそもそも十代、ローからハイティーンくらいを対象とした作品傾向にあり、文章が簡素であり、社会倫理的、論理的思考を多く必要としない。描写形式にしても比喩表現が少年少女たちにとって身近なものを用い、記述を想像しやすく補完している。
これが誰でも平易に読める読み物となる場合ならそれはそれで良いのだが、特定の一部世界だけで流通する単語や言葉を使用された場合、それは一般人にとって異文化の文書を読むに相応しいという事を想像できなくてはいけない。
今日はこの喩えの話を少ししてみたいと思う。
比喩表現ってのはある物事を何か別の語句に置き換えて表現する、修辞技法のひとつである。
小説を書きなれていない人の悪い癖として、比喩表現が一般的かどうかという判断が付かずに、それを使ってしまうことにある。
たまに見かける表現なのだが「まるで男はターミネータのようだった」という行。
これは劇中の脅威に対して、「筋骨隆々で屈強」もしくは「不死身の体」もしくは「無表情で何を考えているかわからない不気味さ」を言い表す「表現」として使用している。
なぜそう取れるのか?
それは我々が一般的にジェームズ・キャメロン監督の映画「ターミネーター」内において、アーノルド・シュワルツネッガー演じる、殺人アンドロイド(T-800)の姿が即座に思い浮かぶからである。
ネットで「ターミネーター」と検索したところで、まず間違いなくシュワちゃんが出てくる。
ちなみに、「ターミネーター」という呼称は正確ではなく、T-800を指す固有名詞でもない。あれ自体がすでに「(世界を)終わらせる者」という隠喩であり、つまり「まるで男はターミネーターのようだった」などと書くと、直喩と隠喩の両方を使った事になり、実は意味がわからない。
いっそ「男は世界を終わらせる者のようだった」と大胆に書いたほうが良いことにもなる。(んだが、文脈的には、人から見て世界を終わらせる脅威としてターミネーターなのか、ジョン・コナーが存在する世界を終わらせる刺客としてのターミネーターなのか、映画本編のとり方により表現はやや変化する)
確かにターミネーターはこの日本国内に限れば、誰もが知っていると言ってもいいだろう。そしてサイバーダインシステムズ・モデル101シリーズ800のことを「ターミネーター」と呼んでいる。ちなみに劇中では「T800」のことを「ターミネーター」とは呼んでいない(はずだ)。
だが、この手の比喩表現はやはり避けるべきである。商標登録や著作権に抵触することもあるが、なにより他作の創作物を引用してくるのは、読者に対する配慮に欠ける上、作家として手を抜きすぎていると思う。
駄目とは言わないが、使わないに越したことはない。
そして、引用直喩ばかり使っていると、まず文章能力は伸びない。
サブカル読者層に向けて書いているから、あえて説明すると冗長となる、という意見もあろうが、やはり閉鎖的で内輪娯楽になりやすく、一般向けとは言いがたい。
サブカルに興味のない人や、まるで知識のない人、つまりターミネーターを観た事も、聴いた事もない人にとってその小説は、国語辞典もってしても何を指しているか解らないだろう。
これがどのくらい歪かっていうと、学術専門書レベルといえる。
従って、結論としては、自作創作作品内において、同列に並ぶ創作物の要素を引用する事は、礼儀として避けるべきであると俺は思う。
それでもターミネーターを出したいなら、ターミネーターを知らない人でも、その脅威が伝わるように描写を重ねる努力をすべきだし、それこそが物書きとしての腕の見せ所であり醍醐味でもあるとのではないだろうか。




