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 二日おき六時に更新

 ここ最近の病院というのはある種の収容施設のような役割もあり、過去には刑務所や更生施設のような扱いを受けることも多々ありました。

 社会に馴染めなかったもの、転職を繰り返すもの、どこで働いても解雇され続けるもの。どれだけ労働が単純化され負担のないものになったとしても、あるいはだからこそ、世の中ではそういった人たちは一定以上出現してしまいます。そういった人たちの一部は診断書によって精神的な患者に認定され、有無を言わさず病院に押し込まれて更正のためのリハビリテーションに励むことになります。

 一度でもそうして入院した経歴を持つ人物は、社会的にあまりよい扱いを受けないと聞きます。テレビの中ではこの問題について賢そうな顔をしたおじさんたちが、日夜激しい討論を交わしているのでした。

 「結局はていの良い間引きのようなものだ」

 と、先生は難しい顔をして言いました。

 「はるか昔。存続が危うくなったグループが、労働に貢献しない老人や子供を山の奥に捨ててくる文化が存在したらしい。これはその現代版だ。どうしても社会に馴染めない奴は病院の中に押し込んでしまう。そして二度と出てくることはない」

 「野垂れ死にさせられないだけマシでしょう?」

 「歪んだヒューマニズムだ。反社会的人格の隔離という点では、刑務所や更正施設となんら変わりはない。今じゃそれら二者との線引きも曖昧だしな……。君の同室にもいただろう、両親を殺害してこの病院に送られた女の子が」

 あーちゃんのことでしょうか。

 坂本ああああ。育成するつもりのないゲームキャラクターのような名前の彼女は、外の世界での裁判の結果としてこの病院に送られてきました。精神的に異常なところがあり、人格形成に著しい欠陥があり、少年院などの厚生施設ではなく病院の方に隔離し、その治療に当たるべきだと判断された……らしいのです。

 「あーちゃんの場合は、他に引き取り手がいなかったからそうなったというだけなのでは?」

 「他でもない彼女自身が殺してしまったからな。少なくとも保護観察処分というわけにはいかなかっただろう。少年院にしても出てきたあとぶち込む施設に困る。今時子供の殺人事件など珍しくもないが、いきなり病院送りとはなかなかない」

 「でもあーちゃんには、外の世界に復帰する意思があります」

 「無論。俺にはそいつに協力してやる義務がある」

 と、先生は肩をすくめてから

 「しかしどうにもならんのだよ。……少なくとも、今以上の教育を受けることは難しいだろうな。なかなか頭の良い子だというのに、悲しい話だ」


 はてさて。そんな風に少々陰気なこともあるのが今現代の病院という施設なのですが、しかし暮らしなれれば楽しいこともいくつかあるのでした。

 特に夏祭り。この楽しさは特筆に価するものがあるでしょう。中で暮らす人達の慰安の為、病院では様々なイベントが執り行われますが、中でも大規模なのが病院のすぐ隣の会場で行われるどんちゃん騒ぎ。

 基本的にこの日はある程度患者に外出許可が出やすいようになっていますし、職員が総動員で外出する患者さんのお世話に終始します。この為だけに介助者を雇うような場合もあるらしく、長く退屈な病院生活を送る子供たちにとっては、とても重要なイベントごとです。

 病院内もどことなくお祭りムードとなっていて、お店も出ますしやむを得ず参加を見合わせた人も、それなり程度に楽しめます。お祭りが平日を一日含む四日間にわたって行われるのも、上手く治療スケジュールを調整して、患者の誰もが一度だけでもお祭りに出られるようにという配慮だと聞きました。

 「そんなことして、患者が外でぶっ倒れたらどうなんの? 病院の責任問題じゃない」

 あーちゃんが夏祭りのパンフレットを眺めながらそんなことを言いました。

 「名目上は病院主催のものではありませんから。病院のすぐ傍で市が行うお祭りを病院がバックアップして、入院患者にもリハビリがてら参加させているという形ですね。実際、このお祭りに出るために熱心に治療に当たる子供もいるんだとか」

 「それでも涙をのむ子もいるんでしょう?」

 「残念ながら。ですが病院が敷地を提供して院の庭にも少しお店が並びますから、よほど重症者でない限りみんながお祭りを楽しめますよ。取った金魚をみんなが池に放つので、金魚すくいだけは廃止されたらしいのですが……」

 「参加してみようかしら」

 と、あーちゃんは言いました。

 「これは意外」

 「どうして?」

 「いえ。……あーちゃんってそういうイベント事にこだわらない人だと思ってましたから」

 「前はそうだったんだけどね……人が多いのとか、楽しそうにしてるの見ると腹立つし」

 すさんでますねぇ。

 「そんでもこう、毎日真っ白い部屋の中で毎日毎日本ばかり読んでたら、たまにはばーっと遊びたくなるもんよ」

 あーちゃんは手に持っていたハードカバーを壁に向かって投げつけると、わたしの方を向いてから言いました。

 「一緒に行かない?」

 「そうしたいのですが」

 と、わたしは曖昧に微笑みます。

 「ここ数年、外出許可というものが出たことがないのですよ。わたしとしてはもうどこも問題ないつもりなんですけどね。今年も病院内の出店でたこ焼きでも買って、ベンチで食べながら花火だけ見ますので。あーちゃんは外の友達と楽しんで来て下さい」

 「友達なんてあんたくらいしかいないわよ」

 あーちゃんはふてくされたように言って

 「ちょっと待ってて」

 言ってベッドから飛び降りてどこかへ走り去っていきました。

 何を待てばよいのでしょう? わたしは首をかしげながら、診察日の書かれたカレンダーをふと見上げました。お祭りまで後四日ほど。病院内の子供たちの士気も程好く高まっている頃合でしょうか。

 足が悪くて入院してきて、もう歩けるはずなのに一歩が踏み出せない男の子がいたのは、確か去年のことでしょうか。彼はこのお祭りに参加するために勇気を出して地面に足をつけて、退院していきました。入院者の、特に子供たちにとって、このお祭りはとても大きな意味を持つのでしょうね。

 しばらくすると、あーちゃんがどこかしたり顔をして帰ってきました。

 「外出許可、出たわ」

 「それは良かった」

 あーちゃんは特にパニックがあるという訳ではないので、保護観察者さえつけられれば外出許可は簡単に降りるのでしょう。

 「あんたもよ」

 と、あーちゃんは腑抜けた顔をするわたしを指差しました。

 「へ?」

 「あんたの分も許可取ってきてやったから……条件は階段の登り降りは厳禁だってことと、常にあたしが引っ付いていることね。人ごみには特に気をつけること」

 「……いったいどんな魔法を使ったんですか?」

 「あたし結構知恵は回るのよ、知らなかった?」

 そういう問題ではないと思うのですが……。

 実際は裁判のときにお世話になった保護司の方に電話をかけたのでそうです。この短時間で、なんともたくましいことでした。

 「もうしばらくはあいつの世話になるわね」

 あーちゃんは言います。

 「国が雇ったって言うからさ。どんな程度かと思ったらこいつが意外と優秀で。弁護士の方はよれよれのおっさんだったんだけどね」

 「だけど、その人のお陰で少年院に行かなくて済んだんじゃないですか?」

 「いってもどうせ初頭初期とかだし、すぐに出てこれたわよ。……つーかあたしの年で少年院送りってなかなかない訳だし、そうでなくとも病院送りは最悪刑だわ。病気レベルで性格がねじれてるって烙印押されたわけだしね」

 わたしは曖昧に首を傾げます。

 「随分と斜に構えた考え方に聞こえますが」

 「そりゃあんな無茶苦茶な家庭で育てば誰だってこうなるって」

 「あなたはちゃんと更正しますよ」

 わたしは言いました。

 「いつかはこの病院を出て、社会に出てたくさんの人に愛される人間になります。だから、どうかいろんなことに嫌になったりせずに、がんばってくださいね」

 あーちゃんは顔を少しだけ顰めて見せて、複雑そうな声で「そいつはどうも」といいました。


 お祭りの日。

 あーちゃんが用意してきたのは二人分の浴衣で、片方はわたしにすっかり寸法のあったものでした。

 「家にはこんなのなかったから、保護司の萩原に買わせたわ。結構資産家なのよあたしんち」

 「……よく相続できましたね、財産」

 「弁護士と相談してうまく手を打っていた分があったから」

 「それは良かった。ところで、これわたしの体とびっくりするほど寸法がぴったんこなんですが、いつどうやって調べたのか説明ぷりーず」

 「穴が空くほど毎日見てんだから、体の寸法くらい分かるわよ。ミリメートル単位でばっちりね」

 ……ルームメイト怖い。

 「あんたってあたしとほとんど体格変わらないのね。五つは年上のはずなのに」

 「六つです。ここの病院食、カロリー控えめですからね」

 「将来はあたしの方がグラマーになるわけだ」

 生意気な。

 「でもまぁ。あんたのその人形みたいなのが好きなんだけどね」

 それぞれ浴衣に着替えたあとで、わたしはあーちゃんに手を引かれてお祭りの会場へと繰り出していきました。

 「はぐれないでよね」

 「はいはい」

 はてさて。しばらくぶりの外出と相成る訳ですが。

 敷地には何件もので店が並んでおりました。たこやき、わたがし、とうもろこし……。火をかけた鉄板の独自の音と臭気が会場内には満ち溢れ、病院服を来た人たちがそれぞれ楽しげに列を作っております。車椅子に乗った方、松葉杖を付いた方などを看護士の方が引率していました。

 誰も彼もが入院生活の退屈を忘れ、満ち足りた表情でお祭りを満喫している様子。

 せっかくあーちゃんが獲得してくれた久しぶりの外出。楽しみにしてくれたあーちゃんの為にも、今日はお祭りをしっかりと楽しんでいくとしましょうか。

 「ねぇメモちゃん」

 と、あーちゃんがわたしの袖を引きました。

 「なんですか?」

 「あれ。見て」

 そう言ってあーちゃんが指差した先には、『金魚すくい』の看板がかかった出店がありました。

 「なんとまぁ……」

 病院内の子が金魚をすくっても始末に困る。施設内での金魚すくいは、しばらく前になくなったはずなのでは?

 「行ってみましょう」

 と、あーちゃんがわたしの手を引きます。わたしは人にぶつからないように何度か振り返りながら、それについていきました。

 「へいらっしゃい」

 出店では、病院内でいけない本屋さんを経営していた加賀谷さんが楽しそうに店を出しておりました。

 「加賀谷さん?」

 わたしはびっくりして声をあげます。

 「どうして店なんか出してるんですか? 体は大丈夫なんですか?」

 「大丈夫。悪いのは内臓のいくつかだからね。こうしてたまには遊ばないと、他のところまでどんどんガタがきてしまうんだよ」

 そう言って加賀谷さんは元気そうに笑います。

 「院内で店を出したい患者連中が結束して準備をしてね。みんなで申請して通らせたんだ。これはその一環ってとこ」

 こんなにもアクティブに行動し、目的をちゃんと実現できる加賀谷さん。昔は成績の上がらないセールスマンで、業績不振を苦にして自殺を図ったこともあるといいます。熱しやすく真面目で、へこみやすいという体質なのでしょうか。なんにせよ、この調子で元気になってもらいたいものです。

 「しかし薔薇子ちゃん。その服装、良いね。似合っているよ。外出許可が下りたのかい?」

 薔薇子ちゃんというのは仲間内でのわたしのあだ名です。コードネームのようなもので、禁書コミュニティにおける、匿名性を確保するためのもの。

 意味は良く分かりませんが。

 「あたしがちょっと裏技使ったのよ……。ところで、何この奇怪な金魚すくいは」

 あーちゃんが顔を顰めながら言いました。

 加賀谷さんが開いた金魚すくいのプールには、ピンクと白でできたプラスチックの金魚がいくつか浮かべられておりました。ぴこんぴこんと音と光を発し、時折壁に追突しながら泳ぎ回っています。

 「ただのおもちゃさ……。これなら池に放たれる心配はない」

 「そうですけど」

 「君たちも試しにやってみなよ。一回五百円だ」

 割り高!

 「やってみるわ」

 言って、あーちゃんがポケットから五百円玉を取り出しました。

 「ちなみに通常の金魚すくいと違って、取り逃しても一匹だけもらえるようなシステムはない。欲しいものは実力ですくい取ってくれ」

 なんと厳しい。

 「上等よ。ほえ面かかせてやるわ」

 あーちゃんはやる気満々です。

 加賀谷さんからポイを受け取り、あーちゃんは腕まくりをして機械仕掛けの金魚たちに挑みました。

 「これでも金魚すくいは上手でね」

 あーちゃんは得意顔で

 「壁すくいっていう手法があってね……そりゃ」

 いいながら、ポイの先端だけを器用に水に付け、金魚ロボの頭に狙いをつけます。数匹の金魚の頭を枠で引っ掛け、そのまま壁に押しやるという動き。

 「もらったっ」

 次の瞬間、金魚ロボたちの尾がスクリューのように高速回転を始め、三匹同時にポイに向かってつっこんで紙を破いてしまいました。

 畜生とは思えない統率の取れた反撃に、あーちゃはしばし呆然とした顔をします。

 『オロカナニンゲンドモヨ』

 『ワレワレヲツカマエラレルモノカ』

 『バーカ。バーカ』

 「何、今のっ?」

 あーちゃは納得がいかないという表情でポイを握りつぶしました。

 「ずっと前に流行った音読ソフトみたいな声で罵倒されたっ! 金魚に紙をやぶかれた上にバカにされたっ! バカって言われたっ! しかも二回っ」

 「まぁ。取りそこなったからね」

 「ムカつくっ」

 加賀谷さんは愉快そうに

 「こいつらどいつもちょっとした大物くらいのサイズがある上に、センサーでポイを探知して紙を破こうとするからね。そしてあらかじめ設定された台詞で客を罵倒する」

 「高性能っ!」

 いやお客バカにしちゃだめでしょうに。

 「ちなみに一台作るのに三千円くらいかかっているから、一回五百円だと立て続けに失敗してくれないと清算が取れないんだ。だけどほとんど取られるつもりもないから、金魚ロボ自体少量しか用意していない」

 「客を満足させる気ゼロね」

 「ちなみに二回目以降は百円でリトライできる。やるかい?」

 「やるわっ」

 やる気なんですね……。

 あーちゃんは追加の百円を投入し、お客を嘲弄するような動きで逃げ回る金魚ロボを追い回します。が、ダメ。簡単にポイを破かれて、『ドツボニハマリオッテカラニバカモノメ』と罵倒をされては唇を噛んでいます。

 「薔薇子ちゃん。君もやるかい?」

 「ええっと……」

 無理でしょこれ。……思うのですが。あーちゃんが協力を求める視線を向けるので参加することに。

 「追加。ポイ四つ目っ」

 「金魚ロボ一匹分くらいのお金は使ってもらわないと困るなぁ。ふふふっ」

 『ワタシヲツカマエヨウトシテモムダダムシケラメ』

 「ぎゃーっ。また破れたっ、また破きやがったこのウオ公っ!」

 「はははははっ。そうやって悔しがれ。そして何度もポイを交換しろっ! 何度挑戦してもこいつらを捕らえられると思うなよ。何せこいつのプログラムは、大手IT企業で才能を発揮し若くして部長に就任、そのプレッシャーと連日の長時間勤務が祟って過労で倒れた毒島氏(37既婚子あり)によって作られているのだからっ」

 加賀谷さんは仲間の功績を祟るように高笑いします。

 「あ」

 わたしは口元を押さえ、それから地面においていたメモに走り書きしました。

 「とれましたっ」

 加賀谷さんとあーちゃんがものすごい形相で同時にこちらを向きます。

 わたしの手には、ポイの枠のところに引っかかったロボ金魚がぶら下がっていました。だらりとまさに死んだ魚のように方針し、尾と頭と枠に引っ掛けられて生気をなくしています。

 『グマイナルジンルイフゼイニトラエラレルトハ、ムネンナリ』

 「すごいっ」「バカなっ」

 あーちゃんと加賀谷さんが身を乗り出さんばかりにこちらを見やります。

 「何その状態? 紙は……半分以上破けてるよね? どうやったの」

 「いや。だってこれ」

 わたしは金魚ロボをつまみ上げ、その秀逸なほど小憎たらしいデザインの顔を見ながら言いました。

 「サイズ的にはポイの一番広いところと同じくらいですし……枠の端っこで引っ掛けたら簡単にぶら下がるんですよ。この子、意外と間接は少ないし、尻尾しか動きませんからまず抜け出せません」

 「しまったっ!」

 加賀谷さんが頭を抱えました。

 「方向転換をスクリューの角度だけで調節したのが仇になったっ!」

 そこであーちゃんがにやりと悪い顔をして微笑んで、百円を差し出して新しいポイを要求します。

 「覚悟しなさいね……。狩り尽くしてあげるわ、ウオ公ども」


 コツを掴んでプールの金魚を取りつくしたところで、一匹五百円で加賀谷さんに引き取ってもらいました。

 「君たちは悪魔だ」

 加賀谷さんは恨めしそうにそう言って、今にも倒れそうにうなだれました。あーちゃんが満足そうな笑顔を浮かべます。

 「いやぁ軽快だったわ。儲かったものね」

 とても悪い顔をしていました。この子、何気に容赦がない。

 「メモちゃんだって楽しそうに何匹も取ってたでしょう? お互い様よ」

 「いえそれはその……捕まえるたびに『ヤサシクコロシテ』とか『ワガショウガイニイッペンノクイナシ』とか、金魚がコメントするのが楽しくって……」

 結局、一匹だけは売らずに持ち帰ることにしました。尻尾をつまんで水から引っ張りあげると、『ヨクアラッテクサミヲトッテカラショクスト、ビミ』と棒読みでうめいてくれます。規定の用途どおり、お風呂場などに浮かべて楽しむことにしましょうか。

 その後もわたしたちは縁日の屋台を楽しみました。

 あーちゃんもここに着てから数ヶ月。刺激のない日常に鬱憤がたまっていたのでしょう。素晴らしいエキサイトっぷりでわたしを引っ張りまわします。めぐるましくつれまわされるのはとても楽しく、わたしも少しばかりはしゃいでいたのかもしれません。

 手を引かれるままにとうもろこしを食べお好み焼きを食べわたがしを食べ……入院生活で縮こまった胃が悲痛な叫びを上げるほど、香ばしい食べ物をたらふく詰め込みました。消耗する体力を補うにはそうするしかなかったのですね。

 「あーちゃん……ちょっと休みません?」

 いよいよ根をあげます。自分の体力の限界は知っていましたので。あーちゃんは少しばかり遊び足りないといった表情で

 「まだお祭りははじまったばっかりよ」

 と平気な顔をしておりました。タフネフです。

 「そうなんですけど……こんなに歩いたのってひさしぶりだから」

 「あんたねぇ……。幼稚園児より体力ないんじゃないの?」

 失敬な。

 ちょうど病院の敷地の入り口に備えられたベンチに腰掛けて、わたしはふぅと息を吐きます。あーちゃんはイカ焼きをもさもさむさぼっていました。

 「あーちゃん、それ。少しください」

 「食欲はあるのね」

 あーちゃんは少年のように微笑みながら食べさせてくれました。

 「何か買ってこようか?」

 「いいえ。もう十分食べましたから、おなか一杯です。もう一口ください」

 「……正しい日本語を使って欲しいわね」

 イカおいしいです。

 これでベビーカステラを買って帰れば、とりあえずの目的は達成ですね。あちこちで色々食べて指先から変なにおいがしてきそう。あ。でもまだリンゴ飴食べていないや。

 「あーちゃん。あとであれ食べましょう。リンゴ飴、おいしいですよ」

 「いいけど……お腹壊さないでよ?」

 「この際覚悟の上です……あれ?」

 と、わたしは立ち上がって身を乗り出して見せ

 「どうしたんでしょう、あちらの方」

 指差し失礼。

 あーちゃんが首を捻ってそちらに視線をやると、浴衣姿の背の高い女性が、病院の坪に背中を預けて立っていました。長い髪と、すっと通った目鼻立ちの綺麗な女性です。透き通るようにおだやかで深い目をしていて、漠然とした表情でぼんやりと夜空を見上げていました。

 「わぁ。美人」

 あーちゃんが感心したように言いました。

 祭りの喧騒の中にいて、女性はどこかくっきりとした独自な存在感を放っていました。憂いを纏った、陰のある美人。そんな言葉がしっくり来るように思います。

 「どうしてあんなところで、一人で立っているんでしょうね?」

 女性は祭りを楽しむでもなく、疲れて一休みをしているという訳でもなく、ただ人形のように瀟洒にそこに立っているだけです。

 「ちょっと声かけてくる」

 あーちゃんは言いました。「え。ちょっと……」わたしが言葉をかける暇もなく、あーちゃんは女性に近付いて明るい声で尋ねました。

 「あの。何をしているんですか?」

 女性は一瞬、声をかけられたことに驚いたように目をぱちくりとさせました。それからぼんやりとあーちゃんの方を見ると、僅かに微笑んでから

 「人を待っているんです」

 透明な声で言うのです。

 「人? 男?」

 「ええ、男性よ」

 「へぇえ」

 デートなのかしら? 浴衣を着ているのだから、一緒にお祭りを回るので間違いないでしょう。わたしは少しだけ心を高鳴らせました。こんな女性の殿方であれば、さぞや素敵な人に違いありません。

 あーちゃんはいぶかしむように首をかしげます。

 「偉く妙な時間に待ち合わせたのね。お祭りはもう半ばじゃない」

 「それが。ずっと待ってるけど、着てないの」

 と、女性はどこか憂いに満ちた声で

 「病院の中の人だから……何かはずせない用事ができたのかもしれない」

 「連絡は?」

 「それもないの。外に出れない状況なのかも」

 院内での通信機器の使用はタブーです。わたしみたいなヘビーユーザーは、そもそもそういうものは持たないことになっています。

 「だから病院の前で待ち合わせてるってわけね」

 「そう」

 「もう一時間はそこで待ってるってことよね? もう帰っちゃえば? きっとこないわよ」

 「そうかもね……でも」

 女性は少しだけ笑って見せて

 「例え真夜中になったって、あの人は絶対にここに来ると思うの。そしてすごく申し訳なさそうな顔をして、かわいそうなほど頭を下げる。そういう人だから。わたしの方がね、裏切っちゃうわけにはいかないでしょう?」

 「素敵な人なんですね」

 と、わたしはいいました。

 「メモちゃん……紙に書くの忘れてるわよ」

 あーちゃんがあわてたように言いました。わたしはあらとポケットに手をやると

 「良いのよ……ちゃんと分かるから」

 女性はかすかに微笑んでから言いました。

 「彼のことをほめてくれたんでしょう? ありがとうね、お嬢さん」

 「……あ。ええと」

 わたしは驚いて目を大きくします。

 「分かるんですか? わたしが何言ってるのか?」

 「ゆっくり話してもらえれば」

 あーちゃんが感心したように息を吐きました。

 「お友達同士できているの? 姉妹……には見えないわね、あまり似ていないから。病院の方なのかしら?」

 「はい……えっと。どうして分かるんですか?」

 「あなたの肌が白いから」

 言って、女性はわたしの頬に軽く手をやりました。

 「お祭り。楽しんでらっしゃいね」

 そう言ってかすかに微笑みました。


 『デンキウメェ! デンキ、デンキサイコウ!』

 コンセントを繋いで充電中の金魚ロボットが言いました。

 病院の白い壁にむき出しの状態で備え付けられたコンセントに、憎らしい表情の金魚ロボが突き刺さって甲高い声をあげています。いささかシュールで、それでいながら少々ばかりユーモラスな光景でした。三枚卸にしてあげたい、と強い願望が沸いてきます。

 『デンキ! デンキウメェ! デンキ! デーンーキ!』

 「おいしいからって、あんまり食べ過ぎないようにしてくださいね」

 言ってわたしは金魚ロボの背中をつんつんとつつきます。

 「おなかを壊したら大変ですから。わたしにみたいに」

 と、わたしは一階で処方してもらった胃腸薬を口に含みました。

 「……あんたが食べ過ぎるのがいけないのよ。その体のどこにあんな量が入るのかと思ったら、きっちりパンクしてんじゃない」

 「……面目ない」

 いいながら、わたしは白いベッドの上に横たわりました。

 せっかく外に出られたんだから全部の食べ物を制覇しちゃおうっ! とか変な野望を心に刻んだのが良くなかったのか。たこ焼きや焼き蕎麦のスタンダートなものをこなしている内は良かった。しかし今時の屋台販売は競争が激しいのか、需要の隙間を独占する狙いで多種多様な食べ物が入り乱れています。からあげや焼き鳥なんて屋台で食すものだとは思ってませんでしたし、エスカルゴやイナゴに至っては一生涯かけてもここでしか食べることがないもののように思われました。

 「自分のおなかの調子くらい分かるでしょ? まずいと思ったら自重しなくちゃ」

 「……それがその。なんか突然やってきて」

 だーんとベッドで手を伸ばしつつメモを手繰ります。

 「いつごろから?」

 「加賀谷さんの友達の米原さんが出してたドリンク屋で、『粘性を帯びた蛍光色の液体』を買った後くらいから」

 「……それ。単にそのドリンクがまずかっただけなんじゃないの?」

 その可能性は盲点でした。

 「大丈夫? 今夜も出てこれそう?」

 「ええ。大丈夫です」

 わたしはおなかを押さえながら立ち上がりました。

 「まだまだ食べていないものもありますから。……それに、気になってることがあるんです」

 あーちゃんが首を傾けます。わたしは部屋の窓を見下ろして、昨日綺麗な女性が人を待っていた地点に視線を向けました。


 その日も女性は昨日と同じ場所で立ち尽くしていました。

 「こんばんは」

 わたしはメモを介さずにそういいました。女性は一瞬だけ面食らった顔をしてから、その端正な顔をこちらに向けました。

 「こんばんは……えっと。あなたは昨日の……」

 「はい。今日もその、彼を待たれているんですね?」

 言うと、女性は静かに、どこか寂しそうに首肯しました。

 「もうお祭りが始まって大分立ちますよ? 彼、今日も遅いんですか?」

 「そうなのよ」

 「昨日はあれから結局来たの?」

 とはあーちゃん。

 「来なかったわ」

 「その後連絡は?」

 「……なかった」

 女性は溜息でも尽きたそうに

 「彼……きっと悪い症状でも見付かったのね。それで出てこられなくなって

 「だからって……。待ち合わせがあるならちゃんと連絡くらいしなきゃダメでしょうに」

 あーちゃんがとがめるように言います。女性は苦笑して

 「緊急を伴うことなのかも。彼、前から結構繊細な状態にあったから。何が起こってもおかしくないの」

 「連絡もできないくらい?」

 「連絡もできないくらい」

 女性は歯がゆそうな顔で

 「あるいは。わたしに知られたくないのかもしれない」

 「何を?」

 「それが何か分からないようにしたいのね。……今は本当に、大事に陥っていないことを祈るしかできないわ」

 と、女性は憂いを帯びた表情で言いました。

 見ていると本当にいじましく、どうしようもない気持ちになる方でした。後ろから抱きしめて、必死で優しい言葉を探したところで、彼女はきっと優しく微笑むだけなのでしょう。

 「……そいつに電話してみなよ」

 あーちゃんが言います。女性は首を振りました。

 「昨日、それは何度もした。さっきからしてる。だけれど彼は出ないのよ、着信はしてるんだけど……」

 「着信はしている……?」

 わたしは首を傾げました。

 「病院の中にいるんでしょ? 直接会いに行けば」

 「それはまだ。今はこうしてここで待ってる……約束したの。彼ならどんな真夜中になってもやってくるから」

 「……そう」

 「だけれど。今日一日待って来なければ、明日には病室に直接会いに行こうと思ってる。伝えたいことも、しなくちゃいけないことも、たくさんあるから……」

 そう言って壁によりかかります。そのしなやかで女性的な体には、そこで何日だって待ち続けていそうな意思の強さが見て取れました。

 「……ちょっと待った」

 と、あーちゃんが言って、「離れないでよ」とわたしを残してその場を去ります。

 すぐに戻ってきた彼女の手には、コップ入りのドリンクと焼き蕎麦の箱が握られていました。

 「ただ待ってるだけじゃ暇でしょう? あたしらしばらくここで休んでるし、お話しましょうよ」

 「……ありがとう」

 女性はおぼろげに微笑んで

 「でも気を使わなくて良いのよ。……若い人の楽しい時間を邪魔するつもりは、ないんだから」


 「ほんっとうろくでもない男なんだからっ!」

 女性は言って、ぐーにした拳をアスファルトの地面に叩きつけました。

 抉れた鉄の破片がいくらかその場に飛び散って、わたしとあーちゃんは思わずその場をすくみあがります。地面に十センチ台の穴が空いたような、そんな錯覚さえ感じられました。

 「ちっちゃい時なんてあたしの下着に興味持ってて……『ナオちゃんはどうしてこの変なものつけるの?』とかあたしのブラジャー胸に着けてたりね。……成績は学校で一番良かったくせに、本当バカなの。絶対あれは確信犯、私をからかう為にやってた。間違いない」

 「それはそれは……なかなか愉快な方で……。あの、もしかして幼馴染」

 「それでねそいつっ! 何が一番腹立つって私のランドセルに仕掛けるの、罠を。ヘビのおもちゃだのなんだの。一番手が込んでたのは、黒髭危機一髪から取り出したバネとチャバネゴキブリの模型を合わせたあの仕掛けね。わざわざ私が飛び上がるのを別の教室から見に来てたんだから……ひっぱたいてやったわ」

 「因果応報ね」

 あーちゃんが頬杖を付きつつ言いました。

 「ったく昔っから気は弱いくせに妙にやんちゃ坊主なところもあって……私にばっかりちょっかいかけてくんのよ。いい加減にしてくんないって感じでっ!」

 あー。いたなーそういう子。その時は本当に嫌いだったけれど、退院際に思いもかけないことを伝えられたりして……。

 「そんでもまだ良かったのよ。ちょっとかまってあげたらすっごくしおらしかったし、かわいいのよ本当。ナオちゃんナオちゃんって……。背で追い抜いたあたりから変に男ぶって、『おれが守ってやる』とかこっぱずかしいこといっちゃったりして。それが今のひねくれよう。過去の自分のこととかしたこととか言ってたこととか、全部子供の戯れっていうところに押し込めてなかったことにしちゃってる訳」

 「愚かね」

 「それ自体は良いのよ。全然良いの。……だけどムカつくのは、そういう過去の恥ずかしい自分を私の顔見て思い出すのかなんなのか。変に避けちゃったり、よそよそしくしちゃったり……中学生かおまえはって話!」

 「……それが今でも続いてるんですか?」

 「そうなのよあえないでしょどう思うあんたっ! 進路別れて私留学してる間に、入院したってことさえ知らせないし、意味不明な手紙ばっかり送ってくるし! 挙句数年ぶりの再会で一緒にお祭りめぐろうって行っててもこれだ。あいつ、こんなところに待ち合わせ場所指定しといて、本当に自分が入院患者なこと隠すつもりがあるのかね……」

 と、女性は溜息を付きました。

 最初はぽつぽつと、もらすように一言二言彼への不安をもらす程度でした。しかし焼き鳥をかじる女性にあーちゃんがお酒を買ってきたあたりから(これは本当に失敗でした)饒舌になり始め、今では彼との子供時代から高校時代までの思い出を延々とリピートする始末。

 「……留学終わって。あいつは入院してることはだんまりで、お見舞いにもいけなくて。……ようやく会えると思ったら待ちぼうけで。わたしもうどうにかなっちゃいそう」

 「会いに行けば良いじゃないの」

 あーちゃんが言いました。

 「そんな男のことなんてあたしたちなら半時間で調べられるわ。会えば良いじゃない。入院してたの黙ってたことも含めて、不平不満は全部言っちゃえ」

 「そうなんだけど……そうするのが一番良いんだけど……」

 「その男の意思なんてどうだって良いのよ。大事なのは、結果としてあなたが傷ついてるってことね。そいつが何を思ってそうしているのかは分からないけど、綻びを抱えたままにしておくのは、絶対に正しくないと思うの」

 わ。良いこと言った。

 「分かってるの。だけれど、実際に蓋を開けてみたら、彼が一体どういう状態か……それが怖くて」

 「大丈夫よ。どんだけ酷い状態にあっても、両手足吹っ飛んで視覚聴覚やられたみたいなことになってても、あんたみたいに一途に思ってる人がいるなら、全然マシ。あんたが行ってあげなければ、そいつだってどうなるか分からない」

 あーちゃんは熱心に訴えかけました。この子ってば偉い冷めた口調で話す癖、実際にはかなり熱いハートを持っています。

 「……そうかしら」

 それには女性も心揺られた様子。あーちゃんは眉に皺を刻むほど真剣な顔で、女性の両手を自身の手で包み込みつつ

 「任せておきなさい」

 熱心な声で言います。

 「必ずそいつを引き摺りだしてみせるから……ねぇメモちゃん」

 視線を向けられ、わたしは曖昧に首を傾げました。

 「えっとぉ……」

 どうするべきなんだろう。この場合。


 似たような事態はたくさんありました。

 好きな人に自分の詩を書いて送り続けている男性がいました。毎日欠かさず詩を書いては敷地のポストに向かい、翌日も詩を書いては好きな女性に手紙を送り。

 毎日毎日。何年も何年も。顔が赤くなるほどむき出しであけすけな、しかしとても暖かく繊細な表現を重ねて合わせて、朝から晩まで無我夢中で、それしか持っていないかのように。

 彼はある事件から部分的な記憶喪失に陥っていて、走り方や重いものの持ち方などの他、思い出や事実のいくつかを忘却しておりました。手紙の送り先であるその女性が、十年前に事故で亡くなってしまっていることも。

 「どうしよう」

 病院のベッドで、わたしは一人うなだれておりました。

 あーちゃんはその男性を探し出すといっていました。それは簡単にできることでしょう。名前さえ分かれば一発で……。しかしそうして調べだした後で、いったいどれだけの残酷が女性を待ち受けているのか。いったいどれだけの決意で男性がその残酷を隠し通しているのか。軽率には触れられない深刻な何かが、そこにはあるかもしれないのです。

 この病院に来て様々な種類のほつれやほころびを目にし、それでも迷うことなくどこまでも強く、正しいあーちゃん。本当は二人を一刻も早く合わせたくて仕方がないようでしたが、少なくともお祭りの期間の間中は彼を一緒に待つといってくれました。人の意見を受け入れ、譲歩はせずとも保留するようになったのは大きな変化です。

 「……診察の時間だ」

 そうやって一人頭を抱えてベッドでうなること数時間。わたしはよろよろと立ち上がって先生のところに向かいました。

 「こんにちは。先生」

 「君か。よく来た」

 先生は読んでいた本から目を離し、眼鏡を持ち上げて

 「これからは入ってくるときはいったんノックをして欲しいな」

 「……? 前までそんな堅苦しいこと、してましたっけ?」

 わたしが首をかしげると、先生はしばし堰をして

 「これまでのように気安く接してもらって一向に構わない。だがしかしだね、おれにだって個室部屋という空間を最大限享受する権利くらいはあるものさ。ブツも手に入って条件も出揃った訳だし、これまでのようにされると決定的な生き恥をかく可能性もなきにしもあらずな訳なのだよ」

 ……良く分かりませんが。

 「おれには姉がいたんだ。今じゃ外国に精神医学の研究の為に行ってしまっているが。おれがここに来る前は同じ子供部屋でだな、部屋で一人で何をしていても唐突に飛び込んできては……」

 「えっと。分かりました。ちゃんと返事を聞いてから中に入るようにします……ところで先生」 

 わたしは先生のベッドの前の、簡素な椅子に腰かけてから。

 「『好き』ってどういうことだと思います?」

 と、少々ばかり変テコな質問をしてみました。

 「君がどのようなニュアンスでその言葉を使用しているのかは掴みかねるが、君とおれとの認識がもしも一致しているのであれば、それは精神病の一種といってしまってかまわないだろう」

 先生は両手を晒すようにして言いました。

 「……どういうこと?」

 「恋愛感情なんてものは一種の病気だということだ」

 コイのヤマイ、ということでしょうか。

 「恋が病なのだ。君の言う『好き』、とは、マンガ的ドラマ的ノベル的にデフォルト化された、いわゆる男女交際の概念を基盤にしたものなのだろう?」

 「……ちょっと意味がよく……」

 「つまるところ。顔見てコイツを孕ませたいと思ったら恋、とかいうものではない訳だ」

 ……何その乙女の美意識に真っ向から喧嘩挑むような恋愛感。

 「君のその微妙に面食らった表情は正常だ。正常な反応といって良い。だがしかし人間学的に『好き』という感情を説明するなら、つまりこういうことになってしまうのだよ」

 「……まるで畜生じゃないですか」

 「畜生さ。人間というのは畜生の畜生的欲望に無理矢理な美意識を引っ付けて、自身を高尚な生き物に見せているのに過ぎない」

 先生は偉くもったいぶった言い方で

 「そこからいうと、恋愛という概念そのものが倒錯したものであると言える。今の日本で恋愛というと、主に創作物などの世界で発生する虚構的な事情に、自らのオス的、あるいはメス的欲望を落とし込んだものでしかない。本来的にはまったく必要ないはずの、交際とそれにまつわる行為や感情を自身の中に無理矢理落とし込み、それこそを至高のものとして崇めたてる。まったく持って異常としか言いようがない。そのことで人間達はすさまじいまでのコストを浪費している」

 長いよ先生っ!

 何いってんのかわかんないっ!

 「……つまり。恋愛ごっこはくだらないよ……みたいなニュアンスですか?」

 わたしは自分なりに先生の言いたいことを分析しました。

 「理解が早い。そういった行動は集団ヒステリーに近い。ある種の信仰と言っても良いな。わたしはこれを『恋人病』として学会に発表したいくらいの気持ちだ」

 「……もうちょっと文化的活動や価値観に対して理解をもってくれませんかね?」

 「理解をもっている。わたしは病気と言ったらなんでも否定しにかかる程、医者として痴愚魯鈍ではないつもりだ。病気といっても看過して良いものや、むしろ看過すべきものが多くあるのも事実だ」

 「じゃあ。先生は恋ってしたことありますか?」

 わたしが言うと、先生は少しだけ困ったように顔を顰めて見せて

 「そのように無理に定義できるような感情を、誰に対して持たなかった訳ではない」

 今日の先生は偉いこといい周しがぐにゃぐにゃしてる気がします。ひょっとして、また食べるのをサボってる?

 「それっていつのこと? 相手はどんな人?」

 先生はそこで肩をすくめて見せて

 「おれが君に対して感じているのは、患者として強く労わり、守り抜き、導いていかなくてはならないという強い使命感。それから、君という賢く博愛的な人格に対する純然なる好意だ。そういった感情に少しばかりの異性的な関心を混ぜてしまえば、それは最早恋愛感情としてカテゴリーできてしまう」

 「……え」

 ……今の、どういう意味?

 「つまり恋心なんてものは本能的なものではなく、後付のカテゴリーでしかないのだよ。カテゴライズしてしまえば、例えば同性同士であっても恋愛はできるのだ。君のルームメイトのようにね」

 「…………」

 「つまり。そういうことなのだ」

 ……分かってるなら助けて欲しいっ。

 「恋愛と呼ばれる絆の形は本来的なものではない。少なくとも、最近の精神医学では『恋』なんて言葉は特別な形でしか使われない。幻想なのだよ。幻想であってしかるべきなのだとも思っている」

 「と、言うと?」

 「それが幻想でなくなれば、少なくとも君のルームメイトの恋路は、そもそもなかったことにされてしまうだろう?」

 「なかったことで良いですっ!」

 「それは酷いことを言う」

 「彼女とはルームメイトとして絆を育みたいんですよぅっ」

 「君はそれでかまわないだろう。彼女はそこに一枚ファンタジー的な幻想をかぶせ、ただ遊んでいるだけに過ぎない。そう、遊びだ。遊びは誰がやっても許される」

 「で、でも」

 「他の異性愛者カップルも同じように遊んでいる。君も少しばかり付き合ってやってはどうだね? 年下のものの遊びに付き合うのは、年長のものの勤めではないか」

 「わたしは同姓愛にファンタジーは感じませんっ」

 「それは嘘だな、薔薇子ちゃん」

 ひっぱたきました。

 先生はぼんやりと自分の頬に手を当てて、それから自らの悪乗りを恥じるように咳払いをすると

 「まぁ今言ったのはとんでもなくうがった見方に過ぎん。特定のつがいが同じ時間を過ごすのは生物として自然なことだし、人間にとってのその形態が恋愛と呼ばれている訳だ」

 「色々と無駄なことをさえずってくれましたけど、結局そうなるんですね……」

 「そういうあまりに当然のことを、人間という種はしばしば倒錯した見方で捉え、異常な方法を取っているというだけだ」

 「……じゃあ尋ねます。先生」

 と、わたしは確信を口にします。

 「例えば二度と会えなくなった相手をずっと思い続けるようなことは、正常な恋愛と呼べるでしょうか」

 「呼べない」

 先生は即答しました。

 「そもそも正常な恋愛なんてたいていの日本人には不可能であるが……消えた思い人を愛し続けることにロマンやファンタジーを抱くのは、極めて狂気的であると言える」

 「狂気的……ですか」

 「伴侶の死に耐え切れず精神を病んだ患者というのも、この病院には常に一定量いる。そうなってはならないのだよ。恋愛とはもっと実質的に、合理的に、野暮に、下品に行わなければならない」

 そこで先生は急に優しい目になって

 「君がもしそういった人物と知り合っているのであれば、悪いことは言わない。さっさと次の相手を探せとだけ言ってやれ。もし恋人の死を受け入れていないなら、可能な限りそれを伝えてやれ。恋愛なんぞというくだらないもので、人の精神という取り返しの付かないものを壊してしまわぬよう……」


 最悪の場合、というのを想定しての質問でした。

 安全弁ですらない……ただ怖かっただけなのです。もしそうだったらどうしようと、悩み、苦しんだ末に助言を求めただけなのです。

 それが。

 「胃潰瘍じゃって?」

 「ええ。腹が痛いんで病院に行ったら、すぐ入院しろって言われまして。留学して帰ってきた彼女も待ってるのに、こうやってずっと点滴ですからね」

 といって、ベッドに寝転んで点滴を受ける男性はやれやれと笑いました。「こりゃ大目玉だなぁ」とお気楽に肩を竦めます。となりのおじいちゃんがそれを聞いて笑います。

 「あー。わしも最初葉胃潰瘍って言われとったよ」

 同室のおじいちゃんのその言葉に、男性はぎょっとした表情を浮かべました。

 「わしもなぁ。胃潰瘍だと言ってここに入院してきたんじゃ。それが確か……いくつの時じゃったかな?」

 「え……」

 「そうそう。確か二十歳の時じゃ」

 ふぁっふぁっふぁ。顔はしわくちゃ、染みだらけで全身枯木のようなおじいちゃんは軽快にそう笑いました。

 「入院してから何一つ調子はよくならず。むしろ悪化していくばかりじゃったわい。これは本当に胃潰瘍なのかと疑っても、もう遅かった」

 男性は静かに息を飲みました。

 「それからしばらくして、同じように胃潰瘍で入院してきたもんがおっての。五十年くらい前に。それがわしの最初の同室者じゃった。そして彼の最後の点滴の色は赤色じゃった」

 男性は思わず自分に注がれている点滴の色を確認します。

 「そいつがいなくなって……まぁ三十年くらい前かの? 今度胃潰瘍でやって来た若いもんがおって。こいつがおまえさんと同じくらいの年じゃったなぁ。入院して来た翌日、そいつはベッドの中でゲーゲー言うて血を吐いて、家族の名前を叫びながら壮絶に死におった。その日のそいつの点滴の色も赤じゃった」

 男性の顔がみるみる青ざめます。

 「その一週間後に入って来たのが壮年の男じゃった。胃潰瘍なんて大したことない病気、すぐに治してみせるぞと笑って十年床に伏せったが退院できず、どういうことだ胃潰瘍じゃなかったのかと医者の胸倉を掴んだと思ったら、そのまま泡吹いて真後ろに倒れた。死んだ魚みたいな目を見てそのまま動かなくなった。点滴の色は赤じゃった」

 「ちょっとおじいさん、その辺で……」

 「つ・ぎ・に。入って来たのがまだ学生の若いもんでなぁ。二十年前のことじゃったんだが……当時わしはもうじじぃでな。『おれが胃潰瘍治して退院していくまでに死ぬなよじじぃ』なぁんて言われたもんじゃわい。わしゃ思った、絶対にこいつより長く生きてやろうとな。そいつは日に日に青くなりながら、『おい胃潰瘍じゃなかったのかよ』とずっと怒鳴っておったよ。その怒鳴り声にも血反吐が混ざるようになっての。毎日わしに言う言葉も変わって『てめぇより先には死なねぇぞ』、っつーもんになっておった。そんな言葉を吐きながら、寝っぱなしで生きて生きて生きて、わしがほんまにくたばりそうになるまで生きて、悔しそうに泣きながら先に死んでいきおった。『じいさん、長生きしろよ』ってな。その好手敵の最後の点滴の色も、今までの戦友と同じく赤じゃった」

 「………………」

 「だからわしゃ。あんたより長く生きるつもりでおる」

 この病院の中でも長老筋の一人、入院暦六十七年の一島虎次郎氏の壮絶な半生を聞き終えて、わたしと隣のベッドの男性は青い顔で声にならない叫びをあげました。

 「恋塚さーん。胃潰瘍の恋塚さーん。点滴のお時間ですよ~」

 そのタイミングで看護士さんが入ってきます。看護士さんは男性の隣にそっと点滴台を置き、既に何本も点滴針の刺さっている男性の腕をそっと取ります。そして酷くいたわるような表情でそっと針を差し込みます。

 点滴の色は赤でした。

 「やめてくれぇええーっ!」

 男性は顔を真っ青にして恐怖的な悲鳴をあげました。

 「やめてくれっ! おれには待ってくれている恋人がいるんだっ! おれと一緒に祭りを回ろうと言ってくれた彼女もいるんだっ! 彼女を待たせているんだっ! そろそろ介護の必要な両親もいるし、まだまだ手のかかる妹だって二人いるっ! 大事な仕事だっていくつも請け負っているんだっ! だから、だからおれを殺さないでくれぇえええ~~!」

 どんがらがっしゃん。男性は泣きじゃくりながら暴れだしました。あまりに壮絶なその叫びにわたしは気圧され、隣のおじいちゃんは愉快そうに微笑んでそれを見守っておりました。

 わたしは思わずその場を立ち去り、両耳を塞いで逃げ去りました。看護士さんに事情を説明して、該当しそうな男性のところまで案内してもらって……。

 結果。これでした。

 洒落にならないくらいにデッドリーでした。


 「今日も来ないのね……」

 と、壁にもたれかかりながら、女性が憂いに満ちた声を発しました。

 隣のベンチに腰掛けながら、あーちゃんが不満げに足をぶらぶらと揺らします。

 「なんなのよその男は……連絡もないんでしょ?」

 「えぇ……。電源が切れているみたいで……」

 「もう直接行っちゃえば? 問い詰めてひっぱたいて連れ出しちゃおうよ。大丈夫、面会時間はまだあるし」

 「……だけど」

 女性は躊躇しているような様子でした。最後まで彼を信じていたいということなのか、行って真実を知るのが怖いのか……。

 「ねぇメモちゃん」

 と、その場で一人俯いて砂に絵を描いていたわたしはすくみあがります。

 「は、はいっ!」

 「……何びっくりしてるのよ。ねぇメモちゃん、さっきあんた一人でどっか出かけてたけど……なんか調べてないの?」

 いぶかしむようにこちらを覗き込むあーちゃん。流石に鋭い、何かしてたと分かってるんだ。

 「えっと……。なんでもないです、恋塚さんは胃潰瘍で入院していただけです。はい」

 「胃潰瘍って……全然大したことないじゃないの。それ」

 「……たいしたことありませんよ。えぇ、全然たいしたことありませんとも。もしかしたら明日の朝には霊安室に人が増えているかもしれないなんて、そんなことはないんです」

 「……あんた。普段以上に挙動不審よ。あとちゃんとメモに書いてから喋って。お願いだから」

 いえないのです。

 本当のことを言う勇気は、わたしにはとうていありませんでした。

 あーちゃんを出し抜くみたいな形で動いたのがただの好奇心からでないのなら、知ってしまった責任はちゃんと取るべき。

 だけどこれはお二人の問題です。お二人が生きて、それぞれの考えを持っているからには、わたしが妙に引っ掻き回す訳にはいかない。軽々に核心を口にすることはできません。しかし例えどんな風にことが動いたとしても、それを見守り、お互いの後悔がないように尽力する必要がありました。

 「……もう良いわ」

 と、女性は静かな声で言います。

 「あの……」

 「ありがとう。二人とも……こんな陰気な女を気遣ってくれて。でももう良いのよ、分かったから」

 「それってどういう……」

 「君。調べて来ちゃったんでしょ? 彼のこと」

 どきりとします。

 「あなたのその様子だと……あまり芳しい状態とは言えないみたいね? ねぇ、教えてくれないかな? 彼がいったいどんな風になっているのか……」 

 「それは……」

 わたしは一瞬だけ口ごもり、それから決意して女性の目をしっかりと見上げます。

 「彼はいったいどんな風になっているの? 自分のことはちゃんと人間として認識できてる? 自分の名前は、私の名前は、ちゃんと思い出せるのかな……?」

 「その……恋塚さんは……」

 わたしが意を決して口を開いた。その時。

 「やーぁサカサちゃん。さっきは心配かけたねぇ、ごめんよぅ!」

 背後から陽気な声がかかって、わたしは思わずその場を振り替えしました。

 そこにはにこやかな笑みを浮かべた恋塚さんが立っていて、こちらに向かって手を振っておりました。頭にはひょっとこのお面、片手にはヨーヨー。ポケットからは例のロボ金魚が『サコツニタマッタオユニウカビタイ……』とつぶやいておりました。 

 ……幽霊?

 わたしは思わず漠然としました。

 「恋塚さん……なんでこんなところにいるんですか? 例のでんじゃぁな赤いお薬を注射されたんじゃないですか?」

 「ははは。いや、おれもそうなるんじゃないかと思ったんだけどね……。どうやら本当に胃潰瘍だったみたいだ。同室のおじいさん、なんだかがっかりしてたみたいだよ」

 と、照れ笑いを浮かべたところで、彼の背後から身を乗り出すようにして可憐な女性が姿を現します。

 「聡史。……この子は?」

 「ああ。病院の子だよ、精神科の。さっき話してた例のサカサちゃん」

 「へぇ……この子が」

 女性はぱちくりと無邪気そうな顔でわたしの方を見詰めて、漠然とするわたしに不適にほほえんで見せました。

 「あたし。こいつのカノジョの美和子ね。よろしくね」

 と、屈託のない笑みでわたしの手を握ってぶんぶんと握手をしてきました。

 「ちょちょちょちょっと……」

 わたしは状況が理解できずに目を回します。

 「あ、あの。……恋塚さんの彼女? だって恋塚さん、あなたの恋人っていうのは……」

 「そこの彼女だよ」

 恋塚さんはさわやかに

 「大学時代からの付き合いだ。もう五年になる」

 「え。えぇええ?」

 わたしは思わず背後の女性の方を振り替えりました。

 「うん。そいつ、私知らないし。」

 と、きょとんとした顔で首をかしげるのです。

 勘違いしたっ!

 猛烈に勘違いしてたわたしっ!

 「あっはっは。それじゃあサカサちゃん、心配してくれてありがとうね。これからはあんまり働きすぎないようにするよ」

 「そうよ」

 と、美和子さんが頬を膨らませて

 「聡史最近がんばりすぎてるのよ。だから胃潰瘍なんてなるんじゃない。気をつけてね」

 「面目ないよ。それじゃ、今日はたっぷりリフレッシュするぞ」

 腕を絡ませ、幸せなカップルといった具合に祭りの喧騒に消えていく二人。華やかで元気な二人は、人ごみの中に紛れるとすぐに分からなくなってしまいました。本来、病院なんて陰気な場所とはかかわりのない人たちなのでしょうね。

 「……えっと。あなた、ちょっと勘違いしてたみたいね」

 と、女性はかすかに苦笑いを浮かべました。

 「私の恋人はさっきの男じゃない。……そもそも私には恋人なんていないし、だから待ち人も恋人じゃないわ」

 「えぇ?」

 これにはあーちゃんも驚いたような声を発しました。

 「じゃ。じゃぁ誰なのよ? あんたをこんなところでずっと待たせてる畜生男は?」

 「それはね……実は弟なんだけど」

 と、女性は私たちの良く知る名前を口にしました。

 「……っていうんだけど。知ってる?」


 「あっくぅううううんっ!」

 言って、女性は先生の部屋の扉をノックもせずに開け放ち、あまやかな大声を発しながらベッドに向けて飛び込んでいきました。

 「お? うおおおおおおっ!」

 何やらこそこそとベッドの中で本を読んでいた先生は、飛び込んでくる女性に反応できずに容易く押し倒されてしまいました。真っ白いベッドの上、髪の毛ぐしゃぐしゃの先生と端麗な女性が絡み合います。女性はこれまで見せたこともないような素敵な笑顔を先生に押し付けて

 「あっくん。こんなところにいたの。酷いじゃないの、ちゃんと待ち合わせしてたじゃない」

 「ちょ……マー姉? マジで? 本当にマー姉なの? 留学してたんじゃないの? ねぇ」

 「こないだ帰ってきたのっ! 博士号、やっと取れたから」

 「やっとってなんだよ! ふつうは後二年はかかってもおかしくな……うわっ」

 女性に羽交い絞めにされ、先生は目を回しながら翻弄されます。女性は先生の体をぬいぐるみのように抱き上げると、マーキングしなおすかのようにあちこちに顔を擦り付けて

 「ひさしぶりだねあっくんっ! 元気にしてたっ!」

 「あんたはおれの前だと元気すぎて困るんだよっ」 

 「だってあっくんかわいすぎるんだもーん。ねぇあっくん、まだお医者さんごっこやってるの?」

 「してねぇよっ! ていうか、マー姉こそ帰ってくるなら連絡くらいしろよ」

 「したじゃないっ! メールは三百件、発信は数えられないほど……。全部無視したのはあっくんよ? 約束してたお祭りにだって来ないし……」

 「い……いや。携帯電話とかこんな病院じゃ使うとこなくってなぁ」

 「それでもメールのチェックくらいしなさいよっ! 多分切れてるわよ、電源」

 「……ンだよ。分かった見るよ……ってうわっ! 着信回数七百三十……きめぇっ! マジで半端ねぇっ!」

 「愛です。ただの愛なんです、これは」

 「イカれてるっ! 愛だの言いつつ異常行動を繰り返すメンタルヘルスの典型例っ! ……姉貴、いい加減弟離れしろよ。なんの為に海外にまで留学して来たんだって」

 「おかしなこと言ってる弟をちゃんと治してあげる為でーすっ。私もうちゃんとした医学博士だから、あっくんのこと治してあげられるよっ!」

 「治さなくて良いっ! おれはどこも悪くない、おかしいのはあんたのアタマだ」

 などとじゃれあうように激しく会話しつつ。女性は抱きしめていた先生を笑顔で放り出すと、こちらに向けて落ち着いた表情を向けて

 「ありがとうね」

 静かな笑みで言いました。

 「私の弟のところに案内してくれて……。意外だったわ、この子にあなたみたいな素敵な友達がいてくれるなんて」

 「……い。いえ、そんな」

 意外でした。

 先生にお姉さんがいるという話は聞いていましたが。まさかこんな美人で、しかもこの女の人だとは……。

 よく見れば顔も似ていなくもないんです。でも先生に身内がいて、それがわたしの前に現れるなんて今まで考えたこともなかった。

 「ちょっとおかしな弟だけれど……これからもどうか仲良くしてあげて」

 「はい。もちろん」

 わたしは先生の患者さんですから。

 「それから。一週間後から私、この病院に就労してあなたたち二人の主治医ってことになると思うから、よろしくね」

 はい?

 わたしとあーちゃんは、思わぬことにその場で石のように固まってしまいました。

 「弟のいる病院で働きたかったのよね……。今のこいつの医者と入れ替わったら、そのままあなたたちも私の患者になるみたいだし。まぁなんとかゴリ押してみるわ。コネはあるのよ」

 「……マーちゃん先生、と呼ぶべきかしら」

 あーちゃんはそこで苦笑しながら言いました。

 「良いわねぇそれ。フレンドリーで良い感じ……。ところでねぇ、あっくん」 

 と、そこで女性はたくらむような笑顔で先生の方を向き

 「今ベッドの下に滑り込ませた本って何? さっきまで読んでた奴だよねそれ。偉いあわてようだったけど……」

 「な。なんでもねぇよ」

 「本当にぃ? ちょっとベッドの下、見せてもらっても良いかな?」

 「や、やめろって」

 「……あらあらこんなにたくさん。しょうがないよね。あっくんももう十九歳だもんね。うふふふ、お姉さん、なんだか不思議な感じだなぁ」

 顔を真っ赤にする先生。わたしは思わず苦笑しました。

 「すったもんだ……って感じですねぇ」

 「こうしてみてるとあのバカの姉貴らしいわ。なんつーか? どっちもマイペース、それでいて情緒不安定」

 「そんな感じですね」

 「ま。どっちにしろあんた程じゃないけど。……これはまた、しばらく退屈しなくて済むようになるんじゃないの?」

 にやにやと、あーちゃんは愉快そうに笑います。

 「ねぇねぇっ! 明日こそは二人でお祭りめぐろうよっ! 私その日まではちゃんと時間とってあるからさ」

 「……良いけど。下でやってんのは患者の祭りだろ? おれが参加する訳には……」

 「良いでしょどうせ暇なんだからっ! うまいこと休暇取れるようにならないと社会人としてやっていけないぞ」

 「……あんたがやっていけるとは思えねぇ」

 「何よぉ。生意気ねぇ」

 「やめろ。引っ付くなって……」

 先生と女性の二人は、どこまでも楽しげにすったもんだを繰り広げておりました。

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