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 二日おき六時に更新

 ある日。十階の自室から五階の図書室に行くのに階段を使うと、後ろから軽快にずっこけて背中を打ちました。

 次の段に足を乗せようとしたところ手ごたえ(足ごたえ?)がなく、ふわりとした浮遊感が背中から全身に駆け抜けました。背面を強打する鈍い音がすると同時に、全身を衝撃が貫きます。茫然自失に天井を見詰めること十数秒。自分が足を滑らせて落下したことに気付きました。

 「ちょっとあなた……大丈夫?」

 誰かのお見舞いにいらしていたらしい瀟洒な服を来たご婦人から心配され、わたしは勤めて平気な顔をして言いました。

 「心配ありません。ご親切にどうもありがとうございます」

 ご婦人はわたしの言ったことが聞き取れなかったのか、しばし首をかしげておりました。わたしはメモに同じことを書いて見せます。

 「……そう」

 なんとも微妙な顔をするご婦人。わたしは軽く会釈をしてから体制を整え、次の階段へと足を乗せようとしてすぐに止められました。

 「ちょっとあなた……なんでふつうに歩かないのよ?」

 「わたしはいたってふつうですが?」

 と、わたしはメモに書いてから言いました。

 「全然ふつうじゃないでしょ? そんなんじゃ落ちて当たり前じゃないっ」

 そんな問答をしばし続けていると、騒ぎを聞きつけた看護士さんがあわてたように駆け寄ってきます。

 「ちょっとあなた……芥川さん! 下の階に行く時はエレベーター使うか、誰かを呼んでから一緒に階段を降りなさいって言われたでしょう?」

 「……? 先生からそのようなことは言われていませんが?」

 「そっちじゃないほうの先生によっ」

 看護士はしかりつけるようにそう言ってから、ご婦人の方を向いてから頭を下げました。

 「申し訳ありません」

 「いえいえ……変わった患者さんで、大変ですね」

 ご婦人は少しおもしろがるように言ってから

 「その子が噂の『サカサちゃん』?」

 「……えぇ、まぁ……そうです」

 「うちの子が噂してましたよ。おかしな女の子が十階にいるってね」

 それからご婦人はおかしそうに笑いながらその場を去っていきました。

 「……芥川さん。アタマ大丈夫?」

 それ……文脈的にかなり失礼じゃありませんか?

 「違う違う。いつもみたいに後ろからおっこちたんでしょう? 頭は打ってないのかって。前にそれで三針縫ったじゃない」

 「そんなのずっと昔のことですよ。今じゃちょっとだけこけるのも上手くなったんですよ、頭だけはちゃんと守るように」

 「まず転ばないようにしなさい」

 看護士さんは言いました。

 「ほら。診察の時間でしょ?」

 「……? 今日は八時だと聞いてますが?」

 「それは違う先生ね。ほら行きなさい」

 それから一階の知らない先生の前まで連れて行かれて、お薬を何種類かいただいてエレベーターで自室に戻りました。

 結局図書室には行きそびれました。残念。


 わたしに処方されているお薬は四種類。全部食事後に飲めば良いことになっています。

 症状を抑える薬が二種類と、それらの副作用を抑える薬が一種類、さらにその副作用を抑える薬が一種類。小さい頃はこれの五倍近い量を飲んでいたこともありましたから、随分と安定してきているといえるでしょう。

 「これも全ておれの治療のたまものだ」

 と、先生はオセロ盤に黒を置きます。六枚のコマがひっくり返されました。

 「その三番目の薬を二十日日分ばかり溜めてから、一気に飲み干してみろ。信じられないほどの絶頂を味わえるぞ」

 先生は冗談みたいに言います。

 「その手の危ない遊びは、もう飽き飽きですよ」

 わたしは白をおきました。一枚、黒が翻ります。

 「ちっちゃい頃は、それとお医者さんごっこが病院生活のお楽しみだったんですけどね」

 「ふん。とんでもないヤブ医者どもと毎日顔を合わせてるのに、お医者さんごっことは。良い趣味とは言えないな」

 先生は眉を寄せて言います。

 「わたしはいつも患者さん役でしたよ……。それでたいてい盲腸を患ってました。お医者さん役の人が、それとアレルギー性鼻炎しか病気の名前を知りませんでしたので」

 「その無知なる遊び相手の顔が見たいものだな」

 先生は盤面を難しい顔で見詰めます。

 「……これ。おけるとこなくないか?」

 「おけますよ。そのかどっこの隣」

 「……君の打ち方は陰湿だから嫌いだ」

 先生は不機嫌に言います。

 「隅に置こうとか多くとろうとかより、相手の置ける箇所を増やさないようにして来やがる。もっと前向きにやれないのか?」

 「オセロってのはそういうゲームです。っていうか先生、弱すぎません?」

 「……違う。これはわざとだ。取らせたんだ」

 先生は角の斜め横に黒を置きます。わたしはそれを狙い撃ち、十六手で一つ角を奪いました。

 決着はその十八手後につきました。先生は神妙な顔をして真っ白けになったオセロ盤を見詰めていました。

 「……次は最初から角四コ、あげましょうか?」

 「うるさい。これはあれだ、体調がよくないからだ」

 言って、先生はベッドに寝転がります。

 「万全のコンディションで挑めば負けないはずだ、多分」

 「前もそう言ってましたよ……先生、お体にはお気をつけて。あと約束どおりお菓子ください」

 「む……っ」

 先生は棚からバウムクーヘンの袋を取り出して、わたしの方に差し出しました。

 「やったーっ」

 わたしはバウムクーヘンを病院服のポケットに突っ込みます。

 「先生太っ腹。ここって甘いものってなかなか手に入らないんですよね~」

 「糖尿病患者とかいるからな……。君もそれ、下の方の階で食べるんじゃないぞ。亡者のように飛びついてくる連中がいるからな」

 「心得てます」

 わたしは頬を緩ませたままうなずきました。

 先生が今くれたのは、差し入れか何かで棚に隠してあったお菓子でしょう。わたしにはそういうのをくれる人がいないので、しばしば理由をつけては先生から恵んでもらうのでした。

 病院の中で暮らしていると、外で作られる食べ物がやたらと甘く感じられます。極端に甘かったり辛かったりするものは、病院では口に入ることがありませんから。そんな中で、頼んでなくてもたくさん処方していただけるのが苦いものです。

 「……そろそろ薬の時間だな」

 時計を見ながら先生は言って、先生は引き出しからいくつかの錠剤を取り出しました。

 「これはビタミン剤や眠気覚ましだ。医者はこういうので仕事をするんだ」

 それから口の中に薬を目一杯放り込むと、洗面台に駆け寄って水をがぶ飲みします。

 「先生、品がないですよ。ちゃんとコップからのまないと」

 「腹に入れば何でも良いのだ」

 言って先生は口元の水をぬぐいます。

 「少しは体調が優れると良いですね」

 「そうだな……」

 先生は青くした顔でそう言って、再びベッドに倒れこみます。それからあまり元気がなさそうに眉を顰め、気だるげに溜息を漏らしました。 

 そうなのです。

 最近先生は本当に体調が悪い……そのことでオセロに負けたという訳でもないのでしょうが、医者の不摂生という奴でしょう。様子を見に行くたびに顔を青くしていて、気だるげなほほえみをくれるのです。ちょっとかわいそう。

 「一度。他のお医者さんに見てもらっては」

 「そういう訳にいかんよ。良い笑いものだし……それにあのヤブ医者どもはアテにならんからな」

 それから眉を顰めて体を起こし、わたしの方を見ながら言います。 

 「最近。患者たちの中で妙な売買がはやっているようだ」

 「売買?」

 わたしは首を傾げます。

 「売買って……タバコとか? 前、そういうのが男の子たちの間で出回ったことがありましたよね? 高校生の子がたくさん持ち込んで、高く売ってたの」

 「その類とはちょっと違うが……とにかく様子がおかしいんだよ」

 先生はそこでだるそうに首を振りました。

 「ねぇ君。ちょっと調べてきてくれないか?」

 「はぁ……。でもなんでわたし?」

 「君には人望がある」

 先生は断定口調で

 「ここの病院の中でもまぁ古参だろう。特に子供たちの中では相当顔が利くじゃないか」

 「そうですけど……。いったいその売買とは、どういう層の間で?」

 「若い男と、中年の男と、それから老いて尚盛んな男だ」

 「……つまり男性ですか?」

 「ああ。それも特に、中学生から青年くらいが一番必要とするものらしい」

 「分かりました。それを突き止めてくれば良いんですね」

 「頼むぞ。まずは流通元を明らかにしてくれ。何が流通しているかは知らなくて良いし、分かってもおれにだけ伝えて、他には秘密にしておいてくれると助かる」

 「……? それはどうして?」

 「どうしてもだ」

 先生が神妙な顔で言うので、わたしは首をかしげながらうなずいたのでした。


 先生の言う流通元というのはすぐに明らかになりました。

 自分の部屋に帰還する途中、何やら膨らんだ紙袋を脇に抱えてこそこそと歩いている男の子を見つけたので、声をかけてみたのです。 

 「シューサイくん。ちょっと良いですか?」

 お母様の教育方針から熱心に中学受験に望んだところノイローゼを起こし、かれこれ入院三ヶ月目を迎えるシューサイくんは飛び上がらんばかりに驚きました。 

 「は、は、はい。なんですか?」

 シューサイくんはがくがくと挙動不審にこちらを向きます。わたしは「……?」と首をかしげながらシューサイくんに用を伝えました。

 「あの……最近男の子たちの間で変なものが出回ってるとかで。その流通元を探してるんです……」

 「は、は、流通元……。へへへ変なモノ」

 シューサイくんはがたがたと震えながら、抱え込んだ紙袋に目をやります。

 「いいいいったいそれは誰が……」

 「先生です」

 「せせせ、先生って……。あの、う、上の階の……」

 「ええ。その先生です」

 わたしは微笑みました。

 「どうしても気になってらっしゃるようで」

 「……そ。それならその……お、おお姉さんは何も知らない……の?」

 シューサイくんがたどたどしくそういうので、わたしは首を傾げて見せます。

 「えぇまぁ……何も知らないですし、害のあるものでなければ興味もありませんが」

 「だ……だったら……そそそのっ」

 シューサイくんはがたがた震えながら

 「いっ、一号錬の加賀谷さんって、伝えておいて……。つつつ伝えるだけで良いからっ」

 言って、シューサイくんは逃げるようにして帰ってしまいました。

 つまりながら喋るのは彼の癖のようなもので、彼の入院が続いているのもそれが原因なのでした。

 今では相当にマシになった模様で、昔はまともなコミュニケーションが通用しないほどでした。本人がきちんと喋ろうとしても、言葉を忘れたかのように上手く呂律が回らないのです。

 同じ言葉に不自由している身として、色々とお世話をさせていただいたものです。

 しかし。こうして彼の方から先に症状を克服し、退院していく様子を見ると、妙に釈然としない気分に駆られることもありました。

 気にしてないんですけどね。


 「それ……ぜったいに調べた方が良いって」

 自室に戻り、届いていた病院食を食べながら先ほどのことを話していると、あーちゃんが唐突にそういいました。

 「はぁ……。しかしわたし自身は知らなくて良いことと、先生は仰いましたが」

 「あの医者モドキのことを信頼することないって」

 あーちゃんは口汚くそう言ってから、スプーンを口に運んで「味、うっすっ」と悲鳴をあげました。

 「バウムクーヘン、食べますか?」

 「そんなのあるの? 食べる食べるっ、半分こね。ありがとうっ」

 いつも仏頂面のあーちゃんですが、流石に甘い物の力は偉大だというところでしょうか。喜々としてバウムクーヘンを二つに割って、病院食を脇にのけて楽しそうに食べ始めました。

 「おいしいっ。やっぱりシャバの食い物は違うわね」

 「ここじゃめったに手に入りませんからね……。お金があったら、こっそりピザなんか配達してもらっても良いですよ。みんなを呼んでちょっとしたパーティになりますから、結局後からバレちゃうんですけどね」

 「ピザかぁ……。病院食にもあるけど、コーンとチーズとうっすいソースがかかったただのパン切れだしねぇ。良いなぁ出前、食いたいわ」

 と、すっかり病院生活が板に付いてきた感じのあーちゃん。といっても、最初の一ヶ月くらいはだいたい愚痴を言うばっかりなんですけどね。

 「それよりメモちゃん。その変な流通品のことなんだけど」

 あーちゃんはわたしのことを『メモちゃん』と呼びます。いつもメモを持って話すからだそうですが、『サカサさん』と比べればよっぽどまともなあだ名でしょうね。

 「その流通元っていうの、突き止めるんでしょ? わたしも一緒に行くわ」

 「へ……?」

 意外な申し出に、わたしは目を丸くしました。

 「えぇっと……確かに何が出てくるか分からない以上、わたしも何が出回ってるか知って起きたいですけど。でもだったら一人で……」

 「あんた一人じゃ不安でしょ?」

 なめられてるっ!

 「っていうか、その加賀谷とかいうのがいるのは一号錬でしょう? ここ四号錬と一号錬の間には何がある?」

 「えっと……渡り廊下ですか?」

 「そう。で、渡り廊下には何がある?」

 「……? アリの巣、とか」

 「どんだけガタが来てんのよこの病院……。じゃなくて階段よ階段。渡り廊下の端っこに、高さを調節する階段が。あんた一人で行かせたら確実にすっころぶじゃない」

 ……面目ない。

 そういう訳で。わたしは食事が終わった後で、あーちゃんに連れられて一号錬に向かったのでした。


 あーちゃんとわたしは右手同士を繋いで病院の一号錬に向かいます。途中、変わったものを見るようなぶしつけな視線を浴びて、あーちゃんは少々居心地悪そうに眉を顰めていました。

 「恥ずかしいんでしたら、手なんか繋がなきゃ良いのに」

 わたしが言うと、あーちゃんは顔を赤くして

 「うるさい。あんたがあぶなっかしいからだ」 

 と、怒鳴るようにして言いました。

 加賀谷という患者は一号錬の六階に入院していました。まるで住宅マンションのようにずらりと並んだ病室の扉を抜けていきます。

 特に何もなくとも診察さえ受ければ、漢字にして十一文字くらいで何らかの病名を宣告され、入院期間は長くなるばかりの今近。病室も医者も看護士も、余るということはないのでした。

 「ごめんください」

 わたしが扉の前で振り返ろうとすると、あーちゃんが繋いだ手を離さずにノックをしながら言いました。

 「少し聞きたいことがあるんです。入れてくださいませんか?」

 すると一拍おいてゆっくりと扉が開かれて、中から少年染みた笑みを浮かべた男性が姿を現します。

 「やあやあ」

 その人は五十を過ぎた壮年の男にも、三十歳にも満たない青年のようにも見えました。どことなく飄々とした存在感があって、入院患者にしては痩せぎすでも色白でもありません。わたしはだいたい一目見ればその人の病状や入院してからの日数に気付くのですが、この人の場合はちょっと分かりかねました。

 「お嬢さん方とは珍しい。仲良く手を繋いで……」

 男性が言うと、あーちゃんは恥ずかしそうにわたしの手を振り解きました。

 自分から繋いだのに。

 「そっちの君が、うわさに聞くサカサちゃんかい?」

 男性は柔らかい声でそう口にしますが、わたしは地団太を踏みたい心地です。

 どうしてこんな別の錬の人にまで……。

 「それでそっちの子が……えぇと。なんだったかな?」

 「人に名前を尋ねる時は自分からでしょ?」

 あーちゃんが生意気なことを言います。きっとそういう物言いを丸覚えしているだけなんでしょうが。

 「はっはっは。でもそっちから尋ねてきたんだろう?」

 「そうよ。あんたが、例の加賀谷なんでしょ?」

 「ああ。ぼくは加賀谷信一郎、例の噂のね。……それで、君は?」

 「名乗る意味があるような名前はしてないわ」

 あーちゃんは不愉快そうに鼻を鳴らします。

 「はっはっは。それは参ったねぇ」

 明朗に笑い、加賀谷さんは部屋の中に引っ込んでわたしたちを手招きします。

 部屋の中は個室になっていて、ベッドの周りの棚はだいたいが本棚に使われていました。自分の病室内に小さな棚を持ち込む人は良く見ますが、この人のそれはまれに見るレベルといえそうです。

 何せベッドの向かいの壁にまで背の高い棚が並んでいたのですから。どう見てもエレベーターに乗らないサイズであることを考えると、階段で運んだのか、中で組み立てたのかのどちらかでしょう。いずれにせよ病室内にそう簡単にそろえられる備品ではありません。よほど入院生活が長引かなければ、こんなことをする気にはとてもならないでしょう。

 「これ……全部本?」

 あーちゃんは仰天した風に本棚に駆け寄って、ずらりと並んだ本の背表紙に手を這わせます。つるりとした文庫本に背の高いハードカバー、全体の三分の一くらいが漫画で、棚の端っこには何やら鍵穴のようなものが付いていました。

 「ぎっしりじゃない。こんなのどっから取り寄せんの? 図書室からガメてるんじゃないでしょうね?」

 「図書室にあるようなおとなしい本は置いていないさ」

 「これ、全部あんたが読むの?」

 「読まないよ」

 加賀谷さんは楽しそうに笑います。

 「ぼく自身はそこまで本が好きじゃないんだ。漫画もね」

 「……?」

 わたしは首を傾げます。 

 「じゃあどうして、こんなに本を集めてるんですか?」

 尋ねると、加賀谷さんはベッドを立ち上がり、わたしたちの間に入って本棚の物色を始めます。

 「君はこれで決まり。そっちの君は……うふふふ。意外とこれなんかが良いんじゃないかな?」

 言って、加賀谷さんはわたしたちに本を一冊ずつ差し出します。わたしたちは言われるがままにそれを受け取りました。

 「初回だからただにしとくよ。気に入ったなら返しにこなくても良い……代わりは取り寄せられるからね」

 「……どういうことですか?」

 「こうしてやって来る人にそいつの欲しがりそうな本を渡してやると、それが噂になってまた人がやってくる」

 加賀谷さんはたくらむような声で言いました。

 「ちょっとしたビジネスなのさ。まぁ、実際のところは暇すぎるからやってるってだけの、ただのお遊びみたいなものだがね。必要経費以上の金は取らないし、ボランティアといっても良い。こんな病院じゃ、なかなか手に入らないものばかりだしね。特に年頃の男性たちには」

 と、加賀谷さんは唇をつりあげます。

 「えっと……これ、借りて言って良いんですか?」

 わたしは加賀谷さんを見上げます。加賀谷さんは柔和な、しかしどこか不適な笑みを浮かべて

 「良いともさ。ただしきちんと読んでくれよ、きっととりこになるからね」

 加賀谷さんは明朗に笑います。

 「それじゃぁ。是非ともまた来ておくれ。その時には、さらに君らに相応しいものを用意しておくから」

 

 「……良く分かりませんでしたね」

 わたしは加賀谷さんからもらった本の表紙を眺めながら言いました。

 本の表紙には細い目と尖った顎をした大小二人の男性が並んでいて、タイトルには『女なんかにおまえはやらない』とありました。これはいったいどういう本なのでしょうか?

 「……この本、初版で発行日時が二○一五年の日付になってるわ」

 あーちゃんは眉を顰めて本を開いています。

 「だいぶ古いわよ。結構貴重なんじゃない、これ?」

 「そうかも」

 わたしはうなずきます。

 「とりあえず先生に報告してきます。何がなんだか分からないし」

 「そうね」

 あーちゃんは肩を竦めました。

 「ただの古本屋って訳じゃないんでしょうし」


 わたしは先生の病室に向かって、今見てきたものを報告しました。

 「つまりなんだね。その加賀谷という男は、部屋で入院者に本を配っている奇矯な人物ということかな?」

 「奇矯っていうか、変わった人でしたね。悪い人じゃなさそうでしたけど……」

 「まぁこの際。その加賀谷という男のことはどうでも良いんだ」

 と、先生はどこか上機嫌に言います。

 「大事なのは。そいつが『病院で生活する男にとって特に手に入りにくい本』を提供してくれる人物である、ということだ」

 唇を持ち上げて、先生は体調不良でどんよりと濁った目を黒々と鈍く輝かせます。

 「もしもおれの見立てどおりだとすれば、その加賀谷という男はまさしく救世主といえる存在だ。……なぁ、その男の本棚に、何かものを隠せるようなスペースはあったかい?」

 「えぇと……、確か本棚の隅に鍵穴のようなものがあったような」

 心なし、その付近の棚は他と比べて盛り上がっていたような気がします。ちょうど、並んだ背表紙の向こう側にも別の本が並べられるくらいの程度に。

 「それだなっ」

 我が意を得たり、とばかりに先生は片手を振り上げます。

 「まったくどうして気付かなかったのだっ。今の今までっ! まったく愚かであるとしか言いようがない。体調のことなど知ったことか、今すぐに向かわねばっ」

 言って、先生は勢い良く極めて嬉しそうにベッドを立ち上がります。勢いよく扉にかけよってドアノブに手をかける直前で、頭から前に倒れ付しました。

 ばたんきゅー。

 「大丈夫ですかっ?」

 わたしは先生の傍に駆け寄ります。

 先生は顔を真っ青にして、両目をぐるぐると回しています。今に気絶してもおかしくないという具合。わたしは思わず先生の体を抱き上げ、叫ぶようにして言いました。

 「先生っ。先生しっかりしてくださいっ」

 「芥川くん……頼む……おれを行かせてくれ……。もうかれこれ一年くらいありついていないんだ」

 「ありついてないって……何にですか?」

 「頼む……このままだと頭がおかしくなりそうだ……。君だって進んでオカズになりたくはないだろう……。さぁ、頼む」

 「えぇっと」

 言ってる意味がわかんない。わたしは頭を抱えました。どうしよう。

 「先生、本当に体調不良の理由に心当たりはないんですか?」

 「ない。強いて言うなら欲求不満だが……」

 「えぇとその……何かおかしいところはありますか? 頭が痛いとか、食欲がないとか……」

 「……食欲がない?」

 先生はそこで僅かに目を大きく開けました。 

 「そうか……そうだったのかっ。連日の体調不良の理由、分かったぞっ!」

 「な、なんですか?」

 先生はぷるぷると震える手を高く掲げて、今にも消え入りそうな声で言いました。

 「空腹だ」

 「へ?」

 先生は今にも気絶しそうに

 「空腹だ……おれはかれこれ四日間ほど、薬と水しか腹に入れていない。……食事をするのを忘れていたんだ……」


 棚の奥にはへそくりのビスケットと、冷蔵庫の中には、セラピーの一環として昨日作ったチョコレートケーキ。

 週に一度の農作業や庭弄り、料理などの行為は、わたしたち精神科の患者の間では推奨されています。厨房なんかはそのために簡単に借りることができて、もっぱら甘いお菓子を作っては舌鼓を打っていました。

 このチョコレートケーキは、もともと先生とあーちゃんに渡す為に温存しておいたもので、わたしはそれを抱えて先生のところまで行きました。

 「先生。こんなのしかありませんが、どうぞ」

 わたしが先生の前にチョコレートケーキを差し出すと、先生は途端に覚醒したように起きだしてそれをひん掴みました。

 「食べて良いの、これ?」 

 「もちろんです」

 先生は途端に、ケーキを舐めるようにして食べつくしました。

 「美味い……体中に栄養が駆け巡るのが実感できる」

 「それは良かった」

 「芥川くん、恩に着るっ! 君は退院したらパティシエになりたまえ」

 言って、先生は元気良く外に出かけていきます。わたしはそれを見送ってから、容器を持って自分の部屋へと戻りました。


 「へんなの」

 わたしは口の中でそうつぶやいて、とぼとぼと階段を降りていきました。

 両手を大きく広げて、バランスを取りながら一歩一歩下っていきます。途中、何度か足を踏み外しそうになりましたが、なんとか転ばずに済みました。

 「おかえりなさい。あーちゃん」

 わたしは自分の病室に入って言いました。

 「おかえり。ちゃんとエレベーター使ったんでしょうね?」

 あーちゃんが言うので、わたしは思わず口ごもりました。

 「使わなかったの? ダメじゃない危なっかしい」

 「……階段なんて誰でも降りられますよ」

 「誰にでもできることができない場合だってあるの。あんたがそうなのよ」

 むむぅ。

 「それでどうだった? あの医者もどきの反応は?」

 「それがなんとも」

 わたしは曖昧に笑んで

 「偉く喜んでおられましたね。体調不良で床に倒れ付しながら、なんとか這いまわって加賀谷さんのところに行こうとされてました」

 「……何が彼をそこまでさせるのかしら」

 さぁあ。

 あーちゃんは何やら本を手にしながら話をしているようでした。文字を追いながら自然な応対ができるあたり、頭の回転の速い子なのでしょう。わたしにはとても無理です。

 「いったい何を読んでらっしゃるのですか?」

 わたしが訪ねると、あーちゃんは本の表紙をこちらに向けて翻して見せました。

 「あいつからもらった奴」

 タイトルには『保健室に咲く百合』とありました。何やら二人の女の子が体を重ね合わせて、悩ましい表情を浮かべています。

 「おもしろいですか?」

 「わかんない。でも、読みやすい……かも」

 あーちゃんはするすると目線を紙の上に泳がせながら

 「あんたは本とかって、あんまもってないの? 始終暇そうにしてる割、読んでるとこみたことないんだけど」

 「あまり読みません。わたし漢字分からないので」

 わたしは紙に書いてからそう言って、そのメモをあーちゃんに見せました。

 『あまりよみませんわたしかんじわからないので』

 「……あんた。学校とか行ってまっとうな教育受けたこと……ないよね?」

 「ありません。それでもがんばって覚えたんですよ、ひらがな。シューサイくんに教わって、九九も言えます。五の段までですけど」

 あーちゃんは首を振るって見せて

 「じゃあもしかして。この本のタイトルも読めてない?」

 「そうですね……。あ、でもゆりは分かりますよ。花の名前はいくつか書けるんです」

 「そういう好きなものから少しずつ漢字が分かるようになればよいでしょうって、小学生の頃の先生が言ってたなぁ」

 あーちゃんは僅かに遠い目をして見せて

 「……あんたも本、もらってるよね? ルビ振ってるとこだけでも読んでみたら? いつか病院を出たとき、困るだろうし」

 はて。わたしが病院から出て行くことが、はたしてあるのかどうかは分かりませんが。

 「そうしましょうか」

 せっかくいただいたものですから。読んでみないことには失礼にあたるというものでしょう。

 加賀谷さんからいただいた本を取り出して、タイトルを再び見返します。『女なんかにおまえはやらない』女……はおんな、ですね。かろうじてこれは分かります。おんななんかにおまえはやらない。

 とにかくとばかりにわたしは本を開きました。視界一杯に活字が広がります。ところどころルビを振っていてくれているのですが、はて、ちゃんと読みきることができるのかしら?

 せめて挿絵の一つでも……そう思いながらぱらぱらとページをめくっていると、それらしきものが現れます。表紙にも描かれている大小の二人の美少年が、情熱的には抱き合っているシーンでした。

 すっぱだかで。

 「きゃー」

 わたしは思わず本を閉じました。

 ……これはいったい? 何がいったいどうなったらこういう展開になるのでしょうか? こういうのが当時では難しい文学的表現の一つだったの? 偉い人の考えること、よくわかんない。

 わたしは僅かに顔を赤くしながら再び本を開きます。

 ……ちょっと理解できないかもしれませんが。がんばって読んでみることにしましょうか。


 消灯時間が過ぎるまでもくもくと本を読み進めて、どっと疲れて眠りに落ちました。

 夢の中では、他に人のいない無人島で愛し合うイーディとジェフの姿が浮かんでおりました。筋肉質で長身のイーディと、猫のようにしなやかで柔らかい体を持つジェフ。イーディの我欲的で不器用な愛撫と、小さな体で優しく受け止めるジェフ。霞のように浮かんでは消える二人の裸の男性たちの姿。その日のわたしの寝言と寝相は、通常の三割り増しだったと言います。

 うねうねおんおんとベッドの中でのたうっていると、なんだかこのわたしまでが、何ものかから熱烈に体をまさぐられているような感覚にさいなまれます。どこをどう触られたみたいな文章を暗くなるまで読みふけっていたからでしょうか。

 なんだか。病院服の下から胸元にかけて手を突っ込まれているような。体中を這い回るもどかしい刺激に身をよじらせます。脇のあたりまで手が差し込まれ、ふんわりと柔らかい重さがわたしを組みしきました。暖かい息遣いがわたしの頬にかかり、近付いてくるその体温にわたしは思わず目を開けました。

 「わ……」

 顔を真っ赤にほてらせたあーちゃんが、ぼんやりとした顔で驚いたように声をあげました。 

 「きゃ。……きゃーっ!」

 わたしは思わずその場を飛びのいて、壁際に頭をぶつけてからびくびくとあーちゃんの方を見詰めます。

 「な……何してるんですかっ」

 わたしが顔を真っ赤にして叫ぶと、あーちゃんは左手に持った『保険室に咲く百合』をこちらに掲げて見せて、それからうつむき加減に言いました。

 「その……我慢できなくなった」

 「……何を?」

 「綺麗だと思うものを愛撫せずただ見ているだけでいると、いつか壊したくなる……」

 いったい何を言っているのですか、この子は?

 「その……出来心」

 あーちゃんは顔を本で覆い、恥ずかしがるようにつぶやきました。 

 「ちょっとした興味と好奇心と。ほんの少しの、渇望」

 限りなく透き通った、それでいてどこまでも充実した瞳でぼんやりとわたしを見つめます。

 ダメだこの子。目の色が十三階の上原のおばちゃんと一緒だ。

 「頭を冷やす……」

 言って、あーちゃんは顔も洗わずにふらふらと病室を出て行ってしまいました。

 乱れた病院服でベッドでしばし漠然とし、わたしはあーちゃんが残していった本を手に取りました。ぱらぱらとページをめくります。

 しなやかな肢体をした二人の少女が、真っ白な肌をぴたりと重ね合わせながら濃厚な吐息を漏らしていました。

 ……表現規制のゆるかった時代の産物だけに、これまたなんとも恐ろしい。


 病院食が出される時間になっても、あーちゃんは帰ってきませんでした。

 ベッドの上で味噌汁を啜りながらわたしは考えます。加賀谷さんがわたしに渡した本の中身と、あーちゃんに渡した本の中身。

 それからこれはなんとなく気付いていない訳ではなかったのですが、先生も欲しがっていた

『病院内で殿方が入手に苦心するアルモノ』の正体。

 鍵のかかった本棚。

 四号錬まで噂が届くほど妙に盛況な本の提供。

 これらの符号が意味するところはただ一つ。

 わたしは病室を飛び出すと、三つとなりの部屋からシューサイくんに声をかけました。

 「おおおおお姉さんんんんんなななんでしょうかかかか……」

 「ちょっと一号錬まで付いていって欲しいんです」

 わたしはビスケットを握らせて言いました。

 「手を引いてくれるだけで良いですから。お願いします」

 シューサイくんは戸惑った様子を見ながらも、「えええええとおおおやおやおやすい御用です……」と、おずおずとわたしの手を握ってくれました。

 一人で行けない訳ではもちろんないのですが、あとであーちゃんにしかられるのも困ります。

 ……彼女が読んでいた本のたまたま目には言ったページには、『約束を守らなかったおしおきよ』と言って、『お姉さま』が『瑠璃子』の髪を執拗に嘗め回すシーンがあったことですし。

 「ごめんくださいっ!」

 一号錬までたどり着き、わたしは加賀谷さんの部屋の扉を勢いよく開け放ちました。

 加賀谷さんは何やら中年の男性を相手に楽しげに指を折り曲げていて、男性の視線は悩ましげに加賀谷さんの指先と、本棚の鍵穴の間を行き来していました。

 取引中、といったところでしょうか。

 「やぁ。なんだいサカサちゃん」

 加賀谷さんは不適に微笑んでこちらを見ました。

 「こないだの本の続きが欲しくなったのかな……今度は有料だけどかまわないね?」

 わたしは余裕綽々の加賀谷さんに人差し指を突きつけて、大きな声で糾弾しました。

 「もう何もかもお見通しなんですよ、加賀谷さんっ!」

 眉を顰めて、わたしはメモに書いた文句を力いっぱい読み上げます。

 「あなたは、この病室でみんなにいかがわしい本を売ってお金を稼いでいる……違いますかっ!」

 「そうだよ」

 加賀谷さんは涼しい顔で即答しました。 

 「なにが悪い?」

 「悪いに決まってますっ!」

 わたしは真っ赤な顔で加賀谷さんに詰め寄ります。

 「わたし、あなたがあーちゃんに貸した本の所為で貞操を奪われかけたんですよっ? 危ないところだった……本当に危ないところだったんですっ!」

 「それはお気の毒に……はっはっは」

 加賀谷さんは特徴的な笑い声をあげて

 「こいつは傑作だ。少しずつディープな奴を提供してじっくりと上客にしてやろうかと思ってたんだが、一冊でこの様だっ。はっはっは」

 「この……あ、悪魔っ」

 わたしは怒鳴りつけました。

 「抗いきれぬ快楽を盾に、人の心を弄ぶメフィストフェレスっ! あなたのしていることを病院に訴えてやるっ。そうじゃなきゃわたしはあーちゃんに貞操を奪われるっ!」

 「それは困るなぁ」

 加賀谷さんは飄々と 

 「これができなくなったらぼくは今度は何のスリルを味わえば良いんだい? お客たちと同じ秘密を共有し、病院側にばれないように慎重に慎重にやって来たっていうのにさ……」

 「それもこの日が年貢の納め時ですっ」

 わたしは指を突きつけます。

 「証拠はあるのかい、証拠は?」

 加賀谷さんはにやにやと笑います。

 「君たちに渡したのは確かに大幅な表現規制が入る前の本で、ちょっとばかり過激な内容ではあるけれど……それでも禁書って訳じゃないし、年齢制限もない。そんなのをただであげてることの、いったいどこに問題があるんだい? 確かにイケない本や発禁の本を未成年に売りつけることには大いに問題があるけれど、そんな証拠はどこにもないんだ」

 「そんなの関係ないです」

 わたしは頬を膨らませて

 「看護士さんに言えばちゃんと調べてもらえるもの」

 すぐに飛び出して、ナースステーションにこのことを(あーちゃんに襲われたことも含めて)訴えようかと思った時に、病室の扉が勢いよく開けられました。 

 「それだけはやめてくれっ」

 逼迫した表情の青年がわたしに向かって頭を下げました。

 「この男をどうか告発しないでくれっ! お願いだっ」

 深々とすがりつくようにして頭を下げられて、わたしは驚いてその場ですくみあがりました。

 「わしの……わしの最後の楽しみをどうか……どうかとらんでおいてくれ……」

 次に現れたのは、杖をたずさえたしわくちゃのおじいちゃん。哀れを請うように膝を着き、拝むかのように両手をすり合わせて懇願します。 

 「お願いお姉ちゃん……ぼく……どうしても真里菜ちゃんのグラビア写真が欲しいんだ……」

 性に目覚め始めたばかりといった年齢のいたいけな小学生が、テレビアイドルの名前を叫びながらわんわんと泣きすがります。

 それら三人が加賀谷さんの部屋に入ってくると、雪崩が起こるかのようにして年齢も様々な男性たちが次々と部屋の中に飛び込んできました。

 「頼む……おれたちのオカズ倉庫をどうか……」「僕のくの一献縛地獄を……」「何も知らない八歳のちーちゃんをどうか……」「引き締まった若い男の尻に思うサマぶち込んでやる奴を……」「SM女王あゆら様を……」「背徳に満ちた肉親との交わりを……」「無表情でわたしをののしってくれるあの子を……」「ありとあらゆる表現や嗜好が形容された、伝説の時代が生み出した性癖のルネサンス……その素晴らしき軌跡を財産に持つその男をどうか見逃しておくれ!」

 ものすごい人望っ!

 見れば、異変に気付いたシューサイくんが近くの病室から、加賀谷さんに心酔する男たちを集めてきたようなのです。

 ものの数分でこれだけの人数が集まるというのは、この男のカリスマ性のなせる業でしょうか。この人たちにとって、そんなに重要なのモノなのですね。その、いかがわしい本という奴が。

 これだけの数が集まれば、力づくでわたしに言うことを聞かせることもできそうなものですが。彼らはあくまで身を低くして懇願するだけでそういったことを一切しようとしません。とは言え、これだけ多くの男性にひざまずかれ、今にも泣き出しそうな切実な表情で祈りを捧げられることは、並の暴力をはるかに凌駕する強制力がありました。

 「揺らがない。このくらいで、揺らぐ訳にはいかないっ」

 わたしはぶんぶん首を振りました。男性たちはまるで亡者のようにわたしの足元にすがり付いて懇願します。そんな風に言ったってダメなもんはダメなんです。

 「いったいなにが君をそんなに駆り立てるのだね……」

 だってルームメイト怖い。あのままあの子があっちの世界に入り込んでしまうのは、どうしても避けたい出来事。ルームメイト怖い。ほんと怖い。

 「しかしだ」

 と、加賀谷さんはそこでほくそえむような顔をしました。

 「君だって本当は。ぼくがこないだ渡した『女なんかにおまえはやらない』の続きが読みたいんじゃないのかい?」

 「それは……」

 「良いことを教えてやるぜ。次の巻ではな、ジェフに姉のような愛情を注ぐポーラに、いよいよイーディが切れて、財力にモノを言わせてジェフを誰もいない無人島まで浚ってしまうんだ。そこでジェフは最初は強引なイーディのことを拒むんだけど、その愚かしくも真っ直ぐな愛情の注ぎ方に少しずつ心と股を開いていってだな……」

 「開いていって、どうなるんですかっ?」

 わたしは思わず食いついて、加賀谷さんに詰め寄ります。

 「そこでだ。最初は嫌がっていたジェフも、強引で執拗なイーディの攻めにとうとう根をあげてゴニョゴニョ……」

 「根、根をあげてどうなるんですかっ!」

 「だからそのだな……ゴニョゴニョ」

 「はっきり言ってくださいっ。この性悪! 悪魔!」

 「こっから先は、君がぼくらの仲間に加わってからだ」

 そう言って、加賀谷さんはたくらむように微笑みました。

 「ここでぼくの行為が病院に見咎められれば、君が『女なんかにおまえはやらない』の二巻を読むことは一生できないよ。あれはもう絶版になっているし、表現規制の都合でもう二度と出版されることはないレアものだからね……」

 「そ、そんな……残酷な……」

 わたしは足に力が入らなくなり、その場で腰を抜かします。

 「もう分かっているだろう?」

 加賀谷さんはふっと、勝ち誇ったように鼻を鳴らしました。

 「君はぼくらの仲間になるしかない」

 なんて酷い。


 後で聞いたことなのですが、加賀谷さんはその昔は商社の訪問販売員をしていた方らしいです。

 「どれだけがんばっても業績があがらなくってね……。それで訪問者恐怖症っていうの? 最近そんな言葉があるそうなんだけど、仕事が手に付かなくなって。で、自殺を図ったと」

 先生は言いながら、何か後ろめたいものがあるかのようにベッドの下にちらちらと視線を走らせています。

 あとで調べておきましょう。

 趣味を知っておきたいですし。無論、あくまでもただの好奇心からなのですが。

 「内臓を強く損傷してね。まっとうな社会復帰は非常に難しい状態に置かれてしまった。会社の方もクビになってしまったらしくて……。それで新しい事業を始めようと、趣味だった絶版・発禁本収集を活かしているそうなんだが、これが随分と軌道に乗りつつあるようだ。病院外でもインターネットを通じて独自の顧客網を築いている。国の援助や保険金に頼らずとも、入院費を納めてあまりある利益を及ぼしているらしい」

 「すごい手腕じゃないですか」

 「元より、訪問販売の売る側が客に媚びる考え方が嫌だったらしいな。素晴らしいものを売ってやるからには、客の方が売り手に擦り寄っていくべきだという考えらしい」

 「それはまた。前衛的ですね」

 「実際、彼はそういった販売形態を半ば確立している訳だしな。もっとも、誰にとっても残念なことは、彼のそういった才能が病院の外で発揮される機会がないということだ」

 と、先生は僅かに目を伏せながら言いました。

 「へ? 今なんて?」

 「彼。もう二度と病院から出られないんだ。車で崖に突っ込んだときに、骨がいくつもの内臓をいためたらしくてね。……手術をしてもどうにもならない状態らしい」

 「そんな……わたしにはまったく元気そうに見えたのに……」

 「体の方にガタが来ていても、心のほうは燃え滾っている。われわれ患者連中にとって、見習うところが多くある人物だろう」

 加賀谷さんがあんな風に貴重な本を大盤振る舞いしているのは、自分の命があまり続かないかもしれないと思っているから。欲するところに本を配って、自身のコレクションが全てなくなった頃に、あの人は最後の手術を受けるつもりだそうです。

 「病院というのは、誰にとっても決して限られた空間ではない」

 先生は言います。

 「相応の熱意と集中力を持ち、取り組めば、必ず何かを成し遂げられる場所だよ。だから君も、諦めずにどうかがんばりたまえ」

 何をでしょうか。わたしが首をかしげると、先生は真剣な顔でこちらを見るのでした。


 「ねぇメモちゃん」

 と言って、病室であーちゃんがわたしに話し掛けてきました。

 「ちょっとお願いなんだけど、この紙に書いてあること、覚えてくれない?」

 言われ、わたしはあーちゃんから紙を受け取ります。そこには『ぬいずくのこ、よのすでんいなじゃけわたっなにきすをたなあ、につべ』とありました。

 「覚えたかしら?」

 あーちゃんはわたしから紙を回収します。

 「良いこと。メモちゃん、今おぼえてもらったことを、突っぱねるように、しかし恥じらい交じりの声色でわたしに言ってちょうだい。お願いよ」

 そう言って期待に満ち溢れた表情で顔を近付けてくるあーちゃん……怖いです。

 「ねぇメモちゃん、あたし考えたの。あなたにそういう趣味はないし、あたしだって本当にこういう世界にはまりこんでしまう気はないの。えぇ、それはとてもあまやかで、けれどいけないことなのだから……。だからあたし、これで我慢することにしたの」

 と、陶酔したように熱心に語りかけるあーちゃん。

 そうなのです。

 ルームメイトのあーちゃんは最近様子がちょっと、あるいはものすごくおかしいのです。

 どんな風におかしいのかというと、部屋に戻るとわたしのベッドの匂いを恐る恐る嗅いでいたり。

 枝毛ができているといっては髪の毛に顔を近付けてきて、抜き取った髪をどこかに保存していたり。

 ……正直おっかないのでやめて欲しいのですが、下手に刺激して決定的なことをされてしまうのは尚恐ろしいので、今日の今日までぶるぶると震えていた訳ですが。

 「お願い、メモちゃん」

 あーちゃんは両手を合わせて懇願します。

 「もうこれっきりで、満足して、諦められる気がするの。もうそれだけ言ってもらえたらもう、あたしは……」

 そうやって頼み込んでくるあーちゃんがあまりに怖いので、わたしはさっきあーちゃんに渡された言葉を必死で思い出します。

 『ぬいずくのこ、よのすでんいなじゃけわたっなにきすをたなあ、につべ』

 一見何の意味もない不可思議な文脈。わたしはそれをいつもどおりに口にしました。

 「あぁ……あ。あぁん」

 と、そこであーちゃんはくねくねと身をよじって見せて

 「……やっぱり良いわ、メモちゃん。最高よ……。だけれどね、しょうがないのよあたし。これ以上のキャラ崩壊はいくらなんでも失策……もう十分、最高に良い夢が見られたわ……」

 言って、あーちゃんはわたしの肩を抱きしめて、ゆっくりと頬を重ねました。

 「ありがとうメモちゃん。これでもう加賀谷から本を買うのはやめる。この胸には素晴らしい思い出と、それからほんの少しの夢だけが残れば、他には何もいらないの……」

 そう言って、あーちゃんは自分のベッドに戻って、例の禁断シリーズ『保健室に咲く百合』の処分を始めました。

 以降はあーちゃんの態度も元に戻って、彼女の奇行も随分と少なくなってくれたのですが。

 安心して良いものか。そうでないのか。いずれにせよ、ベッドの周りに張っておいた警戒線は、まだまだはずすわけにはいかないのでした。


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