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お父さんお母さん。元気ですか。私は元気です。病院なんか入っててこんなこと言うのも変だけど、自分でも不思議なくらい心の中がおだやかで、とても快適です。
だけれどちょっと退屈かな。だってこの病院、本当に何にもないんだもの。入院する前が楽しかったっていう訳じゃないんだけど、一日中ベッドの上で過ごすっていうのはちょっとキツいです。こればっかりは少し慣れません。
みんなその退屈さに当てられちゃっているみたい。この間なんて、一つ上の階の患者さんがベッドに縛り付けられて『出せ。病院から、出せぇ』って叫んでるのが聞こえて来たの。すっごく悲痛な悲鳴でした。平気を装ったんだけれど、私すっごく怖くって。
そんな時。メモちゃんが後ろからそっと抱いてくれました。メモちゃんっていうのは私のルームメイトの変な子で。私より六つ年上なんだけど、みんなからはサカサちゃんって呼ばれてる。喋り方と歩き方がすごく変なの。ふつうに話すと××××しちゃうみたいで、歩く時も×××だから、毎日転んでる。ものすごい話だけれど、本当にそんな子がいるんだよ。
病院にはこんな子がたくさんいるんだよ。吹き抜けの三階からロビーに向けておしっこしてるおじいちゃんとか、いつも窓ガラスをおいしそうになめてる男の子とか。中でもメモちゃんのおかしなところは、あんなに変なのに自分でそれに気付いていないってこと。不思議でしょう?
とても優しくて良い子なの。割り算はできないけど頭は良いし、友達もたくさんいてみんなから好かれてて。顔がちっちゃくて、背が私くらい低くて、すごく透明な目をしている。天使みたいだなって思うの。だけど本当にたまに、背筋の凍るようなことをさらりと言っちゃうところもある。
私が病院に来てもう半年。良い友達もできたし、こちらに来て良かったと思っています
お父さんお母さん。
だけれど私は、どうしてこんなところにいるのかな?
本当にたまにそれが分からなくなります。
自分が何をしてここにいるのか、どうして病人扱いされているのか、時々それが分からなく、思い出せなくなってしまうんです。
本を読んでいるとき、診察を受けているとき、お庭を散歩しているとき、こうして手紙を書いているとき。何十分も全部忘れたみたいになってて、それで突然に気が付くの。
お父さんお母さん。
わたしは本当にお父さんとお母さんを殺したのかな?
「どう思う?」
と、まーちゃん先生はわたしの読了を待ってから言いました。
「あなた……随分とあの子に好かれてるみたいね。ほとんどそのことじゃない。もうあなたに手紙を書けばよかったじゃないって思うんだけれど」
「……ええとその」
わたしはたじたじと、先生にその手紙を返しながら言いよどむように
「どうしてこんなの見せたんですか?」
「良いと思ったからよ。あなたと、あなたのルームメイトの治療のためにね」
まーちゃん先生は机の上のスナック菓子を頬張りながら
「色々と分かったことはあるわ。あなたのことも、あなたのルームメイトのことも」
「お菓子食べながら診察しないでください」
わたしは言って、まーちゃん先生の方を睨みつけました。
「よく持ち込めましたね、そんなの。だけど院長先生に見付かったら怒られますよ」
「見付からなきゃ良いの。そこの看護士も」
ちらり、まーちゃん先生は傍らで直立不動の看護士さんに視線を流して
「文句言いやしないしね」
「……パワハラだ。これがパワハラって奴だ。わたし覚えた」
まーちゃん先生はペットボトルのコーラでスナック菓子を飲み込み、大きなゲップをしました。
……これがあの日の、清楚な浴衣の女性の正体なのでしょうか。
まーちゃん先生。先生のお姉さんでここに着任した精神科のお医者さん。研修は海外で済ませてきたらしく、数ヶ月あまりで難しい患者を何人も治療に成功した腕利き。
すっかりこの病院に馴染んでしまったらしく、患者の前でお菓子を食べるほど。マイペースな人ではあるみたい。
「これ読んであなた。何か感じたことはある?」
まーちゃん先生はどちらかというと弛緩した、おだやかな目でわたしに迫りました。
「はぁ……。わたしがあーちゃんの友達ということになっていて、それは嬉しくあるんですが……」
色んな意味で
「ただあーちゃんがこういう分裂を抱えているっていうのは、ちょっと初めて知りました。前からたまに情緒不安定になるところはあったけど」
「……それだけ?」
「ええと……。それだけです。あの子だってかなり難しい境遇にあるみたいだから、これくらいの不安や改竄は仕方ないなって思います」
「改竄とは?」
先生は僅かに目を細めて見せて
「えっと……。なんというか、この手紙の内容って、まーちゃん先生も言ったように、あーちゃんのご両親についてはほとんど何も書かれていないように見えるんです。これは多分、あーちゃんにとってのお父さんお母さんって言うのがすごくのっぺらぼうな存在だってことじゃないでしょうか? 本当のお父さんお母さんのことを指してるというよりは、もっとぼんやりした記号みたいなもののような……」
「なかなか良く見ているじゃない」
まーちゃん先生は感心したように言いました。
「だけれどね。私があの子に誰かに手紙を書くように言った時、あの子は考えるそぶりもなく、自然にご両親に手紙を当てたのよ。私が思うに。彼女にとってのお父さんとお母さんっていうのは、二人ずついるんじゃないかな」
「どういうことです?」
「一つは彼女にとって望ましくなかった本物のご両親。これらについては、決定的な記憶と共に彼女の中から排除されているわ。もう一つは、彼女が求めたはずの、想像の中のお父さんお母さんね」
「わたしには、『こうだったはずのお父さんお母さん』って感じがしますが」
「とことん鋭いわね、あなた」
「でもだとしたら変じゃありません? この手紙の中ではあーちゃんは、想像の方のお父さんお母さんの方についても、自分が手をかけたことを疑っています。これっていうのは……」
「二組いる両親のうち、どっちがどっちか分からなくなってきているのね」
「単に全部なかったことにしようとしてるんだと思いますよ?」
わたしが言うと、先生は僅かにぎょっとしたような顔をして
「疑うっていうのは解消するために行うものです。そうじゃなかったという結論を出したいから、疑うんです。あーちゃんは優しい方のお父さんお母さんに、都合の悪いこと全部否定して欲しいんです。だからこういう手紙を出した」
わたしが自分の推測を述べると、先生は少しだけ眉を顰めて、それから僅かに唇をつりあげて
「意外とクールね」
とおもしろそうに言いました。
「それだけ冷静な分析ができるんなら、自分の症状にもちょっとは自覚的になれるんじゃない?」
「そうなんですけどね」
わたしは苦笑して
「本当に何がいけないのかわかんないんですよ。……きっとものすごく珍しい病気なんだと思います。周囲からも本人にも症状が本当に分かりづらい類の」
「……強迫性障害」
先生は溜息を吐きそうに
「あなたの病名はそう呼ばれているわ」
「きょーはくせいしょーがい?」
わたしは首をかしげて
「それなら知ってます。日常的にちょっとした何かにこだわって、憑かれたようにそればかり気にしてしまう病気ですよね? ガスの元栓しめたかなぁとか、そういうことが気になって何度も確認しに戻ってしまう病気……」
「大本はそれなのよ。あなたの症状は、この病気の極めて珍しい発現例として、観測されたことがなかった訳じゃない」
まーちゃん先生は難しい顔をして
「ただしあなたみたいに自覚症状がそこまでないのは初めて。だから色んな医者が何枚も論文を書いた」
「……知りませんよそんなの」
「あなたの博愛的な性格はね。自分のことをまったく見ていないから。自分の意識の中から、自分自身を意図的に排除しようとする傾向があるのね。そうすることであなたの内在世界は安定を得た」
「……はぁ」
「あなたは人格的に出来上がっているように見える。人物として完成しているのよ。本人には絶対に気付けないような場所にある重要なパーツを、逆向きに嵌めてしまったままね」
「難しい話はやめてくださいよっ」
わたしは痺れを切らしてしまいました。
「わたし頭悪いですから、そんな風に言われたって何もわかんないんです。まーちゃん先生」
「……分かって。あなたには荒療治が必要なのよ。気付いていないかもしれないけれど、あなたの病状はいきつくところまで行き着いて、最悪の状態で停滞しているの。このままの状態が続けば、あなたは一生まともに歩くことはままならない」
先生は溜息を吐きそうに立ち上がりました。
「……ちょっとだけ。歩く練習、しましょうか」
まーちゃん先生は背中からわたしの両手をとってから言いました。
「さぁ。歩いてみて」
歩いてみてといわれましても。わたしは思わずまーちゃん先生のほうを振り返り
「……手を離してくれませんか」
「歩いて見なさい」
まーちゃん先生はやわらかい笑顔で
「あなたにとってはこうして歩くのは変なことかもしれない。けれどもね、ほんの少しだけ受け入れてみて。あっちの方向に、私と同じようにあなたも歩くのよ。やってみなさい」
「……では」
わたしは一歩を踏み出しました。
「できるじゃない」
まーちゃん先生に先導されるまま、わたしは前へ前へと一歩ずつ廊下を歩きます。強い違和感と眩暈感。景色が視界の中央から生まれるこの不思議な感覚。
まーちゃん先生の両手は温かく、とても暖かい心地がしました。わたしが自分から動くのを決して邪魔しないように、しかし決してわたしの手首から指を離すことなく、一定のリズムで前へ前へと踏み出していきます。
「……どう。変な感じはする?」
「変な感じも何も」
わたしは首を傾げます。
「ふつうに歩いているだけですよ」
まーちゃん先生はそっとわたしの両手を離して見せました。
「同じように、一人で歩いてみなさい」
はてさて。わたしはまーちゃん先生から離れ、自分一人で歩き始めました。
視界の端から発生する景色。
先の見えないいつ転ぶとも知れない道を、怖いとも感じずに一歩一歩踏みしめていく。
いつもやっていることなのに、このときばかりはとてつもなくいびつなことのように思えて……。
すぐになんとも感じなくなりました。
「どうですか?」
わたしがまーちゃん先生の方を見ると、彼女はあくまでも自然な表情で優しく笑って
「やっぱり。もう少し私と一緒に歩いてみましょうか」
と、わたしの両手をとりました。
「自分の歩き方がおかしいと思ったことは?」
「ありません。みんなが変だっていうけれど、わたし自身は本当になんとも思わないんです」
「それであなたは。周りの人の言うことがおかしいと思うの? それとも本当にあなたの歩き方がおかしいと思うの?」
「人によっては、変に見えちゃうのかもしれません」
わたしは眉を顰めながら
「わたし自身は自分の歩き方のおかしさに気付きません。だからきっと、これはその程度のことなんじゃないでしょうか。先生と一緒に歩いたら簡単に解消される程度の小さな違いで、そんな小さなことでしかないだけにわたし自身は気付かない」
……わたしが言うと、まーちゃん先生はしばしわたしの言葉を解釈するように眉を顰めました。わたしの喋り方は少々特殊だと聞きます。メモに載せてから喋っているのでもないし、まーちゃん先生であっても少しばかり聞き取りに時間がかかるのかもしれません。
「なるほど。そういう解釈もあるのか」
まーちゃん先生は関心した風に
「実際、『この歩き方』を『ちょっとしたこと』と解釈してしまえば、あなたの言い分は間違いなく正しいことになる。いいえ、実際あなたの世界ではそのように解決されてしまっている訳ね。しかしそのことこそが、あなたをこの病院から出ずらくしている」
「……はぁ」
「病院の中にすっかり定着しているのがいけないのかも……いいえ。それも微妙かしら。ここがもし刑務所のようなところだったとしても、あなたは積極的にそこから出ようという努力はしないのかもね」
「どういうことですか?」
「あなたには施設の外で暮らすっていう感覚がないのよ」
まーちゃん先生は言いました。
「この間、ルームメイトの子と一緒にお祭りに出かけていたみたいだけれど。あれはどうだった?」
「どうだったって……楽しかったですよ? まーちゃん先生とも会えましたし……」
「そうね。私も楽しかった。あなたみたいな魅力的な患者に出会えるとは思っていなかったからね」
「魅力的な患者……ですか」
「ええ。あなた、精神病院の患者なのよ? 知ってた?」
「それくらい知ってます」
「それが分かっていない人もいるのよ。『おうちかえる、どこもわるくない』こればっかり繰り返すような子がね。……なんというかね」
まーちゃん先生は少しだけしずんだ声で
「あなたみたいな患者は、今の時代だから生まれているんだと思うの。患者であること、一種異常であることを自ら肯定し、自分の中に落とし込んで生活できるタイプの……。一歩外に出ればあなたは途端にとんでもないさらし者になるわ。ふつうなら人格が破壊されてしまうレベルでしょうね。でもあなたはそんなもの気にしないでしょうし、平気で当たり前のように生きていける」
まーちゃん先生はわたしの手を取り、一緒に一歩、踏み出します。
「弟が言ってた」
「先生が?」
「えぇ。あなたは患者ではあるけれど、このまま退院したとして、数々の障害をものともせずに一人で生きいていけるだけの精神的な強さが、あなたには確かにあるってね」
まーちゃん先生は後ろからわたしの肩を抱いて
「退院した後のことは不安?」
「考えたこともありません」
「もし外に出たら。自分はどうなると思う?」
「考えたことも……」
「今の病院はね。そんな人ばかりなの」
まーちゃん先生は憂いを帯びた声で
「でもね。どうか希望を持って。あなたに必要なのはこの障害を克服することじゃない、自分の未来に希望を持つことなの。どうか、この何もない白い牢獄の中で朽ち果てないで」
「……先生がそういうなら」
「ありがとう」
暖かい手が頬を撫でました。
「そのためには。きちんと歩けるようになること、ちゃんと話せるようになること。一緒にがんばりましょう」
「それができたら。わたしは健康な人と同じように生活できるんですか?」
まーちゃん先生は少しだけ目を伏せて
「表面的には、ね」
まーちゃん先生に手を取ってもらいながら、わたしは廊下を歩き、エレベーターでリハビリ室に行ってはただひたすら歩くことを繰り返しました。
「意味のないことをしているって、苦痛にならない?」
まーちゃん先生は心配したように言いました。
「いいえ」
「今日はもう休む?」
「いいえ。……手応えはあんまりないんですけど、苦痛ではありませんから」
「そう。……良かった」
まーちゃん先生はうれしそうに微笑んで、手を離します。
「……自分で歩いて良いんですか?」
わたしが訪ねると、まーちゃん先生は優しげな表情のままうなずきます。
一歩。その場を踏み込んで見ました。
それはまーちゃん先生と一緒に歩いていたときとは、確かに違う歩き方のような気がしました。景色の動き方も、自分が何に向かっているのかという意識も。
思えばあるとき、こんなことを思ったことがある。
わたしはみんなと同じところを目指している。
けれどそこに向かうためには、わたしだけはみんなとは逆に進まなければならない。
「ねぇ。あなた、自分が後ろ向きに歩いているっていうことは、分かるの?」
歩いていくわたしの手を取って、まーちゃん先生が尋ねます。
……はい。……わたしは言いました。
「それがおかしいことだっていう意識は?」
……わかんないです。わたしにはこれが当たり前のことですから
「どうして当たり前なの」
……わたしはこうしなくちゃいけないんです。
「どうして?」
……戻らなくちゃいけないから。
「どうして?」
……前に進んでも何も戻ってこないから。そんなのいやだから。
「だから後ろ向きなの?」
……はい。
「……そう」
まーちゃん先生は頭に指を当て、悩ましげな顔をします。
「そうね。あなたはとても大切なものを、過去に一度に失っている。外で、健康なあなたが持っていたものを、何もかも全部理不尽に奪われている」
と、まーちゃん先生は首を振るってみせて
「ねぇ芥川さん」
わたしの肩を抱き、そっと両手をとって見せてから
「あなたは大事なものを取り戻すために、後ろ向きに進まなくちゃいけない。それは分かるわ。……だけれど。今だけは私と一緒に前を向いて歩いてみて。私と一緒に前を見て、前を歩いて、そうしたら何かとてもよいものが手に入るかもしれないわ。それを私と、病院のみんなと見つけましょう。ね?」
わたしは小さくうなずきました。
「良いわよ。じゃあ行きましょう。大丈夫、どんな場所にだって私が一緒よ。さぁ」
まーちゃん先生に手をひかれ、一緒に一歩を踏み出します。
「どう。ちゃんと歩けそう?」
「……わかんないです」
「良いのよ。少しずつ、ちゃんと前を見て歩く勇気を出していけば良い。あなたならできるわ……。がんばりましょう」
次の一歩を踏み出しました。
「ほら。がんばって、もう一歩よ」
今度は左足。まーちゃん先生と一緒に、さらに一歩。
「歩けてるじゃない」
わたしとまーちゃん先生は、そうやって何度も何度もリハビリ室を往復します。わたしはまーちゃん先生に手を引かれるまま、従うままに一歩ずつ前を見て歩いていきました。先生はそのたびにわたしのことを褒め、優しい言葉で肯定してくれました。
「次はあそこまで行ってみましょうか」
まーちゃん先生はリハビリ室の扉を指差して
「ルートはあなたが選んでちょうだい。あなたの進むところに、わたしが後ろからついていくわ。あなたが決めて、あなたの思うとおりにあそこを目指してね。あなたならできるわ」
先生はわたしの背中を優しく押し出します。
わたしは思わず一歩を踏み出します。
「次よ」
わたしはさらにもう一歩、左足を前に出しました。
「がんばって」
次は右足。
「その調子よ」
左足。
「すごいじゃない」
一歩一歩。自分の足で前に進んでいると、わたしはとてつもない違和感にさいなまれました。
わたしはどこに向かっているだろう。
ふと、背後から何かが遠ざかっているような感覚がありました。
そこには確かなわたしの居場所があって。そこにいたら確かに満ち足りて、幸せでいられるはずの場所があって、一歩踏み出すたびにそれがどんどん遠ざかっているようなそんな感覚が全身を支配しました。
次第に、こうして歩いていく先に何かとんでもない暗黒が待ち受けているような、そんな恐怖感が首をもたげます。
「……どうしたの?」
わたしはその場で立ち止まりました。
最早、前方に光はありませんでした。
踏み出した先には闇が満ち溢れていて、足をつければ途端に全身を呑み込まれてしまうようでした。その底なしの、無限のごとき闇に足を突き出していたことに心底恐怖し、真っ青になって後退ります。
「芥川さん?」
わたしはまーちゃん先生の手を振り解いて、その冷たい闇から逃れようとします。
どうにか逃げようとその場を振り向くと、どっちにどう歩いて良いのか分からなくなって、思わずその場を転がりました。目の前には底なしの闇が広がっています。わたしはせりあがるような絶望を感じ、頭を抱えてうずくまりました。
「大丈夫よっ!」
前から、まーちゃん先生がわたしを抱きすくめます。
「大丈夫よ。怖くないわ。ほら、ゆっくり前を見て。私よ。何も怖いものなんてない。でしょう?」
やめて。
わたしは目の前のまーちゃん先生を弾き飛ばしました。
「きゃぁっ」
先生の叫び声。わたしはどたばたと這うようにしてその場を離れ、確かにあったはずのぬくもりを探し回りました。
何もかも怖い。
みんな敵だ。そう思いました。こんな冷たいところに良いものなんて何もない。この先に広がっているのは何ひとつ優しくない、何一つわたしに与えない、傷付けるばかりのいやらしい人たちだけ。
こんなところにいたくない。
わたしは誰からも愛されず、誰からも見咎められることなく、ただ疎ましがられて、阻害されるままに泣きじゃくっていることしかできない。
戻らなくちゃ。
楽しかったあの日に。
そっと。後ろから暖かい手が私の背中を撫でました。
「私のほうを見て」
まーちゃん先生が、赤くなった顔でわたしの方をじっと見詰めます。わたしが突き放した所為なのか、頭から出血してその白い頬に一筋の血が伝っていました。
「落ち着いて。……私はあなたの敵じゃない。何も怖くない。分かるでしょう?」
そうしてすっと抱きすくめられると、わたしは歯を鳴らしながらうなずきました。
「ほら。深呼吸なさい。顔が青いわよ……今にも倒れそう」
息を大きく吸って、吐く。優しい腕に抱かれながらそうすることだけで、わたしの周りを覆っていた暗闇が取り払われたような心地になります。
「ごめんなさいね」
まーちゃん先生はわたしの頭を撫でました。
すっかり安心して、全身の力が抜けるような心地がします。
「……本当に軽率だった。芥川さん。気はしっかりしてる? 芥川さん? ……芥川さんっ」
ぼんやりと、周囲の景色が曖昧になっていきました。まーちゃん先生の顔が、リハビリ室の光景が、水に浮いた絵の具のようにぐしゃぐしゃとしたものになっていって……。
わたしは意識を失いました。
あれは確か。靴紐もまだ自分で結べなかった頃。
わたしは町で一人腰を折り曲げて泣いていました。お母さんにやってもらった靴紐が解けてしまい、自分でやろうとしてもどうにもならず。
今にして思えば些細なことです。しかし当時のわたしには、それがとっても心細いことのように感じたのです。自分一人では靴紐を結ぶこともできず、だからといって代わりにやってくれる両親はここにいない。
そんなことが不安でたまらなかったのです。
だからわたしは、一人泣きじゃくりながら自分の家に向かいました。
靴紐の結び方を教えて欲しかったのか。それとも、もう少しだけ靴紐をお母さんに綺麗に結んでもらう時の、優しさと暖かさを楽しんでいたいと思ったのか。それは今となっては分かりません。ただ、家に戻ればそこにはこの心細さを払拭してくれるものが確かあって、そこに戻れば確かに自分は幸福な暖かさに包まれることができると、そう強く信じていたのです。
家の前には幾重にも黄色いテープが張り巡らされていました。
「君……この家の娘さん?」
黒い服の刑事さんが言いました。
わたしはこわごわとうなずきました。自分の倍くらいに背の高い刑事さんがとても恐ろしく思えて、とにかくこの人から早く開放されて両親のところに向かいたいと、そればかり思いながら。
「……そうか。まだ小さいのに気の毒に」
その静かな響きに、その時のわたしが何を読み取ったのかは分かりません。
ただ猛烈に、アイスを丸呑みしたようなとてつもない冷たさを感じました。底知れない恐怖を感じてわたしが振り向くと、タンカに乗せられた二人の大人が、血まみれになって救急車に運び込まれていくのが見えました。
「見ちゃダメだ」
後ろから刑事さんがわたしの目を覆います。
「落ち着きなさい。良いか、おとなしくしているんだ」
できる訳ないでしょう。そんなこと。
その時のわたしが感じた不安感、心細さには、今思い出しても気が遠くなります。ただ漠然と運ばれていったのが自分の両親であること、事態がただ事ではないことは理解しました。わたしは刑事さんを振り払い、救急車に乗せられた両親を追いかけようとします。
後ろ首を捕まえられ、羽交い絞めにされ。
わたしは警察車両に乗せられて、わんわん叫びながら両親の乗った車のほうを注視しておりました。
ナンバーは3248。
目に焼きつきました。いつか必ず自分がその車を追いかけ、両親の元にたどり着けるように。
靴紐はほどけたままでした。
靴紐を引き摺って警察署に行きました。白い椅子に座らされて、飴玉を一つあてがわれました。机に置かれたそれを無造作に見詰めていると、刑事さんがわたしに尋ねます。
「君は。一人で外に遊びに行っていたのかな?」
わたしは漠然とうつむいていました。
「それはいつ?」
首を振り、椅子を離れます。部屋を出ようとすると、刑事さんは後ろから力を入れすぎないように、しかし決して逃げられないようにわたしを捕まえました。
「外は危ないよ」
刑事さんは退屈そうに
「ここにいたら安心だ。さぁ」
「落ち着くまで待ったほうが良いんじゃないですか?」
もう一人の刑事さんが言いました。
「子供の記憶は曖昧だ。取り乱した後、正確なことは何も覚えていないかもしれない。この子の発言は極めて重要な手がかりになる」
もう両親以外の物は全て敵に見えました。自分を取り巻くこの不安さの元凶は、自分を拘束し、両親の元から引き離す全ての存在だと感じました。わたしは刑事さんから離れて一人で泣き出しました。刑事さんははっと息を吐きました。
「君があやしてくれ」
「はい」
若い刑事さんがやってきて、わたしを後ろからあやしつけます。
何も聞こえてきませんでした。
何も感じませんでした。
ただひたすらに、お父さんとお母さんがどうなったのか。自分の家に何があったのか。そればかりを質問し、はぐらかされていたように思います。正確な記憶はありません。
ただ。この時既にわたしはある程度理解していたのだと思います。
優しい両親はもうこの世にいないことを。
親類の家に引き取られました。
慣れない匂いのする車から出て、扉を閉めます。するとぐちゃぐちゃに結んだ靴紐の先がドアに引っかかり、足をとられてすっころびました。わたしはそれをどうにかしようともがいて、ふがいなさと心細さに泣き出しそうになりました。
静かに、ドアが開かれて、足を引っ張っていたわたしはその場にしりもちを付きます。
引き取り先のおじさんがドアを開けてくれたのです。わたしは立ち上がり、おじさんに向けてお礼を言いました。
「とろくさい子だな」
忌々しそうにそう言われました。
「そんなこと言わないであげて」
隣でおばさんが頭をかきながら
「かわいそうな子なのよ。他に引き取り手ができるまで、いったんあたしたちが預かっておくしかないんだから」
おばさんはわたしの目の前に立ち、目線を合わせながら
「良いこにしてるのよ」
そう言って先に家の中に入ってしまいました。
わたしはとぼとぼとそれを追いかけます。ただなんとなく、この家の中で自分は一人きりなんだということは理解しました。
歩き出したのは惰性によるものでした。今の自分にはそうするしかないと分かっていたから。
靴紐は解けたままでした。
一人きりのお布団。
暗い部屋にひかれた布団の上で、わたしは眠ることもできずにただ震えていました。
頭からかぶった白い布団の重みばかりが頼りでした。以前までは一人で眠ることもできなかったわたしでしたが、その時ばかりはどの大人からも外れた一人きりを望んでいました。しかしそれはとんでもない不安を孕んだものでした。
その家には一人、高校生くらいの男の子供がいました。彼はわたしを見るとつまらなさそうな目をして、そのまま自分の両親に視線を向けました。そしてわたしのほうを指差し
「いつまでなんだよ?」
尋ねました。
「さぁ」
「さぁってなんだよ?」
「そう長くはないでしょう? 知らないのよあたしもそんなの。ただ乱暴はやめて」
「しねぇよそんなこと」
言って、自分の部屋に引き返します。
その時の、男の人のぞっとするほどおぞましい口の端の動きが、その時のわたしには忘れられませんでした。わたしは頭から布団を被ってその恐ろしさに耐えました。
そこにあったのは不安と嘆きと、これは何かの間違いだと叫ぶ気持ち。
どうにかしてあの頃に戻りたいという気持ち。何らかの手段で幸せだった時間を取り戻せないものかという、懸命な思考。
思い出すのはあの救急車のナンバー。
あれを見つけ出し、追いかければ、救急車に乗って運ばれた両親に会うことができるんじゃないか。そんなひらめきがわたしの頭を過ぎりました。わたしはその思いつきに猛烈に焦がれます。そしてその場を立ち上がり、そっとおじさんとおばさんが眠っていることを確認すると、靴を履いて外へと飛び出しました。
3248。3248。3248。3248。
何度もつぶやいたこのナンバーは、わたしの頭を取り巻いて離れなくなりました。常にこれを口にしていないと不安でたまりませんでした。その時、確かにその四桁の数字はわたしを支え、すくってくれるものであったのです。
庭を出て、道路を歩き、目の前を通り過ぎた車を思わず追いかけます。それが3248の車じゃないかと感じたからです。わたしは暗がりの中で、車のライトにぼんやりと照らされたその車のナンバーを確認します。
それが3248だったのです。
わたしは思わず目を見開いて、懸命にそちらに向けて走り出そうとしました。
ブレーキ音が鳴り響きます。
背後から来た車にひかれそうになって、思わず体をそらそうとして
後ろから首をつかまれて、わたしは道路の端に引っ張りこまれます。
「やれやれ……危ないガキだな」
男の人がどこかしら引きつった声で言います。
それは、その家に住んでいた高校生のものでした。わたしは男の人に乱暴に取り押さえられ、路上に伏した状態で通り過ぎる車を見ていました。ずっと遠くの方に見えるとんでもなくか細い、街頭に照らされた3248のナンバー。男の人はわたしの髪の毛を引っ張りあげて、奸悪な声で言いました。
「おまえが勝手に外に出てきたのが悪いんだからな」
舌なめずり。
「外なら泣き叫ばれても見咎められることもない。……おれはおまえを連れ戻しに来た、それだけだ」
立ち上がらされ、どこか暗く湿ったところに連れ込まれます。わたしが車を追いかけようとすると、言いようなく乱暴で陰湿な手段によって、それは阻害されました。
そこからは、思い出せないないほど真っ暗で、引きちぎれそうな長い長い苦痛。
「偉く不気味な子だねぇ」
おばさんがいやそうな声で言いました。
「両親が死んだんだって? しょうがないじゃないか、これくらい情緒不安定になっても」
「度を越してるわよ。塞ぎこんで何も言わないだけなら良いけど。暗いなんてもんじゃない。黙ってるかと思ったら変な数字をずっとつぶやいてるし……あんた何かした?」
その家の息子はぴらぴらと手を振って、無関心にほんの少しの愉快を交えた声で言います。
「何もしてねぇよ」
おばさんは溜息を吐きました。
「あの子、今どうしてるの?」
「どこかに出かけたんじゃないか? 例の数字をつぶやきながら」
「不気味ねぇ。何か問題でもおかさないとよいんだけど」
「いっそ。車にひかれたら良いんじゃないか?」
おじさんが疲れた声で言います。
「そこにいるよ」
子供が部屋の隅のわたしを指差しました。
「うわっ」
あからさまに驚いた態度の二人。それからわたしのほうをおずおずと見詰め、次に二人で顔を見合わせました。
「……どうする? いい加減に手に負えないぞ?」
「いやねぇ陰気っぽくて。どうにかならないのかしら?」
「おれがまた遊び相手になろうか」
子供がけらけらと笑います。
「ちょっと待ってくれ」
おじさんが立ち上がり、受話器を手に取りました。それから偉くへりくだった声で数分間、言葉を交わすと、次第にその声は明るいものへとなっていきました。
受話器を置いて、おじさんはおばさんのほうに微笑みます。
「引き取り手が見付かったらしい」
おばさんは手を叩きました。
「良かったっ! これでこの子も、しかるべき里親から愛情を受けて育っていくことができるのね。ねぇあなた」
おばさんがわたしの肩を叩いて見せて
「これからちゃんと優しいママとパパができるわよ。良かったね」
息子が残念そうに舌打ちをしたのが聞こえました。
過去に戻る方法を探して、3248の車を探して町を歩き回って。頭の中でずっと数字を唱えて、そうしていないと怖くて仕方がなくて。
ふと数字が途切れると。わたしは男の人にされた言いようのない仕打ちが頭をもたげました。途端に、全身をアブラムシが這い回るような嫌悪感にかられ、そのたびに洗い場に飛び込んでは全身に布をこすり付けました。
体のどこか、奥深くの絶対に触れられてはならないところを、とてつもなく乱暴に汚されたような、そんな気がしました。
今にして思えば。きっと致命的なことはされていないでしょう。幼いわたしに、彼もそこまではできなかったはすです。しかしわたしはとんでもなくおぞましいものを見ました。それはわたしの体の上をあちこちはいまわりました。次第にわたしは、その時のことを思い出すたびに衝かれたように体を洗うようになりました。
「聞いてはいたが」
次の里親は溜息がちに
「少々塞ぎこんでいる程度なら別に良かった。それくらいのほうが愛情の注ぎ方もあるというもの。しかしこれだと、あまりにも病的ではないか」
その奥さんは肩をすくめて
「だから言ったでしょう。もっとふつうの子を引き取るべきだったんですよ」
「おまえもそう思うか?」
「ええ」
いくつもの家の子供になりました。
優しい人、ぞんざいな人、暴力を振るう人。色々でした。その全てを覚えていられないほど。
本当はほとんど全員のことを覚えていないのです。わたしにはあまり興味もないことでした。自分に愛情を与えないものであることは間違いありませんでしたし、まことの幸せを与えてくれるあの暖かい家でないのなら、どこも同じようなものでしたから。
わたしの日課は、過去に戻る方法を探して試行錯誤すること。
逆さまに歩いている内は、自分があの頃から遠ざからないということに気付きました。それどころか、そうすることで時間を巻き戻して少しずつあの頃に戻れるんじゃないかと、そんな風にさえ妄想しました。わたしは逆さまに町中を歩き回り、そうすることで3248のナンバーに出会えることを渇望しました。
「もうダメだ。面倒を見切れない」
ある男性が言いました。
「とは言え。もう引き取ってくれる人なんていないわよ」
「病院だ」
男性は溜息がちに
「病院にぶちこもう。今の時代、おかしな子供は全部医者が面倒を見てくれる」
わたしは男性に連れられて、真っ白い建物の前にいました。
靴紐はまだ結べないまま。ぐちゃぐちゃにして靴の上に乗っけたままにしていました。逆さ歩きで、それにつまずいて何度も転びました。
自分は両親がいないと何もできず、どんな場所でも一人塞ぎこんでおびえていることしかできず。
自分の居場所はどこにもなく。だから目の前の白い建物にも、何の期待もありませんでした。
看護士さんに手を引かれ、病院の中に入っていきます。今日からあなたはここに入院するのよ、そう言われ、うなずくことも意味を理解するこもせず、ただ口を結んで漠然として
足を引き摺って歩いていると、後ろから指差すような声が聞こえてきたのです。
「おまえ。靴紐むすべてねーぞ」
腕白な少年の声でした。
驚くほど済んだ眼をしていました。病院の子供とは思えないほど元気な声で、しかし信じられないほど真っ白な肌と、痩せた体で。彼はわたしの足元に座り込むと、わたしの靴の紐を引っ張り上げました。
「おまえ。自分でむすべねーのか?」
わたしはどんよりとした目でそちらを見やります。
「どうした? 元気ないのか? 元気出せよ。おれが結び方を教えてやるからさ」
と言って、少年はわたしの靴紐を結び始めました。
たどたどしい手つきで、それはどう見ても覚えたてといった具合で。しかし彼は一生懸命、わたしを喜ばせようと靴紐を結んでくれました。わたしはされるがままで、立ちっぱなしで、しかし頭の中では両親のことを思い出していました。
足元でわたしの靴を覗き込む暖かい体温。
結び終わった後わたしを見詰める優しいその顔。
「かたっぽ、終わった」
男の子は腕白な顔でわたしのほうを見上げ、得意そうな顔をします。
「おまえもちゃんと結べるようになれよ……って」
男の子はぎょっとしたような顔をします。
わたしはうずくまって泣いていました。
「お。おいどうしたんだ? 悲しいのか? い、いやなのか? どうしたんだ?」
看護士さんが駆け寄ってきます。わたしは首を振りました。首を振って、少年の方を向きました。少年は戸惑ったような顔をして、おろおろとした視線をこちらに向けています。わたしはその少年に向けて、今まで誰かに訊きたくてどうしても聞けなかったことを言いました。
「……ひものむすびかた。教えて」
少年は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべてから、ぐっと拳を握り締めます。
「おうっ。分かった」
頼もしい声で笑いました。
わたしと少年は二人、その場にしゃがみこんでわたしのもうかたっぽうの靴紐を操ります。ここはこう、こっちはこう……少年は不器用な声でわたしに靴紐の結び方を指南しました。
やがて自分でそれができるようになると、わたしは笑顔を浮かべていました。
それはもうずっと浮かべたことのない表情、感じたことのない感情。
ここでなら、今の自分なら、お父さんもお母さんもいなくても、暮らしていけるかもしれない。
そんな予感が心の中できらめいて、わたしは孤独な心細さからほんの少しだけ開放されました。
「おっ。笑った」
少年はわたしの顔を覗き込んで言いました。
「おまえ。笑うとかわいいな」
屈託のない笑み。
わたしは照れくさく顔を伏せました。それからそっと少年の手を掴んで、おずおずとこう尋ねます。
「君……ここの病院の人?」
「おうっ」
少年は胸を張って。
「これからよろしくな」
それから少年と手を繋いだわたしのもう片方の手を、看護士さんがそっと握り締めます。
三人で病室に向かう間中、わたしはしばらくぶりに前向きに歩いていました。
「ありゃ」
ふと目を覚ました時に見たのは、見慣れた真っ白の天井。
すっかり居ついていながらも、自分の居場所とは一度たりとも認めたことのなかった自分の病室。そのベッドの上で、十八歳になったわたしはぼんやりと目を覚ましました。
「……夢か」
さて。今のは何年前の出来事だったか。
真っ白の四角い檻の中で、わたしはやはり泣き叫び、不安を抱えていました。色んなことができるようになって、小さな少女ではなくなって、やがては病院の中にいる時間のほうが長くなって。それでもわたしの心細さと、過去を求める気持ちはなくなりませんでした。
記憶は常に漠然とし、認識は分裂し。自分のおかしさも両親のことも忘れ、ただ置いてきてしまった大切なものを見つけださなければと、そればかりに追われて奇行を繰り返していました。
あの少年のことが思い出されます。
壊れそうになっていた小さなわたしに勇気を与え、一時であっても前を向かせてくれた。あの少年。
腕白な彼は、今、どこに?
「起きたか?」
懐かしい声に、わたしはどきりとしてそちらを振り向きました。
病室のドアに、あの時の少年が立っています。当時と何も変わらない、強がった、しかし心配そうでおずおずとした表情でこちらを見ています。わたしは思わず飛び上がり、ベッドから体を起こして声をかけました。
「……先生?」
「落ち着いたか?」
先生はわたしの顔をまじまじと見詰めると、それからしばし安心するような息を吐いて
「良かった……いつもの能天気そうな顔に戻ってる」
「なっ」
能天気って。それはまた、無遠慮な
「君はそうやってぼんやりした顔をしているのがそれらしい。基本的に、君はおだやかで、少しぼーっとした子供だった。陰気な膜を押しやってしまえば、そうやって何の悩みもなさそうな本性が飛び出してくる」
「……失礼しますね」
「内の姉貴がやらかしたみたいだね」
先生は肩をすくめて言います。
「そうだ。まーちゃん先生は? わたし、あの人にケガさせて……」
「すぐに手当てがあったから大丈夫だ」
「でも……」
「心配なら向かうと良い。おれも一緒に行こう」
先生は言って、それからこちらに手を差し出しました。
わたしはその場を立ち上がり、そちらに向けて飛びつこうとします。しかし先生は開いた手を差し出して、こちらに向けて少しだけ真剣な様子で
「待て」
すがるような声で言いました。
「おれのところまでで良い。……おれがその手を掴んでやるまでで良いから、自分の足で、前向きに歩いて来れないか?」
一瞬、わたしは硬直して動けなくなりました。
前を向いて、歩く。先生のほうまで……。わたしは酷く戸惑いました。先生が何を言っているのか、その意味が図りかねていたのです。
「勇気を出すんだ」
先生は言います。
「君の後ろには、君の失ったものがある。だが、君がもしもおれのことを少しでも必要としてくれているなら、それは君が自身で前に進むことで行き着いたものだ」
ぎゅっと、先生は拳を握り締めて
「もう一度、その足でおれのところまで来れないか?」
「先生……」
「君がおれを前にしても、後ろ向きに過去を求めるというのなら。おれはそれでも良い。おれが一人で、君を追いかけていく。君はおれの患者だ。だけれど……」
強い口調で話す先生に、わたしは一つ、決意しました。
そっと、恐る恐る一歩を踏み出します。確かにそっちが前であることを何度も確かめて、まずは右足。次に左足。震えた足でほんの少し進むだけで、額からどっと汗が噴出します。
……やっぱり、自分の意思で前を向くのはとてもつらい。
前を向くこと、それ自体は難しくないのです。優しい誰かに先導されれば、どうにかそっちを付いていくことはできる。
それでもわたしの意志は常に過去を向いていました。それは断ち切ることができない、失うことのできない宝物の記憶。それを求めていないことには、わたしのちっぽけな魂はすぐに飲み込まれてしまいそうで。
「大丈夫だ」
先生は言います。
「おれと一緒にこっちに来よう。楽しいことはたくさんある。君を慕う人はたくさんいる。少し勇気を出せば良い。おれは必ずここにいる」
足の震えが収まりました。
わたしは手を握り、大きく足を動かします。途端に先生との距離が縮まります。そこからはもうほんの少し。わたしはすぐにそこまで歩ききり、立っている先生に向けて手を差し出します。
ぎゅっと。
頼もしいぬくもりがわたしの手を握り締めます。先生はわたしの手を引いて体を抱きしめると、わんぱくな少年時代のような声で尋ねました。
「もう靴紐は結べるな」
「当たり前です」
わたしはメモを介さずに言いました。
「先生は、やっぱりわたしの先生です」
「そうでありたいと」
先生は笑いました。
「君が一人で、前を向いて歩けるようになったとき、おれは医師であることをやめられる。そんな気がするよ。だがそれまでは、おれはずっと君の医者だ」
それからわたしの手を取って、部屋の扉を開けました。
「行こう」
「はい」
わたしたちは手を握り合って早足で歩き出します。
閉められた病室の扉の向こうでは、限りなく優しい笑みがわたしたちを見送っているように思えました。
「メモちゃんっ」
まーちゃん先生の診察室で、あーちゃんがわたしの胸に飛びつきました。
「心配したのよっ。心配したんだからね……もう」
熱心にこちらの胸に訴えかけてくるあーちゃんを、わたしはぎゅっと受け止めます。この小さくて、色んなことにがんじがらめになった愛らしいルームメイトの存在も、わたしがこの病院で手に入れたものの一つでした。わたしは途端にあーちゃんがいとおしく思えて、彼女の体温をその胸に抱きしめました。
「さっきはごめんなさいね」
まーちゃん先生が申し訳なさそうに
「ちょっと乱暴にしすぎちゃったわ。あなたを思ってのことだったの」
「わたしの方こそ、けがさせちゃって」
わたしはまーちゃん先生の頭の包帯を見ながら
「本当にごめんなさい。あの時はもう、何がなんだか分からなくって……」
「治療の上でのケガは全て医師の責任にある」
と、後ろで先生が偉そうな声で言いました。
「姉貴だって医者なんだから。それくらいのことはわきまえてる、よな?」
「……何が『よな?』ですか」
まーちゃん先生は唇の端をつりあげて
「その子のことが心配でたまらなかったくせに。もしかしてずっと部屋の中にいたの? ちょっと怪しいわよそれ」
「……ふん。主治医としては当然の行動だ」
「はいはい」
「あたしだって中にいたかったのよ。……だけれど、まーちゃん先生の話も聞かなくちゃト思って……。ねぇメモちゃん」
あーちゃんはすがるような目でこちらを見ました。
「メモちゃんはその……どうでも良いとおもっていたりするの?」
信じられないほど不安そうなその目に、わたしは思わずたじろぎました。
「どうでも良いって……どういうこと?」
「だから。その」
あーちゃんは心細そうに
「メモちゃんにとって……この病院の思い出とかは。全部なかったことにしてでも、ちっちゃな頃に戻りたいのかって。ちっちゃな頃に戻るためなら、この病院のこととかは全部どうでも良いのかって……それが」
「そんなことはありません」
わたしは強く否定しました。
「この病院で、あーちゃんと、先生と、みんなに出会えたことはわたしにとって大切な宝物です。それはとっても大事なもの、絶対に失いたくないもの。だからわたしは、がんばってそれを守ります。わたしが前を向けるとしたら、それはみんなとの思い出のお陰だと思うから」
脂汗を流しながら、わたしは勇気を持ってそういいきりました。あーちゃんはそれを聞いて、少し驚いたように、安心したように笑いました。
「すごいわね」
まーちゃん先生が感心したように
「メモを介さずにちゃんと話せてる。あっくん、何か魔法使ったの?」
「これが主治医の実力さ」
先生は得意げに微笑みました。
「生意気な……。まぁ良いわ。認めましょう。私もまだまだってことね」
先生は少しだけ、安心したように唇をつりあげて
「そのうち、二人ともが落ち着いたら外出許可あげるわ。外に出て、適当に遊んでいらっしゃい」
「え? 良いんですか?」
わたしは思わず尋ねました。まーちゃん先生はにっと微笑み、確約するようにうなずきました。
「あ。ずるい。それ、あたしも一緒に行くわ」
あーちゃんがそこで前に出ます。
「それが良いわね。口実、考えておかなくちゃ」
まーちゃん先生がくすくす笑います。わたしはそこで提案しました。
「まーちゃん先生もうまく有給取っといてくださいよ。わたしたちだけで外出ても、どうせ何もできずに公園でぼけっとするだけですから」
「そんな気がするな」
先生が得心したようにうなずきます。
「できるかしらね? ……まぁ良いでしょう。楽しみね」
これが実現するのがいつになるのか。今のわたしにはとうてい分かりません。何ヶ月になるか、何年になるか。
それでもわたしは自分なりに、勇気を出してがんばってみようかと思えたのでした。




