第六十四話 手帳
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日もピンク色の靴を履いて、お散歩に出かけました。腕には、お出かけ鞄を提げています。夜警さんが電車で買ってくれた『にこにこノート』を入れているのです。
通りを歩いていると、遠くの角に窓のない真っ白な建物が見えました。入り口の横には『本日休演』の垂れ幕が下がり、ピンクのペンギンさんがのんびり座っています。
その手前の角に、黒い服を着た人が立っていました。
胸のポケットに、真っ白なハンカチを挿しています。お顔がとても白くて綺麗な、シオンさんです。おわかれ会のときとは違って、その目には涙が溜まっていません。
脇の下には、黒っぽい革の手帳を挟んでいました。
「シオンさん、こんにちは!」
私が元気に手を振ると、シオンさんはいつものよく通るお声ではなく、静かな低い声で、
「こんにちは」
とだけ言って、小さく頷いてくれました。
「見て見て、私のノート」
私は鞄からにこにこノートを取り出して、表紙の押し型の笑顔を見せてあげました。
「お月見の絵を描いたの。宝物なの」
シオンさんは自分の手帳を手に取ると、表紙を、指の腹で一度だけそっとなでました。
文房具屋さんで見たどのノートよりも使い込まれていて、黒い表面に、薄い赤い筋がいくつも走っています。お日さまの光の加減で、細かい文字や地図の線みたいに一瞬だけ光りましたが、きっとたくさん使った傷なのでしょう。中を開くことはしません。
「お揃いみたい。ノート同士だね」
私が自分のノートを横に並べて、手帳の端っこに指先でちょんと触れると、指の腹に、しっとりとした細い溝の感触が残りました。革の奥から、トクン、と一度だけ温かい拍子のようなものが伝わってきます。
並べたにこにこノートの押し型の笑顔が、なんだかシオンさんの手帳の赤い筋と同じ方向へ、すこしだけ傾いて見えました。
「お揃いではないけどね」
シオンさんは、静かに言いました。
「でも、大事なのは同じだよ」
「一ページだけ、交換っこする?」
私が聞くと、シオンさんはにこにこして首を振り、「これは、自分用」と言って手帳を胸元へ引き寄せました。そのとき、わずかに湿った革の奥から、甘くて冷たい鉄のような匂いがふわっと立ちました。
私たちは並んで、同じ方向へ数歩だけ歩きました。
すれ違う街の人たちは、にこにこ笑いながら道を空けてくれますが、みんなの目はシオンさんではなく、胸元の手帳のほうばかりを見ています。シオンさんとすれ違ったあとにだけ、後ろで誰かの足がピタリと止まる気配がしました。
「おわかれ会のときより、静かだね」
「今日は仕事じゃないからね」
前を向いたまま短く返すシオンさんは、涙がないとちょっぴり大人に見えます。
そのとき、曲がり角の向こうから、大きな声が聞こえてきました。
首から白い番号札を提げた人が、道の真ん中で激しく暴れていました。見えない何かを振り払うように両腕をめちゃくちゃに振り回し、首のまわりを真っ赤にしています。ひゅう、ひゅう、と細い息を吐きながら、石畳の上に片方の靴を蹴り飛ばしました。なにか嫌な事があって、駄々をこねているのかもしれません。
街の人たちは輪を作らず、少し離れた場所から、にこにこしたまま黙ってその人を見ていました。
シオンさんの足が止まりました。
すっと息を吸うと、シオンさんの目に、公演のときと同じだけの澄んだ涙がたっぷりと溜まりました。それなのに、一滴もこぼれません。
シオンさんは、暴れている人のほうへ向き直りました。
「もう、大丈夫です」
静かな声が響き、一拍おいて。
あんなに激しく空を切っていた両腕が、糸が切れたようにだらりとぶら下がりました。番号の人の肩からすっと力が抜け、石畳の上へカクンと膝が折れます。
すると、遠巻きにしていた街の人たちが、にこにこしたお顔のまま寄り始めました。誰もお口も動かさないのに、みんなの足音がぴたりとひとつに揃っています。人が集まってできた輪の内側だけが、影が落ちたようにすっと暗くなりました。
シオンさんは私の肩にそっと手を添えました。指先が、びっくりするほど冷たいです。少し屈んだシオンさんの胸元から、白いハンカチの端がこぼれて、私の頬にさらりと触れました。
「行こうか」
私たちが角を曲がったすぐあと、背中の向こうから、たくさんの笑い声が聞こえました。それに重なって、ざらり、と重たい布を引きずるような低い音がします。
「みんな、優しくしてるね」
私が言うと、シオンさんは何も言わずに、一度だけ小さく頷きました。
静かな小道に入ると、シオンさんは立ち止まって手帳を開きました。
短い鉛筆を動かすと、カリ、カリ、という硬い音が、静かな石畳の道に短く響きました。一行だけ書いて、すぐに手帳を閉じます。
私からは文字の形は分かりませんでしたが、閉じたカバーの表面で、いま書いた行のあたりだけ赤い筋が少し濃く浮き上がって見えました。
「おメモ、大事なんだね。今日のお買い物の予定?」
シオンさんは肯定も否定もせず、胸のポケットのハンカチを指先で綺麗に整えました。目の中の涙は、もうすっかり薄くなっています。
「よいこは、そろそろおうちに帰ったほうがいいよ」
シオンさんが小さく手を振りました。私も手を振って別れると、シオンさんは『本日休演』の看板がある建物の方へは戻らず、別の暗い通りへと消えていきました。
おうちに帰ると、私はにこにこノートを棚の特等席へ戻しました。
指先には、あのしっとりと温かい革の感触が残っています。もう一度にこにこノートの表紙を触ってみると、真ん中の押し型の笑顔が、いつもより深く窪んでいる気がしました。
「シオンさんのノート、渋くてかっこよかったな。また表紙だけでも触らせてもらおう」
静かなお部屋に、窓の外の薄い桜色の光が差していました。
遠くの角のほうから、一度だけ、なにかを引きずる音が聞こえた気がしましたが、私の胸の奥は、いつまでもふわふわとあたたかいままでした。




