第五十八話 バス
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
この街を走っている『にこにこバス』は、行き先の表示に『さいしょ』とか『あっち』とか、いつも不思議な言葉が書いてあります。
どこへ着くのかよくわからないので、私は乗った事がないのです。
でも、今日停まっていたバスは、いつもと少し違いました。
お星さまや金色の飾りがたくさんついていて、とっても可愛いバスだったのです。
行き先は、『よいところ』と書いてありました。
『よいところ』って、いったいどんな素敵な場所なんだろう?
私が気になって近づいてみると、バス停には、首や手にお顔の形の鈴をつけたおにいさんやおねえさんたちが、ずらりと列を作って待っていました。
「あれ」に連れてもらって、みんなでお行儀よく順番を待っているのです。
なんだか楽しそうで、私は一緒に混ざってみることにしました。
プシューッ、と大きな音がして、バスの扉が開きます。
開いた扉の向こうからは、甘いシロップとお薬が混ざったような、病院に似た匂いがふわりとこぼれてきました。
バスは大きくて、乗るドアが二つあります。前の方の広いドアには『鈴のお客様』、後ろのドアには『住民・ご見学のお客様』と書いてありました。
前のほうが、景色もよく見えるかもしれません。私がそちらの列に並ぼうとすると、後ろのドアの中から声がしました。
「可愛らしいお嬢さん。あなたはこちらへいらっしゃいな」
ふかふかの綺麗なシートに座った上品なおばさまが、にこにこ笑いながら私に手招きをしてくれています。
私はお言葉に甘えて、後ろのドアから乗ることにしました。
「こんにちは。このバス、すごく可愛いですね。私、乗るの初めてなんです!」
私がぺこりとお辞儀をして隣に座ると、おばさまは綺麗な扇で口元を隠しながら、ふふっ、と笑いました。
「きっと気に入るはずよ。ここはね……とっても、眺めがいいの」
「ほんとだ! 歩いている時よりも高いところから街が見えて、すごくワクワクしますね」
私が喜んで窓の外を見ると、おばさまは前のドアのほうをじっと見つめながら、嬉しそうにコクリと頷いてくれました。
前のドアからは、鈴をつけた人たちが、「あれ」にぽんぽんと優しく背中を押してもらいながら、ぞろぞろと乗ってきました。
前のエリアには、ピンクにところどころ白い筋が混じった、いちごミルクみたいに可愛い座席が並んでいます。
乗ってきた人たちは座席を見て、ヒッと小さく息を呑みました。
まだ座れる場所がたくさんあるのに、誰ひとりとして座ろうとはしません。
みんなお座りしていられないくらい、そわそわしているみたいです。なんだか微笑ましいな、と思いました。
『発車します。危険ですので、お立ちのお客様は、車内の広告をご覧になるか、空いているお席へおかけください』
ピンポーン、と明るいアナウンスが流れ、バスがふわりと走り出しました。
車内のあちこちに、モデルさんの写真が載った広告が飾られています。
前のエリアの人たちは、手すりや吊り革につかまりながら、広告のほうを見て、「こんな……」と唇を震わせています。写真がとっても綺麗で、驚いたのかもしれません。
何人かの人たちが、広告から目を逸らして、窓の外の景色やお互いのお顔を見ようとした時でした。
その人たちは突然、「あっ……!」と小さな声をこぼして、近くの椅子に誘われたみたいにストン、ストン、とお座りをしたのです。
座席が、くちゃり……と深いため息のような音を立てて、その人たちの体を深く包み込みました。
腰をおろした人たちは、しばらくの間、首をカクカク揺らしていましたが、やがて目を開けたまま眠ってしまいました。
その様子を見た人たちは、ビクッ!と大きく体を震わせると、両手で吊り革をギュッと握りしめました。
「ひぐっ、あぁ……い、いやぁ……っ」
広告から目を離さないまま、みんなのお口から、震える声がこぼれ始めました。せっかくバスに乗ったのに、お友達が寝てしまったのが寂しいのだと思います。
「座ったおにいさんたち、お疲れだったのかな」
私が言うと、隣のおばさまはクスリと笑って、レースの手袋をした細い指先で、そっとご自分の頬に触れました。
「ええ。そういう方のための、お椅子なのですもの」
疲れた人がすぐにお昼寝できるように、みんなは椅子に座らず、立ったままでいるのでしょう。とっても優しい人ばかりです。
バスがガタガタと揺れるたび、広告をじっと見つめている人たちの鈴が、ちゃり、ちゃりと鳴ります。
お顔から汗を流しながら立っていたおにいさんが、プルプルと震える指先で、窓際のボタンを押しました。
ボタンがピカッと赤く光り、『ご利用、ありがとうございます』と、可愛い音声が流れます。
運転席の上の電光掲示板には、『ごゆっくりお楽しみください』という文字が流れていきました。
バスは止まることなく、外の停留所を元気に通り過ぎていきます。
直後、前のエリアから「わああっ!」という、大きな歓声が聞こえました。
きっとあのボタンは、運転手さんを応援するためのものだったのでしょう。
みんな、運転が続いているのがとても嬉しいみたいです。
窓の外を見ると、通り過ぎた停留所の前には、街の人たちがずらりと並んでいました。みんな、真っ白な歯がぜんぶ見えるくらい大きなお口を開けて、にこにことこちらに手を振っています。
きっと、このバスがとっても可愛いから、みんなでお見送りをしてくれているのですね。
私は窓の外の景色を、のんびりと眺めて過ごしました。
噴水広場や、立派なニュータウンの門、大きなお屋根のスマイル市役所が、車窓をゆっくりと流れていきます。観光旅行みたいで、とっても楽しい気分です。
ふと前のエリアを見ると、いつの間にか、お座りしている人たちの数が、ぐんと増えていました。
やがて、車窓の遠くに屋台街が見えてきたころ、アナウンスが鳴りました。
『住民・ご見学のお客様は、次が終点です。時計塔前です』
私とおばさま、後ろのドアから乗った街の人たちは、バスを降りました。
「『よいところ』って、時計塔のことだったんだな」
私が納得していると、プシューッ、と大きな音を立てて、後ろの扉が閉まりました。
窓の向こうには、立ったまま広告を見つめ続ける人たちと、座席で眠っている人たちが、前方のエリアにぎっしりと詰まっています。誰もこちらを見ようとはしません。
バスの行き先表示が、『とおく』に変わりました。
ふと運転席を見ると、大きな帽子をかぶった運転手さんの横顔が、ちらりと見えました。
おめめは影になって見えませんが、お口の端が大きくつり上がった、たまらなく嬉しそうな笑顔です。
とおくは、とても素敵な場所なのでしょう。
ガシャッ、と大きな音がして、可愛いバスの窓ガラスの裏側に、真っ黒な鉄の板がいっせいに下りました。中の人たちの姿が、ぜんぜん見えなくなってしまいます。
真っ暗になった車内から、ジリリリッ!と一度だけ、高い音が鳴ったのが聞こえました。
バスはそのまま、どこかへと静かに走り去っていきました。
「とおく、まで乗れるなんて、いいな」
遠ざかる風に混じって、甘いシロップとお薬の匂いが、鼻の先をふわりと撫でてくれます。
私は、すっかり見えなくなったバスのほうへ大きく手を振ってから、時計塔のベンチに向かって歩き出しました。




