第五十四話 じどうはんばいき
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日はお散歩の足をすこし伸ばしてみました。市役所の向こう側に、屋根が水色をした大きな建物が見えます。
壁にはもくもくした湯気の絵と、歯をぜんぶ見せた、大きなお顔が描いてありました。入り口の看板には、『にこにこスパ』と書いてあります。風に乗って、少し甘くて、ほんのり鉄のような香りのするお湯の匂いがしてきました。
自動ドアが開いて、ノワールおねえさんが出てきました。
今日もゆったりした黒いお洋服です。マジックショーの受付でお話ししたときよりも、ずっと肩の力が抜けているように見えました。いつも気にしてる時計も見ませんし、お腹を押さえたりもしていません。
「あ、ノワールおねえさん」
「……マシュマロちゃん。奇遇ね」
おねえさんがこちらを向くと、しっとりと濡れた黒い髪が、白い首すじに細く張りついていました。ほっぺたがほんのりピンク色で、なんだか、いつもよりずっと綺麗です。
「おねえさん、お湯、はいってきたの?」
「ええ。マリス様から招待チケットをいただいたの。あの人、こういう場所は苦手らしくて」
「そうなの? どうして?」
私が首を傾げると、おねえさんは少しだけ呆れたように笑いました。
「『優雅ではないから』ですって。……おかげで私は、広いお風呂で、思っていたよりゆっくり癒されたわ」
おねえさんは、すうっと細く、気持ちよさそうに息を吐きました。
建物の横に、大きな販売機が置かれています。
にこにこ笑う子どもたちの絵が並んでいますが、飲み物の見本はありません。ボタンは三つだけで、『げんき』『ふつう』『しずか』と、まるい字で書いてありました。
「今日の気分で選べるんだね」
わたしが『げんき』のボタンを押すと、おだやかなピアノの曲と、雑音の混じった声が流れます。
『みんな、お飲み物の時間ですよ』
紙コップがことん、と落ちて、機械の奥でゴリゴリッ!とお豆を挽くような音が始まりました。
『わあぁっ!』
機械の中から、とても元気で楽しそうな音声が流れます。かくれんぼで見つかったときみたいな声です。しばらくして、あたたかいお飲み物が、じゅわぁっと注がれました。
おねえさんは『しずか』を押しました。
奥で鈍い音がしましたが、声は出ません。とろりとしたものが、ゆっくり注がれます。取り出し口のカップは、湯気がたっていませんでした。
右側にある『しずか』のボタンの前には、街の人たちが短く列を作って並んでいました。お風呂上がりに飲むものなのかもしれません。
湯気が残る壁の前で、ふたりで並んで立ちます。
「ねっぷうのお部屋、おねえさんは入った? 前、わたしが入ったときは、あつくてすぐに出ちゃったの」
「私は、おはなのお湯にしたわ。すこしお湯がぷるぷるしていて、気持ちよかったわよ」
「お食事はした? お日さまプレートあった? 前ね、形がお日さまで、真ん中がとくん、とくんって動いて、とってもあたたかかったの」
「それは、今日は載ってなかったわね……おすすめメニューに出ていた『おこさまプレート』を食べたわ」
「へぇ、おねえさん、大人の人なのに子ども用のメニューにしたの? なんだかかわいいね」
私がにこにこして言うと、おねえさんはふっと目を細めました。
「……けっこう、量は多かったわよ。やわらかいところと、硬いところが混ざっていて、食べ応えがあったわ」
おねえさんは、カップの蓋をしたまま、飲み口から『しずか』を一口だけ含みました。
「……深い」
ぽつりと、おねえさんが言いました。
販売機の裏手で、白い大きな箱が、台車に乗せられて運ばれていきます。
裏の分厚い扉が開いて、ごとん、と重くて低い音がしました。すると、販売機に描かれていた子どもたちの絵が、一人だけ、くるりと向きを変えたのです。
おねえさんはそちらを見ません。新しいお飲み物の入れ替えが、とっても上手なのだな、と思います。
おねえさんが、『しずか』のカップを持ったまま歩き出しました。
角を曲がるときに、こちらへ小さく手を振って、向こうへ消えていきます。
私はおねえさんの後ろ姿を見ながら、さっきのチケットの話を思い出しました。
背が高くて燕尾服を着たマリスさんが、シルクハットを深くかぶったまま、この大きなお顔の看板の前で「ここは優雅ではない」と肩を落としているところを想像したら、なんだかおかしくて、ふふ、と声が出てしまいます。
私のカップの蓋の小さな穴から、甘い湯気が少しだけ出ています。カップの中身は、よく見えません。それでも、まるでさっきまでお外を走り回っていたみたいに、手のひらに温もりが伝わってくるのです。
「おいしいといいな」
私はにっこり微笑んで、あたたかいカップを両手でたいせつに包み込みました。




