第四十九話 新しいおうち
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
職員さんが、胸のあたりで重たそうな鍵の束をカチャカチャさせています。番号のふられたお家の前です。
表札は、まだ空っぽ。このお家の窓だけ中が白くて、家族の形が見えません。お隣の窓際には、にこにこ笑顔の人たちが、同じ向きのままぴったりくっついています。
ヒナちゃんは袋を持ったまま、杖で玄関の段をト、と叩きました。
鍵が回ります。ドアの向こうで、小さい音がしました。
職員さんが先に入って、にっこり微笑みます。
「どうぞ。内覧です。こちらが玄関です」
鍵は、まだ職員さんの手の中です。
「こちらがリビングです」
お部屋の真ん中にはテーブルがありました。椅子が三つ。クッションに三人分のへこみがあります。へこみだけ、ほかより少しあたたかくて、スーパーマーケットのお肉のコーナーと同じ、ほんのり甘い匂いがします。
テーブルに食器が四つ。いちばん端のひとつだけ、私の手にちょうど入りそうな大きさです。
棚の上に、名前のないにこにこ証明が置いてあります。日付はありません。
壁には大きな絵が飾られていました。おうちの前に、仲の良さそうな四人のご家族。三人は、お口を大きく開けてにこにこ笑顔です。四人目の人だけ、お顔が黒いクレヨンでぐしゃぐしゃって塗られていて、よく分かりません。絵の下には、丸っこい字で『しあわせ』と書いてあります。
「わあ、素敵なリビング!」
ヒナちゃんは壁を、杖の先でコン、と叩きます。
「……誰か来る前の家、みたいですね」
だれもいないのに、天井から声が落ちてきました。
「おかえりなさい」
スーパーの『いらっしゃいませ』と同じ、きっちりとした声です。
ヒナちゃんの杖が、ピクリと止まります。
「……今の、中から声だけ聞こえました」
「お出迎えしてくれてるのかな。やさしいお家だね」
職員さんが、椅子のほうへ手を向けました。
「では、お座りください」
椅子が、すーっと寄ってきます。四つ目の食器の前が、空きました。座ったら、このお家の人になれるのでしょう。
ヒナちゃんが、床を強くト、と叩きました。
「ここ、誰かの形が残ってます」
指先が、あたたかいへこみの縁に触れています。腰かける様子はありません。
寄っていた椅子が、すうっと元の場所へ戻ります。
天井の声が一度切れて、「お待ちください」になりました。待っている相手は、このお部屋の中にはいません。
「他もご案内します」
職員さんが先に廊下へ出ます。リビングを出たあと、私たちの後ろのほうで、クッションがもぞもぞと沈むような音がしました。
「こどもべや」と書かれた扉の向こうから、楽しそうな笑い声だけが聞こえてきます。
私たちが扉の前を通り過ぎると、声はぴたりと止まりました。
「こちらが浴室です」
おふろの鏡は、ピンク色の湯気で曇っています。ヒナちゃんの顔は映りません。私の顔だけが、小さくかすれて見えました。湯気の奥に、人影のようなものが三つ、ゆらゆら揺れています。
ヒナちゃんは鏡の前では止まらず、袋の紐をきゅっと握り直しました。
おふろを出ると、蛇口が止まる音のあと、なにかをずるずると引きずるような音が続きました。
職員さんが、入口のほうを向きます。
「内覧は、こちらで終了です」
先にお外へ出ていきました。
私たちが出たあと、ドアの向こうから、ずるり……と、何かがゆっくり這うような音がしました。お家が、静かにお留守番の準備をしているみたいです。
鍵が、内側から回る音がしました。
「このお家は、空き家、なのですか?」
職員さんは答えません。にこにこのまま、鍵の束を胸元へしまいます。ヒナちゃんの手には渡りません。
表札を見ると、ヒナちゃんの名前が、うっすらと書かれていました。
職員さんが、ヒナちゃんのねずみ色の羽根を外して、新しい白い羽根を胸につけてくれます。前より少し小さい羽根です。
「これで住所の登録は完了です。お疲れ様でした」
「住所、もらえたんだね。ヒナちゃん、すごい!」
私はにっこりして、ヒナちゃんの袖をそっと引きました。
「これで、スーパーマーケットでおやつ買えるね!」
ヒナちゃんが、ドアノブに手をかけました。回してもカチリと鳴るだけで、動きません。ヒナちゃんは、じっとドアを見つめたまま、黙っています。
きっと、自分のお家ができたのが嬉しくて、すっかり夢中になっているのでしょう。
ヒナちゃんの横で、職員さんが笑顔のまま言いました。
「ご住所、おめでとうございます」
お隣の窓の三人は、まだ同じ向きで外を見ています。
「今度、遊びに来てもいい?」
私が聞くと、ヒナちゃんはお家のほうへお顔を向けたまま、小さく頷いてくれました。なにも言ってくれません。胸がいっぱいでおしゃべりできないのかもしれません。
袋の底で、『精算不能』の紙がカサリとすれました。
耳の奥に、重い鍵の音だけが残っています。
「おかえりなさい」は、外ではもう聞こえません。
私が半歩踏み出すと、足元の石畳の隙間から、小さく『くちゅ』と音がしました。道も、新しいお友達が増えて喜んでくれているみたいです。
私はヒナちゃんに手を振ってから、ふかふかの道を、自分のおうちのほうへ歩きはじめました。




