第三十八話 お向かいさん
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
お部屋の窓を開けると、お向かいの建物のカーテンが大きく開いているのが見えました。
二階の窓に、おばさんが立っています。手に大きな包丁を持ったまま、こちらへゆっくり振ってくれます。私も両手を振り返すと、おばさんの口が小さく動きました。声は聞こえないけれど、おはよう、と言ってくれているみたいです。
おばさんの姿が、家の奥へと消えました。
ふと石畳を見ると、赤く濡れた紙が一枚、いつのまにか落ちています。
私は玄関を出て、それを拾い上げました。
端がぎゅっと強く握られたようにくしゃくしゃで、まだ誰かの手の温もりが残っています。線の崩れた、見た事のない文字が並んでいました。
『 Please get me out. She’s coming! 』
意味は分かりませんが、音符みたいに跳ねているので、きっと何かのお歌なのでしょう。おばさんの家の窓から落ちたのだと思います。こういう時、きちんとお届けするのが良い子なのです。
呼び鈴を押すと、ドアが細く開きました。
包丁の先が、胸の高さに出てきます。おばさんの目が、私の顔を見て、ふわりと緩みました。
「マシュマロちゃんだったのね。いま、お片付けするから、少し待ってて」
隙間が閉じると、重いものをずるずる引く音と、階段を一段ずつ、ごとん、ごとんと落ちていく鈍い音が、下のほうへ向かって行きました。
地下室になにか運んでいるみたいです。
二階で、ガチャガチャ、と鎖が強く張るような音が鳴りました。
誰かが遊んでいるのでしょう。
しばらくして、おばさんがにこにこ笑顔でドアを開けてくれました。
「さあ、上がって。今日はあなたが来てくれて嬉しいわ。一人きりだと、少し寂しいのよね」
おばさんは包丁を持ったまま、どうぞ、と体を横にずらしました。
通路の壁の低いところに、細い傷跡がいくつもついています。
廊下の床は、濡れた筋が、奥の扉の前まで続いていました。床をお掃除している途中でお邪魔してしまったのかもしれません。
お招きしてもらったお茶の間は、甘い匂いでいっぱいでした。窓から光が入って、とても明るいのです。
向かい合った椅子が二つあって、どちらにも胸と脚の位置にピンク色のベルトがついています。金具のところが何度も擦れたみたいに、銀色に光っていました。
胸のベルトに、可愛らしい刺繍で名前が縫ってあります。
『ベティーちゃん』『プチちゃん』。
糸のところが、少し赤くにじんでいて、すごくおしゃれです。
座るところには、小さな穴がびっしりと並んでいて、奥が細く光って見えました。穴のまわりだけ、少し黒ずんでツヤツヤしています。
真ん中がやわらかくへこんで、誰かが座っていたみたいにほんのり温かいのです。端に赤い塊がついていました。いちごジャムをこぼしてしまったのでしょう。
私には小さい椅子が差し出されました。名前も、穴も、ついていません。座ると、ふかふかで気持ちいいのです。
テーブルには、カップが二つ置いてありました。名前のついた椅子の前です。フチの部分が薄く色づいていて、底に、小さな粒が沈んでいます。おばさんは、戸棚から綺麗なカップを一つ出して、熱いお茶を注いでくれました。とても甘い香りです。
向かいの小皿には、薄くて白い布がかかっていました。中央がぽこりと丸く持ち上がっていて、端のほうへ、うっすらと赤い染みがゆっくり広がっていくところでした。
おばさんは、包丁を持っていないほうの手で、『ベティーちゃん』と刺繍されたベルトを、胸の高さにぴたりと止めます。そのまま、字のところに頬を寄せました。
「ベティーちゃん、そろそろ新しいお友達と遊びたい頃かしら」
私は甘いお茶を飲みながら、その椅子のほうを見ました。
誰も座っていません。お返事もありません。
来てくれたら、きっとお友達になれると思います。
「おばさん、これ、家の前に落ちてたよ」
拾った濡れた紙を渡します。おばさんは包丁を左手に持ち替えて、字を目で追いました。目が、一度だけ止まります。
優しい目元が、すっと細くなりました。
「……ふーん。誰が書いたのかしら」
ややあって、にこにこが戻ります。
「届けてくれてありがとう、マシュマロちゃん。あなたは本当に、とっても良い子ね」
おばさんが読めたみたいで、よかったです。
紙は、引き出しの奥へしまわれました。そのあと、顔が、二階の天井のほうへ、一度だけ向きます。上の階から、鎖の音がじゃらりと短く聞こえました。
おばさんはにこにこしながら、私のカップにお茶を足してくれました。
小皿の上の赤い染みは、さっきよりひと回り大きくなって、白い布の端まで届きそうです。
「ちょっと待っていてね」
おばさんは包丁を持ったまま、布のかかった小皿と、ぬるいカップを一つだけ持って、階段を下へ降りていきます。
しばらくして、下から、くぐもった声が聞こえてきました。一生懸命に何か言っているみたいです。
そのあと、コトッ、と硬いものが当たる小さな音がして、静かになりました。
私が良い子で待っていると、おばさんが地下室から戻ってきました。
小皿は空っぽで、かけられていた布もありません。刃の根元に、少しだけ赤いものがついていました。
窓の外を、おばさんがちらりと見ました。包丁を持ったまま、お外へ向かって足が半歩出ます。刃の先が、ガラスに当たって、カツンと小さく鳴りました。ハッとしたように、私のほうへ向き直ります。
「今は、大切なお客さんがいるものね。よそ見をしては駄目ね」
お外を、だれかお知り合いが歩いていたのかもしれません。にこにこしたまま、カップを下げます。お茶会、終わりなんだな、と思います。
「おうちがある子は、今日はここまで。気をつけて帰るのよ。おばさんは、これから少し、用事があるの」
甘い匂いの通路を、一緒に歩きます。奥の扉の前まで続いていた濡れた筋は、ちょっと黒みが増して、踏むと靴の裏にくちゅっと吸い付きました。
玄関まで来ると、おばさんの目が、二階のほうへ動きました。すぐ、私を見て、にこにこしてくれます。
「またいつでも、お話ししに来てね」
小さく手を振ってくれます。私も両手を振ってから、お外へと出ました。
おうちに帰って窓を開けると、お向かいの二階の窓が大きく開いていました。おばさんが、濡れた雑巾で手すりをぴかぴかに拭いています。赤いところが、水で薄く伸びて、手すりの端から石畳へぽたぽたと落ちていました。
部屋の奥に、鎖が細く伸びています。先が、白い布の大きな盛り上がりの下へと吸い込まれて消えていました。すぐそばの床に、包丁が置かれています。刃の根元だけ、少し色がついていました。
私に気づいて、にこにこ手を振ってくれました。私も振り返します。おばさんに、あのお歌の紙を届けてあげられて、本当によかったです。
どんなお歌だったのかな。
紙に並んでいたでこぼこした文字の形を思い出しながら、「ふふふん」と適当な節をつけて、ご機嫌に口ずさんでみました。きっと、とっても楽しいお歌です。にっこりして、カーテンを閉じました。二階の窓は、まだ開いたままでした。




