第三十四話 ノワールさん
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
噴水広場を抜け、ほほえみクリニックの少し先まで歩くと、黒いテントが見えました。布は古びていて、少しだけ艶があります。甘い匂いと、ほんのり鉄のような香り。入り口の看板には、優雅な金色の文字で『至福のマジックショー』と書かれていました。
受付の前でおねえさんが時計を何度も見ています。黒いドレスの裾が、不安そうに小さく揺れていました。
「マリス様、まだ……」
舞台袖では、黒いタキシードの男の人が、大きな鉄の箱の前で止まっていました。背中には、赤と金のドレスを着た女の人が寄り添っています。レオンさんとクレアさんです。いつもは息がぴったりなのに、今日はあまり元気がありません。マリスさんがいないと、始められないみたいです。箱の中から、ごく小さく、カタカタと音が聞こえました。
「えーと、受付のおねえさん、ですよね」
おねえさんはハッとして、こちらを見ます。姿勢を正して、息を吸いました。
「至福のマジックショーで受付をしております、ノワールといいます。よろしくね、金色メダルの特別なお客様」
「よろしくお願いします。私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています」
「素敵なお名前ですね……って、ごめんなさい、時間がないんです!」
急いでいるのに、きちんと自己紹介してくれました。とっても良い人です。
けれど目線は、すぐに時計のほうへ行ってしまいます。
「おねえさん、困ってるの?」
「マリス様が来ないんです。いつもギリギリだけど、そろそろお客様が来ちゃうのに。
もう私が探しにいこうかと……」
私は少しだけ考えてから、言いました。留守番なら、できる気がします。
「それなら、お留守、していましょうか?」
ノワールおねえさんの顔が、一瞬だけ硬直しました。首を、小さく横に振ります。
「それは……ありがたい提案ですけど。
留守番でしたら、うちの……」
すがるような目で、舞台袖に視線を移します。
レオンさんは箱の前から動きません。クレアさんの手も、男の人の腰に付いたままです。おねえさんは、ごくり、と唾を飲みました。
ドレスの裾を、一度だけ整えます。
それから、私の顔を見ました。
なんだか、大切な事を決めたみたいな表情です。
「……一人で待たせるわけにも。私、マリス様を探しにいきます。ついてきてくれますか?」
「うん。もちろん」
ついていくと、歩幅が私より少し速くて、時々足を止めて待ってくれました。待ってくれている間も、時計を見ています。それでも、声は丁寧なままです。やっぱり良い人だな、と思います。
「この前、前髪が目にかかって邪魔そうでした。髪を切りに行ったのかも。マリス様、見た目にはうるさいんです」
「美容院なら、通りを一本入ったところにあるよ」
少し歩くと、『ハッピー美容院』が見えてきました。
白い小さな看板に、はさみと笑顔の絵。
窓のカーテンも白いです。窓際に、きれいに刈られたモデルさんの頭が、いくつも並んでいました。前髪が揃っていて、とてもおしゃれです。
中からはさみのパチンという音と、お湯の音がします。
「いらっしゃいませ。カット、ですか」
「人を探してるんです。シルクハットをかぶった……」
「今日は来てませんよ。待合なら、どうぞ」
店の中は、椅子がふたつに分かれていました。窓側はふかふかで、街の人が気持ちよさそうに目を細めています。奥の列は、座面が低くて、ケープが重そうです。よいこの席と、しっかり切ってもらう席なのかもしれません。
壁に、カット見本が三枚あります。
『みじかめ』『ながめ』『ぜんぶ』。
みじかめは、てっぺんがすっきりしていて、風通しがよさそうです。ながめは、目の下まですっきり。ぜんぶの枠だけ、写真がありません。
ケープを掛けられた人たちが、鏡の前に並んでいました。首のうしろの布が、ぐっしょり濡れて重そうです。
「どのくらい落としますか」
奥の椅子の人が、答えられずにいます。お店の人が、やさしく首を傾げました。
「では、当店のおすすめでいきますね」
はさみの先が、みじかめの見本のほうを指しました。
床には、色の違うものがふわりと積もっています。髪にしては太いものや、短いものも混ざって、ほうきで掃くたびに排水のほうへ寄っていきました。
シャンプー台の窪みには、てっぺんのすっきりした人が、首をぴったり乗せています。お湯の中を、やわらかい灰色のものが、ほぐれながら流れていくのが見えました。
シルクハットはありません。燕尾服の男の人もいません。
「いない……髪のせいじゃないのね」
ノワールおねえさんは小さく舌打ちをして、また時計を見ました。
通りに出ると、パンが焼ける良い匂いがふわりと漂ってきます。
「お腹、空いたのかも。あの人、本番前に食事したがるから」
「じゃあパン屋さんかな?」
噴水通りを抜けると、『ふわふわパン屋さん』が見えてきます。
看板の、自分の顔をナイフで切り分けているパンさんが、今日もにこにこ笑っていました。お店のおじさんが、白いエプロン姿で迎えてくれます。
「マシュマロちゃん、いらっしゃい! 今日はお連れさんもいるんだね」
棚に並んだパンは、どれも切り口が綺麗に揃っていました。白っぽい芯から、温かい湯気が立っています。
奥の調理場からは、ドスン、と重い音や、すりおろすみたいな、ごりごりという音が聞こえてきました。今日はどんなパンを作っているんだろう、と思うと、なんだか嬉しい気持ちになります。
調理場の扉が、少し開きました。白いものが、床まで、すっと伸びてきます。先のほうが揃っていなくて、湯気の中で、ぴくぴくしていました。
すぐに「あれ」が扉の隙間から手を出して、それを優しく奥へ戻します。材料が、転がっちゃったのかもしれません。
扉が閉まるとき、中で短い声が一つ、湯気に混ざりました。ごりごり、が、また始まります。
「マリスさん、見なかった?」
「今日は来てないね。ほい、マシュマロちゃん。焼きたてだよ!」
「わぁ……ありがとうございます、おじさん」
袋のリボンが、風で揺れます。焼きたてパンの包みを、私はぎゅっと抱きしめました。
ノワールおねえさんはドレスの端を強く握りしめ、胃のあたりを一度ギュッと押さえました。店を出ると、歩幅が急に大きくなります。
時計をしきりに確認しては、小声で呟いています。
「中止なんて言えない。言えません……マリス様ったら、いつもいつも……お客様はもう、並んでるかもしれないのに。なんて言えば……」
途中で足がもつれましたが、それでも黒いテントへと向かって早足で進みます。
私は、おねえさんについていくのが、精一杯です。
テントに戻ると、ずれたオルゴールが、中から小さく漏れていました。時々、笑い声のような雑音が混じります。
袖では、レオンさんが相変わらず同じ箱の前に立っていました。クレアさんの手も腰に付いたままで、動いた様子がありません。
けれど、受付にはもう誰かが立っていました。
黒い燕尾服に、深々とかぶったシルクハット。マリスさんです。
金色のペンを持って、お客さんをすっと中へ通していました。優雅に笑って、席のほうを指さします。円形のステージのほうから、薄い煙が立ち上っていました。
マリスさんは顔を上げると、片目を細めました。
「ノワール。貴女にしては、珍しく遅刻ギリギリだね」
パチンとウインクしてみせます。ステッキの先でハットのつばをちょんと持ち上げると、すぐ次のお客さんのほうへ向き直りました。
ノワールおねえさんの口が一度ひらいて、そのまま閉じました。時計を見ます。開演まで、もうほんのわずかです。自分が受付を空けてしまっていたことに、今気づいたみたいでした。
「……マリス様、いつから、ここに」
マリスさんは答えの代わりに、また名簿をサラリと一枚めくりました。
舞台袖で、レオンさんの肩がすっと動きました。クレアさんも満面の笑顔で客席に手を振ります。箱の蓋が、一度だけ、中からカタリと小さく鳴りました。
「マリスさん、ちゃんと間に合う人だったね」
ノワールおねえさんは深い息を吐いて、受付の横に立ちました。ドレスの裾を整え、名簿をマリスさんの手から、失礼のない速さで受け取ります。
「マリス様……あなたって人は、本当に……!
あ、いらっしゃいませ。二列目、右手です。
ようこそ、至福のマジックショーへ!」
文句の途中で、次のお客さんを笑顔で迎えています。
優雅に書き込んでいたマリスさんと違い、ペンを滑らかに動かすたびに、名前と席を、一瞬で繋いでいくのです。
マリスさんはステッキを持ち直し、舞台のほうへ下がります。ウインクは、もうしません。受付は、おねえさんの場所に戻ったみたいです。
「マシュマロちゃん、特等席は、開けてありますよ。私からのお礼です」
ノワールおねえさんが、ちらりと目配せしてくれました。並んでいる人の数が、目に見えて減っていきます。もう、おねえさんは時計を気にしていません。
「ありがとうございます、おねえさん。
特等席、とっても楽しみ!」
私は絨毯の手前で、小さく手を振りました。間に合って、よかった。おねえさんも、マリスさんも、それぞれの場所にいます。
舞台袖で、レオンさんが鉄の箱を、ゆっくり中央へ運びます。背中のクレアさんが、満面の笑顔で手を振りました。箱の中から、くぐもった声と、内側を叩くような音。魔法の始まりなんだな、と思います。
ずれたオルゴールが、一段大きくなりました。笑い声のような雑音が、旋律に混ざります。
私は、これから始まるショーに胸をときめかせながら、赤い席のほうへ歩いていきました。




