第三十一話 図書館
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
昨日夢で聞いた『ただいま』が、まだ耳の奥に残っていました。
リビングでは、家族がいつもと同じ場所にいます。おとうさんは椅子、おかあさんは天井、おとうとは床の下。表面だけが、固まった飴みたいに滑らかです。
朝日が当たると、おとうさんのスーツも、おかあさんのワンピースも、きらきら光って見えました。
まるで絵本のページみたいで、ずっと眺めていたくなります。
「お気に入りの、あの本の事だね」
おとうさんは黒いスーツのまま、椅子から動きません。
「マシュマロちゃんが読むのを、聞きたいわ」
おかあさんも、白いワンピースの裾を、ゆっくり揺らしています。
ぜんぶ言い終えてから、私はにっこり笑いました。
「うん。『幸せな家族』。じゃあ、借りてきてあげますね。みんな、良い子で待ってて」
にこにこしているおとうさんの肩と、おかあさんの裾に軽く触れてから、私は玄関へと向かいました。
『みんなの図書館』は、市役所のすぐ隣にあります。
看板の下に、丸い字で『あなたの一冊と会える場所』と書いてありました。
入口までの花壇には、『ひまわり』と書かれた麻袋をかぶったお花が、等間隔に並んでいます。頭と、白くて太い茎。甘い匂いがして、とても落ち着きます。
入り口に、「しずかに」と書かれたポスターがあります。大きな指を、口の前に立てた絵です。
その横を、「あれ」に手を引かれた人たちが、一列になって入っていきました。鈴はついていません。たぶん、音が鳴るからでしょう。
代わりに、お口のところへ、ポスターと同じ絵の描かれた可愛いシールが貼ってあります。入館の印みたいです。
みんな、ほっぺが丸く膨らんでいました。
列のひとりが、足をずらします。
すると、シールの下が、急にもこもこ、大きく動きました。隣の人も、つられて肩をすくめます。
図書館は食べもの禁止なのに、お菓子を食べているのかもしれません。
館内は、とっても静かです。
本棚のあいだでは、街の人たちが黙って本を開いていました。みんな楽しそうな顔です。ページをめくる音だけが、小さくします。
カウンターの前は、列がふたつに分かれていました。
街の人たちは、本を持って並んでいます。
もう一方の列は、「あれ」に連れられた人たちです。
図書館のおばさんが、ほっぺの膨らんだ人たちに短い票を渡しては、奥へ軽く促します。票には、丸い字で『いますぐ』と書いてありました。
やっぱり、お菓子はだめなんだな、と思います。食べ終わるまで、ほかのお部屋へ行くのでしょう。
私を見ると、おばさんは票を出さず、穏やかに微笑みました。
「いらっしゃい、マシュマロちゃん」
とても頭が大きくて、レンズがいくつも並んだ眼鏡が、耳の後ろまでかかっています。笑顔のまま、レンズごとに、少しずつ違うところを見ているみたいです。
カウンターの紙、奥の列。図書館全部を一度に見るための眼鏡なんだな、と思います。
カウンターの上の両手は長くて、指先がとても平たいのです。本をたくさん触る人なのでしょう。
「児童コーナーは、あちらですよ」
おばさんに促されて、低い棚のほうへ歩いていきます。
途中の通路では、街の人たちが本を開いたまま、静かに立っていました。邪魔をしないように、そばを通ります。
児童コーナーの棚には、薄い絵本がたくさん並んでいます。背表紙を、一冊ずつ、そっとなぞりました。見慣れた題名で、手が止まります。
『幸せな家族』
両手を使って、棚から下ろします。表紙の家族の顔を、指で一度だけ撫でました。
好きなページを開きます。
お父さんは毎日、黒いスーツです。
お母さんは高いところが好きで、白いスカートのまま窓枠に立っていました。
小さな弟は、かくれんぼが大好きです。
そのページには、幸せそうに集まっている家族が描かれています。
「やっぱり、うちに、そっくり」
本を、胸の前で抱きしめるように持ちました。
棚の奥に、大きなガラス窓のついた部屋がありました。
プレートには目と耳の絵と、『視聴かくしつ』その横に、「しずかにお楽しみください」と書いてあります。
窓の外では、街の人たちが中を覗いています。私のおうちよりずっと壁が厚くて、ガラスも二枚重ねになっていました。
中は桜色の光です。
ふわふわした虹色のヘッドセットを、みんな頭につけています。大きな眼鏡と、耳あてがひとつになったみたいで、リボンまでついているのです。
ガラスのすぐ向こうでは、お兄さんが立ったまま、お口を大きく開けていました。胸だけが、上下しています。虹色のヘッドセットのフチが、ゆっくり赤くなっていきます。だんだん色が濃くなって、可愛い縁取りみたいです。
椅子に座っている人は、頭ががくりと落ちたまま、動きません。耳あてのフチも、同じように赤くなっていました。観ている途中で眠ってしまったのでしょう。みんな静かで、よいこです。
壁の高いところに、丸いメーターがあります。文字盤には、可愛い字で『しずか』とだけ書いてありました。
中の人が口を大きく開けるたび、赤い針が右へ振れます。ガラスに耳を当てても、何も聞こえません。
「あの針は、感動の大きさなのかな。どんなお話を見てるんだろう?」
図書館のおばさんが、後ろから静かに言います。
「中には入れませんが、ごゆっくりどうぞ」
私は窓に額を近づけて、もう一度だけ見ました。
ヘッドセットをつけた人たちは、こちらを見ません。眼鏡の奥で、光がゆっくり回っている気がします。
列の住民の人が、小さく手を叩きました。
『幸せな家族』をカウンターに出すと、おばさんは表紙を指で撫でて、短く頷きました。
「あなたの一冊とめぐりあえて、幸せですね」
票を出さず、そのまま本を渡してくれました。私がお礼を言うと、おばさんは眼鏡の奥の目をぜんぶ細めて、優しく見送ってくれます。
本を両手で抱きしめながら、外に出ます。
花壇のひまわりが、来るときと同じ向きで、じっと立っていました。
おうちに帰ると、家族は同じ位置で待っていてくれました。甘い匂いが迎えてくれます。
「ただいま。約束どおり、借りてきましたよ。みんなで一緒に読もうね」
私はおとうさんの椅子の前に座って、絵本を開きました。
「お父さんは毎日、黒いスーツです。
お母さんは高いところが好きで、白いスカートのまま……」
おとうさんのネクタイを見て、天井のおかあさんを見上げます。絵と、よく似ています。おとうとは、床の下で静かなままです。
最後のページを開きます。
家の前に、女の子がひとり、後ろ向きで立っていました。両手で絵本を開いています。家の窓は明るいのに、中はよく見えません。玄関だけが、細く開いています。
『ただいま』
声に出して読みました。夢と同じ言葉です。
私は膝の上で、そっと本を閉じました。
胸がぽかぽかします。
「この本、借りてきてよかったな」
視聴覚室で、口を開けていたお兄さんのことが、ちらっと浮かびます。お話、好きなんだな、と思います。あの人も、いまごろ『ただいま』と言っているのかな。
窓の外は、薄い桜色です。
図書館で会えた一冊を、もう一度だけ撫でて、私はにっこりしました。




