第二十五話 温室
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日は、ヒナちゃんと待ち合わせて、「スマイルグリーンセンター」という施設へ遊びに行く日です。
大きな温室がある、とても素敵な場所なのだそうです。
朝からなんだかうきうきして、お気に入りのピンクのリボンをいつもより丁寧に結んでしまいました。
正門の前まで来ると、すでにヒナちゃんが待っていてくれました。
白い杖で地面をト、トと小さく叩きながら、入り口の位置を確かめているようです。
淡いベージュの髪をまとめようとしたのか、後ろで軽く結んであるのですが、片方だけ少し緩んで肩に落ちかかっていました。
「ヒナちゃん、先に着いてたんだ」
声のした方へゆっくりと顔を向けたヒナちゃんは、杖をぎゅっと握り直して、小さく頷きました。
「……はい。壁と石畳を、杖で確かめながら来ましたので……お待たせしなくて、ホッとしました」
声が小さくて、とっても丁寧です。
足元の段差を探るように、杖の先が慎重に動いていました。
そのとき、ヒナちゃんの胸元に、小さな白い羽根のバッジがついているのに気づきました。
「それ、可愛いね」
ヒナちゃんはバッジをそっと指先で撫でて、少し嬉しそうに口元を緩めました。
「……写生大会でマシュマロちゃんとお約束した後、市役所の人がつけてくれました。これをつけてから、街の人が、前より優しくしてくれるようになったんです」
「そうなんだ。すごく似合ってる!」
私はにっこり笑いました。
ヒナちゃんが喜んでいると、なんだか私まで嬉しくなってしまいます。
「今日はたくさん遊ぼうね。楽しみ!」
正門をくぐると、パッと視界がひらけて、開放的な広場が広がっていました。
麻袋を被ったお花がたくさん飾られていて、風が吹くたびに甘い匂いがふわりと運ばれてきます。
広場の突き当たりには、壁面を流れる大きな滝と、下から勢いよく噴き上がる水を組み合わせた、とても立派な噴水が設置されていました。
光を受けてキラキラと輝く噴水の色が、時々、あざやかな赤に変わるのです。
「ヒナちゃん、噴水の色、たまに赤くなるよ。とっても不思議!」
ヒナちゃんは杖の先を石畳につけて、静かに首を傾げました。
「……そういうのを、ライトアップと呼ぶらしいです。綺麗に見せるための、演出だと聞いたことがあります」
「そうなんだ。物知りだね!」
私は納得して、もう一度噴水を見上げます。
ライトアップされた水が、目の前で勢いよく上がりました。
奥のほうには、小さな電車や滑り台、可愛らしいお顔をした動物の遊具が見えました。
「ヒナちゃん、乗ってみない? あの電車、すごく可愛いよ! 園内を走るんだって!」
私がワクワクしながら指さすと、ヒナちゃんは小さく首を横に振りました。
「……私は、そういう遊びが、ちょっと……上手にできませんから」
声が小さくて、どこか寂しそうです。
風で揺れた前髪が目にかかりそうになって、彼女はそれをそっと手で払いました。
歩き出すと、石畳の小さな段差に差し掛かるたび、ヒナちゃんの足取りが探るようにわずかに遅れます。
楽しそうに走るお友達が急ぎ足で通り過ぎると、その風圧に少し驚いたように、彼女はキュッと小さく肩をすくめました。
私はヒナちゃんの歩調に合わせて隣を歩きながら、胸の奥が少しだけキュッと痛むのを感じました。
「じゃあ、いちばん素敵なお花のところに行こう!」
私はにっこり笑って、ヒナちゃんに届くように少し大きめの声で優しく言いました。
先に立ってゆっくりと温室のほうへ歩き始めると、後ろから、ト、ト……と、ヒナちゃんの杖の音がついてきました。
大きなガラス貼りの建物の前で、スタッフのおねえさんが待っていました。
緑色の制服を着ていて、とても大きな笑顔です。
よく見ると、耳の後ろから細い蔓が何本か、髪に沿って伸びていました。
話すたびに、喉の奥でごく小さく、くちゅ、という音が混ざります。
「ようこそ。温室の見学をお手伝いします。展示している植物には触れずに、ご覧ください」
おねえさんはそう言って、私たちを中へ案内してくれました。
ガラスの扉をくぐった瞬間、空気がふわりと温かくなります。
天井から、定期的にシューッと細いミストが降ってきて、お花たちの表面を濡らしていました。
濡れたところが、ぬるぬると光っています。
最初の区画は、色とりどりのお花が並ぶ展示エリアです。
写生大会に来ていた子たちより背が高くて、色も深みがあります。
麻袋の表面が、ところどころ柔らかく沈んでいて、赤い蜜がぽたぽた滴っていました。
根元や茎のあたりからは、透明な太い根っこが何本も伸びていて、中を赤や緑の液体がゆっくりと脈打つように流れています。
「綺麗……」
私は目を細めて眺めました。
少し離れたところでは、係の人が大きなハサミを手にしていました。
お花の端から黒ずんだ部分を、チョキン、チョキンと丁寧に切り落とし、小さなバケツに放っています。
切り口から、赤い雫がとろりと落ちました。
「お世話してもらって、お花さんも気持ちよさそう」
私は心がふんわり暖かくなりました。
次の区画に進むと、大きくて袋のような形をした植物がたくさん並んでいました。
半透明な緑色の袋の中に、水が溜まっていて、何か動くものがぷかぷか浮いています。
「わあ、大きくて可愛い! 中でなにかが水遊びしてるみたい!」
私は思わず顔を近づけました。
案内のおねえさんが穏やかに「少し離れてご覧くださいね」と声をかけます。
ヒナちゃんは杖の位置を変えずに、言いました。
「そういう植物がいるらしいですよ。落ちたものから、栄養をとると聞いたことがあります」
「そうなんだ! じゃあ美味しいものが落ちたんだね」
私の言葉に、ヒナちゃんは「……そう、なのでしょうね」と頷きました。
奥のほうへ進むと、大きなつぼみが一つ、背の高い植物の葉に半分隠れるようにしてありました。
葉の隙間から見える表面は、ゆっくりと、規則正しく上下に動いています。まだ開ききっていません。
「この子は、あと何日かすると咲くと思います。まだ栄養が足りないみたいですね」
おねえさんがそう言って、葉をそっとわきへ寄せてくれました。
つぼみの表面が、よりはっきりと見えます。
薄い膜のようなものが張っていて、その下で何かがゆっくりと動いているようです。
根元のあたりからは、太い管が何本も伸び、中を暗い色の液体がどくどくと流れていました。
ヒナちゃんが、急に杖の位置を変えました。
「……ここ、床が小さく動いています。ドクン、みたいな……脈打ってる感じ」
つぼみが、わずかに側面を膨らませたように見えました。
膜の下で、大きな何かがゆっくりと位置を変えて、つぼみの表面を内側から押すように動いています。
「早く咲くといいな」
私はそう呟きました。
おねえさんは穏やかな笑顔のまま、葉を元の位置に戻します。
ヒナちゃんは杖の先を床に押し当てたまま、しばらく動かずにいました。
見学を終えて温室の外に出ると、ガラスの向こうが少し曇って見えます。
その曇りの奥で、何かとても大きなものが動いていました。
しゅるしゅると細長く伸びたり、丸く縮んだりしています。
すぐに木の影に隠れてしまったので、何だったのかは分かりません。
髪や服に、まだ甘い香りが残っています。
「楽しかったね。また来られたら、いいな」
私が言うと、ヒナちゃんは口元をふわりと緩めました。
「……はい。ここ、素敵な場所ですね。マシュマロちゃんとお友達になれて、よかったです」
声は小さいけれど、とても嬉しそうです。
杖の先が、温室の前の石畳をト、ト、と小さく叩いています。
私はその音を聞きながら、ヒナちゃんの手をそっと取りました。
彼女の手のひらが、驚いたみたいにぴくっと跳ねて、それから優しく握り返してくれます。
今日は、一緒にいられて、とても楽しかった。なのに、胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったいような、物足りないような感じがします。
ヒナちゃんにも、この綺麗な景色がちゃんと見えたら。
可愛い音も、一緒に聞けたらいいのに。
そしたら、もっと楽しいのにな。
薄い桜色の空の下で、私はそう思いながら、ゆっくりと歩き出しました。




