第十九話 水族館
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日のお空は薄い桜色をしていて、綿あめみたいな雲が浮かんでいました。
時計塔の低い音が、いつものように街に響いています。
その音に混じって、甲高い鈴の音がいくつも重なって聞こえてきました。
チリン、チリン、チリン。
どこかで聞いたことのある音です。
気になって、音のする方へなにげなく足を向けました。
角を曲がると、大きな門が見えました。
門の前には黄色いバスが何台も並んでいて、鈴の音はそこから聞こえてきています。
門の向こうからは、誰かが熱く応援の声を張り上げているのが聞こえました。
「あ、学校だ」
校門のところに、カラフルなペンキで
「校外学習 すいぞくかんへいこう!」
と大きく書かれた横断幕が掲げられています。
「あれ」たちに背中を押されたり、手を引かれたりしながら、生徒さんたちが次々とバスへ乗り込んでいました。
手首や首についたお顔の形の鈴が、チリン、チリンと甲高い音を立てています。
足を止めたり、列から離れそうになる人がいると、鈴が揺れて綺麗な音を鳴らします。
するとその人は急に背筋をぴんと伸ばして、いそいそとバスの階段を上っていくのです。
「やあ、マシュマロちゃん。また来てくれたんだね」
声がした方を見ると、校長先生が足を少し引きずりながら、にこやかに歩いてきました。
「校長先生、こんにちは!
みんなでどこかへお出かけですか?」
「そうなんだよ。今日は、ついさっき入学したばかりの新入生たちの校外学習でね。水族館へ行くんだ。
マシュマロちゃんも乗っていくかい?」
「いいんですか!?
私、水族館って行ったことがないんです!」
思わず前のめりになってしまいました。
校長先生は嬉しそうに全身の皮を揺らしながら、私の手を優しく引いてくれます。
「もちろんだとも。さあ、こちらへおいで」
私はバスの1番前の席に案内されました。
窓の外がよく見えて、なんだか特別な席みたいです。
バスが動き出すと、車内には軽快な音楽が流れ始めました。
後ろの席の方からは、賑やかなおしゃべりが聞こえてきます。
「いやだ、助けて……」
「これ、何……? 動いてる……」
しばらくするとその声は止まり、ガタガタと椅子を震わせる音や、何かを飲み込むようなクチュクチュした音に変わっていきました。
振り返ると、生徒さんたちのお口に、白くて太いものがくねくねしながら入っていくところでした。
みんな、両手でしっかり持って、夢中で頬張っています。
「わあ……お菓子もらってる!
遠足のお楽しみなんだね」
私が目を輝かせて言うと、校長先生は穏やかな笑顔で頷いてくれました。
「元気で強い子になってもらいたいからね」
後ろの席では、食べ終わった人たちがまた、おしゃべりをはじめたみたいです。
「お腹の中で動いてる……」
「気持ち悪い……広がってる……」
くぐもった声が、音楽に混じって聞こえてきます。
「……乗り物酔い、しちゃったのかな?」
私は少し心配になりながら、シートに深く座り直して、窓の外を流れる景色を眺めました。
バスは、水族館に向かって、のんびりと走り続けます。
バスが停まったのは、大きな青い建物の前でした。
入り口はとても可愛らしくて、大きな魚のイラストや波の模様が壁いっぱいに描かれています。
頭の上には「スマイルアクアリウム」と書かれた看板が掲げられていて、ところどころに貝殻やヒトデの飾りがついていました。
「わあ……本物の水族館だ」
私は思わず声を上げました。
一般のお客さんが使う正面玄関ではなく、少し脇の方にある「校外学習受付」と書かれた入口から入ります。
「あれ」たちに手を引かれたり、背中を押してもらったりしながら、生徒さんたちは列を作って進んでいました。
鈴の音が、ひんやりした空気の中でチリン、チリンと小さく響きます。
館内は薄暗くて、青い光が床や壁を優しく照らしていました。
ところどころに「さかなのひみつ」「なにをたべるの?」といった子供向けの説明板が立っています。
通路は微妙に曲がりくねっていたり、天井の高さが場所によって急に変わったりしていて、なんだか夢の中にいるみたいな感じなのです。
最初の大きな水槽の前で、みんな足を止めました。
ガラスの全面に、大小さまざまな目がびっしりと並んでいます。
パチパチとまばたきをするもの、じっと動かないもの、あちこち別々の方向を向いているもの。
まるで水槽全体が、ひとつの大きな生き物のお顔みたいでした。
「わあ……お目めがいっぱい」
私が嬉しくなって顔を近づけると、その目たちが一斉に、ゆっくりとガラスから離れていきました。
距離が開いていくにつれて、それが一匹の、とっても大きな魚の体だったことがわかります。
頭の先から尾びれの端まで、びっしりと目が並んだ、不思議なお魚でした。
目をそれぞれ勝手な方向に向けてキョロキョロしながら、ゆったりと水槽の奥へ泳いでいきます。
「大きなお魚さんだ……。たくさんのお目めで、歓迎してくれてたんだね」
私が感心していると、校長先生も隣で頷きました。
「ここの子たちは、みんな特別なんだよ」
次の水槽に進むと、体が磨りガラスみたいに半透明のお魚が何匹も泳いでいました。
中の様子がぼんやりと透けて見えて、時々、内側でオレンジ色の何かがゆっくりと這うように動いているのがわかります。
ちょうどお給食の時間だったみたいです。
飼育員のお兄さんが大きなバケツを持って現れ、水槽の上から中身を元気に投げ込んでいきます。
バシャッと音を立てて水に落ちたのは、一口サイズにカットされた赤い塊です。
よく見ると、関節のある細いものや、綺麗な模様が残った塊が混ざっていました。
半透明のお魚たちが一斉に群がり、大きな口で次々と飲み込んでいきます。
塊が体内に入ると、形がどんどん崩れていくのが外から見えました。
お魚の内部で動いていたオレンジ色の何かが寄ってきて、崩れたものをさらに細かく解きほぐしていくようです。
赤い色が、半透明の体の中にじんわりと広がっていきます。
「わあ……食べやすそうにカットしてある!
お魚さんのこと、すごく考えてあるんだね」
私は目を輝かせてガラスに顔を近づけました。
校長先生は愉快そうに、首筋から肩にかけて皮膚をうねらせながら、お魚たちが集まっている様子を眺めていました。
餌やりが終わると、「あれ」たちが生徒さんたちの列を別の方向へ誘導し始めました。
壁に「こどもコーナー、この先」と書かれた、カラフルな看板が立っています。
入り口はアーチ型になっていて、虹色の飾りや、笑っているお魚の絵がいっぱい貼ってありました。
スピーカーからは楽しそうな音楽と、子供の声のようなものが流れています。
生徒さんたちは、そのアーチの下をくぐって、次々と中へ入っていきました。
何人かが後ろを振り返ったり、足を止めたりします。
お腹のあたりを押さえて、体をよじる人もいました。
開いたお口の奥で、太くて白いものが動いているのが見えた気がします。
でも鈴がチリンと鳴ると、また前を向いて、元気に足を進めていきました。
「こどもコーナー、なんだか楽しそう!
具合悪そうな生徒さんもいるけど、大丈夫かな……」
私がアーチを眺めている横で、校長先生は微笑んだまま、生徒さんを見送っています。
最後の一人が中へ消えると、校長先生はようやく私の方を向いて、穏やかに声をかけてくれました。
「マシュマロちゃん、先へ進もうか」
私たちは、生徒さんたちとは別の通路を、さらに奥へと進んでいきます。
後ろで、こどもコーナーの入り口が、重い音を立てて閉じられました。
「さて、ここからは特別なエリアだよ。
人魚さんのために作られた場所なんだ」
校長先生は胸元から重そうなキーカードを取り出し、分厚い扉のセンサーにかざしました。
カチリと音がして扉が開き、私たちはさらに奥の通路へ進みます。
人魚さん、という響きに、私は少し胸を躍らせました。
きっと、珍しい生き物なのでしょう。
通路の脇には、天井まで届く大きな円筒形の水槽が何本も並んでいます。
中には透き通った綺麗なお水がなみなみと注がれていますが、泳いでいるお魚の姿はありません。
代わりに、水底にボロボロになった布切れが沈んでいました。
細くて金色の鎖のようなものが、布に絡まったまま、かすかに揺れています。
布の端には、薄い模様や、赤く小さな跡が残っているものもありました。
「この水槽は、人魚さんに必要なものを入れてあるんだ」
校長先生が優しく教えてくれます。
「お水、透き通ってて綺麗……。
必要なのは、布なのかな?」
私はゆらゆらと揺れる布切れを見つめながら、そう思いました。
さらに進むと、頑丈そうな扉がありました。
下の隙間から、白い泡と、赤黒いお汁がゆっくりと溢れ出しています。
中からは、「あぐっ……」「ごぼっ……」という声に混じって、炭酸が弾けるようなシュワシュワした音が、絶え間なく聞こえてきました。
「校長先生、このドアの向こうは何ですか?」
「ああ、『泡』になりかけの子たちの部屋だよ。
お水にうまく慣れない人魚さんは、だんだん泡に変身しちゃうんだ」
「泡に……変身」
私はドアの隙間から溢れる白い泡をじっと見つめました。
難しい生き物だから、専用の場所を作ってあげているのでしょう。
通路の突き当たりにある、一番大きなドアを開けると、そこには幻想的な青い光に包まれた巨大な水槽がありました。
「これが、『人魚』さんだよ」
校長先生が誇らしげに言いました。
水槽の中を覗き込むと、とても大きな生き物が底の方にじっと沈んでいました。
目も鼻もなく、頭のあたりには深くて重いシワがいくつも寄っています。
体の表面はところどころが丸く盛り上がったり、たるんだりしていて、ふにゃふにゃとした感じです。
水底を這うように、重そうな体をくねらせて進んでいます。
大きな口がぱくぱくと開くたびに、ぶつぶつとした舌がちらりと覗いていました。
よく見ると、体の横から一本だけ、他とは違う細いヒレがひょろりと伸びています。
先端が五本に枝分かれしていて、その先で、ガラスをトントンと小さく叩いていました。
何か伝えようとしているみたいな、不思議なリズムです。
「すごい……! およぐのはあんまり好きじゃないのかな。ふにゃふにゃしてて可愛い!」
私が目を輝かせて水槽を見つめると、校長先生はぼそりと呟きました。
「人魚の肉を食べると命が伸びるとも言われていてね。とても貴重な生き物なのだよ」
「水族館って、本当に色々なお魚を保護しているんですね」
私は感心しながら、水底を滑るように動く巨大なお魚をしばらく眺めていました。
水族館の外に出ると、お空の薄い桜色が、ゆっくりと深い紫色へ変わっていく時間でした。
向こうから、大きな黒い箱を積んだ回収屋さんのトラックが、こちらに向かってゆっくりと走ってきます。
エンジンの低い音が、ひんやりとした夕方の空気の中に響いていました。
校長先生は穏やかなお顔でトラックを見つめています。ふくよかな皮膚が、夕暮れの光の中でゆっくりと波打っていました。
「帰ろうか、マシュマロちゃん」
校長先生が優しく声をかけてくれました。
私はもう一度だけ、水族館の青い建物を振り返ってから、先生の隣に並んで歩き出しました。
バスのドアが開くと、ぽかぽかとした温かい空気が溢れ出てきました。
後ろの座席はすっかり静かになっていて、もう誰も乗っていません。
みんな水族館での楽しいお勉強を続けてるんだなと思うと、なんだか少し羨ましくなりました。
校長先生と一緒に、一番前の席に座ります。
窓の外では、トラックがゆっくりと水族館の裏側へ回っていくのが見えました。
バスが静かに揺れ始めても、私はまだ、あの綺麗な青い水槽の前にいるみたいな気持ちでいました。
トントン、とガラスを叩いていた、あの細いヒレの先のことを、ぼんやりと思い出します。
「人魚さんのお肉、どんな味なのかな……」
そう呟いて、私はふかふかのシートに深く身を預けました。
静かになった車窓の外を、深い紫色の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていきました。




