特別編 害獣捕獲
シリーズの番外編です。
マシュマロ以外の視点で書かれた、「害獣さん」エピソードの後の話となります。
旧区画にある、なかば打ち捨てられた建物。
その二階で、一体の警官が止まっていた。
体躯は明らかに規格外で、まるで硬い殻を着込んだように厚く、歩くだけで床がわずかに沈む。
腰と背中からは、ピンク色の長い触手が何本も伸びていた。
表面には細かいトゲがびっしりと並び、時折、意思があるようにくねくねと収縮する。
隣に立つ一体の夜警は、存在感を完全に消していた。
闇に溶け込むような、艶のない黒いロングコート。
呼吸音すら立てていない。
視線だけが、暗い通路の先を捉えている。
「北東の部屋。刀と拳銃所持。単独行動」
警官の声は低かった。
トゲつきの触手が、ゆっくりと波打つ。
「本官が引き受ける。お前は手を出すな」
「お指図がお上手ですね、お警官さん」
夜警が、どこか愉しげに喉の奥で笑った。
二体は軽く牽制するように視線を交わし、別々に動き始めた。
部屋のドアが内側から開いた瞬間、銃声が響いた。
弾は警官の胸部に命中したが、殻のような体表で弾かれ、火花だけが散った。
警官は速度を落とさず、ドアを巨体で押し潰すように突入する。
部屋の中央で、刀を構えた男が立っていた。
捕獲目標——害獣だ。
人間としては鍛えられており、動きに無駄がない。
横に薙いだ刃が、警官の腕を削る。
何体もの夜警を切り捨ててきた斬撃。
しかし殻は深くは切れず、代わりに触手が反応した。
素早く伸びた触手が、刀を持った腕に絡みつく。
トゲが皮膚に食い込み、男の表情が歪んだ。力で振り払おうとするが、触手は収縮してさらに深く食い込む。
粘つく感触が腕を伝った。
「離せ! この化け物!」
男が拳銃を抜こうとした、その瞬間だった。
天井の闇が、ふわりと歪んだ。
影そのものが、滑るように降りてくる。
音はほとんどしなかった。
夜警の黒いコートが翻り、長い爪が一閃、男の拳銃を持とうとした手首を正確に抉った。
「——やあ、これはお強そうなお方ですね」
夜警が、上機嫌に、小さく歌い始めた。
高く、歪んだ歌声。
男が痛みに顔をしかめる間に、夜警はさらに一歩踏み込み、もう一方の爪で男の膝裏を切り裂く。
脚力が削がれ、男の姿勢が崩れた。
「本官の邪魔をするな、夜警」
警官が舌打ちじみた声を漏らす。
触手がさらに男の胴に巻き付き、トゲを食い込ませながら締め上げる。
夜警は構わず、男の崩れた体勢に合わせて爪を走らせ、刀を握る指の腱を切った。
刀が床に落ちる。
「お警察さんは、防衛がお仕事でしょう?
お掃除は、夜警のお仕事ですので」
夜警が、楽しげに言ってから、歌を続けた。
男はもう、ほとんど動けなかった。
刀も拳銃も、すでに床に落ちている。
喉から低く、呻き声が漏れた。
「やりすぎるな、夜警。目的は生け捕りだ」
警官が低い声で言った。
触手は、しかし収縮を止めない。
「そのお言葉、お警察さんにお返しします」
夜警が短く答える。
黒いコートの袖から、爪の先がわずかに覗いていた。
「本官は加減を知っている」
「お知りとは思えませんが」
二人の声は落ち着いていた。
だが、その言葉とは裏腹に、触手はきつく男の関節をねじり、夜警の爪は男の肩に深く食い込む。
男の目が、大きく見開かれた。
少し前までは、怒りがあった。
不条理な状況に対する敵意があった。
しかし今、それらは急速に別のものへ変わっていた。
自分の体が、まるで他人の所有物のように扱われている。
理解不能なものが、そこにあった。
戦っているようで、戦っていない。
子供のように、ただ張り合っているのだ。
他人の体を材料にして。
男の喉が小さく鳴った。
声にならない音だった。
数分後、回収班が到着した。
警官の触手が、男の体からゆっくりとほどかれていく。
離れるたびに、トゲが皮膚から剥がれる音がした。
夜警は落ちていた刀と拳銃を拾い上げ、何の感慨もなく回収袋に入れた。
歌声は、すでに止まっていた。
「思ったより楽しめないお相手でした」
夜警の言葉を聞き、警官の触手が蠢く。
「仕事に楽しさを求めるな」
夜警が肩をすくめ、ため息をついた。
拘束された害獣が移送用の車両に積み込まれるのを、二体は並んで見ていた。
男は最後まで、何かを言おうと口を動かしていたが、誰も応じなかった。
街の方から、微かに放送が聞こえてきた。
優しい女性の声だ。
内容までははっきりと届かない。
ただ、いつものように穏やかな抑揚が、夜の風に乗って届いてくる。
警官の触手が、その声に反応するように、ゆっくりと波を打った。
夜警は黒いロングコートの襟を、指先でわずかに直した。
移送車両の尾灯が、遠ざかっていく。
警官は巨体をわずかに傾け、夜警は闇に溶けるように視線を落とす。
放送は、まだ続いている。
優しい声が、この区画には届かない場所で、住民たちに何かを告げている。
二体はそれを聞きながら、互いに背を向け、歩き始めた。




