第十三話 害獣さん
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日は、なんだか朝から、街の空気が普段より重いのです。
いつもはふわふわと優しい桜色をしているお空が、少しだけ濁っているように見えます。風もほとんど動かなくて、遠くで時々、重いものを引っ張るような音が聞こえてくるのです。
私はリビングに行って、天井を見上げました。
おかあさんは今日も、楽しそうに揺れています。
白いワンピースの裾が、ふわふわと優しく揺れて、なんだかとても気持ちよさそうです。昨日より少し首が長くなったような気がしますが、それもおかあさんらしい、ゆったりとした感じがして素敵です。
「おかあさん、今日は街の雰囲気が、いつもと少し違う感じがするの」
そう話しかけると、天井から小さく「ぐちゅ……」という音が聞こえてきました。
「そうね……今日は少し特別な空気ね。
せっかくだし、マシュマロちゃんもその雰囲気を、楽しんでみたらどうかしら?」
言い終えてから私は、ぽん、と手を打ちました。
「ありがとうございます、おかあさん!
そういう考え方もあるのね!」
玄関の方へ行き、くるりと振り返って、天井に向かって小さく手を振りました。
「いってきますね、おかあさん」
それからピンクの靴を履いて、お散歩に出ました。
物音が少ないせいか、足音がいつもよりはっきり響きます。
街を行き交う人の姿も少なく、「あれ」の姿もほとんど見当たりませんでした。
代わりに、物陰や路地裏から、誰かの息遣いがたまに聞こえてきます。
建物の影や路地の奥から、こちらをそっと覗いているような気配を感じました。
普段よりたくさんの迷子の人たちが、かくれんぼで遊んでいるのでしょう。
道を歩いていると、警察さんの姿が目につきました。
紺色の制服を着た人たちが、街のあちこちを歩き回っています。
どの人も大きくて、とても肉厚な、立派な体つきです。
腰のあたりから、ピンク色でふにゃふにゃした長い紐が何本も下がっていて、先っぽに小さな突起が付いているのが見えました。
紐は時々、くねくねと動いています。
「今日は、警察さん、たくさんいるのね」
私は小さく首をかしげて、そう思いました。
そのとき、物陰から急に知らないお兄さんが飛び出してきました。
そばにいた街の人たちにぶつかっても、振りほどくようにして走り続けています。
「捕まってたまるか!」と、はしゃいだ声で叫んでいました。
お兄さんはそのまままっすぐ走ってきて、私の体に勢いよくぶつかってきました。
「どけ! 邪魔するな!」
「あっ……」
私は少しよろめいて、転びそうになりました。
その瞬間——
周囲にいた警察さんたちが、一斉にこちらを向きました。
さっきまでの、のんびりした動きが嘘みたいに消えています。
何人かが同時に体をひねり、びゅるっとお兄さんのほうに飛び出していきました。
大きな体が重なり合って、まるで壁みたいにぴったりとくっつき、お兄さんの姿がすっぽり隠れてしまいました。
囲みの中から、お兄さんの驚いたような声が漏れてきます。
警察さんたちの腰から、ピンク色の紐が、囲みの中にくねくねと入っていきます。
「……ぎぃあああっ……!」と歓声が上がったかと思うと、そのあと急に、ふにゃふにゃ〜と声が溶けていきました。
「あははぁ……きて……きてぇ……」
警察さんたちの囲みが、ゆっくりとほどけていきました。
お兄さんはその場にへたり込んで、ぱっちり開いた大きな目を、ぐるぐる回したり、うねうね動かしたりしています。
口をうっとりと開けながら、くりかえし
「きて……誰かきて……ここにいるよ……!」
声はどんどん大きくなっていきます。
座ったまま、両手を軽く広げて、周りの空気を触るみたいに動かしています。
頭を左右に振って、お友達に集まってもらおうと頑張ってお誘いしているみたいです。
私は少し離れたところから、じーっと見つめていました。
「……ふふ、カタツムリさんみたいで可愛い」
警察さんたちは、のんびり離れていきました。
ピンク色の紐は腰に戻って、ふにゃふにゃ揺れています。
お兄さんの呼びかけに、街の人たちが、にこにこ笑顔で集まってきました。
私はほっこりした気持ちで、その様子をしばらく見守っていました。
少し歩いたところで、道端に立っている警察さんたちが話しているのが聞こえました。
みんな背中を丸めて声をひそめ、周囲を何度も見回しています。
「……またやられた」
「……未熟な夜警を置くから……」
「……早期に発見しなければ……」
いつもと違って、警察さんたちが不機嫌そうです。
私は「なんか変だな……」と思い、そっとその場を離れました。
少し先の、建物の影になったところに、何か落ちているものがありました。
黒い布のようなもので、夜警さんたちが使っている手袋に似ています。
指の部分が大きく破れていて、中から白いものが少し覗いていました。
私は近づいて、そっと拾い上げてみました。
「誰か、落としちゃったのかな……」
思ったより重くて、湿った感触が残ります。
私はそれを元の場所に置いて、指をハンカチで拭いました。
その日の午後、街のスピーカーから放送が流れました。
「スマイル警察署からお知らせです。
昨夜、元気いっぱいの害獣さんが街の中に入ってきてしまいました。
警察と夜警が協力して、害獣さんの保護・回収活動を行います。
住民の皆様は、念のためお出かけをお控えください。
ご理解とご協力をお願いいたします」
放送は、いつもと同じ優しい女性の声で流れていました。
いつもより静かな街に、スピーカーの声だけが大きく響いています。
私は放送を聞いて、少し肩を落としました。
「えー……お散歩、だめなの?」
でも、良い子は言われたことは聞くものです。
私はしぶしぶ、家の方へ歩き始めました。
「マシュマロちゃん」
丁寧な声に振り返ると、いつの間にか、背の高い夜警さんが背後に立っていました。
市場で鈴を買ってくれた、あの方です。
黒いロングコートを着て、灰色の目を細めています。
今日は少しだけ、笑顔が薄い気がしました。
「今日はおうちまでご一緒します」
私は嬉しくなって、頷きました。
「わあ、ありがとうございます」
夜警さんは私の少し前を歩き始めました。
コートの裾が、地面を軽く擦る音がします。
「今日はおうちでお過ごし下さいね。
街に、少し危ないおもちゃを持ったハートさんが来ています。
まだお仕事に慣れていない夜警が、お相手しきれなかったようでして……」
私は首をかしげました。
「さっき放送されていた、害獣さんですか?」
夜警さんは小さく笑いました。
その笑顔は、さっきより少しだけ深くなっている気がしました。
「警察はそうお呼びしていましたね。
お強いようなので、私もお探ししています」
私は頷いて、夜警さんの後ろについて歩きました。
道は、いつもより静かでした。
夜警さんは、ほとんど話をしてくれません。
時々、街の奥の方を見ては、小さく呟くように言いました。
「……あまり増えると、面倒だな」
おうちが見えてきた頃、夜警さんは振り返って、優しく微笑みました。
「本日はここで。
どうぞ、お静かにお休みください」
私は小さく手を振りました。
「ありがとうございました。またね」
夜警さんは一礼して、来た道を戻っていきました。
その背中は、いつもより少し速く見えました。
玄関の扉を閉め、窓から外を眺めると、街を警察さんや夜警さんたちが何人も歩いていくのが見えました。
中には、ひときわ目立つ警察さんも混じっていました。
まるで硬い殻を着ているみたいにどっしりとしていて、歩くたびに地面が少し揺れるのです。
腰や背中からピンク色の長い紐が何本も伸びていて、その表面には細かいトゲのようなものがびっしりと並んでいました。
時々くねくねと収縮するように動いていて、とてもかっこいい感じです。
私は窓辺に頰杖をついて、その様子を眺めながら、小さく呟きました。
「……あんな警察さんもいるんだ。
みんな、お仕事頑張ってるのね」
それからベッドに上がって、ぬいぐるみたちをそっと撫でました。
明日は、回収屋さんのトラックがたくさん、街を走るのでしょう。
遠くから、時計塔の低い音が、ゆっくりと響いてきました。




