復讐への切符
深い闇がオルコット伯爵邸を包み込んでいた。
豪奢なシャンデリアの灯りも消え、使用人たちの足音も途絶えた午前二時。屋根裏部屋の薄暗い空間で、私は静かに目を開けた。
階段から突き落とされた際の怪我は、額の裂傷と全身の打撲、そしておそらく右肋骨の微小なひび。呼吸をするたびに鈍い痛みが肺の裏側を引っ掻くようだったが、前世(佐々木理花)の記憶が甦った今の私にとって、この程度の肉体的苦痛は「プロジェクトの納期前夜の胃痛」に比べれば、まだ理性を保てるレベルだった。
むしろ、痛みがあるからこそ頭が冴えるってもの。
(さあ、残業時間の始まりよ)
私は音を立てずにベッドから抜け出し、埃まみれの麻のワンピースの裾を裂いて包帯代わりに額と肋骨にきつく巻き付けた。さらに、この三年間でこっそりと集めておいた「備品」の中から、一本の細い鉄の針金を取り出す。
準備を整え、軋むドアを慎重に開けて廊下へ出た。
月明かりだけが頼りの冷たい廊下を、私は気配を殺して進む。三年間、這いつくばって床を磨き続けたこの屋敷の構造は、目隠しをしていても歩けるほど完全に把握していた。どこを踏めば床板が鳴るか、どの時間帯に夜回りの警備兵がどこを通るか、すべてが私の頭の中にインプットされている。
目指すは、二階の奥にある義母カルメラの執務室。
かつては父の書斎であり、私にとっても幼い頃の温かい思い出が詰まった場所だったが、今ではあの毒婦の陰謀の温床となっている。
執務室の分厚いオーク材の扉の前に立つと、私は迷わず鍵穴に針金を差し込んだ。
(前世で、鍵をなくして自力でマンションのドアを開けようと悪戦苦闘した経験が、まさかこんな異世界で役立つなんてね)
カチリ、と小さな音がして、あっけなく鍵が回る。
ゆっくりと扉を開け、中へ滑り込んだ。
月光に照らされた室内は、父がいた頃の面影を残しつつも、義母の悪趣味な金装飾の調度品で埋め尽くされていた。私は迷わず部屋の奥、重厚なマホガニー製の執務机へと向かう。
彼女が隠し事をするなら、この机の隠し引き出ししかない。
私は引き出しの裏側に手を伸ばし、木目の隙間に隠された小さなボタンを押し込んだ。カチャッという音と共に、底板の一部がスライドし、秘密の空間が姿を現す。
中には、黒革の手帳が数冊と、分厚い羊皮紙の束が隠されていた。
「……ビンゴね」
私は黒革の手帳を手に取り、窓際へと移動して月明かりに翳した。
それは、義母カルメラが長年にわたってつけていた裏台帳だった。一見するとただの領地の収支報告に見えるが、数字の並びが不自然極まりない。
(なるほど、単純な暗号化ね。特定の品目を架空計上して、別口座に資金を横流ししている。しかも、横流し先は……王都の裏カジノと、違法なポーションの密売組織?)
前世で、会社の不正経理を疑い、一人で過去の決算書を洗い直した経験を持つ「社畜・佐々木理花」の眼を誤魔化せるはずがない。数字の羅列から、金の流れと義母の強欲さが手に取るように分かった。
さらに、羊皮紙の束をめくっていた私の手が、ピタリと止まる。
そこには、オルコット伯爵家の当主印が押された、忌まわしい契約書があった。
『リアナ・フォン・オルコットの身柄を、借入金の一括返済と引き換えに、バルガス辺境伯へ譲渡する』
バルガス辺境伯。齢六十を超える好色な男で、これまでに何人もの若き妻を「事故」で亡くしているという黒い噂が絶えない人物だ。
引き渡し日は、一週間後。
「……私の値段、たったの金貨五百枚? ずいぶんと安く見積もられたものね。」
怒りよりも、冷ややかな殺意が胸の奥で静かに燃え上がるのを感じた。
私を使い潰し、最後は怪物への生贄として売り飛ばして借金を帳消しにする。それが義母の完璧な計画だったのだ。
私は裏台帳と契約書を自身の服の内側に隠し入れ、執務室を後にした。
これだけの手札があれば十分だ。
もう、この鳥籠に未練はない。
夜明け前の最も暗い時間帯。
私は通用口の鍵を開け、オルコット伯爵邸の敷地から抜け出した。
冷たい夜風が、傷ついた体を容赦なく叩きつける。足元はおぼつかなく、視界は時折明滅したが、私は一度も振り返らずに王都の中心部へと歩き続けた。
目指すは、王都の心臓部とも言える貴族街の最奥。
現国王の甥であり、王国の軍務卿を若くして務める男、『氷の公爵』ルードヴィヒ・フォン・グレンヴィル。
冷徹で無慈悲、一切の妥協を許さない合理主義者として恐れられる彼だが、同時に不正を何よりも憎み、私利私欲に走る貴族たちを次々と粛清しているという噂だった。
義母カルメラが属する派閥と、ルードヴィヒ公爵は真っ向から対立している。彼にとって、オルコット伯爵領の利権を削ぎ落とす決定的な証拠は、喉から手が出るほど欲しいはずだ。
歩き続けること二時間。
東の空が白み始めた頃、私は荘厳な黒大理石で造られたグレンヴィル公爵邸の正門に辿り着いた。
門の両脇には、全身を黒の鎧で固めた屈強な近衛兵が立っている。ボロボロの麻服を着て、薄汚れた灰色の髪をした小柄な娘など、不審者以外の何者でもない。
「止まれ! ここはグレンヴィル公爵閣下の御屋敷である。乞食が近づく場所ではない、立ち去れ!」
門番の容赦ない怒声と、切っ先を向けられた槍の冷気が肌を刺す。
かつての私なら、怯えて逃げ出していただろう。しかし、今の私は微塵も揺るがなかった。前世で、不正まがいの取引先に単身で乗り込み、未払い金を回収してきた女だ。剣を向けられた程度で尻込みなどしない。
「お役目ご苦労様です。私はリアナ・フォン・オルコット。オルコット伯爵家の長女です。ルードヴィヒ公爵閣下に、有益な『情報』を持参いたしました。緊急かつ、極秘の案件です」
私は背筋を伸ばし、貴族の令嬢として完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。
ボロボロの服装と、優雅で洗練された所作の強烈なギャップに、門番たちは一瞬戸惑いの表情を浮かべる。
「オルコット伯爵令嬢……? 馬鹿な、あの家の娘がこのような姿で来るわけが……嘘をつくな!」
「嘘かどうかは、この証拠を閣下にお見せいただければ分かります。軍務卿であられる閣下が、オルコット領の『不自然な資金の動き』に気づいておられないはずがありません。今ここで私を追い返せば、閣下は重要な敵対派閥の首を落とす機会を永遠に失うことになりますが……その責任、あなたがたで取れますか?」
冷静に、しかし有無を言わせぬ圧を込めて言い放つ。
門番たちが顔を見合わせたその時だった。
「――騒々しいな。朝の鍛錬の邪魔だ」
背後から、氷が擦れ合うような、低く冷たい声が響いた。
門番たちが弾かれたように姿勢を正し、道を開ける。
そこには、一頭の漆黒の軍馬に跨った男がいた。
月光の残滓を吸い込んだような、白銀の髪。彫刻のように整った顔立ちは、一切の感情を排したように冷たく、何よりも印象的なのは、極寒の氷河を思わせる鋭い青い瞳だった。
ルードヴィヒ・フォン・グレンヴィル公爵。
その人が、馬の上から虫けらを見るような冷ややかな視線で、私を見下ろしていた。
圧倒的な威圧感。並の人間なら、その眼差しだけで息が止まり、地に這いつくばってしまいそうなほどの覇気。
「オルコットの娘が、我が邸宅に何の用だ。狂言なら、その首を刎ねるぞ」
彼の言葉には、一切の虚勢がなかった。本気で私を殺す気だと分かる。
だが、私は怯まなかった。
むしろ、好都合だ。彼が冷徹な合理主義者であるなら、感情や同情など不要。「利益」だけを提示すれば、必ず食いつく。
「狂言ではありません、ルードヴィヒ閣下」
私は真っ直ぐに彼の青い瞳を見返し、懐から黒革の手帳と羊皮紙の束を取り出して高く掲げた。
「現在のオルコット伯爵夫人カルメラによる、大規模な資金横領、王都の裏組織への資金提供、および違法薬物取引の証拠を示す裏帳簿です。さらに、私を違法な手段で辺境伯へ売却する契約書もございます」
ルードヴィヒの目が、微かに細められた。
「……それを、私にどうしろと?」
「取引をお願いいたします」
私は不敵に笑ってみせた。
「この証拠のすべてを、閣下に譲渡いたします。これにより、閣下はカルメラを含む敵対派閥を一網打尽にし、オルコット領の利権を合法的に手に入れることができるでしょう。その代わり――」
私は言葉を切って、はっきりと宣言した。
「私を、あなたの庇護下に置いていただきたい。衣食住の保証と、あの女たちへの『復讐』の舞台を整えること。それが、私の提示する条件です」
静寂が下りた。
門番たちは信じられないものを見るような目で私を見つめ、ルードヴィヒは無表情のまま、私の瞳の奥をじっと探り込んでいる。
どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも思える沈黙の後、ルードヴィヒの薄い唇が、僅かに弧を描いた。
それは、酷薄で、それでいて獰猛な肉食獣のような、絶対者の笑みだった。
「……面白い。その命の価値、証明してみせろ」
彼が軽く指を鳴らすと、門番の一人が慌てて私から証拠の束を受け取り、馬上のルードヴィヒへと手渡した。
ルードヴィヒはそれを一瞥すると、馬首を返し、私に向かって冷たく言い放つ。
「ついて来い。貴様の話が真実なら、最高の特等席を用意してやろう」
重厚な鉄格子の門が、重々しい音を立てて開かれていく。
私は大きく息を吐き出し、痛む胸を押さえながら、その先へと足を踏み出した。
地獄のような前世。絶望に沈んでいた今世。
それらすべてを糧にして、私は今、自らの意思で運命の歯車を回し始めたのだ。
背後で門が閉まる音が、私の古い人生の終わりを告げる鐘のように響いた。




