冷徹なる公爵との契約
グレンヴィル公爵邸の敷地内は、義母カルメラが牛耳るオルコット伯爵邸とは、すべてが対極にあった。
成金趣味で無駄な金装飾ばかりが並ぶあちらとは違い、こちらは徹底して無駄が削ぎ落とされた、洗練された機能美に満ちていた。手入れの行き届いた庭園の木々は軍隊のように整然と並び、黒大理石と白亜の石造りの本館は、まるで難攻不落の要塞のようだ。
先を歩くルードヴィヒ公爵の背中は広く、一切の隙がない。
彼の後を追って大広間へと足を踏み入れた瞬間、私の張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと音を立てて切れた。
「――っ」
急激な目眩。視界がぐにゃりと歪み、床がせり上がってくるような錯覚に襲われる。
極限状態での屋敷の脱出、二時間におよぶ夜通しの徒歩、そして公爵という絶対権力者との命懸けの交渉。前世の「佐々木理花」としての精神力で強引に体を動かしていたが、「リアナ」の虚弱で傷ついた肉体は、とうに限界を超えていたのだ。
階段から落ちた際に打った肋骨の痛みが、呼吸を塞ぐ。足から力が抜け、私は大理石の床へと崩れ落ちそうになった。
「……おい」
硬い床に顔を打ちつける――そう覚悟して目を閉じた瞬間、私の体は、ふわりと見えない力に包み込まれた。
痛みはない。恐る恐る目を開けると、私の体は床から数センチ浮いた状態で停止していた。
「情報提供者が、私の屋敷の玄関で息絶えられては不愉快極まりない。後処理の手間が増えるだけだ」
振り返ったルードヴィヒが、片手を軽くこちらに向けていた。彼から放たれた無詠唱の『風の魔法』が、私の落下を受け止めたのだ。
氷のように冷たい声とは裏腹に、その魔法の扱いは驚くほど繊細で、傷ついた私の体に一切の負担をかけていなかった。
「セバスチャン」
「はっ、ここに」
ルードヴィヒが短く呼ぶと、音もなく初老の執事が影から姿を現した。
「この女性を客室へ。屋敷の専属医を呼び、徹底的に治療させろ。死なせるな」
「御意に」
「それから……」
ルードヴィヒは、部下から受け取っていた私が持参した台帳と羊皮紙の束を、細めた青い瞳で見下ろした。
「この書類の裏付けを取る。私の執務室に領地の財務官を叩き起こして集めろ。朝食までに解析を終わらせるぞ」
その指示の的確さと迅速さに、薄れゆく意識の中で私は内心舌を巻いた。
(……なんて優秀なトップ。判断が早くて、リソースの使い方が完璧。前世の無能なクソ上司たちに爪の垢を煎じて飲ませたいわね)
彼になら、私の命と未来という「商品」を投資してもいい。
最後にそう確信しながら、私は深い眠りの底へと沈んでいった。
────
心地よい、清潔なリネンの香り。
どこも痛くない。寒くもない。ふかふかの羽毛布団に包まれる感覚なんて、一体何年ぶりだろう。
ゆっくりと瞼を開けると、そこは柔らかな朝の光が差し込む、広々とした豪奢な客室だった。天蓋付きのベッドに横たわる私の体は、清潔な白いネグリジェに着替えさせられ、額や腕の傷には丁寧に軟膏と包帯が施されている。
呼吸をしても、肋骨は痛まない。おそらく、高位の治癒魔法をかけてもらったのだろう。
「お目覚めになられましたか、リアナ様」
ベッドの脇には、メイド服に身を包んだ初老の女性が控えていた。厳格そうだが、瞳の奥に確かな慈愛を湛えている。
「あ、あの……」
「私はこの屋敷でメイド長を務めております、マーサと申します。三日三晩、熱にうなされておいででした。よくぞご無事で」
「三日……!」
私は弾かれたように身を起こした。
そんなに眠っていたなんて。義母たちが私がいなくなったことに気づき、捜索の網を広げているに違いない。一週間後には辺境伯への引き渡しが迫っているのだから、あちらも必死になっているはずだ。
「ご心配には及びません」
私の焦りを察したのか、マーサは温かいおしぼりを差し出しながら静かに微笑んだ。
「旦那様(ルードヴィヒ様)より、伝言を承っております。『目が覚めたら、着替えを済ませて執務室へ来い。お前の持ってきた”商品”の査定結果を伝える』……とのことです」
その言葉に、私は深く息を吐き出した。
どうやら、私の持ち込んだ書類の価値を、正しく理解してもらえたらしい。
用意されていたのは、かつての私が着ていたようなボロ布ではなく、上質な絹で仕立てられた、濃紺のシンプルなドレスだった。装飾こそ少ないが、生地の良さと仕立ての完璧さが、かえって品格を際立たせている。
鏡の前に立った私は、そこに映る自分の姿に息を呑んだ。
栄養失調で落ち窪んでいた頬は、魔法薬の点滴のおかげか少し血色を取り戻している。ボサボサだった灰色の髪は、マーサたちの手によって滑らかに梳き上げられ、本来の銀糸のような輝きを微かに取り戻しつつあった。
何より変わったのは、その「瞳」だ。
怯え、他人の顔色を窺うだけだった翳ったアメジスト色の瞳は、今や静かな闘志を宿し、前世で培った「不屈の魂」を真っ直ぐに映し出している。
(さあ、ここからが本当のプレゼンよ。絶対に落とせない大型案件のね)
私はドレスの皺をピンと伸ばし、マーサに案内されてルードヴィヒ公爵の執務室へと向かった。
────
「入れ」
ノックに応じる低く冷たい声。
重厚な扉を開けて中へ入ると、壁一面の本棚と、書類の山に囲まれた巨大なマホガニーのデスクがあった。その奥に座るルードヴィヒ公爵は、私が三日前に見た時と同じように、一切の疲労を感じさせない完璧な姿勢で書類に目を通していた。
「失礼いたします、閣下。……この度は、命を救っていただき、また手厚い保護を賜り、心より感謝申し上げます」
私は完璧なカーテシーを行い、頭を下げた。
ルードヴィヒはペンを置き、組んだ手の上に顎を乗せて、値踏みするように私を見つめた。氷河を思わせる冷たい青い瞳が、私という人間の本質を丸裸にしようと射抜いてくる。
「体調はどうだ」
「おかげさまで、今すぐにでも領地の視察に行けるほど回復いたしました」
「……ほう」
私の物怖じしない返答に、ルードヴィヒは僅かに眉を上げた。
「さて、本題に入ろう。お前が持ち込んだ台帳だが……素晴らしい。実に完璧な『不正の証拠』だった。あの女狐が、王都の裏社会の元締めと繋がり、我が国の法をこれほどまでに愚弄していたとはな。おかげで、彼らの資金源を根こそぎ凍結する目処が立った」
彼は机の上に、私が持ち込んだ手帳を投げ出した。
「だが、一つ解せないことがある。オルコット伯爵家の長女リアナ。お前は魔力無能の烙印を押され、義母に虐げられ、屋敷の隅で脅えながら使用人以下の生活を送っていたはずだ。我が手の者(密偵)の報告でも、お前は『自我を持たない気弱な人形』とされていた」
ルードヴィヒの瞳が、剣呑な光を帯びる。
「……そんな無知な小娘が、なぜあの複雑に暗号化された二重台帳の存在に気づき、解読できた? 誰の入れ知恵だ?」
鋭い殺気が執務室の空気を凍りつかせる。彼が疑うのも無理はない。
しかし、私は涼しい顔で微笑んだ。
「入れ知恵などありません。すべて、私自身の力です。閣下、人は極限状態に置かれ、命の危機に瀕した時、二つの道しか選べません。狂って死ぬか、覚醒して生き延びるか、です。私は……階段から突き落とされて死にかけたあの瞬間、後者を選んだだけのこと。三年間の下働きの中で、屋敷のどこに何があるか、誰が誰と密会しているか、私は『風景』としてすべて記憶しておりました」
前世のことは伏せつつ、嘘は言わずに事実だけを並べる。
ルードヴィヒはしばらく私を無言で見つめていたが、やがてふっと、鼻で笑った。
「面白い。生存本能が知性を呼び覚ましたというわけか。……いいだろう。お前が持ち込んだ証拠の価値は認めよう。これによって、私はカルメラとその背後にいる政敵たちの権威を抹殺し、オルコット領を国庫に接収する大義名分を得た。お前には十分な礼金と、修道院や平民街での安全な身分をくれてやる。これで取引は成立だ」
「お待ちください」
席を立とうとしたルードヴィヒを、私は凛とした声で制止した。
「取引は、まだ終わっていません」
「何?」
「私が求めているのは、安全な隠居生活ではありません。私が望むのは、あの女たちが築き上げた虚飾をすべて叩き壊し、私がオルコットの正当な後継者としてすべてを取り戻すことです」
私は彼に向かって、一歩踏み出した。
「閣下。このまま証拠を突きつけて彼女たちを捕縛するのも結構ですが、それではあまりに『普通』すぎませんか? 彼女たちの背後にいる黒幕の貴族たちは、バジリスクの尻尾切りをして逃げるでしょう。根こそぎ一網打尽にするためには、彼女たちを最も油断させ、公の場で、逃げ場のない状態で告発する『舞台』が必要です」
「……お前に、その策があると?」
「はい。一週間後、王城で開かれる建国記念の夜会。そこに、私を『閣下のパートナー』として伴ってください」
ルードヴィヒの目が、驚きにわずかに見開かれた。
「私を辺境伯へ売り飛ばし、邪魔者が消えたと有頂天になっているカルメラとセルリアの前に、死んだはずの私が、彼女らが最も恐れる『氷の公爵』の婚約者として現れる。彼女たちはパニックに陥り、必ず致命的なボロを出します。私は囮となり、黒幕たちを炙り出してみせましょう。閣下にとっても、敵対派閥を一掃する最高のショーになるはずです」
沈黙が落ちた。
それは、私の提案のメリットとリスクを、彼の恐るべき頭脳が猛烈な速度で計算している時間だった。
私は畳み掛けるように、言葉を紡ぐ。前世で、頑固な役員を説得した時と同じ、静かだが自信に満ちたトーンで。
「私を『契約婚約者』として雇ってください、閣下。私は貴族社会のしきたりも、礼儀作法も完璧にこなせます。閣下を煩わせるような有象無象の令嬢たちの牽制役としても、十分にお役に立てるはずです。期間は、オルコット家を取り潰し、私が当主として返り咲くまで。報酬は、私への投資と復讐の完遂。いかがですか?」
ルードヴィヒは、私の目を見据えたまま、深く背もたれに体を預けた。
そして――彼の冷たい仮面のような顔に、初めて明確な「愉悦の笑み」が浮かんだ。
それは、退屈な世界に突如として現れた、極上の獲物を見つけた捕食者のような笑みだった。
「……まったく、狂っているな。お前は、この私を自分の復讐のための『手駒』として使う気か」
「ビジネスパートナーと呼んでいただきたいですね」
「ふっ、ははははっ!」
突如、ルードヴィヒが声を上げて笑い出した。その場にいたメイドや護衛の騎士たちが、信じられないものを見るように目を丸くしている。普段、彼がどれだけ笑わない人間なのかがよく分かる反応だ。
「いいだろう、リアナ・フォン・オルコット! そのふざけた提案、乗ってやる。だが、退屈させるなよ。私を大いに楽しませてみせろ」
ルードヴィヒは立ち上がり、机越しに私に向かって長い腕を伸ばした。
私も迷わず、その大きな手を取る。
彼の掌は、剣ダコで硬く、火傷しそうなほど熱を帯びていた。
「今日からお前は、私、ルードヴィヒ・フォン・グレンヴィルの婚約者だ。夜会までの残り四日間、お前を我が公爵家の財力と権力で、誰もが見上げる完璧な『公爵夫人』に仕立て上げてやる」
冷酷なる氷の公爵と、どん底から這い上がった令嬢。
復讐と野望で結ばれた、狂気的で完璧な「契約」が成立した瞬間だった。
義母よ、義妹よ。首を洗って待っているがいい。
あなたたちが私を突き落とした地獄の底から、最高の絶望という名のドレスを纏って、あなたたちを迎えに行ってあげるから。




