第7話─ディヴィヌスの火─
ディヴィヌス祭の催されるこの日は、城の内外は朝から賑やかな様子で、いつもは粛々と仕事をこなしている城の者達も皆、今日ばかりは浮足立っているようだった。
「ディヴィヌス祭の当日は、皆どこかに蛇を模した装飾品などを身につけるのですわ。そして、祭りの最後に聖火にくべて願い事をするのです」
そう言ってアルマは、小箱から細い金のラインでできた小さな蛇の髪留めを取り出し、緩くまとめた星羅の髪に挿した。
装飾は控えめながら、光に当たるとさりげなくきらめいて、少し大人びたその意匠が、どこかくすぐったい。
アルマが今日くらいはと、華やかな宮廷ドレスを用意してくれたが、こればかりは着慣れる気がしないので丁重に辞退した。
「こちらも、お揃いのようなものですわ」
アルマは、もう一つの小箱を開いた。中には同じ意匠の蛇を模した、銀のマントピンが収められている。
「シグルズ様にも」
差し出されたそれを、彼は一瞬だけ見つめ、それから特に感慨もなさそうに受け取った。
細身の銀で形作られた蛇は、己の尾を咥えた円状のデザインで、星羅の髪に挿されたものとよく似ている。
「……なるほど。祭りの決まり、か」
そう呟きながら、シグルズは慣れた手つきでマントの留めにそれを使った。
仕草はいつも通り簡潔なのに、胸元にひとつ意匠が加わるだけで、どこか印象が変わる。
「お似合いですわ、お二人とも」
アルマが満足げに微笑むと、星羅は少しだけ落ち着かない気持ちで、後ろ髪に触れた。指先にかすかに当たる金属の感触が、妙に意識に残る。
ふと顔を上げると、ちょうどシグルズと視線が合った。
何も言わない。ただ一瞬だけ、星羅の髪に留められたそれを見て──それから視線を逸らした。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
「……行くぞ。混む前に」
何事もなかったかのようにそう言って、彼は先に歩き出した。
星羅は小さく頷いて、その背を追う。
祭りのざわめきは、もうすぐそこまで来ていた。
城下へ出ると、街は既に祭りの活気で溢れている。
大通りには広場まで続くランタンが掲げられ、夜に灯がともれば、さぞ幻想的な光景になるのだろうと感じられた。
市場には出店も多く並び、賑わいをみせている。
最初に気づいたのは、通りの端で焼き菓子を手にしていた街娘のひとりだった。視線の先にいる人物を認めた瞬間、思わず声を潜める――が、その声はむしろ周囲の注意を引いた。
「ねえ、見て……あの人……」
控えめな囁きが、すぐに抑えきれない熱を帯びていく。
「旅の騎士かしら……?」
「いいえ、あんな人……見たことがないわ……」
ひそやかだった声は、やがて弾むように重なり合い、あちらこちらで小さな波紋が広がっていく。
「なんて……お顔……」
「背も高いし……まるで絵物語の中の人みたい……」
次第に、キャアキャアと、遠慮のない歓声が飛び交う。
隠す気もない視線が、これでもかとシグルズに集まっていた。
当の本人はというと――。
気づいているのかいないのか、いつも通りの無表情で、ただ淡々と歩いているだけ。
星羅は思わずその光景をぽかんと眺めていた。
……凄い。
いや、まあ……うん、わかるけど。
隣を歩くシグルズをちらりと見る。
淡い光を帯びたような銀の髪は、ランタンのまだ灯らぬ昼の光すら柔らかく反射し、整いすぎた横顔は、まるで彫刻のように無駄がない。人混みの中でもまったく埋もれない存在感。
改めて見ると……やっぱり、おかしいよね、この人。
さっきまで普通に隣にいたはずなのに、第三者の反応を通すと、急に現実味が薄れる。
そりゃあ騒ぐか……。妙に納得してしまう自分がいる。
けれど同時に、少しだけおかしくなって、星羅はふっと小さく笑った。
「……ねえシグルズ、自覚あります?」
「何がだ」
「今、後ろすごいことになってますけど」
振り返りはしないまま言うと、心底面倒くさそうに「関係ないな」と即答する。
けれど――そんな無頓着さすら、妙に絵になってしまうのだから困る。
背後で続く、ため息まじりの囁きと弾む声を聞きながら、星羅は少し自嘲する。得意でも優越でもない。けれど、妙に誇らしいような、くすぐったいような気持ち。
それをはっきり認めるのは癪で、だから星羅は、少しだけ歩調を速めた。
◇◇◇
日が暮れ始めた頃、広場の中央に据えられたディヴィヌス神の姿を模した石の炉に、聖火が灯された。
その瞬間、周囲から一斉に歓声がわき上がる。
それを合図に、雄々しい太鼓と笛の音が鳴り響き、戦士に扮した男たちが力強く踊り始める。
火の粉が踊りに呼応するように宙へ舞い上がり、夜の気配を帯び始めた空に散っていく。
その光景を眺めていると、不意に星羅の脳裏に昨日のシグルズの言葉が思い浮かんだ。
〝魔力は流れる。地脈も、術式も、俺の魔力も──〟
火もまた、同じなのかもしれない。
一見すればその場に留まっているように見えるが、本質は絶えず流れ続けている──。
「──おい、おい! 聞いているか」
不意にシグルズの声が耳に入り顔を上げると、思ったよりも近くにその顔があり星羅は思わず息を呑んだ。
ラピスラズリのような深く青い瞳が、間近でこちらを覗き込んでいる。まるで夜空を閉じ込めたみたいだ。
いつかの出来事が脳裏をよぎって、頬が一気に熱くなるのが、自分でも分かる。
だが、シグルズは怪訝そうに眉をひそめただけで、こちらの様子など気にも留めていないらしい。
それが、余計に腹立たしい。
「何なんですか……もう! っていうか、私は『おい』じゃなくて明智星羅って名前があるんです! 用があるならちゃんと名前で呼んで下さい……!」
思わず一気にまくし立てる。
言い切ったあとで、ほんの少しだけ声が曇った。
――この世界に来てから、名前で呼ばれることはほとんどない。
誰もが丁寧に「導き手様」と呼ぶ。それは敬意のはずなのに、どこか一歩引かれたままの響きで。
皆優しく接してはくれるが、どこか完全には受け入れられていないような、そんな距離が残る。
シグルズは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「……必要ないな」
冷淡とも言えるほど、あっさりとした返答。
「なっ……!」
言葉に詰まる星羅をよそに、シグルズは顎で広場の方を示す。
石の炉の前では、人々が小さな装飾品を火へと投げ入れていた。蛇をかたどった細工が、炎の中で一瞬だけ光って消えていく。
「あれを見ろ」
「……あれがどうしたって言うんですか」
「願いを掛けるんだったろう。名を呼ばれたいなら、お前もああして祈ればいい」
恨めしげに睨む星羅を横目に、シグルズはフン、と鼻を鳴らし、その瞳はどこか悪戯な様を見せていて。
その言い方に、ほんのわずかな軽さが混じっているのに気づいた星羅は思わず瞬きをした。
……え。
今の、冗談……だよね? え、あのシグルズが?
妙なところに引っかかって、怒るタイミングを一瞬逃す。
ほんの僅かに緩んだ口元。気のせいかもしれない程度の変化。
――からかわれている。
遅れて理解して、星羅は顔をしかめた。
「誰がそんなこと願うんですか!」
思わず声を上げる。
けれど、炉の中で揺れる火と、投げ入れられていく蛇の装飾が視界の端に残る。
――願えば。
そんな考えが一瞬だけよぎって、星羅はすぐに首を振った。
「絶対やりませんからね……!」
炉の方へ歩き始めたシグルズに声を投げつけるように、その背中を足早に追う。
だがシグルズが急に立ち止まり、星羅は勢いのままぶつかってしまう。
「いてて……。もぅ……、何で急に止ま──」
「見ろ……」
鼻先を擦りながら抗議する星羅の腕を引き、シグルズは遠く連なるモンテリスの山々を示した。
侯城を囲むように連なる山脈に、ひとつ、ふたつと篝火が灯される。
炎は、まるで赤い大蛇が山肌を這うように次々と連なり、モンテリスの深く暗い空を、ゆっくりと赤く染めていく。
すべてを焼き尽くすような猛々しさ。
それでいて、どこか恐ろしいまでの浄らかさ。
星羅は思わず息をのみ、シグルズのマントの裾を掴んだ。
シグルズを見上げる。
いつもと変わらない。だけど、気のせいだろうか──その瞳にはどこか優しさも感じられて。
「……行こう」
シグルズはそう言うと聖火の炉の前に進み出る。マントピンを外し、躊躇いもなく炎の中へ投げ入れた。
何を願ったのかは、分からない。
星羅はそっと、自分の髪留めに触れる。
少し髪が絡まっているのか、外す手がもたつく。
すると、シグルズが静かにその手を伸ばし、外してくれた。
何も言わず、星羅の手に戻す。
「……ありがとう」
掌の上の蛇は、尾を咥えたまま、円を描いている。
ウロボロス──無限や再生の象徴。
不意にアルマの言葉を思い出す。
〝過去に別れを告げ、未来へと歩み出す〟
元の世界に還ることを、諦めたわけじゃない。
だけど──。
星羅は決心したかのようにそれを握りしめ、力強く聖火へと投げ入れた。
一瞬だけ、炎の中できらめいた気がした。
「……行くぞ、セーラ」
シグルズの呼ぶ声がする。
振り返ると、彼は既に歩き始めていた。
「え、え? ……ちょっと待ってください! 今、なんて……!?」
こちらを振り返ることもなく歩いていく背中は、何事もなかったかのように変わらない。
けれど──。
「シグルズ……待ってくださいってば……ねぇ!」
「早くしないと、置いていくぞ」
その足取りは、ほんのわずかに緩んでいて。
祭りの喧騒の中へ、二人の声は溶けていった。




