第1話─星の導き─
星羅が次に目を開けたとき、そこは──闇だった。
月明かりだけが頼りの、鬱蒼とした森。湿った土の匂いと、見慣れない木々の影。
──ここ、どこ……?
理解が追いつかないままその場にへたり込むと、少し先の暗闇で、ザワ、と草木が揺れた。風ではない何かが、そこにいる。
鼻をつく生臭い匂いに、低く喉を鳴らすような唸り声。ゆっくりと確実に、こちらへ近づいてくる気配。
これ、ヤバい。
本能がそう告げていた。
逃げなきゃ、と思うのに足に力が入らず思うように立てない。
草むらが大きく揺れた、その瞬間──。
「Ver kyrr」
低く、静かで、それでいて有無を言わせぬ声。
直後、風を裂く音。放たれた矢が、獣の足元を掠めた。
姿を現したのは、熊かと思うほど大きな、狼に似た獣。
威嚇するように動きを止めた獣へ、弓を構えたまま男が何かを語りかける。言葉は分からない。
けれど、その声には奇妙な落ち着きがあった。
やがて獣は低く唸りながら、森の奥へと姿を消していった。
助かった……?
「……あ、ありがとうございます!」
反射的に言葉が溢れる。
「あの、ここどこですか? 私、サークルで天体観測してて……流星群が降って、急に明るく光って、それで──」
一気にまくし立てるけれど。男は無言のまま、こちらを一瞥しただけだった。
通じて、ない……?
男は気にする様子もなく、腰のポーチからガラスの小瓶を取り出し、差し出してくる。
「……?」
星羅は小瓶を受け取ってはみたものの、どうすればいいのか分からない。
傷薬? だとしたら、幸いな事にどこにもケガは無い。取り敢えずは必要なさそうだ。
ずれた眼鏡をかけ直しつつ、改めて目の前の男を見てみると、思わず息を呑むような、とんでもないイケメンだ……。
西洋ファンタジーでしか見たことのないような服装。月光を反射する銀色の髪に、少し陽に焼けたようなオリーブ褐色の肌。そして、わずかに尖った耳。
──人間、じゃない……?
コスプレか何か知らないが、取り敢えず日本人じゃない事だけは確かだ。
「……と、No thanks. I'm good」
取り敢えず知っている英語で返してみるが、男は眉ひとつ動かさず、瓶の蓋を開けると、それを無理やり飲ませようとする。
アルコールの匂い。それに混じる、嗅いだことのない異質な香り。
「な、何? やめて!」
咄嗟に抵抗し、伸ばされた指を思わず噛んだ。微かに鉄のような、血の味がする。
「──ッ」
一瞬、男の動きが止まる。
「ご、ごめんなさい……!」
その隙に離れようとした、次の瞬間。
男は瓶の中身を自ら口に含み──そのまま、星羅の唇へと流し込んだ。
瞬間に、喉の奥がカッと熱くなる。
「──嫌っ!」
力いっぱい突き飛ばす。息が乱れて思考が追いつかない。
怖い、何なの!? 無理無理無理! 理解できない!
もつれる脚で、暗闇の中へ無我夢中で駆け出した。
突き飛ばした衝撃で眼鏡を落としたせいなのか、飲まされたお酒のせいなのか、視界が歪む。
「待て!」
背後から声が飛ぶ。
「足元も見えてないだろう、その先は──!」
掴もうと伸ばされた手。
──届かない。足元にあった固い土の感触が、消えた。
◇◇◇
秋の穏やかな陽射しが、赤く色づいた木の葉をやわらかく照らし、小鳥の賑やかな囀りが、涼やかな風と共に石造りの窓辺のカーテンを揺らしている。
星羅がベッドの上で目を覚ますと、見知らぬ女性達に囲まれていた。見たこともない、豪奢なベッドの天蓋の彫刻模様が目に入る。
「お目覚めになりましたか! ……お加減はいかがですか? ナトゥリウスの導き手様」
星羅が目を開けたことに気づいた女性達は、にわかに慌ただしくなる。
導き手って──?
ひとりの女性に促され、まだ覚醒しきらないまま上体を起こすと、繊細な装飾が施された銀杯を手渡された。
「お薬でございます」
言われるままに、コクリ、とひと口含む。
口いっぱいに広がる独特の香りに、わずかな眩暈が走った瞬間──。
これ、あの時の……!
反射的に身を強張らせ、星羅は周囲を見渡した。
石造りの壁に、重厚な調度品の数々。
窓の外には見慣れない木々と、やけに澄んだ空。
そして何より──目の前の女性達。
まるでルネサンス期の絵画から抜け出してきたかのような、現実離れしたドレス姿。
……え? なに、これ……。
夢にしては、妙に感覚がはっきりしている。
指先に触れるシーツの感触も、風の冷たさも、やけに現実的で、星羅は思わずゆっくりと自分の腕をつねった。
「っ……痛い……」
じゃあ、ここは──?
森での記憶が断片的によみがえる。獣に襲われて……崖から転落して……。
じわじわと、現実が侵食してくる。
「あの……、今のは?」
声が少し上ずったのを自覚しながら問いかけると、再びあの薬のようなものを差し出された。
「こちらは〝エーテル酒〟にございます」
それが何かを女性に尋ねると、貴重な薬酒だと教えられる。
身体の傷や不調を癒すだけでなく、生命力を高め、さらには異世界人の言語理解を助けるという。
異世界人って……今、言った?
星羅は目を見開き、思わず女性の顔を見返す。
けれど相手は、ごく当然のことのように微笑んでいるだけだった。
にわかには信じがたい話だが──現に言葉は通じている。
それだけではない。眼鏡がなければ、肩が触れるほど近づかないと相手の顔すら判別できなかったはずなのに、今は眼鏡をかけていないことすら忘れていた事実に、現実が、少しずつ逃げ場をなくしていく。
もしかして、本当に……異世界、とか……?
胸の奥が、ひやりと冷える。
本当にここが異世界で、もしこのまま帰れなかったとしたら。
家も、学校も、日常も──全部、あの向こう側に置いてきたまま。
息が浅くなる。考えようとすると、怖くて思考が止まりそうになる。
……落ち着いて。ちゃんと、思い出さなきゃ。
最後に見た光景を、無理やり手繰り寄せる。
鬱蒼とした暗い森。獣、崖。そして──あの男。
森の中で、獣に襲われていた私を助けてくれた……。それから、さっきと同じ薬酒をくれて……。
……もしかして、悪いこと、しちゃったのかも。
獣から助けてくれたうえ、そんな貴重なものまで与えようとしてくれたのに。
彼の指を噛んで、挙句突き飛ばしてしまったことが、じくりと胸を刺す。
──いや、でも。
思い返せば、あの男が無理やり口移しで飲ませてきたからで……!
──ファーストキスだったのに……!
いくらあの男が超絶イケメンだったとしても、好きでもない相手とのキスなんて嬉しくない。
思わず唇に触れる。まだ微かに、あの時の感触が残っている気がして、慌てて手を離す。
私が好きなのは、昴先輩なんだから!
そうだ──昴先輩だ。
ここが異世界だろうが何だろうが、先輩の元に戻らなければならない。
だってあの時、あんなにも──いい雰囲気だったのだから。
何としても、帰らなければ。そうと決まれば、ここでぼんやりとしている暇は無い。
ぎゅっとシーツを握りしめると、指先に力がこもり、白い布に皺が寄る。
勢いよくベッドから飛び出すと、足が床に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わり、現実へと引き戻される。
「きゃっ……!」
控えていた女性のひとりが小さく声を上げる。
慌てて近づいてきて、倒れないようにと星羅の腕に手を添えた。
「導き手様、まだお身体が……」
「だ、大丈夫です!」
制止の声を振り切るように顔を上げたその時、扉の外がにわかに騒がしくなる。
ほどなくして、ひとりの侍女らしき人が足早に入ってきた。
「導き手様がお目覚めになったとのこと、モンテリス侯爵様がお呼びでございます」
まるで見計らったかのようなタイミングだった。




