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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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EP227.DAY2:神は理解し、悪魔は試し、少女は裏切る

 記録者――御影シオン


 人間は、理解できないものを恐れる。


 私は長い間、その命題を、人間の認知における比較的普遍的な性質として扱ってきた。


 未知の現象に直面した際、私たちの脳は既存の記憶や予測モデルとの不一致を検出し、その不一致が生存や自己保存に関わる可能性を持つ場合、警戒や恐怖という情動反応を生成する。


 つまり、恐怖とは未知そのものに内在する性質ではなく、未知を処理する認知主体の側に発生する反応であり、十分な情報の取得と適切な仮説の更新によって、少なくともその一部は低減できるはずだった。


 実際、私はそうしてきた。


 理解できない現象があれば観測し、説明できない行動があれば前提条件を調べ、予測に反する結果が生じればモデルを修正する。


 人間の感情も、行動も、選択も、完全に予測できるとは考えていないけれど、少なくとも何も理解できないまま怯えるよりは、理解しようとする方が合理的だと信じていた。


 しかし、最近になって、その考え方には一つ、重大な欠落があることに気づいた。


 理解できない相手よりも、恐ろしい相手がいる。


 こちらが理解していると思っていた相手が、こちらの知らない情報を持っている場合。

 あるいは、私自身がまだ認識していない私の欲望や恐怖を、私よりも先に言語化できてしまう場合。


 そのとき、観測者と被観測者の関係は、静かに反転する。


 藤党コウは、私の設計に協力している。

 彼の技術的な能力は疑いようがない。

 複数の機構を結合させ、相互の作動条件を利用し、個別には成立しなかった結果を全体構造の中で成立させる。

 その設計能力を、私は必要としている。


 ただし、彼が何を最終的な成功と見なしているのかについて、私は一度も十分な説明を得られていない。


 彼は私の秘密を知らない。

 少なくとも、そう考えるに足る理由はある。


 けれど、知らないことと、知ろうとしていないことは違う。そして、知らないまま相手を試すことができる人間は、場合によっては、すべてを知っている人間よりも危険になる。


 一方、リゼ様は、私のことを理解しているとおっしゃる。


 あの方の理解がどこまで及んでいるのか、私は正確には知らない。

 Echo-Bindingによる干渉、蓄積された行動履歴、私の反応から組み立てられる推論。

 そのどこまでが直接的な観測で、どこからが解釈なのかを、私は区別できていない。


 それでも、恐ろしい。

 私が秘密を持っていることではない。

 秘密を守ろうとした、その選択の理由まで、すでに理解されているかもしれないという可能性が。


 そして、十五時。

 私は、約千五百名の犠牲が予測される計画を、まだ中止していない。


 当初の想定を大幅に超えるその数字を、私は誤差として扱うことができない。

 設計変更によって危険が拡大したことも、選択による生存可能性が著しく損なわれていることも理解している。

 それでも、実行条件を維持している。


 自由になりたいから。

 ……なんて都合のよい言葉だろう。


 自分の意思を奪われたくないと願う私が、他人の生死を設計している。

 誰かに所有されたくないと願う私が、たった一人の先輩の未来だけは、自分の望む結末へ固定しようとしている。


 私は、その矛盾を知らないわけではない。

 知ったうえで、撤回していないのだ。


 それでは、始めましょう。

 これは、正義を証明するための記録ではない。


 自分自身の知性を信じてきた者が、二人の観測者を前にして、その知性によって少しずつ逃げ道を失っていく記録。


 そして、どれほど計算を重ねても、最後まで目的関数から取り除くことのできなかった、たった一人の先輩についての記録でもある。


 私が自由を選択したとき、その選択が本当に私自身のものだったと、誰が証明できるのだろうか。


 今の私には、まだ答えられない。


 双灯祭 DAY2/12:30〜13:30

『シュレディンガーの仮面』上演中


 記録者――御影シオン


 演劇という表現形式には、以前から認知科学的な興味を抱いていた。


 舞台上で発生する出来事が虚構であるという認識と、その出来事に対して実際の情動反応を生じさせることは、必ずしも矛盾しない。


 観客は、俳優が本当に死ぬわけではないと理解していながら死を恐れ、登場人物が実在しないと知りながらその喪失を悲しみ、あらかじめ台本によって決定された結末に対して、まるで今この瞬間に未来が分岐しているかのような期待を抱く。


 そこでは、出来事の事実性に関する判断と、出来事に付与される感情的な意味が、異なる認知過程によって処理されている。


 これは、単に観客が騙されているという話ではない。


 むしろ観客は、自分が騙されても安全であるという前提を受け入れたうえで、意図的に虚構へ参加している。舞台上の恐怖が娯楽として成立するのは、その恐怖が現実の危険と切り離されていると信じられるからだ。


 では、その前提が誤っていた場合はどうなるのだろうか。


 観客が虚構だと認識している出来事の内部で、本物の危険が発生したとしたら?


 人間は、どの段階で自分の認識を修正するのだろうか。


 あるいは、舞台という枠組みが十分に強固であれば、現実の危険さえ演出として解釈し続けてしまうのだろうか。


 私は、その問いに対する実験を計画したことはない。


 もっとも、それを口にする資格が現在の私にあるかどうかは、別の問題だった。


 十二時五十六分。

 影村学園中央管理棟、第三観測室。


 壁面の大型モニターには、天城学園第二講堂で上演されている『シュレディンガーの仮面』後編の映像が投影されていた。舞台中央に立つのは、リナ=シュタインを演じる火宮レイカ先輩。照明は彼女の顔を柔らかく照らし、観客席からは、物語の進行に合わせた静かなざわめきが届いている。


 その隣には、もう一人の人物がいた。


 正確には、人物の形状を再現した光学的な投影像だった。


 オルフェ。


 本来であれば立花ミナト先輩が演じるはずだった役柄であり、現在は半透明の輪郭だけが舞台上に存在している。発話はなく、身体の細かな動きもない。ただ、その場にいるはずだった人物の不在を、観客に認識させるための像だった。


 私は、映像の一部を拡大した。


 立花先輩の欠場は、午前中の盤上干渉戦によって生じた《OBSERVATION》の機能障害に起因する。


 ここで注意しなければならないのは、視覚機能と認識機能の区別だ。


 網膜から視覚情報を取得できることと、取得した情報を対象として統合し、意味を与え、行動へ利用できることは同義ではない。立花先輩に発生した異常は、単純な視力の低下ではなく、視覚情報から対象の意味を構成する過程に関わっていた。


 そして、その異常へ接続されるはずだった別の処理がある。


 OBSERVER PROXY。


 私は、午前中の記録を再び呼び出した。


 接続要求は存在する。


 処理の進行も確認できる。


 認証に関する明白な失敗記録はなく、通信経路が通常の意味で断絶した形跡もない。


 にもかかわらず、最終的な確定結果が残っていない。


 私はこの異常について、少なくとも三つの仮説を維持していた。


 第一に、ログの欠損。処理そのものは完了したが、記録系に何らかの障害が発生し、結果だけが保存されなかった可能性。


 第二に、確定直前の処理停止。内部状態は完了に近づいていたものの、何らかの条件が成立せず、最終的な状態遷移が発生しなかった可能性。


 第三に、通常の処理系では記述できない外部干渉。


 岡崎ユウマ先輩の《黒葬》という謎の力。


 この第三仮説は、観測された異常を説明するうえで非常に強力だった。しかし、説明力が高いことと、唯一の説明であることは同義ではない。私は、岡崎先輩の能力の適用条件も、対象選択の制約も、行使可能な頻度も、十分には把握していない。


 ただ、一つだけ重要な違いがある。


 仮に《黒葬》が、特定の事象について、世界の履歴へ確定登録される瞬間に干渉する能力なのだとすれば、それは単なる結果の変更ではない。


 結果が、結果として成立する境界への介入だ。


 私はその仮説を、午前中から何度も検証していた。


 十五時に実行されるCore Phaseは、複数の機構がそれぞれの作動結果を次の機構の入力条件として利用する、連鎖的な統合構造になっている。


 もし、その途中で特定の事象だけが確定されなかったとしたら後続の機構は、何を参照するのだろうか。


 確定しなかった結果を、未成立として処理するのか。

 直前の状態を保持するのか。

 それとも、通常の設計では想定していない別の状態へ移行するのか。


 分からない。

 分からないという事実を、私は認めなければならなかった。


 そして、分からないことを認めたからといって、十五時を延期するわけにはいかなかった。


 私は舞台映像を画面の隅へ縮小し、統合設計図を展開した。

 影村側のウルフチェア。

 エアロック。

 天城側から接続された《胃プール》。


 それぞれの機構を結ぶ制御経路と、作動条件の依存関係が、複数の色に分けられて表示される。


 私は、その中央に示された犠牲者予測値を見つめた。

 約千五百名。

 当初の予測は、百六十名から百七十名だった。


 この差は、単なる推定誤差ではない。

 藤党コウによって追加された強制的なバイパス結合が、危険の伝播構造そのものを変質させた結果だった。


 当初の設計では、少なくとも形式上、参加者の選択が生存可能性に影響を与える余地が存在していた。ある機構の条件を理解し、適切な判断を行えば、危険を回避できる可能性が残されていた。


 しかし、現在の構造では、その前提が崩れている。

 ある機構からの脱出が、別の機構の作動条件になる。

 ある場所で安全を確保した結果、別の場所で危険が発生する。

 一つの停止操作が、全体構造の停止ではなく、別の機構への負荷移転として処理される。

 それぞれの機構が独立している場合には有効だった生存戦略が、統合後の構造では必ずしも有効ではない。


 局所的な最適解が、全体としての破綻を引き起こす。


 藤党コウは、この構造を究極のデスゲームと呼んだ。


 私は、その名称を採用していない。


 ゲームという概念を厳密に用いるのであれば、参加者には選択可能な戦略が存在し、それぞれの戦略に対して何らかの結果が対応していなければならない。


 もちろん、極端に不公平なゲームや、勝利可能性がほとんど存在しないゲームも理論上は成立する。


 しかし、参加者の選択が生存可能性を実質的に回復できない構造を、なお選択の競争として演出することには、重大な欺瞞がある。


 これは、もはやゲームではない。


 少なくとも、私が当初設計したものとは違う。


 ……だからといって、私の責任が消えるわけではない。


 藤党コウが危険を拡大させた。

 それは事実だ。


 しかし、私はその変更を認識している。

 犠牲者予測値の上昇を理解している。

 そして、実行を止めていない。


 意思決定理論の言葉を借りるのであれば、私は危険の増大を新たな情報として受け取りながら、なお実行という選択肢を維持している。


 初期設計の責任と、変更後の構造を受け入れる責任は、区別して考える必要がある。


 私は、その両方から逃れられない。

 それでも、十五時を動かすことはできない。


 リゼ様の観測支配から離脱するために。

 あの方の最適化が追従できない現実を発生させ、その不確定性の中で、自分自身の意思決定権を取り戻すために。

 私は、約千五百名の犠牲を許容している。


 そして、その判断を下した私自身が、リゼ様の観測対象である可能性を捨てきれずにいる。

 もし、私が計画を実行するという判断そのものが、すでにあの方の予測の内部に含まれているのだとしたら?


 私が用意した反逆は、反逆として成立するのだろうか。


 私は、その問いをいったん保留した。

 画面の端で、通信アイコンが点滅している。


 藤党コウ。


 彼に《黒葬》の情報を渡すべきか。


 情報を共有すれば、未知の干渉に対する評価精度は向上するかもしれない。


 一方、彼がその情報を利用して新たな仕掛けを構築する可能性もある。


 彼の技術的能力を考えれば、その危険を無視することはできない。


 情報共有の利益と、情報共有によって増大する危険。


 その比較に必要なものは、藤党コウの目的についての理解だった。


 しかし、それこそが、私には欠けている。

 私は呼吸を整えた。

 そして、通信を接続した。


     *


『……おや。御影会長ではありませんか』


 呼び出し音は、一度しか鳴らなかった。


 私は、その応答速度から彼の行動を推測しようとして、すぐに推測の有効性を検討し直した。


 通信端末を常時携帯している可能性、こちらからの連絡を予測していた可能性、単に偶然操作可能な状態にあった可能性。


 観測された事実は、応答までの時間が短かったという一点にすぎない。


 にもかかわらず、私は一瞬、彼が私の連絡を待っていたのではないかと考えた。


 その解釈には、十分な根拠がない。


 むしろ、彼に先回りされることを恐れている私自身の認知的な偏りが、観測結果へ混入している可能性の方が高かった。


『珍しいですね。こちらからお声を掛けるより先に、あなたからご連絡をいただけるとは。しかも、十五時の最終調整にしては少々早い。私はてっきり、あなたは最後の最後まで計算を続け、すべての変数が許容範囲へ収束したと確信できる瞬間まで、他人に自分の設計を触らせない方なのだと思っていましたが』


「その認識に、大きな誤りはありません」


 私は、発話速度を一定に保った。


「現在も検証は継続していますし、統合構造について、あなたへ追加の裁量を与える予定もありません。ただし、午前中の盤上干渉戦において、既存の確定処理モデルでは十分に説明できない事象が発生しました。十五時のCore Phaseへ影響する可能性がある以上、技術的な評価を共有する必要があると判断したのです」


『なるほど。つまり、あなたの設計には、まだ説明できないものが残っている』


「説明できないことと、説明するための情報が不足していることは、区別してください」


『おや。これは失礼』


 藤党コウは、いかにも申し訳なさそうな声を出した。


『では、少し質問の形式を変えましょう。御影会長。あなたが恐れているのは、十五時の機構が予定どおり作動しなくなることでしょうか。それとも、予定どおり作動した結果、あなたが望んでいない何かが成立してしまうことでしょうか』


 私は、回答を保留した。

 技術的な質問に見える。

 しかし、厳密には技術的な質問ではない。


 彼は、故障の種類や危険の発生条件を尋ねているのではなく、私がどの結果に負の価値を割り当てているのかを尋ねている。

 言い換えれば、私の目的関数を推定しようとしている。

 それも、機構の成功と私個人の成功を、意図的に区別したうえで。


 十五時の計画が予定どおり作動しない場合、私が自由を得る機会は失われるかもしれない。

 逆に、予定どおり作動した場合でも、リゼ様の支配から離脱できるとは限らない。


 したがって、私はどちらの結果も恐れている。


 だが、そう回答すれば、機構の成功とは別に私個人の成功条件が存在することを、彼へ知らせてしまう。


「どちらも検討対象です。設計上の成功条件を満たせない場合と、想定していない結果が発生する場合では、危険の性質が異なります。しかし、両者を比較するためには、まず未知の干渉がどの状態遷移へ影響するのかを把握しなければなりません。私は、その評価についてお話しするために連絡しました」


『ええ。実に適切な回答です』


 彼は、間を置かなかった。


『ただし、御影会長。あなたは今、私が提示した二つの可能性を、どちらも一般的な設計上の問題として説明なさいましたね。私は、あなた自身がどちらを恐れているのかと尋ねたのですが』


「設計者個人の情動評価を、技術的な危険評価へ混入させることは適切ではありません」


『そのとおり。ですが、混入させないことと、最初から存在しないこともまた、別の話でしょう?』


 私は、端末の画面を見つめた。

 藤党コウは、私の回答を否定していない。

 むしろ、正しいと認めている。

 そのうえで、回答が成立するために私が選択した前提へ、質問を移している。

 私は、技術的な議論へ話題を限定することで、自分の目的を隠そうとした。

 しかし、彼はその限定自体を、私が何かを隠している可能性の証拠として扱おうとしている。


 ここには、一つの注意すべき問題があった。

 質問を回避したという事実だけでは、秘密の存在を証明できない。


 単に質問が不適切だったから回答しなかったという説明も成立する。会話の目的から逸脱した質問を拒否することは、合理的な対応であり得る。


 藤党コウほどの人物が、その程度の論理的な区別を理解していないはずはない。


 では、なぜ彼は、あえてこの形式で質問を続けるのか。

 私の秘密を暴くためか。

 それとも、私が秘密を暴かれると恐れる様子を観察するためか。


 後者であれば、彼にとって私の回答が正しいかどうかは、必ずしも重要ではない。


 私は、会話の目的を取り戻すことにした。


「藤党副会長。岡崎ユウマ先輩について、お話しします」


『……岡崎ユウマ』


 彼の声から、先ほどまでの軽い調子が消えた。


 ただし、それが驚きによるものなのか、興味の対象が変化したことによるものなのかは分からない。


『続けてください』


「午前中の盤上干渉戦において、岡崎先輩が《黒葬》と呼ばれる能力を行使しました。その前後の記録を照合した結果、OBSERVER PROXYの接続処理について、開始と進行が確認できるにもかかわらず、最終的な確定結果だけが履歴へ残っていないことが判明しています」


『ほう』


「通常の通信障害や認証失敗では、確認された状態を十分に説明できません。現時点で私は、特定の事象が確定結果として登録される段階に対し、外部から干渉が行われた可能性を検討しています。ただし、能力の適用条件や対象範囲については、まだ確定していません」


 通信の向こうで、何か小さな音がした。


 筆記具を置いた音にも、机を指で叩いた音にも聞こえた。


 私は、それ以上の解釈を与えなかった。


『……御影会長。確認してもよろしいですか』


「どうぞ」


『あなたがおっしゃる履歴とは、単なる端末上の記録ではありませんね。処理系が結果を参照できる状態になったかどうか、より根本的な確定の問題を指している。そう理解してよろしいでしょうか』


「その可能性を検討しています。ただし、観測できたのは処理結果の欠落であり、世界の履歴そのものに対する干渉機構を直接確認したわけではありません」


『ええ。そこは重要です。実に重要だ』


 彼は、初めて技術者としての関心を隠さなかった。


『もし単なる記録欠損であれば、冗長化された記録系や別経路の観測によって補完できるかもしれません。処理停止であれば、停止条件を特定し、再試行の可否を検討すればよい。ですが、特定の結果が確定する境界そのものに干渉しているのであれば、話はまったく違ってきます。結果を前提として次の処理を実行する機構にとって、前提が成立しなかったという状態は、単なる失敗ではありません。設計によっては、失敗よりも厄介な未定義状態になり得る』


「その認識で相違ありません」


『ただし、御影会長。私は、もう一つ別の可能性も考えています。あなたは、岡崎ユウマが結果の確定を拒否したと考えている。ですが、彼が拒否できる対象は、どのように決まるのでしょう。本人が認識した事象なのか、意図的に指定した事象なのか、あるいは何らかの条件を満たした事象だけなのか。それによって、十五時への影響は大きく変わります』


 私は、画面上の統合設計図を確認した。


「現時点では、対象指定の仕組みを確定できていません。少なくとも、あらゆる事象へ無制限に干渉できる能力として扱うべきではないと考えています」


『同感です。未知の能力を万能だと仮定することは、危険を過大評価するだけでなく、実際に存在する制約条件を見落とす原因にもなりますからね』


 彼は、少し楽しそうに息を吐いた。


『しかし、面白いですね。あなたは今、岡崎ユウマの能力が自分の設計を破壊する可能性について、非常に慎重に検討している。ところが、その能力が誰かを救うために使われた場合については、ほとんど語っていない』


「救済という評価は、技術的な作用とは別です」


『もちろん。ですが、彼がその能力を行使する理由が、誰かを救うためだったとしたら?』


「動機については、能力の適用条件が不明である以上、推測の域を出ません」


『ええ。では、仮定として考えましょう。ある人物が、他者の死を防ぐために特定の事象の確定を拒否した。その結果、別の機構が想定外の状態へ移行したとします。このとき、本人の目的は達成されたかもしれない。しかし、全体としての危険が減少したとは限らない。善意による局所的な介入が、必ずしも全体の安全を保証しないわけです』


 私は、その説明を否定しなかった。


 因果的な依存関係を持つ機構では、局所的な結果の改善が全体の改善を意味しない場合がある。

 その点について、彼の説明は妥当だった。

 しかし、次の言葉で、議論の性質が変わった。


『御影会長。あなたは、彼の能力そのものを恐れているのではなく、彼が誰かを救おうとすることを恐れているのではありませんか?』


 私は、答えを選び直した。


 彼は、岡崎先輩の人格について十分な情報を持っていない。

 にもかかわらず、救済という動機を持ち出している。


 これは、既存の情報に基づく推論なのか。それとも、私の反応を観察するための仮説提示なのか。

 もし前者なら、彼は岡崎先輩について私の知らない情報を持っている。

 もし後者なら、私が救済という言葉へどう反応するかを試している。


 どちらにしても、私がここで岡崎先輩の行動原理を詳しく説明することは、彼に追加情報を渡すことになる。


「私は、岡崎先輩の善意を危険視しているわけではありません。彼の行動によって、現在の統合構造に予測不能な状態遷移が生じる可能性を検討しています。能力者の動機と、能力によって生じる結果は、分析上区別する必要があります」


『素晴らしい。では、その区別を維持したまま、もう一つ質問させてください』


 私は、嫌な予感を覚えた。

 その予感に根拠があるかどうかを検討する前に、彼は続けた。


『あなたは、なぜ十五時の実行を延期しないのですか?』


 私は、息を吸った。


『重大な未知の変数が発見された。しかも、その変数は、複数の機構を連結した統合構造に対して、どのような影響を与えるか十分に検証できていない。通常であれば、延期は検討すべき選択肢の一つでしょう。ところが、あなたは延期を提案しない。私に求めているのは、予定された時刻を維持したまま危険を評価することだけです。……どうしてでしょうね』


 私は、複数の回答候補を生成した。

 実行時刻は、合同セッションの同期条件によって制約されている。

 延期すれば、運営側の配置と認証条件を再設定する必要がある。

 再設計によって、新たな不確実性が生じる。

 これらは、いずれも事実に基づく説明として成立する。

 しかし、十分条件ではない。


 延期に伴う危険と、予定どおり実行する危険を比較するためには、双方の期待損失を評価する必要がある。少なくとも、未知の干渉能力が発見されたという理由だけで延期が最適だとは断定できない。


 私は、その点を説明できる。

 だが、問題は別にあった。

 私が延期を拒否している本当の理由は、技術的な評価だけではない。

 十五時が、私にとってリゼ様の支配から離脱する機会だからだ。

 この機会を失えば、次に同じ条件が成立する保証はない。

 そして、延期を求めるという行動の変化が、リゼ様に私の目的を推測させる可能性もある。

 私は、計画の延期を技術的な理由だけで拒否しているわけではない。

 自分の自由を得たいという欲望によって、判断の重み付けを変えている。

 そのことを、藤党コウへ知られてはならなかった。


「実行時刻は、両学園の合同セッションに関する複数の同期条件によって決定されています。現時点で延期する場合、認証、参加者配置、各機構の起動条件について再検証が必要になります。未知の干渉を抱えたまま実行する危険と、全体構造を変更することによる危険を比較した結果、私は現行条件を維持したうえで対策を検討する方が、現時点では評価可能性が高いと判断しています」


『……なるほど』


 藤党コウは、静かに笑った。


『非常に優れた回答です。延期に伴う危険を明示し、実行を継続することが必ずしも非合理ではないと説明している。確かに、その論理には十分な妥当性があります』


「ご理解いただけたのであれば、具体的な検証へ移りましょう」


『ですが、御影会長。あなたは今、延期しないことが合理的であり得る理由を説明しました。延期を選択肢から除外している理由については、まだ説明していませんね』


 私は、言葉を止めた。

 彼の指摘は、厳密には私の回答の誤りを証明していない。

 私は、延期を選択肢から完全に除外したと明言していないからだ。


 それでも、彼の推論には一定の妥当性がある。


 私は、延期を検討対象として残しているかのように説明しながら、実際には十五時を変更する意思を持っていない。


 彼がその不一致を見抜いているとしたら。

 私の説明がどれほど論理的に正しくても、判断の背後に別の制約条件が存在する可能性を、彼は推測できる。


 私は、反論を組み立てた。

 延期は除外していない。

 現時点での優先順位が低いだけだ。


 そのように説明すれば、彼の指摘を退けることはできる。

 しかし、次に延期を検討する条件を尋ねられた場合、私はどう答えるのだろう。

 どのような危険が発生すれば、十五時を動かすのか。

 私は、その条件を明示できない。

 なぜなら、私自身が十五時を動かしたくないからだ。


『ふふ。そんなに難しく考えなくても結構ですよ』


 彼の声は、穏やかだった。


『私は、あなたが何かを隠していると断定しているわけではありません。ただ、あなたの説明には、技術的な合理性だけでは十分に説明しきれない優先順位があるように見える。それが何なのか、少し興味を持っただけです』


「……あなたの興味を満たすことは、今回の協議の目的ではありません」


『ええ。存じています』


 彼は、あっさりと認めた。


『それに、秘密というものは、すぐに答えを知ってしまっては面白くありませんからね』


 私は、端末を握る指に力を込めた。

 彼は、私の目的を知らない。


 リゼ様の存在についても、Echo-Bindingについても、具体的な知識を持っていると判断できる証拠はない。

 それでも、私の行動が通常の設計上の合理性だけでは説明できないことを、彼は理解し始めている。

 あるいは、最初から理解していたのかもしれない。

 私は、その二つを区別できなかった。


「藤党副会長。十五時の実行条件は維持します。そのうえで、《黒葬》による干渉を未知の危険要因として評価してください。能力の限界を断定せず、特定の事象が確定しなかった場合に、後続の機構がどのような状態へ移行するのかを検討していただきたいのです」


『承知しました。ただし、御影会長』


「何でしょう」


『私は、あなたと同じ結末を望んでいるとは、一度も申し上げていませんよ』


 私は、目を伏せた。

 その発言は、明確な敵対宣言ではない。


 協力関係において、参加者の目的が完全に一致している必要はない。異なる目的を持つ者同士でも、一定の範囲で利害が一致すれば協力は成立する。


 しかし、彼は今、その目的の不一致を自発的に明示した。


 なぜだろう。

 私に警戒させるためか。

 協力関係を維持しながら、自分が独立した意思決定主体であることを示すためか。

 あるいは、私がその発言を受けて何を尋ねるのか、観察するためか。

 私は、いずれの可能性も排除できなかった。


「目的が完全に一致している必要はありません。少なくとも、現在合意している設計条件が維持される限り、協力関係は成立します」


『そのとおりです。そして、合意条件といえば……』


 彼は、わずかに声を低くした。


『矢那瀬アスミについても、変更はありませんね?』


 私は、背筋を伸ばした。


「ありません」


『即答ですか』


「確認するまでもない条件ですので」


『ええ。存じています。どのような状況であっても、矢那瀬アスミを死亡させないこと。千五百名規模の犠牲が予測される統合構造において、特定の一名だけを絶対的な保護対象とする。技術的には、実に厄介な制約条件です』


「その条件を満たせないのであれば、設計を変更していただきます」


『もちろん、可能な範囲で対応します。しかし、御影会長。一つ確認しておきたいことがあるのです』


 私は、答えなかった。


『あなたが守りたいのは、矢那瀬アスミという人物の生命でしょうか。それとも、あなたが知っている矢那瀬アスミという人物が、その人らしく存在し続けることでしょうか』


 私は、彼の質問を理解した。

 そして、理解したくないと思った。

 生命の維持と、人格の連続性。

 身体的な生存と、意思決定の自由。

 それらは、互いに関連しているが、同一ではない。


 極端な例を考えれば、生命を維持するために行動を制限することはできる。危険な場所へ近づかせず、外部との接触を制限し、本人が選択できる行動を狭めれば、特定の危険を回避できる場合もある。


 しかし、その方法によって生命が維持されたとしても、本人の自己決定権が尊重されたとは限らない。


 私がアスミ先輩へ要求しているのは、生存だ。

 けれど、彼女は自分の意思で行動する人だ。


 誰かが危険に晒されていると知れば、合理的な危険評価だけを理由に、その場から離れるとは限らない。


 過去に失われたものを知り、それを取り戻す可能性があると考えれば、自分自身の安全を犠牲にしてでも行動するかもしれない。


 私は、その性質を理解している。

 理解しているからこそ、恐れている。

 彼女を生かすために、彼女が自分の意思で選ぶ未来を制限しなければならなくなったら、私はどうするのだろう。


 ……答えは、すでに分かっている。

 私は、彼女の死を許容しない。

 たとえ、それが彼女自身の選択だったとしても。

 私は、その結末を認めない。


 そして、その判断は、私がリゼ様に対して抱いている反発と、根本的な部分で矛盾している。


 私は、自分の意思を他者に所有されたくない。

 にもかかわらず、アスミ先輩の生命に関する最終的な決定権だけは、自分が保持しようとしている。

 藤党コウは、その矛盾を指摘している。


「私は、アスミ先輩の生命を保護することを要求しています。人格や意思決定に介入する権限を、あなたへ与えた覚えはありません。彼女がどのような判断を行うとしても、その結果として死亡する事象だけは成立させない。それが、私の提示した条件です」


『なるほど。つまり、彼女には自由に選択させる。しかし、あなたが望まない結果だけは認めない』


「その表現では、私が彼女の選択そのものを否定しているように聞こえます」


『では、違うのですか?』


「違います。選択と結果は、概念として区別できます。本人が選択したという事実を尊重することと、その選択から生じる危険を回避することは、必ずしも両立不可能ではありません」


『ええ。ですが、常に両立するわけでもありませんね』


「そのとおりです」


『では、両立しない場合には?』


 私は、答えを選ばなかった。

 選ぶ必要がなかったからだ。

 すでに、結論は決まっている。


「生命の保護を優先します」


 通信の向こうで、藤党コウが小さく息を吐いた。


『……御影会長。あなたは、今の回答が何を意味するのか、本当に理解していらっしゃいますか?』


「理解しています」


『あなたは、矢那瀬アスミの自由と生命が衝突した場合、本人の意思よりも生命の維持を優先すると明言した。つまり、少なくともその条件においては、あなた自身が彼女の意思決定へ優越する権限を持つと考えているわけですね』


「権限があると考えているわけではありません」


『では?』


「……そうする、と決めているだけです」


 私は、自分の発言を聞いた。

 論理的な正当化になっていない。

 倫理的な正当化にもなっていない。


 私は、アスミ先輩の選択を制限する権利があると証明できない。

 それでも、制限するという意思だけは持っている。


 藤党コウは、しばらく黙っていた。

 そして、静かに笑った。


『実に素晴らしい』


 私は、その評価を受け入れなかった。


『御影会長。私は今、あなたという人間に、以前よりもずっと強い興味を抱いています。あなたは、非常に優れた設計者です。統計的な不確実性を理解し、制約条件を整理し、必要であれば残酷な結果も計算へ組み込める。ところが、たった一人の少女についてだけは、その設計思想を自分自身で否定している』


「否定しているわけではありません。例外条件として設定しているのです」


『ええ。例外条件。便利な言葉ですね』


 彼は、愉快そうに続けた。


『ですが、その例外を設定した理由は、設計上の必要性なのでしょうか。それとも、あなたがそうしたいと望んだからなのでしょうか』


 私は、唇を閉じた。

 必要性。

 私は、その言葉を何度も使ってきた。

 リゼ様から離脱するために必要。

 Core Phaseを予定どおり実行するために必要。

 アスミ先輩を保護するために必要。


 しかし、必要性とは、何らかの目的を前提として初めて成立する関係だ。

 ある行為が必要であるという判断は、その行為によって達成したい目的が存在することを意味する。


 では、その目的は、誰が決めたのか。

 私は自由になりたい。

 私はアスミ先輩に生きていてほしい。

 その願いを、私は必要性という言葉へ変換してきた。

 変換することで、判断が合理的であるかのように扱ってきた。

 だが、変換したからといって、願いそのものが消えるわけではない。


「……私の条件に、変更はありません」


『承知しました』


 藤党コウは、あっさりと引き下がった。


 私は、その反応に安心できなかった。


 彼は、議論に勝とうとしていたのではない。


 私が何を譲らないのかを確認していたのだ。


 そして、確認できたからこそ、追及を止めた。


『しかし、御影会長。あなたは思っていた以上に人間らしい方ですね』


 その言葉を聞いた瞬間、私は背筋に冷たい感覚を覚えた。


 人間らしい。


 私は、その評価を好意的なものとして受け取れなかった。


 リゼ様もまた、私の感情や矛盾を、興味深いものとして扱うことがある。


 私が苦しむ理由を理解し、その苦しみがどのような行動へ変換されるのかを観測しようとする。


 藤党コウも、同じなのだろうか。

 いや、同じだと断定することはできない。


 リゼ様は、私の思考そのものへ干渉し得る。

 藤党コウは、会話と行動から私の目的を推論している。


 両者の手段は異なる。


 しかし、私が彼らの前で感じているものには、共通点があった。


 理解されることへの恐怖。

 自分が何を望んでいるのかを、相手の言葉によって定義されてしまうことへの嫌悪。


「……私は、あなたの研究対象になるつもりはありません」


『もちろんです』


 彼は、丁寧に答えた。


『ただ、研究対象になるかどうかは、必ずしも本人の意思だけで決まるものではありませんからね』


 私は、通信を終了したいと思った。

 しかし、すぐには終了しなかった。

 今ここで切断すれば、彼は私の反応を新しい情報として扱うだろう。


 では、切断しない方がよいのか。

 必ずしもそうではない。


 会話を継続すれば、それだけ新しい質問へ回答する機会が増える。回答しなければ、その沈黙も観測される。話題を変更すれば、変更先から優先順位を推測される。


 私は、どの選択肢にも情報漏洩の可能性が存在することを理解した。

 そして、その可能性を理解した瞬間、自分が彼の質問へ必要以上に反応していることにも気づいた。


 私は、藤党コウに秘密を知られることを恐れている。

 だからこそ、秘密を守るための行動が増える。

 その行動が、秘密の存在を推測するための材料になる。

 防御行動そのものが、情報を生成している。

 私は、会話を事務的な確認へ戻した。


「最終調整について、認識を確認します。《黒葬》は未知の危険要因として扱い、適用範囲を断定しないこと。統合構造の基本条件を維持すること。そして、矢那瀬アスミ先輩の生存条件を最優先すること。この三点について、相違はありませんね」


『ええ。相違ありません』


「では、以上です」


『ああ、御影会長。最後に一つだけ』


 私は、指を止めた。


『あなたは、十五時に何かを得ようとしている。私は、その何かが何であるかを知りません。ですが、千五百名という犠牲者予測値を受け入れてまで実行を維持している以上、それがあなたにとって極めて重要なものであることは分かります』


 私は、呼吸を整えた。


『では、もしも』


 彼は、ゆっくりと言葉を区切った。


『千五百名が死んだにもかかわらず、あなたが望んでいるものを得られなかったとしたら?』


 私は、答えられなかった。

 質問の意味が理解できなかったからではない。

 理解してしまったからだ。


 私は、自由を得るために計画を維持している。

 しかし、計画の実行が自由の獲得を保証するわけではない。

 Core Phaseが成功したとしても、リゼ様が私の反逆をすでに予測していれば、私は支配から離脱できないかもしれない。

 藤党コウが私の知らない条件を組み込んでいれば、私は彼の設計した結末へ誘導されるかもしれない。

 岡崎先輩の《黒葬》が干渉すれば、私の想定していない状態が成立するかもしれない。


 つまり、千五百名という犠牲を受け入れたことと、自由を得られることの間には、まだ確定した因果関係が存在していない。

 私は、自由を得る可能性のために、他者の死を受け入れている。


 そして、その可能性が実現しなかった場合、私には何が残るのだろう。


 自由ではない。

 救済でもない。

 ただ、千五百名の犠牲を許容したという事実だけが残る。


 私は、その結果を想像した。

 自分自身が何も得られないまま、他者の生命だけを失わせる。


 それは、計画の失敗では済まされない。

 私の行為の意味を、私自身が説明できなくなるということだ。


 ……いいえ。

 説明できなくなるわけではない。

 説明はできる。

 自由を得ようとした。

 そのために危険を受け入れた。

 そして、失敗した。

 それだけのことだ。


 説明できるからこそ、逃れられない。


『……お返事は不要です』


 藤党コウは、最後まで穏やかだった。


『十五時を楽しみにしていますよ、御影会長。あなたが何を望んでいるのか、私はまだ知りません。ですが、あなたがその望みを叶えられなかったとき、どのような表情をなさるのかについては……少しだけ、興味がありますので』


 通信が終了した。


 私は、端末を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 彼は、私の秘密を暴いていない。

 それなのに、私が秘密を守るために使ってきた論理を、ほとんどすべて利用してしまった。

 私は、議論の中で重大な技術情報を失ったわけではない。


 少なくとも、私が意図せずリゼ様の存在や仮想死の設計を伝えた証拠はない。


 しかし、藤党コウは新しい情報を得た。

 十五時を延期したくないという私の優先順位。

 アスミ先輩の生存条件を撤回しないという意思。

 そして、計画の技術的成功とは別に、私自身が得ようとしている何かが存在する可能性。


 私は、それらを自分の口で説明してしまった。

 彼に反論するために。

 自分の判断が合理的であると証明するために。


 その結果、私は自分の合理性だけでは説明できない部分を、以前よりも明確にしてしまった。


 私は、通信履歴を閉じた。

 画面の隅では、火宮先輩がまだ舞台に立っていた。


 私は、その姿を見つめながら、ふと考えた。

 舞台上の俳優は、観客に見られることを前提としている。


 しかし、見られることと、理解されることは同義ではない。

 理解されることと、所有されることも同義ではない。


 私は、その区別を知っているはずだった。

 それなのに、誰かが私を理解しようとするたび、自分の一部が奪われていくように感じる。


 私は、何を恐れているのだろう。

 秘密が暴かれることか。

 自分の行動を予測されることか。

 それとも、私自身がまだ認めていない欲望を、他人の言葉によって確定されてしまうことなのだろうか。


     *


 十三時十八分。

 第三観測室には、舞台から転送される音声と、設備の冷却ファンが発する低い駆動音だけが残っていた。


 私は、統合設計図を再表示したまま、藤党コウとの会話を反芻していた。

 彼は、私の目的を知らない。

 少なくとも、私はそう判断している。


 だが、その判断は、彼が実際に保持している情報を直接確認した結果ではない。彼が会話の中で示した知識、質問の内容、発言を回避した箇所、そして私が知っている彼の行動履歴から推定したものにすぎない。


 ここには、情報非対称性に関する根本的な問題がある。


 私は、自分が彼へ渡した情報をある程度把握できる。しかし、彼が私以外の経路から取得した情報については、完全には把握できない。


 つまり、私が管理できるのは情報の流出経路の一部だけであり、彼の知識全体ではない。


 彼は、天城総合学園の生徒会副会長だ。

 藤党家という、学園運営の中枢に近い系譜にも属している。

 その立場が、具体的にどの情報へのアクセス権限を保証しているのかについて、私は完全な一覧を持っていない。


 彼がW1について、どこまで知っているのか。

 双灯祭の背後に存在する構造を、どの程度理解しているのか。

 Core Phaseについて、私とは異なる目的を持っているとして、その目的は何なのか。


 そして、リゼ様の存在について、本当に何も知らないのだろうか。


 私は、その最後の仮説を生成した瞬間、呼吸がわずかに浅くなったことを認識した。


 吸気時間が短くなった。

 肩周辺の筋緊張が増加している。

 心拍も、安静時の水準を上回っているように感じられた。

 私は、その反応を不安による自律神経系の変化として説明しようとした。

 そして、説明しようとしたところで、思考を止めた。


 ……まただ。

 私は、自分自身の感情を観測している。

 身体反応を抽出し、原因を推定し、意味を与えようとしている。


 それは、普段であれば何の問題もない行為だった。自己の身体状態を認識し、情動反応の原因を検討することは、行動を制御するうえで有用だからだ。


 しかし、私にとっては違う。


 Echo-Binding。

 リゼ様による観測支配は、単なる外部監視として理解できるものではない。

 私が何を考えたのか。

 どのような感情を生じさせたのか。

 その感情を、どのような判断へ変換したのか。

 そして、その判断に基づいて、どのような行動を選択したのか。


 それらの過程が、どの程度まであの方の干渉対象になっているのか、私は確定できていない。


 ここで最も危険なのは、実際の観測範囲が不明であるという点だった。


 私は、すべてを観測されていると証明できない。

 しかし、観測されていないとも証明できない。


 そのため、私は自分自身の思考に対して、過剰な制約を課すようになっていた。


 ある仮説を考えれば、その仮説を考えた理由が知られるかもしれない。

 ある人物を思い浮かべれば、その人物への感情が推測されるかもしれない。

 ある選択肢を避ければ、避けたという行動そのものが、私の目的を示すかもしれない。


 私は、自分自身の思考を守るために、思考を制限している。

 そして、思考を制限するという行為によって、自分自身の自由をさらに狭めている。


 外部からの支配と、支配を恐れることによって生じる自己規制。


 この二つは、区別しなければならない。


 しかし、実際の意思決定において、両者の影響を完全に分離することは難しかった。


 私は、リゼ様に従わされているのだろうか。

 それとも、リゼ様に従わされることを恐れるあまり、自分自身で従属を再生産しているのだろうか。


 ……その問いに答えることさえ、私は恐れていた。


 だからこそ、仮想死という方法を考えた。


 意思の凍結。

 感情評価の停止。

 自己同一性の解除。


 観測される対象が、観測された情報へ新しい意味を与えなければ。

 その意味に基づいて、新しい判断を生成しなければ。

 判断の履歴を、自分自身の物語として統合しなければ。

 リゼ様が私を最適化するために利用できる情報を、減少させられるのではないか。


 それが、私の仮説だった。

 ただし、仮想死は実証された脱出手段ではない。


 私の内的な意味生成を停止させたとしても、身体反応や行動履歴は残る。外部の観測者がそれらを利用して推論することまで、完全に防げるとは限らない。


 そもそも、私が自分自身の思考を停止させようとしたという事実自体が、何らかの意味を持ってしまう。


 つまり、仮想死を実行するという選択は、仮想死によって消去したい情報を、新たに生成する可能性がある。


 自己言及的な矛盾、私はそれを理解していた。


 それでも、他に有効な方法を見つけられなかった。


 そして、もう一つ。

 私は、仮想死を完全に実行することができない。

 理由は、明白だった。


 矢那瀬アスミ先輩。


 私は、あの方の隣にいたい。

 彼女が何を選択するのかを知りたい。

 彼女が過去へ向き合うのであれば、その結果を見届けたい。


 もし、彼女が失われた世界を取り戻そうとする日が来るのなら、私は元の世界を覚えている証人として、その隣に座っていたい。


 その願いは、私にとって単なる付随的な感情ではない。


 自己同一性を維持するための、重要な構成要素になっている。


 私は、アスミ先輩を生かしたいという願いを失った自分を、現在の私と同じ人物として認識できるのだろうか。


 分からない。


 しかし、少なくとも今の私は、その願いを捨てることができない。


 だから、私は意味を生成し続ける。

 アスミ先輩の存在に意味を与え、その未来に価値を認め、彼女を失う可能性に恐怖を感じる。


 私は、リゼ様から逃れるために自分自身の意味を停止させようとしている。


 その一方で、アスミ先輩のためには、意味を持ち続けたいと願っている。


 ……なんて不合理なのか。


 私は、そう考えた。

 しかし、その不合理を訂正しようとは思わなかった。

 そのときだった。


『……シオン』


 私は、身体を硬直させた。


 音声が聞こえた。


 しかし、通常の音声入力とは感覚が異なっていた。


 外部から伝播してきた音を聴覚器官で受容したというよりも、私の内部で、ある言葉が突然意味として成立したように感じられた。


 私は、端末の接続状態を確認した。


 新規通信なし。観測室の扉も閉じられている。

 室内の音響設備に、異常を示す表示はない。


 しかし、それらの事実は、この声の発生源を特定するものではなかった。


『ずいぶんと、難しい顔をしているのね』


 私は、目を閉じた。


 リゼ様。


 声の特徴は、私の記憶と一致している。


 ただし、それだけで外部からの直接的な干渉だと証明できるわけではない。


 記憶に基づく知覚の再構成。

 心理的な負荷による内的な音声経験。

 あるいは、Echo-Bindingを介した実際の干渉。

 複数の仮説が成立する。

 しかし、私には、そのどれであるかを確かめるための独立した観測手段がなかった。


「……リゼ様」


『ええ。私よ。そんなに驚かなくてもいいでしょう?』


 彼女の声は、柔らかかった。


『あなたが何かを考え込んでいるとき、私はいつも、あなたがどこへ辿り着くのかを楽しみにしているのだから』


 私は、発話内容を整理した。

 彼女は、私が何かを考えていたことを指摘している。

 しかし、その指摘自体は、私の具体的な思考内容を把握している証拠にはならない。


 現在の私が十五時の計画について検討していることは、立場と状況から十分に推測できる。

 問題は、彼女がどの程度まで具体的な情報を持っているかだった。


「十五時のCore Phaseについて、最終的な整合性を確認していました。午前中に想定外の事象が発生したため、現在の統合構造へ与える影響を検討していたところです」


『そう。相変わらず真面目なのね』


 彼女は、楽しそうに笑った。


『でも、少し不思議に思っているの。あなたは、計画に未知の変数が生じたことを理解している。それなのに、延期しようとはしない。むしろ、予定された時刻へ向けて、以前よりも熱心に準備を続けている』


 私は、息を止めそうになった。


『ねえ、シオン。あなたは、何をそんなに急いでいるのかしら?』


 藤党コウとの会話が、頭の中で再生された。


 同じ質問。


 いや、正確には異なる。


 藤党コウは、延期しないことの合理性を尋ねた。

 リゼ様は、私が急いでいる理由を尋ねている。


 前者は、設計上の判断とその背後にある優先順位を探る質問だった。

 後者は、私自身の欲望を問う質問だ。


 ただし、この区別も、私の解釈にすぎない。


 リゼ様が本当に私の欲望を把握しているのか、それとも一般的な質問によって私の反応を引き出そうとしているのかは、まだ分からない。


 私は、回答を慎重に選んだ。


「実行時刻が固定されている以上、準備を遅らせる合理的な理由はありません。私は、現在の条件において最も整合的な結果を得るために、必要な検証を継続しているだけです」


『……ふふ』


 リゼ様は、笑った。


『あなたは本当に賢い子ね。質問に対して、いつも正しい答えを用意している。論理的な欠陥を探そうとしても、簡単には見つからない』


 私は、黙っていた。


『でも、シオン。私は、あなたの答えが正しいかどうかを知りたいのではないの』


 声が、少しだけ近くなったように感じられた。


『あなたが、なぜその答えを選んだのかを知りたいのよ』


 私は、指先を動かせなかった。

 回答選択。

 複数の候補から、特定の一つを選択する過程。

 それは、単なる言語生成ではない。

 相手に何を伝えたいか。

 何を知られたくないか。

 どのような反応を期待するか。

 どのような危険を回避したいか。

 それらの評価を経て、最終的な発話が選択される。


 リゼ様は、その過程へ関心を向けている。

 私は、質問へ回答する前に、回答が相手へ与える情報を評価している。

 そして、その評価自体が、あの方の観測対象になっているかもしれない。


 私は、自分がどの段階で情報を漏らしているのかを特定できなかった。

 発話した瞬間なのか。

 回答を選択した瞬間なのか。

 回答候補を生成した瞬間なのか。

 あるいは、質問を受けて何かを隠そうと考えた瞬間なのか。


 もし、最後の可能性が成立するのであれば。

 私は、秘密を守ろうとすることによって、秘密の存在を通知していることになる。


「……私の回答選択に、何か問題がありましたか」


『いいえ。問題なんてないわ』


 彼女は、優しく答えた。


『ただ、少しだけ変化を感じたの。以前のあなたなら、未知の変数が発生したとき、まずそれを理解しようとしたでしょう? でも、今のあなたは違う。理解できないものが存在していても、計画を進めようとしている』


 私は、何も答えなかった。


『まるで、理解することよりも大切な何かが、あなたの中に生まれたみたい』


 私は、思考を停止させようとした。


 仮想死。


 その概念を意識した瞬間、私は自分が誤った手順を選択しかけていることに気づいた。


 仮想死を実行しようとする。


 それ自体が、現在の状況に対する反応だ。


 リゼ様が私の反応を観測しているのであれば、思考停止という変化は、むしろ重要な情報になり得る。


 では、通常どおり回答すればよいのか。


 それも違う。


 回答を選択する理由が、すでに観測されている可能性がある。


 私は、どの選択肢が最も情報を漏らさないのかを評価しようとした。


 そして、その評価を始めた瞬間、さらに新しい問題が発生した。


 情報を漏らさないための最適化。


 その最適化の存在自体が、私が何かを守ろうとしていることを示してしまう。


 私は、思考を続けるほど、選択可能な行動が減少していくように感じた。

 実際に選択肢が失われているわけではない。


 しかし、どの選択肢にも危険を見いだすようになった結果、私自身がそれらを選べなくなっている。

 これは、外部からの強制なのだろうか。

 それとも、私自身が作り出した拘束なのだろうか。

 ……分からない。


『ねえ、シオン』


「……はい」


『あなたは、私から何かを隠している?』


 私は、完全に沈黙した。


 問いは、単純だった。

 しかし、その単純さが、私の回答可能性を奪っていた。


 否定すれば、否定した理由を問われるかもしれない。

 肯定すれば、秘密の存在を認めることになる。

 沈黙すれば、沈黙の理由を推測される。

 話題を変更すれば、変更先から回避した内容を推測される。


 もちろん、どの反応からも秘密の存在を確実に証明できるわけではない。


 しかし、リゼ様が必要としているのは、厳密な証明ではないのかもしれない。

 私の反応から仮説を更新できれば、それで十分なのかもしれない。


 私は、仮想死の三段階論理を思い出した。

 意思の凍結。

 感情評価の停止。

 自己同一性の解除。


 私は、回答を生成することをやめようとした。


 否定しない。

 肯定しない。

 説明しない。


 質問が存在しているという事実だけを認識し、それ以上の意味を生成しない。


 私は、視線を舞台映像へ固定した。


 火宮先輩が、オルフェの幻影へ向かって何かを語りかけている。

 観客席の照明は落とされている。

 舞台中央の光量が変化した。

 私は、その変化を認識した。

 しかし、なぜ変化したのかを考えない。

 その変化が物語の中で何を意味するのかも、考えない。

 私は、ただ情報を受け取る。

 それ以上の処理を行わない。


『……シオン?』


 リゼ様の声に、わずかな変化が生じた。


 私は、その変化を分析しようとした。


 そして、すぐに止めた。

 分析してはいけない。

 分析すれば、私は再び意味を生成する。


 私は、呼吸を続けた。

 椅子に座り、舞台映像を見つめ、身体が存在していることだけを認識した。


 数秒が経過した。

 私は、その数秒を長く感じた。

 時間感覚の変化。

 私は、その原因を検討しかけた。


 ……また。

 私は、自分の認知過程を観測している。

 観測しないようにするために、観測している。

 意味を生成しないために、意味の生成を監視している。


 私は、その矛盾を理解した。

 理解した瞬間、仮想死は破綻した。


『……ふふ』


 リゼ様が笑った。


『少し疲れているのかしら。今日はずいぶんと、反応が遅いのね』


 私は、何も答えなかった。

 彼女が私の試みを理解したのかどうかは、分からない。

 単に疲労による反応遅延だと解釈した可能性もある。

 あるいは、理解したうえで、そう解釈したふりをしているのかもしれない。

 私は、その区別を確定できなかった。


『いいわ。無理をしなくても。十五時のことは、あなたに任せているのだから』


 彼女の声は、どこまでも穏やかだった。


『ただし、一つだけ覚えておいてね』


 私は、息を吸った。


『あなたがどれほど優れた設計を行ったとしても、その設計の中に、あなた自身が含まれていないとは限らないのよ』


 私は、その言葉を理解した。


 そして、理解したことを後悔した。


 私は、Core Phaseを設計している。

 しかし、その設計を行っている私自身が、リゼ様の観測対象である。


 私の設計が、私自身の意思決定によって構築されている以上、その意思決定過程をあの方が予測できるのであれば、設計の一部を推測できる可能性がある。


 さらに、私が反逆を計画していることまで知られていた場合、私は自分自身の自由を得るために設計したつもりで、実際にはリゼ様の望む結果へ向かって行動している可能性がある。


 その可能性は、否定できない。

 しかし、肯定するための十分な証拠もない。

 私は、証拠のない恐怖によって計画を放棄するべきではない。


 そう考えた。

 そして、すぐに気づいた。


 計画を維持したいという欲望が、また私の判断へ混入している。

 私は、何を根拠に自分の合理性を信じればよいのだろう。


『それじゃあ、シオン。十五時を楽しみにしているわ』


 声が消えた。

 私は、しばらく動かなかった。


 端末には、新しい通信記録が存在していない。

 少なくとも、通常の通信経路を通じた接触は確認できなかった。


 私は、自分の手を見つめた。

 指先が、わずかに震えていた。


 その震えを恐怖と名付けた瞬間、私は仮想死に失敗したことを理解した。


 私は、まだ感情を評価している。

 私は、まだ自分自身を認識している。


 そして、私は、まだ生きていたいと望んでいる。


 アスミ先輩の隣で。

 リゼ様に観測されない場所で。


 誰かに与えられた役割ではなく、私自身として。

 私は、その願いを捨てられなかった。


     *


 十三時二十九分。

 舞台映像に、予定されていた演出とは異なる可能性のある変化が生じた。


 最初に気づいたのは、火宮先輩の視線だった。


 彼女は、舞台上の相手役へ向けていた視線を、舞台袖に近い暗がりへ移した。続いて、身体の重心をわずかに後方へ移動させる。岡崎先輩は、その動きに呼応するように立ち位置を変えた。


 私は、映像を拡大した。


 舞台袖から、一人の人物が現れている。

 異様に大柄な体格。

 黒い衣装。

 シルクハット。

 ペストマスク。

 そして、舞台全体の演出とは明らかに異なる、過剰なほど古風な所作。


『これはこれは、なんとも素晴らしい歌姫でいらっしゃる』


 私は、音声を確認した。


 発言は、舞台上の物語へ自然に接続できる形式を持っている。


 しかし、登場人物の存在そのものについては、事前に把握している演出情報との整合性が低い。


 もちろん、私がすべての演出変更を把握しているとは限らない。即興演技や、関係者の一部にのみ共有された演出という可能性もある。


 だが、火宮先輩の反応には、通常の演技とは異なる要素が存在していた。


 彼女は、相手の動きを確認しながら、舞台袖と客席の位置関係を意識しているように見える。


 岡崎先輩は、彼女と侵入者の間へ身体を移動させた。


 私は、その行動を、危険に対する防御的な反応として解釈した。


 ただし、映像だけでは確定できない。

 私は、さらに観測を続けた。


 そのとき。

 男の袖から、鎖が伸びた。

 火宮先輩へ向かって。


 私は、椅子から身を乗り出した。


 鎖の運動は、通常の舞台装置として説明するには不自然だった。袖の内部に収納されていた物体が射出されたのだとしても、その長さと動きには疑問が残る。


 しかし、機構の詳細を推定する時間はなかった。


 岡崎先輩が、火宮先輩の前へ割り込んだからだ。


 私は、その姿を見つめた。

 彼は、状況を完全に把握しているわけではないはずだった。


 侵入者の能力も、目的も、攻撃手段も、十分には分かっていない。


 それでも、彼は行動した。


 危険を認識し、火宮先輩を守るために身体を動かした。


 私は、その判断を分析しようとした。

 行動までの時間。

 侵入者との位置関係。

 火宮先輩の退避可能性。

 岡崎先輩自身が負う危険。


 しかし、途中で思考が止まった。

 私は、また観測している。

 誰かが危険に晒されているという状況を認識しながら、まずその反応を分析している。


 もちろん、危険を観測することと、危険を放置することは同義ではない。適切な対応を行うためには、状況を理解する必要がある。


 しかし、私が現在行っている観測は、誰かを救うためのものなのだろうか。

 それとも、十五時の計画へ影響する可能性を評価するためのものなのだろうか。


 私は、後者の目的が存在することを否定できなかった。

 岡崎先輩が《黒葬》を行使するのであれば、その適用条件を観測できるかもしれない。

 未知の能力について、新しい情報が得られるかもしれない。

 そして、その情報は、十五時の計画へ利用できるかもしれない。


 私は、火宮先輩の危険を認識しながら、同時にその危険から得られる情報の価値を評価している。


 藤党コウと同じように。

 リゼ様と同じように。


 私は、自分自身を彼らとは異なる存在だと考えたかった。


 しかし、違いを証明するためには、何が必要なのだろう。


 他者の苦痛を理解することか。

 その苦痛に共感することか。

 あるいは、苦痛を認識したとき、観測を中断してでも何かを行うことか。

 私は、答えを持っていなかった。


 舞台上で、火宮先輩が声を上げた。

 彼女の声は、震えていた。

 しかし、途切れなかった。

 私は、彼女の表情を見つめた。

 恐怖を感じている。

 その可能性は高い。


 それでも、彼女は舞台から退こうとしていない。

 少なくとも、映像上では、観客へ向けた表現を維持しようとしている。

 彼女は、自分の感情を隠しているのではない。

 恐怖を抱えたまま、その恐怖を自分の声へ変換している。


 私は、その違いに気づいた。

 私なら、恐怖を分析する。

 恐怖の原因を特定し、その原因を取り除くための行動を検討する。

 それでも取り除けなければ、恐怖を表面へ出さないように制御する。


 火宮先輩は、違った。

 彼女は、恐怖を消していない。

 恐怖を、誰かに利用されるだけのものにもしていない。

 自分が抱いた感情を、自分の表現として扱おうとしている。


 その姿を見て、私は初めて、ある可能性を考えた。

 観測されることから逃れる必要は、必ずしもないのかもしれない。


 誰かに理解されることと、その誰かに所有されることは、同義ではない。

 他者が私の感情を理解したとしても、その感情をどう扱うかについての決定権まで、当然に移転するわけではない。


 私は、その区別を理論上は理解していた。

 しかし、自分自身については、長い間適用できずにいた。


 リゼ様に理解されることは、支配されることだと思っていた。

 藤党コウに理解されることは、利用されることだと思っていた。


 その恐怖には、現実の根拠がある。

 リゼ様の干渉は、単なる心理的な不安ではない。

 藤党コウの設計も、実際に多数の人間を危険へ晒す構造を持っている。

 だから、彼らへの警戒を解くことはできない。


 それでも理解されること自体が、必ず支配を意味するわけではない。


 私は、その可能性を否定できなくなっていた。


 舞台上で、岡崎先輩が火宮先輩を守るように立っている。

 私は、《黒葬》について考えた。

 もし、彼が再びその能力を行使するのであれば。

 もし、特定の事象が確定される瞬間に干渉できるのであれば、十五時に私が用意した結末も拒否できるのだろうか。


 私は、その可能性を考えた。

 そして、その可能性が自分にとってどれほど危険なものなのかを理解した。


 私は、計画の成功を望んでいる。

 リゼ様からの解放を望んでいる。

 そのために、十五時の実行条件を維持している。


 しかし、同時に岡崎先輩が、私の用意した結末を拒否してくれることを望んでいる。

 千五百名の犠牲を、誰かに阻止してほしいと思っている。


 私は、その二つの願いを、同時に抱いていた。

 論理的な矛盾ではない。


 人間は、相反する欲望を同時に持つことがある。

 それぞれの欲望が異なる価値に結びついている場合、単一の判断へ統合できないこともある。


 私は、そのことを知っている。

 しかし、知っているからといって、苦痛が消えるわけではなかった。

 私は、自由になりたい。

 私は、千五百名を死なせたくない。

 私は、アスミ先輩を生かしたい。

 私は、自分の計画を成功させたい。


 そして、私は、誰かにその計画を止めてほしい。


 私は、目を閉じた。


 その願いを、リゼ様に知られてはならない。

 藤党コウにも、知られてはならない。


 しかし、最も恐ろしいのは、その願いを私自身が認めてしまったことだった。

 私は、自分の計画を否定する理由を、外部の観測によってではなく、自分自身の内部に見つけてしまった。


 舞台上では、火宮先輩が歌い始めていた。

 彼女の声は、恐怖の存在を消していない。

 それでも、歌は続いている。

 私は、その声を聞いた。

 そして、十五時のことを考えた。

 藤党コウは、私の真の目的を知らない。

 少なくとも、そう判断できる余地がある。

 リゼ様は、私の反逆を完全に把握しているとは限らない。

 少なくとも、その可能性を否定する証拠も、肯定する証拠も十分ではない。

 私は、二人の観測者の間にいる。


 彼らは、それぞれ異なる情報を持っている。

 互いの目的を完全には理解していない可能性がある。

 その情報非対称性が維持される限り、私はまだ、彼らの予測から外れる選択を行えるかもしれない。


 しかし、ここで一つの問題が残る。

 私が情報非対称性を利用して自由を得ようとする場合、その行動もまた、他者の予測を操作する行為になる。

 私は、支配から逃れるために、他者の認識を制御しようとしている。

 その構造は、私が拒絶しているものと、どこまで異なるのだろう。


 私は、答えを出せなかった。

 それでも、行動しなければならない。

 十五時は、近づいているのだから。


 私は、統合設計図を閉じた。

 実行条件は、変更しない。

 アスミ先輩の生存条件も、変更しない。

 岡崎先輩の《黒葬》については、藤党コウへ情報を渡した。

 リゼ様には、私の真の目的を伝えていない。

 少なくとも、私自身の意思によって伝えた覚えはない。


 私は、その事実を確認した。

 確認した瞬間、再び背筋が冷たくなった。

 私は、計画がまだ成立していることを確かめようとしている。

 つまり、私は自分の行動に意味を与え、その意味に基づいて次の判断を生成している。


 仮想死は、完成していない。

 私は、まだ観測可能な存在だ。


 しかし、観測可能であることは、必ずしも自由が存在しないことを意味しない。


 私は、舞台上の岡崎先輩を見つめた。

 彼は、火宮先輩を守るために立っている。

 その行動が、彼自身の意思によるものだと、私は考えたい。


 もちろん、他者の意思が完全に自律的であることを、外部から証明するのは難しい。


 人間の選択は、過去の経験、社会的な関係、記憶、情動、身体状態、環境条件など、多数の要因から影響を受ける。

 それでも、影響を受けていることと、選択が本人のものではないことは、同義ではない。


 私は、その違いを理解しなければならないのかもしれない。

 自分の選択が誰かの予測の範囲内にあるとしても、誰かが、私の行動を理解していたとしても。

 それだけで、私の意思が消滅したと結論する必要はない。

 私は、そう考えた。

 しかし、その考えが本当に私自身のものなのかという疑問が、すぐに浮かんだ。


 ……また。

 私は、自分の思考を疑っている。

 疑うことによって、自由を確認しようとしている。

 そして、自由を確認できないことによって、さらに疑いを深めている。

 私は、この循環から抜け出せない。


 観測室の時計は、十三時三十二分を示していた。

 Core Phase開始まで、残り一時間二十八分。

 私は、舞台上で歌い続ける火宮先輩を見つめた。


 そして、心の中で一つの問いを繰り返した。

 岡崎先輩。


 あなたが、本当に誰かによって確定されようとする結末を拒否できる人間なのだとしたら、あなたは私が用意した結末も拒否してくれるのでしょうか?


 私は、その答えを知りたい。


 しかし、その答えを知るために、千五百名の命を危険へ晒し続けている自分を、正当化することはできなかった。


 私は、自由を得るために計画を維持している。

 そして、その計画が失敗することを、心のどこかで望んでいる。


 もし、アスミ先輩が私の計画を知ったなら、彼女は私を許さないだろう。


 その可能性は高い。


 彼女は、他者の命を統計上の処理対象として扱うことを、簡単には受け入れないはずだからだ。


 それでも、私は彼女に生きていてほしい。


 私を許さなくても構わない。

 私を拒絶しても構わない。

 私の行動を、間違っていると断じても構わない。


 彼女が生きていてくれるのであれば。


 そして、私の犯したことを最後まで覚えていてくれるのであれば、私はその記憶の中に自分が存在していた証拠を残せるかもしれない。


 ……いいえ、それも私の欲望だ。

 私は、観測されることから逃れようとしている。

 その一方で、アスミ先輩には、私を覚えていてほしいと願っている。

 誰にも理解されたくない。

 けれど、たった一人には理解してほしい。

 誰にも所有されたくない。

 けれど、誰かの記憶の中には残りたい。


 私は、その矛盾を抱えている。

 そして、矛盾を抱えているという理由だけで、自分の行為が許されるわけではない。


 千五百名という数字は、まだ画面の中に存在している。


 その数字の一つひとつが、実際には異なる人生を持つ人間に対応している。

 家族がいるかもしれない。

 友人がいるかもしれない。

 明日の予定を立てているかもしれない。

 双灯祭が終わった後、誰かと食事をする約束をしているかもしれない。


 私は、その全員について具体的な情報を持っているわけではない。

 しかし、情報を持っていないからといって、彼らの人生が存在しないことにはならない。


 私は、彼らの未来を、統合設計図の中で一つの数値へ集約している。

 そして、その数値を受け入れたまま、十五時を待っている。


 これは、誰かに強制されたという説明だけでは済まされない。


 リゼ様の支配は存在する。

 藤党コウによる設計変更も存在する。

 しかし、私は現在の危険を認識している。

 認識したうえで、実行を止めていない。


 その判断は、私のものだ。


 たとえ、その判断が誰かに予測されていたとしても。

 たとえ、その判断へ誰かの干渉が存在していたとしても。

 私は、自分が何をしたのかという事実まで、他者へ明け渡すつもりはなかった。


 自由を求めるのであれば、自由を得た後の責任だけでなく、自由を求める過程で行った選択の責任も、引き受けなければならない。


 私は、ようやくそのことを理解し始めていた。

 しかし、理解したからといって、計画を中止できるわけではない。

 

 中止できないのではない。

 中止していないのだ。


 私は、その違いを、自分自身へ言い聞かせた。

 観測室の時計が、一秒進んだ。


 私は、舞台上の岡崎先輩を見つめた。

 あなたが、私の用意した結末を拒否するのであれば、そのとき私はあなたを敵として認識するのでしょうか。


 それとも私が自分自身の自由を得るために、最後まで必要としていた不確定性として認識するのでしょうか。


 まだ、答えは出ていない。

 それでも、十五時は近づいている。


 私は、計画を維持している。

 私は、誰かに止めてほしいと願っている。


 そして、その二つの事実を、同時に認識している。


 ――御影シオン。


 私は、まだ生きている。


 藤党コウとの通信は終了した。リゼ様のお声も、現在は聞こえない。


 十五時の実行条件は維持され、統合設計に重大な変更はなく、アスミ先輩の生存条件についても、藤党副会長から再度の了承を得ている。


 形式上は、何一つ失敗していない。


 少なくとも、外部から観測可能な結果だけを評価するのであれば、そう結論することは可能だ。


 しかし、私は自分が二度、敗北したような気分になっている。


 藤党コウは、私の秘密を知らなかった。正確には、知っていると判断できる証拠を示さなかった。

 それでも、私の回答に含まれる優先順位の不一致を抽出し、技術的な合理性だけでは説明しきれない判断が存在することを、推論によって明らかにしてしまった。


 彼に反論するたび、私は自分の判断が合理的である理由を説明した。


 そして、説明するたびに、合理性では説明できない部分をより明確にしてしまった。


 リゼ様は、さらに恐ろしい。

 あの方が私の思考をどこまで直接観測しているのか、私はまだ確定できていない。


 しかし、実際の観測範囲がどこまでであれ、観測されているかもしれないという恐怖が、私の意思決定を制限していることだけは確かだ。


 反論しても、沈黙しても、回答を変更しても、その選択が新しい情報になる可能性を考えてしまう。


 私は、仮想死によって意味の生成を停止させようとした。

 しかし、意味を生成しないようにするためには、自分が意味を生成していないかどうかを監視しなければならない。

 その監視そのものが、新しい意味を生んでしまう。


 ……滑稽だ。

 観測から逃れるために、私は誰よりも自分自身を観測しているのだから。


 そして、もう一つ。

 私は、自由になりたいと願っている。


 けれど、その自由を得るために、他人の生死を設計し、他人の選択を制限し、他人の未来を自分の望む条件へ固定しようとしている。


 リゼ様の支配を拒絶する私が、アスミ先輩の生存だけは、自分の意思で確定させようとしている。


 私はその矛盾を理解しているし、理解したうえで条件を撤回しない。

 彼女に憎まれることよりも、彼女がいなくなってしまうことの方が、ずっと恐ろしいから。


 この感情を合理性へ変換することは、もうできないのかもしれない。


 重要人物の保護。

 設計上の例外条件。

 将来の観測可能性。


 どの言葉を使っても、私が本当に望んでいることを、十分には説明できない。

 私は、アスミ先輩に生きていてほしい。

 ただ、それだけだ。


 舞台では、火宮レイカ先輩が歌っている。

 岡崎ユウマ先輩は、彼女を守るために立っている。


 二人は、観測されることそのものを拒んでいるわけではないのだろう。


 観測されたとしても、自分の感情や意思を、他者へ明け渡す必要はない。

 そのことを、行動によって示しているように見える。


 私には、まだそれができない。


 だから、十五時を待つ。

 千五百名という犠牲者予測値を理解したまま。

 藤党コウへ《黒葬》の情報を渡した危険を承知したまま。

 そして、リゼ様がすでに私の反逆を予測しているかもしれないという恐怖を抱えたまま。


 もし、岡崎先輩が私の用意した結末を拒否するのであれば、私は、そのとき何を感じるのだろうか。


 怒り? 絶望? それとも、安堵?


 ……まだ、答えは出ていない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。


 私は自由になりたい。


 けれど、その自由を得るために犯したことまで、なかったことにしてほしいわけではない。


 私が本当に自由を得る日が来るのであれば、そのときこそ、自分の選択によって生じた結果を、自分自身の責任として引き受けなければならないのだから。


 誰かに命じられたからではなく。

 誰かに観測されたからでもなく。

 私が、そうすると決めたから。


 それでは、また次に私がこの記録を残すとき、十五時はまだ未来なのだろうか。

 それとも、すでに誰かの手によって、拒否された結末になっているのだろうか。


 ――御影シオン。


 観測継続。

 Core Phase開始まで、残り一時間二十八分。


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