EP226.DAY2:幕引きは歌姫の手で、晩餐は暗転の彼方へ
記録者――火宮レイカ/Siren
舞台って、すごいんだよ!?
何もない場所に光を落とすだけで、そこは誰かの寝室にも、戦場にも、世界の果てにもなる。
役者が涙を流せば観客も泣くし、たった一言で何百人もの心を震わせることだってできる。
私は、その瞬間が大好き。
でも、舞台には絶対に守らなければならない約束がある。
どれだけ恐ろしい悲劇を演じても、幕が下りれば現実へ帰ってこられること。
……ところが双灯祭DAY2の私は、その約束を本気で心配しなければならなくなっていた。
今朝の盤上干渉戦でミナトは深刻な損傷を受け、オルフェ役を降板。舞台は急遽再構成。
そして昨日から、誰かが私の感情を勝手に観測している。
銀色の蝋封が押された手紙。
気持ち悪いほど丁寧な言葉。
――事象地平の食卓にて
あの署名を思い出すだけで、背筋がぞわっとする。
私が演じるリナ=シュタインは、誰かに観測されなければ自分の存在を信じられない歌姫だ。
でも、私は違う。
火宮レイカは、誰かに所有されるために舞台へ立つんじゃない。
怖ければ怖いと言うし、腹が立てば怒る。嬉しかったら全力で笑う。それが私の演技であり、私自身なんだから。
……とはいえ、正直ちょっと怖い。
あの視線の正体は、まだわからない。
それでも、開演時間は待ってくれない。
さあ、双灯祭DAY2。
『シュレディンガーの仮面』後編。
歌姫の物語に、最後の幕を下ろそう。
ただし、その結末を決めるのは――私だ。
舞台というものは、嘘を本物に変える装置だ。
何もない床に一筋の光を落とせば、そこは月明かりの差し込む寝室になる。
薄い布を何枚か吊り、後ろから青い照明を当てれば、観客はその向こうに海を想像する。
役者が存在しない相手へ手を伸ばし、ほんの少し指先を震わせるだけで、客席にいる何百人もの人間が、そこには確かに誰かがいるのだと信じてくれる。
その仕組みを、私は愛している。
舞台の上で起きることが本当かどうかなんて、実はそれほど重要じゃない。
大切なのは、そこに立つ人間が何を信じ、その信念をどれだけ強い熱量で観客に届けられるかということだ。
作り物の剣でも、振り下ろす役者の恐怖が本物なら観客は身をすくめるし、偽物の涙でも、その涙に至るまでの感情が成立していれば、客席のどこかで本物の涙が流れる。
だけど、ひとつだけ絶対に取り違えてはいけないことがある。
舞台の上で流れる血は、偽物でなければならない。
誰かが倒れる場面を演じても、暗転したあとには自分の足で立ち上がれること。
首を絞められる芝居をしても、実際に呼吸を奪われることはないこと。
恐怖を表現しても、その恐怖を役者本人へ押しつける権利など、演出家にも観客にも存在しないこと。
そういう約束があるから、私たちは安心して悲劇を演じられる。
そして、その約束が破られた瞬間、舞台は舞台ではなくなる。
……なんて普段の私なら、そんな話をしたあとに「だから安全確認は大事なんだよ!」と後輩たちへ説教して、最後は全員で笑って終わるところだ。
でも今日ばかりは、そう簡単に笑えそうになかった。
なにしろ、つい三十分ほど前まで、誰かが私を勝手に観測し、恐怖や怒りを採点し、あまつさえ私のことを料理か何かのように扱っていたのだから。
しかも、そいつが本当に立ち去ったという保証は、どこにもない。
そんな状態で舞台に立とうとしている自分を、冷静な人間なら無謀と呼ぶのかもしれない。
だけど私は火宮レイカ。
無謀と無責任の違いくらい、ちゃんとわかっているつもりだ。
だから、安全確認はした。照明卓の制御権限を再設定し、音響の外部入力を物理的に切り離し、映像再生系統を独立したローカル環境へ移した。
舞台機構の遠隔操作は禁止し、緞帳と吊物は手動確認を優先する。
開演後も異常があれば即座に中止できるよう、舞台監督の停止権限を明文化して、全スタッフに共有した。
できることは、全部やった。
それでも、胸の奥には小さな棘が残っている。
昨日の封筒。
銀色の蝋封。
あの声。
そして、何よりも――事象地平の食卓にて
あの気持ち悪い署名が、どうしても頭から離れなかった。
◇
十二時三十分 天城学園第二講堂。
『シュレディンガーの仮面』後編開演。
客電がゆっくりと落ちていくと、それまで客席に満ちていた話し声が、まるで潮が引くように静まっていった。
私は舞台袖の暗がりで、インカム越しに進行担当の声を聞きながら、目を閉じて呼吸を整えていた。
開演前の観客というのは、面白い。
客電が落ちた瞬間に黙る人もいれば、最後まで隣の友達へ何かを囁いている人もいる。
スマートフォンをしまうのが遅い人、椅子へ深く腰掛け直す人、なぜか背筋を伸ばす人。
そうした細かな動きが連鎖して、やがて客席全体がひとつの方向を向く。
私は、その瞬間を舞台の第一呼吸と呼んでいる。
まだ役者は何もしていない。
音楽すら始まっていない。
それなのに、観客の身体はすでに物語へ入る準備を始めている。
だから開幕の数秒は、絶対に無駄にしちゃいけない。
『舞台監督、スタンバイ確認。照明、音響、映像、各部署応答願います』
インカムから順番に返事が入る。
『照明、スタンバイ完了』
『音響、再生系統ローカル固定。外部入力遮断確認』
『映像、投影系統正常。Chrono-Scope外部連動なし』
『舞台機構、全吊物固定。手動停止要員配置済み』
最後にミサキの声が届いた。
『客席誘導完了。避難動線も確保してる。レイカ、無理しないで』
「了解! でも、無理しない舞台なんて面白くないじゃん」
『そういう意味じゃない』
「わかってるって! 危険なことはしない。そこは約束する!」
返事をしながら、私は胸元の小さなマイクを外した。
ここから先は、舞台の上の声で勝負する。
私の役はリナ=シュタイン。
観測されることでしか、自分の存在を信じられない歌姫。
前編の最後、彼女は仮想人格と同期し、自分の声が自分だけのものではなくなっていく恐怖に直面した。
観客の視線を欲しがりながら、その視線によって自分自身が分解されていくという矛盾を抱えたまま、物語は暗転している。
そして後編では、ファントムがその束縛を断ち切ろうとする。
本来なら、そこにオルフェがいた。
立花ミナトが演じる技術主任。
観測装置を管理し、リナとステラの共鳴値を測定し、危険な同期を止めようとする人物。
けれど今日、ミナトは舞台に立てない。
その事実を、私たちは隠さないことにした。
代役を立てるのではなく、オルフェの不在そのものを物語へ組み込む。
そして、その不在を観客へ見せるために、私たちはひとつの仕掛けを用意した。
NOXの技術で構築した、ミナトのホログラム。
正確には、舞台前方の透過スクリーンと複数の投影系統を組み合わせ、Chrono-Scope由来の空間補正技術で視差を整えた立体映像だ。
空中に実体が浮かぶわけではないし、どこから見ても同じように立体的に見える万能装置でもない。
客席の視点範囲を限定し、照明の角度を調整して初めて成立する、繊細で面倒な視覚演出である。
でも、だからこそ面白い。
映像には、昨日までの稽古で取得したミナトの立ち姿と動作の記録を使っている。
ただし、本人の音声は使わない。今日のために新しく彼の言葉を作り、本人が話しているように見せることもしない。
オルフェの姿は、あくまで記録の残響。
触れようとしても触れられない、過去の観測像。
存在しているのに、そこにはいない。
その矛盾を、私は後編の中心に据えた。
『レイカ、三十秒』
ユウマの声がインカムから届いた。
彼はすでにファントムの衣装へ着替えている。
黒を基調とした長い上衣に、光を吸い込むような仮面。
昨日と同じ姿なのに、今日は少しだけ印象が違った。
NOXとしてのタナトス。
世界の記録そのものへ干渉する《黒葬》を使う人間。
舞台の上で彼が演じるファントムは、リナを観測の束縛から解放しようとする存在だ。
なんというか。
配役が、あまりにも出来すぎている。
「ねえ、ユウマ」
『何?』
「今日のファントム、ちょっとだけ本気出してよね」
『演技の話?』
「両方!」
短い沈黙のあと、彼が小さく笑った。
『了解。できる範囲で』
「そこは『任せろ』でしょ!」
『任せろ』
「よし! 百点!」
私はインカムをミサキへ預け、舞台へ向かう。
袖幕の向こうから、最初の音楽が流れ始めた。
低い弦楽器の持続音に、ガラスを指先で擦るような高音が重なる。
拍子を明確にしない導入は、観客の身体から時間感覚を少しだけ奪うための仕掛けだ。
人間は一定のリズムがあると次の拍を予測するけれど、その予測を与えなければ、無意識に次の変化を待ち続ける。
私は、その待機状態を利用する。
客席が次の音を探し始めた瞬間、舞台中央に細い光を落とす。
そこへ、私が立つ。
歌姫リナ=シュタインとして。
◇
「……誰か、いますか?」
最初の台詞は、囁きに近い声で始めた。
舞台中央には、白い円形の平台がひとつ。
周囲には半透明の幕が何層にも吊られ、奥行きの異なる位置へ淡い青色の光が投影されている。
昨日まで存在していた観測装置の巨大な輪郭は消え、代わりに、空間そのものが不安定になっているような演出へ変更した。
私はゆっくりと顔を上げる。
客席から見れば、暗闇の中に取り残された歌姫が、自分を見てくれる誰かを探している場面だ。
けれど、その姿勢を作りながら、私は客席の反応を探っていた。
最前列の呼吸が止まる。
中央付近で衣服の擦れる音がひとつ。
後方から、かすかな咳払い。
いい。
集中が集まり始めている。
「昨日まで、ここには誰かがいました。私の声を測り、私の存在を確かめ、私が消えてしまわないように、ずっと見守ってくれていた人が」
私は一歩だけ前へ出た。
その足音に合わせて、舞台奥のスクリーンへ細かな光の粒子が浮かび上がる。
白い線が集まり、人間の輪郭を形作っていく。
観客の間に、最初のざわめきが生まれた。
そこに現れたのは、技術主任オルフェだった。
昨日と同じ衣装。
昨日と同じ姿勢。
けれど、身体の輪郭はわずかに透け、胸元から下へ向かって細い光の欠片が絶えず崩れている。
完全な再現ではない。
あえて、そうした。
もしも本物そっくりのミナトを舞台へ立たせてしまえば、観客は彼が戻ってきたのだと思うかもしれない。
あるいは、ただの代役映像として受け取るかもしれない。
でも、私が見せたいのは違う。
そこにいた人間が、もうそこにはいないという事実。
そして、それでも彼が残したものは消えないということ。
「オルフェ……?」
私は手を伸ばした。
指先が光の輪郭へ触れようとした瞬間、映像が静かに崩れる。
触れられない。
届かない。
その距離を、私は意図的に長く見せた。
役者が手を伸ばしてから諦めるまでの時間は、観客の感情を大きく左右する。
早すぎれば単なる失敗になるし、長すぎればわざとらしくなる。
観客が心の中で「もう少し」と願い始めたところで、指先を止める。
それだけで、存在しない相手との距離が悲しみに変わる。
私はその間合いを知っている。
何百回も稽古してきたから。
だけど今日は、少し違った。
目の前にいるオルフェの姿が、あまりにもミナトに似ていた。
昨日、私が舞台袖で見送った彼の背中。
台本の技術的な説明に文句を言いながら、それでも最後には全部覚えてくれた横顔。
照明の角度について私と議論し、観客の視線誘導を数式で説明しようとして、結局私に「そこは感覚でわかるでしょ!」と怒られたときの顔。
そんな記憶が、映像へ勝手に重なってしまった。
……ああ、もう。
反則じゃん。
自分で作った演出なのに、自分が泣きそうになってどうするのよ!
私は唇を噛み、リナとして顔を上げた。
「あなたは、私が存在していることを証明してくれた。なのに、あなた自身は、もうここにいないのですか?」
客席の空気が沈んだ。
それは退屈による沈黙ではない。
悲しみを受け取った人間が、次の言葉を待っている沈黙だ。
私はその温度を胸いっぱいに吸い込み、歌へ移ろうとした。
そのとき。
背中に、冷たいものが触れた。
もちろん、実際に誰かが触れたわけではない。
私は舞台中央に立っているし、背後には映像しか存在しない。
それでも、はっきりと感じた。
視線。
昨日と同じ、あの視線だった。
客席のどこかから、私を見ている。
ただし、それは舞台へ集中する観客の視線とは違った。
観客の集中には揺らぎがある。
感動すれば呼吸が変わり、驚けば身体が動き、笑えば周囲へ感情が伝播する。
だから私は、その揺らぎを受け取って自分の演技へ変換できる。
けれど、今感じているものには揺らぎがない。
私が悲しみを表現しても、相手は悲しまない。
私が歌い始めても、相手は感動しない。
ただ、私が次にどんな反応を示すのかを待っている。
……いる。
まだ、いる。
私は客席へ視線を向けかけた。
けれど、その動きを途中で止める。
今は公演中だ。
リナ=シュタインは、舞台中央でオルフェの残響を見つめている。
ここで突然客席を探し始めれば、観客の集中が切れる。物語の外にいる火宮レイカが顔を出してしまう。
それは避けたい。
でも、だからといって、あの視線を無視していいの?
胸の奥で、二つの感情がぶつかった。
役者としての私。
NOXとしての私。
そして、昨日から誰かに狙われている、ただの火宮レイカ。
私は三つの自分を抱えたまま、ゆっくりと息を吸った。
……いいよ。
見てるなら、見てなさい。
ただし、私の呼吸を乱せると思わないで。
私は歌い始めた。
最初の音は、ほとんど声にならないほど細く。
そこから少しずつ響きを増やし、胸声から頭声へ移る境界を滑らかに越えていく。
リナの孤独を表現するために、旋律の前半ではあえて息の成分を多く残し、後半で声の芯を強くする。
歌唱は感情を乗せるだけの行為じゃない。
感情が変化する過程を、音色と呼吸で観客に伝える技術だ。
私は恐怖を歌へ変えた。
誰かに見られているという不快感を、リナが観測を求める切実さへ変換した。
そして、舞台奥に現れたオルフェの残響が、最後の光を散らして消えた瞬間。
ファントムが現れた。
「……もう、彼を探す必要はない」
ユウマの声だった。
黒い衣装をまとい、舞台上手の暗がりから静かに歩み出てくる。
彼はオルフェが消えた場所へ視線を向け、それから私へ向き直った。
「オルフェは、最後にひとつだけ記録を残した。観測とは存在を保証するものではなく、存在の一部を切り取って数値へ置き換える行為にすぎない、と」
私はゆっくりと彼を見る。
「では、私はどうすればいいのですか? 誰にも見られなくなったら、私がここにいることを、誰が証明してくれるのですか?」
「証明など、必要ない」
ファントムは一歩近づいた。
「君がここに立ち、君自身の意思で歌っている。それだけで十分だ」
……うん。
いいじゃん。
今のユウマ、かなりいい。
昨日までの彼は、どこか台詞を正しく言おうとしているところがあった。
役の意味は理解しているけれど、感情をどう身体へ乗せればいいのか、まだ探っているような演技だった。
でも今日は違う。
彼の声には、妙な重さがあった。
たぶん、ミナトを助けた直後だからだ。
誰かの存在が、どれほど簡単に傷つけられるのか。
それを実際に見てしまった人間の声。
演技としては、少し危うい。
現実の感情が役へ入り込みすぎている。
でも、観客はそれを受け取っていた。
客席の集中が、一段深くなる。
私とユウマの間にある空間へ、何百人もの視線が集まっていく。
その瞬間、私は確信した。
いける。
ミナトがいなくても、この舞台は成立する。
いや、違う。
ミナトがいないからこそ、成立する物語がある。
私はファントムへ手を伸ばした。
「それでも、私は怖いのです。誰にも見られない世界で、私が私でいられるのか」
「ならば、恐怖ごと連れていけばいい」
ユウマが答えた。
「君の存在を決めるのは、観測者ではない。君自身だ」
私はその台詞を受け取り、リナとして微笑んだ。
そして、舞台奥の暗闇から、聞き覚えのない拍手が響いた。
◇
ぱち、ぱち、ぱち。
ゆっくりとした拍手だった。
客席の誰かが感動して拍手を始めたのかと思った。
けれど、すぐに違うとわかった。
音の位置が、おかしい。
客席ではない。
舞台奥。
しかも、昨日の公演後に届いたあの封筒を思い出させる、妙に乾いた音だった。
私は反射的にファントムへ視線を向けた。
ユウマも気づいている。
彼の身体が、ほんのわずかにこちらへ傾いた。
舞台上では自然な動作に見える程度の変化。
でも、私にはわかる。
あれは演技じゃない。
警戒している。
……ちょっと待って?
また?
またなの?
私、さっきまであんなに頑張って安全確認したんだけど!?
心の中で叫びながら、私は笑顔を崩さなかった。
客席には、まだ何もわかっていない観客がいる。
突然の拍手も、演出の一部だと思っている。
ならば、こちらが慌てる必要はない。
私は舞台上のリナとして、ゆっくりと背後を振り返った。
「……どなた?」
その問いかけに応えるように、舞台奥の黒幕が揺れた。
そして、現れた。
最初に見えたのは、異様に高いシルクハットだった。
次に、鳥の嘴を思わせる長い仮面。
黒い革で覆われた顔面から、丸いガラスの眼窓が二つ、鈍い光を反射している。
ペストマスク。
中世ヨーロッパの疫病医師を連想させる、あの独特な仮面だ。
けれど、その人物の異様さは顔だけではなかった。
身体が、とにかく大きい。
背丈もあるが、それ以上に横幅が尋常ではない。
黒い三つ揃いの衣装は巨大な腹部を包み込み、肩から垂れた外套が、まるで一枚の重い幕のように揺れている。
極端に肥満した巨漢。
しかも、動きが妙に滑らかだった。
普通、あれほど身体が大きければ、歩行時には重心移動がはっきり見える。
足を踏み出す前に肩が傾き、腹部の質量に引っ張られて上半身が遅れる。
ところが、男にはそれがない。
巨大な身体が、床の上を滑るように進んでくる。
まるで、見た目と内部の構造が一致していないみたいに。
私は一瞬で判断した。
これは予定にない。
衣装班にも大道具班にも、こんな人物を用意した記憶はない。
そもそも、あんな大きな衣装を作っていたら、私が知らないはずがない。
なのに、男は堂々と舞台中央へ歩いてきた。
客席がざわめく。
そのざわめきは、最初は驚きだった。
次に、期待へ変わった。
新しい登場人物。
突然の展開。
昨日の前編には存在しなかった異形の男。
観客は、それを物語の一部だと受け取ろうとしている。
……まずい。
このままじゃ、誰も異常だと気づかない。
いや、もっと正確に言えば私たちが異常だと認めない限り、観客はこれを演出として受け入れてしまう。
それが舞台の怖さだ。
観客は、舞台上の出来事に意味があると信じている。
だから、どれほど奇妙なものが現れても、物語の中で説明されることを期待して待ってしまう。
その信頼は、本来なら演劇にとって最高の財産だ。
でも今は、その信頼が危険を隠している。
「……これはこれは」
男が口を開いた。
仮面の奥から響いたのは、妙に柔らかい声だった。
「まことに結構なお芝居でございますな。歌姫の孤独、観測者の不在、そして存在の証明をめぐる葛藤。いやはや、実に味わい深い一幕でございました」
その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
昨日の舞台裏。
制御系統が乗っ取られたとき。
暗闇の奥から聞こえた、あの声。
同じだ。
私は唇の内側を噛んだ。
……来た。
とうとう、来た。しかも、こんなところへ。
何百人もの観客が見ている舞台の真ん中へ。
「しかしながら、ひとつばかり惜しいことがございます」
男は大げさに両手を広げた。
白い手袋が照明を受け、奇妙に明るく浮かび上がる。
「歌姫が自らの存在を証明するというのであれば、その価値を正しく理解する観測者が必要でございましょう? 何しろ、宝石というものは、磨かれるだけでは完成いたしませぬ。相応しい持ち主の手に収まってこそ、真価を発揮するのでございますからな」
……は?
私は思わず眉を動かしかけた。
宝石?
持ち主?
何言ってんの、この人。
舞台上のリナなら、きっと恐怖する場面だ。
でも、火宮レイカとしては腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
私は深く息を吸い、役の声を保ったまま問い返した。
「あなたは、何者なのですか!? 私の歌を聴きに来た観客ではないのですか!?」
男は胸へ片手を当て、ゆっくりと頭を下げた。
「これは失礼をいたしました。名乗りもせずに舞台へ上がるとは、いささか礼を欠いておりましたな。されど、わたくしの名など、この場では大した意味を持ちませぬ」
彼は顔を上げた。
丸い眼窓の奥は、暗くて見えない。
「本日は、リナ=シュタイン嬢をお迎えに上がった次第でございます」
客席から、ざわめきが広がった。
物語が急展開したときの、あの独特なざわめき。
驚きと期待が混ざり合い、誰かが隣の友達へ小さく囁き、後方の観客が身を乗り出す。
私は、その反応を感じながら、男から目を離さなかった。
「お迎え?」
「左様でございます。ご安心くださいませ。少々強引な手段となるやもしれませぬが、あなた様には、より相応しい舞台をご用意してございます」
男は楽しそうに両手を擦り合わせた。
「そこでは、あなた様の恐怖も、怒りも、歓喜も、悲嘆も、余すところなく観測させていただきます。ああ、なんと素晴らしいことでございましょう。誰にも邪魔されず、ひとりの歌姫が変化してゆく様を、心ゆくまで堪能できるのでございますからな」
私は理解した。
この男は、私を誘拐すると言っている。
しかも、隠す気がない。
観客の前で、堂々と。
そして観客は、それを芝居だと思っている。
……最悪。
いや、違う。
最悪なのは、この男が私を狙っていることだけじゃない。
この状況そのものが、男にとって都合のいい舞台になっていることだ。
私が叫べば、観客は迫真の演技だと思う。
私が逃げれば、観客は緊迫した追跡劇だと思う。
私が恐怖で声を震わせれば、観客は感動する。
つまり、私がどんな反応をしても、それが演目として消費される。
あの手紙と同じ。
事象地平の食卓。
私の感情を料理として扱う、気持ちの悪い観測者。
そして今、私は本当に食卓へ上げられようとしている。
……ふざけんな。
私は、舞台の上で恐怖を表現することが好きだ。
悲劇も好きだ。
絶望も、喪失も、救いのない結末だって、演劇としてなら愛している。
でも、それは自分の意思で演じるからだ。
誰かに勝手に恐怖を与えられ、それを見世物にされることとは、まったく違う。
私は男を睨みつけた。
「……あなた、勘違いしているわ」
リナの声を使いながら、火宮レイカとして言った。
「歌姫は、誰かに所有されるために歌うのではありません。自分の声を届けたい相手がいるから、舞台に立つのです」
男は、嬉しそうに首を傾けた。
「ほほう。実に良いお答えでございますな。そうでなくては、わざわざお迎えに上がった甲斐がございませぬ」
……だめだ。
こいつ、私が何を言っても喜ぶ。
怒りも拒絶も、全部観測対象として受け取っている。
相手を説得するための言葉が、相手の欲望を満たす材料に変わってしまう。
舞台の上では、観客と役者の間に感情の循環がある。
けれど、この男との間には、それがない。
私が何を返しても、男は自分の期待した意味へ変換してしまう。
対話じゃない。一方的な解釈。
……なるほどね。
あんたが何者なのか、私はまだ知らない。
でも、ひとつだけわかった。
あんたは観客じゃない。
観客のふりをした、演出家気取りの侵入者だ。
そのとき男が、ゆっくりと片手を持ち上げた。
◇
「さて、それでは」
男はシルクハットの縁へ指を添えた。
「少々、お時間を頂戴いたしましょう」
次の瞬間、黒い外套の内側から金属音が響いた。
しゃらり。
細い鎖が一本、床へ落ちる。
続いて二本、三本。
私は反射的に足元を見た。
鎖は男の袖口から伸びていた。
けれど、その長さがおかしい。
袖の中へ収まっていたとは思えない量の鎖が、次々と床へ滑り落ちてくる。
まるで、シルクハットから無限に布を取り出す手品みたいに。
客席から小さな歓声が上がった。
……いやいやいや。
感心してる場合じゃないから!
私だって舞台奇術は好きだし、仕掛けの構造を考えるのも大好きだけど、今この状況で鎖が出てくる意味なんて、ひとつしかないでしょ!
拘束。
私を捕まえるつもりだ。
私は素早く舞台床へ視線を落とした。
鎖の先端には、小さな金属製の輪がついている。
通常の舞台小道具なら、あんな形状にはしない。
役者の身体へ絡む可能性があるものは、重量を抑え、引っ張られたときに外れる仕組みを設けるのが基本だ。
けれど、あの鎖にはそれが見えない。
金属の擦れる音も、重さも、本物に聞こえる。
……まずい。
私はファントムへ視線を送った。
ユウマは動かない。
ただし、身体の向きが変わっている。
右足がわずかに後ろへ引かれ、肩の位置が低くなっていた。
いつでも動ける姿勢。
舞台上の演技としては、敵の出現を警戒するファントムの動作に見える。
でも、私にはわかる。
あれはNOXのタナトスだ。
ユウマは、すでに戦う準備をしている。
男は鎖を持ち上げ、楽しそうに揺らした。
「ご心配には及びませぬ。ほんの少し、お身体の自由をお預かりするだけでございます。痛みも恐怖も、可能な限り丁寧に扱わせていただきますゆえ」
……は?
今、何て言った?
痛みも恐怖も丁寧に扱う?
そんな言葉、初めて聞いた。
私は思わず笑ってしまった。
笑うしかなかった。
「……すごいね、あんた」
声が、リナのものから少しだけ外れた。
「そこまで気持ち悪いことを、そんな丁寧な言葉で言えるんだ」
男の肩が揺れた。
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「褒めてない!」
客席から笑いが起きた。
……あ。
しまった。
今の、完全に素だった。
でも、悪くない。
観客の緊張が、一瞬だけ緩んだ。
それまで異形の男に圧倒されていた空気が、私の一言で少し変わった。
怖いものを、怖いまま見せ続けると、人間はいつか思考を止めてしまう。
でも、そこへ笑いを挟むと、観客は再び状況を判断し始める。
緊張と緩和。
舞台演出の基本。
そして、今の私にとっては、生き残るための手段でもある。
……よし、だったら使う。
この場の空気を、私が取り戻す。
私は一歩前へ出て、男へ向かって大きく手を広げた。
「そんなに私を連れていきたいなら、まず観客に説明してよ! ここは私の舞台なんだから、勝手に話を進めないで!」
男は少しだけ首を傾けた。
「説明、でございますか?」
「そう! 誰が、何のために、どうして私を連れていこうとしてるのか! そこがわからないと、観客だって置いてけぼりでしょ!」
私は客席を指差した。
観客の視線が、男へ集まる。
いい、そのまま。
私だけを見ないで。
あいつを見て。
あいつが何を言うのか、何をするのか、ちゃんと見て。
舞台上の視線誘導は、必ずしも照明だけで行うものではない。
役者の身体の向き、指先、台詞の宛先。それらを組み合わせれば、観客の注意を特定の場所へ集められる。
私は今、それを使っていた。
自分へ集中していた視線を、男へ移す。
観測される側から、観測する側へ。
少しでも、主導権を取り戻すために。
男はしばらく黙っていた。
その沈黙に、私は小さな違和感を覚えた。
さっきまで、あれほど饒舌だったのに。
観客の視線が自分へ集まった途端、言葉が止まった。
……へぇ。
もしかして見られるのは、好きじゃない?
私は笑った。
今度は、本当に楽しくなってきた。
「どうしたの? さっきまであんなに喋ってたじゃん。観客に見られるの、苦手?」
男の仮面が、わずかに傾いた。
その瞬間、鎖が動いた。
床へ落ちていた金属の輪が、突然跳ね上がる。
私は反射的に身体を引いた。
鎖の先端が、私の手首があった場所を通り過ぎる。
客席から歓声が上がった。
演出だと思っている。
もちろん、そうだよね。
舞台上で鎖が飛び、歌姫がそれを避ければ、観客は迫力のあるアクションシーンだと思う。
でも、今のは危なかった。
もしも避けるのが遅れていたら、確実に手首へ絡んでいた。
しかも、男はまだ動いていない。
鎖だけが、意思を持つように動いている。
……どういう仕組み?
磁力?
ワイヤー?
それとも、Chrono-Scopeに関係する何か?
私は瞬時にいくつもの可能性を考えた。
けれど、答えを出す時間はなかった。
男が、笑ったからだ。
「いやはや、これは失礼。少々、気が急いてしまいましたな」
その声には、さっきまでの余裕が戻っていた。
私は理解した。
ああ、そういうこと?
こいつ、私を怖がらせたいんだ。
ただ捕まえるだけなら、こんな舞台の真ん中で長々と喋る必要はない。
観客の前で私を追い詰め、恐怖を引き出し、その反応を味わいたい。
だから、わざわざ演劇の形式に乗ってきている。
……最悪。
でも、同時に少しだけわかった。
こいつには弱点がある。
私が舞台を支配している限り、こいつは自分の望む反応を得られない。
だから、私の主導権を奪おうとしている。
つまりこれは、舞台の奪い合いだ。
◇
男が動いた。
それまでの緩慢な歩き方が、嘘みたいだった。
巨大な身体が、一瞬で前へ出る。
足音が遅れて響いた。
私は思わず息を呑んだ。
速い。あの体型で、どうしてそんな速度が出るの?
身体の重心が、見た目と一致していない。
普通なら、あれほどの質量を急加速させれば、踏み込んだ足へ大きな負荷がかかるはずだ。
けれど男は、まるで重さを持たない影のように滑り込んでくる。
私は横へ跳んだ。
舞台床に貼られたスパイクテープが、視界の端を流れる。
自分で決めた立ち位置。
自分で作った動線。
だから、どこに障害物があるのか、どの方向へ逃げれば安全なのか、身体が覚えている。
それが、今の私を助けていた。
鎖が再び伸びる。今度は二本。
一本が足元へ、もう一本が肩の高さへ。
私は咄嗟に身体を沈め、平台の縁を利用して方向を変えた。
観客から見れば、リナが異形の男の攻撃を華麗にかわしているように見えるだろう。
でも、私の心臓はものすごい勢いで鳴っていた。
怖い。本当に怖い。
だって、これ、台本にない。
次に何が来るのかわからない。
しかも、相手は私を捕まえるつもりで動いている。
私は演劇の中で何度も追跡劇を演じてきた。
でも、それらには必ず決められた動線があった。
相手がどこから来るのか。
どのタイミングで手を伸ばすのか。
どこで転び、どこで立ち上がるのか。
すべて稽古で確認している。
今は違う。
だから、恐怖が本物になる。
そして、その本物の恐怖を。
客席のどこかにいる誰かが、見ている。
……いる。
まだ、いる。
さっきよりも強い。
まるで、私が逃げるたびに、視線の密度が増していくようだった。
私は舞台上を移動しながら、客席へ意識を向けた。
どこ? どこから見てる?
前方? 後方? 二階席?
それとも、そもそも客席にいない?
視線の正体を探ろうとした瞬間、男の鎖が舞台床を叩いた。
鋭い金属音。
私は反射的に足を止めた。
……まずい、集中が分散している。
目の前の脅威を見なければならない。
でも、観客席からの視線も気になる。
そして何より、私はまだ舞台を続けようとしている。
芝居を壊したくない。観客を混乱させたくない。
ミナトが残した物語を、途中で終わらせたくない。
その全部が、私の判断を鈍らせていた。
……だめ、このままじゃ本当に捕まる。
私は唇を噛んだ。
舞台監督としての私なら、ここで公演を止めるべきだ。
役者としての私なら、物語を続けたい。
NOXとしての私なら、目の前の異常を排除しなければならない。
どれが正しい?
何を優先すればいい?
その答えを出す前に、男が再び動いた。
「さあ、歌姫殿。そろそろ、お時間でございます」
巨漢が、真正面から迫ってくる。
鎖が広がる。
私は後ろへ下がった。
けれど、背後には平台がある。
逃げ道が狭い。
……っ!
その瞬間だった。
黒い影が、舞台上手から飛び込んできた。
ファントム? いや違う。
あの動きは、芝居じゃない。
ユウマだ。
NOXのタナトスとして動いている。
彼は男と私の間へ割り込み、伸びてきた鎖を腕の外側で受け流した。
金属音が弾ける。
続いて、男の巨大な身体がわずかに傾いた。
ユウマは相手の勢いを正面から止めようとはしなかった。
進行方向へ半歩ずらし、鎖の張力が変化した瞬間に男の腕を制する。
動きは小さい。
けれど、速い。
そして何より、無駄がない。
私は思わず見惚れそうになった。
……ちょっとユウマ。
それ、反則じゃない?
舞台上でそんな動きされたら、観客が全部持っていかれるんだけど!
実際、客席から大きな歓声が上がっていた。
突然現れたファントムが、異形の男を制止する。
物語としては、完璧なタイミング。
けれど、私にはわかっている。
これは演出じゃない。
ユウマは本当に、私を守ろうとしている。
「レイカ、下がれ!」
彼の声が響いた。
役名ではない。
火宮レイカ。私の本当の名前。
その一言で、私は現実へ引き戻された。
……そうだ。
私はリナじゃない。
火宮レイカだ。
そして今、私が守らなければならないのは、物語の完成度じゃない。
舞台にいる人間の安全。観客の安全。それが最優先。
私は即座に舞台袖へ視線を送った。
ミサキがこちらを見ている。
私は手を横へ払うように動かした。
事前に決めていた、進行停止準備の合図。
ミサキが頷いた。
よし、これでいつでも止められる。
私は男へ向き直った。
ユウマは、まだ巨漢の動きを制している。
男の鎖が何度も跳ね上がるが、そのたびにユウマが身体の位置を変え、私へ届く軌道を潰していた。
ただし、完全に優勢というわけではない。
男の力が強すぎる。
あの体格から想像する以上に、腕の動きが速い。
そして、何より不気味なのは男が、楽しそうに笑っていることだった。
「ほほう、これはこれは。実に見事な乱入でございますな。なるほど、歌姫には守護者がついておりましたか」
ユウマは答えなかった。
ただ、男の腕を制したまま、私へ一瞬だけ視線を送った。
その目が、何かを伝えている。
私は反射的に読み取ろうとした。
舞台上のアイコンタクト。
役者同士が、台詞を使わずに次の動作を共有するための技術。
ユウマの視線は、私の顔から舞台奥へ移り、それから客席へ向いた。
……なるほど、そういうことね。
私は理解した。
彼は、私に舞台を続けろと言っている。
ただし、今までと同じようにではない。
この異常そのものを、物語の中へ取り込め。
そういう合図だ。
……無茶言うなぁ。
ほんっと、無茶言う。
でもそれ、私の得意分野じゃん。
◇
私は深く息を吸った。
舞台上の空気が、まだ揺れている。
観客は何が起きているのかわからないまま、異形の男とファントムの対峙へ集中している。
その集中は、危険なほど強い。
今ここで私が叫べば、客席はさらに熱狂するだろう。
男が鎖を振り回せば、観客はアクションシーンとして受け取るだろう。
でも、それだけでは駄目だ。
ただ刺激を重ねるだけでは、観客の感情は消耗する。
必要なのは、意味。
この出来事が、物語の中で何を意味するのか。
それを示さなければならない。
私は舞台中央へ一歩踏み出した。
「……やめて」
声を落とした。
それまでの混乱とは対照的に、静かな声。
客席の注意が、少しずつ私へ戻ってくる。
私は男を見た。
「あなたは、私を連れていくと言いましたね」
男が仮面を傾けた。
「左様でございます」
「私の恐怖も、怒りも、悲しみも、すべて観測すると」
「ええ、もちろんでございますとも」
私は頷いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「なら、ひとつだけ教えてください」
男の動きが、わずかに止まった。
「あなたは、私が何を望んでいるのか、知っていますか?」
客席が静まった。
いい。
今の問いは、観客にも届いている。
舞台上のリナが、自分を所有しようとする存在へ問いかけている。
同時に、火宮レイカが、自分を観測対象として扱う男へ問いかけている。
二つの意味が重なる。
これが、舞台の強さだ。
現実と虚構が、同じ台詞の中で交差する。
男は、しばらく黙っていた。
「それは、観測してからのお楽しみでございましょう」
そう答えた。
……ああ、やっぱりね。
私は笑った。今度は、心の底から。
「違うよ」
声が、自然と強くなった。
「それじゃ、何もわかってない」
私は客席へ向き直った。
「私が歌うのは、誰かに価値を決めてもらうためじゃない。私が何を感じて、何を伝えたいのか、それを自分の声で届けるため」
リナの台詞。でも、私の言葉。私は胸へ手を当てた。
「誰かに見られていなければ存在できないと思っていた。拍手がなければ、自分には価値がないと思っていた。だから、ずっと観測者を探していた」
舞台奥で、オルフェのホログラムが再び現れた。
ミナトの姿をした光の残響。
けれど、今度は前よりも薄い。
輪郭が崩れ、光の粒子が空間へ溶けていく。
私は、その姿を見た。
ねえ……ミナト、見てる?
いや、見てなくてもいい。
今は、ちゃんと休んでて。
あんたが残したもの、私たちが受け取るから。
私は顔を上げた。
「でも、もう違う」
ファントムが、男の腕を制したまま私を見た。
その視線を受け取り、私は続けた。
「私がここにいることを、誰かに証明してもらう必要なんてない。私が歌いたいから歌う。私が生きたいから生きる。それだけでいい」
客席の空気が変わった。
さっきまでの緊張とは違う。
誰かが息を吸う。
別の誰かが、身体を前へ傾ける。
感情が、少しずつ広がっていく。
私はそれを感じた。
この瞬間、舞台は私のものへ戻りつつある。
男のための食卓じゃない。
私と観客が感情を交換する場所。
本来の舞台。
私は両手を広げた。
「だから、あなたには渡さない!」
声が、講堂全体へ響いた。
「私の声も、私の恐怖も、私の未来も! 全部、私のものだから!」
観客から、大きな歓声が上がった。
その瞬間、ユウマが動いた。
男の腕を制していた手を離し、半歩だけ後ろへ下がる。
男の身体が、わずかに前へ流れた。
そしてユウマは、低く呟いた。
「……《黒葬》」
その声は、客席には届かなかったと思う。
でも、私には聞こえた。
次の瞬間、空気が変わった。
舞台の上に集まっていた、あの気持ちの悪い視線。
それが、突然薄くなった。
いや、薄くなったというより私を見ていた何かが、私の存在を捉えられなくなった。
そんな感覚だった。
男の動きが不自然に止まる。
そして、鎖が、床へ落ちる。
しゃらり、と金属音が響いた。
ユウマは、男の身体そのものを消したわけではない。
舞台上で起きた出来事を、過去から消し去ったわけでもない。
ただ、男が私を捕捉するために使っていた観測の接続を、成立させなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
男が、初めて声の調子を変えた。
「……ほう?」
それまでの楽しそうな響きが、わずかに消える。
「これは、奇妙なことでございますな」
ユウマは答えない。
ただ、男と私の間へ立ち続けている。
私は、その背中を見た。
ファントム、それは観測の束縛から歌姫を解放する存在。
そして、タナトス。それは世界の記録へ干渉するNOXの一員。
その二つが、今、完全に重なっていた。
……ああ、そうか。
これが、今日のクライマックスなんだ。
私は直感した。
台本にはない。
稽古もしていない。
けれど、今ここで起きていることは、物語の結末として成立する。
ならば演じ切る。
私は舞台中央へ進み、ファントムの隣へ立った。
「……ありがとう」
リナとして、彼へ言った。
ユウマがこちらを見る。
「もう、誰かに見られていなくても大丈夫なのか」
ファントムの声だった。
私は微笑んだ。
「いいえ。まだ怖いです」
客席が静まる。私は続けた。
「でも、怖いままでいいのだと思います。誰かに見られることも、見られなくなることも、きっとこれから先、何度も怖くなるのでしょう」
舞台奥のオルフェが、静かに光を散らしていく。
「それでも、私は歌います。誰かに存在を証明してもらうためではなく、私がここにいることを、私自身が知っているから」
ユウマが、小さく頷いた。
その動きに合わせて、舞台照明が変化する。
冷たい青色から、柔らかな白へ。
昨日までのリナを縛っていた観測装置の光ではない。
ただ、人間を照らすための光。
私は、最後の歌を始めた。
旋律は、前編の主題を反転させたものだった。
前編では、観測されることへの渇望を表現するために、旋律が何度も同じ音へ戻る構造になっていた。
どれだけ高く歌い上げても、最後には最初の音へ引き戻される。
けれど後編では、その反復を断ち切る。
同じ主題から始まりながら、最後の音だけを変える。
帰る場所を失うのではなく、自分の意思で次の場所へ進む。
そういう旋律だ。
私は歌った。
怖さも、怒りも、全部抱えたまま。
客席の呼吸が揃っていく。
舞台と観客の間に、再び感情の循環が生まれる。
それは、さっきまでの気持ち悪い視線とは違った。
私が声を出せば、観客の感情が返ってくる。
私が微笑めば、客席の空気が柔らかくなる。
私が最後の音を伸ばせば、誰もがその終わりを待ってくれる。
ああ、これだ。これが、私の舞台だ!
私は、最後の音を歌い切った。
そして、舞台が暗転した。
◇
照明が落ちた瞬間、客席から大きな拍手が上がった。
最初は数人。次に、十人。
それが一気に広がり、第二講堂全体を包み込んでいく。
私は暗闇の中で、肩で息をしていた。
心臓が、まだ激しく鳴っている。
足が少し震えている。
さっきまで本当に、誰かに捕まえられそうになっていたのだから。
……いや、ちょっと待って?
私、今、何をした?
舞台の途中で知らない巨漢が乱入してきて、鎖を振り回して、ユウマが本気で制止して、そのままクライマックスへ持っていった?
……なにそれ、めちゃくちゃじゃん。
演出家としては、絶対に許せない。
舞台監督としても、完全にアウト。
安全管理の観点から言えば、今すぐ反省会を開いて、関係者全員から事情を聞かなければならない。
でも、役者としては……すごかった。
自分でも、そう思ってしまった。
観客の感情が、あれほど強く動いた瞬間を、私は今まで何度経験しただろう。
恐怖が驚きへ変わり、驚きが緊張へ変わり、緊張が希望へ変わる。
その変化が、ほとんど途切れることなく続いた。
まるで、舞台そのものが生きているみたいだった。
……いやいや、感動してる場合じゃない。
私は慌てて舞台奥へ視線を向けた。
あの男は? ペストマスクの巨漢は、どこへ行った?
すると暗闇の中で、黒い外套の輪郭が見えた。
けれど、それはすでに舞台奥へ後退していた。
ユウマが追いかけようとする。
私は反射的に、その腕を掴んだ。
「待って」
小さく言った。
「客席、まだいる」
ユウマが私を見る。
その目には、明らかな警戒が残っていた。
でも、彼は頷いた。
私たちは、舞台中央へ戻った。
カーテンコール。
予定していた終幕の音楽が流れ始める。
私は深く息を吸い、客席へ向き直った。
照明が、ゆっくりと明るくなる。
観客が立ち上がる。
拍手が、さらに大きくなる。
私は笑った。
いつもの、火宮レイカの笑顔。
最後列まで届くように、大きく、そして深く頭を下げた。
その瞬間に気づいた。
……あれ?
私は、ゆっくりと顔を上げた。
客席を見渡す。
前方、中央、後方、二階席。
もちろん、誰がどこに座っているのか、すべてを見分けられるわけじゃない。
でも、わかる。あの視線が、ない。
昨日から私を追いかけていた、あの気持ちの悪い視線。
私の恐怖を待ち、怒りを味わい、感情の変化を料理のように扱っていた、あの観測者の気配。
それが消えている。
私は、思わず息を止めた。
そして、右手をぎゅっと握った。
小さくでも、力いっぱい。
ガッツポーズ。
……やった。やったじゃん。
私、勝った?
いや、完全に勝ったわけじゃない。
あの男が何者なのかも、どこへ消えたのかも、まだわからない。
昨日の封筒も、今日の侵入も、全部解決したわけじゃない。
それでも少なくとも今、この瞬間。
私は、あいつの食卓から降りた。
自分の意思で、自分の声で、自分の舞台を取り戻した。
私は隣のユウマを見た。
彼はまだ、舞台奥を警戒している。
でも、私の視線に気づくと、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……どうした?」
小さな声。
客席には届かない。
私は笑った。
「ユウマ」
「何?」
「今の、めっちゃ良かった!」
彼が一瞬、呆れた顔をした。
「……それ、今言うことか?」
「今だから言うの!」
私は胸を張った。
「だって、最高のクライマックスだったじゃん!」
ユウマは、少しだけ目を細めた。
「……レイカらしいな」
その言葉が、妙に嬉しかった。
私は再び客席へ向き直った。
拍手が続いている。
観客は、今日の舞台を物語として受け取っている。
異形の男の乱入も、ファントムの介入も、歌姫の決意もすべてをひとつの演目として。
それが正しいのかどうかは、まだわからない。
でも、私は思う。
舞台は、嘘を本物に変える装置だ。
けれど今日、私たちはその逆をやった。
本物の恐怖を、物語へ変えた。
本物の危険を、舞台の中へ押し戻した。
そして、本物の感情を、観客へ届けた。
……なんて、ちょっと格好つけすぎかな?
でも、いいじゃん。
私は火宮レイカ。
Siren。
舞台監督で、役者で、感情の制御が下手で、テンションが高くて、たまに自分でも何を言っているのかわからなくなる女。
それでも舞台の上に立つ限り、私は私の意思で歌う。
誰かに観測されるためじゃない。
誰かに所有されるためでもない。
私が、私として存在するために。
私はもう一度、客席へ深く頭を下げた。
拍手が、講堂いっぱいに響く。
その音を全身で受け止めながら、私は心の中で叫んだ。
――どうよ! あんたが用意した食卓には、もう誰も座ってない。
少なくとも、私はそこにはいない。
そしてこの舞台の幕を下ろすのはあんたじゃない。私だ!!
私は、最後にもう一度だけ、右手を握った。
小さなガッツポーズ。
誰にも見えないくらい、小さく。
でも、今までで一番、嬉しいガッツポーズだった。
――十二時三十分開演。『シュレディンガーの仮面』後編。
予定外の乱入者、一名。
予定外の危機、数え切れないほど。
それでも舞台は、幕を下ろした。
そして私は、ちゃんと人間のまま、そこに立っていた。
……終わったぁぁぁ!!
いや、もう、本当に終わった!!
何なの今日の舞台!? ペストマスクの巨漢が乱入してくるし、鎖は飛んでくるし、ユウマは本気で戦い始めるし!
あんなの台本にないんですけど!?しかも観客は大盛り上がり……演劇って怖いね。
もちろん、舞台監督としては完全にアウト。ミサキにもたっぷり注意されたし、侵入経路の確認も報告書もこれからだ。
でも、私たちは無事に幕を下ろした。
ミナトの残したものも、ちゃんと舞台へ届けられたと思う。
そこだけは、胸を張っていいよね?
◇
十三時三十分。
第二講堂を出た私を待っていたのは、甘いお菓子の匂いと、廊下の向こうから響く聞き慣れた騒音だった。
「はいはーい! COE午後の予備枠、エントリー受付中! 整理券ない人は待機列へGO! 無限湧きは仕様じゃないからねー!」
……チイロだ。
黒いミニメイド服に銀色の縁取り。衣装は落ち着いているのに、本人の言動は完全にインターネットの住人。
「おっ、レイカ! 舞台お疲れ! さっきのペストマスク、完全に隠しボス登場演出じゃん! しかもユウマ先輩の乱入で激アツ神回確定! 切り抜きタイトルどうする!?」
「チイロ! あれ、ガチの襲撃だから! 本物! 全部!」
「マジ!? 演出じゃなくてリアル襲撃イベント!? いやいや、運営さん!? ジャンル変更の告知がないんだが!?」
「そんなの私が聞きたいよ!!」
相変わらずだなぁ、チイロは(笑)
DAY1から続くミームメイド喫茶《Cafe of Entropy》、通称COE。
OrderとChaosに分かれた接客、推し指定、ミーム実況、整理券をめぐる攻防。
昨日は客の期待とスタッフのアドリブが相互に加速して、喫茶店というより観客参加型の即興劇になっていた。
今日もその熱量は健在らしい。
「お帰りなさいませ、レイカ様、ご無事で何よりです」
振り向くと、アスミがいた。
同じ黒メイド服なのに、チイロとは正反対。姿勢も所作も綺麗で、声の高さまで接客用に整えられている。
Order担当、完全にメイドモード。
「アスミー! 私、めっちゃ疲れた!」
「承知しております。まずはこちらでお休みくださいませ。お飲み物をご用意いたします」
「うわ、徹底してる! 今の私にも敬語なんだ?」
「勤務中ですので。それと、レイカ様は少々、休息が必要かと」
「……はい」
丁寧なのに、逆らえない。
こういう接客もある意味、演技の完成形だと思う。
そこへ、廊下の壁を頼りに、ふらふらと歩いてくる男子がひとり。
「ぐはっ……水……誰か……水を……」
「うわっ、トウタ!?」
亞村トウタだった。
盤上干渉戦の実況担当。
午前中、あの異常な準決勝と決勝を言葉で追い続けた男は、今や見る影もない。
「レイカ……お疲れさん……。いやぁ、盤上干渉戦……マジで大変だった……。実況ってさ、盤面を言語化する仕事だと思ってたのは俺だけかぁ?……」
「うん」
「途中から、何が起きてるのか説明するだけで脳のリソース全部持っていかれて……。しかも、笑えないことが次々起きるし……もう無理……語彙力、完全ロスト……」
「お疲れ、ほんとに」
私は思わず肩を叩いた。
チイロが横から覗き込む。
「トウタ、完全にHPゼロじゃん。実況者が語彙力ロストって、それもう職業デバフでは?」
「……今だけは……ツッコミの応酬を休ませて……」
「あらら、強制ログアウト推奨!」
「ですから、廊下で騒がないでくださいませ」
アスミがにっこり笑った。
……あ、今の笑顔、ちょっと怖い。
「トウタ様にはお水と休憩席をご用意いたします。チイロ先輩は入口の整理券対応へお戻りください。レイカ様も、接客への参加は体調確認が済んでからでお願いいたします」
「はーい!」
「……助かるぜ……」
チイロは元気よく戻り、トウタは椅子へ沈み込む。
私は思わず笑った。
昨日と同じだ。
COEには、こういう騒がしさがある。
誰かがボケて、誰かがツッコんで、誰かが本気で疲れて、最後にはアスミが全部まとめる。
舞台とは違うけれど、これも立派な人間模様だ。
……ただ、私はふと廊下の奥を見た。
あの視線は結局、何だったんだろう。
ペストマスクの男と同じ存在なのか、それとも別の誰かなのか。
ユウマの《黒葬》が何を阻止したのかも、まだはっきりしていない。
私を観測していた何かは消えた。
でも、正体は最後までわからなかった。
……うーん、やっぱりモヤモヤする。
「レイカ?」
いつの間にか、ユウマが隣にいた。
「どうした?」
「……あの視線のこと。結局、何もわかってないじゃん。あの男が何者なのかも、誰が私を見てたのかも」
「そうだな」
「それが悔しいの! 舞台上に勝手に乱入してきたくせに、最後まで正体を明かさないなんて! 演出としても説明不足だし!」
私は腕を組んで唇を尖らせた。
「ほんっと、気持ち悪い観客!」
すると。
ぽんと頭に、軽い感触。
「……今は、それでいいだろ」
ユウマが、私の頭を優しく撫でていた。
「調べることは残ってる。でも、レイカはちゃんと戻ってきた。舞台も終わらせた。今くらい休めよ」
「ちょっ……ちょっと子供扱い?」
「そうじゃない。お疲れさまってこと」
……。
あーもう! そういうの、ずるい!
「……わかったってば」
私は少しだけ顔を背けた。
そのとき。
「……ユウマ様?」
アスミの声。
振り向くと、彼女は丁寧な笑顔を浮かべていた。
ただし、目がちょっと笑っていない。
「こちら、レイカ様のお飲み物でございます。……それと、ユウマ様もお疲れでしょうから、どうぞお席へ」
「ありがとう、アスミ」
「いえ。お仕事ですので」
……あれ?
今の「お仕事ですので」、なんか妙に冷たくなかった?
私はアスミを見た。
アスミは笑っている。
でも、視線が一瞬だけ、私の頭からユウマの手へ移った。
……なるほど?
私は口元を押さえた。
いや、待って。これ、下手に触れたら別の意味で大変なことになりそう。
ユウマは何も気づかず、差し出された飲み物を受け取っている。
アスミは相変わらず丁寧な笑顔。ただ、ほんの少しだけ不機嫌。
……ふふっ。
観客の視線の正体はわからなかったけど、こっちの視線の意味は、なんとなくわかっちゃったかも。
――双灯祭DAY2、十三時三十分。
COE予備枠、開幕。
そして私は思う。
舞台の幕は下りても、人間の感情という名の演目は、どうやらまだ終わらないらしい。
……さて、十五時まで、あと一時間半。
次の幕が上がる前に、少しくらい平和な時間があってもいいよね?
……お願いだから、今度こそ普通の学園祭であってよ!




