EP228.DAY2:終末は、受け皿の外でお待ちください
紅茶には、冷めるまでの時間がある。
抽出条件と室温が分かれば、おおよその予測はできる。けれど、その一杯が冷めるまで、誰も傷つかずにいられるかは計算できない。
十三時三十分。私はまた、黒いメイド服に袖を通した。
注文を聞き、温度を確かめ、客の名前を呼ぶ。その合間に、空を埋める機体の数を聞き、返事のない端末を見て、十五時に対峙する少女のことを考えていた。
ずいぶん不合理な兼務だと思う。
それでも、紅茶を運ぶ手順まで手放したら、私は人間を救うための計算から、人間のいる時間を消してしまいそうだった。
Cafe of Entropy DAY2――予備枠
紅茶が冷めるまで、地獄を待つ
予備枠。
その三文字を最初に予定表へ入力した人間は、余った時間というものの存在を、本気で信じていたのだと思う。
十三時三十分から十四時三十分。
Cafe of Entropy。予備営業、および撤収準備。
十五時からは、Dual Lumen Sync SessionとEXIT:CODEのDay2 Core Phase。十四時三十分からの三十分間が、私たちに残された最後のブリーフィングになる。
つまり、ここに余りなどない。
足りなくなったものを、足りないまま並べ直すための一時間だ。
予定表を下へ送れば、十七時にはクロージングがある。まるで十五時の向こうにも、当然のように片付けと反省会が待っているかのように。十四時三十分に喫茶店を閉め、十五時に本番を迎え、十七時に拍手をして帰る。その滑らかな並びを指でなぞるたび、私は、その間に失われるかもしれない時間を誰が書き戻すのかと考えてしまう。予定表には、帰ってこなかった人間の欄がない。後から空白になるのは、いつも人の方だ。
旧実験演習室の扉を押すと、紅茶の匂いがした。
午前中ほど強くない。冷めた茶葉と、洗ったばかりのカップと、トースターの底に落ちた焼き菓子の欠片。その全部が、換気扇の低い音の下で薄く混ざっている。Chaos側には《尊死》の札がまだ立っていて、誰かがその前で、両手を頬に添えて写真を撮っていた。撮影を頼まれた友人が「もっと死にそうな顔して」と笑い、撮られる側も笑い返す。その言葉を比喩のまま持ち帰ってほしい、と私は思った。そんな願いを抱いたこと自体が、ここがもう安全な休憩所ではなくなりつつある証拠だった。
入口のベルは、午前と同じ高い音を立てた。あれが鳴るたび、誰かが注文する。紅茶か、スコーンか、写真一枚。私たちはそれを聞き取り、客の望んだものを運ぶ。十五時からも、同じように「選んでください」と言われるのだろうか。今度は何を選んでも、頼んでいない代償がついてくるのではないか。そこまで考えたところで、私はポットの温度表示を見た。少なくとも、この湯の温度については、表示の意味を疑わずに済んだ。
十二時三十分からの『シュレディンガーの仮面』後編は、終わった。
終わったはずなのに、照明を浴びていた頬の感覚だけが残っている。舞台を降りれば役から戻れるという、演劇にとってはごく普通の条件を、私はいつから羨ましいと思うようになったのだろう。
「お帰り、秩序。舞台から帰還した勇者に悲報です。午後の予約が生きてます」
Chaos側の黒板の前で、チイロ先輩が片手を上げた。
「予約は死なないでしょう。キャンセルされるか、履行されるかのどちらかです」
「お、いつものアスミ。認証ヨシ」
「その確認の仕方だと、私の性格の悪い模倣プログラムでも通りますけど」
「性格の悪い模倣って、本物との差分どこ?」
「先輩の紅茶に砂糖を十二個入れてもいいですか?」
「本人確認完了。物騒さにオリジナリティがある」
私は返事をせず、壁際に置いた黒いロングメイドを手に取った。
舞台衣装を脱いで、接客の衣装へ戻る。
着替えるたび、別の私になれるわけではない。それでも襟を留め、袖を整え、銀色のトリムのねじれを直すと、身体はさっきまで知っていた手順を思い出す。
温度を確認する。持ち手を乾かす。注ぎ口を客の側へ向けない。
十分に小さい問題なら、まだ私にも解ける。
けれど、高襟の内側に指を入れて布の位置を直したとき、午前に床へ落ちた黒い輪を思い出して、息が詰まった。服の襟と、説明のない機能を持つ首輪は違う。布の感触も圧力も違う。それを識別するための神経系は正常に働いている。それでも、頭が違いを説明し終えるより先に、指は首を守るように動いた。
天才だと言われても、身体は結論を待ってくれない。
私は鏡の前で、襟の留め具を自分で一度外し、もう一度留めた。外せる。その事実を確かめただけで、少し呼吸が戻った。
「ミナトたちは?」
尋ねると、厨房との境に立っていたユウマが端末から顔を上げた。
「まだ。二人とも、こっちの持ち場へは戻ってない」
「ハザマから運用の引き継ぎは?」
「午前の分は残ってる。午後の追加分は僕とトウタで受ける。十四時半までに新しい連絡があれば、まとめて回す」
十時から十二時。
予定表上では、盤上干渉戦の本戦に割り当てられていた時間だ。
予定が十二時で切れていることと、そこへ出た人間が十二時に帰ってくることは同じではない。
私たちは、そんな当たり前の違いを確認するために、何度も時計を見ていた。
「了解。戻ったことにはしないで。二人分の役割が埋まっているように見せるのも禁止」
「分かってる」
「分かってるって言いながら、自分の欄へ全部足さないでよ」
ユウマが口を閉じた。
図星だったらしい。
トウタが会計端末の向こうで、わざと大きく肩をすくめる。
「はい、自己犠牲の二重予約はシステムエラーでーす。ユウマ枠、これ以上の過積載不可。追加オプションは人間を増やしてから頼むわ」
「人間をオプションにするな」
「じゃ、自分を無限リソースにすんなって話」
反論する余地のない正論が、最も正論に聞こえない声で飛んだ。
店内には、すでに数組の客がいた。
午後の予備枠は午前ほどの席数を開けていない。片付けを進めながら、休憩が必要な人を受け入れる。入口には終了時刻を大きく掲示し、追加の入店を止める判断はサツキ会長が持つ。
黒い装着物についての確認も、続いていた。
午前の三十二という値を、私はもう午後の現状として口にしない。
外した人がいる。帰った人がいる。ここを出た後も、同行者と連絡が取れるようにした人がいる。今この室内にいる人数と、継続して様子を確認している人数と、黒い装着物をつけたままの人数は、別々に更新されている。
数字を一つに畳めば、見やすくなる。
そして、誰かが見えなくなる。
私は注文票の余白に書かれた名前を確認した。
ナナ。
午後にも戻ってきた彼女は、友人と一緒に窓から離れた席へ座っている。
「ナナさん。こちら、アッサムです。熱いので、持ち手がこちらになるように置きますね」
「あ、ありがとうございます。午後もメイドさんなんですね」
「残念ながら、雇用条件の再交渉が不成立でしたので」
「そんなに嫌なんですか?」
「服自体に罪はありません」
笑ってくれた。
私も、口元だけなら動かせた。
十三時三十八分。
サツキ会長の端末が鳴った。
*
「リリアンさん? 今、こちらは予備営業中ですわ。追加の花びらでしたら、床の摩擦係数が——」
『撒きませんわ。サツキさん、空の話です』
紅条リリアンの声だった。
私はポットを置いた。
彼女が私の名前を叫ばない。
それだけで、指先が冷えた。
声の大きさではなく、言葉の選択が異常を伝えてくる。紅華女学院の生徒院長が、挨拶も冗談も飛ばして空の話をする。その短縮の中に、彼女が省けなかった情報がある。
「……どうしましたの?」
『ドローンです。中庭の上だけではありません。校舎の屋根、渡り廊下の外側、敷地の縁。空域班からの映像を突き合わせていますが、配備の規模が、事前に受け取った演出計画と合いません』
会長がこちらを見る。
私は頷いた。
音量を下げたうえで、スタッフ側の端末へ通話が共有される。
「何機ですの?」
リリアンの返答までに、一拍あった。
『数千規模です』
トウタの指が、会計画面の上で止まった。
ミサキが顔を上げる。
チイロ先輩が黒板に書こうとしていた《午後も人類継続中》の最後の一画を、書き損ねた。
「せっ……千、ですの?」
『はい。百の言い間違いではありません』
私は端末を受け取った。
「リリアン。見えている機体の実数と、映像をまたいだ延べ検出数を分けて。飛んでいるものだけ? それとも待機機も含む?」
『待機も含みます。撮影地点を変えたための重複は除外中です。ただ、校舎裏と屋上縁の列だけで、演出用として登録された数を大きく越えています。すべてが同時に飛行しているという意味ではありません』
「所属は?」
『紅華の管理機とは照合できません。少なくとも、わたくしが承認した追加ではありませんわ』
「例えば……兵装は見えた?」
『確認できません。ですが、撮影用、誘導用と断定できる表示も見えません』
「分かった。じゃあ、今の確定事項は、大規模な未照合機体の配備。それ以上はまだ載せない」
口にした直後、私の思考は、それ以上のところへ走った。
監視範囲の重複。
校舎の死角を埋める配置。
通信の中継。人流の追跡。黒い端末との位置照合。屋外への退出を検出し、対象を再取得するための分散したセンサー群。
学園全体を一つの会場と呼ぶための仕組みが、学園全体を一つの閉鎖系へ近づける仕組みに転用される。
もし各機が独立した判断を——。
「アスミ」
ユウマの声が入った。
「まだ所属も機能も分かってない」
「分かってる。だから断定してない。複数の用途を並列に——」
「口ではね。顔はもう、三段階先の最悪まで行って考えてる」
息が浅くなっていた。
自分で気づくより先に、彼が気づいたことが腹立たしい。
「……四段階よ」
「訂正するところ、そこじゃない」
チイロ先輩が端末を覗き込んだ。
「運営、空に増設しすぎ問題。いや、これを草で済ませたら草の方に失礼なんだけどさ。リリアン、映像送れる? 綺麗に編集しないで、時刻と撮影位置がついたやつ」
『用意しています。こちらの演出機を近づけて確かめるべきですか?』
「接近はまだしないで」
私は即答した。
「相手が何を接触や妨害と判定するか分からない。まず、あなたたちの機体と人員を、あなたたちが制御できる範囲に置いて。避難経路を飾る予定の演出で、避難経路を狭めないこと。それだけは変更しない」
『承知しました。香料ゼロ、視界確保、単色での空域占有禁止。お約束は維持します』
数日前の、騒がしい院長室が一瞬だけ戻ってきた。
花びら。拍手。過剰な抱擁。
あのときは、なぜ交渉にこんなに体力を使うのかと思った。
今は、その約束を彼女が覚えていることに、喉が詰まりそうになる。
『アスミ様』
「何」
『空を見に出るなら、一人では出ないでくださいませ』
私はすぐには返せなかった。
その言葉が、私の次の行動を、私より正確に言い当てていたからだ。
「……了解。あなたもね」
『はい。サツキさん、後続の報告はそちらにも直接入れます。空域の更新でアスミ様一人を埋めないようにしますわ』
「ええ、追加演出の承認は、こちらも保留にしますわ。来場者には、確認の取れていない情報を安全宣言へ変えて流しません」
サツキ会長の声から、いつもの跳ねる音が消えていた。
通話が切れる。
客席で、スプーンが受け皿に触れた。
小さな金属音に、全員が一瞬だけ反応した。
「……数千って」
トウタが言いかけ、客席へ目をやって声を落とす。
「学園祭の上空演出って、そんな単位で増えるもんなの?」
「増やせるかどうかと、ここにある理由は別よ」
私は答えた。
理屈は正しい。
声が、正しさに追いついていなかった。
ミサキは何も言わず、窓際の空席を確かめに行った。客へ「こちらの席の方が冷房が直接当たりません」と声をかけ、移りたい人だけを内側へ案内する。その理由のすべては伝えていない。でも、外に何があるか分からないから窓から離れてほしいと告げるには、まだ情報が足りず、情報が揃うのを待つには、午前からすでに起きすぎていた。
白いクロスの上で、苺ジャムの小瓶が赤く光っていた。黒い端末の発光とは違うと、私は反射的に分類した。その分類が必要になった自分に、吐き気がした。
そのとき、サツキ会長が、端末を握り直した。
「……副会長は、どこにおりますの?」
独り言の形をしていたが、誰かが軽く返せる温度ではなかった。画面を叩く指が二度動き、発信音が鳴る。客席では、チイロ先輩が注文の説明を再開していた。『こちら、午後限定の不可逆スコーンです。割ったら元には戻せませんが、追加注文はできます』。二つの声が重なって、片方では誰かが笑い、片方では呼び出しだけが続いた。
「藤党副会長。二階堂です。空域の追加配備について、確認したいことがあります。共同企画の担当として、今すぐこちらへ連絡を。……それから、所在を知らせてください」
応答はなかった。
会長は発信を切り、メッセージを送った。苛立っている人間が、自分の指を抑えて文字を打つところを、私は初めてこんな近くで見た。
「また、お得意の別件対応ですの? 予算も、演出の変更も、地下施設の話も、細かいことは副会長が調整しますと言っておいて、この時間になって本人が出てこないなんて」
「会長。コウが、あの機体を手配したと分かったわけじゃない」
ユウマが言った。
「分かっていますわ」
返事は速かった。速すぎたことに気づいたのか、会長は唇を結び、客席を見てから声を落とした。
「だから、本人に聞いているんです。知らないなら知らないと答えればいい。止められないなら、その理由を説明すればいい。私が腹を立てているのは、犯人だと決めたからではありません。共同企画の説明をする人が、共同企画を待っている人間の前に出てこないからですわ」
会長バッジが、エプロンの胸で小さく揺れた。
昨日、その組み合わせを情報過多だと思った。同じ人間が、メイドとして客へ笑いかけ、生徒会長として入場を止め、今度は、副会長へ連絡の一本を要求している。役割を増やせば責任を分けられるはずなのに、連絡を絶った誰かの分まで、ここにいる人間へ重なっていく。
「安全設計について動いていると、あの人は言いましたのよ? 私は、その説明で企画を進めました。細部を理解できない私にも、何を保証して、何を保証していないのか、それくらいは答えられるでしょう?」
「……理解できなかったことを、会長だけの責任にしないで」
私が言うと、サツキ会長はこちらを見た。
「ええ。しませんわ。ですから、理解しているはずの人を呼んでおりますの」
彼女は、もう一度画面へ目を落とした。
「コウ。今度ばかりは、後で書類を揃えれば済むと思わないでくださいませ」
送信済みの表示がついた。
返答は、まだなかった。
私は、リリが昨夜口にした言葉を思い出した。あのタイプが黙るときは、何かをまとめてから出す。あれは予言ではなく、相手の振る舞いを見た人間の評価だった。それでも、待つ側にだけ残り時間が見えている今、その沈黙はひどく能動的に感じられた。単に手が離せない可能性はある。通信に支障がある可能性もある。私はその二つを捨てずに残したまま、それとは別に、彼がこちらの説明を待たせることで、こちらの判断時間を削っている可能性を考えていた。
藤党コウは……どこにいるの?
私たちがカップを下げ、客の顔を見て、名前を忘れないようにしている間、キミは何を、整えているの?
*
十三時四十六分。
入口のベルが鳴った。
私は反射的に背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ。午後の営業は十四時三十分まで——」
そこで止まる。
戌神キョウジが立っていた。
隣には、手塚ケイ先輩。
午前と同じ二人。
ただし、同じ席へは案内しなかった。
キョウジが店内へ視線を動かす前に、私は注文端末を閉じた。
「接客は、ここまで。ユウマ、Orderをお願い。トウタ、スタッフ用の卓を一つ空けて。写真撮影の対象から外して」
「了解。関係者打ち合わせ席に変更。お客様、午後のメイドさんは途中で監査官へジョブチェンジする仕様となっております」
「仕様という言葉で全部処理しないで」
「じゃ、勤務実態」
「もっと嫌」
客席で小さな笑いが起きた。
その笑いが残っている間に、私はトレイを置き、白いカチューシャを外した。
髪を押さえていた圧力が消える。
黒いロングメイドのままだった。着替える数分を惜しんだのも事実だけれど、それだけではない。
服を脱がなければ、自分の言葉で話せないわけじゃない。
「二人とも、座って。今日は紅茶を選ぶ前に、来た目的を言ってもらう」
キョウジの目が、私の手にあるカチューシャへ落ちた。
「もうメイドは終わり?」
「応対のための笑顔と、判断のための言葉を分けるだけ。キミがまた配置を確認しに来たなら、先に言っておく。午前と同じ会話にはしない」
「……それなら、来た意味はあったな」
「意味の採点を始めないで。十五時の最終確認でしょう?」
ケイ先輩が、私を見た。
「時間を変えていないか。それから、午前の話を聞いて、何を変えたか。それを確認しに来た」
「十五時の予定は維持されている。十四時三十分から、最後のブリーフィング。その前に、こちらからも確認する。ドローンが数千規模で配備されているという報告が来た。二人が見た結末にも、それはあった?」
ケイ先輩の指が動いた。
午前、あの指は何度もバツを作った。
今度は作らない。
両手を、テーブルの上へ置いた。
「私は、数を数えきれていない。だから、同じ規模だったとは言えない」
先輩が言った。
「でも、途中から、外へ出たら会場の外だと思えなくなった。空を見ても、逃げ道を確かめている気がしなくなった。それは覚えてる」
キョウジが椅子へ腰を下ろした。
「空だけの話じゃない。これから地獄が近づく。どこか遠くで始まって、こっちへ来るんじゃない。さっきまで祭りに使ってたものが、そのまま別の仕事を始める」
客席から、紅茶のおかわりを頼む声がした。
ユウマが返事をする。
私は、その声を最後まで聞いてから、キョウジへ向き直った。
「それを警告として使える形にして。機体があるから攻撃するとは限らない。監視なのか、誘導なのか、別の機構の中継なのかも未確認。キミが実際に見たことと、後から意味づけたことを分けて」
「全部を並べたら、午前の続きになる」
「全部は求めていない。まだ起きていない誰かの死を、今日の手順書へ書き写すつもりもない。でも、何も言わずに地獄だとだけ言えば、私たちは自分の恐怖で空欄を埋める。それが安全だと思う?」
キョウジは答えず、ケイ先輩を見た。
先輩は、少し長く息を吐いた。
「……今あるものを、最後まで安全なものとして扱わないこと。さっき通れた扉、さっき繋がった通信、さっきまで客だった人。同じ状態が続くと思わないで」
「確認を更新する。過去の状態で現在を代用しない。そこまでは理解した」
「あと、先へ行くために一人を置いていく話が出たら、その場で止まって。何のために置くのか、誰が戻るのか、戻れる道が本当にあるのか、聞いて」
私は顔を上げた。
「それは、前に誰かが——」
言いかけて、やめた。
ケイ先輩の指の関節が白くなっていた。
過去の人物の名を聞き出すことと、今の私たちが同じ判断をしないために必要な情報を得ることは、同じではない。けれど、そこを区別しようとした瞬間に、私の頭にはリリの姿が浮かんだ。誰かが残る必要があると言われれば、彼女は真っ先に、その条件を調べる。自分なら何分持つか、どこまで操作できるか、何を見届ければ他の人間を先へ出せるか。そういう計算をする人だった。傷ついた身体を、残った機能の一覧へ変えてしまう人だった。
止まって聞けばいい、と今なら言える。実際に目の前で彼女がそれを言い出したとき、私は、その計算の誤りを指摘するだけで止められるのだろうか。誤りがなかったら。彼女をそこへ残す方が、生きて出られる人間が増えると、私自身の頭まで答えてしまったら。
私は、テーブルの縁を握った。爪が白いクロス越しに硬い板へ当たる。まだ起きていない選択で、もう友人を置いていこうとした自分が、許せなかった。
「……分かりました。結果の説明ではなく、判断の点検として受け取ります」
先輩は頷いた。
それだけの動作に、ひどく疲れて見えた。
*
チイロ先輩が、スタッフ卓へ端末を置いた。
「ではここで、既視感くんが無断で未来を確定し始める前に、比較のお時間です。アスミ、あの独白」
喉の奥が狭くなった。
「……何よ……」
「祭りが祭りの顔のまま変わる。安全のための設備が、別の目的に使われる。見る側と見られる側の役割が固定される。今ある情報って、あんたの語りと、嫌なところで似てる」
「あれはW1の出来事よ」
自分で思ったより、強い声が出た。
先輩は頷いた。
「うん。だから、その一行を先に置こうと思った」
「だったら——」
「違う世界線の記録を、W2の予告編として自動再生するなって話。運営が似た素材を持ってきてる可能性と、同じ未来が確定してるって主張は、全然別。ここ、テストに出ます。人類全員、赤線」
私は言い返そうとして、口を閉じた。
先輩は、私と同じことを言っていた。
私より先に。
それが、少し痛かった。
「ドローンの存在も、イベントの時刻も、単独では同一性の証明にならない」
私は端末に表示された画像を見た。
「設計の転用、記録を参照した模倣、別の目的から似た構造に到達した可能性。少なくとも分ける必要がある。それに、独白は生のセンサーログじゃない。記憶を文章へ変換している。選ばれた出来事も、接続の仕方も、今の私の——」
「はい、そこまで一気に行く?」
トウタが、小声で割り込んだ。
「今、空にドローンがいる話から、自伝の編集責任まで飛んだよね」
「関係してるの。比較資料の性質を誤れば、結論が——」
「関係してる。してるけど、一息で全部の責任を自分へ回収するの禁止」
チイロ先輩が引き取った。
「あの独白には、優しい鞘があるかもしれないって話はした。今の記憶や、あんたが生き残ってから覚えた言葉が、W1の痛みに混ざってる可能性もね。でも、だからって、あんたが不正なデータを提出した被告人になるわけじゃない」
優しい鞘。
その言葉を聞くと、私はいつも、救われたような気持ちと、侮辱されたような気持ちを同時に覚える。
私が覚えている悲惨さより、まだ悲惨だった可能性。
私が忘れることで生きていた可能性。
そして、忘れた部分を埋めた誰かが、その情報で、もっと上手く同じことをできるかもしれないという恐怖。
「私が……あれを話さなければ……」
「そこ、巻き戻し禁止」
先輩の声が硬くなった。
「起きた加害の責任と、助けを求めて記憶を話した人の責任を、同じ箱へ入れない。あんたの独白が使われた可能性は調べる。どこへ渡ったかも、何が転用されたかも追う。でも、今ここで『話した私が原因でした』って結論にすると、調べるべき相手が一人消える」
私は、息を吸った。
胸の途中で引っかかった。
「……分かってる」
「分かってるって人の顔してないんだが?」
先輩が、私の手元へ小さな皿を置いた。
半分に切ったスコーンだった。
「ほら糖分」
「今、食べる気分じゃ——」
「気分じゃなくて運用。脳に燃料入れて。天才も低血糖でナーフされるので。あと、この世界線の焼き菓子は、ちゃんと口の水分を奪う。存在証明が雑に強い」
「食感を世界線識別に使わないで!」
そう言いながら、私は一口だけかじった。
うっ……本当に、水分を奪われた。
腹が立つほど普通だった。
プリンなら、スプーンを入れたときの抵抗で、一秒くらい黙っていられたかもしれない。昭和の喫茶店なら、厚いグラスに入った水が、すぐ隣にあったかもしれない。
でも、ここには、欠けていない白いカップがあった。
ユウマが、黙って水を置いた。
指先が触れた。
温かかった。
神経が受け取った感覚を、私の理論は一つも否定しなかった。
「……ありがとう」
カップに向けて言ったので、誰に言ったのかは曖昧にできた。
ユウマは、その曖昧さを訂正しなかった。
*
十四時二分。
私は、リリへ短い確認を送った。
《今どこにいる? シオンの近く? あなたの体調だけでも返して。長文はいらない》
送ってから、「体調だけ」という言い方を消したくなった。私は情報を必要としている。彼女の居場所と、動けるかどうかと、シオンの今の状態。そこを隠して、ただ友人を心配する顔だけをするのも違う。でも、必要な情報を正直に並べれば、それは傷ついた彼女へ、まだ働けるかと尋ねる文面になってしまう。
返信を待つ間、客から撮影を頼まれた。
「すみません。今、アスミは打ち合わせ中なんです」
ユウマが、私より先に断った。
相手は謝り、別のスタッフへ声をかけた。私の都合で断れる。笑顔を作らなくても、誰かが代わりに説明してくれる。その当たり前の余地が、シオンや、彼女の側に残っているリリにもあるのかと考えると、画面から目を離せなくなった。
昨夜の通話の声が蘇る。リリは息が浅かった。話す途中に、痛む場所を避けるような短い間があった。それでも彼女は私の心配を切って、シオンを止めてと言った。私の肺は今さらどうでもいい、と。
よくない。
昨夜も言い返すべきだった。もっと強く。けれど、あのとき私は、シオンの喉が閉じたという報告と、言葉を抑制されているかもしれないという仮説へ、先に反応した。助けを求める理由を理解することに急いで、助けを求めた人間の呼吸を、後へ回した。
今もまた、同じことをしている。
私はメッセージをもう一つ送った。
《そちらの確認は、あなた一人の仕事じゃない。無理に調べに戻らないで》
画面は変わらない。
返信がないことは、危害を受けた証拠ではない。会話中かもしれない。端末を見る余裕がないだけかもしれない。私の心配を、いつもの過剰な口出しとして後回しにしているのかもしれない。いくらでも別の仮説を生成できるのに、そのどれもが、彼女の息を一度聞くことの代わりにはならなかった。
向こうでシオンは、何をしているのだろう。
私が十五時へ来ることを前提に、どこまで用意しているのだろう。私の反論、私が誰かを助けるために選ぶ手順、誰かを置いていけなくなる瞬間。その全部を、彼女なら条件として扱える。だが、私も彼女の思考を追えるからといって、今ここにいるシオンの返事まで、勝手に決めていいことにはならない。
対決は避けられない。あの子が何を失うことを恐れていても、誰に何を制限されていても、現に人を危険へ送り込む計画は止める。けれど、止めた結果として彼女が壊れるなら、それを勝利と呼んで立ち去れるのか。リリが私に求めたのは、会長を打ち負かすことではなかった。彼女がもう言えないかもしれない助けてを、代わりに伝えることだった。
責任を問うことと、救うことは両立する。文章なら、そう一行で書ける。実際に何を止め、何を残し、誰の手を掴むのか、その選択へ落とした途端、私はまだ何一つ証明できていなかった。
「リリ?」
ミサキが尋ねた。
私は頷く。
「返事がまだ。シオンを見られるところにいる可能性は高いけど、今の位置は未確認」
「必要なら、身体のことは私からも聞く。アスミが全部まとめて聞こうとすると、あの人、先に重要な情報だけ返してきそうだから」
私は笑えなかった。
まさに、それを恐れていた。
「……お願い。私が彼女を頼れることと、彼女の身体が持つことを、一緒にしないようにしたい」
ミサキは短く頷き、私の端末を覗かずに、自分の端末を開いた。
十四時七分。
綾白ひよりからの着信が入った。
画面には、彼女の肩と、カメラのストラップが映っている。背景だけで位置を特定できるほど、私は影村の廊下に詳しくない。
『アスミさん。映像側の準備、整っています。メイも一緒です』
すぐ隣から、声が入った。
『音の方も。……準備完了って言うと、何でも受け止められますみたいに聞こえるけど、そういう無敵宣言じゃないですからね!? 今、こちらで触れる範囲の確認が終わったって意味ですから!』
夕咲メイ。
普段の軽さを残そうとしている声だった。
ひよりが頷く。
『送られてきた映像と、こちらで直接撮った映像は分けています。受信した時刻と撮影時刻も別に残します。あとで順番が分からなくならないように』
「同期の精度は?」
『同じ現場で音と映像を合わせる確認は取れました。離れた機器同士は、表示される時計だけを信用せずに記録します。完全に揃っているとは言いません』
私は目を閉じた。
一瞬だけ。
それは、私が欲しかった返答だった。
大丈夫です、ではない。
何を確認し、どこまでは確認していないか。
『ユウマくんは、そちらにいますか』
ひよりが尋ねた。
私は端末を少し横へ向けた。
「うん。今、紅茶を運んでる」
『……まだ、喫茶店をしてるんですね』
その声に、安堵とも悲しみともつかないものが混ざった。
「閉める準備中。でも、今いる客を、追い立てるようには出さない」
『はい。こちらも、人が映った部分を人数の資料だけにしないようにします。名前が分かる人は、名前も残します』
午前に伝えた、カナデの件。
あの出来事が、別の場所で、別の手順へ変わっている。
再現とは違う。
同じ危険を繰り返すためではなく、同じ見落としをしないために。
けれど、その区別を言葉にするだけでは足りないことも、私はもう知っていた。
「二人とも、危険が出たら記録を優先しないで。特に、片方が見えなくなったからって、撮影位置を守るために——」
『残らない』
メイが先に答えた。
『そこは二人で確認したんで。カメラのためにひよりを置いていかないし、音を拾うために私だけ残らないです。昨日ので、もう十分分かりましたから』
昨日。
DAY1。
軽い語尾の下に、まだ乾いていない記憶があった。
『あと、ユウマさんに伝えて。貸しがあるからって、回収のために危ないところへ来なくていいって』
「……本人に言った方が効くと思う」
『本人に言うと、貸した覚えないとか言いいますよね?
そういうとこ、だいぶ分かってきたんで』
私は思わずユウマを見た。
聞こえていたらしい。
何とも言えない顔をしていた。
笑いそうになった。
笑えたことに、少し驚いた。
「わかった伝える。十四時半の確認で、新しい変更があれば短く送る。今は二人でいて」
『はい。アスミさんも』
ひよりが言った。
『準備は、整っています。でも、だから一人で何でもできるという意味には、しないでください』
似たことを、今日は何人から言われただろう。
頭のいい人間が一人で先を読むことを、周囲は頼もしいとは思わなくなっている。
その原因を考えれば、私には反論する資格がなかった。
「……分かった」
私は答えた。
理論の説明を付けずに。
通話を終える前に、私はひよりを呼び止めた。
「もう一つ。玖条リリを見ていない? 会長の近くにいるかどうかだけでも」
『直近の姿は、こちらからは確認できていません。見えていない区画もあります』
ひよりは、一瞬考えてから、はっきり答えた。慰めるために曖昧な目撃を足さなかったことに、私は感謝しなければならなかった。
「分かった。探しに行かなくていい。もし向こうから連絡があったら、身体を無理に動かさないように伝えて。シオンについても、二人だけで確かめに行かないで」
『アスミさんは、御影会長と直接、話すんですよね?』
私は画面を見た。
「話すつもり。でも、話が通じるまで待っていいという意味じゃない。止めなければならない動作が始まったら、先に止める。そのうえで、本人の言葉を聞く」
口にしながら、心臓が強く打った。自分の中で考えているだけなら、まだ曖昧にできた。それをシオンと同じ学園の生徒へ伝えたことで、私は十五時に彼女へ向ける態度を、一つ選んだのだ。
『……はい。メイと待っています』
ひよりは、会長をお願いしますとも、負けないでくださいとも言わなかった。どちらを言っても、誰か一人へ重さが偏ると、知っているようだった。
通話の切れた画面へ、私はもう一度リリの名前を出した。新しい返答は、まだない。
*
十四時十六分。
リリアンから追加の画像が届いた。
屋上の縁に沿って並ぶ、暗い形。
中庭の華やかなバルーンより高いところに、いくつかの機体が浮かんでいる。その向こう、渡り廊下を挟んだ別の屋根にも、似た列が見えた。
画像の隅に、時刻と撮影位置がある。
遠くに写った白い制服の袖が、風で少し持ち上がっていた。
作り物ではないという証明にはならない。
それでも、そこに風が吹いていることを、私は先に感じた。
「数千」
キョウジが、私の端末を見ずに言った。
「聞いたとき、最初に何を考えた?」
「機能を確認する必要があると思った」
「最初に?」
私は彼を見た。
嘘を見抜かれたことよりも、こんなところで試されることに腹が立った。
「……逃げ場を塞ぐのに、どれだけ必要かと思ったわよ」
声が鋭くなる。
「それで満足? W1で知っているものと、昭和五十六年で聞いた話と、午前に目の前で起きたことが、一瞬で繋がった。繋がったから、切り分け直してるの。最初の連想が結論になるなら、検証なんて要らないでしょう」
「そうだな」
「だから! その前提がおかしいって言ってるの! 恐怖で最悪のモデルが先に出たことを、未来を知っている証拠みたいに扱わないで! 私が何かを思い出した顔をしたからって、それがこの世界線で起きることにはならない!」
テーブルの下で、膝が震えていた。
足首まで届く黒い裾が、それを隠してくれる。
さっきまで邪魔だった服を、私は今、少しだけありがたいと思った。
キョウジは、笑わなかった。
「その区別を、十五時にもできるか確かめたかった」
「キョウジ」
ケイ先輩が低く呼んだ。
「試すために来たんじゃないでしょ」
「……悪い」
彼は、私へ言った。
短い謝罪だった。
それで何もかもが許せるわけではない。
でも、謝罪を受け取る前に論破の続きを始めれば、私もまた、相手の次の言葉を奪う。
「最終確認を続ける」
私は端末の画面を伏せた。
客の一人が、小さなチョコレートのメニュー札を指し、次はこれを頼みたかったと友人に話している。《観測者のほろ苦ショコラ》。昨日の私なら、商品名に物理用語を乱用するなと厨房へ文句を言っただろう。今は、そのほろ苦さを味覚の範囲に留めておくために、何を言えばいいのか考えている。
キョウジの言葉は地獄へ向かい、客の会話は次の一皿へ向かっている。同じ部屋の、数メートルしか離れていない場所で、未来の距離が違いすぎた。彼らにはこの先の十分があり、その先に別の屋台と帰り道がある。私には十五時があって、そこから先を思い描こうとするたび、シオンの丁寧な声が、まだ聞いてもいない問いを置いていく。
どちらを選びますか? アスミ先輩。
想像にすぎない。それでも、彼女ならそう言うと思ってしまう自分がいる。その予測に乗った瞬間、私は、まだ出されていない選択肢へ自分から座りに行くのかもしれなかった。
「十五時に起きることの全容は、こちらにも分からない。午前の接触で、開始前から人の認識に影響する処理があることは確認した。ただし、固有名を呼ぶことが、すべてに効く保証はない。カナデの時に戻った。それを、有効だった一例として持っていく」
ミサキが頷いた。
「外した装置についても、まだ分かっていないことがある。切れば全部解決、とは言わない。身体の変化があれば、そっちを優先して見る」
「ミナトとハザマは、まだ戻っていない」
私は続けた。
その二つの名前を口にすると、胸の奥が硬くなる。
「十四時半の確認は、戻っていない場合も始める。不在を明記して、役割を勝手に割り当てない。新しい連絡を受ける場所は残す。全員が揃うまで何も決めない、という待ち方もしない」
ユウマが頷いた。
彼の手元の画面には、二人の欄が残っていた。
消されずに。埋められずに。
サツキ会長の端末が小さく鳴った。全員がそちらを見たが、届いたのは客の忘れ物についての連絡だった。会長はすぐに返信し、それから伏せた画面をもう一度起こした。副会長からの返答を待っているのだと、聞かなくても分かった。
「会長、コウは」
「まだですわ。こちらから送った確認に、今ここで使える返答は来ていません」
「……十五時まで待つつもりはないんですね」
「ありません。来場者には待ち時間を知らせるのに、運営同士なら黙って待たせてよいなんて道理はありませんもの。あの人が来なくても、こちらの確認は止めませんわ」
語尾だけが、いつもの会長だった。
「それから、過去と一致したときほど、今の人間へ確認する。前にこう言ったはずだから、次はこれを選ぶはずだから、そういう省略はしない」
「俺にも?」
キョウジが尋ねた。
「当然。キミにも、ケイ先輩にも、私にも」
私は彼を見た。
「前の私を知っていても、今の私の返事を代わりに言わないで」
ケイ先輩が、ゆっくり肩を下げた。
「……それが聞けたなら、来てよかった」
私は頷かなかった。
まだ、聞いておくべきことがある。
「先輩。午前のバツは、十五時へ行くなという意味も、あったんですか?」
先輩は、時計を見た。
それから私を見る。
「あった。今も、行ってほしくない」
胸が、ひどく静かになった。
曖昧な警告なら反論できた。
推論の欠陥なら指摘できた。
けれど、行ってほしくないという願いには、論理的な誤りがない。
「……私は、行くつもりです」
「うん」
「でも、それを正しいと証明するために、先輩が怖がっている理由を間違いにはしません」
私は自分の手を見た。午前にカナデの名前を呼んだとき、この手はトレイを握っていた。昨夜リリの声を聞いたときは、端末を握っていた。十五時には、何を掴んでいるのだろう。シオンへ伸ばす手か、誰かを止めるための手か。助けるつもりで相手の自由を奪うことも、止めるつもりで相手を切り捨てることも、私にはできてしまう。できるからこそ、自分の善意だけを証拠にはできなかった。
先輩の口元が、ほんの少し歪んだ。
笑ったのか、堪えたのかは分からなかった。
「じゃあ、怖がってる人の話を、最後まで聞いて行って」
「はい」
今度は、すぐに答えた。
*
十四時二十三分。
最後の追加注文を止めた。
閉店の案内をしたサツキ会長は、客へ頭を下げてから、出口へ続く通路を自分の目で確かめた。
「午後のご来店、ありがとうございました。お帰りの方は、お連れ様とご一緒に。気分が悪い方、装着物に違和感がある方は、そのままスタッフへお声がけくださいませ」
昨日なら、最後に勝利角の話が入ったはずだ。
今日は入らなかった。
トウタが、客へ配る焼き菓子を袋へ入れていた。Chaos側で使っていた《尊死》の札は、いつの間にか裏返されている。誰が片付けたのかは分からない。白い裏面に、油性ペンで《気をつけて帰ってね》とだけ書いてあった。綺麗な字ではなかったが、そちらの方が、この店に最後まで置いておく言葉としては正確だった。
ナナが席を立ち、名前札を見た。
「これ、持って帰っていいですか?」
私は頷いた。
「もちろん。あなたのものです」
「じゃあ、記念に。メイドさんの名前も、覚えました。アスミさん」
不意打ちだった。
固有名を保持する。
相互の呼称を確認する。
そういう言い方をすれば、私は冷静でいられた。
でも、自分の名前を呼ばれることが、こんなにも普通に嬉しいという事実を、どこへ分類すればいいのか分からなかった。
「……はい」
「また来ます。次は、ゆっくりお茶飲める時に」
私は、営業予定を答えかけた。
この企画は、今日で終わる。
次があると約束するのは不正確だ。
そこまで考えて、やめた。
「その時は、普通の服で給仕させてください」
ナナが笑った。
「それは、ちょっと残念です」
「そこは同意して」
扉が閉まる。
私は、手を振っていたことに気づいた。
人が出ていった。
自分の足で。
扉が開き、また閉じた。
あまりにも小さい出来事を、私はしばらく見ていた。
「アスミ」
チイロ先輩が隣へ来た。
「あの独白の中に、今の退店はない」
「……ないわね」
「じゃ、そこは新規。既読スキップ不可。ここから先、全部知ってる顔すんなよ、後輩」
私は先輩を見た。
蛍光色の数式が、黒い袖の上で歪んでいる。
昨日のピンクも、午前のミームも、全部、腹立たしいくらいにこの人だった。
「先輩も。分からない時は、分からないって言って」
「了解。賢者プレイ、今日は在庫切れです」
「普段から切れているでしょう」
「辛辣ゥ。人類の優しさ、どこで品切れた?」
「スコーンの水分と一緒に持っていかれたんじゃないですか?」
先輩が笑った。
私も、少しだけ。
十四時二十七分。
リリアンから短い連絡が入る。
《空域班、配置確認済み。追加機体の照合は継続。こちらの演出待機は維持します》
ひよりからも届いた。
《映像・音声、待機しています。メイと一緒です》
準備は整っている。
その言葉を、私はもう、安全の同義語として受け取らない。
それぞれが、今できるところまで手を動かしたという報告だ。
見ていない場所まで大丈夫だと言わず、分からないことを分からないまま残し、それでも連絡を絶やさずにいる。
それが、今の私たちの準備だった。
リリからの返信は、まだ来ない。
シオンの近くにいるのなら、彼女は今も相手の喉や視線を見ているのだろうか。私がここでカップの温度へ逃げている間に、彼女は、また自分の痛みを情報の後ろへ追いやっているのだろうか。そう考えることも、確認されていない想像だ。私は彼女の不在を、私にとって都合のよい献身で埋めてはいけない。それでも、何もせずに返信を待つ数十秒は、どんな複雑な計算より長かった。
もう一度だけ文面を打つ。
《リリ。シオンを止める話は、忘れていない。あなたのことも含めて、十四時半の確認に入れる》
救うと約束する言葉は、打たなかった。約束できないことが、これほど腹立たしいとは思わなかった。
サツキ会長が、最後のメッセージを副会長へ送った。
「十四時三十分から最終確認を始めます。あなたの担当分は、説明未了として扱います。来られない理由があるなら、せめてそれを答えてください」
送信を終えると、彼女は会長バッジへ指を当て、ずれを直した。
「……姿を見せてから、偉そうな説明をなさいませ。コウ」
誰へ聞かせるでもない声だった。私は聞こえなかったふりをし、空いた席を一つ確かめた。ミナトとハザマの不在には戻ってきてほしいという願いがある。コウの不在には、出てきて説明しろという怒りがある。同じ空席を、同じ意味で扱うことだけは、できなかった。
ミナトとハザマの欄には、新しい帰着の知らせはない。
私は二人の名前を見てから、時計を見た。
待っていたい。
全員が揃ってからにしたい。
そんな感情に対して、私の頭は、一秒もかからず時間上の不可能を提示する。
正解が速い。
速すぎて、悲しむ方が取り残される。
「……科学的に考えて、それが最適解よ。腹立つくらいにね」
何を指したのか、誰にも聞かれなかった。
サツキ会長が、空いた卓へ資料を置く。
ミサキが客席側の片付けを終える。
トウタが、入口の札を裏返す。
チイロ先輩は《本日の可愛い観測量》の表示を止めた。最後の値を盛ったり、切りのいい数字へ直したりしなかった。
キョウジとケイ先輩は、午前の席へ戻らなかった。
ユウマが、私の前へ一脚の椅子を置いた。
「座って話そう。立ったままだと、アスミ、また一人で先へ行く」
「椅子に、そんな因果制御能力はない」
「じゃあ、僕が呼び止めやすい」
私は反論を探した。
見つかった。
でも、使わなかった。
椅子へ座ると、ふくらはぎの張りを初めて感じた。朝から、何度も立ち、歩き、舞台へ上がり、誰かの顔を確かめていた身体が、ようやく自分の疲労を報告してくる。
手のひらを、膝へ置く。
震えていた。
止めようとすると、余計に分かる。
十五時。
それまでの三十分で、私たちは、分からないものを分からないまま持ち寄って、進み方を決めなければならない。
W1の記憶はある。
昭和五十六年で聞いた言葉もある。
午前にカナデを呼んだ自分の声も、まだ喉に残っている。
それだけ持っていて、私は未来を知らない。
知らないのに、知っている顔をすることだけは、もうしたくなかった。
「ユウマ」
「何?」
「私が、前もこうだったって言い始めたら、聞いて」
彼が私を見る。
「それはW1の話か。それとも、今ここで確認したことかって。私が苛立っても、説明を飛ばしても、そこで止めて」
「分かった。アスミも、僕が全部引き受けるって言ったら止めて」
「それは、言う前から止めてる」
「じゃあ、継続で」
馬鹿みたいな応答だった。
でも、指の震えは少しだけ弱くなった。
十四時三十分。
サツキ会長が、時刻を告げる。
「それでは、最終確認を始めます。ミナトさんとハザマは、現時点では未帰着です。空席のまま、進めますわ」
私は背筋を伸ばした。
カチューシャは、卓の端に置いてある。誰かの撮った写真の中では、私はまだそれを着けて、カップを持ち、注文を聞いているのだろう。その数十分後の私が、同じ服のまま、友人の安否と会長の計画をどう止めるかを考えていることを、写真は知らない。
紅茶の湯気は、もう細かった。皿の端には、食べきれなかったスコーンの欠片が残っている。私はそれを一つつまみ、口へ入れた。飲み込める。温度がある。喉が動く。そんなことを確かめた瞬間、答えようとして声が閉じたという、リリの報告の中のシオンが、頭から離れなくなった。
シオン。十五時に、私へ何を言うつもりなの?
その言葉を、キミ自身が選んだのか、私はどこまで確かめられるの?
そして、その隣にいるかもしれないリリの顔を見て、私は、自分が間に合ったと思えるのだろうか。
窓の向こうで、黒い小さな形が、校舎の縁を横切った。
数千という報告の中の、一機かもしれない。
ただの演出機かもしれない。
まだ、分からない。
私は目を逸らさず、それから、自分の意思で卓へ視線を戻した。
ここにいる人の話を聞く。
リリの無事を、勝手に前提にしない。シオンの敗北を、救済と取り違えない。コウが来ないことを、何も起きていない証拠にしない。そうした確認をいくつ積んでも、十五時の向こうが安全になるわけではない。それでも、恐怖が描いた結末へ、今ここにいる人間を先回りして配置するよりはいい。
今の私が、最初に選べることは、それだった。
十五時まで、あと三十分。
私は白いカップを両手で包んだ。
冷めきる前の温度が、まだ、そこにあった。
十四時三十分、喫茶店の札が裏返された。
それだけで、部屋は最終確認の場所になった。カップも、クロスも、私の服も同じなのに、次に口にする言葉だけが変わってしまう。
リリからの返事は、まだない。
コウも姿を見せず、ミナトとハザマの席は空いたまま。それでも時計は、誰の到着も待たなかった。
私は、閉店前に名前を呼んでくれた客の声を思い出した。
アスミさん。
十五時にシオンが私をどう呼んでも、その声まで忘れたくなかった。
だから、カップを置く前に、残っていた紅茶を一口飲んだ。
少し渋かった。
砂糖を頼めばよかったと思える自分が、まだいた。




