EP222. DAY2:喪失は対局前に、遺灰は初手に届かず
ルールとは、勝負を成立させるためにある。
互いに同じ条件を知り、許される行為と許されない行為を共有し、その範囲内で相手より正しい判断を積み重ねる。将棋であれ、盤上干渉戦であれ、その前提だけは変わらないと思っていた。
規則が歪んでいても構わない。
不公平に見える効果があっても、両者へ同じように公開されているなら、それを含めて読み切ればいい。悪趣味なルールであっても、理解と拒否の余地が残されている限り、それはまだゲームと呼べる。
問題は、知らされていない規則ではない。
知らされる前から、既に受け入れたことにされている規則だ。
決勝席へ向かうまで、俺は盤上で何を選ぶかを考えていた。
どの駒を動かし、どのカードを切り、葉暮ソウタの誘導をどこで反転させるか。そのために必要な情報を集め、盤外の構造まで視野へ入れたつもりでいた。
だが、決勝で最初に問われるものは、棋力ではなかった。
勝つために何を選ぶかでもない。
自分の選択が、まだ自分のものとして残っているか。
それを確かめるところから、この対局は始まった。
盤上干渉戦・決勝
この決勝で追加された黒いカード。
中央に印字された二文字を見た瞬間、俺が最初に覚えたのは恐怖ではなく、文章としての不自然さだった。
――代償。
それはカードの名称に見える。だが、盤上干渉戦で使用される七種の干渉権限には、すべて機能を端的に示す英語名が割り当てられていた。
五秒間だけ持ち時間を凍結し、サポート役が命令形の一言を差し込める《TIMEOUT》。
相手タッグの相談を三十秒封じる《NOISE》。
盤外干渉の半分を自陣へも反射させる《MIRROR》。
観客と配信カメラの注意を相手へ集中させ、集中力そのものを削る《SPOTLIGHT》。
負荷ゲージを一段階上昇させ、次回の干渉効果を増幅する《RESOLVE》。
飛車、角、香車、馬、龍の最大移動距離を一時的に二マスへ制限する《RANGE LOCK》。
そして、その手番で取った歩、香、桂、銀のいずれかを持ち駒へ変換させず、盤外へ消滅させる《PIECE SHREDDER》。
いずれも悪趣味ではある。しかし、悪趣味であることと、規則として破綻していることは同義ではない。既存の七枚には発動条件、作用対象、継続時間、例外処理、使用回数、負荷ゲージの増加量が記載され、少なくとも参加者が自分の選択によって何を変えるのかは事前に理解できる。盤外から将棋の正しさを歪める競技だからこそ、その歪み方だけは明示されていなければならない。それがゲームと詐術を分ける最低限の境界だった。
だが、銀色のケースへ収められた黒いカードには、名称らしい名称がなかった。
代償という日本語が一つ。
右下には、カード番号らしき白い文字で《COST―0》と刻印されている。
ゼロ。
第一号ではない。七枚の後に追加された第八のカードでもない。既存システムにおいてゼロ番は、通常処理より先に参照される基底規則、あるいは表向きの権限群を成立させる前提条件を意味する。つまりこれは新しい干渉カードではなく、七種のカードすべてに最初から埋め込まれていた何かを、決勝でだけ可視化したものだ。
カードの表面には効果説明がない。
俺が指を伸ばし、黒い表面へ触れると、銀色のケース底部でセンサーが青く点灯し、カードへ薄い光の文字列が浮かび上がった。
《FINAL ROUND ADDITIONAL REGULATION》
《COST SETTLEMENT SYSTEM:ACTIVE》
《干渉権限の行使には、等価の機能資源を必要とする》
《使用時、チーム構成員の保有機能から一項目を担保として登録する》
《登録された機能資源は、効果終了後に返還される》
《返還を保証する》
最後の一文だけが、他の説明より僅かに大きかった。
返還を保証する。
安全性を本当に保証できるシステムは、その言葉を前面には出さない。電気設備なら遮断電流と復帰手順を書く。医療機器なら適用範囲、禁忌、異常時の停止条件、予測される副作用を書く。情報システムならバックアップ、冗長構成、ロールバック可能な地点を明示する。保証という抽象語だけを強調するのは、具体的な安全条件を書けない場合か、書けば参加者が拒否すると分かっている場合だ。
さらに、機能資源という表現も意図的に曖昧だった。持ち時間、使用カード、駒、負荷ゲージのようなゲーム上の資源ではない。保有機能という言葉が指しているのは、もっと人間に近いものだ。
視覚。
聴覚。
発話。
運動。
記憶。
カードを指で挟んだまま、俺はケースを用意した運営スタッフを見た。白い手袋を着け、黒いベストの胸元に双灯祭実行委員の腕章を付けた男子生徒だった。年齢は俺たちと変わらない。決勝進出者へ特別規則を提示する重大な役割を担っているはずだが、その顔には緊張よりも、決められた手順を間違えずに進めようとする事務的な集中しかなかった。
「機能資源の定義を確認したい」
俺が訊くと、彼は一度だけインカムへ触れた。
「カード発動時、専用端末に選択可能な項目が表示されます」
「何が表示されるかを訊いている」
「選択可能な項目が表示されます」
「その項目に、身体機能や認知機能は含まれるのか?」
スタッフの視線が俺の手元から僅かに外れた。
回答を探したのではない。回答してよい範囲を探した動きだった。
「登録された機能資源は、効果終了後に返還されます」
「返還の意味は完全復旧か、それとも使用権限の再付与か?」
「返還は保証されています」
「どの状態を基準に保証する?」
「大会運営の安全基準に基づきます」
「安全基準の文書番号は?」
「大会運営の安全基準です」
循環している。
回答を拒否しているのではない。同じ定型文の外へ出る権限を与えられていない。彼に尋ね続けても、情報量は増えないだろう。むしろ質問内容だけが上位の監視系へ記録される。
隣でハザマが端末を立ち上げていた。説明文が表示された時刻、カード認証の開始時刻、決勝進行サーバーとの通信時刻を取得し、それぞれのタイムスタンプを照合している。彼の指は速いが、急いでいるようには見えない。感情による速度ではなく、異常を検出したときだけ作業手順が一段階短縮される、機械的な速さだった。
「ミナトさん」
「どうした?」
「受領記録が存在します」
「今、触れたからだろ」
「違います。受領時刻は三分十四秒前。決勝進出者紹介映像の再生開始と同時刻です」
俺は黒いカードから目を離し、ハザマの画面を見た。
《FINAL REGULATION:ACCEPTED》
《TEAM AMAGI》
《AUTHORIZATION:TACHIBANA/NONOMURA》
《TIMESTAMP:10:47:03》
現在時刻は十時五十分十七秒。
俺たちが銀色のケースを初めて見たのは、ほんの一分前だった。つまり、規則が提示される二分以上前に、俺とハザマは受領済みとして処理されている。
「署名情報は?」
「ありません。生体認証も、端末認証も使用されていない。決勝進行への参加継続を、追加規則への同意として自動変換しています」
「紹介映像が始まった時点で、決勝進行に入ったと?」
「そう定義されているようです」
「その定義は事前規約にない」
「はい」
「なら無効だ」
「法的、倫理的には」
「システム上は有効か?」
「既に有効です」
ハザマは短く答えた。
盤上干渉戦は、開始前から盤外の正しさを歪めていた。
対局者は規則へ同意したから盤へ向かうのではない。盤へ向かったという行為を、まだ知らされていない規則への同意として後から利用される。選択の前提を隠し、選択後に意味を付け足す。それは合意ではない。行動履歴を人質にした遡及的な服従だった。
ケースの反対側で、ソウタが黒いカードを裏返していた。
真壁はカードを見ていなかった。銀色のケース底部で点滅するセンサー、ステージ側へ延びた通信ケーブル、真壁自身の端末に表示された認証波形を順番に確認している。額の銀色のプレートにも細い光が走っていたが、そこへ触れる様子はない。
ソウタが顔を上げた。
「立花はん、どぉ? 読めました?」
「何をだ」
「カードやなくて、書かれてへん方を」
「お前が言っていたのは、これか?」
「どれのことやろ?」
「カードは効果から読むな。誰に何を捨てさせるために配られるかを読め」
「言うたなぁ」
「COSTは効果の対価ではない」
ソウタの目が僅かに細くなった。
「続けてや」
「表面上は、干渉権限を使うために身体機能を担保へ差し出す規則だ。だが、それだけなら使用者は損失の小さい機能を選ぶ。発話依存の低いチームは発話を捨てる。盤面を記憶できる対局者は視覚を捨てる。サポート役が盤外情報を処理するなら、対局者は聴覚を切れる。規則の目的が単なる高リスク化なら、選択肢を与える必要はない。カードごとに代償を固定すればいい」
「せやのに、選ばせる」
「選択そのものを観測するためだ」
背後から、決勝前の演出音が低く響いた。黒幕の向こうではトウタが観客を煽り、天城側と影村側の紹介映像が交互に流れている。歓声が壁と床を震わせるたび、銀色のケースに映る照明が細かく揺れた。
俺はカードをケースへ戻さず、指先で保持したまま続ける。
「人間が勝利のために何を交換可能と判断するか。視覚、聴覚、言葉、動作、記憶。その優先順位を局面ごとに記録する。しかも、単純なアンケートではない。持ち時間、勝敗、観客の視線、対戦相手の選択、負荷ゲージ、将棋の局面という圧力を与えた状態で、本人に身体機能を選ばせる。これはゲームではなく、極限状態における価値序列の取得だ」
「九十点」
「残り十点は」
「立花はん、返ってくると思ってはる」
「思っていない」
「ほな、五点追加しときます」
「採点基準が随分と軽いな」
「重い話ばっかりしてたら、盤へ出る前に呼吸が止まりますさかい」
ソウタは笑っていた。
いつもの柔らかい笑みだったが、目元にだけ疲労が見えた。準決勝を五分足らずで終えた人間の疲れではない。知っていることをどこまで言うか、その境界を維持し続けた疲労だ。
「試運転を見たと言ったな」
「そんなこと言いましたか?」
「さっき言った」
「言うたかもしれませんなぁ」
「参加者はどうなった」
ソウタはすぐに答えなかった。
真壁へ視線を送る。
真壁は否定も肯定もせず、ただ右手の人差し指で自分の端末を一度叩いた。そこに表示されている情報を俺たちからは確認できない。だが、その一動作でソウタの返答可能範囲が決まったらしい。
「戻ったで」
ソウタが言った。
「何がだ? 機能は? 人間は?」
ソウタの笑みが消えた。
「それは、別の話やで」
機能は戻った。
だが、人間は元へ戻らなかった。
その意味を問い返す必要はなかった。記憶、視覚、運動、発話といった機能は、数値上の閾値まで回復したのかもしれない。神経伝達が再開し、検査項目を通過し、システム上では返還済みと記録されたのだろう。しかし、身体の一部を自分の意思で差し出し、それが戻らない時間を経験した人間の認知までは元へ戻せない。安全基準が測定するのは機能であり、その機能を失った瞬間に破壊された人格の連続性ではない。
ハザマがスタッフへ向き直った。
「決勝戦を辞退します」
声は冷静だった。
だが、その内容は俺への相談ではない。まずシステムが辞退を受理するかを試すための宣言だ。
スタッフは明らかに困惑し、インカムへ手を当てた。数秒間の沈黙のあと、聞かされた回答をそのまま読み上げる。
「決勝進行開始後の辞退は、チーム失格として処理されます」
「構いません。失格を受け入れます」
「決勝限定規則により、進行中断には対戦両チームおよび大会統括権限者の承認が必要です」
「失格と中断は別です。天城側のみ失格として処理してください」
「一方の失格は、相手チームの勝利確定後に成立します」
「では影村側の勝利を確定してください」
「決勝戦が開始されていないため、勝利判定を実行できません」
ハザマは一秒だけ黙った。
「……決勝進行は既に開始されていると、先ほど説明しましたよね?」
「決勝戦は、開始合図をもって開始されます。規則受領については紹介映像開始を決勝進行開始とみなし、辞退については開始合図前を未開始とみなす、決勝限定規則に基づきます」
「同じ開始という言葉を、処理ごとに別の時点へ設定しているだけでは?」
「決勝限定規則に基づきます」
逃げ道が閉じられている。
規則の不備ではない。不備なら矛盾によって処理が停止する。これは目的に応じて開始時刻の定義を変え、参加者の同意だけを取得し、拒否だけを成立させないよう作られている。出口が見える位置にありながら、そこへ近づくたび通路の定義が変わる。
御影シオン。
名前が頭の内側へ浮かんだ。
彼女が直接これを設計したと断定する材料はない。盤上干渉戦のカード演出には影村側の技術協力が入り、決勝ノードにも複数の研究部門が関与している。サツキが承認した書類もあるはずで、天城側の実行委員も設備を確認している。個人の悪意だけで、この規模の構造は作れない。
だからこそ、厄介だった。
責任が分散されている。
カード効果を設計した者、演出を作った者、生体機能の測定系を組んだ者、規約文を書いた者、決勝サーバーを構築した者、承認印を押した者。全員が一部分しか知らず、自分の作業を安全な部品だと思っている。その部品が組み上がったとき、人間から拒否権を奪う装置になる。
設計者が一人なら止めやすい。
構造が設計者を必要としなくなったとき、止める対象は人間ではなくなる。
「ミナトさん」
ハザマが俺を見た。
「続行する合理的理由はありません」
「ある」
「ログを取得するため、と言うつもりですか?」
「ああ」
「対局前の時点で、規則遡及と辞退拒否のログは取得済みです。これだけでも安全管理上の重大な違反を立証できます」
「表に出せればな」
「三系統へ複製します」
「相手はタイムスタンプを三分十四秒戻した。記録を消す必要すらない。別の正規ログを作って、俺たちの方を異常記録にすればいい」
「だから、対局を続けてシステムの内部挙動を観測すると?」
「外から見える違反だけでは、故障として処理される。中へ入って、意図された処理だと証明する」
「証明できる保証はありませんよ……」
「安全の保証よりは信用できる」
ハザマは反論しなかった。
納得したわけではない。俺の論理の問題ではなく、決定の根にある別のものを見抜いたからだ。
俺は勝敗そのものへ強い興味を持たない。
勝利は理解が成立した結果であって、目的ではない。対局相手がどのように局面を認識し、どこへ価値を置き、どの分岐を恐れ、どの誤認を自分から選ぶのか。その構造が見えた瞬間に、勝敗より大きなものを得たと感じる。
だからこそ、危うい。
理解できない構造を前にすると、俺は距離を取るより、触れて確かめようとする。刃物の切れ味を知るために、自分の指を刃へ当てる。その非合理性を、理解という言葉で整えているだけだ。
「あなたは、内部へ入れば止められると思っている」
ハザマが言った。
「違うか」
「入った人間が、内部の一部にされる可能性を軽視しています」
「軽視はしていない」
「では、何を担保に続行するのですか?」
「お前だ」
「私を……?」
「俺が盤上へ引き込まれたら、盤外から切れ」
「切断権限がないことは、今確認したばかりです」
「権限の話じゃない。記録と判断を切り離す。俺が勝つために異常を正当化し始めたら、その時点で俺を信用するな」
ハザマの眉が僅かに動いた。
「非常に不愉快な依頼ですね……」
「知っている」
「あなたが壊れる過程を観測し、適切な地点で見捨てろと言っている」
「見捨てるんじゃない。切り分ける」
「言い換えても軽くなりませんよ……」
「軽くする気はない」
ハザマは長く息を吐いた。彼の視線が俺から黒いカードへ移り、さらにソウタと真壁へ移る。盤上では俺とソウタが対局者となる。しかし盤外では、ハザマと真壁がそれぞれ何を観測し、どの時点で介入するかが勝敗以上の意味を持つ。
「では、一つ条件があります」
「何だ?」
「カード発動の最終承認は、私が行います」
「盤面上必要なら、俺が要求する」
「要求は受けます。承認は私が決める」
「TIMEOUTでは命令形の一言だけだ」
「命令と承認は別です」
「理屈を使うな」
「あなたにだけは言われたくありませんよ」
ハザマの声に、ほんの僅かな怒気が混じった。
俺は頷いた。
「分かった」
「もう一つ」
「まだあるのか?」
「戻ったあとで文句を言います」
「戻れる前提か」
「前提ではありません。要求です」
その言葉は、契約ではなく祈りに近かった。
俺は返答を探し、結局、短く頷くことしかできなかった。
ソウタがこちらを眺めていた。
「ええコンビやなぁ」
「真壁は違うのか」
「真壁はんは相方いうより、鏡みたいなもんですわ」
「自分を映すための……?」
「自分がまだ自分やと確かめるための」
真壁が口を開いた。
「ソウタ殿」
「はいはい、分かってます」
「あなたの説明は、既に許可範囲を越えています」
「真壁、お前に許可を出しているのは誰だ?」
俺が訊くと、真壁は俺へ目を向けた。
「回答権限がありません」
「誰に対しての回答権限だ」
「その質問へ回答する権限もありません」
「権限がないことを明言する権限はある」
「はい」
「つまり、お前は命令系統の存在だけなら開示できる」
「はい」
「命令元は人間か……?」
真壁は黙った。
沈黙が情報になることを、彼ほど理解している人間はいない。それでも答えなかったということは、人間だと肯定することも、システムだと否定することも許可されていない。
あるいは、真壁自身にも分からない。
命令が人物名ではなく、権限コードとして届いているのなら、送信主体が誰かを特定できない。御影シオン本人が指示している可能性も、彼女の権限を利用した自動処理である可能性も、既に別の誰かへ委譲されている可能性もある。
舞台袖から三度目の呼び出しがかかった。
「決勝進出者の皆さん、入場位置へお願いします! 開始まで二分です!」
黒幕の隙間から、決勝ステージの白い光が差し込んでいる。観客の歓声は準決勝より明らかに大きく、床を通じて胸郭へ響いた。彼らは今から始まるものを、祭りの目玉企画だと思っている。将棋の難しさをカード演出が補い、盤外の読み合いを含めて楽しめる、少し刺激的な頭脳戦。その認識は嘘ではない。
全体ではないだけだ。
危険な設計は、完全な嘘より、部分的な真実を好む。すべてが虚偽なら疑われる。九割を正しく見せ、一割だけを参加者の死角へ置く。人間は、自分が理解できた九割を根拠に、残る一割も同じ性質だと推定する。
俺たちが準決勝まで経験した盤上干渉戦は、確かに競技だった。
NOISEで相談を封じられても、時間を失うだけだった。RANGE LOCKで角や飛車の射程を削られても、一手後には戻った。SPOTLIGHTで観客の視線が集まっても、集中力を保てば耐えられた。PIECE SHREDDERで駒を消されても、失われるのは盤上の資源だけだった。
だから、決勝も同じだと思わせることができる。
七枚のカードは危険性を隠すための予行演習だったのかもしれない。干渉されることへ慣れさせ、負荷ゲージが上がる演出を見せ、反動という言葉をゲーム内の数値だと思わせる。参加者と観客の双方へ、盤外干渉は派手だが安全だという学習を積ませる。
その学習が完成したところで、代償の対象だけを盤上から身体へ移す。
俺たちは既に、カードを使うという行為へ抵抗を失っている。
「ソウタ」
「なんですか?」
「お前は、この決勝を勝ちたいのか」
彼は少し考えるように首を傾けた。
「どっちでもええよ」
「勝敗より、選び方が重要だからか?」
ソウタは黒いカードをケースへ戻した。指先が表面から離れると、説明文が消え、代償という二文字だけが残る。
「僕は、勝ちたいねん」
先ほどとは違う答えだった。
「おい、どちらでもいいと言ったばかりだぞ?」
「どっちもほんまやねん」
「矛盾している」
「勝ちたいんと、勝ちだけが欲しいんとはちゃうやろ?」
「何に勝つ」
「そこを決めるんが、今日の対局や」
「決めてから盤へ座れ」
「立花さんは決めてるんか?」
俺は答えなかった。
将棋でソウタに勝つ。
COSTの内部処理を暴く。
決勝システムを止める。
観客へ異常を知らせる。
ハザマを守る。
自分の身体を失わずに戻る。
すべてを同時に達成できるとは限らない。むしろ、この規則は目標同士を衝突させるために作られている。勝利を優先すれば身体を削る。身体を守ればカードを使えず、盤面で負ける。異常を暴こうとすればシステムの深部まで負荷を上げる必要があり、ハザマも危険へ巻き込む。サポートを守れば、対局者である俺が孤立する。
どれを捨てるか。
カードを使う前から、選択は始まっている。
「まだ決めていない」
俺は正直に答えた。
ソウタは笑った。
「それでええんねん」
「何がだ」
「最初から答え持っとる人は、だいたいカードに答え選ばされるねん」
「お前は持っていないのか?」
「僕、持ってた答えを疑うために来たんや」
真壁がソウタの半歩後ろへ立つ。
「ソウタ殿、入場時刻です」
「はいはい。真壁さん、今日は厳しいなぁ」
「通常です」
「ふだん言うたら、誰が見るかで変わるわなぁ」
「その議論は対局後に」
「対局の後があれば、やけどな」
ソウタは軽い調子で言ったが、真壁は否定しなかった。
四人で黒幕へ向かう。
天城側の入場口と影村側の入場口は途中で分かれている。分岐点へ差しかかったところで、ソウタが足を止めた。
「立花はん」
「何だ」
「一個だけ、忠告しとくわ」
「今さらか」
「今やからです」
彼は周囲のスタッフへ聞こえない程度に声を落とした。
「カード使う時は、選んだ機能ばっかり見てたらあかんで」
「……他に何がある?」
「誰から引かるんかや」
俺は眉を寄せた。
「チーム構成員の保有機能から選択すると書かれている」
「誰が選ぶとは書いてへんやろ?」
「端末の操作者が選ぶ」
「そう思わせる表示は出るで」
「実際は違うのか……?」
「僕が見たテストやと、選んだ人と、連れていかれた人、違てんけどなぁ」
ハザマが一歩近づいた。
「無作為選択ですか……」
「無作為に見えたわ」
「見えた、ということは?」
「あとで調べたら、無作為やなかった」
「選択基準は?」
「効果が一番効く組み合わせ」
俺は黒いカードの文面を思い返した。
《使用時、チーム構成員の保有機能から一項目を担保として登録する》
構成員のうち誰が差し出すかは、確かに書かれていない。
サポート役が聴覚を選んでも、実際には対局者の聴覚が奪われる可能性がある。対局者が右腕の運動を選んでも、盤外処理を担うサポート役の右腕へ適用される可能性がある。選択できるのは機能の種類だけで、その所有者はシステムが決める。
しかも基準は、効果が最大化される組み合わせ。
NOISEを使うなら、発話を失うことで最も連携が崩れる者から発話を取る。RANGE LOCKを使うなら、視覚を失うことで盤面認識が最も損なわれる者から視覚を取る。TIMEOUTを使うなら、五秒間の思考猶予が最も有効になる代わりに、その後の判断力を最大限削る機能を選ぶ。
等価交換ですらない。
カード効果を得る代わりに、システムがこちらの弱点を算出し、最も痛い場所から徴収する。
「それは代償ではない」
俺が言うと、ソウタは静かに頷いた。
「せやから、COSTなんです」
「違いは」
「代償は、自分で払うもんです」
⸻
黒幕の向こうでトウタが叫んだ。
「さあ、双灯祭二日目、盤上干渉戦もいよいよ決勝! 天城と影村、互いの看板を背負う二組が、今、舞台へ上がります!」
歓声が爆発した。
ステージ照明が入場通路を白く塗り潰し、ソウタの輪郭が光の中へ溶ける。その直前、彼は笑みを残したまま言った。
「これ、えげつない取り立てやわ」
ソウタと真壁は影村側の通路へ消えた。
俺とハザマは数秒、その場に残った。
「ミナトさん」
「ああ」
「続行の判断を撤回する最後の機会です」
「撤回しない」
「そう言うと思いました」
「お前は」
「承認権限を渡さないと言いました」
ハザマは自分の端末を胸元へ固定した。SUPPORT HUDと接続され、七枚の干渉カードが縦に並ぶ。その隣には、準決勝まで存在しなかった黒い欄が追加されている。
《COST POOL:UNDEFINED》
《OWNER:SYSTEM SELECT》
所有者はシステムが選択する。
ソウタの忠告は正しかった。
「確認できたか?」
「はい。機能種類をプレイヤーが選択し、徴収対象はシステム側が決定する。決定基準は非公開です」
「効果最大化とまでは書かれていない」
「書かれていないだけでしょう」
「ああ」
「一つ訂正します」
「何を」
「これは、私たちがカードを使うゲームではありません」
ハザマは白い光の先にある決勝盤を見た。
「システムが、私たちのどちらを使うか選ぶゲームです」
その認識は正確だった。
盤上にいるのは俺とソウタ。
盤外にいるのはハザマと真壁。
だが、さらにその外側に、四人の機能を資源として管理する別のプレイヤーが存在する。俺たちがカードを選び、カードが効果を発動するのではない。俺たちの選択を入力として、システムが誰の何を奪うか決める。
三層だと思っていた。
盤上の読み。
盤外の読み。
観客の読み。
違った。
第四の盤面があった。
人間そのものを駒として配置する盤面。
俺は右手を一度握った。
指は動く。
感覚もある。
将棋盤の升目、駒の重量、指先へ伝わる木の摩擦、駒を置いたときの反発。それらをまだ失っていない。ただし、保持しているという事実は、安全を意味しない。この先、何かを得ようとした瞬間、システムはそれらのうち最も価値が高いものを選んで奪う。
「行くぞ」
俺が言うと、ハザマは頷いた。
黒幕を抜けた。
⸻
照明の熱が皮膚へ落ち、観客の歓声が圧力として正面からぶつかってくる。中央には決勝用の将棋盤があり、その左右に俺とソウタの席、後方にハザマと真壁のサポート席が配置されている。大型モニターには従来のSUPPORT HUDが表示され、七枚のカード、残り時間、負荷ゲージ、カード発動履歴が並んでいた。
その最下段へ、新しい表示が追加される。
《FINAL COST SETTLEMENT》
《LOSS MAKES INTERFERENCE POSSIBLE》
日本語訳が、その下へ遅れて浮かんだ。
《喪失によって、干渉は成立する》
観客は新演出だと思い、さらに大きな歓声を上げた。
ソウタは既に盤の向こうへ座っていた。真壁もサポート席へ着き、額の銀色のデバイスを決勝ノードへ接続している。ソウタは駒箱の蓋を開け、一枚ずつ駒を並べながら、俺へだけ届く声で言った。
「立花はん」
「何だ」
「まだ将棋やと思っとんのか?」
俺は王将を自陣中央へ置いた。
「将棋だ」
「そうなんや」
「少なくとも、盤の上ではな」
「盤の外は?」
「取り返す」
ソウタの手が止まった。
「何をです?」
「取られる前から決める必要はない」
「えらい欲張りやな」
「お前は違うのか」
ソウタは玉将を置き、その向きを指先で正確に整えた。
「僕は、取られたもん覚えとけるかなぁ、そこが心配やねん」
冗談のように聞こえる言葉だった。
だが、彼は記憶を代償として選ぶ可能性を、既に考えている。
トウタが両チームの紹介を終え、決勝規則の読み上げへ移った。声の勢いは普段と同じだったが、手元の台本へ視線を落とした瞬間、呼吸が一拍だけ遅れた。
「そして決勝戦では、特別システム《COST》が追加されます! カード使用時に各チームは機能資源を担保として登録! その機能は効果終了後に完全返還される――とのことです!」
完全返還。
カードに書かれていたのは返還だけで、完全という語はなかった。
実況台本で安全性が上書きされている。
「登録される機能については、視覚、聴覚、発話、運動、記憶などから発動時に選択! 限界を超えた頭脳戦、まさに決勝にふさわしい究極ルール――って、いや、待って、これ本当に大丈夫なやつだよな?」
最後は台本ではなかった。
客席から笑いが起きる。トウタのいつもの軽口だと思われたのだろう。だが、彼は笑っていなかった。実況席から運営へ視線を送り、返答を求めている。
正面モニターへ、自動音声の字幕が表示された。
《全機能資源の返還を保証します》
《安全管理基準内で運用されます》
《競技をお楽しみください》
観客が拍手する。
保証という言葉が、歓声によって事実へ変換されていく。
人間は、多数が受け入れた説明を自分でも検証済みだと錯覚する。周囲が笑っているなら安全だと思い、拍手が起きたなら同意が成立したと思う。SPOTLIGHTは観客の注意を武器に変えるカードだったが、決勝システムは既に、観客の安心そのものを参加者へ向ける圧力として利用している。
ここで異議を唱えれば、祭りの進行を妨げる神経質な対局者に見える。
続行すれば、自発的に規則を受け入れたように見える。
どちらを選んでも、設計者に都合のいい物語が完成する。
俺は盤面へ目を落とした。
初期配置。
すべての駒が、本来あるべき場所にある。
その整然さが、かえって異様だった。
「振り駒を行います」
審判役の実行委員が盤の横へ座り、歩を五枚取った。両手で振り、盤上へ落とす。
表が四枚。
俺の先手。
ソウタが僅かに笑った。
「先に選べますなぁ」
「手だけだ」
「最初は、やわ」
互いに一礼する。
「お願いします」
「よろしゅう頼むわ」
対局時計へ手が置かれた。
開始音が鳴る。
俺は初手を指す前に、盤上のすべてを一度だけ見た。
駒の配置。
ソウタの呼吸。
真壁の視線。
ハザマの端末。
七枚のカード。
黒いCOST欄。
実況席のトウタ。
客席の熱量。
照明の点灯周期。
盤面認識カメラ。
生体情報を送るセンサー。
決勝ノードへ接続された通信状態。
この勝負で読み切るべき局面は、八十一マスでは足りない。
だが、盤面がどれほど広がろうと、最初の一手は一つしかない。
俺は歩へ指を掛けた。
▲7六歩。
木の駒が盤へ触れ、乾いた音を立てる。
ソウタは一秒も使わず、△3四歩と返した。
互いの角道が開く。
通常なら、ここから始まるのは将棋だ。
しかし、俺たちの背後に表示された黒いゲージは、まだ誰もカードへ触れていないにもかかわらず、ゼロではなかった。
《COST LOAD:03%》
対局を開始しただけで、負荷が発生している。
選択する前から、何かが徴収され始めていた。
初手を指した時点で、俺はまだ何も失っていなかった。
指は動いた。
駒の重さも分かった。
盤面も見えていた。
ハザマの声も、観客の歓声も、対局時計が刻む音も認識できた。
だから、外から見れば正常だったはずだ。
だが、正常に見えることと、安全であることは違う。
危険は、異常が起きた瞬間に始まるとは限らない。人間が異常を受け入れられるよう、判断基準を少しずつ調整された時点で始まっていることもある。
この決勝では、盤上の一手だけを読めばいいわけではなかった。
相手の思考。
サポート役の判断。
運営の処理。
観客の反応。
俺自身が、何を守るべきものとして認識しているか。
それらすべてが、同じ局面へ組み込まれていた。
誰かが駒を動かす。
誰かがカードを選ぶ。
誰かがその選択を承認する。
だが、その結果として何が失われるかを決めるのが、選んだ本人とは限らない。
盤面は既に広がっていた。
八十一マスの外側へ。
対局者の外側へ。
そして、自分自身の身体の内側へ。
あの時の俺は、まだこの勝負を読み切れると思っていた。
読み切れないものがあるとすれば、それは局面ではなく、どこまでを自分と呼び続けられるかという境界の方だった。




