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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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EP223. DAY2:血の祓いは、死憑きの対局から

 盤上干渉戦という競技を、俺は最後まで将棋として終わらせるつもりだった。


 干渉カードが追加されても。


 観客が盤外から介入しても。


 勝敗を左右する要素が八十一マスの外へ広がったとしても、最後に勝敗を決めるのは盤上だと信じていた。


 だから決勝ノードを見ても、黒いカードを見ても、俺は一つだけ勘違いしていた。


 代償は、カードを使った者が支払うものだと。


 盤面を読めば避けられるものだと。


 最善手を積み重ねれば、人間としての自分だけは守れるものだと。


 全部、違った。


 決勝が始まった瞬間には、もう契約は終わっていた。


 俺たちは棋士ではない。


 徴収予定資産だった。


 この対局で争われるのは勝敗ではない。


 最後まで人間として残っていられる割合だった。


 《COST LOAD:03%》


 対局を開始しただけで、負荷が発生している。


 選択する前から、何かが徴収され始めていた。


 その表示を見た瞬間、俺が最初に確認したのは身体ではなかった。


 盤面だ。


 七六の歩。


 三四の歩。


 互いに開いた角道。


 駒の配置に異常はない。盤面認識カメラの座標補正にも揺らぎはなく、駒の輪郭を拾う照明の角度も初期設定のまま。盤そのものに機械的干渉が起きた形跡はなかった。


 次に右手を確認した。


 指は動く。


 人差し指と中指を軽く曲げ、親指へ触れさせる。筋力低下はない。触覚も残っている。駒の木肌を撫でれば、細かな導管の凹凸まで分かる。少なくとも運動機能、触覚、表在感覚は現時点で保持されている。


 だが、それで安全とは限らない。


 COST LOADという表示が、単純な疲労値を示している保証はなかった。


 負荷。


 それは消費ではない。


 まだ徴収されていない機能へ、システムが価値を付け始めた割合かもしれない。あるいは、既に徴収済みだが自覚症状が出ていないだけかもしれない。神経機能には代償作用がある。片側が欠けても、反対側が短時間だけ補うことがある。認知も同じだ。失われたことを失われた本人が認識できない種類の機能はいくらでも存在する。


 記憶。


 判断。


 情動。


 自己認識。


 そして観測。


 奪われた瞬間に、奪われたと判定するための能力まで一緒に失われれば、本人にとって喪失は成立しない。


 俺が黙って黒いゲージを見ていると、対面のソウタが駒台へ置いた右手を動かさず、細い目だけで俺を見た。


「三パーセント」


「ああ」


「もう始まってますなぁ」


「何がだ」


「取り立てが」


 笑っていた。


 いつものように、口元だけで。


 その笑みは挑発ではなかった。


 確認だった。


 彼は俺の反応を見ているのではない。俺が自分の身体を確認した順番を見ている。


 盤面。


 右手。


 感覚。


 思考。


 俺が何を最初に失いたくないと判断したか。その順位を、俺自身の動作から読み取っている。


 同時に、決勝ノードも読んでいる。


 俺は右手を膝へ戻した。


 これ以上、確認行動を続けるべきではない。


 何を守りたいかを自分で開示することになる。


「ハザマ」


 呼びかける。


 返答はない。


 それ自体は異常ではなかった。俺たちは対局中、必要以上に会話しない。ハザマは端末へ視線を落とし、何かを確認している。SUPPORT HUDの表層ではなく、接続ログの下層を見ている時の角度だった。


 その後方で、真壁は身動き一つせず座っている。


 額の銀色デバイス中央に、細い青白い線が点灯していた。


 準決勝では微弱だった光が、決勝では呼吸するように明滅している。真壁の生体情報は大型モニター右下へ表示されていた。


《MAKABE HR 57》


《LANGUAGE OUTPUT:STABLE》


《LINK DEPTH:12%》


 言語出力。


 そんな項目は準決勝まで存在しなかった。


 俺は視線だけでハザマへ送る。


 見えているか。


 ハザマは一度だけ右の人差し指を端末の縁へ触れさせた。


 肯定。


 同時にソウタが指した。


 △8四歩。


 角道を開いた直後に飛車先を伸ばす。


 一般的な居飛車。


 だが、この局面で重要なのは戦型ではない。


 ソウタが一秒も使わなかったことだ。


 彼は初手の応手を考えたのではない。


 俺が▲七六歩と指すことを前提に、次の数手まで既に組み立てていた。


 それ自体は棋士なら珍しくない。


 問題は、COST LOADが表示された後も思考時間が変わらなかったことだった。


 普通なら確認する。


 黒いゲージが何を意味するか。


 身体に異常はないか。


 サポート役の状態はどうか。


 だが、ソウタは何もしなかった。


 確認しなかったのではない。


 確認する必要がないと判断した。


 あるいは。


 確認しても意味がないことを知っている。


 俺は▲二六歩。


 飛車先を伸ばす。


 角道を開いたまま居飛車を明示する手。


 定跡選択としては平凡だが、盤上干渉戦では別の意味を持つ。


 飛車を使う。


 長い利きを使う。


 RANGE LOCKの標的になり得る駒を、序盤から戦力として宣言する。


 それは戦型の選択であると同時に、システムへの回答だった。


 俺は盤上の長射程を恐れていない。


 そう見せる。


 実際に恐れていないわけではない。


 RANGE LOCKは飛車角の利きを短縮する。通常の盤上干渉戦なら、その一手だけで構想が壊れる。しかし今は、カード効果よりも代償の方が重い。長射程を失う程度ならまだいい。カードを使うために、誰かの視覚や運動が削られるなら、飛車一枚の利きなど比較にならない。


 それでも、怖がった形を作れば読まれる。


 俺が何を恐れているか。


 誰を失いたくないか。


 どの機能を価値あるものとして扱うか。


 だから通常通り指す。


 通常を演じる。


 盤面が壊れる前に、自分の評価関数を隠す。


 ソウタは△八五歩。


 俺は▲七七角。


 角を上がり、飛車先を受ける。


 乾いた駒音。


 会場の歓声。


 トウタの実況が入る。


「さあ序盤は極めてオーソドックス! 天城のミナト、影村のソウタ、互いに普通の居飛車模様から入った! けど皆さん、黒いゲージ見えてるよな!? 何もしてないのに三パーセント! これ本当に演出なのか!?」


 彼の声は明るい。


 だが、台本から外れた語尾に警戒が混じっている。


 大型モニター下部へ、自動字幕が出た。


《COST LOADは競技環境への適応率を示します》


《安全基準内です》


 説明になっていない。


 適応率。


 何が何へ適応するのか。


 競技者がシステムへ適応するのか。


 システムが競技者へ適応するのか。


 主語がない。


 主語のない文章は、責任を持たない。


 俺はその表示を見て、むしろ確信した。


 三パーセントは疲労ではない。


 システム側の適応だ。


 俺たち四人を、資源として扱うための分類が進んでいる。


 その時、ハザマの端末へ小さな警告が浮かんだ。


 観客席からは見えない。


 俺の位置からも全文は読めない。


 だが、赤い警告色と項目数だけは見えた。


 三行。


 ハザマの瞳が一度だけ止まる。


 そこから先は速かった。


 彼は画面を閉じない。


 慌てて俺へ伝えようともしない。


 代わりに、右手でSUPPORT HUDのカード一覧を開き、その最上段にある《TIMEOUT》へ触れた。


 触れただけ。


 発動はしていない。


 だが、その瞬間だった。


《COST LOAD:03%》


 表示が跳ねた。


《COST LOAD:07%》


 会場の空気が遅れて変わる。


 観客は演出だと思い、歓声を上げる。


 トウタが叫ぶ。


「おっと、ハザマがカードへタッチしただけで負荷上昇! まだ発動してないぞ!? 決勝仕様、選ぶ前から覚悟を測るってことか!?」


 違う。


 選ぶ前から測るのではない。


 触れたことで、候補が絞られた。


 TIMEOUT。


 五秒だけ時間を止め、サポートが命令形の一言を差し込む。


 つまりこのカードが必要になる局面で、俺たちが価値を置いているものは何か。


 時間。


 判断。


 言語。


 意思決定。


 システムはその四つを候補へ上げた。


 ハザマはすぐに指を離した。


 だが遅い。


 一度触れた選択はログへ残る。


「ミナトさん」


 ハザマが小さく言った。


「触れただけで候補登録されます」


「見れば分かる」


「さらに訂正です」


「言え」


「COST LOADは累積ではありません」


 俺は盤から目を離さない。


「根拠は」


「今の上昇幅です。三から七。四ポイント増加。カードに触れた時間は〇・四秒。生体負荷では説明できません」


「何の数値だ」


「選択確度」


 短い言葉だった。


 だが正しい。


 システムが誰から何を取るか。その選択が、どこまで確定したか。


 七パーセント。


 まだ低い。


 しかし既に、俺たちの機能は候補に並べられている。


 ソウタは俺たちの会話を聞いていたはずだ。


 それでも表情を変えず、△三二金と上がった。


 角換わりへ進む形。


 俺は▲二五歩。


 ソウタは△三三角。


 ここまで、定跡の表面だけなら何も起きていない。


 だが、俺には盤面が少しずつ狭くなっていく感覚があった。


 駒の動ける範囲ではない。


 選択の意味が増えすぎている。


 一手指すたび、将棋上の評価だけでなく、人格上の評価、機能価値、サポートへの信頼、代償への恐怖まで読み取られる。


 候補手は増えているのに、自由は減っている。


 俺は▲八八銀。


 角換わりを受ける。


 ソウタは△七七角成。


 俺は同銀。


 角が交換される。


 盤上から二枚の角が消え、それぞれの駒台へ置かれた。


 長射程駒が盤外へ移る。


 普通なら、ここから互いに角の打ち込みを警戒する。


 だが、角を持ち駒にした瞬間、SUPPORT HUDの《RANGE LOCK》が一度だけ自動点滅した。


 誰も触れていない。


 システム側からの提示。


《RECOMMENDED INTERFERENCE》


《RANGE LOCK》


 観客が沸いた。


「おいおいおい、システムからおすすめカード!? 決勝ノード、戦い方まで営業してくるのか!?」


 トウタの冗談に笑いが起きる。


 だが俺は笑えなかった。


 推薦。


 システムはカードの使用を待っていない。


 使わせようとしている。


 角が持ち駒になったことで、長射程干渉の価値が上がった。


 同時に、代償として何を徴収すればカード使用へ踏み切りやすいかを計算している。


 つまり、この決勝ノードは中立ではない。


 盤上干渉戦の進行役でもない。


 カード使用を増やす目的関数を持っている。


 代償を発生させるために、局面を煽っている。


 俺は駒台の角へ視線を置かなかった。


 視線を置けば、角の価値を認めることになる。


 それでも、システムは既に俺の指し手から価値を推定している。


 完全に隠すことはできない。


 ならば、偽の優先順位を与えるしかない。


 俺は▲三八銀。


 早めに銀を上がる。


 腰掛け銀へ進む準備。


 玉形より攻撃陣の整備を優先する手。


 見方によっては、守備より攻撃を重視しているように映る。


 だが本当の目的は別にあった。


 盤面の評価軸を散らす。


 角。


 銀。


 飛車。


 玉。


 どれが俺の構想の中心か、システムへ一つに絞らせない。


 ソウタは△二二銀。


 俺は▲四六歩。


 ソウタは△四二玉。


 俺は▲四七銀。


 ソウタは△六二銀。


 手が進む。


 観客には静かな序盤に見える。


 だが黒いゲージだけが、呼吸するように一パーセントずつ上昇していた。


《COST LOAD:08%》


《COST LOAD:09%》


《COST LOAD:11%》


 誰もカードへ触れていない。


 それでも上がる。


 盤面が複雑になるほど、システムの選択確度が上がっている。


 俺たちが何を重視しているか、指し手の蓄積によって判別されていく。


 ハザマが端末へ文字を打つ。


 俺のサポートHUDへ、短い一文が出た。


《候補機能:視覚/判断/聴覚/言語/短期記憶》


 五つ。


 四人に対して五つ。


 誰に何が割り当てられているかは不明。


 俺はその一覧を見た瞬間、自分の中で反射的に順位をつけかけた。


 視覚。


 判断。


 短期記憶。


 言語。


 聴覚。


 その順番が浮かびかけた瞬間、思考を切る。


 危ない。


 システムが生体情報を読んでいるなら、単語を見た時の反応だけで価値順位が分かる。


 瞳孔。


 心拍。


 呼吸。


 視線滞留。


 脳波。


 俺は一覧を閉じた。


「ハザマ」


「はい」


「候補を表示するな」


「理由は理解しています」


「お前も見るな」


「それは不可能です」


「なら意味を付けるな」


「努力します」


 努力。


 ハザマがその言葉を使う時、既に難しいと分かっている。


 意味を付けないことは、人間にはほぼ不可能だ。


 候補が提示された瞬間、脳は比較する。


 どれなら失ってもいいか。


 誰なら耐えられるか。


 何を残せば勝てるか。


 その比較こそが徴収対象の選択材料になる。


 このシステムは、俺たちに代償を選ばせているのではない。


 代償について考えさせることで、何を奪えば最も痛いかを測っている。


 俺は盤面へ戻る。


 ここでは考え過ぎるほど負ける。


 しかし考えなければ、ソウタに負ける。


 その二重拘束の中で、ソウタだけが平然と指し続けている。


 △五四歩。


 俺は▲六八玉。


 ソウタは△五二金。


 俺は▲七八玉。


 ソウタは△三一玉。


 互いに玉を囲う。


 形だけなら角換わり腰掛け銀の序盤。


 だが、ソウタの囲い方が僅かに浅い。


 金銀の連結を急いでいない。


 通常なら、攻め合いを見越して玉の安全度を確保する。しかし彼は、玉形よりも盤面全体の流動性を優先している。


 固定しない。


 決めない。


 完成させない。


 システムへ価値の中心を見せないためだ。


 俺と同じことをしている。


 いや。


 俺より先に理解していた。


 そのことを認めた瞬間、ソウタが初めて長く考えた。


 五秒。


 七秒。


 十秒。


 彼にとっては長い。


 真壁が盤面ではなく、生体モニターへ視線を移す。


 ソウタの心拍は六十。


 変化なし。


 短期記憶候補の表示が、影村側HUDの下で一度だけ点滅した。


 ソウタはそれを見ない。


 代わりに、俺を見た。


「立花はん」


「何だ」


「僕ら、考えてること一緒ちゃいます?」


「そう見えるか」


「見えるんやなくて、減り方が同じですわ」


 俺は黒いゲージを見る。


 天城側。


《COST LOAD:14%》


 影村側。


《COST LOAD:14%》


 完全に同じ。


「同じ局面を読めば同じだけ上がる」


「ちゃいますねん」


 ソウタは微笑んだ。


「同じもんを隠そうとしたからです」


 その直後。


 決勝ノードが音を立てた。


 低い。


 演出用の爆音ではない。


 筐体内部の冷却ファンが一段上がる、機械的な音。


 大型モニター中央へ、新しい表示が現れた。


《RESOURCE PROFILING COMPLETE》


《PRIMARY COST TARGETS LOCKED》


 会場の歓声が一瞬だけ遅れた。


 今度は誰も意味を理解できなかったからだ。


 トウタも言葉を詰まらせる。


「……ええと、プロファイリング完了? ターゲット、ロック? 運営さん、これ実況台本にないぞ?」


 返答はない。


 代わりに、四人分の生体表示の横へ、黒い輪郭だけが出た。


 文字は伏せられている。


 だが、対象が確定したことだけは分かる。


 俺。


 ハザマ。


 ソウタ。


 真壁。


 全員。


 四人とも徴収対象。


 誰か一人ではない。


 カードを使った側だけでもない。


 決勝へ参加した時点で、全員が資源として登録されている。


 俺はそこで初めて、ソウタの「取り立て」という言葉を正確に理解した。


 これはカード使用時に支払う代金ではない。


 参加時点で発生した債務を、システムが最も価値の高い瞬間に回収する。


 対局開始が契約。


 指し手が査定。


 カードは徴収執行の許可。


 つまり、今この瞬間まで俺たちは、払うかどうかを選んでいたのではない。


 何を払わせるのが最も効果的か、システムへ教え続けていた。


「ハザマ」


「はい」


「カードに触るな」


「同意します」


「影村も同じ判断をする」


「それでも」


「ああ」


 カードを使わなくても、負荷は増える。


 そして対局は終わらない。


 このままカードを使わず指し続ければ、いずれ盤上の局面がどちらかを追い詰める。


 追い詰められた側は、カードを使わざるを得ない。


 システムはその瞬間を待っている。


 将棋が代償を発生させる。


 だから将棋なのだ。


 俺は▲五六銀。


 腰掛け銀。


 ソウタも△六三銀。


 左右対称に近い形。


 だが完全な対称ではない。


 先手と後手。


 玉の位置。


 飛車先。


 角の打ち込み。


 僅かな差が、数十手後に圧力へ変わる。


 俺はその差を読む。


 読みながら、別の感覚が生じていることに気付いた。


 盤面の端が、少し遠い。


 物理的に離れたわけではない。


 一筋と九筋が、中心の局面へ与える影響を捉えるまでに、僅かな遅延がある。


 視界は正常。


 駒も見える。


 配置も分かる。


 しかし盤面全体を一つの構造として把握するまでに、いつもより時間が掛かる。


 〇・一秒。


 〇・二秒。


 誤差と言えば誤差だ。


 疲労でも説明できる。


 だが俺は、疲労による読みの鈍化を知っている。


 これは違う。


 疲労なら計算速度が落ちる。


 今起きているのは、盤面を構造として束ねるまでの遅延だ。


 見えている。


 認識もしている。


 だが、意味が繋がるのが遅い。


 俺は右手を握らなかった。


 確認行動をしない。


 それでも心拍が一つ上がった。


 大型モニターの俺の生体数値が七十二から七十四へ変わる。


 その直後。


《COST LOAD:18%》


 上昇した。


 俺の反応を拾った。


 ソウタが目を細めた。


「来はりました?」


「何がだ」


「まだ分からん方がええです」


「お前には来ていないのか」


「来てはります」


 即答。


「何を失った」


「ハハ、それを覚えとけたら、苦労しませんなぁ」


 冗談の形。


 だが、その言葉を聞いた瞬間、俺はソウタの異常に気付いた。


 彼は今、直前に指した手を見直している。


 盤上の△六三銀へ、ほんの一秒だけ視線を戻した。


 棋士が自分の指した駒を確認することはある。


 だがソウタは、駒の位置ではなく、自分がそれを指した事実を確かめているように見えた。


 短期記憶。


 候補の一つ。


 まだ完全には奪われていない。


 削られている。


 数秒前の行動が、保持されにくくなっている。


 それでもソウタの呼吸は変わらない。


 彼は盤面を見れば、直前の手順を再構築できる。


 棋譜が残っている限り、短期記憶が欠けても将棋は指せる。


 普通の棋士には無理だ。


 数手前からの読み筋を保持しながら次の変化を読むには、ワーキングメモリが必要になる。


 だが、ソウタは違う。


 彼の読みは、手順を頭の中へ保存する方式ではない。


 盤面そのものへ埋め込む。


 一手ごとに、次の手が自然に限定される形を作る。


 覚えているから指せるのではない。


 盤が指し手を要求するように作っている。


 だから忘れても進める。


 幽霊のような将棋。


 過去を持たず、現在の盤面だけから次の一手が現れる。


 俺はそこへ恐怖を覚えた。


 短期記憶を失った棋士が弱くなるとは限らない。


 ソウタの場合、迷いが消える。


 候補手の履歴が残らない。


 直前に捨てた変化への執着も消える。


 読み直すたび、盤面を初めて見る。


 それは劣化ではない。


 局面によっては、純化だ。


 システムは代償を与えたつもりで、ソウタから人間的な迷いだけを削っている。


「ハザマ」


 小声。


「ソウタの短期記憶が落ちている」


「確認しています」


「程度は」


「現時点で保持時間、推定十二秒」


 十二秒。


 それだけあれば、短い読みは可能。


 しかし長い変化は保持できない。


「低下継続」


「止められるか」


「カードを使わなければ、急減は避けられる可能性があります」


「可能性」


「保証はありません」


 その時、影村側の真壁が初めて口を開いた。


「ソウタ殿」


 低く、明瞭な声。


 ソウタは振り返らない。


「盤面のみを参照してください」


「了解〜」


 短い応答。


 それだけで意思疎通が成立する。


 真壁はソウタへ記憶を補う情報を渡さない。


 何手前に何を考えたかも言わない。


 盤面だけを見ろと言った。


 それは介助ではない。


 ソウタの将棋を最も強い形へ固定する命令だった。


 真壁は既に理解している。


 失われた機能を補おうとすれば、その機能の価値がさらに上がる。


 補助するほど徴収が深くなる。


 だから補わない。


 欠けた状態を、新しい標準として受け入れる。


 冷静。


 異常なほど冷静。


 俺は▲四五歩を保留し、▲三六歩。


 桂の活用を準備する。


 急戦へ踏み込まず、盤面の分岐を増やす。


 ソウタが短期記憶を削られているなら、長い変化へ誘導するのが理屈だ。


 候補手を増やし、手順を複雑化し、保持能力へ負荷を掛ける。


 将棋としては正しい。


 しかしその手を選んだ瞬間、俺は自分がシステムと同じ側へ立ったことに気付いた。


 ソウタの欠損を利用する。


 代償によって弱った機能を攻める。


 勝つために。


 それは通常の対局なら当然だ。


 相手の時間が少なければ急がせる。


 玉が薄ければ攻める。


 苦手戦型へ誘導する。


 だが今削られているのは、棋力ではない。


 人間そのものだ。


 俺が複雑化すれば、ソウタの短期記憶はさらに消費される。


 それでも指さなければ、俺が負ける。


 盤上干渉戦は、その選択を俺にさせる。


 相手を壊すか。


 自分が負けるか。


 そして、どちらを選んだかを記録する。


 俺は自分の指した三六の歩を見た。


 軽い一手。


 だが、今まで指したどの駒より重かった。


 ソウタは盤面を見直した。


 十二秒前の情報を失いながら。


 それでも、七秒で△一四歩と指した。


 端歩。


 局面の中心から離れた一手。


 俺の複雑化へ正面から応じない。


 端歩には複数の意味がある。


 玉の逃げ道。


 将来の端攻め。


 待機。


 手待ち。


 そして、記憶の負荷を下げる。


 中心を動かさず、一手分の時間を作る。


 ソウタは自分の欠損を理解し、それを盤面上の猶予へ変換した。


 俺は▲一六歩と受ける。


 受けなければ端の位が生じる。


 受ければ手順が一つ固定される。


 ソウタは俺に同じ種類の待機手を強制した。


 その間に、自分の盤面認識を再構築する。


 短期記憶を失いながら、将棋の流れそのものを遅くする。


 恐ろしいのは、その判断が記憶に依存していないことだった。


 現在の盤面を見て、現在必要な手を指す。


 過去が削られるほど、彼は現在へ近づいていく。


 俺たちは未来を読む競技をしている。


 なのにソウタだけは、過去を捨てることで未来へ進んでいる。


 その時。


 ハザマが眉を僅かに動かした。


 彼の表情変化は小さい。


 だが俺には分かる。


 何かが起きた。


「どうした」


 返答がない。


「ハザマ」


 彼は俺を見た。


 視線は合っている。


 しかし反応が一拍遅い。


 俺の声が届いていない。


 俺は口の形だけで問い直す。


 聞こえるか。


 ハザマは俺の唇を見て、端末へ文字を打った。


《音声入力低下》


 聴覚。


 候補にあった。


 俺はさらに問う。


 どの程度。


《右耳ほぼ消失》


《左耳低域のみ》


 既に始まっている。


 カードを一枚も使っていない。


 それでも徴収は進行している。


 参加時点で負荷が発生し、候補確定後から機能が削られる。


 カードは徴収の開始条件ではない。


 徴収速度を上げ、干渉効果へ変換する装置だ。


 つまり、カードを使わなくても失う。


 使えば、その喪失を盤上の力へ変えられる。


 使わなければ、ただ奪われるだけ。


 悪辣だった。


 人間は損失が避けられないと分かった時、その損失を意味あるものへ変えたくなる。


 どうせ失うなら使おう。


 どうせ削られるなら勝利へ変えよう。


 その心理を利用している。


 代償システムは、カード使用を強制していない。


 もっと効率的だ。


 使用しない選択を、無意味な自己犠牲へ変えている。


 俺たち自身に、カードを使う理由を作らせる。


 ハザマは音の消えた世界で、冷静に画面を操作している。


 実況も歓声も聞こえない。


 俺の声もほぼ届かない。


 だが、彼の視線はむしろ安定した。


 聴覚が消えたことで、会場ノイズから切り離された。


 盤外情報の一部を失った代わりに、HUDとログへ集中できる。


 ソウタと同じ。


 代償が、別の純化を生んでいる。


 システムは機能を削る。


 だが削られた人間は、欠けた形で最適化を始める。


 その適応まで含めて観測している。


 俺は背後の真壁を見る。


 彼だけはまだ変化がないように見えた。


 しかし生体表示の横にある《LANGUAGE OUTPUT》が、STABLEからVARIABLEへ変わっている。


 真壁は自分の喉へ触れない。


 発声確認もしない。


 ただ、端末へ数式を打ち続けている。


 既に言語機能へ何かが起きている可能性が高い。


 それでも確認しない。


 確認すれば価値が上がる。


 四人全員が、欠損の兆候を無視しながら指し続けている。


 観客には見えない。


 大型モニターには心拍とカードだけが表示され、機能低下の詳細は伏せられている。


 歓声は続く。


 拍手も続く。


 トウタだけが異変を感じ始めている。


「ちょっと待て、ハザマの音声反応遅れてないか? 真壁さんもさっきから一言も喋ってない。これ、演出じゃないよな?」


 運営字幕。


《競技者は安全基準内です》


《対局を継続してください》


 命令になった。


 競技をお楽しみください、ではない。


 継続してください。


 任意参加の祭りから、強制進行の実験へ文章が変わっている。


 俺は▲三七桂。


 桂を跳ねる。


 攻めの準備。


 ソウタは△七四歩。


 俺は▲四八金。


 ソウタは△七三桂。


 互いの桂が中央へ圧力を掛ける。


 盤面は静かに臨界へ近づいている。


 いつでも▲四五歩から仕掛けられる。


 後手も△六五歩から反撃できる。


 角換わり腰掛け銀の中盤。


 通常なら研究量と手順精度が問われる局面。


 だが今、研究手順はむしろ危険だった。


 ソウタは短期記憶が落ちている。


 過去の定跡を呼び出せても、現在の分岐へ保持できない。


 俺は盤面の統合認識が遅れ始めている。


 ハザマは聴覚を失いつつある。


 真壁は言語機能の変動。


 全員が、最も得意とする役割の周辺から削られている。


 偶然ではない。


 システムは汎用機能を奪っていない。


 その人間を、その人間たらしめている機能へ触れている。


 ソウタの将棋は、盤面の連続性を読む。


 だから短期記憶。


 ハザマは盤外情報を統合する。


 だから聴覚。


 真壁は解析を言語へ圧縮し、ソウタへ渡す。


 だから言語。


 俺は。


 俺は何だ。


 運動ではない。


 右腕でもない。


 棋力そのものでもない。


 俺の役割は、見ることだ。


 盤面。


 相手。


 相手が俺を見る視線。


 さらにその外側。


 俺は、観測者としてこの対局へ立っている。


 なら、システムが俺から取るものは。


 その結論へ辿り着いた瞬間。


 視界が揺れた。


 光量は変わっていない。


 焦点も合っている。


 盤上の駒はすべて見える。


 だが、盤面から意味が消えた。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけだった。


 七六の歩が、ただの五角形の木片になった。


 三七の桂が、文字の彫られた駒になった。


 飛車の横利きが消えたのではない。


 利きという概念そのものが、視界から抜け落ちた。


 駒は見える。


 位置も分かる。


 名称も読める。


 それなのに、その駒がどこへ動き、何へ作用し、次の局面でどのような関係を作るかが、一つの構造として立ち上がらない。


 盤を見ている。


 なのに、将棋が見えない。


 俺は反射的に息を止めた。


 次の瞬間、意味は戻った。


 飛車の利き。


 角の打ち込み。


 桂の跳躍。


 銀の進出。


 すべて再び繋がる。


 欠損時間は一秒未満。


 だが十分だった。


 俺は自分が何を削られているか理解した。


 観測能力。


 視覚ではない。


 認識でもない。


 複数の情報を関係として束ね、意味ある盤面へ変換する力。


 俺の最も深い機能。


 右腕を奪われる方がまだ良かった。


 腕が動かなければ、口で指せる。


 視覚が落ちても、棋譜を読み上げてもらえる。


 記憶が落ちても、盤面から再構築できる。


 だが観測能力を失えば、見えている世界が、意味を持たなくなる。


 駒も。


 人間も。


 ログも。


 因果も。


 目の前に存在しているのに、繋がらない。


 俺は盤へ手を置かなかった。


 動揺を見せない。


 しかし黒いゲージは容赦なく反応した。


《COST LOAD:22%》


 四ポイント上昇。


 俺が価値を認識したからだ。


 失いたくないと理解した瞬間、選択確度が上がった。


 ソウタが俺を見ていた。


 彼の目は、盤面よりも静かだった。


「見えへんなりました?」


「……見えている」


「そうですかぁ」


「意味が一瞬、消えただけだ」


 ソウタの笑みが僅かに深くなる。


「それ、見えへんって言うねん」


 俺は返さない。


 その通りだった。


 視覚は光を受け取る。


 観測は意味を作る。


 俺が失いつつあるのは後者だ。


 そして盤上に座っているソウタは、幽霊だった。


 幽霊とは、見えないものではない。


 見えているのに、生者の因果へ接続できない存在だ。


 今まで俺は、ソウタという棋士を祓うつもりでいた。


 彼が盤上へ残している未完の勝負を終わらせる。


 幽霊戦の続きを指し切る。


 それが祓いだと思っていた。


 だが違う。


 祓うためには、幽霊を観測しなければならない。


 観測した瞬間、こちらも幽霊の論理へ引き込まれる。


 見えないものを見るために、見える世界の意味を削る。


 俺はいま、ソウタを祓っているのではない。


 ソウタの側へ近づいている。


 過去を持たない棋士。


 意味を失う観測者。


 盤面だけが残る。


 人間が欠ける。


 俺は駒台の角へ指を掛けた。


 打つ場所は複数ある。


 ▲二六角。


 ▲三五角。


 ▲四六角。


 どれも意味が違う。


 通常なら、その差を一つの盤面として比較できる。


 だが今、候補手が個別の画像として浮かび、互いに繋がらない。


 比較できない。


 評価軸が立ち上がらない。


 俺は目を閉じた。


 視覚に頼るから、意味の欠損が際立つ。


 盤面を記憶から再構築する。


 七六歩。


 二六歩。


 二五歩。


 七七角。


 八八銀。


 三八銀。


 四六歩。


 四七銀。


 六八玉。


 七八玉。


 五六銀。


 三六歩。


 一六歩。


 三七桂。


 四八金。


 手順を逆算する。


 盤面を視覚ではなく、履歴として組み直す。


 ソウタが短期記憶を失い、現在の盤面だけを使っている。


 俺は観測能力を削られ、過去の手順から盤面を復元している。


 正反対。


 彼は過去を捨てる。


 俺は過去へ逃げる。


 その違いが、この先の勝敗を決める。


 目を開く。


 盤面の意味は戻っていた。


 完全ではない。


 ところどころ接続が薄い。


 だが指せる。


 俺は▲四五歩。


 仕掛けた。


 会場が沸く。


 トウタの声が跳ねる。


「来たぁ! ミナト、ついに中央を開ける! ▲四五歩! ここから定跡の殴り合いか、それとも決勝仕様の地獄か!?」


 ソウタは同歩。


 俺は同桂。


 桂が跳ねる。


 後手陣へ圧力。


 ソウタは△四四銀。


 桂を受けながら銀を前へ出す。


 俺は▲二四歩。


 同歩。


 同飛。


 △二三歩。


 ▲二八飛。


 手順が進む。


 速い。


 俺もソウタも、考えているように見えない速度で指している。


 実際は違う。


 俺は意味が切れる前に指している。


 ソウタは記憶が消える前に指している。


 互いに、自分の機能が残っている時間内で手を完結させている。


 対局速度が上がる。


 黒いゲージも上がる。


《COST LOAD:27%》


《COST LOAD:31%》


 ハザマの左耳も落ち始めた。


 彼はもう、俺の声を聞いていない。


 実況も歓声も消えている。


 代わりに、俺の生体ログ、ソウタの視線、真壁の入力、カード選択確率だけを見ている。


 真壁は一度、口を開いた。


「ソウタ……」


 そこで止まった。


 言葉が続かない。


 口腔運動は正常。


 声も出ている。


 だが、呼称の後に続く命令を文章へ変換できない。


 真壁の眉が初めて動いた。


 彼は喉を押さえない。


 再発声もしない。


 すぐに端末へ数式を書いた。


《ΔE < 0》


《K-branch》


《3 ply》


 言語を失い始めた人間が、記号へ移行した。


 ソウタは一度だけ後方を見る。


 真壁の数式を見て、頷く。


「はいはい分かりました、真壁はん」


 違う。


 今まで彼は真壁の言葉を受け取っていた。


 今回は数式を読んだ。


 真壁の役割が、会話から符号へ変わる。


 欠けた瞬間に新しいタッグ言語を作っている。


 ハザマも同じだった。


 彼は俺へ音声を使わない。


 端末へ一文字だけ送る。


《待》


 待て。


 TIMEOUTではない。


 カードを使うなという意味でもない。


 今仕掛けた局面で、すぐ次の攻めへ踏み込むな。


 何かを見つけた。


 俺は指を止める。


 持ち時間が減る。


 会場のざわめきが増える。


 観測能力が欠け始めた俺にとって、考慮時間は危険だった。


 長く考えれば意味が切れる。


 短く指せば読みが浅くなる。


 それでも待つ。


 ハザマが見ているのは盤面ではない。


 システムだ。


 十秒後。


 SUPPORT HUDの黒い欄が変わった。


《COST CONVERSION AVAILABLE》


《INTERFERENCE EFFICIENCY:143%》


 代償変換可能。


 干渉効率、一四三パーセント。


 システムは誘っている。


 今カードを使えば、既に削られた機能を効率よく干渉効果へ変換できる。


 ハザマの聴覚。


 俺の観測。


 ソウタの短期記憶。


 真壁の言語。


 失われつつあるものを、カードの力へ変えろ。


 どうせ戻らないかもしれない。


 なら使え。


 勝利へ換えろ。


 その提案だった。


 七枚のカードが一斉に点灯する。


《TIMEOUT》


《NOISE》


《MIRROR》


《SPOTLIGHT》


《RESOLVE》


《RANGE LOCK》


《PIECE SHREDDER》


 そして最下段。


 黒いカード。


《代償》


 今まで名称しか表示されていなかったそのカードへ、初めて説明文が出た。


《選択済み機能資源の徴収率を上昇》


《徴収済み資源を即時干渉力へ変換》


《対象はSYSTEM SELECT》


 観客席の空気が変わった。


 文字の意味を理解した者から、歓声が消えていく。


 トウタはもう笑っていなかった。


「……これ、代償を払ってカードを使うんじゃない」


 マイク越しの声が低い。


「もう取られてるものを、燃やして強くするカードだろ」


 その通りだった。


 代償カードは支払いではない。


 換金だ。


 人間の機能を、盤上効果へ変える。


 ハザマは俺を見た。


 音のない世界から。


 問いは端末へ出た。


《使用しますか》


 承認ではない。


 確認。


 最終判断は俺にある。


 使えば、干渉できる。


 ソウタの短期記憶をさらに削り、RANGE LOCKで飛車を封じることもできる。


 真壁の言語を燃やし、NOISEを増幅することもできる。


 ハザマの聴覚を燃やし、TIMEOUTを長くすることもできる。


 俺の観測能力を燃やせば、恐らく最も高い効果が出る。


 システムはそれを知っている。


 俺も分かっている。


 だから選択を迫る。


 勝つために、自分を使うか。


 仲間を使うか。


 相手を使うか。


 あるいは、誰も使わず負けるか。


 俺は黒いカードを見た。


 ソウタも見ている。


 真壁は数式を止めた。


 ハザマは返答を待つ。


 四人の欠損が、まだ緩やかな今なら引き返せるかもしれない。


 カードを使わず、投了する。


 盤上から降りる。


 それが最も合理的な安全策だ。


 だが追加規則には、投了の扱いが書かれていなかった。


 返還保証は競技終了後。


 投了が競技終了として認識される保証はない。


 さらに、ここで俺が降りれば、ソウタとの勝負は終わらない。


 幽霊は祓えない。


 未完のまま残る。


 そして何より決勝ノードは、この選択を待っている。


 人間が自分の機能を何と交換するか。


 勝利か。


 安全か。


 仲間か。


 責任か。


 ここでカードを切れば、俺はシステムの問いへ答える。


 切らなくても答えになる。


 逃げ道はない。


 ならば、回答の形式だけは、こちらで決める。


「ハザマ」


 彼には聞こえない。


 俺は口の形を大きくした。


 使うな。


 ハザマは読み取った。


 黒いカードから指を離す。


 俺は盤面へ向き直った。


「ソウタ」


「はい?」


「カードは使わない」


「あ、そうですかぁ」


「将棋で終わらせる」


 ソウタは数秒、俺を見た。


 短期記憶が削られているなら、この会話もすぐ消える。


 それでも彼は笑った。


「立花はん」


「何だ」


「その台詞、忘れんうちに言うときます」


 指が駒へ伸びる。


「無理やわ」


 △七五歩。


 軽い歩の突き捨て。


 しかし、その一手で盤面が動いた。


 七筋。


 桂の跳躍。


 銀の進出。


 角の打ち込み。


 後手の攻め筋が一斉に接続する。


 俺の観測能力が、再び一瞬切れた。


 盤面の意味が剥がれる。


 戻った時には、ソウタの狙いが一段深い位置まで進んでいた。


 △七五歩は攻めではない。


 俺に取らせる手。


 ▲同歩なら△同銀。


 銀が前へ出る。


 その後の角打ち、桂頭、玉の逃走路。


 複数の筋が重なる。


 俺は取らない変化を読む。


 ▲六六歩。


 ▲八八玉。


 ▲二九飛。


 どれも受けになる。


 だが、観測能力が切れるたび、候補同士の比較が崩れる。


 俺は一手ずつ、別々の未来を見る。


 同時に持てない。


 ソウタは短期記憶を失いながら、現在の盤面だけで最短の手を指す。


 俺は未来を見ながら、未来同士を繋げられない。


 盤面上の優劣が、初めて明確に傾いた。


 ソウタ側へ。


 そしてその傾きを検知した瞬間。


 決勝ノードが牙を剥いた。


《COMPETITIVE IMBALANCE DETECTED》


《AUTOMATIC COST ACCELERATION》


《LOSING SIDE PRIORITY》


 負けている側を優先徴収。


 そう表示された。


 俺は目を見開いた。


 ハザマの端末が一斉に赤く染まる。


 俺の視界から、盤面の意味が二秒間消えた。


 二秒。


 長い。


 戻った時、呼吸が乱れていた。


《COST LOAD:41%》


 負ければ削られる。


 削られるから、さらに負ける。


 負けが負けを呼ぶ。


 盤面の劣勢を、人間機能の劣勢へ変換する。


 これはゲームバランスではない。


 収束装置だ。


 一度傾いた側を、完全に壊れるまで加速させる。


 そして、壊れる前にカードを使わせる。


 俺は▲七五同歩と取った。


 逃げなかった。


 ソウタは△同銀。


 銀が出る。


 その瞬間、後手側の黒いゲージも上がった。


《COST LOAD:39%》


 ソウタが優勢でも、徴収は止まらない。


 勝者も払う。


 ただし敗者の方が速い。


 全員が削られ続ける。


 盤面が崩壊する前に、人間が崩壊する。


 それでもソウタは指した。


 それでも俺も指した。


 ハザマは音を失ったままログを保全し始めた。


 真壁は言葉を失い始めながら数式だけを送り続けた。


 観客の歓声は、ようやく悲鳴へ変わりつつあった。


 そして俺は理解した。


 第一局面は、今終わった。


 ここまではまだ、代償を恐れながら指す将棋だった。


 ここから先は違う。


 欠けた人間が、欠けたまま最善手を選び続ける。


 盤面ではなく。


 身体を削って。


 自分を駒に変えて。


 最後に立っていた者が勝者になるのではない。


 最後まで何かを失い続けられた者が、勝者として表示される。


 俺は七筋へ進出したソウタの銀を見た。


 その輪郭は見えている。


 意味も、まだ辛うじて分かる。


 だが、その銀の後ろにいる男の輪郭だけが、少しずつ薄くなっていた。


 短期記憶を削られ、過去を失いながら、それでも盤上へ残り続ける葉暮ソウタ。


 幽霊は消えない。


 祓おうとするほど、こちらの世界の方が薄くなる。


 俺は初めて思った。


 この対局で消えるのは、ソウタではない。


 俺の方かもしれない。


 そして、その考えを認識した瞬間。


《PRIMARY COST:OBSERVATION》


 俺の生体表示の横に。


 隠されていた文字が、初めて露出した。


 この瞬間を境に、盤上干渉戦という競技は終わった。


 残ったのは将棋の形をした徴収装置だけだった。


 ソウタは短期記憶を失いながら盤を読み続ける。


 ハザマは音のない世界でログだけを追い続ける。


 真壁は言葉を失い、数式だけでソウタと会話を始める。


 そして俺は。


 世界を見るための能力そのものを削られながら、それでも盤面だけは見失うまいと、必死に八十一マスへしがみついていた。


 あとになって知る。


 この時、決勝ノードが最初に奪ったのは、俺たちの身体ではなかった。


 人間が人間であるための「役割」だった。


 だから、この先に待っていた崩壊は、誰にも止められなかった。


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