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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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EP221. 静謐なる終局への収束

 決勝戦は、盤へ座ってから始まるものだと思っていた。


 少なくとも、これまでの俺にとってはそうだった。


 駒を並べ、相手と礼を交わし、時計が動き出した瞬間から、読みと判断と呼吸の奪い合いが始まる。盤の外で何を言われようと、誰に見られようと、最後に残るのは指された手だけだ。


 だから俺は、準決勝を勝ち抜いたあとも、次の棋譜だけを見ていた。


 葉暮ソウタ。


 匿名対局の向こう側から、俺の判断を狂わせた相手。


 決勝で向き合う前に、彼の癖も、間も、誘導も、可能な限り分解しておくつもりだった。


 だが、棋譜を読み返すほど、盤面とは別の場所へ違和感が残った。


 一手だけでは説明できない。


 カードだけでも説明できない。


 対局者の強さだけでは届かないところで、何かが先に動いている。


 そして決勝席へ向かう途中、俺は初めて葉暮ソウタと言葉を交わした。


 これは、決勝前の挨拶を記録したものではない。


 盤しか見てこなかった俺が、盤の外にも勝負が存在することを認めさせられた記録だ。


 勝負には、不思議な静寂がある。


 敗者が去ったあとにだけ生まれる静寂だ。


 舞台の表では、まだ歓声が続いている。


 トウタの実況は興奮を隠し切れず、準決勝第二試合――葉暮ソウタ、真壁組による異様な五分決着を何度も振り返っているらしい。壁越しに届く声はくぐもっていて言葉までは聞き取れないが、観客席がどよめくたび、床を伝う微かな振動だけがここまで届いてくる。


 その熱狂とは対照的に、ステージ裏は異様なほど静かだった。


 決勝進出者控室へ続く通路。


 搬入用の台車が壁際へ整然と寄せられ、照明スタッフが脚立を畳み、運営が決勝用の大型モニターを確認している。それぞれが忙しく動いているのに、不思議なくらい誰も大きな声を出さない。


 ここには敗者がいない。


 準決勝を勝ち抜いた者しか立ち入れない。


 だから空気が違う。


 歓喜も悔しさも既に終わっている。


 残っているのは、次に勝つ者と負ける者が、まだ決まっていないという事実だけだった。


 俺は壁へ背中を預けたまま、端末へ表示した準決勝第二試合の棋譜を見つめていた。


「……やっぱり説明が付かないですね」


 隣からハザマが声を掛けてくる。


 彼も同じ棋譜を開いていた。


 盤面ではない。


 棋譜と同時に、生体ログ、カード発動履歴、視線追跡データ、思考時間の推移まで並べている。


 普通の将棋なら必要ない情報だ。


 盤上干渉戦では違う。


 盤面だけを解析している人間は、一生勝てない。


「何回見返した?」


「十一回です」


「結論は?」


「七十五歩は囮です」


 即答だった。


 俺は頷く。


「……同じ結論だ」


 あの△七五歩。


 誰もが目を奪われる一手。


 実況も。


 観客も。


 SNSも。


 きっと大会終了後の記事も、あの一手を天才の妙手として語るだろう。


 だが違う。


 妙手だから目立つのではない。


 目立つように置かれている。


 ゲーム理論でいうならデコイ。


 相手の注意資源を一点へ集めるためだけに配置された情報だ。


 問題は、その間に何が行われたか。


「真壁の通信ログ」


 俺が言うと、ハザマは画面を切り替えた。


「〇・四秒だけ通信が発生しています」


「送信先は?」


「存在しません」


「通信したのにか?」


「通信先だけ消えている」


 俺は眉を寄せた。


 通信履歴というものは、送受信双方の記録が一致して初めて成立する。


 片方だけ残るなど、通常ならあり得ない。


 消された?


 いや違う。


 それなら痕跡まで消える。


 残っているということは――。


「見せたいんだ」


 俺は呟く。


「……はい?」


「通信したという事実だけを見る側へ」


 ハザマが考え込む。


「……つまり偽装ですか?」


「偽装とも違う」


「これは」


 俺は端末を閉じた。


「観測誘導だ」


「観測誘導……?」


「見る人間へ」


「ここを見ろ、と教えている」


 将棋には視線誘導という考え方がある。


 人間は複雑な盤面ほど、目立つ情報へ飛び付く。


 派手な王手。


 大駒の交換。


 大胆な切り捨て。


 だが本当に重要なのは、その裏側で静かに動いた歩だったりする。


 ソウタは、それを盤外でやっている。


 棋譜そのものを餌にしている。


 盤面を読む人間ほど、盤面しか読めなくなるように。


 その瞬間だった。


「……さすがやなぁ」


 穏やかな声が、通路の奥から聞こえた。


 俺とハザマは同時に顔を上げる。


 照明の境界。


 ステージへ続く黒幕の手前。


 そこに二人の男が立っていた。


 葉暮ソウタ。


 そして、真壁シンジ。


 準決勝を終えたばかりだというのに、制服の乱れ一つない。


 ソウタは両手をポケットへ入れたまま、こちらへ柔らかく笑っている。


 真壁は半歩後ろ。


 いつもの無表情。


 まるで護衛というより、影そのものだった。


 ソウタがゆっくり歩き始める。


「よう聞こえてしもたわ……立花はん、ええ所まで来てはります」


 俺は視線を外さない。


「盗み聞きか……?」


 ソウタは困ったように笑う。


「盗むなんて人聞き悪いやんか……同じ決勝進出者同士、ちょっとご挨拶でも思てなぁ」


 距離は三メートル。


 互いに踏み込めば届く。


 だが誰も近付かない。


 この距離が、互いの警戒心を正確に表していた。


「……立花ミナトだ」


 俺が言う。


「葉暮ソウタと申します」


 軽く頭を下げる。


 礼儀正しい。


 その仕草だけ見れば、好青年そのものだ。


 だから余計に読めない。


「野々村ハザマです」


 ソウタは目を細める。


「野々村はん……十一回も見返したんやったら、目ぇ疲れたでしょう?」


 ハザマの表情が止まる。


「……聞いていたんですか?」


「聞こえとったで」


 ハザマが一歩前へ出る。


「それとも、最初から見ていた?」


 その問いに、ソウタは肩を揺らして笑った。


「面白い聞き方しはるなぁ。その二つ、何が違いまんの?」


 ハザマは答えない。


 数秒、誰も口を開かなかった。


 だが沈黙そのものが会話になっていた。


 相手がどこまで理解しているか。


 今の一往復だけで互いに測っている。


 俺はソウタを見る。


 ソウタも俺を見る。


 いや、違う。


 見られている感覚がない。


 もっと細かい。


 視線は俺の顔を向いている。


 だが解析されているのは瞳孔の開き方、呼吸間隔、返答までの時間、重心移動、首筋の筋肉。


 人間を見ているんじゃない。


 人間を構成する変数を見ている。


 その瞬間、理解した。


 俺も同じことをしていた。


 だから初対面なのに、初対面という感覚がない。


 互いに自己紹介をしている。


 それなのに、名前ではなく演算結果を見ている。


 ソウタが先に口を開いた。


「立花はん、ちょっと、お聞きしてもええですか?」


「何だ」


「この大会の規約、何回読み返しはったんです?」


 俺は答えない。


 代わりにハザマが言う。


「七回です」


「七回」


 ソウタは満足そうに頷いた。


「ほな安心や」


「安心?……だと?」


 俺が聞き返す。


 ソウタは笑みを崩さない。


「七回読んでも、気づけへんように書いてありますねん」


 その一言で、空気が静かに張り詰めた。


 ハザマの表情が、ほんの僅かだけ硬くなった。


 彼は無言のまま端末を起動し、画面を滑らせる。大会規約のデータは既にローカルへ保存してある。検索窓へ「附則」と入力し、最終ページまで一気に飛ぶ。その指の動きに迷いはない。準決勝を終えてから、この規約は何度も読み返している。


 沈黙の中で、スクロールする電子音だけが短く響いた。


「……ありません」


 ハザマが呟く。


「附則はここで終わっています」


 ソウタは小さく笑った。


「そらそうです。今はそうなってますねん」


 俺は初めて言葉を返した。


「“今は”ということは、以前は違った?」


 ソウタは首を傾げる。


「そう思いはります?」


「思うんじゃない」


 俺は一歩だけ前へ出る。


「そう言わせたいんだろ?」


 互いの距離は二メートル半。


 その距離を縮めたのは俺だけだ。


 ソウタは動かない。


 だが、その目だけが少し細くなった。


「立花はん……それ、八十点ですわ」


「二十点足りない」


「ええ……」


「何だというんだ?」


「“以前は違った”じゃないんです」


 ソウタは右手をポケットから抜き、人差し指を一本だけ立てた。


「規約いうもんは、書かれて初めて規約になりますねん。書かれてへんもんは、存在しません……せやけど――」


 そこで言葉を切る。


 俺は続きを待たない。


「書けない」


 ソウタの笑みが、ほんの僅かだけ深くなった。


「……ほぉ」


「書けば大会そのものが成立しなくなる」


 俺は続ける。


「だから規約には最初から書けない。だが運営は実行できる。実行できる以上、どこかに承認権限を持つ人間がいる。つまり、この大会には規約より上位の意思決定層が存在する」


 静かだった。


 スタッフが横を通り過ぎる。


 決勝用の大型盤を運ぶ台車が軋む。


 だが、その音さえ遠く感じるほど、この数メートル四方だけ空気が止まっていた。


 ソウタはゆっくりと息を吐いた。


「九十五点」


「あと五点は?」


「誰がその権限を持っとるか、そこまではまだ届いてへんのです」


 俺は答えなかった。


 答える必要がない。


 その問いは既に俺の中で別の形になっていた。


「御影シオンか……?」


 今度はソウタが黙る番だった。


 沈黙は二秒ほど。


 その二秒で十分だった。


 肯定もしない。


 否定もしない。


 その反応自体が答えになっている。


「なるほど」


 俺は小さく頷いた。


「さっきから違和感があった」


「準決勝だ……お前たちの将棋は強かった。だが、異常ではない」


 ソウタは興味深そうに俺を見る。


「異常やあらへんでした?」


「ああ、異常だったのは盤じゃない。周囲だ……実況も観客も運営もカード演出も通信さえも、全部が、お前たちを中心に動いていた。将棋を見せていたようで、人間を見せていた」


 ソウタが肩を震わせる。


 笑っている。


 声を殺しながら。


「……立花はん、ほんまに面白い人や。みんな将棋見てはる。立花さんだけ、劇場を見てはる」


「違う」


 俺は即座に返した。


「劇場じゃない……実験場だ」


 その瞬間だった。


 初めてソウタの笑みが消えた。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 だが確かに消えた。


 その変化を見逃したのは、この場では誰もいない。


 ハザマも。


 真壁も。


 そして俺も。


 真壁が静かに口を開く。


「ソウタ殿……時間です」


 低い声だった。感情がない。


 まるで、時計を読み上げるような声。


 ソウタは視線を俺から外さないまま、小さく返事をする。


「分かってます。真壁はんは、ほんま律儀な方やなぁ。まだ始まってへんのに」


 真壁は首を横へ振った。


「すでに始まっています」


 その一言で、俺は理解した。


 この二人は、決勝戦を盤上の勝負だと思っていない。


 だから「開始」の認識が違う。


 盤へ座った瞬間ではない。


 準決勝が終わった瞬間でもない。


 もっと前から。


 いや、今日ですらない。


 この大会が企画された時点から、彼らにとって勝負は始まっていたのだ。


 ソウタは困ったように笑い、両手を軽く広げる。


「せやから言うたでしょう? 立花さんは、ようやく盤から降りてきはった。ここから先は将棋の話やあらへんのや」


 彼はゆっくりと俺へ歩み寄る。


 あと一歩で肩が触れる距離。


 そこで止まり、誰にも聞こえないくらい静かな声で囁いた。


「決勝にのみ配られるカード、まだ見てへんのでしょう?」


「……見ていない」


「そら良かった。見てたら、多分」


 ソウタは穏やかに微笑む。


「立花さん、棄権してはったなと思ってます」


「……棄権?……棄権だと……?」


 その二文字は、挑発としてはあまりにも安易だった。


 少なくとも、普通の高校生同士の会話なら。


 だから俺は反応しなかった。


 ソウタも、それを期待していない。


 彼は今、俺を試しているわけではない。


 確認している。


 自分と同じ景色が見えている人間かどうかを。


 それなら答えは一つしかない。


「それは脅しか……?」


 俺が静かに問うと、ソウタは小さく首を振った。


「ちゃいます」


「なら忠告か……?」


「それも半分だけ」


「残り半分は……?」


「お願いですわ」


 俺は眉をわずかに動かした。


「お願い……だと?」


「ええ」


 ソウタは初めて真剣な眼差しになった。


「決勝が始まっても、最後まで盤だけを見るようなアホな真似はしはらんといて下さい」


 その一言は、これまでの会話のどれよりも重かった。


 盤だけ見るな。


 将棋大会で。


 決勝戦で。


 決勝進出者が対戦相手へ告げる言葉としては、あまりにも異質だった。


 ハザマが静かに口を開く。


「あなたは、何を見ているんですか……?」


 ソウタは即答しない。


 少しだけ視線を上げ、舞台袖の黒幕を見つめた。


 その向こうでは、決勝用の盤が設置されている。


 スタッフの足音。


 照明の切り替わる音。


 トウタの実況。


 すべてが幕一枚隔てた向こう側で動いている。


「……野々村はん」


 ソウタは穏やかに笑う。


「人間いうもんは不思議なもんで、勝負が始まると、相手だけを見るようになるんです。将棋やったら盤。サッカーやったらボール。ボクシングやったら相手の肩。見る対象が一つになる。せやけど――」


 そこで言葉を切り、ゆっくりと俺たちへ視線を戻した。


「設計する人間は違います」


 その一言で、空気が変わった。


 “指す人間”ではない。


 “設計する人間”。


 ソウタは最初から、競技者ではなく設計者の視点で話している。


「設計する人間は、誰を見る……?」


 俺が尋ねる。


 ソウタは笑った。


「全員です。選手も、実況も、観客も、スポンサーも、SNSも、照明も、ルールも、拍手のタイミングまで含めて、一つのゲームになりますのや」


 ハザマが静かに息を呑んだ。


 俺の頭の中で、準決勝の映像がもう一度再生される。


 ソウタが七五歩を打った瞬間。


 トウタは叫んだ。


 カメラが盤面へ寄った。


 大型モニターが棋譜を拡大した。


 観客席が前のめりになった。


 その間、真壁は一度だけ視線を横へ流した。


 誰も見ていない。


 いや、見えなくされていた。


「……なるほど」


 思わず声が漏れた。


 ソウタは何も言わない。


 俺は続ける。


「七五歩は囮じゃない、もっと規模が大きい観客を盤へ固定するためのアンカーだ。全員の視線を一点へ集める。その間だけ、盤外から情報が消える。違うか……?」


 ソウタは肩を震わせ、小さく笑った。


「……立花はん、やっぱり面白いわ。そこまで来たら、あと一歩ですわ。まだ”誰が”観客を誘導したかしか見えてへん。ほんまに見るべきなんは――」


 そこでソウタは俺の胸元を、人差し指で軽く指した。


「“誰が”やない。“何が”や」


 その瞬間だった。


 俺の思考が一気に反転する。


 誰が。


 御影シオンか? 運営か? スポンサーか?


 違う……そう考えさせられている。


 設計者は個人じゃない。


 もっと上位。


 構造、システム、あるいはゲームそのもの。


 だからソウタは「誰」ではなく「何」と言った。


「……ゲームデザイン」


 俺が呟く。


 ソウタは満足そうに目を細めた。


「ようやく同じ盤に座れはったな」


 その瞬間、舞台側からブザーが鳴り響いた。


 甲高く、一度だけ。


 決勝進出者の集合を告げる合図。


 それまで無言だった真壁が一歩前へ出る。


「ソウタ殿、入場時刻です」


「はいはい、わかってますがな」


 ソウタは苦笑しながら返事をし、それでも最後まで俺から目を逸らさなかった。


「立花はん、最後に一つだけ。これから配られるカードの効果だけは、読まんといてくださいね」


「……意味があるのか?」


「あります。効果読む人間は負けはります。勝つ人間いうんは、カードを配られた理由から考えますのや」


 ソウタは柔らかく笑いそう言い残すと、彼は踵を返した。


 真壁が半歩後ろへ続く。


 二人は並ばない。


 主従でもない。


 対等でもない。


 言葉では説明できない距離を保ったまま、舞台袖の光の中へ消えていく。


 俺はその背中を見送りながら、一つだけ確信していた。


 この決勝戦は、盤上干渉戦の決勝ではない。


 御影シオンが、俺たち全員へ向けて仕掛けた”問い”そのものだ。


 そして、その答えは盤の上には存在しない。


 決勝前に交わした言葉は、対戦相手同士の会話としては不自然だった。


 互いの棋風を探るわけでもない。


 勝敗を予告するわけでもない。


 挑発と呼ぶには静かすぎて、忠告と呼ぶには意味が足りなかった。


 それでも、あの時間が無駄ではなかったことだけは分かっている。


 葉暮ソウタは、俺がどこまで見えているのかを確かめていた。


 俺もまた、彼が何を見ているのかを測ろうとしていた。


 その結果、理解できたことより、理解できないことの方が増えた。


 だが、それでいい。


 将棋も同じだ。


 局面が複雑になった時、分からないものを消してはいけない。分からないまま盤上へ残し、相手がそこへ触れた瞬間まで観測し続ける。


 決勝で何が配られるのか。


 どのルールが働き、誰が何を見ているのか。


 この時点では、まだ何も確定していなかった。


 ただ一つ、俺の中で変わったことがある。


 決勝で見るべきものは、盤と葉暮ソウタだけではない。


 そう認識した瞬間から、俺にとっての決勝は既に始まっていた。


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