EP220. DAY2:棋は幽かに、盲いて黙す
強い相手を見る時、普通なら先に考えるのは、自分ならどう指すかということだ。
どこで攻め、どこで受け、どの手を疑い、どの局面から勝負へ入るか。盤上に現れた手を自分の読みへ置き換えれば、相手の強さはある程度まで理解できる。
葉暮ソウタについても、そうするつもりだった。
あの夜に奪われた呼吸を、今度は盤の外から観測し、その癖も、間も、誘導の仕方も、決勝までに一つずつ分解する。そのために準決勝を早く終わらせ、最初の一手から見る時間を作った。
だが、影村代表として現れたのはソウタ一人ではなかった。
彼の隣には、真壁という所属不明の男が座っていた。
影村の生徒ではない。
教師にも見えない。
それでも御影シオンの承認によって、当然のように選手席へ入ってくる。
この時点で、俺が見るべき盤は一つではなくなっていた。
これは、葉暮ソウタの強さを測るために見始めた準決勝で、俺の方が、自分の理解の限界を測られることになった記録だ。
盤上干渉戦 DAY2
記録者 立花ミナト
⸻
影村代表の入場が始まると同時に、講堂の空気は、誰かが音量だけを一段下げたように変わった。
歓声が消えたわけではない。トウタの実況も続いているし、観客席の後方では、配信画面を見ながら小声で予想を交わす生徒たちの声も残っている。
それでも、葉暮ソウタが入場口から姿を現し、濃い色の陣羽織の裾をほとんど揺らさずに舞台へ向かって歩き始めた瞬間、その場にいた全員の意識が、何かを見逃すことを恐れるように同じ方向へ吸い寄せられた。
本人は何もしていない。
観客へ視線を向けることもなければ、手を上げることもない。配信カメラに映ることを意識した歩き方でもなければ、対戦相手へ圧力をかけるような大袈裟な姿勢でもない。ただ、舞台の中央に置かれた盤へ向かって、必要なだけ歩いている。
それだけなのに、彼の周囲では、ほかの人間が背景へ押しやられていく。
そして、ソウタの隣には、黒いスーツ姿の男がいた。
その男を初めて見た瞬間、俺は選手名表示より先に額へ目を向けた。
金属製の細長いプレートが額に埋め込まれている男。
装飾には見えない。医療器具のようにも見えるし、古い記憶媒体の接続部のようにも見える。両端を皮膚へ固定する構造になっていて、舞台照明を反射するたび、銀色の表面へ鈍い光が走っていた。
年齢は、少なくとも高校生ではない。
三十代後半から四十代前半。背が高く、肩幅も広い。髪は後ろへ撫でつけられ、黒いシャツに黒いネクタイ、その上から黒いスーツを着ている。色彩がほとんどないせいで、顔の輪郭と、わずかに黄味を帯びた瞳だけが不自然に目立っていた。
護衛には見えない。
教員にも見えない。
将棋の指導者や、外部コーチと呼ぶには、競技者を見る目が冷たすぎる。
人を見るというより、正常に作動しているかを確認する装置のような視線だった。
「真壁……?」
俺が大型スクリーンに表示された名前を読むと、隣のハザマが端末へ指を滑らせた。
「登録名は真壁シンジ。所属欄は空白です」
「空白?」
「正確には、運営側の表示上では《特別協力者》となっています。ただし、所属学校、競技団体、年齢、棋力認定、いずれも非公開です」
「影村の生徒どころか、明らかに学生じゃないぞ?」
「ええ、学生証認証の記録がありません」
「それで影村代表として出られるのか?」
「通常の参加規約では認められません」
ハザマは画面を切り替え、選手登録の更新履歴を表示した。
「影村代表のサポート担当は、昨日の時点では《情報処理研究会エース》とだけ記載されていました。真壁という氏名に差し替えられたのは、本日午前七時十二分です」
「当日の朝に?」
「はい。申請承認者は御影シオン」
その名前が出た瞬間、別の線が盤の外側で繋がった。
御影シオン。
影村学園生徒会長。
Chrono-Lab主任。
EXIT:CODEの観測責任者。
十五時のCore Phaseにおいて、最も深い位置へ手を置いている人間。
そのシオンが、盤上干渉戦の決勝候補へ、所属不明の男を当日の朝に差し込んだ。
単なる選手交代と考えるには、不自然すぎる。
「異議申し立ては?」
「天城運営へ送信されています。ただし、影村側から《昨日の登録名は役職表記であり、個人名の公開が遅れただけ》という回答が返っています」
「そんな説明で通ったのか?」
「ええ、御影会長の承認付きですからね」
「便利だな、その権限は」
「便利なものほど、使用履歴を見る必要があります」
ハザマの声には苛立ちがない。
だからこそ、警戒しているのが分かる。
舞台上では、ソウタと真壁が選手席へ着いていた。
対戦相手は一般公募チーム《白鷺》。
DAY1のCブロックを勝ち上がった、近隣校の将棋部員と大学生サポートの混成タッグ。盤上担当の男子生徒は高校将棋の県大会で優勝経験があり、サポート担当はデジタルTCGの大会で上位入賞した経歴を持つ。
弱くはない。
少なくとも、俺たちが準決勝で倒した高瀬と永瀬に比べて、明確に下ということはない。
むしろ、昨日の対局を見る限りでは、盤上と盤外の接続は白鷺の方が滑らかだった。相談の回数を意図的に減らし、サポートがカードを切る前に、盤上担当が駒を置く位置で意図を伝える。視線や指先だけに頼らず、棋譜そのものを会話として使っていた。
ソウタの相手として不足はない。
普通なら、そう判断する。
『さあ、第二準決勝の選手が揃いました! 影村代表、葉暮ソウタ! そして本日、正式に名前が公開されたサポート担当、真壁シンジ! 対するは一般公募枠《白鷺》! 盤上担当は県高校王者、篠崎レン! サポートはTCG競技経験者、葛城ヨウ!』
トウタの実況が響く。
『しかし真壁選手、どう見ても高校生ではありません! この人、本当に学園祭の選手枠でいいんでしょうか! 運営説明では《影村側特別協力者》! 説明してるようで何も説明してない! 黒い! 服も登録も黒い!』
観客席から笑いが起きる。
真壁は反応しない。
トウタの声が聞こえていないのではない。聞こえた上で、応答する価値がないと判断している。
ソウタは盤の前へ座り、駒箱へ手を伸ばした。
指が白い。
細く、長く、無駄な力が入っていない。
一枚ずつ駒を並べる動作に、儀式めいた慎重さはなかった。駒を大切に扱っているわけでも、急いでいるわけでもない。ただ、置かれるべき場所を最初から知っている手だった。
俺はその指を見ながら、あの夜の対局を思い出していた。
画面越し。
匿名アカウント。
評価値のほぼ動かない中盤。
読み筋の外側へ置かれ続ける軽い手。
自分の呼吸が、相手の間へ引きずられていく感覚。
あの時、俺はソウタの顔を知らなかった。
今は分かる。
あの手を指していたのは、この男だ。
だから、盤へ触れる前から警戒する。
指先の速度。
視線の置き方。
初手を考えるために使う時間。
呼吸の深さ。
その全てを見落とさないよう、意識を細く絞る。
『生体センサー、接続』
ソウタの手首に装着されたバンドが、青白く点灯する。
《SOUTA HAGURE HR 61》
六十一。
俺の準決勝開始時よりさらに低い。
続いて真壁。
《SHINJI MAKABE HR 58》
観客席がざわついた。
舞台へ上がり、数百人に見られ、試合開始を待っている二人の心拍数としては、低すぎる。
緊張していないだけではない。
身体が競技開始を認識していないように見える。
《REN SHINOZAKI HR 96》
《YO KATSURAGI HR 102》
白鷺側の数値は正常だった。
むしろ、それが正常だ。
「ソウタは分かる」
俺は言った。
「真壁も低すぎる」
「自律神経制御の可能性があります」
「額のプレートか?」
「関連は不明です。ただし、微弱な通信波が出ています」
「競技端末と繋がってる?」
「いいえ」
ハザマの指が止まった。
「競技端末ではなく、運営側の生体監視ネットワークへ直接接続されています」
「参加者側から?」
「通常は、センサーから運営へ一方向です。真壁さんの装置は双方向通信になっている」
「運営があの男へ何か返してる」
「あるいは、向こうから運営へ命令を送っている」
盤上干渉戦の選手席に座る人間が、競技システムと双方向で接続されている。
それがルール上、認められているはずはない。
だが、試合は始まろうとしている。
審判は止めない。
システムも異常を出さない。
つまり、最初から許可されている。
『サポート接続』
《SHINJI MAKABE LINKED》
《YO KATSURAGI LINKED》
真壁の表示だけが、一瞬遅れて点灯した。
その直前、額のプレート中央に細い光が走る。
ハザマも見た。
「今のは……?」
「認証だな」
「学園側IDではありませんね……」
「何のIDだ?」
「……分かりません」
分からないことばかりが増えていく。
だが、盤上では、間もなく全てが単純になる。
勝つか。
負けるか。
少なくとも、将棋だけはそうであるはずだった。
『盤上干渉戦、本戦第二準決勝』
『先手、一般公募チーム《白鷺》』
『後手、影村代表』
『対局開始』
開始時刻、午前十時二十六分。
篠崎の初手は▲7六歩。
角道を開ける、ごく普通の一手。
ソウタはすぐに指さない。
一秒。
二秒。
三秒。
俺はその間を数える。
あの夜と同じではない。
匿名対局の時、ソウタは初手から相手の呼吸へ合わせていた。こちらが早く指せば少し遅く、こちらが考えれば、その考慮時間が不自然に長く感じられる位置で返してきた。
今日は違う。
対戦相手を見ていない。
盤面だけを見ているようにも見えない。
むしろ、試合がどこまで進むかを先に確認しているような沈黙だった。
ソウタは△3四歩と指した。
篠崎が▲2六歩。
ソウタは△8四歩。
▲2五歩。
△8五歩。
角換わり。
俺があの夜、ソウタに敗れた形へ近づいていく。
意図的か。
俺が見ていることを知っているからか。
そう考えた瞬間、自分の思考が既に盤外へ誘導されていることに気づく。
ソウタは、こちらを見ない。
それでも、俺は意味を探してしまう。
視線を向けられるより、見られていない方が意識させられる。
「ミナトさん」
ハザマが小さく呼ぶ。
「盤を」
「見てる」
「いいえ。あなたは自分が見られているかを見ていました」
「分かってる」
分かっていても、完全には切れない。
篠崎は角を交換し、銀を進める。
ソウタも応じる。
序盤の速度は速い。
両者とも定跡の範囲。
駒音が一定の間隔で続く。
白鷺側は、サポートとの相談をしない。
葛城はカード欄ではなく、ソウタの手元を見ている。
正しい。
序盤で干渉カードを意識しすぎると、定跡処理が遅れる。
相手の癖を読むことへ集中している。
だが、真壁は盤を見ていなかった。
正確には、盤そのものではなく、盤面とHUDの間に視線を置いている。
将棋の手を追っているように見えない。
ソウタの呼吸も見ない。
相手サポートの手元も見ない。
大型スクリーンへ表示された生体数値の変化だけを、処理している。
《SHINOZAKI HR 96 → 99》
《DECISION LATENCY +0.6》
《KATSURAGI GAZE SHIFT 18%》
真壁の目は、数値の変化へ僅かに反応する。
そのたび、右手の指が膝の上で一度だけ動く。
合図には見えない。
ソウタは真壁を見ていない。
それでも、次の手が変わる。
▲4六歩に対して、ソウタは△6四歩。
あの夜と同じ。
俺の背中に、冷たい記憶が走った。
相腰掛け銀。
対称形。
互いに攻めの準備を整える。
評価値はほぼ互角。
だが、あの△6四歩は、数字以上に相手の選択肢を狭める。
攻め合いへ誘う。
形が整っているからこそ、自分も戦えると思わせる。
篠崎は▲4七銀。
ソウタは△6三銀。
▲6八玉。
△7四歩。
▲7九玉。
△8四飛。
ほぼ、幽霊戦の再現。
違うのは、ソウタの間だった。
あの夜は、俺の呼吸へ合わせていた。
今日は、篠崎の呼吸より僅かに速い。
相手を引き込むのではない。
追いつかせようとしている。
篠崎は遅れたくないと思う。
定跡の範囲だから、すぐに指せる。
すぐに指せるから、ソウタの速度へ合わせる。
合わせた瞬間、自分の考慮時間を自分で捨てる。
「速くない」
俺が呟くと、ハザマが横目で見る。
「指し手は速いです」
「手の速度じゃない。相手が速く指したくなる形を作ってる」
「急かしている?」
「違う。待たせてないだけだ」
将棋では、相手が考えている時間も自分の読みへ使える。
相手が長考すれば、その分こちらも深く読める。
ソウタは篠崎へ長考する理由を与えない。
どの手も自然。
どの手も定跡。
どの手もすぐに返せる。
だから篠崎は指す。
考えていないのではない。
考える必要がないと思わされている。
試合開始から一分二十秒。
既に中盤の入口。
トウタの実況が少し早口になる。
『両者、速い! おいおい!! これは持ち時間短縮戦じゃないぞ! でも止まらない! 篠崎選手も影村の速度に完全追従! 角換わり相腰掛け銀、定跡の高速道路へ入った! ただし出口がどこかは誰も知らない!』
コメント欄が流れる。
《速すぎ》
《暗記勝負?》
《ソウタまだ考えてなくない?》
《真壁が盤見てない》
《サポート何してる?》
観客も気づき始める。
真壁は盤を見ていない。
カードにも触れていない。
それどころか、試合開始から一度もソウタへ声をかけていない。
アイコンタクトもない。
タッグ戦である意味が見えない。
篠崎が▲4五歩。
ソウタは△同歩。
▲同銀。
ここで普通なら考える。
△4四銀。
△5四銀。
△6五歩。
選択肢が分かれる。
ソウタは△4四銀を選んだ。
指した直後、真壁が初めて口を開いた。
「偏差、許容範囲」
低い声だった。
実況マイクに拾われるほど大きくはない。
それでも、舞台袖にいる俺には聞こえた。
ソウタは返事をしない。
篠崎が▲2四歩。
△同歩。
▲同飛。
ソウタは△2三歩。
▲2八飛。
その瞬間、真壁の指が膝の上で一度動いた。
「収束開始」
ソウタが△7五歩と突く。
俺の肺から、空気が抜けた。
あの手。
評価値を跳ねさせず、相手の二手先へ置かれる軽い歩。
幽霊戦では、この一手から俺の呼吸が崩れた。
篠崎は▲同歩と取った。
俺は、取る前から分かっていた。
あの夜の俺と同じ。
盤面上は自然。
取らない理由が見つけにくい。
取ったあとに来る手順も、読めないわけではない。
それでも、その先にある局面を自分が扱えると思ってしまう。
ソウタは△同銀。
篠崎が▲2四歩。
ソウタは△同歩。
白鷺側の葛城が、初めてカード欄へ触れた。
NOISEではない。
SPOTLIGHT。
ソウタへ観客の視線を集中させ、考慮速度を落とすつもりだ。
妥当な判断。
相手が異常に速いなら、外部刺激でリズムを崩す。
葛城が発動を宣言する。
「SPOTLIGHTを使用します!!対象、葉暮ソウタ!!」
天井から白い光が落ちる。
カメラがソウタの顔を拡大する。
大型スクリーンいっぱいに、黒い髪と、影の下で光る青い瞳が映った。
《AUDIENCE FOCUS 47% → 96%》
《SOUTA HR 61 → 61》
変わらない。
眩しさも。
観客の視線も。
コメント欄も。
何一つ、ソウタの身体へ届いていないように見える。
いや、違う。
届いている。
届いた上で、反応へ変換されていない。
人間は刺激を無視できない。
無視するという判断にも、僅かな処理が必要になる。
ソウタには、その処理の痕跡がない。
視線を受けることが、既に通常状態へ組み込まれている。
「真壁という男……」
俺は言った。
「明らかに何かしているな」
「まさか、生体同期ですか……?」
「分からない。ただ、ソウタの負荷がまったく上がってない」
ハザマが端末を操作する。
「SPOTLIGHT発動前後で、ソウタさんの瞳孔径、呼吸、皮膚電位に有意差なし」
「異常だろ……」
「はい」
「真壁は」
「心拍五十八のまま。額の装置から、発動と同時に微弱信号が出ています」
「ソウタへ送っているというのか?」
「直接接続は確認できません」
「なら、何処へ……?」
「HUD側です」
ハザマの声が低くなる。
「SPOTLIGHTの負荷判定そのものへ干渉している可能性があります」
相手の精神を強くしているのではない。
システム側が負荷として認識する値を調整している。
もしそうなら、競技違反どころではない。
だが、ソウタの盤上の強さまで偽物になるわけではない。
むしろ、余計な負荷が除去されたことで、本来の速度がそのまま表へ出ている。
篠崎が考え始めた。
初めて、十秒以上手が止まる。
ソウタは待つ。
その待ち方が、あの夜と同じだった。
急かさない。
視線を向けない。
盤へ顔を近づけない。
ただ、相手が自分で結論へ進むのを待っている。
篠崎は▲6八金寄。
受ける。
ソウタは△8六歩。
▲同歩。
△8五歩。
篠崎が▲8六歩。
△同飛。
▲8七歩。
△8四飛。
手順が進む。
あの夜と似ている。
しかし、完全な再現ではない。
ソウタは篠崎の形に合わせ、最も気持ちよく受けられる順番へ微調整している。
白鷺側の評価値は、まだ僅かに先手有利。
《EVAL +0.4》
観客席から安堵の声が出る。
篠崎本人も見た。
大型HUDの端に表示された数字へ、視線が一瞬だけ流れた。
その瞬間、ソウタが初めて笑った。
小さく口元だけ。
俺には分かった。
終わった。
「えっ? 何故ですか……?」
ハザマが聞く。
「評価値を見た」
「それだけで?」
「自分がまだ有利だと確認した。次は勝ちに行く」
そう、勝ちに行く。
ソウタは、それを待っていた。
篠崎は▲4六銀。
中央へ銀を立て直す。
ソウタは△2二玉。
玉を入れる。
安全を整える手。
篠崎は、攻める理由を与えられた。
▲3五歩。
△同歩。
▲同角。
ソウタは△3四歩。
篠崎が▲2四歩。
△同歩。
▲同飛。
攻めが繋がっているように見える。
会場の熱が上がる。
白鷺側のサポート、葛城がカードを選ぶ。
次はRANGE LOCK。
ソウタの飛車か角を封じ、攻め合いの速度を落とす。
だが、真壁はカード欄を見ない。
視線を相手の心拍へ向けたまま、短く言った。
「百二十八」
篠崎の心拍数。
《HR 128》
次に、真壁は葛城の表示を見る。
「相談衝動、上昇」
何を基準に言っている。
HUDには相談衝動など表示されていない。
真壁だけが見ている別の指標がある。
葛城が篠崎へ声をかけようとした瞬間、真壁がカードへ触れた。
「NOISE」
抑揚のない声。
赤黒いノイズが白鷺側を包む。
《OPPONENT COMMUNICATION LOCKED:30 SEC》
タイミングが完璧だった。
相談が始まる前ではない。
相談したいという衝動が最大へ達した瞬間。
篠崎は、盤面上では攻めが続いていると考えている。
葛城は、RANGE LOCKを使う前に手順を確認したい。
二人の意図が分かれた瞬間に、言葉が奪われる。
篠崎は一人で指すしかない。
▲4五歩。
ソウタは△同歩。
▲同桂。
攻める。
当然だ。
評価値がまだ自分を支持している。
ソウタは△5四銀。
篠崎が▲3五歩。
△同歩。
▲同角。
そして、ソウタは△7六歩成と指した。
駒音が、講堂の奥まで通った。
大きな音ではない。
強く叩きつけたわけでもない。
それでも、その一音だけが、ほかの全ての音から切り離されたように響いた。
俺の指先が冷える。
あの夜と同じ。
理解している。
手順も知っている。
何故効くのかも知っている。
それでも身体が先に反応する。
篠崎は▲同金。
ソウタは△5六歩。
▲同金。
△4七角成。
評価値が反転した。
《EVAL +0.7》
《EVAL -1.3》
《EVAL -4.8》
一手ごとではない。
画面が追いつかず、まとめて落ちた。
観客席から声が消える。
トウタの実況も、一瞬だけ途切れた。
『……え』
それだけがマイクに乗った。
篠崎は盤を見ている。
まだ投了しない。
当然だ。
評価値が急落しても、盤面を理解しなければ負けたとは思えない。
ソウタは急がない。
最短の詰みへ向かわない。
相手が何を間違えたのか、自分の指で理解できる手順を選ぶ。
それが一番残酷だった。
篠崎は▲7八玉。
ソウタは△6七馬。
▲同玉。
△5七金。
逃げる。
△7七金。
さらに逃げ道が消える。
白鷺の葛城はカード欄へ何度も触れている。
NOISEの効果が切れるまで、まだ数秒。
PIECE SHREDDER。
MIRROR。
RESOLVE。
どれを使っても、盤面を戻せない。
カードがある。
選択肢はある。
だが、意味のある選択が一つもない。
盤上干渉戦が人間へ与える最悪の状態。
選べるのに、何を選んでも救われない。
真壁は葛城の迷いを見ながら、二度目の発言をした。
「終了予定、九十秒」
ソウタが初めて真壁へ返す。
「真壁はん、それはえらい長いなぁ……」
「安全域を含む」
「もういらんわ」
「……了解」
二人の会話は、それだけだった。
相談ではない。
戦術確認でもない。
真壁が所要時間を算出し、ソウタが短縮を指示した。
まるで、試合の結果は既に確定していて、残るのは処理速度だけだと言っているようだった。
俺は時計を見る。
試合開始から三分三十八秒。
篠崎の持ち時間は残っている。
カードも残っている。
それでも、盤面は終わっている。
ソウタは△6八金。
篠崎が▲同玉。
△5七銀。
王手。
▲7八玉。
△6八金。
逃げ道を塞ぐ。
葛城のNOISEが解除される。
「RANGE LOCKを……!!」
葛城が叫ぶ。
「対象、後手の馬……!!」
遅い。
馬は既に役目を終えている。
青黒い鎖が盤上の馬へ絡む。
最大移動距離が二マスへ制限される。
観客席から、誰も歓声を上げない。
カードは正しく発動した。
演出も派手だ。
だが、全員が分かっている。
意味がない。
ソウタは馬を使わない。
△7七銀。
篠崎は▲同玉。
△6八金。
王手。
▲8八玉。
△7八金。
逃げ道が閉じる。
真壁が時計を見る。
「四分四十二秒」
ソウタは何も答えない。
指先で銀を持つ。
盤上へ置く。
△7九銀。
篠崎の手が止まった。
玉の逃げ道。
合駒。
取り返し。
全てを見る。
見た上で、何もないことを理解する。
「……負けました」
午前十時三十一分。
試合時間、四分五十七秒。
五分に届かなかった。
礼が終わっても、講堂には拍手が起きなかった。
誰も、拍手するタイミングを見つけられなかったのだと思う。
圧倒的な勝利は、普通なら興奮を生む。
鮮やかな攻め。
華麗な詰み。
大逆転。
観客は、理解できる強さへ拍手する。
今、目の前で起きたことは違う。
白鷺が弱かったようには見えない。
大きな悪手を指したようにも見えない。
篠崎は自然な手を選び、葛城も必要なカードを使った。
それなのに、対局開始から五分も経たないうちに、全ての判断がソウタの予定へ収まっていた。
負けた理由は存在する。
棋譜を解析すれば、問題となった手も見つかる。
しかし、それを敗因として挙げることに意味がない。
何故なら、その手を指す前から、ソウタは相手がそこへ来ることを知っていた。
相手が間違えたのではない。
間違いを自分で選びたくなる場所へ運ばれた。
それは、あの夜の俺と同じだった。
『しゅ、終局……です』
トウタの声が遅れて戻る。
『第二準決勝、勝者、影村代表……葉暮ソウタ、真壁シンジ。対局時間、四分五十七秒。使用カード、NOISE一枚。白鷺側はSPOTLIGHT、RANGE LOCKを使用……』
いつもの勢いがない。
数字を読むだけで精一杯になっている。
配信コメントも、しばらく止まっていた。
数秒遅れて、少しずつ流れ始める。
《何が起きた》
《五分?》
《相手県王者だよな》
《真壁ほぼ何もしてない》
《NOISE一枚だけ?》
《ソウタ怖い》
《評価値が一気に死んだ》
《これ決勝どうなるんだ》
ハザマは無言で端末を操作している。
俺は盤上から目を離せなかった。
ソウタは既に駒を片づけている。
勝利を喜ぶ様子はない。
圧勝したという自覚すら見せない。
ただ、決められた処理を終え、次の工程へ進む人間の手つきだった。
真壁は席を立ち、額のプレートへ一度触れた。
HUDの表示が一瞬だけ乱れる。
《ADAPTIVE RESPONSE DATA:TRANSFER COMPLETE》
表示はすぐに消えた。
「見たか」
「……はい」
ハザマの声が硬い。
「勝敗ログより先に、適応反応データの転送が完了しています……」
「宛先は……?」
「先ほどと同じです。十五時のDual Lumen系統」
やはり、盤上干渉戦は独立した競技ではない。
参加者の判断を揺らし、反応を測り、どの人間がどの負荷に適応するかを記録している。
そしてソウタと真壁は、その構造を知っている。
知らなければ、真壁が生体反応を読み上げることも、システムと双方向通信することもできない。
「真壁は、サポートじゃない」
俺は言った。
「では、何だと思いますか?」
「強いていうなら監督者」
「誰を監督しているんでしょうか……?」
「相手じゃない」
ソウタでもない。
競技そのもの。
システムが正しい値を取り、予定した形で試合が終わり、必要なデータが十五時へ送られることを確認している。
盤上にいるのに、勝負の外側へ立っている。
「御影シオンの人間か……」
「可能性は高いです」
「影村の教員でも、生徒でもない」
「……はい」
「シオンが当日の朝に入れた」
「……はい」
「十五時の系統へ直接繋がってる」
「…………はい」
ハザマは端末を閉じないまま、舞台を降りる真壁を見る。
「問題は、真壁さんが御影シオンの部下なのか、それとも御影シオンへ何かを提供する側なのかです」
「後者なら」
「……影村学園より上にいる可能性があります」
俺は返事をしなかった。
舞台上で、ソウタが立ち上がる。
視線が、観客席でも、真壁でもなく、舞台袖へ向いた。
俺がいる場所。
今度は、偶然とは思わなかった。
目が合う。
ソウタの口元が、僅かに上がる。
あの夜、画面の裏から聞こえたような気がした言葉が、肺の奥へ戻ってくる。
あなたの理解は望外で綺麗だ。
俺は、初めて自分が愕然としていることを認めた。
強さにではない。
五分で勝ったことでもない。
ソウタが、あの夜より遥かに多くのものを見ながら、あの夜より少ない時間で相手を終わらせたことに。
そして何より。
それでもまだ、ソウタは自分の全てを使っていない。
真壁が負荷を処理した。
真壁が相手の生体反応を読んだ。
真壁がシステム側の歪みを管理した。
ソウタは、盤上だけを見ていた。
つまり決勝では、俺とハザマが相手にするのは葉暮ソウタ一人ではない。
相手の呼吸を奪う棋士。
盤外から人間の反応を数値へ変える真壁。
そして、その二人をこの席へ送り込んだ御影シオン。
複数の盤が、決勝席へ重なろうとしている。
ソウタが舞台を降りる。
真壁は先に通路の奥へ消えた。
俺はその背中を追わず、ソウタだけを見る。
目の前で交わすべき言葉がある。
だが、その会話は、まだ始めない。
今は、四分五十七秒の棋譜を身体へ残す。
次に同じ歩が来た時。
同じ間が置かれた時。
同じように評価値が俺を安心させようとした時。
俺は、あの夜のようには取らない。
取らないだけでも足りない。
ソウタが用意した選択肢の外へ、自分で盤を作る。
そうしなければ、決勝は五分より短く終わる。
その予感だけが、拍手の戻らない講堂の中で、異様なほど鮮明だった。
五分という時間は、将棋を理解するには短い。
序盤の意図を確かめ、中盤の分岐を読み、終盤の必然を受け入れるには、あまりにも足りない。
それでも、あの対局は終わった。
速かったからではない。
相手が弱かったからでもない。
一手ごとの意味を観客が理解する前に、盤全体が一つの結論へ運ばれていた。
俺はその棋譜を見ながら、あの夜の敗北を何度も思い出していた。評価値がまだ互角を示している間に、呼吸だけが先に負けを理解していく、あの感覚を。
ただし、今回は一つ違った。
ソウタの隣に真壁がいた。
彼が何者なのか、何を見ていたのか、御影シオンとどのような関係にあるのか。この時点では、まだ何一つ分かっていない。
分かったのは、決勝で向き合う相手が、盤の向こうに座る一人だけではないということだった。
それでも、退く理由にはならない。
理解できないものが現れたなら、盤の上で確かめればいい。
あの夜と同じ手が来ても、今度は同じ呼吸をしない。
そう決めた時、準決勝の拍手はまだ戻っていなかったが、俺の中では既に、次の盤が開き始めていた。




