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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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214/216

EP219. DAY2:幽邃の盤は静かに牙を研ぐ

 この記録は、準決勝の勝敗を残すためのものではない。


 対局時間は十七分四十九秒。相手は強かったが、俺の意識は最初から、その先にある決勝席へ向いていた。


 葉暮ソウタ。


 かつて匿名対局で俺の呼吸を奪った相手。


 あの夜から、俺の中ではこの決勝だけが続いている。


 ただし、この日の盤上干渉戦には、もう一つの盤があった。


 心拍、判断遅延、視線、カード使用後の反応。


 俺たちが盤を読んでいる間、別の誰かが、俺たち自身を読んでいた。


 これは、俺が準決勝に勝った記録ではない。


 決勝へ進み、初めて現実の葉暮ソウタを見た記録だ。


 盤上干渉戦 DAY2

 記録者 立花ミナト


 勝者は、常に次の盤だけを見ている。


 将棋は、勝った瞬間よりも、その直前がいちばん静かだ。


 相手の玉に逃げ道がなくなり、こちらの駒がまだ王手をかけていないにもかかわらず、盤上のすべてが同じ結論へ収束した瞬間。対局者だけが終局を理解し、観客も、実況も、評価器も、まだそこへ追いついていない短い時間がある。


 俺は、その時間が好きだ。


 勝利の実感があるからではない。


 理解が、他人より先に終点へ届いたことを確認できるからだ。


 午前九時五十四分。


 Cafe of Entropyの営業区画を出た時、旧実験演習室の前には、まだ客の列が伸びていた。


 廊下の向こうからチイロの声が聞こえる。


「はいはいはーい! Chaos側、本日の限定企画! 名前を捨てた者から順番に名前を付け直しまーす! ただし厨二ネームは自己責任! 後日履歴書に残ってもCOEは関知しませーん!」


 続いて、アスミの冷静な声が飛ぶ。


「履歴書には残りません。虚偽説明をしないでください」


「安全監査入りましたぁ!」


 客の笑い声が廊下へ溢れる。


 そこだけ切り取れば、普通の学園祭だった。


 紅茶。


 焼き菓子。


 メイド服。


 意味のないミーム札。


 記念写真。


 誰かが友人の呼び名を笑いながら決め、誰かがスコーンを崩し、誰かが今日という一日を、来年になれば楽しかった思い出として語る。


 けれど、俺は入口近くに立つ客の首元を見てしまう。


 黒いチョーカー。


 手首に巻かれた黒い帯。


 中央に埋め込まれた、小さな矩形部。


 赤い光は、今は点いていない。


 点いていないから安全なのか。


 単に待機しているだけなのか。


 俺には判断できなかった。


 判断できないものを頭から追い出すのは難しい。特に、それが十五時に向けて動いている可能性があると分かっているなら、なおさらだ。


「ミナトさん」


 隣を歩く野々村ハザマが、こちらを見ずに呼んだ。


「何だ」


「今、黒い装着物を数えていましたね」


「数えてはいない」


「では、観測していた」


「……同じようなものだ」


「違います。数えるのは対象を離散化する行為です。観測は、まだ意味を与えない」


「朝から細かいな」


「今日の双灯祭ルールは細部に悪意がありますから、警戒することは悪いことではありませんよ」


 ハザマは端末を胸の前に抱えたまま、一定の歩幅で進んでいく。


 彼はDAY1と同じ黒系の運営ジャケットを着ている。目立たない色だが、左胸の《BOARD INTERFERENCE SYSTEM》という銀文字だけが不自然に新しい。


「その刺繍、昨日はなかったな」


「協賛企業側からの指定です」


「企業名は?」


「それが、表記されていません」


「妙だな……指定を出すのに名前は出さないのか?」


「契約上は運営統括会社名義になっています。技術提供元とは別とのことです」


「昨日より面倒になってるな」


「昨日より情報が増えただけです」


「増えた結果、分からないことも増えてる」


「正確には、分からなかったことが見えるようになった」


 ハザマらしい答えだった。


 講堂へ向かう渡り廊下には、盤上干渉戦のポスターが等間隔に貼られている。


《DAY2 MAIN TOURNAMENT》


《SEMIFINAL / FINAL》


《AMAGI × KAGEMURA》


《READ THE BOARD. BREAK THE RULE.》


 最後の文句は、将棋の大会に付けるものではない。


 盤を読め。


 ルールを壊せ。


 運営側は、この競技が正しい手を指すだけの将棋ではないことを、宣伝の段階から隠していない。


 隠していないのに、本当の目的だけは見えない。


 そのやり方が気に入らなかった。


「準決勝の相手は」


 俺が聞くと、ハザマは端末を操作する。


「DAY1のBブロック勝者。東都大学将棋研究会のOBと、現役学生の混成タッグです。盤上担当が高瀬遼一。サポート担当が永瀬カズキ。高瀬さんはアマ四段相当。持ち時間の短い対局に強い。永瀬さんはカードゲーム競技経験者で、干渉カードの管理能力が高いと評価されています」


「組み合わせとしては悪くない」


「はい。盤上と盤外を明確に分けた正統型です」


「つまり遅い」


 ハザマが一度だけ俺を見る。


「同じ結論です」


 盤上と盤外を役割として分けること自体は間違っていない。


 俺が盤を読む。


 ハザマが干渉カード、相手の相談、観客の反応、システム負荷を読む。


 俺たちも分業している。


 だが、分けたものを最後まで分けたまま扱えば、盤上干渉戦では遅れる。


 盤上の一手が、盤外の選択肢を変える。


 カードを使うという判断が、盤上の読み筋を変える。


 観客の視線が、指先の速度を変える。


 全ては最初から同じ局面の中にある。


 東都の二人は優秀だろう。


 だからこそ、自分の担当領域を正しく処理しようとする。


 その正しさは、境界を越える判断を遅らせる。


「二十分」


 俺が言う。


「何がですか」


「準決勝」


「二十分以内で終えると?」


「終える」


「理由は?」


「決勝前に、ソウタを見る時間が欲しい」


 ハザマは数秒だけ黙った。


 廊下の窓から、向かい側に建つ影村学園の校舎が見える。天城より暗い色の外壁。窓面には朝の光が反射しているが、何故か明るくは見えない。


「第二準決勝は、私たちの対局終了後に開始されます」


「分かってる」


「こちらが早く終えれば、影村代表の準決勝をゆとりを持って最初から見られる」


「ああ」


「それだけですか?」


 俺は歩きながらハザマを見る。


「他に何がある?」


「葉暮ソウタさんに、自分が待っていると伝える意図」


「盤の上にいない相手へ、どうやって伝えるんだ?」


「ですから、早く終えることでプレッシャーをかける」


「……それは、考えすぎだ」


「ミナトさんが、ただ観戦時間を確保したいだけならそうでしょう」


「違うと思ってるのか?」


「はい」


 否定する必要もなかった。


 あの男なら、分かるかもしれない。


 こちらの準決勝が二十分で終わったと知れば、その時間を何のために削ったのかを読む。


 自分の将棋を見せろ。


 決勝まで来い。


 俺は先に席へ座って待つ。


 言葉にするほど明確ではない。


 だが、盤上では言葉より曖昧な意思が、正確に伝わることがある。


 講堂の扉が近づくにつれ、音が大きくなっていく。


 観客の話し声。


 スタッフの確認。


 機材の駆動音。


 配信ブースのカウント。


 そして、実況席から響くトウタの声。


『さあさあさあ! 双灯祭DAY2! 昨日の予選を生き延びた四組が、今日ここで一組まで削られる! 盤上干渉戦・本戦! 準決勝第一局、まもなく開始だぁ!』


 生き延びた、という表現は大袈裟だ。


 普段ならそう思う。


 今日に限っては、言い換える気になれなかった。


 スタッフパスを見せ、舞台袖へ入る。


 視界が一気に開けた。


 天城講堂。


 中央に設置された巨大な将棋盤型ステージ。


 盤を挟んで二つの選手席。


 その後方にサポート席。


 左右の大型スクリーンには、将棋盤とSUPPORT HUDが並んで表示されている。


 DAY1より、表示項目が増えていた。


《CARD STOCK》


《INTERFERENCE LOAD》


《PLAYER HEART RATE》


《DECISION LATENCY》


《AUDIENCE FOCUS》


 心拍数。


 判断遅延。


 観客の集中度。


 昨日も内部では取得されていた可能性がある。


 だが、表へ表示されてはいなかった。


「公開項目が増えてる」


 俺が言うと、ハザマもHUDを見上げた。


「これも、今朝の運営更新で追加されたようです」


「聞いてない」


「私もです」


「何のためだ?」


「観客向けには、対局者の緊張を可視化し、競技への没入感を高めるため、と説明されています」


「本当の用途は……?」


「まだ分かりません」


 観客にとって、心拍数は分かりやすい。


 上がれば緊張している。


 下がれば落ち着いている。


 判断時間が長くなれば苦しんでいるように見える。


 数字が出れば、盤面を理解できない客でも勝負の流れへ参加できる。


 興行としては正しい。


 しかし、対局中の判断遅延をリアルタイムで計測し、カード使用前後の差まで保存するなら、別の価値が生まれる。


 人間が、どの種類の介入にどれほど弱いか。


 誰が、何秒で平常へ戻るか。


 観客の視線が集中した時、読みの速度がどう変化するか。


 それはもう、演出だけのデータではない。


「生体表示は切れるか?」


「選手側からは切れません。医療上の異常値が出た場合、救護班権限で非表示にできます」


「だが、取得は続くと……」


「はい」


「表示を止めても、記録は止まらない」


「規約上は、競技終了まで記録されます」


 規約とは、便利な言葉だ。


 同意書へ書かれているなら、何を取っても構わないわけではない。


 だが、祭りの競技へ参加する高校生が、数十ページの利用規約を一項ずつ読んでいるとは思えない。


 俺も読んだ。


 読んだからこそ、分からなかった。


 計測項目は書かれている。


 利用目的も、競技改善、演出最適化、安全評価と並んでいる。


 その三つのどこまでが、同じデータを共有するのかは書かれていない。


 改善。


 最適化。


 評価。


 言葉が広すぎる。


 何にでも使える。


「おーい! ミナト!」


 舞台袖の反対側から、トウタが手を振った。


 実況用のヘッドセットをつけ、黒と赤の派手なジャケットを着ている。胸元には《OFFICIAL MEME COMMENTATOR》という、存在するべきではない肩書きが縫われていた。


「準決勝、相手ガチだからね! 昨日みたいに無言で殺すと一般客が途中経過分からなくなるから、今日はもう少し苦戦してくれ!!」


「断る」


「うわっ即答! でもその冷たさがミナト! 配信コメントも今、安心してる!www」


「何に安心するんだ?」


「いつものミナトだってことに!」


 トウタは笑いながら、ハザマへ向く。


「ハザマも今日ヤバい顔してるね! 何枚切る?」


「必要な分だけです」


「クール過ぎるwww その答えが一番怖いんだよなぁ!www」


 トウタは実況席へ戻っていく。


 入れ替わるように、対戦相手の二人が舞台へ上がってきた。


 高瀬遼一。


 永瀬カズキ。


 どちらも昨日の対局映像で見た顔だ。


 高瀬は落ち着いている。


 歩き方も、盤へ座る動作も一定。


 緊張はしているだろうが、処理できている。


 永瀬はステージへ上がった瞬間から、HUDのカード枠を確認していた。こちらのカード構成は対局開始まで非公開だが、表示位置やエフェクトの待機状態から何かを読もうとしている。


 優秀だ。


 だから、二十分も必要ないかもしれない。


 俺たちも席へ向かう。


 盤の前へ座った瞬間、外の音が一段遠くなる。


 木の盤。


 整列した駒。


 盤面に落ちる照明。


 指先を膝の上で一度だけ握る。


 体温は正常。


 呼吸も深い。


 あの夜のような酸欠はない。


 まだ、相手が違う。


「よろしくお願いします」


 四人で礼をする。


 開始前のシステム確認が入る。


『生体センサー、接続』


 手首のバンドが一度だけ振動する。


 大型HUDに数値が出る。


《MINATO TACHIBANA HR 68》


《RYOICHI TAKASE HR 91》


 観客が少しざわついた。


 数字だけなら、俺が緊張していないように見える。


 実際、していない。


 準決勝だからではない。


 この盤の向こうに、今の俺が知りたいものがないからだ。


『サポート接続』


《HAZAMA NONOMURA LINKED》


《KAZUKI NAGASE LINKED》


『干渉カード、各七枚。準決勝で使用可能な上限は四枚。決勝進出時、カード構成は再登録可能』


 再登録可能。


 昨日の予選で相手へ見せた情報を、決勝前に一度だけ書き換えられる。


 運営は、『決勝』を別の競技として見せたいらしい。


 あるいは、対戦者がどのように適応するかを比較したいのかもしれない。


『盤上干渉戦、本戦第一準決勝』


『対局開始』


 先手は俺。


 初手、▲7六歩。


 高瀬、△3四歩。


 俺は▲2六歩。


 △8四歩。


 ここまでは普通だ。


 普通な形は、相手へ安心を与える。


 DAY1の棋譜を研究してきたなら、俺が角換わりへ寄せる可能性が高いと見ているはずだ。


 相手の視線が一瞬だけハザマへ流れる。


 盤上担当が、序盤からサポートの反応を確認した。


 悪くない。


 だが早い。


 まだ何も起きていない段階で相手の意見を欲しがるということは、二人の間で「どの時点から相談するか」が固定されていない。


 俺は▲2五歩。


 高瀬は△3三角。


 角換わりを拒否し、雁木か矢倉へ寄せる構え。


 俺のDAY1対策だろう。


 盤面だけなら妥当だ。


 俺は▲4八銀。


 △4二銀。


 ▲3六歩。


 △4四歩。


 高瀬は、俺に角を交換させない。


 長い利きが盤上へ残れば、RANGE LOCKの価値が高くなる。


 彼らは盤上とカードを組み合わせている。


 ただし、順番が見える。


 まず長い駒を残す。


 次に、必要な局面で射程を制限する。


 計画が正しいほど、誘導は簡単になる。


 俺は▲6八玉。


 玉を囲うように見せる。


 △6二銀。


 ▲7八玉。


 △5四歩。


 穏やかな序盤。


 観客の熱が少し下がる。


 実況席では、トウタが現在の構想を説明している。


『さあ両者、DAY1より静かな立ち上がり! 高瀬選手は角交換拒否! ミナトの得意な角換わりを避けて、盤面へ長い利きを残した! これ、あとでRANGE LOCKを撃つ気配あるぞ! 長い駒を育ててから足を切る! 人の夢を育ててから壊すタイプの農業!』


 例えは意味不明だが、読みは合っている。


 高瀬の眉が僅かに動いた。


 実況で狙いを公開されたことに反応した。


 盤上干渉戦では、実況も盤外要素になる。


 本来は対局者へ聞こえない設計だが、会場の反響を完全には消せない。単語の一部だけが、遅れて盤まで届く。


 RANGE LOCK。


 その音が相手へ届いた。


 計画を見抜かれたと思うか。


 観客の期待に応え、予定通り使うべきだと思うか。


 まだカードは切られていない。


 だが、選択への干渉は始まっている。


 俺は▲4六歩。


 △4三銀。


 ▲4七銀。


 △3二金。


 雁木。


 金銀の壁が中央を固める。


 俺は盤面を見ながら、相手の呼吸を聞く。


 深い。


 一定。


 高瀬は強い。


 普通の将棋なら、このまま時間をかけて中央の厚みを競う。


 俺は、その普通を壊す。


 ▲3五歩。


 序盤の形が固まりきる前に、歩をぶつける。


 高瀬の指が止まる。


 僅か二秒。


 だがHUDの判断遅延表示が反応する。


《DECISION LATENCY +1.8》


 観客席から小さな声が上がる。


 数値が人間の迷いを公開する。


 高瀬は△同歩。


 俺は▲同銀。


 銀を前へ出す。


 形としては早い。


 後続が足りない。


 高瀬から見れば、咎められる。


 俺が急いでいることも、二十分で終えるつもりだということも、彼は知らない。


 ただ、盤上では俺が焦っているように見える。


 永瀬の指がカード選択欄へ動いた。


 触れたのはSPOTLIGHT。


 まだ発動しない。


 俺の早い攻めが無理筋かどうか、高瀬の判断を待っている。


 相談が始まる。


 盤上担当は小声で言う。


「四四銀で押し返せる……!」


 サポートが答える。


「先に視線を集める。崩れたらRANGE」


 聞き取れる距離ではない。


 だが、唇と指の動きで分かる。


 ハザマも見ている。


 俺は彼を見ない。


 見る必要はない。


 高瀬、△4四銀。


 銀をぶつけてきた。


 俺は▲2四歩。


 △同歩。


 ▲同飛。


 飛車が前へ出る。


 相手の設計通りだ。


 長い利き。


 射程制限の対象。


 永瀬が即座に手を上げた。


「SPOTLIGHTを使用します!」


 ステージ照明が白く弾ける。


 複数の光が俺へ集中し、正面のカメラが顔を大きく抜く。


《SPOTLIGHT:ACTIVATE》


《AUDIENCE FOCUS → MINATO TACHIBANA》


 観客の視線集中度が上がる。


《42% → 89%》


 心拍は。


《HR 68 → 70》


 二だけ上がった。


 コメント欄が大型スクリーンの端へ流れる。


《顔変わらなすぎ》


《ミナト心拍寝てる?》


《攻め急いでない?》


《飛車前に出たぞRANGE刺さる》


《準決勝から殺意高い》


 視線を感じる。


 だが、俺にとって観客は局面ではない。


 正確には、今のところ局面へ入れる価値がない。


 ソウタなら違う。


 観客の呼吸まで使うかもしれない。


 今は、無視する。


 高瀬は△2三歩。


 俺は飛車を引かない。


 ▲2二歩。


 角頭へ歩を垂らす。


 観客がどよめく。


 高瀬の視線が盤上を走る。


 角を取られる。


 だが、飛車が狭い。


 ここでRANGE LOCKを使えば、俺の飛車は二マスしか動けない。前へ出たまま捕獲できる。


 分かりやすい好機だ。


 好機というものは、相手の思考を狭くする。


 永瀬がカード欄へ触れた。


 青い表示。


 RANGE LOCK。


 予想通り。


 彼は発動条件を確認する。


 自分手番開始時のみ。


 次の高瀬の手番で使える。


 俺の飛車は、今すぐには逃げない。


 高瀬は△3三桂。


 角の逃げ道を作りながら、次のRANGE LOCKへ繋ぐ。


 俺は▲2一歩成。


 桂を取る。


 △同玉。


 ここで相手の手番が終わる。


 次の俺の手番。


 RANGE LOCKを発動できるのは、自分の手番開始時。


 高瀬側は今、発動できない。


 俺は飛車を引くことができる。


 だが引かない。


 ▲3四銀。


 銀を中央へ進める。


 高瀬の表情が変わった。


 飛車ではない。


 最初から攻めの軸は銀だった。


 飛車は、RANGE LOCKを触らせるための表示。


 まだカードは使われていない。


 それでも、相手の思考領域には「次に飛車を封じる」という予定が残っている。


 高瀬、△同銀。


 銀交換。


 ▲同飛。


 ここで飛車が中央へ回る。


 長い利きではない。


 四段目を横に使う短い運用。


 RANGE LOCKで二マスへ制限されても、構想は壊れない。


 相手は気づいた。


 永瀬の手がカード欄から離れる。


 使わない選択。


 だが、一度触れたカードはHUDへ予兆ログを残す。


《RANGE LOCK:STANDBY CANCELLED》


 観客が反応する。


『おっとぉ! 相手側RANGE LOCKキャンセル! 撃てない!? いや撃たない! どっちだ!? ミナトの飛車、長距離砲に見せて近接武器だった! 飛車が殴りに来てる!』


 トウタの声。


 高瀬は冷静さを保っている。


 しかし永瀬との間に、最初のずれが生まれた。


 カードを使うべきだったか。


 使わなくて正しかったか。


 盤上担当は、使わなくてよかったと思う。


 サポート担当は、使うつもりで構えた時間を無駄にしたと感じる。


 その小さな違いが、次の相談を長くする。


 俺は盤を見たまま言う。


「ハザマ」


 初めて名前を呼ぶ。


 相手の二人が反応する。


 こちらが相談すると思った。


 ハザマは俺を見る。


「はい」


「切れ」


 命令形。


 TIMEOUTカードの介入条件に似た言い方。


 だが、俺たちはカードを使わない。


 ハザマは意味を理解した。


「NOISEを使用します」


 赤黒いエフェクトがHUDを覆う。


《NOISE INTERFERENCE》


《OPPONENT COMMUNICATION LOCKED:30 SEC》


 相手の会話が封じられる。


 この瞬間を待っていた。


 盤上が難しいからではない。


 二人の判断がずれた直後だからだ。


 高瀬は盤面を読む。


 永瀬はカード使用の修正を伝えたい。


 しかし話せない。


 高瀬は自分の読みで進めるしかない。


 △5五角。


 飛車と玉頭を同時に見る反撃。


 筋はいい。


 個人戦なら。


 だが、盤上干渉戦では、サポート側が次のカードを切る準備を整えるための一手でもある。


 永瀬はMIRRORへ触れている。


 NOISEが切れた直後、反射でこちらの相談も封じるつもりだろう。


 俺たちは、元から相談しない。


 昨日と同じ失敗。


 彼らはDAY1の棋譜を見ている。


 見ているからこそ、昨日と同じではない使い方を考えたはずだ。


 それでも、MIRRORというカードを持っている以上、反射できる干渉を探してしまう。


 手札が、思考を誘導している。


 人間がカードを使うのではない。


 カードが、人間へ使われる局面がある。


 俺は▲3一銀。


 玉の逃げ道を塞ぐ。


 高瀬は△同金。


 ▲同飛成。


 飛車が成る。


 会場が沸く。


 龍の利きは長い。


 ここでRANGE LOCKが刺さる。


 相手の手番開始。


 永瀬が迷わずカードを発動した。


「RANGE LOCK。対象、先手の龍」


 青黒い鎖が盤上の龍へ絡みつく。


《TARGET:▲DRAGON》


《MAXIMUM RANGE:2 SQUARES》


 観客の歓声。


 実況。


 照明。


 HUDの数値が跳ねる。


《AUDIENCE FOCUS 94%》


《MINATO HR 72》


《TAKASE HR 118》


 高瀬は、龍の射程を封じたことで守れると思った。


 俺は龍を使わない。


 ▲4二金。


 持ち駒の金を、玉の横へ置く。


 高瀬の指が止まる。


 △同玉。


 取るしかない。


 俺は▲3一銀。


 先ほどと似た形。


 だが、今度は逃げ道が違う。


 △5二玉。


 ▲4二金。


 玉が逃げる。


 ▲6二金。


 高瀬の呼吸が浅くなる。


 HUDに表示される。


《DECISION LATENCY +4.7》


 相手は、龍を封じた。


 カードは正しく働いている。


 それなのに局面が改善しない。


 正しい手段を使ったのに負ける時、人間は手段ではなく自分を疑い始める。


 高瀬は盤上を読む。


 永瀬はカード残数を見る。


 NOISEの効果は切れている。


 相談できる。


 だが、二人とも口を開かない。


 何を言えばいいのか分からない。


 相談を奪うより、相談する意味を奪う方が強い。


「……投了します」


 高瀬が言った。


 時計を見る。


 午前十時十八分。


 対局開始から十七分四十九秒。


 二十分は必要なかった。


 俺は礼をする。


「ありがとうございました」


 観客席から拍手が起こる。


 大型スクリーンへ結果が表示される。


《SEMIFINAL WINNER》


《AMAGI REPRESENTATIVE》


《MINATO TACHIBANA / HAZAMA NONOMURA》


 トウタの声が講堂を揺らす。


『終局ぅぅぅ! 十七分四十九秒! 早い! 速いじゃなく早い! 相手がRANGE LOCKを切る前から、ロック後の局面まで終わってた! 飛車を封じたら金銀が来た! 長距離を殺したら近距離で殴られた! これが天城代表! 準決勝を通過点として踏み抜いたぁ!』


 会場は沸いている。


 高瀬は、まだ盤を見ていた。


 敗因を探している。


 俺は駒を片づけながら言う。


「RANGE LOCKは悪くなかった」


 高瀬が顔を上げる。


「ぐっ……慰めですか……?」


「違う。使う局面も正しかった」


「では、何故……?」


「撃つと決めるのが早かった」


 永瀬の表情が固くなる。


 俺は続ける。


「飛車を見た時点でRANGE LOCKを使う構想へ入った。そこから先、飛車を封じる理由を探した。盤を見てカードを選んだんじゃない。持っているカードに盤を合わせた」


 高瀬は黙って聞いている。


「盤上干渉戦では、選択肢が多いように見える。実際には逆だ。カードを持った瞬間、そのカードを使える局面ばかり探すようになる」


「あなたは、最初から使わせるつもりで……」


「ああ」


「NOISEも?」


「二人の判断がずれるまで待った」


 永瀬が小さく息を吐いた。


「……完敗です」


「準決勝ではな」


 口から出た。


 高瀬が僅かに笑う。


「はっ、ははは……もう決勝を見ているんですね……」


 俺は答えなかった。


 答える必要はない。


 礼をして席を立つ。


 舞台を降りる前に、次の準決勝の対戦表示が大型スクリーンへ出る。


《SEMIFINAL 2》


《KAGEMURA REPRESENTATIVE》


《SOUTA HAGURE / REN JOGASAKI》


《VS》


《PUBLIC ENTRY TEAM》


 葉暮ソウタ。


 その名前を見た瞬間、勝った実感が消えた。


 準決勝の棋譜も。


 観客の拍手も。


 自分の名前が表示された大型スクリーンも。


 全部が背景へ退く。


 十七分四十九秒。


 俺は必要な時間を作った。


 これから、あの男の将棋を最初から見る。


 画面越しではない。


 匿名のアカウントでもない。


 同じ講堂。


 同じ照明。


 同じ干渉カード。


 同じ観客。


 そして、その全ての背後で、誰かが俺たちの心拍と判断時間を測っている。


「ミナトさん」


 舞台袖へ戻ったところで、ハザマが呼んだ。


「何だ?」


「第二準決勝まで、まだ六分あります」


「そうか」


「協賛システムに、今の対局ログが送信されました」


「通常処理だろ」


「通常の保存先とは別に、複製されています」


 俺はハザマを見る。


 彼の端末には、通信経路の簡略図が出ていた。


 運営サーバー。


 配信サーバー。


 医療監視。


 競技解析。


 そのどれにも属さない、黒い経路。


「宛先は……?」


「不明です。ただし中継点が、十五時のDual Lumen Sync Session用ネットワークと一致しています」


 講堂の音が、少しだけ遠くなる。


「盤上干渉戦のログが、十五時へ送られてる」


「その可能性があります」


「何のために……?」


「まだ分かりません」


 ハザマは答えながら、第二準決勝の選手入場口を見る。


「ただ、今の対局で記録されたのは棋譜だけではありません。心拍。判断遅延。視線移動。カード使用前後の反応。そして、対戦相手がどの段階で相談を放棄したか」


「人間が選択を狭められる過程」


「はい」


 十五時。


 EXIT:CODE。


 Core Phase。


 選ばれた者。


 選んだことにされる構造。


 その言葉が、まだ盤の外側で繋がっている。


 確証はない。


 だが、同じ匂いがする。


 人間へ選択肢を渡し、その前に環境を整え、どの答えへ進むかを観測する。


 盤上干渉戦では、それを競技と呼ぶ。


 EXIT:CODEでは、ゲームと呼ぶ。


 名前が違うだけかもしれない。


 入場口の照明が落ちた。


 影村代表の入場が始まる。


 観客席のざわめきが、ゆっくりと低くなる。


 そして俺は、初めて現実の葉暮ソウタを見る。


 影村の制服。


 濃い色の陣羽織。


 細い体。


 狐のように狭い目。


 歩き方に急ぐ気配はない。


 それなのに、彼が一歩進むたび、周囲の時間だけが先に整列していく。


 音を立てていない。


 目立つ仕草もない。


 観客へ手を振らない。


 表情も変えない。


 なのに、講堂の視線が彼へ集まっていく。


 SPOTLIGHTは発動されていない。


 カメラもまだ彼を大写しにしていない。


 それでも、人が見る。


 見てしまう。


 あの男の周囲には、見ないという選択肢が最初から存在しないように感じた。


 ソウタは盤へ向かう途中で、僅かに顔を上げる。


 舞台袖。


 俺が立っている場所。


 視線が重なる。


 画面越しではない。


 棋譜の向こうでもない。


 初めて、同じ空気の中で。


 彼の目が、ほんの少しだけ細くなった。


 笑ったようにも見える。


 確認しただけにも見える。


 俺は、何も返さない。


 ただ、その視線を受ける。


 あの夜、俺の呼吸を奪った幽霊が。


 今、現実の盤へ向かって歩いている。


 そして俺は、さっきの準決勝を一度も振り返らなかった。


 準決勝には勝った。


 だが、勝利の実感はほとんど残っていない。


 大型スクリーンに天城代表の名が表示された時、俺が見ていたのは次の対局だけだった。


 入場口から現れた葉暮ソウタは、映像で見た時よりも静かで、そして遠かった。


 何もしていないのに、周囲から音が消え、人の視線が集まっていく。


 あの夜の幽霊は、確かに現実に存在していた。


 同時に、盤上干渉戦のログは、十五時の別系統へ流れていた。


 俺たちは対局者であり、観測対象でもあった。


 それでも俺は、決勝を望んだ。


 危険も、実験も、盤外の思惑も、すべて盤の上へ持ち込めばいいと思っていた。


 午前十時十八分。


 準決勝は終わった。


 そして俺は、勝った盤を一度も振り返らなかった。


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