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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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EP218. DAY2:Cafe of Entropy 開店/黒い首輪は祭りの中で笑う

 この記録を書き始めるまで、僕は何度も最初の一行を消した。


 あの日、Cafe of Entropyで何が起きたのか。


 そう書けば簡単だ。


 黒い首輪が現れた。


 装着者の一人が、周囲の認識から外れかけた。


 戌神キョウジと手塚ケイ先輩が来店し、十五時より前からCore Phaseが始まっていることを僕たちへ伝えた。


 事実だけを並べるなら、それで済む。


 けれど、本当は違う。


 あの日のCOEでは、何か一つの事件が起きたわけではなかった。


 紅茶が運ばれ、客が笑い、チイロが意味の分からない言葉を叫び、アスミが不機嫌そうな顔で接客を続け、トウタが異常を学園祭の演出へ変換していた。その全部が、十五時へ続く前処理の中に組み込まれていた。


 だから、どこからが異常だったのかを僕は決められない。


 黒い装着物を最初に見つけた時か。


 キョウジが店へ入ってきた時か。


 ケイ先輩が指でバツを作った時か。


 カナデの名前を、僕たちが一瞬だけ思い出せなくなった時か。


 あるいは、僕たちがCOEを安全な場所だと信じた、その瞬間からだったのかもしれない。


 ただ、一つだけ覚えている。


 あの店は最後まで喫茶店だった。


 誰かを閉じ込めるための部屋ではなく、誰かが自分の意思で入り、自分の意思で出ていける場所であろうとした。


 少なくとも、僕たちはそうしようとした。


 退出する権利を残した。


 番号ではなく名前を聞いた。


 黒い首輪を切った。


 危険を知らせながら、恐怖だけを客へ押しつけない方法を探した。


 それが正しかったのかは、今でも分からない。


 結果を知った今でも、別の手段があったのではないかと考えることがある。


 もっと早く営業を中止していれば。


 キョウジを追っていれば。


 ケイ先輩の警告に従っていれば。


 アスミを十五時へ行かせなければ。


 その全部を考えた上で、それでも僕は、あの日の記録を残すことにした。


 これは、Core Phaseが始まるまでの記録ではない。


 Core Phaseが、すでに祭りの中へ入り込んでいたことを示す記録だ。


 そして、人間が数字へ変えられようとした時、僕たちが名前を呼ぶことを選んだ記録でもある。


 午前八時五十二分。


 営業開始まで、あと八分。


 その時の僕は、まだ十五時まで六時間以上あると思っていた。


 実際には、もう始まっていた。


 黒い首輪は、すでに祭りの中で笑っていた。


 Cafe of Entropy DAY2

 記録者 岡崎ユウマ


 Cafe of Entropyの二日目は、開店前からもう喫茶店ではなかった。


 午前八時五十二分。


 営業開始まで、あと八分。


 それなのに、天城総合学園の旧実験演習室前には、廊下の角を二度曲がっても最後尾が見えないほどの待機列ができていた。


 昨日のDAY1も混雑していた。


 盤上干渉戦の観客が休憩時間に流れ込み、演劇部の公演待ちの生徒が時間を潰しに来て、COEそのものを目当てにした一般客も重なった。OrderとChaosという二種類の接客方式は、想定以上に受けた。アスミの黒いロングメイドは写真を撮られ、チイロの意味不明なミーム接客は動画に切り抜かれ、トウタの実況は必要以上に拡散された。


 その結果が、今朝のこれだった。


「最後尾、正門前まで伸びています」


 入口の管理端末を抱えたハザマが、平然とした声で報告した。


「正門前?」


「正確には、正門から中庭へ入る導線の手前です。現在の待機人数は二百四十六名。校外待機を含めると、二百八十名程度」


「この部屋、そんなに入らないぞ?」


「入りません。ですので、一巡目は完全入替制にします」


「喫茶店で完全入替制って、もう人気ラーメン屋かライブ会場だな」


「昨日の午後営業時点で、そのどちらよりも滞在時間が長かったので」


「悪化してるな」


 僕が言うと、ハザマは端末の画面を一度だけ見てから、真顔のまま頷いた。


「はい。悪化しています」


 冗談ではなく事実として受け取られた。


 朝から話が噛み合わない。


 いつも通りといえば、いつも通りだった。


 開店準備中の店内には、紅茶の香りと焼き菓子の甘い匂いが満ちていた。


 中央の仕切りを境に、右側がOrder、左側がChaos。


 Order側には白いクロスをかけた円卓が並び、銀色のティースタンド、温度表示付きのポット、茶葉の産地を記したカードが整然と配置されている。


 対するChaos側は、昨日よりさらに悪化していた。


 壁には《可愛いは秩序を殺す》《DAY2でも人権はセルフサービスです》《本日の黒歴史は返品不可》という札が貼られ、テーブルの中央には意味不明なミーム札が立てられている。


《草》

《解釈一致》

《尊死》

《それは仕様です》

《観測者責任》


 最後の札だけは撤去した方がいいと思う。


「チイロ」


 僕はChaos側の奥で、黒板へ何かを書き込んでいる彼女を呼んだ。


「何? どうした?」


「その《観測者責任》って札、誰が作ったんだ?」


「私だけど?」


「十五時を前に笑えないから外してくれ」


「だから置いたんだが?」


「外してくれ」


「はーい」


 素直に答えたが、たぶん別の場所へ移すだけだ。


 チイロの衣装は、昨日と同じChaos側の短い黒メイドを基礎にしながら、袖口と裾に蛍光色の数式が追加されていた。歩くたび、《ΔS>0》《不可逆》《秩序敗北》という文字が断片的に見える。


「これは、昨日より加工してるな……」


「DAY2アップデート。リピーター客に同じものを見せるのは、コンテンツとして怠慢だからねぇ〜」


「アスミには許可を取ったのか?」


「一応、見せたよ」


「それで、何て言ってた?」


「私のロングメイドに触ったら殺す、って」


「……許可ではないな」


「拒否対象が限定されてたから、私の服は許可されたと解釈したつもり」


「……その解釈の癖、今日の十五時までに直した方がいいぞ?」


「ユウマにだけは言われたくなーい」


 チイロはそう言って笑い、黒板の最下段へ新しい文字を書いた。


《本日の可愛い観測量:0 kawaii》


 昨日から引き継いだ、店内の拍手、歓声、笑顔、撮影数を適当に統合して出す冗談のカウンターだ。


 本当に適当なのかは知らない。


 Chrono-Labの人間が冗談で作る計測器は、だいたい冗談では済まない精度を持つ。


「ユウマ」


 今度はOrder側から声がした。


 アスミだった。


 黒いロングメイド。


 高い襟。


 長い袖。


 銀色の細いトリム。


 足首近くまで届く重い裾。


 昨日は着替えた直後から不機嫌さを全身で主張していたが、今日は違った。衣装に慣れたわけではない。羞恥に使う処理領域を、別の問題へ回しているだけだ。


「入口の誘導、昨日と同じ配置でいいの?」


「一巡目はそうする。Order側十二卓、Chaos側十卓。滞在は四十五分。撮影は一組二枚まで」


「チイロ先輩……Chaos側が守ると思う?」


「守らせる」


「誰が?」


「僕が」


 アスミは少しだけ目を細めた。


「朝から大きく出たわね」


「誰も死なせないよりは簡単だ」


 口にしてから、自分でも言葉が重いと思った。


 アスミの表情も、ほんの少しだけ止まった。


 十五時。


 その時刻は、誰も口にしていないのに、店内のどこにでもあった。


 壁の時計。


 個人端末の予定表。


 スタッフ用のシフト表。


 営業終了時刻の下。


《15:00 Dual Lumen Sync Session × EXIT:CODE Day2 Core Phase》


 昨日のSafe Phaseで、Core Phaseへの参加資格を与えられた者がいる。


 正確には、与えられたという言い方自体が間違っている。


 選ばれた。


 固定された。


 招待された。


 どの表現を使っても、檻の鍵を勲章として渡された事実は変わらない。


「ユウマ」


 アスミがもう一度呼んだ。


「何だ?」


「今日、COEの客をちゃんと見て」


「混雑監視はするつもりだ」


「人数だけじゃない」


 彼女の目が入口の向こうへ向いた。


「首と手首」


 僕もそちらを見る。


 開店前のガラス扉の向こう。


 待機列の先頭。


 天城の男子生徒。


 影村の女子生徒。


 一般来場者。


 保護者らしい夫婦。


 服装も年齢もばらばらだった。


 すぐには分からない。


 けれど、意識して探すと見えた。


 影村の制服を着た男子生徒の右手首。


 黒い帯。


 アクセサリーにしては幅が均一で、中央に小さな矩形部がある。


 その後ろ。


 紅華女学院の女子生徒の首元にも、黒いチョーカー。


 さらに三人後ろ。


 一般客らしい青年の左手首にも似たものが巻かれている。


「昨日の参加者端末か?」


「形状は近い。でも、昨日のSafe Phaseで使った標準型とは少し違う」


「もしかして、Core Phase用?」


「可能性はある」


「共有されてないのか」


「少なくとも、私の手元にはない」


 安全監査担当へ共有されていない。


 それだけで十分に問題だった。


 アスミは、黒いチョーカーをつけた生徒を見ながら続ける。


「昨日の参加者名簿と照合した。先頭から見える範囲だけで、未登録が三人いる」


「見える範囲だけで?」


「そう」


「誰が配った……?」


「分からない」


「いつから着けてる……?」


「分からない」


「機能は……?」


「分からない」


「分からないだらけだな」


「だから見てって言ってる」


 アスミの声が少し強くなった。


 苛立ちではない。


 自分が安全側の情報から外されていることへの警戒だ。


「分かった。チイロとミサキにも共有する」


「もう共有した」


「早いな」


「あなたがチイロ先輩のスカートの数式を見てる間にね!」


「……見てたのは安全上の問題だ」


「はいはい」


 流された。


 午前九時。


 開店時刻。


 ハザマが入口端末を操作すると、ガラス扉の上に設置された小さなランプが青へ変わった。


 同時に、店内アナウンスが流れる。


『ようこそ、Cafe of Entropyへ』


『当店では、OrderとChaos、二つの接客系をご用意しています』


『Orderでは、紅茶、礼法、理論、静かな羞恥を』


『Chaosでは、ミーム、即興、可愛い、回復不能な社会的記録を提供します』


『なお、途中退出は自由です』


 ここまでは昨日と同じ。


 だが、今日は続きがあった。


『退出理由の説明は必要ありません』


『“ログアウト”とお伝えいただければ、最寄りのスタッフが即時退避を補助します』


 客の何人かが笑った。


 ゲーム風の演出だと思っている。


 その中で、黒いチョーカーをつけた女子生徒だけが、自分の首元へ指を触れた。


 一瞬だった。


 でも僕は見た。


 アスミも見た。


 入口反対側のチイロも見ていた。


 それでも営業は始まる。


「いらっしゃいませぇぇぇぇっ! ようこそ、因果と黒歴史が相互監視する最終休憩所へぇぇぇっ!」


 Chaos側でチイロの声が爆発した。


「本日のおすすめは《タイムリープ前にも食べた気がする量子パンケーキ》! 食後には存在しない記憶が――」


「発生しません!」


 Order側からアスミの声が飛ぶ。


「通常のパンケーキです。虚偽説明をしないでください!」


「Order側から因果律訂正入りましたぁ!」


 客席から笑いが起きる。


 壁のカウンターが跳ねた。


《0 → 72 kawaii》


「開店十五秒で七十二って何だよ」


 僕が言うと、会計端末の後ろにいたトウタが振り向いた。


「アスミの訂正が四十。チイロの虚偽広告がマイナス十五。客の笑顔が四十七」


「マイナスもあるのか」


「DAY2から監査機能が追加された」


「誰が?」


「チイロに決まってるっしょ」


「……信用できない監査だな」


「まあ、可愛さの監査に客観性を求める方が間違ってるだろ?」


 それはそうかもしれない。


 いやいや、違うかもしれない。


 判断している暇はなかった。


 開店から十分で、全卓が埋まった。


 Order側では、アスミが茶葉の説明をしながら紅茶を注ぐ。


 Chaos側では、チイロが客に《前世で一度だけ使ったネットスラング》を答えさせる意味不明なゲームを始める。


 トウタは会計と実況を同時にこなし、ミサキはクールダウン席で客の顔色と心拍を見ている。


 サツキは入口で待機列へ向かって、王冠を上げながら叫んでいた。


「皆様! COEは逃げませんわ! 走らず、押さず、勝利角は一列ずつ上げてくださいませ!」


「勝利角に列があるんですか?」


 客の一人が聞く。


「ありますわ! 一斉に上げると危険ですもの!」


「何が危険なんですか?」


「角度ですわ!」


 説明になっていない。


 でも列は進んでいる。


 笑いながら進む客は、怒りながら止まる客より扱いやすい。


 サツキの理論は、理論としては壊れているのに現場では機能する。


 僕は店内を回りながら、何度も黒い装着物を数えた。


 一人。


 三人。


 七人。


 十二人。


 見れば見るほど増えていく。


 黒い手首型。


 黒い首輪型。


 布に見えるもの。


 薄い樹脂のようなもの。


 同じ形ではない。


 だが、中央の矩形部だけは共通している。


 光を吸うような黒。


 ときどき、赤い小さな点が内部で瞬く。


 最初は反射かと思った。


 だが、違った。


 店内で歓声が上がるたびに、いくつかが同時に点灯している。


「ユウマ」


 ミサキが僕の横へ来た。


 白衣のポケットから小型端末を出し、画面を見せる。


「装着物から近距離通信が出てる」


「何を送ってる?」


「暗号化されてるから中身はまだ不明。でも、COEの環境センサーが跳ねた時に通信量も増える」


「歓声に反応してる?」


「歓声だけじゃない。心拍、笑い、拍手、視線集中。そのどれか、もしくは複合」


「ここで測ってるのか……」


「測ってる可能性は高い」


「Core Phaseの事前調整?」


「断定はできない。でも、十五時用の端末なら、人混みの中で同期精度を取るにはCOEは理想的」


 最悪の理想だった。


 COEは、恐怖を薄めるための場所だった。


 昨日、Safe Phaseで心を削られた参加者が、紅茶を飲み、くだらない話をし、笑い、現実へ戻るための場所。


 それが逆に、十五時へ向けた群衆反応の試験場として使われているとしたら。


 祭りの熱が、そのまま地獄の予熱になる。


「止めるか……」


 僕が聞くと、ミサキは店内を見た。


「現時点で生体危険はない。外せと言えば、向こうへ気づいたことが伝わる。それに、本当に正規端末なら混乱だけ起こす」


「監視継続か」


「うん。ただし、発熱、締め付け、神経刺激が出たら即時切断」


「切れるのか?」


「うん、首ごと切らなければ何とか……脈断で」


「……朝から怖い言い方するな」


「冗談だよ!」


「ミサキの冗談は分かりづらい」


「本当は専用カッターがあるから」


「……もっと怖くなったぞ?」


 ミサキは答えず、クールダウン席へ戻った。


 店内はさらに騒がしくなる。


 Chaos側で、《量子告白ルーレット》が始まった。


 Order側では、アスミが三段式ティースタンドを持ち、写真撮影を頼まれている。


「こちらを見てください、アスミ先輩!」


「業務中ですので、一枚だけでお願いします」


「笑ってください!」


「接客用の笑顔は追加料金です」


「いくらですか!」


「販売していません」


 客が笑う。


 アスミは笑わない。


 だが、そのやり取り自体が受けている。


 壁の数字が上がる。


《1240 kawaii》


 同時に、黒いチョーカーが三つ光った。


 僕の背中に、薄い冷気が走る。


 その時だった。


 入口付近のざわめきが、ほんの少しだけ形を変えた。


 静かになったわけではない。


 誰かが叫んだわけでもない。


 ただ、列の中に細い隙間ができた。


 前を歩く客が、何となく左右へ避ける。


 その中央から、二人の生徒が入ってきた。



 先に見えたのは、長身の男。


 制服の上に薄いジャケットを羽織り、口元には軽い笑みを浮かべている。


 間違いない、戌神キョウジ。


 久しぶりにあいつを見た。


 その隣には、少し年上に見える女子生徒。


 おそらく彼女が手塚ケイ先輩。


 キョウジよりも表情が硬く、周囲を見る目に遊びがない。学園祭を楽しみに来た客の目ではなく、出口と設備と人間の配置を確認する人間の目だった。


 僕は、手にしていた空のトレイを強く握った。


 昭和五十六年。


 アスミが過去で接触したキョウジ。


 影村七不思議を語り、十五時のCore Phaseを観測し、崩壊した学園へ戻った人物。


 そして、彼自身が語った。


 COEで、アスミと僕を見た。


 未来の記録なのか。


 別の世界線の残滓なのか。


 それとも、まだ起きていない出来事を先に持っていたのか。


 僕たちは、今朝その証言を知った状態でここにいる。


 だから、彼が来る可能性は考えていた。


 考えていたのに、実際に姿を見ると身体が追いつかない。


「あれが例の?……ホントに来たんだね……」


 すぐ近くでチイロが呟いた。


 客へ向けた声ではない。


 僕にしか届かない音量。


「……気づいたか?」


「顔も歩き方もアスミの証言と一致。んで、隣は手塚ケイ先輩ってわけね? てか、私と同い年か……」


「どうする?」


「まず見る」


「接触しない?」


「先にこっちが接触したら、再現じゃなくなるでしょ?」


 その言葉で、僕はチイロを見る。


「やっぱり、そう思うか?」


「うん」


 チイロの目は笑っていなかった。


「キョウジは自分で来た。COEへ。ケイを連れて。配置を合わせに来た可能性が高い」


「アスミも気づく」


「てか、もう気づいてるよ」


 Order側へ目を向ける。


 アスミは、別の客のカップへ紅茶を注いでいるところだった。


「抽出時間は三分です。香りを先に確認してから――」


 そこで、彼女の視線が上がる。


 キョウジ。


 ケイ。


 二人を見る。


 手にしたポットの先端が、ほんの僅かに下がった。


 紅茶が一滴だけ、受け皿の縁へ落ちた。


 アスミが接客中に飲み物をこぼすことは、ほとんどない。


「失礼しました」


 彼女は客へ告げ、布で受け皿を拭く。


 声は平静。


 動作も乱れていない。


 でも僕には分かった。


 彼女の中で、昭和の記憶と、現在の店内と、十五時の未来が一度に重なった。


 アスミが僕を見る。


 短い視線。


 確認。


 キョウジが来た。


 ケイもいる。


 分かっている。


 動くな。


 その全部が、一秒にも満たない間に伝わった。


 キョウジは店内を見渡した。


 Order。


 Chaos。


 壁の可愛いカウンター。


 黒い装着者。


 僕。


 チイロ。


 最後に、アスミ。


 視線が止まる。


 アスミは、接客用の端末を手に二人へ近づいた。


 黒いロングメイドの裾が、人混みの中を静かに進む。


「いらっしゃいませ」


 声は丁寧だった。


「Cafe of Entropyへようこそ。二名様でよろしいですか」


「ああ」


 キョウジが答える。


 それだけだった。


 軽口を叩かない。


 アスミの服装をからかわない。


 COEの名前にも触れない。


 あまりにも普通だ。


 普通すぎる。


「OrderとChaos、どちらを希望されますか?」


「Orderで」


「承知しました」


 アスミは二人を案内する。


 Order側の奥から二番目。


 厨房の機械音とChaos側の歓声が重なり、周囲から会話が聞き取りにくい位置。


 それでいて、僕やチイロからは見える。


 偶然ではない。


 アスミが選んだ。


 キョウジが椅子へ手をかける。


 その前に、アスミを見る。


 視線が重なる。


 ほんの一瞬。


 キョウジは右目を僅かに細めた。


 視線を横へ流す。


 僕。


 チイロ。


 黒いチョーカーをつけた客。


 そして、もう一度アスミへ戻す。


 これは、アイコンタクト。


 それだけ。


 言葉はない。


 指も動かさない。


 顔にも大きな変化はない。


 なのに、意味だけが明確だった。


 見えている。


 揃っている。


 ここだ。


 アスミの足が止まった。


 ほんの半歩。


 客の多くは気づかない。


 僕は気づいた。


 チイロも気づいた。


 手塚ケイ先輩も、当然見ていた。


 アスミの左手が、注文端末の側面を一度だけ押した。


 僕の端末が震える。


《再現要求の可能性》


 続けて、もう一通。


《過去の配置を合わせようとしてる》


 つまり、タイムリープ前。


 正確には、アスミが過去で聞いた、未来の双灯祭DAY2。


 キョウジが観測したというCOE。


 そこにいたアスミと僕。


 今、その配置が揃った。


 誰が揃えた。


 僕たちではない。


 少なくとも、完全には。


 キョウジ自身が来た。


 その事実が一番不気味だった。


「どこまで話す?」


 僕はチイロへ顔を向けずに聞いた。


 彼女は客のテーブルへ水を置きながら答える。


「こっちから昭和は出さない」


「Core Phaseは?」


「向こうが出したら受ける。こっちから十五時も言わない」


「何も分からないまま終わるぞ」


「それでもいい。キョウジが何を再現したいか分からない状態で、こっちから台詞まで与えたら、向こうの記憶を補完することになる」


「ケイ先輩は?」


「見て」


 僕は二人の席へ目を戻す。


 手塚ケイ先輩は、メニューを見ていなかった。


 入口。


 壁の時計。


 黒いチョーカーをつけた客。


 非常口。


 天井のセンサー。


 アスミ。


 キョウジ。


 順に見ている。


「警戒してる」


「誰を?」


「全部」


「彼女は味方なのか?」


「味方でも、止めたいことが違うタイプ」


 チイロの答えは曖昧だった。


 でも、正しい気がした。


 アスミがメニューを二人へ差し出す。


「本日のOrderメニューです。紅茶はダージリン、アールグレイ、アッサム。軽食はスコーン、量子パンケーキ、観測者のための無糖サンドをご用意しています」


「へぇ、観測者のための?」


 キョウジが聞く。


「糖分による急激な判断変動を避けたい方に向けた商品です」


「君が名前をつけたの?」


「違います」


「似合ってるけど」


「商品名についての感想は厨房へお願いします」


「その服も似合ってる」


「注文をお願いします」


 アスミは切った。


 キョウジが小さく笑う。


「じゃあ、ダージリンと無糖サンド」


「承知しました」


 アスミがケイ先輩を見る。


「お客様は」


「水でいいわ」


「当店はワンオーダー制です」


「じゃあ、水は?」


「無料ですので、注文に含みません」


「なら、何もいらない」


「ワンオーダー制です」


「面倒ね」


「規則です」


 キョウジが横から言う。


「ケイ先輩、アッサムにしたら」


「あなたがが二杯飲んで」


「二人で一注文は駄目だって」


「キョウジ、こういう店に慣れてるわね?」


「ああ、今日は四回目かもしれないし……」


 その言葉で、アスミの表情が変わった。


 僅かに。


 キョウジは何でもないようにメニューを閉じる。


 ケイ先輩が彼を見る。


「……キョウジ」


「冗談ですよ」


「あなたの冗談は、最近笑えないわ」


「それは、先輩が笑わなくなっただけ」


 ケイ先輩はため息を吐き、アスミへ向き直った。


「アッサム」


「承知しました」


 アスミが注文端末を閉じる。


「少々お待ちください」


 立ち去ろうとした、その時。


「アスミちゃん」


 ケイ先輩が呼んだ。


 アスミの足が止まる。


「……何でしょう」


「十五時まで、ここにいるの?」


 店内の騒音は変わらない。


 Chaos側では、トウタが客の黒歴史を朗読している。


 笑い声。


 拍手。


 食器の音。


 それでも、その問いだけは僕の耳へはっきり届いた。


「いいえ」


 アスミが答える。


「午前営業後は別の持ち場へ移動します」


「どこへ?」


「業務情報です」


「十五時のやつ?」


 アスミは答えなかった。


 ケイ先輩は彼女を見たまま、右手をテーブルの上へ置いた。


 掌を少し立てる。


 人差し指を伸ばす。


 もう片方の人差し指を重ねる。


 バツ。


 小さく。


 明確に。


 やるな。


 行くな。


 話すな。


 止めろ。


 どの意味にも取れる。


 アスミの目が揺れた。


「それは、何に対してですか……?」


 彼女は直接聞いた。


 ケイ先輩は答えない。


 バツを作った指を一度だけ強く重ね、手を下ろす。


「……ケイ先輩」


 アスミの声から接客用の柔らかさが消える。


「警告なら、内容を言ってください」


「言えない」


「言わなければ判断できません」


「判断させたくないから言わない」


「それは警告じゃなくて誘導です」


「分かってる」


「なら」


「アスミちゃん」


 ケイ先輩の声が低くなる。


「今は、接客だけにしておいて」


 アスミは黙った。


 キョウジが横でダージリンのメニューを見ている。


 だが、読んでいない。


 二人の会話を聞いている。


「キョウジが何を知っていても、ここでは聞くな」


 ケイ先輩は続ける。


「何故ですか?」


「再現が進むから」


 その言葉で、アスミの呼吸が止まった。


 僕も止まる。


 チイロが、Chaos側から顔だけこちらへ向ける。


「再現…………」


 アスミは言葉を反復した。


「何を再現しているんですか?」


「それを聞くなって言ってるの」


「もう遅いです」


 アスミの声が少しだけ震えた。


「キョウジは、私を見ました。ユウマを確認しました。店内を見ました。黒い装着者も見ていた。あなたも十五時を口にした。これだけ揃って、何も聞くなは無理です」


「無理でも止めて」


「理由を」


「続きまで一致したら、切れなくなる」


 ケイ先輩の言葉は短かった。


 アスミの顔から、ほんの少し血の気が引く。


「何が?」


「因果が……」


 アスミが何かを言おうとする。


 その前に、近くの客から声が飛んだ。


「すみませーん、紅茶まだですか?」


 現実。


 接客。


 学園祭。


 アスミは一度だけ目を閉じた。


 そして、営業用の表情へ戻る。


「ただいまお持ちします」


 二人へ向き直る。


「注文を用意します。席を離れないでください」


「ああ、ただ客に言う言葉じゃないな」


 キョウジが言った。


「あなたには必要です」


「了解〜」


 アスミは厨房へ戻る。


 僕もすぐに近づいた。


「再現って言ったな」


「言った」


「ケイ先輩も気づいてる」


「気づいてるどころじゃない。たぶん、知ってる」


 アスミはカップを並べる。


 手は動いている。


 でも、茶葉を量るスプーンが僅かにカップの縁へ当たった。


「キョウジが再現したい。ケイ先輩は止めたい」


「何のために?」


「分からない……」


「キョウジは過去と同じ結果を見たいのか……?」


「……違うと思う」


「根拠は?」


「七不思議の時と同じ目だった」


 アスミは低い声で言う。


「キョウジは、私に情報を入れる時、順番を作る。どこまでなら耐えられるか見て、容器を先に置いて、中身をあとから入れる。今の目は、それに近い」


「じゃあ、再現は伝えるため?」


「……おそらく」


「なら、ケイ先輩は何故止める」


「再現した結果が、前と同じになる可能性があるから」


 アスミは湯を注ぐ。


 細い湯気が立つ。


「どこまで話す?」


 僕が聞く。


「向こうに言わせる」


「それで十分か」


「十分じゃない。でも、こっちから未来の情報を渡す方が危険」


「僕が行く」


「スタッフとして」


「客として近づく気はない」


「水を持っていって」


「水?」


「ケイ先輩が頼んだ」


「無料だから注文じゃないって言ってただろ」


「今は接触条件として使う」


「なるほど、強引だな」


「手順よ手順」


 アスミはアッサムとダージリンをトレイへ載せる。


「ユウマ。聞くのは一つだけ」


「何を」


「キョウジが、ここを初めて見るのか」


「直接聞く?」


「言い方は任せる」


「……それが一番困る」


「あなた、こういう時だけ妙に上手いでしょ?」


「褒めてないな」


「褒めてない」


 僕は水差しとグラスを持った。


 アスミと並んで二人の席へ向かう。


 途中、黒いチョーカーをつけた女子生徒の横を通る。


 矩形部が赤く光った。


 一度。


 僕が近づいたことに反応したのか。


 店内の歓声に反応したのか。


 判断できない。


 キョウジが僕を見る。


 笑みが少し深くなる。



「岡崎ユウマ」


 当然、初対面の呼び方ではなかった。


 僕はグラスをテーブルへ置く。

 

 駆け引きは正攻法じゃダメだ。


「僕を知ってるのか?」


「有名人だから、ってか幼馴染だろ? 忘れたのか?」


「いや、そういう意味じゃないんだ。でも、どこで?」


「んじゃ……いろんな場所で」


「……COEでも?」


 問いを投げた。


 キョウジの目が細くなる。


 アスミが隣に立つ。


 黒いロングメイド。


 給仕する僕。


 キョウジ。


 ケイ。


 COE。


 配置が揃う。


 キョウジは店内を一度見渡した。


 Chaos側の歓声。


 壁のカウンター。


 黒いチョーカー。


 アスミ。


 僕。


 それから、静かに言った。


「やっぱり、ここだった」


 僕の背中に冷たいものが走った。


「……何が……?」


「位置さ」


「誰の」


「お前たちの」


 アスミがトレイをテーブルへ置く。


「キミは、この場面を見たことがあるのか?」


 キョウジはダージリンの香りを確かめる。


「あると言ったら?」


「いつ」


「答えたら変わる」


「もう変わっている」


「何故……?」


「キミがここに来たから」


「俺が来ることも含めて、前と同じかもしれない」


「なら、ケイ先輩が止める理由は?」


 キョウジは隣を見る。


 ケイ先輩は、もう一度バツを作っていた。


 今度はテーブルの下。


 キョウジへ向けて。


「先輩は、結末を怖がりすぎるだけだ」


「キョウジが入口を喜びすぎるんだ」


 ケイ先輩が言う。


「入口が一致しなきゃ、出口を変えられない」


「一致させた結果、また同じ出口になったらどうする?」


「今度は、この二人がいるだろ?」


 キョウジは僕とアスミを見る。


 その視線に、期待と利用と信頼が同時にあった。


 どれか一つなら、まだ分かりやすかった。


「僕たちに何をさせたい」


 僕が聞く。


「まだ何も」


「再現してるのに?」


「入口を確認してるだけだ」


「何の入口」


「……十五時」


 言った。


 ケイ先輩の指が強く重なる。


 バツ。


「キョウジ」


「もう出てる言葉だ。おそい」


「だから、口から出さないで」


「先輩が先に言ったでしょう」


 アスミが低く息を吐く。


「Core Phaseを知っているんですね」


「名前だけなら」


「嘘」


「全部は知らない」


「どこまで知ってる」


「アスミちゃん」


 ケイ先輩が遮る。


「聞かないで」


「聞かなければ止められない」


「聞いたから止められなくなったこともある」


「?……それは、あなたたちの世界の話ですか……?」


 ケイ先輩の目が僅かに揺れた。


 図星。


 アスミは見逃さない。


「あなたたちは見た」


 彼女の声が低くなる。


「十五時を。Core Phaseを。崩れた学園を。だからキョウジは配置を合わせて、あなたはそれを止めようとしている」


 キョウジは否定しない。


 ケイ先輩も否定しない。


「何が起きる」


 僕が聞いた。


 キョウジは紅茶のカップを持ったまま、黒いチョーカーをつけた客を見る。


「選ばれたと思っている人たちが、自分が何に参加していたのか知る」


「デスゲームか」


「死ぬかどうかだけが中心じゃない」


「なら何だ」


「選んだことにされる」


 アスミの指がトレイの縁を強く掴んだ。


 昨日のSafe Phase。


 正解。


 選択。


 参加資格。


 マスターキー。


 参加者は、自分で選んだと思っている。


 だが、選択肢そのものが誘導されていた。


「誰が」


 アスミが聞く。


「何を選んだことにされるの」


「それを今言うと、君は十五時へ行かない」


「行かない方がいいなら、そう言って」


「行かなければ、もっと悪い」


「矛盾してる」


「だから入口を揃えてる」


 キョウジの声は静かだった。


「前は、君がいなかった」


 アスミの呼吸が止まる。


「ふざけないで! 私はいたはず!」


「いた。でも、今の君じゃなかった」


「どういう意味……!?」


「過去を知っていなかった」


 ケイ先輩が立ち上がりかける。


「キョウジ」


「これくらいは必要だろ」


「必要かどうかをお前が決めるな」


「先輩が止め続けた結果、何人死んだと思ってるんですか?」


 空気が変わった。


 ケイ先輩の顔から、僅かな血の気が引く。


 キョウジも言った直後に口を閉じた。


 言いすぎた。


 僕たちには十分だった。


 死んだ。


 前のCore Phaseでは、人が死んだ。


 比喩ではない。


 精神的に壊れたという意味だけでもない。


 キョウジとケイは、その結果を知っている。


 アスミが口を開く。


 その瞬間、店内のスピーカーが短いノイズを吐いた。


 壁面モニターが一度だけ暗転する。


《本日の可愛い観測量:2048 kawaii》


 綺麗すぎる数字。


 同時に、黒い装着物が一斉に光った。


 首。


 手首。


 店内のあちこちで、赤い点が生まれる。


 一つ。


 四つ。


 十。


 二十。


 装着者たちが、同時に動きを止めた。


 笑っていた口が止まる。


 カップを持つ手が止まる。


 写真を撮ろうとしていた指が止まる。


 ほんの一秒。


 いや、二秒。


 それから、何事もなかったように動き出す。


「今の何……?」


 アスミが振り返る。


 ミサキが端末を操作している。


「一斉通信。外部からの同期信号」


「どこから?」


「追ってる」


 チイロもChaos側で笑うのをやめていた。


 トウタが客に気づかれないよう、即座に声を張る。


「はいはーい! 二〇四八突破記念! 二進数的にめでたいので、全員拍手は一回だけ! 一回だけだからね!」


 客が笑う。


 拍手が起こる。


 異常が演出に埋もれる。


 キョウジは黒い装着者たちを見ていた。


「……始まるんじゃないんだよ」


 彼が言う。


「もう始まっているんだ」


 アスミが彼を見る。


「何が……?」


「Core Phaseの前処理」


「端末が?」


「人間が」


 ケイ先輩が立ち上がった。


「『帰る』よキョウジ」


「まだサンドが来てない」


「食ってる場合じゃないでしょ!?」


「前は食べた」


「だから続けるな!」


 ケイ先輩の声が店内へ響いた。


 近くの客が振り返る。


 アスミが即座に接客の表情へ戻る。


「お客様。店内では大声を控えてください」


 ケイ先輩は口を閉じた。


「……ごめん」


 怒鳴ったことを反省しているのではない。


 再現へ新しい要素を加えたことを恐れている。


 僕にはそう見えた。


「キョウジ」


 僕は言った。


「端末は何をしてる」


「分からない」


「嘘だ」


「本当に全部は知らない。前は、黒いものをつけていた人間が、十五時前に少しずつ消えた」


「消えた?」


「信号が」


「人は?」


「いた」


「端末だけ切れた?」


「違う」


 キョウジは少しだけ言葉を選ぶ。


「観測から外れた」


 アスミの目が鋭くなる。


「具体的に」


「周囲が、その人を認識しなくなった。廊下を歩いてる。喋ってる。肩がぶつかる。でも、誰も顔を覚えない。名前を呼ばない。そこにいるのに、人数へ数えられなくなる」


「Core Phaseの参加者選別?」


「たぶん」


「黒い端末が対象者を固定してる?」


「固定じゃない。逆かもしれない」


「観測から切り離す?」


「そう」


 僕は店内を見る。


 笑っている客。


 首元の黒。


 手首の黒。


 まだ彼らは数えられている。


 見えている。


 名前は知らなくても、そこにいると分かる。


 だが、減った時が危ない。


「黒を数えろ」


 キョウジが言った。


「十五時まで」


「数が減ったら?」


「対象者が、祭りの参加者からCore Phaseの内部変数に変わった可能性がある」


 アスミの顔が固まる。


「人間を変数へ落とす前処理」


「前は、そう見えた」


「何人」


「最初は少なかった。昼に増えて、十四時を過ぎた頃から減った」


「最後は」


「分からない」


「何故」


「数えられなくなったから」


 キョウジの答えは静かだった。


 静かだから、内容の悪さがそのまま届く。


 アスミは数秒黙った。


 それから、端末を開く。


「チイロ先輩」


『聞こえてる』


「黒色装着者を全員カウント。入退店、座席、同行者、端末の形状、発光時刻を記録」


『すでにやってる。現在三十二』


「昨日の参加者照合は」


『十一。未照合二十一』


「ミサキ」


『通信波形を追跡中』


「ハザマには」


『入口で照合させる』


 アスミは指示を出し終える。


 キョウジを見る。


「あなたも残って」


「駄目」


 ケイ先輩が即答した。


「キョウジをここに置くと、再現が進む」


「もう進んでいます」


「だから切る」


「どこで」


「私達が帰る」


「それで切れる保証は」


「ない」


「なら残って説明して」


「説明すれば、もっと一致する」


「説明しなければ、私たちは知らないまま十五時へ行く」


「それでも前とは違う」


「何が」


「今のアスミちゃんは、黒を数え始めた」


 ケイ先輩の声は、少しだけ疲れていた。


「前は、気づいた時には減ってた」


 アスミは言葉を失う。


 ケイ先輩は、最後にもう一度バツを作った。


 アスミへ向けて。


「この先は駄目」


「何が駄目なんですか……!?」


「キョウジに、前の十五時を全部言わせること」


「何故……?」


「アスミちゃんは再現を止めるんじゃない」


 ケイ先輩の視線が、アスミを真っ直ぐ捉える。


「知ったら、前より綺麗に再演しようとする」


 その言葉は、アスミの奥深くへ刺さった。


 彼女の顔が、はっきりと強張る。


 否定できない。


 アスミは、構造を知れば対策を作る。


 対策を作るために、同じ状況を再現可能な形へ整える。


 その手順が、結果として再演の完成度を上げることがある。


 ケイ先輩は、それを恐れている。


「私は、誰も死なせないために」


「分かってる」


「なら」


「分かってるから止めてる」


 ケイ先輩はキョウジの肩を掴む。


「行くよ」


 キョウジはまだ紅茶を半分しか飲んでいなかった。


「先輩」


「入口は揃った。十分だ」


「出口の情報が足りない」


「足りないままでいい」


「また失敗する」


「全部知って成功したことがあるの?」


 キョウジは答えなかった。


 二人の間には、僕たちが知らない失敗の数が積み重なっている。


 キョウジは立ち上がる。


 僕の横を通る直前、足を止めた。


「岡崎」


「何だ」


「十五時まで、黒を数えて」


「それは聞いた」


「減った人間を追うな」


「何故だ?」


「追うと、同じ分類へ入る」


「見捨てろっていうのか?」


「違う」


 キョウジの目が、初めて少しだけ苦しそうに揺れた。


「追うなら、名前を呼び続けろ」


「名前?」


「そこにいることを固定する。人数じゃなく、人として」


 僕は答えなかった。


 キョウジはアスミを見る。


「君なら分かるだろ」


 アスミの声は低かった。


「観測圏外へ落とされる前に、固有名で繋ぐ」


「そう」


「前は、誰もやらなかった?」


「気づかなかった」


「あなたも?」


「俺も」


 キョウジはそれだけ言った。


 ケイ先輩に促され、入口へ向かう。


 アスミが一歩追おうとする。


 ケイ先輩が振り返る。


 またバツ。


 今度は、強く。


 その手の下で、口が動いた。


 声は聞こえない。


 けれど、唇はこう動いたように見えた。


 選ぶな。


 あるいは。


 行くな。


 二人は人波の中へ消えた。


 追おうと思えば追えた。


 僕なら追いつける。


 チイロもできる。


 アスミも、メイド服の裾を持ち上げれば走れる。


 でも、誰も追わなかった。


 店内には客がいる。


 紅茶を待っている人がいる。


 笑っている人がいる。


 黒いものを首と手首につけた人がいる。


 キョウジを追うことは、ここから視線を外すことになる。


「ユウマ」


 アスミが呼んだ。


「何」


「今、何人」


 チイロが答える。


『三十二。変化なし』


「全員の名前は取れる?」


『一般客は難しい。整理券情報、注文名、同行者の呼称で可能な範囲まで』


「匿名の人は」


『仮IDを振る?』


「駄目」


 アスミは即答した。


「番号に落としたら、向こうの構造と同じになる」


 彼女は店内を見る。


「本人に名前を聞く。接客の範囲で。呼ばれたい名前でもいい。全員、固有名で保持する」


「不自然じゃないか」


 僕が聞く。


「COE限定ネームタグ企画にする」


 チイロが即座に言った。


『任せて。推し名、ハンドルネーム、黒歴史ネーム、何でもあり。Chaos側から始めて、Orderへ広げる』


「客が嫌がったら」


「無理には聞かない」


 アスミは言う。


「でも、誰かがその人を名前で呼べる状態を作る」


 トウタが、Chaos側でマイクを取った。


「はい注目〜! DAY2限定緊急企画! COE滞在中に呼ばれたい名前をネームカードへどうぞ! 本名じゃなくてOK! 推し名、HN、前世名、まだ使ってない黒歴史名も歓迎!」


 客が笑う。


「何で急に?」


「記念になる!」


「私は“漆黒の堕天使ミカエラ”で!」


「はい、強い! 優勝候補!」


 店員がカードを配る。


 名前が書かれる。


 笑いながら。


 遊びとして。


 でも、その名前は人を数字から引き戻す。


 アスミが考えた。


 チイロが形にした。


 トウタが祭りへ変換した。


 僕は、その流れを見ながら思う。


 これが、僕たちのやり方だ。


 異常を異常のまま告知すれば、群衆は割れる。


 だから、祭りの形で安全手順を通す。


 それは欺瞞かもしれない。


 でも、参加者を知らないまま選別する欺瞞とは違う。


 僕たちは、出口を残すために笑いを使う。


 壁の数字が上がる。


《本日の可愛い観測量:2431 kawaii》


 その下。


 裏モニターにだけ、別の数字が表示される。


《黒色装着者:32》


 名前の照合が進む。


《ミカエラ》

《タカシ》

《ユズ》

《クロ》

《ナナ》

《名無し希望》

《カナデ》

《ソウ》


 仮IDではない。


 本人が選んだ呼ばれ方。


 僕は三番テーブルへ紅茶を運ぶ。


「お待たせしました、ナナさん」


 黒い手首型端末をつけた女子生徒が顔を上げる。


「え、もう覚えたんですか?」


「スタッフだから」


「すごい」


「名前、呼ばれたくなかったら言ってくれ」


「大丈夫です。何か嬉しいです」


 彼女は笑った。


 端末が赤く光る。


 でも、ナナはそこにいる。


 僕が名前を知っている。


 それだけで、少しだけ安心した。


 時計を見る。


 午前九時四十七分。


 十五時まで、五時間以上ある。


 まだ遠い。


 そう思いたい。


 けれど、黒い端末はもう動いている。


 キョウジは配置を確認した。


 ケイ先輩は再現を止めようとした。


 アスミは黒を数え始めた。


 COEの笑い声は、どこかへ送信されている。


 Core Phaseは、十五時に始まるのではない。


 十五時に、表へ出る。


 その前処理は、もう始まっていた。


「ユウマ」


 アスミが隣へ来た。


 黒いロングメイドの裾を少し持ち上げ、客の椅子へ引っかからないようにしている。


「何」


「キョウジを信じる?」


「言葉は信じない」


「じゃあ何を」


「一致した事実」


「事実は?」


「キョウジはCOEの配置を知っていた。黒い装着者を知っていた。ケイ先輩は再現という言葉を知っていた。二人とも前の十五時を見ている可能性が高い」


「もう一つ」


「何」


「ケイ先輩は、私を止めた」


「そうだな」


「あのバツ、十五時へ行くなという意味だと思う?」


「分からない」


「キョウジへ聞くな?」


「それもある」


「再演するな?」


「たぶん全部だ」


 アスミは少しだけ俯く。


「全部を止めるのは無理」


「分かってる」


「十五時には行く」


「分かってる」


「キョウジの話も、必要なら聞く」


「分かってる」


「でも、再演はしない」


 僕は彼女を見る。


「できるか」


 アスミの目が鋭くなる。


「できるかじゃない。やる」


「前の構造を知れば、似た配置を作ることになる」


「それでも、目的が違う」


「目的だけで結果が変わるとは限らない」


「じゃあ、何が必要?」


「選び方を変える」


 口から出た。


 アスミが僕を見る。


「ケイ先輩の口が、最後にそう動いた気がした」


「選ぶな?」


「たぶん」


「何を」


「分からない」


「それじゃ使えない」


「でも、覚えておくことはできる」


 僕は店内を見る。


 黒い装着者。


 名前札。


 笑い声。


 紅茶。


 ChaosとOrder。


「前は、人を人数で見た。参加者。観客。対象者。生存者。脱落者」


「そうだね」


「今回は名前で見る」


「それだけで変わる?」


「分からない」


「非科学的」


「根性よりはましだろ」


 アスミがほんの少しだけ笑った。


「リリ副会長みたいなこと言うね」


「影村から感染したかもな」


「感染は言い方が悪い」


「影響」


「それならいい」


 店内で歓声が上がる。


 可愛いカウンターが跳ねる。


《2800 kawaii》


 裏側の数字は変わらない。


《黒色装着者:32》


 変わらないことに、僕は安心しかける。


 その時。


 数字が一つ減った。


《32 → 31》


 僕の身体が先に動いた。


「誰だ」


 チイロの声がインカムへ飛ぶ。


『照合中! 入口退出はなし!』


「席を確認」


『三十一名は見えてる。欠落一名――待って』


 アスミが店内を見渡す。


「名前」


『リスト上は、カナデ』


「どこにいた」


『Order側、窓際六番』


 僕たちは同時に見る。


 窓際六番。


 テーブルには二人いる。


 黒いチョーカーをつけた男子生徒。


 その向かい。


 女子生徒。


 どちらも座っている。


「二人いる」


 僕が言う。


 チイロの声が止まる。


『……カナデ、どっち?』


 僕は分からなかった。


 数分前まで、名前を確認したはずなのに。


 顔も見た。


 カードも配った。


 なのに、どちらがカナデだったか思い出せない。


 いや。


 二人のうち、片方が急に背景へ沈んで見える。


 視線を合わせようとしても、焦点が隣へ滑る。


 そこにいる。


 でも、脳が人として固定しない。


「カナデさん」


 アスミが叫んだ。


 接客用の声ではない。


 店内の何人かが振り返る。


 窓際の女子生徒が顔を上げた。


「はい?」


 その瞬間、輪郭が戻った。


 髪。


 目。


 表情。


 名前。


 カナデ。


 黒いチョーカーが赤く光っている。


「カナデさん」


 アスミがもう一度呼ぶ。


「体調は」


「え? 大丈夫ですけど」


「首、苦しくない?」


「別に……」


 アスミはゆっくり近づく。


「そのチョーカー、誰からもらいましたか」


「昨日」


「誰に」


「スタッフの人」


「どんな人」


「えっと」


 カナデの表情が曇る。


「分かりません」


「名前は」


「聞いてないです」


「どこで」


「EXIT:CODEのあと。帰る前に。明日の参加証だって」


「外せますか」


 カナデは首へ手を伸ばす。


 留め具を探す。


 指が止まる。


「……あれ」


「どうしました」


「留め具がない」


 店内の空気が僅かに変わった。


 周囲の客はまだ、特別企画だと思っている。


 でも僕たちは違う。


 黒い端末は、もうアクセサリーではない。


 参加証でもない。


 人を祭りの外へ落とすための鍵。


「ミサキ」


 アスミが呼ぶ。


『行く』


 ミサキが専用カッターを持って近づく。


 トウタが即座にChaos側の音量を上げる。


「はいはい! Order側では限定メンテナンスイベント発生中! 皆さんはそのまま紅茶と黒歴史をお楽しみくださーい!」


 チイロがミーム札を掲げる。


《それは仕様ではありません》


 客が笑う。


 笑いの中で、ミサキがカナデの首へ手を伸ばす。


 アスミが名前を呼び続ける。


「カナデさん」


「はい」


「私を見て」


「はい」


「名前を言って」


「カナデです」


「もう一度」


「カナデ」


 僕も言う。


「カナデさん、聞こえるか」


「聞こえます」


 隣の男子生徒が不安そうに彼女を見る。


「カナデ、大丈夫?」


 名前が重なる。


 輪郭が固定される。


 黒いチョーカーの赤い光が、一度強く点滅した。


 そして裏モニターの数字が戻る。


《31 → 32》


 僕は息を吐いた。


 まだ切断していない。


 名前を呼んだだけ。


 それだけで、観測数へ戻った。


 キョウジの言葉は正しかった。


 少なくとも、今は。


 ミサキが留め具のないチョーカーへカッターを差し込む。


「切るよ」


「お願いします」


 乾いた音。


 黒い帯が床へ落ちる。


 赤い光が消える。


 店内では拍手が起きた。


 客は演出だと思っている。


 カナデは首元を押さえながら、少し困ったように笑った。


「何だったんですか、これ」


 アスミはすぐには答えなかった。


 やがて、丁寧な声で言う。


「確認が取れるまで、こちらでお預かりします。十五時のイベントには参加しないでください」


「でも、三億円が」


「参加しないでください」


 アスミの声が強くなる。


 カナデは驚いた顔をする。


「何か危ないんですか」


 アスミは答えかける。


 言葉を選ぶ。


 嘘はつけない。


 全部も言えない。


「安全確認が済んでいません」


 最終的に、そう言った。


「参加証として配られたものに、説明のない機能がありました。少なくとも、今の状態であなたを参加させることはできません」


「でも」


「あなたが選んだことにされる前に、いったん止まってください」


 カナデは意味が分からない顔をした。


 それでも、アスミの表情を見て頷いた。


「……分かりました」


 アスミは小さく息を吐く。


 僕は床へ落ちた黒いチョーカーを見る。


 祭りの音。


 紅茶の香り。


 笑い声。


 その中心に、黒い輪が落ちている。


 檻。


 鍵。


 参加証。


 どの名前でもいい。


 それが人の名前を消そうとした。


 時計を見る。


 午前九時五十八分。


 十五時まで、まだ五時間以上ある。


 けれど、もう一人目が始まった。


 Core Phaseの影は、未来から伸びてきているんじゃない。


 足元にある。


 COEの床に落ちた黒い輪の形で。


「ユウマ」


 アスミが言う。


「営業、続けるよ」


「本気か」


「ここを閉じたら、黒い装着者が散る」


「でも危険だ」


「だから、ここで見る」


「客には」


「退出自由。説明できる範囲は説明する。でもパニックにはしない」


「難しいぞ」


「分かってる」


 アスミは黒いロングメイドの裾を整える。


 トレイを持つ。


 接客へ戻る。


「ここは、私たちのCOEだから」


 僕はその言葉を聞いた。


 さっき自分が考えていたことと同じだった。


 再現されるとしても。


 前の配置が揃ったとしても。


 前と同じ店にはしない。


 名前を呼ぶ。


 退出を残す。


 安全を演出ではなく手順にする。


 それがどれほど小さな違いでも。


 小さな違いを積み重ねる以外に、未来を変える方法はない。


 僕は床のチョーカーを回収袋へ入れた。


「了解」


 アスミが振り返る。


「三番テーブル、追加のスコーン」


「僕が?」


「給仕担当でしょ」


「いつから」


「水を持っていった時から」


「一時的な接触手順じゃなかったのか」


「配置が固定されたから」


「嫌な言い方するな」


「早く」


「はいはい」


 僕はスコーンを載せたトレイを持つ。


 店内を歩く。


 名前札を見る。


 ミカエラ。


 ナナ。


 カナデ。


 タカシ。


 ユズ。


 クロ。


 ソウ。


 番号ではない。


 参加者でもない。


 客。


 人間。


 誰かが呼べる名前。


 壁の数字が上がる。


《本日の可愛い観測量:3120 kawaii》


 その下。


《黒色装着者:31》


 カナデの分が減った。


 今度の減少は、消失ではない。


 切断した結果。


 人間へ戻した数字。


 同じ一の減少でも、意味は違う。


 意味を変える。


 それが僕たちにできる唯一の改変かもしれない。


 午前十時。


 講堂側から、盤上干渉戦本戦開始のアナウンスが聞こえた。


 歓声が遠くで上がる。


 COEの客も反応する。


 店内の熱がさらに高まる。


 その熱の中で、僕はもう一度時計を見る。


 十五時まで、五時間。


 祭りは最高潮へ向かっている。


 その下で、Core Phaseもまた完成へ向かっている。


 キョウジは入口を揃えた。


 ケイ先輩は、その先へ進むなとバツを作った。


 アスミは前を知った上で、違う手順を書き始めた。


 チイロは人間を番号へ落とさず、名前を祭りへ混ぜた。


 僕は、黒い数を追う。


 どこまで話す。


 どこまで接触する。


 どこまで前を知る。


 答えはまだない。


 けれど、一つだけ決めた。


 十五時に誰かの名前が消えるなら。


 僕は呼ぶ。


 何度でも。


 それが再演を壊すのか。


 逆に完成させるのか。


 まだ分からない。


 それでも、名前を呼ばずに人を失うよりはいい。


 COEの笑い声が、天城の廊下へ溢れていく。


 黒いメイドたちが紅茶を運ぶ。


 客は写真を撮り、ミーム札を掲げ、スコーンを割る。


 誰もが、今日を学園祭だと思っている。


 それでいい。


 まだ、そう思っていていい。


 ただし僕たちは知っている。


 十五時の影は、もう店内にいる。


 黒い首輪をつけ。


 客席に座り。


 紅茶の湯気の向こうから。


 僕たちがいつ名前を忘れるのかを、静かに待っている。


 記録上、Cafe of Entropyの午前営業は、このあとも継続された。


 黒い装着者の確認。


 呼称の登録。


 端末の切断。


 通信波形の解析。


 十五時のCore Phaseへ向けた人員配置。


 僕たちは接客を続けながら、その全部を同時に進めた。


 正直に言えば、喫茶店の業務としては完全に破綻していたと思う。


 紅茶を運ぶ人間が客の観測状態を確認し、厨房が通信異常を監視し、Chaos側のミーム企画が生存確認の手順へ変わり、名前札が個人識別用のアンカーとして扱われていた。


 それでも、客の多くは最後まで笑っていた。


 自分たちが書いた名前札を見せ合い、妙な呼び名をつけ、写真を撮り、スコーンを食べていた。


 その光景を思い出すたび、僕は考える。


 僕たちは彼らを騙していたのか。


 危険の全てを伝えず、異常を企画へ見せかけ、笑いの中へ安全手順を混ぜた。


 それは、参加者へ選択肢を与えたように見せながら、最初から出口を奪っていたEXIT:CODEと、何が違うのか。


 僕には、完全な答えは出せない。


 ただ、違いがあるとすれば、僕たちは退出を止めなかった。


 名前を強制しなかった。


 黒い装着物を外すかどうかを、本人へ確認した。


 説明できないことを、説明できるふりはしなかった。


 不完全でも、選べる余地を残そうとした。


 その違いが小さすぎると言われれば、否定はできない。


 けれど、世界線を変えるものは、いつも大きな決断だけではない。


 呼び方。


 立ち位置。


 一度だけ止めた足。


 追わなかった背中。


 外した首輪。


 名前を呼んだ声。


 そういう小さな差が積み重なり、前回と今回の間へ、わずかな隙間を作る。


 キョウジは、入口を揃えなければ出口は変えられないと言った。


 ケイ先輩は、入口を揃えれば同じ結末へ引かれると警告した。


 どちらが正しかったのかは、まだ判断できない。


 おそらく、二人とも正しかった。


 再現しなければ見えないものがある。


 再現したことで逃げられなくなるものもある。


 僕たちは、その矛盾の間を歩いた。


 アスミは、前の構造を知った上で違う手順を書こうとした。


 チイロは、人間を識別番号へ落とさないために名前を祭りへ混ぜた。


 ミサキは、説明のない装置を迷わず切断した。


 トウタは、恐怖が群衆へ伝播する前に、それを笑いへ変えた。


 僕は黒い数を追いながら、数字が減った時に誰が消えたのかを探した。


 その結果、カナデは戻った。


 少なくとも、あの時は。


 一人を取り戻しただけだと言うこともできる。


 一人しか取り戻せなかったと言うこともできる。


 けれど、その一人には名前があった。


 カナデ。


 彼女が僕たちの呼びかけへ答えた時、黒い装着者の数は三十一から三十二へ戻った。


 数字だけを見れば、一が増えただけだ。


 でも、あれは数の回復ではない。


 人間の回復だった。


 だから僕は、この記録の中で彼女を対象者一名とは書かない。


 黒色装着者三十二番とも書かない。


 カナデと書く。


 それが、この記録を残す意味だと思っている。


 このあと、時計は十五時へ進む。


 Core Phaseは表へ出る。


 僕たちは、それぞれの場所で選択を迫られる。


 誰を信じるか。


 誰を止めるか。


 誰を追うか。


 誰の名前を呼ぶか。


 あの時の僕には、正しい答えなんてなかった。


 今の僕にもない。


 ただ、記録者として一つだけ訂正しておきたいことがある。


 あの日、COEにいた人間は、Core Phaseの内部変数ではない。


 参加者でも、候補者でも、観測対象でもない。


 ミカエラ。


 タカシ。


 ユズ。


 クロ。


 ナナ。


 カナデ。


 ソウ。


 名前を書かなかった人にも、当然名前がある。


 僕たちが知らなかっただけだ。


 知らなかったことと、存在しなかったことは同じではない。


 黒い首輪がどれほど巧妙に人間を祭りの外へ落とそうとしても、その事実だけは変わらない。


 だから、僕は書く。


 忘れないために。


 人数ではなく、一人ずついたことを残すために。


 午前十時。


 十五時まで、あと五時間。


 Cafe of Entropyは営業を続けていた。


 紅茶の湯気が立ち、笑い声が溢れ、黒い首輪が赤く瞬いていた。


 そして僕たちは、その一つ一つへ名前を与え始めていた。


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