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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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212/216

EP217. 影村DAY2――まだ誰も見たことのない同期

 影村学園の朝は、静かだった。


 ただ静かなだけではない。


 音がないのではなく、音が沈んでいく。生徒たちの笑い声も、足音も、マイクチェックの声も、この学園では一度、校舎の奥へ吸い込まれる。


 私はその性質を、昔から観測に向いていると思っていた。


 今日は双灯祭二日目。


 天城では、きっと明るい声が響いている。二階堂会長が王冠を光らせ、岡崎先輩たちは十五時を越えるための手順を握っている。


 では、影村はどうするのか。


 答えは単純だ。


 影村は、影村のやり方で十五時を迎える。


 生徒たちには、まだ学園祭でいい。


 楽しい余興でいい。


 新しい同期企画でいい。


 けれど、その裏側にはもう、地上と空を走る数千の目が配置されている。


 リリ副会長は、それをデスゲームの骨格だと言った。


 私は否定しなかった。


 否定すれば嘘になるからだ。


 影村学園の朝は、天城よりも少しだけ静かだ。


 校舎の構造の問題ではない。廊下の広さでも、掲示物の色でも、生徒数でも、放送設備の音量でもない。


 影村という場所には、昔から、音を吸う癖がある。


 足音が床に落ちる。


 笑い声が中庭へ跳ねる。


 放送委員のマイクチェックが、朝の空気を細く震わせる。


 けれど、それらは長く残らない。


 校舎そのものが、生徒たちの声を一度受け取り、分類し、意味の薄いものから順に沈めているように。


 私は、その静けさが嫌いではない。


 騒がしい場所では、人は自分の選択を群れの熱に預けてしまう。笑ったのか、笑わされたのか。進んだのか、押されたのか。期待したのか、期待しているふりをしたのか。その境界が曖昧になる。


 けれど、静かな場所では違う。


 呼吸の乱れが見える。


 靴底の迷いが見える。


 言葉を発する前の舌の動きが見える。


 だから影村は、観測に向いている。


 そして今日は、双灯祭二日目。


 観測に向いた学園が、観測される側へ回る日でもあった。


 講堂横の控えスペースで、私は壇上へ出る時刻を待っていた。


 壁際の進行表には、朝から夕方までの予定が整然と並んでいる。


《08:30 影村学園 DAY2 再開セレモニー》

《10:00 盤上干渉戦 本戦》

《15:00 Dual Lumen Sync Session × EXIT:CODE Core Phase》


 十五時の行だけ、太い。


 誰がそう設定したのかは知らない。


 けれど、悪くない。


 重要なものは、重要に見えた方がいい。


 隠すべき情報と、見せてよい情報は違う。十五時が特別であること自体は、隠す必要がない。


 ただし、何が特別なのかは、まだ誰も知らなくていい。


「シオン」


 背後から、少しかすれた声がした。


 振り返ると、玖条リリ副会長が立っていた。


 制服は整っている。髪も結ばれている。背筋も伸ばしている。


 けれど身体は嘘をつかない。


 肩の可動域が浅い。呼吸の一回量が少ない。肋骨を庇うために、右側への重心移動が遅れる。顔色は朝の光を受けてもまだ白く、唇の血色も完全には戻っていない。


 歩いてここまで来るべき状態ではない。


「リリ副会長」


 私は彼女の足元から視線を上げた。


「控室で待機していてくださいと伝えたはずです」


「聞いた」


「では、なぜここに?」


「聞いたことと、従うことは別」


「それは詭弁です」


「シオンにだけは言われたくない」


 リリ副会長は短く息を吸った。胸がわずかに引きつる。痛みがある。深呼吸ができていない。肺そのものというより、肋骨と胸膜周辺の痛みが呼吸を浅くしている。


 私は一歩近づいた。


「酸素飽和度は測りましたか?」


「測ってない」


「測ってください」


「今はいい」


「よくありません。あなたはエアロック後の回復期です。心肺停止から蘇生した身体で通常業務へ復帰する速度としては異常です」


「そんなこと、分かってる」


「分かっているなら」


「でも今日は立つ」


 その言葉だけ、明らかに強かった。


 恐怖と責任と怒りが同時に立ち上がっている。こういう時の人間は、痛覚を遅延処理に回す。危険だ。けれど、観測価値は高い。


「今日の十五時を見張るためですか?」


 私が言うと、リリ副会長は私を睨んだ。


「見張るだけじゃない。止めるため」


「私を?」


「そう」


 即答。


 良い反応だった。


 彼女はまだ私を恐れている。エアロックの記憶は消えていない。肺の内部で真空の残響が鳴っているはずだ。あのカウント。あの圧力低下。喉の奥で息が音にならなくなる感覚。心拍の乱れ。肋骨を押し返す蘇生の圧。


 それでも、ここに立っている。


 止めたいという意思が、恐怖を上回っている。


 綺麗な壊れ方ではない。


 でも、人間的だ。


「止めたいなら、まず倒れないでください」


「倒れない」


「根拠は?」


「根性」


「非科学的です」


「今日はそれでいい」


 リリ副会長の声には、昨日までよりも粗い熱が混じっていた。


 私はその熱を、少しだけ眩しいと思った。


 眩しいものは観測しにくい。


 目を細める必要がある。


「シオン」


「はい」


「今朝の変更案、撤回したって聞いた」


「主要項目は撤回しました」


「主要項目は、ね」


「完全な撤回ではありません。観客AIフィードバックは背景演出レベルで残します。選択肢反応ログも匿名化を強めた上で実施します。同期開始閾値はDAY1基準へ戻しました」


「そういう細かい言い方をする時は、だいたい何か残してる」


「残しています」


 隠す意味はない。


 リリ副会長の表情が固くなる。


「何を……?」


「問いです」


「問い?」


「誰が、最後に選ぶのか」


 リリ副会長の目が変わった。


「……何それ」


「今回は仕様から削除しました。けれど、Core Phase終盤で選択が分散した場合、誰かが分岐を閉じる必要があります。中止にするのが天城側の再固定条件です。しかし、分散したまま終わった場合、参加者は“自分たちは何を選んだのか”を持ち帰れません」


「持ち帰らなくていい」


「そうでしょうか?」


「いいに決まってるでしょ。怖くなったら帰ればいい。迷ったら止めればいい。選べなかった人に、選んだことを押し付ける必要なんてない」


「理想です」


「違う。最低限」


 強い。


 だが、その強さは身体に負荷をかける。


 リリ副会長の呼吸が、また浅くなる。


「リリ副会長。身体を」


「話を逸らさないで」


「逸らしていません。あなたの身体状態は、今日の停止判断に直結します」


「停止判断なら今してる。嫌な予感がする」


「予感ですか?」


「そう」


「非定量的です」


「でも当たる」


 リリ副会長は進行表を見た。


 十五時。


 太字の十五時。


 その下には、まだ彼女が見ていない詳細項目がある。


 私は端末を操作し、内部用の資料を開いた。


《Core Phase 内部補助構造》

《参加者群:複数ルート分散》

《選択分岐:協調/放棄/救助/停滞》

《観客AI:反応生成》

《退出導線:開放維持》

《通信:混線防止のため影村内部帯域を優先》

《補助監視:地上・飛行ドローン群》


 リリ副会長は、最初は黙って読んでいた。


 そして、途中で表情が変わった。


「……待って」


 声が低い。


「参加者群を、複数ルートに分けるの?」


「はい」


「協調、放棄、救助、停滞って……これ、選択肢じゃない。人間の行動分類でしょ?」


「行動分類を演出上の選択肢に変換します」


「変換しないで」


「直接表示はしません」


「表示するかどうかじゃない!」


 リリ副会長が声を荒げた。


 その瞬間、咳が出る。浅い咳。胸を押さえる手。痛み。


 それでも彼女は続けた。


「これ、デスゲームの骨格そのものじゃない」


 控えスペースの空気が止まった。


 その言葉は、誰も口にしていなかった。


 デスゲーム。


 祭りの皮をかぶった選別。


 参加者を分け、行動を分類し、迷いを記録し、救助と放棄を演出へ変換する。


 殺さなければいい、という問題ではない。


 死を使わなくても、人は選別できる。


 リリ副会長は、それに気づいた。


「シオン」


「はい」


「これ、誰かを死なせるつもりはないんだよね?」


「ありません」


「でも、誰かに“死ぬかもしれない”と思わせるつもりはある」


「恐怖演出はあります」


「言い方」


「参加者の安全は保証します」


「違う。保証してるのは身体だけでしょ。心は?」


「心は完全には保証できません」


「なら駄目じゃない!」


「完全保証できるイベントは存在しません」


「屁理屈!」


 リリ副会長は端末を掴んだ。


 手が震えている。


 それは怒りだけではない。


 絶望だ。


 彼女の脳内で、エアロックの記憶と、十五時の資料が重なっている。


 閉じ込められること。


 呼吸が浅くなること。


 選べないこと。


 誰かの観測対象になること。


 そして、それを「必要」と呼ばれること。


「……アスミに連絡する」


 リリ副会長は自分のスマホを取り出した。


 私は止めなかった。


 止めない方がいい。止めれば、彼女の恐怖は確信に変わる。


 リリ副会長は画面を操作する。


 しかし、発信音は鳴らなかった。


 画面の右上。


 圏外。


 リリ副会長の指が止まる。


「はぁ?……何これ」


 もう一度、操作する。


 駄目。


 メッセージアプリも開かない。


 通信状態は、影村内部ネットワークへの接続に強制的に切り替わっている。外部回線は一時的に制限。混線防止。広報記録アップロード優先。安全監視帯域確保。


 名目はいくらでも用意できる。


 だが、体感は一つだ。


 外へ繋がらない。


「……シオン」


 リリ副会長の声が変わった。


「私のスマホ、繋がらない」


「影村内部帯域が優先されています。開幕直後は通信負荷が高いので」


「嘘」


「完全な嘘ではありません」


「最悪の返し」


 リリ副会長は私を睨んだ。


「外部連絡を切ったの?」


「切ってはいません。制限しています」


「同じ!」


「違います。緊急連絡は運営端末から可能です」


「私のスマホでは?」


「一時的に不安定です」


「アスミに繋がらない」


 その一言だけ、声が少し崩れた。


 私はその崩れ方を見た。


 リリ副会長は、アスミ先輩をロープにしていた。


 そのロープが、今、手の中で切れた。


 少なくとも彼女にはそう感じられた。


「リリ副会長。必要なら、影村運営端末から天城側へ接続します」


「今すぐ」


「セレモニー後に」


「今すぐ!」


「もうすぐ登壇です」


「登壇なんてどうでもいい!」


「どうでもよくありません。今ここでセレモニーが乱れれば、参加者全体の不安が上がります。十五時前に余計な恐怖を作るべきではありません」


「誰のせいで不安になってると思ってるの!」


 リリ副会長が詰め寄った瞬間、また胸を押さえる。


 私は今度こそ、手を伸ばしかけた。


 しかし触れなかった。


 拒絶されると分かっていたからだ。


 その時、控えスペースの反対側から慌ただしい足音が近づいてきた。


「シオン会長!」


 黒沼カイトくんだった。


 髪は乱れ、目の下には濃いクマ。だが、昨日まで廃材置き場で体育座りしていた時の沈黙はない。


 工具の代わりに複数の端末を抱えている。肩から下げたバッグには小型バッテリーと制御ユニット。首にはスタッフパス。指先には機械油の薄い黒。


 壊れた怪異設計者。


 再起動している。


「配置、完了したっス!」


「何の配置」


 リリ副会長の声が鋭くなる。


 カイトくんは、そこで初めて彼女の表情に気づき、姿勢を少し正した。


「あっ、リリ先輩。えっと、体、大丈夫っスか?」


「大丈夫じゃない。でも立ってる。それより、何の配置?」


 カイトくんは私を見た。


 確認を求める視線。


 隠すか、開示するか。


 答えは決まっている。


 今のリリ副会長に隠すと、彼女は壊れる。


「説明してください」


「了解っス」


 カイトくんは端末を開き、影村学園全域の簡易マップを表示した。


 そこには、無数の点があった。


 空中を示す青い点。


 地上を示す白い点。


 建物内の廊下を這う小さな黄色の点。


 校門付近、旧校舎側、講堂上空、中庭周辺、天城接続ライン、EXIT:CODE会場外周、非常導線。


 点、点、点。


 それは配置図というより、包囲図に見えた。


「影村学園校内外周、講堂上空、旧校舎側、中央導線、天城接続ライン、EXIT:CODE会場周辺、地下搬入口、屋上設備ラインに、地上ドローンと飛行ドローンを配置したっス」


「なんですって? 数は……?」


 リリ副会長が聞いた。


 カイトくんは一瞬だけ誇らしげに笑った。


「総数、二千八百六十機っス。飛行型が八百二十。地上走行型が千七百。壁面・天井吸着型が三百四十。予備が別ラインで二百」


 リリ副会長の顔から血の気が引いた。


「……二千八百六十?」


「はいっス」


「学園祭で?」


「はいっス」


「まるで戦争でも始めるの?」


 その言葉で、カイトくんの笑顔が固まった。


 私はマップを見た。


 確かに、戦争という比喩は近い。


 制圧ではない。


 だが、監視と封鎖と誘導の密度は戦術に近い。


 人流を読む。


 滞留を検知する。


 異常挙動を拾う。


 逃げ道を開ける。


 あるいは、閉じることもできる。


 道具は使い方で変わる。


 救助にも、選別にも。


「リリ副会長」


 私は言った。


「これは安全監視用です」


「今の配置図を見て、その言葉を信じろって?」


「信じる必要はありません。監視してください」


「私のスマホは繋がらない」


「運営端末を貸します」


「今すぐアスミに繋いで!」


「セレモニー後です」


「またそれ!」


 リリ副会長の声が震える。


 今度は怒りより絶望に近い。


「シオン、これ……本当に、デスゲームじゃないんだよね?」


「死者は出しません」


「答えになってない」


「身体的安全は担保します」


「答えになってない!」


 リリ副会長はカイトくんを見た。


「カイト。これ、安全に使うんだよね」


「使うっス」


「本当に?」


「本当に。俺は、今度は喰わせるんじゃなくて、逃がすために使うつもりっスから」


「“つもり”じゃ困る」


「あ、はい。使うっス。安全側に」


「演出強化には?」


「使わないっス」


「シオンが命令しても?」


 カイトくんの喉が動いた。


 その一瞬を、リリ副会長は見逃さなかった。


「今、迷った」


「いや、その……」


「迷った!」


 リリ副会長はふらつきながら一歩近づいた。


「あなたたち、本当に分かってる? 人を見て、追って、囲んで、分類して、選ばせて、それを“安全”って呼んだら、もう戻れないんだよ」


 カイトくんは黙った。


 私も黙った。


 リリ副会長の言葉は正確ではない。


 けれど、核心に近い。


 戻れない。


 不可逆。


 人間は、一度自分が観測対象だと知ると、観測される前の自分には戻れない。


 そこにこそ価値がある。


 そこにこそ危険がある。


「カイトくん」


 私は言った。


「ドローン群は、安全監視に限定します。演出同期には接続しません。リリ副会長の許可なく、参加者の進行方向へ物理干渉もしません」


 カイトくんはすぐに頷いた。


「了解っス」


 リリ副会長が私を見る。


「言質取ったから」


「記録してください」


「スマホが使えない」


「運営端末で記録できます」


「そういう問題じゃない!」


 リリ副会長の指がスマホを握りしめる。


 画面は圏外のまま。


 彼女は、もう一度だけアスミ先輩の名前をタップした。


 繋がらない。


 小さな失敗音。


 リリ副会長の顔が歪む。


 絶望というのは、泣き叫ぶ形だけではない。


 通信が切れた画面を見つめたまま、呼吸の仕方を一瞬忘れる。


 そういう形もある。


「リリ副会長」


「……アスミに繋げて」


「セレモニー後に必ず」


「必ず?」


「はい」


「実行して」


「実行します」


 彼女はしばらく私を見ていた。


 疑っている。


 怒っている。


 怖がっている。


 それでも、今は倒れないことを選んだ。


「……分かった。セレモニー後、すぐ」


「はい」


 進行スタッフが近づいてきた。


「御影会長、そろそろ壇上へお願いします」


「分かりました」


 私は返事をして、壇上へ続く階段を見る。


 リリ副会長が背後に立つ。


 カイトくんは端末を抱え、少し後ろで控える。


 この配置は悪くない。


 私の背後には、私を止めたい副会長。


 その手には、外へ繋がらないスマホ。


 さらに後ろには、数千の怪異の目を再配置した少年。


 前方には、影村学園の生徒たち。


 彼らはまだ、今日の十五時が何を意味するのか知らない。


 知らないまま、笑っている。


 笑い声は校庭の朝に溶けている。


 双灯祭二日目。


 学園祭としては、理想的な朝だ。


 私は壇上へ出た。


 拍手が起こる。


 影村学園の生徒たちは、私を生徒会長として見ている。


 異物。


 天才。


 冷たい人。


 少し怖い人。


 けれど、学園をまとめる人。


 その程度のラベルだろう。


 ラベルは便利だ。


 対象を深く理解しなくても、名前を貼れば安心できる。人間は複雑なものを怖がる。だから、複雑なものに単純な名前を与える。


 私は壇上のマイクの前に立った。


 視線が集まる。


 ひよりさんとメイさんの姿が、前方の列の少し横に見えた。


 綾白ひよりさんは、こちらを静かに見ている。柔らかい顔をしているのに、瞳の奥は同期の波形を見ている人間の目をしている。夕咲メイさんは緊張気味に背筋を伸ばし、ひよりさんの隣で小さく手を握っていた。


 私は息を吸う。


 言葉は、短すぎても長すぎてもいけない。


 生徒たちには祝辞として届き、関係者には宣言として刺さり、天城へは暗号化された挑発として届く密度が望ましい。


 難しくはない。


 私は、そういう言葉を作るために育てられた。


「皆さん」


 マイクが私の声を拾う。


 講堂前のざわめきが少しずつ静まる。


「おはようございます。影村学園生徒会長、御影シオンです」


 いつもの挨拶。


 丁寧に、平坦に。


「双灯祭DAY2へようこそ。昨日のDAY1では、多くの企画が無事に終わりました。予想外の盛り上がりも、予定外の混雑も、少しの混乱もありましたが、それらすべてを含めて、学園祭らしい一日だったと思います」


 生徒たちの間に笑いが起きる。


 昨日の混雑や騒動を思い出しているのだろう。


 私は続ける。


「影村は、昔から少し変わった学園です。記録すること、観測すること、見えないものを形にすること。そういう性質が、この場所にはあります」


 教師の一人が頷く。


 生徒の何人かが、また会長の難しい話が始まった、という顔をする。


 それでいい。


「歴史というものは、不思議です。毎年同じように積み重なっていくものに見えて、ある一日を境に、それまでの意味がまったく違って見えることがあります」


 背後で、リリ副会長の気配が強くなる。


 聞いている。


「昨日まで、ただの廊下だった場所が、今日から誰かの思い出になる。昨日まで、ただの教室だった場所が、今日から誰かにとって特別な場所になる。昨日まで、ただの恐怖だったものが、今日、誰かの勇気へ変わることもある」


 私は一拍置く。


 生徒たちは、良い話として聞いている。


 リリ副会長は、違う意味で聞いている。


 カイトくんも、端末を抱えたまま動かない。


「双灯祭は、本来、火を分け合う儀式だと聞いています。火は分けても減りません。むしろ、二つになれば、照らせる場所が増えます」


 天城と影村。


 二つの灯り。


 扱いやすい比喩だ。


「けれど、光が増えれば、影もまた濃くなります」


 場の空気が少し変わる。


 ほんの少し。


 怖がらせるほどではない。


 けれど、聞き流せない程度には。


「私は、その影を悪いものだとは思いません。影があるから、私たちは自分の立っている場所を知ることができます。暗さがあるから、灯りの意味を測ることができます」


 メイさんが、少しだけ首を傾げた。


 ひよりさんはまっすぐ見ている。


「本日、双灯祭二日目。影村学園は、天城総合学園と共に、まだ誰も見たことのない同期を迎えます」


 ざわめき。


 生徒たちは、演出の話だと思う。


 新しい共同企画。


 十五時の目玉イベント。


 そう理解する。


 それでいい。


「それは、怖いものではありません」


 嘘ではない。


 怖いものにするかどうかは、観測者の解釈と、設計者の手つき次第だ。


「けれど、何も変わらないものでもありません」


 これも事実。


「昨日の続きとして、ただ今日があるのではなく。今日の終わりから振り返った時、昨日の意味まで変わって見える。そういう一日になるかもしれません」


 前列の生徒たちが、期待した顔をする。


 期待は恐怖と隣接している。


 過剰になれば危険だが、適切なら推進力になる。


「皆さんにお願いがあります」


 私は、声を少し柔らかくする。


「楽しんでください。迷ったら、近くのスタッフに声をかけてください。疲れたら休んでください。怖いと思ったら、無理をしないでください。学園祭は、誰かが最後まで耐えたことを褒める場所ではありません。自分の足で帰れることを、何より大切にする場所です」


 天城側の言葉に寄せた。


 物語より退出。


 演出より呼吸。


 観測より生存。


 感情的ではあるが、運営用語としては悪くない。


 使えるものは使う。


「私たちは、今日という一日を、よい記録にします。誰か一人のための物語ではなく、ここにいる全員が、あとで思い出せる一日にします」


 ひよりさんが、微かに表情を緩めた。


 思い出という言葉を、良い意味で受け取ったのだろう。


 それでいい。


 彼女には、その役割がある。


「十五時」


 私は、あえて時刻を口にした。


 会場の空気が、ほんのわずかに集中する。


「天城と影村の灯りが、もう一度重なります。その時、この学園は、まだ誰も見たことのない景色を見るでしょう」


 ざわめきが大きくなる。


 期待。


 好奇心。


 少しの不安。


 美しい混合比だ。


「どうか、その瞬間を楽しみにしていてください」


 私は微笑む。


「双灯祭DAY2、開幕です」


 拍手。


 歓声。


 放送委員の音楽が流れ始める。


 壇上から見る生徒たちは、明るい。


 彼らの多くは、今日をただの学園祭として終えるだろう。それが最も望ましい。何も知らないまま、少し楽しかった、少し怖かった、でも面白かった、という記憶を持ち帰る。


 けれど一部の人間にとって、今日は違う。


 アスミ先輩。


 岡崎先輩。


 雲越先輩。


 リリ副会長。


 カイトくん。


 ひよりさん。


 メイさん。


 藤堂コウ副会長。


 それぞれの位置から、十五時へ向かっている。


 私は壇上を降りた。


 舞台袖に戻ると、リリ副会長が待っていた。


 顔色が悪い。


 呼吸が浅い。


 それなのに、目だけが燃えている。


「シオン」


「はい」


「あの挨拶」


「どうでしたか」


「余興に聞こえるように言ってた」


「はい」


「でも、余興じゃない」


「完全には」


「今日、何をするつもり?」


 私は少し考える。


 彼女にどこまで告げるべきか。


 全部言えば、彼女は止めようとする。


 一部だけ言えば、彼女は疑い続ける。


 どちらにしても、リリ副会長は止めにくる。


 なら、言葉の量は彼女の身体負荷に合わせるべきだ。


「十五時の同期を、予定通り行います」


「それだけ?」


「それ以上は、現時点では未確定です」


「未確定じゃなくて、言わないだけでしょ?」


「はい」


「認めるんだ」


「嘘は効率が悪いので」


 リリ副会長は私へ詰め寄ろうとして、胸の痛みに顔を歪めた。


 私は一歩近づく。


「座ってください」


「嫌」


「痛みが出ています」


「そんなことより」


「そんなことではありません」


 私は少しだけ声を強めた。


「リリ副会長。あなたの身体は、まだ通常運用に戻っていません。今日あなたが倒れた場合、影村側の監視線が一つ欠落します。私を止めたいなら、まずあなたが持続してください」


 リリ副会長は唇を噛む。


「……今日は、必ず無事に終わらせるから」


「はい」


「シオンが何を考えてても。藤堂コウが何を仕込んでても。カイトが数千機のドローンを飛ばしてても。十五時に誰かが怖がったら、止める」


 カイトくんが横から顔を出す。


「リリ先輩、数千機って言うと物騒っスけど、安全監視っスよ?」


「物騒だから言ってるの!」


「うっ……」


「戦争みたいな配置をしておいて、学園祭ですって顔をしないで!」


 カイトくんは黙った。


 その沈黙に、ひよりさんとメイさんが近づいてきた。


「御影会長」


 声がした。


 振り返ると、綾白ひよりさんと夕咲メイさんが立っていた。


 ひよりさんは両手で資料端末を抱えている。表情は柔らかいが、瞳は少し緊張している。


 メイさんはその横で、こちらとリリ副会長を交互に見ていた。


「綾白さん、夕咲さん」


 私は会釈する。


「おはようございます」


「おはようございます」


 ひよりさんは丁寧に頭を下げた。


「十五時の同期準備、影村側の調整は完了しています。天城側との接続確認も、直前にもう一度行います」


「ありがとうございます」


「今日の同期は」


 ひよりさんは、一度だけ言葉を選ぶように目を伏せた。


「素晴らしいものにしますから……!」


 その言葉は、強かった。


 怖いものではなく。


 罠でもなく。


 思い出になるような同期。


 彼女は、そう信じている。


 その信念は利用できる。


 けれど、壊したくないとも少し思う。


 不思議だ。


「……期待しています」


 私は言った。


「綾白さんの同期感度は、今回のDual Lumenにとって重要です。怖さではなく、接続そのものの美しさを、参加者に伝えてください」


「はい」


 ひよりさんは頷く。


 メイさんが少し前に出た。


「御影会長。私も、十五時前の影村側の導線を見ますね?変な文言とか、スタッフの配置変更があったら、ひよりと一緒に確認します」


「お願いします、夕咲さん」


 メイさんは少し緊張した顔で頷いた。


 彼女はまだ、構造の全体を知らない。


 知らなくていい。


 でも、違和感を見つける能力はある。素直な人間の違和感は、時に訓練された観測者より早い。


 リリ副会長が、ひよりさんを見た。


「綾白さん」


「はい」


「十五時に、もし誰かが怖がったら、同期より退出を優先して……」


「……分かっています」


 ひよりさんは迷わず答えた。


「でも、怖さだけにしないようにします」


「どういう意味?」


「怖いから逃げる、だけじゃなくて。怖くても戻れる、怖くなったら手を伸ばせる、そういう同期にしたいんです。天城と影村が繋がるなら、逃げ道も一緒に繋がっていてほしいから」


 私はひよりさんを見る。


 なるほど。


 彼女は、そういう表現をする。


 同期を、閉じ込めるものではなく、戻れるものとして考える。


 これは岡崎先輩が柔らかい声になるのも理解できる。


 リリ副会長が、小さく息を吐いた。


「……なら、お願い」


「はい」


 ひよりさんは頷く。


 カイトくんが少しだけテンションを上げた。


「なんか、マジで今日すごくなりそうっスね。ドローンも同期も、全部噛み合ったら、影村史上最大のイベントっスよ」


「カイト」


 リリ副会長が睨む。


「すごくする前に、安全にする」


「はいっス!」


 カイトくんは即座に姿勢を正す。


 その単純さは危うい。


 でも、今日は少しだけ救いにもなる。


 私は控えスペースの外へ視線を向けた。


 セレモニーを終えた生徒たちは、各企画へ散っていく。


 足音が増える。


 笑い声が戻る。


 影村学園の静かな空気が、少しだけ熱を帯び始めている。


 十五時まで、まだ時間はある。


 けれど、猶予はない。


 天城では、NOXと二階堂会長が再固定条件を握っている。


 影村では、リリ副会長が私を見ている。


 カイトくんのドローン群は校内へ展開する。


 ひよりさんとメイさんは、同期を思い出にしようとしている。


 藤堂コウ副会長は、まだ表に出ていない。


 そしてアスミ先輩は、きっと怒っている。


 それでいい。


 怒りは、干渉の前段階だ。


 観測者が観測をやめる瞬間。


 私は、それを見たい。


 ただし、今日は条件が増えた。


 リリ副会長を倒さない。


 外部通信遮断を長引かせすぎない。


 カイトくんの視点を安全側に縛る。


 ひよりさんの同期を壊しすぎない。


 メイさんの違和感を拾う。


 アスミ先輩の怒りを、十五時まで維持する。


 難しい。


 けれど、複雑なものほど美しい。


「リリ副会長」


「何よ」


「一度座ってください」


「またそれ?」


「はい。あなたが倒れると、今日の構造が崩れます」


「私の身体を構造扱いしない」


「では言い換えます。あなたが必要です」


 その言葉を口にした瞬間、リリ副会長の顔が少し強張った。


 必要。


 彼女が危険語として登録している言葉。


 私はすぐに訂正する。


「今の言葉は不適切でした」


「珍しいね。シオンが自分で訂正するなんて」


「学習しました」


「誰から?」


「あなたからです」


 リリ副会長は、少しだけ目を逸らした。


「なら、座る。五分だけ」


「十分は座ってください」


「嫌よ、五分」


「では、七分」


「……七分」


「合意です」


 カイトくんが小声で言った。


「交渉成立っスね」


 メイさんが少し笑う。


 ひよりさんも、わずかに表情を緩める。


 それを見て、私は思う。


 まだ、影村は壊れきっていない。


 壊れていないから、壊し方を選べる。


 あるいは、壊さずに済む道も、どこかに残っているのかもしれない。


 そんな非効率な可能性を、私はまだ完全には捨てられない。


 それが私自身の意思なのか、誰かの紐が緩んだ結果なのかは、まだ分からない。


 けれど、十五時は来る。


 時計は正確に進む。


 私は空を見上げた。


 影村の上空に、飛行ドローンの影がいくつも静かに浮かび上がっていた。


 足元では、地上走行型の小さな機体が、スタッフの台車に紛れるように校舎の影へ消えていく。


 怪異の目。


 祭りの記録係。


 逃げ道の監視者。


 あるいは、檻の鍵。


 どの名前でも構わない。


 入口が違っても、出口は一つだ。


 双灯祭DAY2。


 生徒たちは、まだそれを学園祭だと思っている。


 それでいい。


 十五時まで、世界には少しだけ、無知でいる権利がある。


 そして私は、その権利がどの瞬間に破れるのかを、静かに観測していた。


 生きたまま、死ぬための物語が始まる。


 セレモニーは終わった。


 生徒たちは笑いながら、それぞれの企画へ散っていった。


 彼らの多くは、今日をただの学園祭として記憶するだろう。少し楽しかった。少し怖かった。でも、面白かった。そういう形で持ち帰る。


 それが最も望ましい。


 だが、すべての人間がそう終われるとは限らない。


 リリ副会長は気づいた。


 十五時の構造が、祭りの皮をかぶった選別に近いことに。身体的な死者を出さなくても、人間は分類され、追跡され、選択を押し返されることがあると。


 彼女のスマホは外へ繋がらなかった。


 アスミ先輩へのロープは、一時的に切れた。


 その絶望を、私は見た。


 カイトくんは数千のドローンを展開した。


 ひよりさんは同期を思い出にしようとしている。


 メイさんは違和感を拾おうとしている。


 リリ副会長は、私を止めるために立っている。


 そして天城側では、アスミ先輩が怒っているはずだ。


 十五時まで、まだ時間はある。


 けれど猶予はない。


 影村は静かに、祭りの顔で、その時を待っている。


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