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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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EP215. 空を塞がない者たち

 十五時は、まだ来ていない。


 けれど僕たちはもう、その時間の重さを知っていた。


 御影シオンの変更案は撤回された。だが、撤回された仕様の残骸は、生徒会室の空気にまだ残っている。


 だから僕たちは、改めて味方を確認した。


 影村にいる者。


 紅華にいる者。


 怒り方も、守り方も、信じ方も違う。


 それでも、同じ一点だけは揺れなかった。


 誰も帰れない物語にはしない。


 再固定版のブリーフィング資料が表示されたあとも、生徒会室の空気はすぐには軽くならなかった。


 御影シオンの変更案は、ひとまず潰した。


 ログアウトは即時退避。


 未選択は未選択。


 選択分散時は中止。


 アスミは最終選択者ではなく、安全監査官。


 文字だけを見れば、僕たちは勝ったように見える。


 けれど、誰も勝った顔をしていなかった。


 理由は簡単だ。


 仕様から消したものが、人間の中から消えるとは限らない。


 アスミはまだ、スクリーンに赤線で消された自分の名前を見ていた。矢那瀬アスミ。観測者代表。最終選択者。削除済みの文字列なのに、そこだけ画面の奥へ焼き付いているように見える。


 サツキは紅茶のカップを両手で握りしめていた。さっきまであれだけ叫んでいたのに、今は少しだけ声を落としている。怒りが引いたのではない。怒りを職務の形へ押し込め直しているのだと思った。


 ハザマはすでに文書化を始めていた。シオンとの口頭合意、撤回項目、保留項目、藤堂コウへの説明義務、天城側の承認条件。無機質な箇条書きが、机の上で防壁になっていく。


 僕は息を吸った。


 ここから先は、もう一度、僕たち自身の確認だ。


「最終確認をする」


 僕が言うと、全員の視線がこちらへ集まった。


「シオンの変更案は撤回させた。でも、十五時そのものが消えたわけじゃない。今日の予定は変わらない。むしろ、今ので分かった。相手は十五時直前まで仕様を動かしてくる」


 チイロが椅子にもたれながら、低く言う。


「つまり、油断したら負け。仕様書を信じたら死ぬ。文言が綺麗なら疑え。安全と書いてあったら二回疑え。御影シオンちゃん取扱説明書、朝から最新版」


「嫌な最新版だな」


 トウタがぼそっと言った。


「でも、必要だ」


 ミナトが端末から目を離さずに言う。


「今日の予定を再確認しよう。各自、自分の役割と、十五時へ繋がる接点を明文化する」


 ハザマがすぐにスクリーンへタイムテーブルを出した。


《双灯祭 DAY2 最終確認》

《08:30 開幕セレモニー》

《09:00〜11:00 COE 通常営業》

《10:00〜12:00 盤上干渉戦 本戦》

《12:30〜13:30 シュレディンガーの仮面 後編》

《13:30〜14:30 COE 予備枠/撤収/十五時前ブリーフィング》

《15:00 Dual Lumen Sync Session × EXIT:CODE Core Phase》


 昨日の会議で見た表と、基本は同じだった。


 だが、同じ表なのに、今は違って見える。


 昨日は予定表だった。


 今は、導火線に見えた。


「まず、COE」


 僕が言うと、アスミが露骨に嫌な顔をした。


「このテンションでメイド喫茶の話に戻るの、本当に最悪なんだけど……」


「分かる。でも戻る」


「分かりたくなかった」


 チイロがにやりと笑う。


「いや、ここ重要だよ。むしろCOE、しっかり営業した方がいい」


 アスミの眉が跳ねた。


「は?」


「だって、証言があるんでしょ? ユウマとアスミがCOEで一緒にいたって話」


 その言葉で、空気が少しだけ変わった。


 アスミが視線を細める。


「……ある。キョウジの話だと、COEで私とユウマを見た、という証言がある」


「DAY1の話なら?」


 ミサキが聞く。


「どうにもならない。もう終わってるから」


 ミナトが言った。


「だが、文脈上はDAY2の可能性が高い」


「そう」


 アスミは渋々頷く。


「DAY1で見た、というより、DAY2でこれから見る、と読む方が自然な言い方だった。少なくとも私はそう感じた」


 チイロはそこで、完全に悪い顔になった。


「なら、やるしかないじゃん」


「何を」


「COEを」


「嫌よ」


「嫌でもやる。観測条件を再現するなら、ユウマとアスミがCOEにいる必要がある。つまり、メイド服アスミの出現は、恥辱イベントではなく時間軸同定のための重要観測点です」


「最悪の理屈をつけるな!」


「でも合ってる」


 ミナトが淡々と言った。


 アスミがそちらを睨む。


「ミナトまで?」


「キョウジが現れれば、時間軸が絞れる。DAY2午前のCOEで接触が成立するなら、十五時前の外部介入候補として扱える」


「……それは、分かるけど」


「なら、COEは営業する」


 チイロが結論を出す。


「しかも、ちゃんと。中途半端にやると証言とズレる。ユウマとアスミが見られるなら、見られる状態でいる必要がある」


 アスミは両手で頭を抱えた。


「このテンションでちゃんとメイド営業するの、本当に最悪……」


 トウタが端末を構えかけた。


「【悲報】量子ネコ、世界線保全のためメイド営業――」


「立てるな!」


「立てない。けど、これはスレ民泣く」


「泣かせないで!」


 サツキが、よく分かっていないまま力強く頷く。


「つまり、COEは世界を救うかもしれないということですわね!」


「そのまとめ方は嫌です」


 アスミが即答した。


「でも、間違ってはいませんわよね?」


「間違ってはいないのが一番嫌!」


 少しだけ笑いが起きた。


 笑いは小さかった。


 けれど、部屋の空気を一ミリだけ動かした。


 その一ミリが、今は大事だった。


 僕は次の項目へ進める。


「影村側との連携を確認する。シオンは信用しない。でも、影村陣営の全員を敵にするわけにもいかない」


 アスミがこちらを見る。


「ひよりとメイ?」


「ああ」


 綾白ひより。


 夕咲メイ。


 影村側にいて、僕たち寄りに動ける可能性がある二人。


 とくにひよりは、Dual Lumenの同期に関わる。


 僕にとっては、単なる協力者以上の意味を持ってしまっている。


 それをアスミが知らないわけがなかった。


 僕は端末を開いた。


「僕から、ひよりとメイに繋ぐ。十五時前の影村側の空気、シオンの周辺、コウの技術反映状況、参加者誘導の変更がないかを確認する」


 アスミが少しだけムスッとした顔になる。


「随分と……楽しそうね?」


「楽しそうじゃない」


「声がちょっとだけ柔らかくなった」


「なってない」


「なった」


 ミサキが横から淡々と言う。


「心拍は少し上がってる」


「ミサキ」


「医療的事実」


 トウタが小声で言った。


「技術的恋愛感情、再発」


「その概念は存在しない」


「でも観測されてる」


「観測するな」


 チイロが口元を押さえながら笑う。


「はいはい。ユウマはひよりちゃんとメイちゃんへ。アスミは?」


 アスミの表情が少しだけ変わった。


「私は、リリに繋ぐ」


 玖条リリ。


 その名前が出た瞬間、昭和五十六年の空気が、ほんの少しだけ戻ってきた気がした。


 玖条リツコ。


 アスミが昭和で出会った少女。


 リリと同じ苗字を持つ少女。


 アスミは、リリに聞きたいはずだった。


 リツコのことを。


 玖条家のことを。


 リツコが何者だったのか。あの優しさはどこへ繋がっているのか。あの家の広さ、あの距離感、あの「私がいるから」という言葉が、今の玖条リリにどう繋がるのか。


 けれど、彼女はそれを言わなかった。


 言えば、ブリーフィングが昭和へ戻ってしまうからだ。


 今は十五時を守る時間だと、アスミ自身が一番分かっている。


 だから彼女は、聞きたいことを喉の奥で止めていた。


「リリには、紅華側の導線と、天城外周の人流を確認する」


 アスミは淡々と言った。


「あと、紅華バルーンの視界ライン。十五時前後に視界を塞ぐ演出がないか。香料ゼロが維持されているか。人を足止めするような写真スポットが増えていないか」


 サツキが感心したように言う。


「そこまで見ますの?」


「十五時前に人流が止まるのは危険だから」


 そこで、ほんの一拍だけ沈黙が落ちる。


 アスミはリツコの名を出さなかった。


 僕は出さなかった。


 チイロも、ミサキも、トウタも出さなかった。


 それが、今できる配慮だった。


 トウタが少しだけ声を落として言う。


「なあ、ユウマ」


「何だ?」


「ひよりとかリリに繋ぐならさ。キョウジたちのこと、さりげなく聞いてみたらどうだ?」


 僕は即座にトウタを見た。


 視線だけで止める。


 トウタは口を閉じた。


 だが、言葉はもう出ていた。


 アスミの目がわずかに揺れる。


 キョウジ。


 戌神キョウジ。


 昭和側で、アスミに七不思議の容器を開き、DAY2十五時の断片を語った男。


 彼が今、W2の双灯祭DAY2に現れるのか。


 COEで僕とアスミを見たという証言が、未来視なのか、過去の観測なのか、あるいは別層からの記録なのか。


 聞けるなら聞きたい。


 でも、今それをひよりやリリに雑に投げるのは危険だった。


 キョウジという名前は、アスミの中で昭和の導線と直結している。


 リツコにも、黒い本にも、ヒカルにも近い。


 軽く扱えば、アスミの保留した扉を無理やり開けることになる。


「聞かない」


 僕は言った。


 トウタは小さく頷く。


「そうだよな……悪い」


「いや。候補としては正しい。でも、今は聞かない。影村側への連絡は、十五時の安全に限定する」


 アスミは僕を見ていた。


 少しだけ、苦しそうな顔だった。


「……ありがと」


 それだけ言った。


 僕は頷く。


 次にミナトが資料を切り替えた。


《盤上干渉戦 本戦》

《10:00〜12:00》

《天城代表:立花ミナト/野々村ハザマ》

《想定決勝:葉暮ソウタ組》

《注意:勝敗以上に観客導線・配信テンション・影村側反応を監視》


 レイカが、ミナトを見た。


「ミナト」


「何だ」


「優勝して」


 短い言葉だった。


 でも、その一言に変な熱があった。


 ミナトは少しだけ目を細める。


「当たり前だ」


 即答だった。


 昨日までのミナトなら、「勝率を上げる」「最善を尽くす」「盤面次第だ」と言ったかもしれない。


 でも今は違った。


 当たり前だ。


 その言葉が、静かに部屋へ落ちる。


 レイカは満足そうに笑った。


「いい顔。今日のあなたは勝ちに行く顔をしてる」


「勝つ必要がある」


 ミナトは言った。


「盤上干渉戦は十五時前の最大集客になる。そこで天城側が崩れたら、観客心理が影村側へ寄る。勝てば、午前中の空気をこちらで固定できる」


「つまり、勝利角?」


 サツキが目を輝かせる。


「そういうことですわね!? ミナトさん、勝利角ですわね!?」


「……まあ、そうだ」


「言いましたわ!! 今、勝利角を認めましたわ!!」


 ミナトが少しだけ後悔した顔をした。


 ハザマは淡々と補足する。


「盤面構造はこちらで管理します。葉暮ソウタさんが出てきた場合、予定通りテンポずらしと情報非開示を維持します。勝ちに行く瞬間を言語化しない。それだけは崩しません」


 チイロが指を鳴らした。


「よし。盤上はミナトとハザマ。実況はトウタ。観客のテンションが十五時前に変な方向へ行きそうなら、ミームで流す」


「了解。盤上デスティニー編、ただしデス禁止」


「そう。デスティニーは演出、デスはNG」


「了解した」


 次は、演劇だった。


《シュレディンガーの仮面 後編》

《12:30〜13:30》

《レイカ:歌姫リナ=シュタイン》

《ユウマ:ファントム》

《ミナト:技術主任オルフェ》

《ミサキ:最後の観測者》

《注意:重い分岐封印/EXIT:CODE導線と交差禁止/終演後の情動残留を十五時へ持ち込ませない》


 レイカはスクリーンを見つめていた。


 いつものように胸に手を当て、舞台人の顔をしている。


 けれど、その目の奥に、初日の終演後にはなかった硬さがあった。


「私は、演目を綺麗に終わらせる」


 レイカは静かに言った。


「悲劇の形をしていても、観客を悲劇の中に置いていかない。後編は、幕を下ろすところまでが演目。泣かせるだけじゃ駄目。戻す。座席から立って、外へ出て、次の予定へ進めるところまで設計する」


 ミサキが頷く。


「終演後の呼吸誘導を入れる。照明も、暗転で終わらせない。通常照明へ戻してから退場」


「分かってる」


 レイカは少しだけ目を伏せた。


「初日、客席の奥に変な視線を感じたの」


 部屋の空気が止まる。


「異質な視線?」


 僕が聞くと、レイカは頷いた。


「観客の視線じゃない。拍手でもない。感動でも、好奇心でもない。舞台を見ているというより、舞台を使って誰かの反応を見ている視線。あれが誰だったのかは分からない。でも、今日の後編では、舞台を観測装置にされないようにする」


 アスミが低く言った。


「シオンか、別の誰かか?」


「分からない」


 レイカは答える。


「でも、分からないからこそ、私は幕を綺麗に閉じる。舞台は舞台として終わらせる。十五時へ、未完の感情を渡さない」


 その言葉に、僕は少しだけ背筋が伸びた。


 レイカはいつも、劇的な言葉を使う。


 でも今の言葉は、劇的ではなく実務だった。


 舞台を閉じる。


 感情を戻す。


 物語を十五時へ流さない。


 それは今日の安全手順の一部だった。


 ハザマが時計を見る。


「開幕セレモニーまで、あまり時間がありません」


 サツキが勢いよく立ち上がる。


「では、外部連絡ですわ!! 岡崎さんは綾白さんと夕咲さんへ! アスミさんは玖条さんへ! 皆さん、短く、明確に、安全第一ですわ!!」


 僕は端末を開いた。


 ひよりへの通話。


 メイも同席できるように、グループ接続にする。


 呼び出し音が数回鳴ったあと、画面にひよりの顔が映った。


『ユウマくん?』


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 緩んだことを、アスミが横目で見ている気配がした。


 僕は気づかないふりをした。


「ひより。メイもいる?」


『います。少し待ってください』


 画面が揺れ、夕咲メイの顔が横から入る。


『岡崎先輩、おはようございまーす。天城側、大丈夫ですか?』


「大丈夫……と言いたいけど、今朝、シオンが十五時枠の仕様変更を出してきた。主要部分は撤回させた。そっちは何か変な誘導、追加スタッフ、放送文の差し替えはある?」


 ひよりの表情が真剣になる。


『今のところ、公式導線は昨日の最終版と同じです。ただ、影村側のスタッフ用端末に、十五時前の集合位置確認が再送されています』


「再送?」


『はい。同じ内容のはずなのに、文言が少しだけ変わっています。“速やかに移動”が、“案内に従って自然に移動”になっていました』


 チイロが僕の横から即座に言う。


「自然に、ね。嫌な言葉」


 メイが画面の向こうで頷く。


『私も少し気になりました。強制に見せない誘導、という感じがします』


「スクショを送って」


『はい』


 ひよりが僕を見る。


『ユウマくん、十五時は……大丈夫なんですよね?』


 その問いには、不安だけではなく、期待が混ざっていた。


 僕は少しだけ言葉を選ぶ。


「大丈夫にする。だから、影村側で何か違和感があったらすぐ知らせてほしい。特に、ログアウト、退出導線、観客AI、参加者の足止め。この四つ」


『分かりました』


 ひよりは頷いた。


 それから、少しだけ表情を柔らかくした。


『でも、ユウマくん』


「何?」


『今日の同期、怖いだけで終わらせたくないです』


 僕は黙る。


 ひよりは続けた。


『せっかくの双灯祭だから。天城と影村が繋がる日だから。ちゃんと、思い出になるような同期をしましょうね』


 その言葉は、まっすぐだった。


 まっすぐすぎて、僕の中の警戒線を一瞬だけ揺らした。


 思い出になるような同期。


 そうだ。


 本当は、そのはずだった。


 Dual Lumenは、罠である前に祭りだった。


 天城と影村を、二つの灯りとして繋ぐための企画だった。


 僕が返事をする前に、アスミが隣でムスッとした顔になっていた。


「……ふーん」


 小さい声だった。


 でも、ひよりには聞こえたらしい。


『アスミさん?』


「何でもない」


『アスミさんも、今日、よろしくお願いします』


「……よろしく」


 アスミの返事は少しだけ硬かった。


 メイが空気を察したのか、慌てて付け足す。


『私たちも、シオン会長の動きは見ますから。岡崎先輩、こちら側にも味方はいます!』


「助かる」


『はい。十五時前にもう一度、短く連絡します』


「頼む」


 通話を切る。


 切った瞬間、トウタが僕を見た。


「思い出になるような同期、だってさ」


「言うなよ」


「言わない方が刺さると思うけど」


 アスミは僕を見ていなかった。


 でも、不機嫌なのは分かった。


 僕が何か言う前に、彼女は自分の端末を開く。



 アスミは、少しだけ目を伏せた。


「……私はリリに繋ぐ」


 その声の温度が、ひよりやメイの名前が出た時とは違っていた。


 玖条リリ。


 影村学園副会長。


 御影シオンのすぐ近くにいる人間であり、同時に、シオンの設計で一度死にかけた人間。


 エアロック。


 真空。


 心肺蘇生。


 AEDのパッド痕。


 肋骨の痛み。


 肺が、まだ恐怖の形を覚えているはずの身体。


 リリがシオンを見る理由は、単なる職務ではない。


 止めたいからだ。


 あの子を止めたい。


 そして、たぶん本当は、アスミにも影村側へ来てほしいと思っている。


 シオンを一緒に見ていてほしい。


 そういう種類の願いが、リリの中にはある。


 アスミも、それを分かっていた。


 それでも彼女は、すぐには発信ボタンを押さなかった。


「アスミ?」


 僕が呼ぶと、彼女は端末を握ったまま、少しだけ唇を噛んだ。


「……リリに聞きたいことがある」


「リツコのこと?」


 僕が言うと、アスミの肩がわずかに動いた。


「今は聞かない」


 短い返事だった。


 玖条リツコ。


 昭和五十六年でアスミを受け止めた少女。


 玖条リリ。


 現在の影村学園副会長。


 同じ玖条という名前が、ただの偶然で済むのかどうか。


 アスミは、それを聞きたくてたまらないはずだった。


 けれど、今それを聞けば、話は昭和へ戻る。


 ヒカルの家へ戻る。


 黒い本へ戻る。


 そして、十五時の前にアスミ自身が過去へ引きずられる。


 だから彼女は、自分の喉に出かかった問いを押し戻した。


 ミサキが静かに言う。


「今は、シオンの監視ラインね」


「うん」


 アスミは頷いた。


「リリはシオンを“会長”じゃなくて、“シオン”って呼ぶ。学年はリリの方が上だし、副会長としても、ただ従っているだけじゃない。あの子はシオンを怖がっている。でも、同時に止めたいと思ってる」


 チイロが腕を組む。


「中等部の観測部ラインでもあるしね」


 その言葉で、アスミの表情が少しだけ変わった。


 忘れていたものを、別の誰かの言葉で殴られた時の顔だった。


「……そうだった」


 アスミは低く言う。


「私、リリのことも、観測部のことも、さしすせそ事件のことも、抜けてた」


「抜けてたんじゃなくて、抜かれてた可能性もある」


 チイロの声は軽くなかった。


「二〇二二年の渋谷観測爆破事件。通称、さしすせそ事件。あれを忘れてたのは、単なる物忘れとして処理しない方がいい。アスミ、リリ、観測部、ハル……いや、あと私もね。そこに繋がるログが抜けてたなら、誰かが“関係の索引”ごと隠した可能性がある」


 トウタが小声で言う。


「関係の索引を消すって、最悪だな」


「最悪だよ」


 チイロは即答した。


「人間は出来事だけでできてるんじゃない。誰と何を見たかでできてる。だから観測部の記憶が抜けるってことは、アスミの“誰と世界を見ていたか”が抜けるってこと」


 アスミは黙っていた。


 けれど、その指は端末の側面を強く握っていた。


 僕は言った。


「今は、安全確認に絞ろう」


「分かってる」


 アスミはすぐに返した。


 少し強い返事だった。


「分かってる。リツコのことは聞かない。十五時を越えてから聞く」


「ログに残す」


 僕が言うと、チイロがもうホワイトボードへ書いていた。


《玖条リリ:影村副会長》

《シオン監視ライン》

《エアロック被害者/心肺蘇生後復帰》

《アスミとは中等部観測部ライン》

《リツコ・玖条家・さしすせそ事件はDAY2後に再照合》

《今は十五時安全確認に限定》


 アスミはそれを見て、小さく息を吐いた。


「……ありがと」


 そして発信した。


 数秒後、画面に玖条リリが映った。


『アスミ』


 リリはそう呼んだ。


 苗字でも、先輩でもない。


 距離を詰めすぎない、でも遠ざけもしない呼び方。


 画面の向こうは影村側の運営控室だった。背後にはスタッフ用端末、十五時枠の進行表、影村生徒会の腕章をつけた生徒たちが見える。空気が張りつめている。


 リリの顔色は悪かった。


 それでも、目ははっきりしていた。


 死にかけた人間の目ではない。


 死にかけたあと、それでも戻ってきた人間の目だった。


「リリ。シオンの近くにいる?」


『いる。というより、いるしかない。あの子、目を離すとまた“必要”って顔で何かを通すから』


 その言い方に、僕は少しだけ息を止めた。


 リリは御影シオンを「シオン」と呼ぶ。


 それは親しさだけではない。


 年上として、先輩として、副会長として、そして一度その設計で壊されかけた人間としての呼び方だった。


『今朝の変更案も見た。ログアウト遅延、不可逆選択、観測者代表。全部、シオンらしい。嫌になるくらい、シオンらしい』


「止められる?」


『止めたい』


 即答だった。


 リリは一度、画面の外へ視線を流した。


『正確に言うなら、止めなきゃいけない。私はエアロックの中にいた。あの子の設計が、どこまで人の肺を信じていないか知ってる。息ができるかどうかを、データに変えられる感覚も知ってる』


 アスミの表情が硬くなる。


『だから、アスミ』


「何」


『本当は、あなたに影村側へ来てほしい』


 部屋の空気が止まった。


『シオンの近くで、一緒に見てほしい。私一人だと、たぶん遅れる。副会長として止める手順は持ってる。でも、あの子の言葉に引っ張られる瞬間がある。正しそうに聞こえるの。怖いくらいに』


「リリ」


『分かってる。あなたが天城側を離れられないことは分かってる。だから無理には言わない。でも、影村側にもロープが必要なの。シオンを止めるためのロープが』


 アスミは目を伏せた。


「リリ、私は天城側にいる。十五時の安全監査をする。そっちには行けない」


『うん』


「でも、ラインは切らない」


 リリの目がわずかに揺れた。


「あなたがシオンの言葉で判断を迷ったら、私に繋いで。手順で戻す」


『感情じゃなく?』


「感情でも止める。でも最初は手順。あなたが納得できる形で」


 リリは、小さく笑った。


『昔と同じ言い方』


 その一言で、アスミの喉が一度詰まった。


 中等部。


 観測部。


 放課後の理科準備室。


 チイロの声。


 傘の骨の音。


 二〇二二年の、まだ思い出しきれていない事件。


 たぶん、その全部がアスミの中で一瞬だけ鳴った。


 でも彼女は、今はそこへ行かなかった。


「リリ。今は十五時の話をする」


『分かった』


「シオンが使いそうな言葉を拾って。安全性向上、自然な移動、体験連続性、観測者代表、選択分散、未選択処理。あと、藤堂コウからのパッチ反映ログ」


『見てる。もう一つ追加して』


「何?」


『“必要”』


 リリの声が低くなった。


『シオンが“必要”って言ったら、だいたい危ない。本人は本気でそう思ってる。だから厄介なの』


 チイロが小さく呟いた。


「分かる。必要って言葉は、倫理を轢く時のタイヤになりがち」


 リリは画面越しにチイロを見る。


『雲越先輩もいるんですね』


「いるよ。久しぶり、リリちゃん」


『……はい。久しぶりです』


 その短いやり取りにも、古い関係の匂いがあった。


 アスミが忘れていた時間。


 リリが覚えていた時間。


 チイロが横から掘り起こした時間。


 それらが、今の十五時へ細い線で繋がっている。


 リリは最後に、アスミへ向き直った。


『アスミ。十五時を越えたら、話して』


「何を」


『私に何かを聞きたい顔をしてる』


 アスミは息を止めた。


『私も、あなたに聞きたいことがある。観測部のこと。ハルナ先輩の事件のこと。あなたが忘れていた時間のこと。だけど、今は聞かない』


「……うん」


『だから、今はシオンを見る。あなたは天城で止めて』


「分かった」


『生きて越えて』


「命令?」


『副会長命令』


「影村の副会長でしょ?」


『じゃあ、観測部の同期として、友人命令』


 アスミは少しだけ目を伏せた。


「……分かった」


 通話が切れる。


 アスミは端末を下ろしたあと、しばらく何も言わなかった。


 僕も、すぐには声をかけなかった。


 リリは、ただの監視役じゃない。


 影村側でシオンを止めたい人間だ。


 シオンに傷つけられ、それでもシオンの近くに戻った人間だ。


 そして、アスミが忘れていた時間を覚えている人間だ。


 十五時を越えたあと、僕たちはまた別の扉を開けなければならない。


 そう思った。


 けれど今は、十五時だ。


 チイロが静かにホワイトボードへ追記した。


《リリライン:有効》

《シオン危険語:必要》

《影村側監視:継続》

《観測部記憶:DAY2後に再接続》


 アスミは、リリとの通話を切ったあともしばらく端末を握っていた。


 画面は暗くなっている。


 それなのに、そこにはまだ玖条リリの顔が残っているように見えた。


 影村学園副会長。


 御影シオンのすぐ近くにいて、エアロックで一度死にかけ、それでも戻ってきた人間。


 シオンを怖がりながら、止めたいと思っている人間。


 そして、アスミが忘れていた中等部観測部の時間を、まだ覚えている人間。


 アスミは、その全部をいったん喉の奥へ押し戻すように息を吐いた。


「……次。リリアン」


 その名前が出た瞬間、チイロが反射的に肩をすくめた。


「注意事項。リリアンちゃんは初速がすごいから、全員、鼓膜を守る準備」


「そこまで?」


 トウタが聞く。


「そこまでやべーの??」


 ミサキが真顔で頷いた。


「生体反応的にも、急な大声は心拍に影響するから」


「医療的に警戒されるお嬢様って何なのよwww」


 トウタが呟いた瞬間、アスミが通話を開始した。


 呼び出し音は二回。


 三回目に入る前に、画面がぱっと明るくなった。


『アスミ様っ!!おはようでございますわぁぁぁぁぁぁっ!!』


 第一声で、生徒会室の空気が紅華色に染まった。


 画面いっぱいに映ったリリアンは、朝日を背負っていた。いや、実際には背後の窓から光が差し込んでいるだけなのだろうが、彼女が映ると、それはもう自然光ではなく演出照明に見えた。


 赤みを帯びた金髪。


 完璧に整ったリボン。


 紅華女学院の制服。


 そして、無駄に明るい笑顔。


『アスミ様ぁぁぁぁっ!! 双灯祭DAY2、ついに開幕ですわねっ!! 紅華の空は晴天!! バルーンは気高く!! 導線は清らかに!! そして可愛いは今日も世界を救いますわぁぁぁっ♡』


 アスミは無言で端末を少し遠ざけた。


 チイロが肩を震わせる。


 トウタは両手で口元を押さえていた。


 ミナトは無表情のまま、音量を三段階下げた。


 それでもまだ声が大きかった。


 サツキが目を丸くする。


「ちょっと!! リ、リリアン様……!」


『まあっ!! あら二階堂会長もいらっしゃいますのね!! ごきげんようございますわね!! 天城の王冠は本日も輝いておりますわよ!! 勝利角もきっと天を突く勢いですわぁっ!!』


「ありがとうございますわ!! ですがリリアン様!」


『はいっ♡』


「テンションが高すぎですわ!!」


 生徒会室が一瞬だけ止まった。


 そして、トウタが耐えきれず吹き出した。


「サツキがそれ言うのかよ……」


「失礼ですわね!? わたくしにも限度というものがありますの!!」


 リリアンは画面の向こうで、ぱあっと笑った。


『ふふっ、申し訳ありませんわ! けれど本日は双灯祭DAY2! 天城、影村、紅華、三校の光が交差する日! これで胸が高鳴らないなら、もはや紅華の血が泣きますもの!』


「血を泣かせないで……」


 アスミが低く言う。


『あら、アスミ様ったら今日もクール! でもその冷たさの奥に、世界を一ミリ単位で救おうとする繊細な熱がございますわ! リリアン、そういうアスミ様も大好きですわよ♡』


「用件に入っていい?」


『もちろんですわ! 愛の告白は後ほど改めて長文でお送りしますわ!』


「送らないで」


 僕は思わず口を挟んだ。


「今は十五時前だから、連絡は短くした方がいい」


 リリアンの笑顔が、そこで一ミリだけ固まった。


 ほんの一ミリ。


 けれど、空気の温度は明らかに変わった。


『あら……岡崎様』


 声は丁寧だった。


 丁寧すぎるほど丁寧だった。


『ごきげんよう。相変わらず、あなたはアスミ様のお隣に当然のようにいらっしゃいますのね?』


「当然というわけじゃない」


『そうですか? わたくしには、アスミ様が危険な場所へ向かわれるたび、なぜか岡崎様が隣にいて、なぜかアスミ様の心拍を乱し、なぜか周囲に誤解を発生させているように見えますけれど?』


 トウタが口を押さえる。


 チイロが目を輝かせる。


 アスミが即座に画面へ身を乗り出した。


「リリアン、今はその話じゃない」


『はい、アスミ様♡ アスミ様がそう仰るなら、岡崎様への苦言は三割までに抑えますわ♡』


「ゼロにして」


『努力しますわ♡』


「実行して」


『……善処いたしますわ』


「悪化してる」


 僕が呟くと、リリアンはにこりと笑った。


 笑っているのに、目が笑っていない。


『岡崎様。わたくし、あなたを敵だとは思っておりませんわ』


「それは助かる」


『ですが、味方だと全面的に認定するわけにもいきませんわ』


「……厳しいな」


『当然ですわ。アスミ様の近くにいる殿方を、紅華が無条件で信用すると思いまして?』


「紅華の審査基準、どうなってるんだ」


『第一条件、アスミ様を泣かせないこと。第二条件、アスミ様を一人にしないこと。第三条件、アスミ様を勝手に物語の中心へ置かないこと。第四条件、アスミ様の隣に立つなら、逃げ道も一緒に持ってくること』


 リリアンは、そこで一度だけ目を細めた。


『岡崎様は、第一から第四まで、すべて合格点ギリギリですわ』


「ギリギリなのか」


『はい。現在、仮免許です』


 トウタが机に突っ伏した。


「ユウマ、アスミ隣接仮免許」


「立てるな」


「立てない。これは心の中で免許更新する」


「更新するな」


 アスミは頭を抱えた。


「リリアン。お願いだから、導線確認に戻って」


『はい、アスミ様♡ アスミ様のお願いなら秒で戻りますわ♡ 岡崎様のお願いなら審査後ですけれど♡』


「差がひどい」


 僕が言うと、ミサキが淡々と付け足した。


「妥当な警戒とも言える」


「ミサキまで」


 サツキが咳払いをした。


「では確認しますわ! リリアン様、紅華側の導線状況をお願いしますわ!」


『はい! 紅華バルーン隊は現在、天城中庭上空および外周導線にて、視界確保型の展開準備中ですわ! 香料は完全ゼロ! ピンク単色ジャックは封印! 横断幕は三校連名! 写真スポットは滞留防止のため、立ち止まり型ではなく流動型! 十五時前後は追加演出なし! 空は飾りますが、人の足は止めませんわ!』


 ミナトがわずかに眉を上げる。


「整理されているな」


『当然ですわ! 華やかさとは、混乱を隠す布ではなく、秩序を美しく見せるための光ですもの!』


 チイロが小さく呟く。


「言い方は紅華だけど、内容はめちゃくちゃまとも」


『雲越様、聞こえておりますわよ! 褒め言葉として受け取りますわ!』


「うん、褒めてる。紅華文法が強すぎるだけ」


 サツキが身を乗り出す。


「では細部確認ですわ。十五時前後、天城と影村を結ぶ中央導線に、バルーン演出による視界阻害はありませんのね?」


『ありませんわ!』


「香料は?」


『ゼロですわ!』


「写真撮影で人を止めるような声かけは?」


『禁止済みですわ!』


「紅華スタッフが盛り上がりすぎて、勝手に可愛いポーズ指導を始める可能性は?」


『……そこは追加で強めに禁止しますわ!』


「今、少し間がありましたわね!?」


『紅華生は可愛いものを見ると、つい世界へ共有したくなる性質がありまして!』


「それを本日は抑えてくださいませ!」


『承知しましたわ! 可愛いは秩序を殺すこともありますものね!』


 チイロがびくっとした。


「ちょっと待って、それ私の標語!!」


『存じておりますわ! 素晴らしい概念ですわね、雲越様! ですが本日は、可愛いは秩序を殺さず、秩序を装飾する方向で参りますわ!』


「標語が更生した」


 トウタが呟く。


「可愛い更生ルート、胸熱」


 その時点までは、リリアンは完全にいつもの調子だった。


 高いテンション。


 過剰な語彙。


 どこまで本気なのか分からない明るさ。


 それでも、導線管理の内容は正確だった。


 十五時前後の危険を理解し、紅華側の演出を安全側に倒している。


 だからこそ、僕は次の話題を出すのに少しだけ躊躇した。


 けれど、隠すわけにはいかなかった。


「リリアン」


『はい、岡崎様』


 返事はある。


 だが、アスミに向ける声とは違う。


 僕に向ける時だけ、リリアンの敬語は少し硬くなる。礼儀正しい壁。薄いけれど、確かにこちらを通さない透明な壁だった。


「今朝、御影シオンが十五時枠の変更案を出した」


 画面の向こうの笑顔が、一瞬止まった。


 それは、表情が消えたというより、光源が切り替わったみたいだった。


『……変更案?』


 声が低くなる。


 さっきまで語尾についていた飾りが、全部消えた。


 サツキが紅茶のカップを握りしめる。


「そうですわ。リリアン様。御影さんが、DAY2十五時枠に“安全性向上を目的とした微修正”という名目で、ログアウト遅延や不可逆選択演出、観測者代表案を入れようとしてきましたの」


『ログアウト遅延』


 リリアンが繰り返す。


『不可逆選択演出』


 さらに繰り返す。


『観測者代表』


 その三つ目で、画面の向こうの空気が完全に変わった。


『誰を代表に?』


 誰もすぐには答えなかった。


 だが、沈黙で伝わったらしい。


 リリアンの視線が、画面越しにアスミへ向いた。


『……アスミ様ですのね』


 アスミは答えなかった。


 リリアンの手元で、何かが強く机を叩く音がした。


『あの子はふざけているのかしら?』


 その声は、怒鳴ってはいなかった。


 だから余計に怖かった。


『十五時当日に、退出を遅らせる? 選べなかった人を選んだことにする? 観測者代表としてアスミ様に責任を集約する? それを安全性向上?』


 リリアンはゆっくり息を吸った。


『あり得ませんわ……』


 今度は、はっきりと怒っていた。


『イベントというものを何だと思っているんですの、あの御影シオンは……』


 サツキが大きく頷く。


「そうですわ!! そうですの!! わたくしもまさにそれを言いたかったんですの!!」


『二階堂会長』


「はい!」


『これは、企画内容の好みの問題ではありませんわね』


「そうですわ!!」


『演出の強弱の問題でもありませんわね』


「そうですわ!!」


『安全監査が終わった後に、当日朝、導線と退出条件と責任構造を変えるなど、運営に対する侮辱ですわ』


「おっしゃる通りですわ!!」


 サツキが、まるで援軍を得た将軍のような顔になった。


 リリアンは続ける。


『二日間の祭りは、一つの演目ではありません。運営、医療、導線、警備、誘導、広報、すべての部署が積み上げて初めて成立しますの。その積み上げを、十五時直前に“微修正”という言葉で動かすなど、危険以前に無礼ですわ』


 ミナトが静かに頷く。


「正しい」


 リリアンの声には、もう一切の飾りがなかった。


『しかも、アスミ様を観測者代表にする? 誰が許可したんですの? 天城が許可しましたの? 岡崎様達が許可しましたの? 紅華にも共有されましたの?』


「全部、ない」


 アスミが言う。


『なら却下ですわ』


 即断だった。


『紅華女学院としても、そのような十五時枠には協力いたしません。安全監査官を参加者全員の責任受け皿にするなど、運営ではありません。生贄の配置ですわ』


 その言葉で、部屋の空気が凍った。


 生贄。


 誰も口にしなかった言葉。


 でも、全員が感じていた構造。


 アスミの顔が少しだけ青ざめる。


 リリアンはそれに気づいたのか、声を少しだけ抑えた。


『……ごめんなさい、アスミ様。言葉が強すぎましたわ』


「いい」


 アスミは小さく言った。


「でも、合ってる」


『合っているからこそ、許せません』


 リリアンの目が細くなる。


『アスミ様を傷つける構造を、学園祭の仕様書に混ぜるなど、絶対に許しません。御影シオンは、いつもそうです。綺麗な言葉で閉じ込める。必要、安全、観測、合理性。そういう言葉で人の痛みを包んで、包んだ瞬間に痛みが消えたような顔をする』


 アスミは黙っていた。


『影村の副会長の玖条リリ様も御影シオンによって苦しめられていると聞きましたわ。学園祭の出し物で、しかもテストでエアロックですって? リリ様がどれだけ壊れかけたか。あれを“ログ”の一部として眺められる人間を、わたくしは信用しません』


 その言葉に、ミサキの顔が硬くなった。


 チイロも笑わなかった。


『そして今度は、アスミ様ですか? 死に近い演出を見せ、責任の檻を用意し、最後には“あなたが選ぶ人です”と枠を置く。……本当に、どこまで人の心を標本にすれば気が済むのですか、あの方は』


 サツキが息を呑んだ。


 リリアンの怒りは、仕様に対するものだけではなかった。


 アスミへの愛。


 リリへの慈悲。


 シオンへの不信。


 紅華としての運営倫理。


 その全部が、ひとつの炎になっていた。


「リリアン」


 僕は静かに言った。


「主要変更は撤回させた。ログアウトは即時退避。不可逆選択演出は削除。観測者代表案も削除されている」


 リリアンは僕を見た。


 また、あの透明な壁が戻る。


『岡崎様』


「何だ」


『撤回させたことは評価いたします』


「どうも」


『ですが、撤回されたから終わり、などとは思っていませんわよね?』


「思っていない」


『なら結構です』


 短い。


 冷たい。


 けれど、敵意ではない。


 彼女は僕を嫌っているというより、僕がアスミの隣にいる資格を常に審査している。


 そういう態度だった。


『岡崎様。あなたはアスミ様の近くにいます。だからこそ、あなたの判断ミスは、アスミ様へ直接刺さります』


「分かってる」


『本当に?』


「本当に」


『綾白様への声が柔らかくなる方の“本当に”は、紅華基準では少し信用が落ちますわ』


 生徒会室が凍った。


 アスミが顔を上げる。


 トウタが「うわ」と声に出さず口だけ動かす。


 チイロは完全に観測者の顔になっていた。


「リリアン」


 アスミが低く言う。


『失礼いたしました、アスミ様。でも、わたくしは言いますわ。岡崎様は悪い方ではありません。けれど、優しさの向きが複数に分かれる時、アスミ様を後回しにする可能性があります』


「しない」


 僕は即答した。


 リリアンは一拍置いて、僕を見る。


『ならば、十五時に証明してくださいませ』


 その声は、礼儀正しい挑戦状だった。


『アスミ様を、最終選択者にしない。綾白様が向こう側にいても、御影シオンが美しい言葉を使っても、観客が盛り上がっても、手順を破らない。できますわね?』


「ああ、やる」


『実行ですわね?』


「実行する」


 サツキが小さく頷いた。


「今の言い方、わたくしと同じですわ」


『二階堂会長とは、怒りの周波数が合いそうですわね』


「合いますわ!! でもテンションは高すぎですわ!!」


『そこは今後の改善課題といたしますわ♡』


「急に戻さないでくださいませ!」


 リリアンは、そこでようやく少しだけ笑った。


 だが、すぐに真顔へ戻る。


『現在、紅華側にできることを宣言します』


 ハザマがすぐ端末を構えた。


『第一に、十五時前後、紅華バルーン演出は天城・影村間の主要導線から完全に退きます。空間を飾るだけにして、人流に干渉しません』


『第二に、紅華スタッフには、退出者や体調不良者を引き止めないよう再通達します。写真撮影、声かけ、記念演出、すべて安全導線に劣後します』


『第三に、もし影村側で退出を遅らせるような誘導が復活した場合、紅華側の案内スタッフは“退出者優先”を明示します。これは紅華独自判断として行います』


『第四に、アスミ様の位置情報を紅華スタッフが過剰に追わないよう徹底します。観測者代表などという枠に、周囲の視線が勝手に乗らないように』


 アスミが少し驚いた顔をした。


「そこまで?」


『そこまでですわ。シオンさんが一度そういう枠を提示した以上、仕様から消えても、人の噂に残る可能性があります。紅華側から“アスミ様が決めるらしい”などという雑な言葉が出ることは、絶対に許しません』


 チイロが低く言う。


「それ、かなり助かる。フレーム潰しになる」


『フレーム?』


「人を特定の役割に閉じ込める枠。今回だと、アスミを“最後に選ぶ人”にする枠」


『なら、その枠は紅華が花で埋めますわ』


「いや、埋め方」


『冗談ですわ。正確には、導線と言葉で潰します』


 リリアンは画面越しにサツキを見る。


『二階堂会長。天城側で再固定された条件を、紅華にも正式共有してくださいませ。紅華はその条件に合わせて外周導線を組みます』


「もちろんですわ!! ハザマ!」


「共有文書を作成中です」


「さすがですわ!!」


 ハザマは淡々と頷く。


「リリアン様、文書には紅華側協力事項として、視界ライン、香料ゼロ、人流非干渉、退出者優先、観測者代表フレーム拡散防止を入れます」


『完璧ですわ。さすが天城の事務中枢』


「ありがとうございます」


「ハザマが褒められてる……」


 トウタが小声で言う。


「珍しいの?」


「いや、普段から有能だけど、正面から褒められると生徒会室がちょっと照れる」


「照れるのは部屋じゃなくて人ですわ!」


 サツキが突っ込む。


 リリアンは最後に、アスミへ視線を戻した。


『アスミ様』


「何?」


『紅華は、空を塞ぎません。あなたが止めると決めた時、逃げ道が見えるように空を開けておきます』


 アスミは一瞬だけ言葉を失った。


『あなたが一人で背負わされそうになったものを、全部は持てません。でも、周りの視線を散らすことはできます。人の流れを止めないこともできます。出口を出口として残すこともできます』


「……ありがとう」


『どういたしまして、アスミ様♡』


 そこでリリアンは、今度は僕へ向いた。


 表情は笑顔。


 声は丁寧。


 でも、温度はまだ低い。


『岡崎様』


「何だ」


『アスミ様が止めると言ったら、止めてくださいませ』


「止める」


『アスミ様が無理をしている時は、気づいてくださいませ』


「気づく」


『アスミ様が“私は大丈夫”と言った時は、八割大丈夫ではありません』


「……それは、分かる」


 アスミが即座に睨んだ。


「何で納得してるの?」


「経験則」


「最悪」


 リリアンは満足そうに頷いた。


『では、仮免許は継続ですわ』


「まだ仮免なのか」


『十五時を越えたら再審査いたします』


「厳しいな」


『アスミ様案件ですもの。当然ですわ♡』


 そして、唐突にリリアンの顔に明るさが戻った。


『それと』


 嫌な予感がした。


 アスミも同じ顔をした。


『COEの黒メイド姿、心より楽しみにしておりますわ♡』


「そこで戻すな!」


『だって見たいですもの! アスミ様の羞恥と世界線保全が両立する奇跡の衣装ですわ!』


「やめて!」


『岡崎様もご覧になるのでしょう?』


「見るというか、同じ企画にいるだけで」


『では岡崎様。変な目で見たら紅華が記録しますわ』


「見ないよ」


『見たら?』


「見ない」


『アスミ様、今の言質は録音しておきますわね♡』


「しなくていい!」


 チイロが机に突っ伏した。


「リリアンちゃん、最後に火力戻してきた」


 トウタが腹を抱えている。


「世界線保全メイド、語感が強すぎるwww」


 サツキもこらえきれず笑っていた。


「リリアン様、やはりテンションが高すぎですわ!」


『二階堂会長こそ、王冠の角度が最高ですわ!』


「ありがとうございますわ!!」


「そこで受け取るの?」


 アスミが呆れたように言う。


 リリアンは明るく微笑んだ。


『では、紅華は紅華の役目を果たします。空は任せてくださいませ。地上は皆様にお任せしますわ』


 そして、最後にもう一度だけ声を落とした。


『誰も帰れない物語には、させませんわ』


 その一言だけは、もうハイテンションではなかった。


 静かで、強かった。


 通話が切れる。


 生徒会室には、数秒だけ、妙な余韻が残った。


 嵐のような声。


 過剰な祝福。


 紅華の天命。


 アスミへの重すぎる愛。


 僕への礼儀正しい不信。


 そして、シオンへの明確な怒り。


 リリアンは派手だ。


 騒がしい。


 感情で突っ走る。


 けれど、何を守るべきかは分かっている。


 僕はそれを、改めて理解した。


 チイロがホワイトボードへ追記する。


《紅華ライン:有効》

《リリアン:導線非干渉/退出者優先/フレーム拡散防止》

《十五時前後:空を開ける》

《紅華側:御影変更案に明確反対》

《岡崎ユウマ:アスミ隣接仮免許》


「最後の一行、消してくれ」


 僕が言うと、チイロは即答した。


「消さないよー」


「なぜ?」


「重要な観測点なのだが?」


 アスミも赤い顔で言った。


「その上のメイド発言も消して」


「消さない」


「どこが重要なのよ!」


「羞恥と世界線保全が両立する奇跡の衣装」


「繰り返すな!」


 その声に、また少しだけ笑いが戻った。


 でも、今度の笑いはさっきよりも軽かった。


 紅華の空が、逃げ道を塞がない。


 リリアンが、シオンの言葉を信じない。


 そして、たとえ僕を信用しきっていなくても、アスミを守るためなら紅華は動く。


 それだけで、十五時へ向かう道がほんの少しだけ見えた気がした。


 紅華の空は、逃げ道を塞がない。


 リリアンはそう言った。


 派手で、騒がしくて、感情で世界を押し切るような人間なのに、彼女は十五時に必要なことを正確に理解していた。


 人を止めないこと。


 出口を出口のまま残すこと。


 アスミを“選ぶ人”という枠に閉じ込めないこと。


 そして、僕を完全には信用しないこと。


 その不信まで含めて、たぶん正しい。


 十五時に必要なのは、安心ではない。


 互いに疑いながら、それでも同じ出口を守ることだ。


 開幕セレモニーは近い。


 双灯祭DAY2は、もう止まらない。


 だから僕たちは、それぞれの場所で、逃げ道を塞がないために動き出す。


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