EP213. 記憶地図の保留――十五時は待ってくれない
ヒカルの家へ向かう道は、ただの道ではなかった。
リツコの家を出る。子供たちを避ける。影都デパートを横切る。商店街を抜ける。古い書店の角を曲がる。写真館の家族写真を通り過ぎる。
それはアスミの記憶の中に残った、昭和五十六年の導線だった。
僕たちは、その道を地図に変えようとしていた。
どこで曲がったのか。
何を避けたのか。
どの瞬間に、知らないはずの場所を“知っている”と感じたのか。
その一つ一つを拾えば、ヒカルの家だけではなく、昭和アスミ、黒い本、アキラ少年へ続く線が見えるかもしれない。
けれど、十五時は待ってくれなかった。
過去の扉を開ける前に、現在の扉が軋み始めた。
これは、ヒカル宅へ続く記憶地図が一時保留されるまでの記録だ。
ヒカルの家は、まだ遠かった。
地図上の距離ではない。
記憶の中に沈んでいる家というものは、住所で近づけない。番地を打ち込んでも検索結果には出ない。衛星写真を拡大しても、そこに映るのは屋根と道路と植え込みだけで、その家へ向かう時に胸の奥で鳴った警戒音までは表示されない。
だから僕たちは、アスミの記憶を地図に変えようとしていた。
ノード・ゼロの中央モニターには、まだ白紙に近い街路図が表示されている。昭和五十六年の影都周辺を、アスミの証言だけで仮復元した未完成の地図。玖条リツコの家、影都デパート、商店街、古い書店、看板の剥げた写真館、小さな坂、塀の高い家々。
点はある。
だが線がない。
僕たちがこれから作ろうとしているのは、その線だった。
「最初の質問だ」
僕は端末を手に、アスミを見る。
「ヒカルの家へ向かう時、君はどこから歩き始めた?」
アスミはすぐに答えなかった。
毛布を肩にかけたまま、椅子に浅く腰かけている。視線はモニターではなく、自分の膝の少し先に落ちていた。何かを思い出そうとしているというより、思い出してしまうものを一つずつ検査している顔だった。
彼女は深く息を吸った。
四秒で吸って、七秒止めて、八秒で吐く。
ミサキが横で脈拍モニターを確認する。
「心拍、まだ高め。でも許容範囲。無理に掘らないで。映像からじゃなくて、身体感覚からでいい」
「分かってる」
アスミは目を閉じた。
「……リツコの家から」
その一言で、チイロがホワイトボードの左端に《玖条リツコ宅》と書いた。
アスミは続ける。
「玄関を出た時、手に菓子折りを持ってた。リツコが持たせた。箱は軽いはずなのに、妙に重かった。紙袋の持ち手が指に食い込む感じが残ってる。物理的にも重かったけど、それ以上に意味として重かった」
「菓子折り?」
トウタが首を傾げる。
「昭和っぽいな。ご近所挨拶アイテム。RPGなら好感度イベント用」
「ゲームで言うな」
アスミは目を閉じたまま刺す。
だが、その声にはいつもの切れ味が少しだけ足りなかった。
記憶の奥へ潜る時、人は現在の会話へ完全には戻ってこない。目の前にいるアスミはノード・ゼロに座っているのに、声の半分はもう昭和五十六年の住宅街に立っていた。
「紙袋の中身は?」
ミナトが聞く。
「たぶん和菓子。包装紙に薄い緑の模様。店名までは覚えてない。けど、袋の角が少し潰れてた。リツコが慌てて渡したから」
「匂いは?」
ミサキが聞く。
「畳と線香と、少し甘い匂い。リツコの家の玄関に残ってた。外に出たらすぐ消えた。代わりに、夕方前のアスファルトの匂いがした」
チイロが小さく頷く。
「いい。映像じゃなくて匂いから入れてる。そっちの方が強い。海馬くん、起動確認」
「擬人化しないで」
「はいはい。海馬氏、起動確認」
「悪化してる」
トウタが端末に打ち込みながら呟く。
「スレタイなら【朗報】海馬氏、昭和マップをロード開始」
「立てるな」
「立てない。今のは脳内だけ」
僕はアスミを見る。
「リツコの家を出て、最初に曲がったのは?」
アスミの眉が少し寄る。
「待って」
短い制止。
僕は黙った。
ここで急かすと、記憶は形を作ってしまう。人間の脳は空白を嫌う。分からないところに、分かりやすい道を勝手に敷く。僕たちが欲しいのは整った物語ではない。少し歪んでいても、本当に彼女の身体に残っている道順だった。
「……門を出て、すぐ右」
アスミは言った。
「でも、右に曲がった理由は、道が右だったからじゃない。左に子供たちがいた。縄跳びをしてた。そこを避けた」
ミナトが即座に入力する。
《リツコ宅前:左側に児童群》
《回避行動:右折》
《右折理由:道路構造ではなく人流回避》
「重要だな」
僕は言う。
「道順じゃなくて、避けたものが残ってる」
「うん」
アスミは目を閉じたまま頷く。
「私はその時、あまり人と関わりたくなかった。声をかけられたら、昭和の私として振る舞わなきゃいけないから。だから、子供たちの方へ行かなかった」
その言葉に、ノード・ゼロの空気が少しだけ重くなる。
定着するな。
生活に馴染むな。
昭和の人間として扱われるな。
それが、あの時のアスミの生存手順だった。
だが、その生存手順は同時に、彼女をヒカルの家へ向かわせる導線にもなっていた。
逃げた結果、辿り着く。
その構造が、僕には嫌だった。
「その次は?」
「細い道。右側にブロック塀。左に生垣。生垣の向こうに、洗濯物が干してあった。白いシャツ。風は弱かった。あまり揺れてなかった」
「音は?」
「自転車のベル。遠く。あと、ラジオの野球中継みたいな音。どこの家か分からないけど、窓が開いてた」
チイロがホワイトボードに《生活音あり/人影少》と書く。
「生活はある。でも人とは接触しない。導線としては、かなり綺麗に“アスミだけを通す道”になってるね」
「……嫌な言い方」
「嫌な構造だからね」
アスミは反論しなかった。
僕は次の質問を選ぶ。
「影都デパートは通った?」
「通った。でも中には入ってない。正面入口の前を斜めに抜けた。自動ドアじゃない。手動のガラス扉。入口の横に、催事案内のポスターがあった」
「何の催事?」
「思い出せない。でも赤い文字。あと、子供向けの玩具売り場のチラシが貼ってあった気がする」
トウタが呟く。
「デパート前、イベントポスター、玩具売り場、昭和……情報量が昭和レトロスレ」
「今だけは有益にして」
チイロが言う。
「はい。つまり目印として使える。影都デパートの正面、催事ポスター、玩具チラシ。住宅地図だけじゃなく、当時の新聞広告やデパート催事記録があれば、日付照合の根拠に使える」
ミナトが頷く。
「日付が絞れれば、天候記録とも照合できる。アスミの記憶にある風向、気温、湿度と一致するかを見る」
アスミが薄く目を開けた。
「本気でやるの?」
「やる」
僕は答えた。
「君の記憶だけに負担をかけないためだ。外部記録で支えられるところは支える」
アスミはまた目を閉じた。
「……なら、続ける」
その声は少しだけ落ち着いていた。
チイロが軽くマーカーを回す。
「いいね。記憶単独だと不安定。でも記憶+外部記録なら三脚になる。一本脚で立たせるな、常識的に考えて」
「今の、普通に良いこと言ってるのに最後で台無し」
「台無しじゃない。ミームは接着剤」
「接着剤にしては匂いが強い」
トウタがぼそっと言う。
「草」
僕は、少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになったこと自体に、少し驚いた。
まだ笑える。
この部屋の空気は重い。ヒカル、黒い本、昭和アスミ、アキラ。どれも触れれば怪我をするものばかりだ。それでも、チイロとトウタのくだらない応酬は、僕たちの呼吸をほんの少しだけ戻してくれる。
DAY1の空気とは違う。
でも、完全に死んではいない。
「デパートの次は?」
「商店街」
アスミが答える。
「道が少し狭くなる。アーケードはない。店の庇が連続していて、日陰が途切れ途切れにできてた。魚屋はなかったと思う。八百屋はあった。段ボール箱に、キャベツかレタスみたいな葉物が積まれてた。店主らしき人が、私を見た。でも声はかけなかった」
「なぜ?」
「分からない。顔見知りだったのかもしれない。でも、その時の私は声をかけられなかったことに安心した」
チイロが、今度は茶化さずに書く。
《商店街:顔見知りの可能性》
《声かけなし》
《昭和アスミとして認識された可能性》
アスミの表情がわずかに強張る。
僕はすぐに言う。
「断定じゃない」
「分かってる」
「ただの可能性だ」
「分かってるってば」
少しだけ語尾が強くなる。
そこへミサキが静かに入る。
「アスミちゃん、心拍上がってる。今の項目はあとで戻れる。道順だけ先に行こう」
「……うん」
アスミは息を整える。
それから、低く続けた。
「古い書店があった。狭い店。入口に雑誌が積んであった。看板の文字は黒。右側に古書も置いていたと思う。そこで右に曲がる」
「なぜ右?」
「そこがヒカルの家へ向かう道だから」
「誰かに教えられた?」
「違う」
アスミは少しだけ顔をしかめた。
「知ってた。身体が知ってた。私は初めてのはずなのに、曲がる場所を間違えなかった」
ノード・ゼロが静かになる。
それは、単なる道順の記憶ではない。
世界が彼女に与えた“既知感”。
初めてなのに知っている。
知らないのに帰れる。
それは、帰還者にとって最も危険な感覚だった。
「既知感の強さは?」
ミナトが聞く。
「十段階なら、六。強すぎない。でも迷わない程度にはあった」
「気持ち悪さは?」
「八」
「恐怖は?」
「五」
「怒りは?」
アスミは一拍置いた。
「……三」
「低いな」
「その時はまだ、怒る材料が揃ってなかった。気持ち悪さの方が強かった」
チイロが小さく頷く。
「既知感六、嫌悪八、恐怖五、怒り三。いい。感情ログは道順とセットで残す。あとでアキラ接触時と比較できる」
「比較するの?」
アスミが聞く。
「する。誘導子仮説を検証するなら、接触前後の感情ベクトルを見る必要がある。アキラが何かを言った後に、君の注意がどっちへ曲がったか。道順と同じ。感情にも曲がり角がある」
アスミは目を伏せた。
「感情の曲がり角」
彼女の声は小さかった。
僕はその言葉を、胸の中で反復する。
感情にも曲がり角がある。
それなら、ヒカルの家へ向かう道は、ただの道路ではない。彼女の警戒心、恐怖、既知感、怒り、その全部がどこで曲がったのかを示す軌跡になる。
その曲がり角を一つずつ記録すれば、もしかしたら見えるかもしれない。
誰が、どこで、彼女を曲げたのか。
「次は写真館だったな」
僕は言う。
「看板の剥げた写真館」
「うん」
アスミは頷く。
「書店を右に曲がると、通りが急に静かになる。商店街の音が背中側へ下がる。少し歩くと写真館。ガラスケースに、色褪せた家族写真が飾られてた」
家族写真。
その言葉で、僕の指が一瞬止まった。
アスミも気づいたように、少しだけ眉を動かす。
「……そこに何か写ってた?」
「覚えてない。顔までは見てない。でも、家族写真だったことは覚えてる。父親、母親、子供。たぶん三人」
チイロが静かに書く。
《写真館:三人家族写真》
《父/母/子供》
《視認詳細不明》
ミサキが小さく息を吐いた。
「その配置、W2のアスミちゃんの家族構成と似てる」
「偶然かもしれない」
アスミが言う。
「もちろん」
ミサキはすぐに答える。
「でも、気づいたものはログに残す」
アスミは黙って頷いた。
そこから先、アスミの声は少しずつ低くなった。
写真館を過ぎる。
小さな坂。
塀の高い家々。
植え込み。
門柱。
表札。
そして、ヒカルの家。
そこまで行けば、いよいよ二階の部屋へ入る。
PCがある。
黒い本がある。
ヒカルがいる。
昭和アスミの痕跡がある。
僕たちは、そこまで進むつもりだった。
だが、現実は記憶の奥へ潜ることを許さなかった。
アスミが「坂の途中で」と言いかけた瞬間、僕のスマートフォンが短く震えた。
⸻
震動音は小さい。
けれど、ノード・ゼロでは妙によく響いた。
僕は画面を見る。
二階堂サツキ。
その名前を見た瞬間、背筋が伸びる。
サツキからの連絡は、基本的に騒がしい。
だが、騒がしいだけなら後回しにできる。
問題は、彼女がこの時間に、直接僕へかけてきたことだった。
僕は一度、全員を見た。
「サツキだ」
アスミの目が開く。
「今?」
「ああ」
僕は通話ボタンを押し、すぐにスピーカーへ切り替えた。
「全員で聞く。サツキ、話してくれ」
返事より先に、ノード・ゼロ全体へ声量だけで王冠が転がり込んできた。
『岡崎さん!? 皆さんいらっしゃいますの!? 大変ですわーーーーーーっ!!』
チイロが片目を細める。
「朝から音圧が国歌斉唱」
トウタが端末を持ち上げかける。
「【速報】勝利角、朝から全力――!!」
「立てるな」
僕とアスミの声が重なった。
『聞こえておりますわよ、トウタさん!! 立てるなら“天城生徒会長、十五時枠の無断変更に断固抗議”くらいにしてくださいませ!! いえ違いますわ、そんな場合ではありませんの!!』
サツキは完全に混乱していた。
いや、混乱というより、怒りが先に走って言葉がその後ろを全力で追いかけている状態だった。
『御影シオンさんが!! また!! 十五時枠の変更を申し出てきましたの!!』
その瞬間、部屋の温度が下がった。
ミナトが端末を開く。
ミサキが脈拍モニターから目を離す。
チイロのマーカーが止まる。
アスミの顔から、さっきまでの記憶探索の色が消えた。
「変更って、何を?」
僕が聞くと、スピーカー越しに紙の束が荒々しくめくられる音がした。
『細かい理屈は分かりませんわ!! 分かりませんけれど、資料にはこう書いてありますの!! “DAY1揺らぎデータを踏まえ、DAY2十五時枠における同期開始条件を一部調整し、演出同期率を段階的に引き上げる”ですって!!』
チイロが低く呟く。
「同期率を上げる?」
『そうですわ!! ほんの少しだけ、と御影さんは仰っていますの!! ほんの少しって何ですの!? 危ないものを“ちょっとだけ危なくします”って言われて、はい分かりましたなんて言えるわけありませんでしょう!?』
サツキの声が一段跳ねる。
『昨日あれだけ話し合いましたのに!! 十五時は慎重に扱う、非常停止権限を明確にする、勝手に決めない、そう確認しましたのに!! また当日の朝になって変更ですのよ!? 聞いてませんわ!! わたくし、聞いてませんの!!』
その言い方は、ほとんどヒステリックだった。
だが、誰も笑えなかった。
サツキが難しい話を理解しているわけではない。たぶん同期率も、A層B層分離も、位相ロックも、彼女の中では「なんだか危ない専門用語」の箱に入っている。
それでも、彼女は正しく怒っていた。
危険なものを、当日の朝に、責任者を飛ばして変えるな。
それだけは、誰よりも分かっていた。
ミナトが資料を受信したらしく、画面を険しい顔で見つめる。
「サツキ、変更案のファイルは来ている。確認した。これは“演出調整”ではない。観測条件の変更だ」
『でしょう!? ほら、分からないけどそういう悪い感じですわよね!?』
チイロが端末を覗き込む。
「うわ。これ、同期開始閾値を下げてる。つまり、DAY1より早く参加者の情動反応を拾い始める設定。しかも演出同期率の段階引き上げってことは、観客の選択反応をより鮮明に取るためにB層を強めるやつ。はいアウト寄り」
ミサキが表情を硬くする。
「生体監視の閾値が昨日のままなら危険。呼吸浅化や離脱反応を拾う前に、演出側が反応を増幅する可能性がある」
サツキが叫ぶ。
『つまり危ないんですのね!?』
「危ない」
アスミが即答した。
その声は冷たかった。
「シオンは、なんて言ってるの」
『御影さんは、“DAY1では安全上の問題は確認されなかったため、DAY2ではより鮮明な同期体験を提供できる”と……』
「安全上の問題が確認されなかったんじゃない。DAY1は安全側へ倒したから問題にならなかっただけ」
アスミの声に怒りが混じる。
「それを根拠に上げるのは違う」
チイロが頷く。
「まさにそれ。Safe Phaseで燃えなかったから本番で火力上げましょう、はクソ実装の典型」
トウタがぼそりと言った。
「スレなら炎上案件」
「今回は本当に炎上させていい」
アスミが低く返す。
その瞬間、僕は彼女の表情が変わったのを見た。
さっきまで彼女は、ヒカル宅へ向かう記憶の中に半身を置いていた。
だが今は違う。
十五時が、彼女を現在へ引き戻した。
それでも、完全に切り替わったわけではなかった。
アスミはスマホに向かって一歩近づくと、低い声で言った。
「ちょっと待ってよ」
サツキの声が止まる。
『え?』
「今、ようやく始められるところだったの」
アスミは毛布を握りしめた。
「ヒカルの家の道順。黒い本。昭和の私。アキラ。全部、ようやく一本に繋がるかもしれないところだった」
彼女の言葉は、サツキにはほとんど通じないはずだった。
実際、スピーカーの向こうでサツキが困惑している気配がした。
それでも、アスミは止まらなかった。
「ここで止めるの? また後回し? 十五時が大事なのは分かってる。でも、この調査だって十五時に繋がってるかもしれないじゃない」
誰もすぐには答えられなかった。
それは、アスミが正しいからだ。
ヒカルの家。
黒い本。
昭和アスミ。
アキラ少年。
それらは現在の十五時と無関係だとは言い切れない。むしろ、どこかで繋がっていると考える方が自然だった。
だからこそ、僕たちはここにいた。
記憶地図を作ろうとしていた。
過去の導線を調べることで、現在の罠を見つけようとしていた。
だが、十五時の罠は今、目の前で形を変えようとしている。
それも、当日の朝に。
サツキが大きく息を吸う音がした。
『アスミさん!!』
声が、また一段大きくなる。
『わたくし、本当に難しいことは分かりませんわ!!』
あまりにも堂々とした宣言だった。
ノード・ゼロの全員が、一瞬黙る。
『ヒカルさん? 昭和? 黒い本? アキラさん? 正直申し上げて、何が何だかさっぱりですの!!』
チイロが小声で呟く。
「潔すぎる」
サツキは構わず続ける。
『でも!!』
『十五時に何か危ないことが起きそうだということだけは分かりますわ!!』
『その十五時を、御影さんが当日の朝になって勝手にいじろうとしていることも分かりますわ!!』
『そして、そこで誰かが怪我をしたら、誰が生徒会長として責任を取るのかも分かりますわ!!』
声は荒い。
感情的だ。
理屈としては、ミナトやチイロの方が正確だろう。
でも、その瞬間、誰よりも強かったのはサツキだった。
彼女は専門用語を理解していない。
だが、責任の重さだけは理解している。
危険を曖昧な言葉で包んで通そうとする気配に、真正面から怒れる。
それは、理論ではなく役目の力だった。
『今日のお祭りで誰かが怪我をするのは嫌ですわ!! 誰かが泣くのも嫌ですわ!! 誰かが死ぬなんて、もっと嫌ですわ!!』
サツキは畳みかける。
『皆さんの調査をやめろなんて言ってませんわ!! 分からないことは分からないままで結構ですわ!! でも、今だけは十五時を先にしてくださいませ!!』
アスミは唇を噛む。
『調査は逃げません!!』
サツキは言った。
『でも十五時は待ってくれませんの!!』
ノード・ゼロに、長い沈黙が落ちた。
それはサツキの言葉が全部正しいからではなかった。
むしろ、乱暴だった。
細部を見れば、調査だって逃げる。記憶は変質する。アスミが今掴みかけていた道順は、後で同じ精度で取り戻せる保証はない。昭和五十六年の導線は、十五時の安全判断に関わっているかもしれない。
それでも、今この瞬間に動いている危険は、御影シオンの変更案だった。
アスミは目を伏せる。
「……ずるい」
『え?』
「そういう言い方されたら、反対できないじゃない」
サツキの声が、少しだけ小さくなる。
『ご、ごめんなさいまし……でも、わたくし、こういう時に上手い言い方なんてできませんの。難しいことは皆さんに任せます。でも、誰も死なせたくない。それだけですわ』
アスミは何も言わなかった。
毛布を握る指に力が入っている。
僕は彼女の横顔を見る。
彼女は納得していない。
当然だ。
今、彼女はようやくヒカルの家へ近づきかけていた。自分の記憶の奥にある、もう一人の自分へ続く道を、やっと言葉にし始めていた。その作業を止められるのは、たとえ理由が正しくても苦しい。
僕は言った。
「保留にする」
アスミが僕を見る。
「中止じゃない。放棄でもない。十五時の変更案を潰して、DAY2を終わらせて、そのあと必ず戻る」
「……本当に?」
「ああ」
「ヒカルの家も」
「戻る」
「黒い本も」
「調べる」
「昭和の私も」
「非接触照合を再開する」
「アキラも」
「誘導子仮説を確かめる」
アスミはまだ僕を見ている。
「途中で忘れない?」
「忘れない」
「ログに残して」
チイロがすでにホワイトボードへ赤字で書き始めていた。
《ヒカル宅記憶地図:一時保留》
《理由:御影シオンによるDAY2十五時枠変更申し出》
《再開条件:DAY2終了後/生体安定/十五時ログ一次確認後》
《保留は放棄ではない》
トウタがその最後の一行を見て、小さく頷いた。
「いいな。保留は放棄ではない」
「スレタイにするなよ」
「しない。これはログに残すやつ」
ミサキがアスミのモニターを確認する。
「今の状態で記憶再構成を続けるのは、私も反対。心拍も上がってるし、怒りと未練が混ざってる。このまま深掘りすると、ヒカル宅の記憶に今日の十五時の不安が混ざる」
ミナトも言う。
「記憶地図の精度を守るためにも、一時停止した方がいい。今はノイズが大きすぎる」
アスミは悔しそうに目を閉じた。
「……分かった」
その声は、諦めではない。
不満を飲み込んだ声だった。
「でも、終わったら絶対戻るからね」
「戻る」
「忘れたら怒る」
「分かってる」
「強めに怒る」
「それも分かってる」
チイロがマーカーをくるりと回す。
「はい、考察班から防災班へ強制ジョブチェンジ。なお、量子ネコさんは納得していません」
「してないわよ」
「でも行く?」
「行く」
アスミはモニターを睨んだ。
「シオンの変更案、潰す」
その声で、ノード・ゼロの空気が変わった。
過去への探索は中断された。
だが、アスミの怒りは消えなかった。
向きが変わっただけだ。
ヒカルへ向いていた刃が、十五時へ向き直る。
それは危険でもあり、頼もしくもあった。
『あの、皆さん?』
スピーカーの向こうで、サツキがおずおずと言う。
『今、何やらすごく怖い流れになっていませんこと?』
「大丈夫」
僕は答えた。
「ブリーフィングに移る。生徒会室にこれから向かう」
『では、至急お願いしますわ!! 勝利角を折られる前に、こちらで固定しますの!!』
チイロが小声で呟く。
「勝利角固定、物理学会に怒られそう」
トウタが返す。
「でもサツキなら固定しそう」
『聞こえておりますわよ!! 固定しますわ!! 根性で!!』
「根性で固定するのか……」
ミナトが小さく呟いた。
ノード・ゼロの中央モニターが切り替わる。
昭和五十六年の仮復元地図が縮小され、左端に保留タブとして格納される。
代わりに、DAY2のタイムテーブルが表示された。
《双灯祭 DAY2》
《08:30 開幕セレモニー》
《15:00 EXIT:CODE Core Phase》
《15:00 Dual Lumen Sync Session》
《追加議題:御影シオン変更案》
《目的:十五時枠の再固定》
僕は深く息を吐いた。
ヒカルの家は、まだそこにある。
小さな坂の途中。
塀の高い家々の一つ。
植え込み。
門柱。
表札。
そして二階の部屋。
そこには、おそらく黒い本があり、PCがあり、昭和アスミの痕跡がある。
でも、今は行けない。
十五時が先に来る。
僕たちは、過去の扉を閉じたのではない。
一時的に鍵をかけた。
その鍵を、アスミ一人に持たせないために。
「行こう」
僕が言うと、全員が動き始めた。
チイロはホワイトボードを写真に撮り、ミナトは変更案の差分を抽出し、ミサキは生体モニターを持ち替え、トウタは端末をポケットに突っ込み、レイカは照明を通常モードへ戻した。
アスミは最後に、保留タブになった昭和五十六年の地図を見た。
ほんの一秒。
それから、彼女は毛布を肩へ戻し、こちらを見ずに言った。
「終わったら、戻る」
「ああ」
「十五時を終わらせてから」
「ああ」
「誰も死なせずに」
「ああ」
その三つの返事は、どれも同じ言葉だった。
けれど意味は違った。
過去へ戻る約束。
現在を守る約束。
そして、彼女を一人にしない約束。
ノード・ゼロの扉が開く。
廊下の向こうから、微かに双灯祭の準備音が聞こえてきた。
台車の車輪。
遠くのマイクチェック。
誰かの笑い声。
朝の校舎の匂い。
祭りはもう動き始めている。
そして僕たちは、その裏側で、十五時という一点へ向かって歩き出した。
ヒカルの家は逃げない。
けれど十五時は、僕たちを待ってはくれない。
ヒカルの家へ続く道は、途中で閉じられた。
いや、閉じたのではない。
保留した。
アスミがようやく掴みかけていた道順を、僕たちはいったん止めた。あの小さな坂の先には、ヒカルの家がある。門柱があり、表札があり、二階の部屋があり、黒い本があり、昭和アスミの痕跡がある。
そこへ行けば、何かが分かるかもしれない。
十五時の奥にある罠の正体にも、近づけるかもしれない。
それでも、今この瞬間に動いている危険は、御影シオンの変更案だった。
アスミは納得していなかった。
当然だ。
記憶は逃げる。精度は落ちる。今掴んでいた道順が、あとで同じ形で戻る保証はない。
だからこそ、ログに残した。
保留は放棄ではない。
DAY2を越えたら戻る。
十五時を終わらせたら戻る。
誰も死なせずに戻る。
僕たちはその約束を持って、ノード・ゼロを出た。
ヒカルの家は逃げない。
けれど十五時は、僕たちを待ってはくれない。




