EP212. 黒い本と再訪の地図
僕たちは、まだヒカルの家へ辿り着いていない。
けれど、そこへ向かう道順をアスミが思い出した時点で、もう一つの扉は開き始めていた。
昭和五十六年の家。黒い本。もう一人のアスミ。アキラ少年。そして、父親の顔をした観測者。
それらは別々の謎ではない。
たぶん、すべて同じ導線上に置かれている。
なら、僕たちがやるべきことは突撃ではない。感情に任せて扉を開けることでもない。
記憶を地図に変える。
違和感を座標に変える。
恐怖を、検証可能な手順に変える。
矢那瀬家という名前の迷路を、アスミ一人に歩かせないために。
沈黙を破ったのは、意外にもチイロだった。
彼女は椅子の背もたれをぎし、と鳴らしてから、両手を軽く叩いた。拍手というより、空気を切り替えるための乾いた音だった。
「はい。ここで全員メンタルが地下二階まで沈みました。おめでとうございます。考察班、地獄の入り口に到達です。ここから先は“お気持ち”じゃなくて“検証手順”で殴ります。異論ある人?」
誰も手を上げなかった。
トウタだけが、端末を構えたまま小さく呟く。
「スレタイ決まったな。【悲報】矢那瀬家、三重構造だった件【義父・誘導子・もう一人の私】」
「立てるな!」
アスミが即座に言った。
「立てない。心の中でだけ祭る」
「祭るな!」
「じゃあ供養する」
「余計悪いって……」
トウタは口を閉じた。けれど、そのやり取りでほんの少しだけ空気が戻った。チイロの言う通り、冗談は軽くない。冗談は、場の規定値をずらす。硬直した思考を、一ミリだけ動かす。
僕はモニターの前に立った。
矢那瀬ヒカル。
昭和アスミ。
アキラ少年。
黒い本。
エクスエル。
そして、三つの矢那瀬家。
並んだ単語は、どれも名詞の形をしていた。けれど、その実体は未確定の危険物だ。触り方を間違えれば、アスミの自己同一性を壊す。急げば誤認する。遅れれば十五時が来る。
なら、やることは一つだった。
仮説を、手順に落とす。
「ヒカル宅を再訪する」
僕が言うと、アスミの目がわずかに揺れた。
「……昭和の?」
「ああ。ただし、直接行くわけじゃない。まず現在側で、場所を再構成する」
「再構成?」
「君はヒカルの家の場所を覚えているか?」
アスミはすぐには答えなかった。
その沈黙は、忘れている沈黙ではなかった。むしろ逆だ。覚えすぎていて、どこから出せばいいのか分からない時の沈黙だった。
彼女は毛布の端を握ったまま、目を細める。
「完全な住所は分からない。でも、道順は覚えてる。玖条家から出て、影都デパートを経由して、商店街の裏へ入る。古い書店の角を右。看板の剥げた写真館があって、その先に小さな坂。坂の途中で、塀の高い家がいくつか並んでる。その一つ」
「目印は?」
「門柱。表札。あと、玄関の横に植え込みがあった。妙に手入れがよかった。家全体は古いけど、荒れてはいない。生活感はあるのに、人の気配が薄かった」
チイロが指を鳴らした。
「はい来た。生活感はあるのに人の気配が薄い家。もう完全に“イベント用マップの重要施設”なんだが?」
「だから、ゲームで言うなって言ったでしょ!?」
「いや今回はあえて言う。だって、重要施設ってそういうものだから。入れる。鍵が開いてる。必要なアイテムが置いてある。NPCが自然に出てくる。出入りを咎められない。しかも二階に調査対象のPCがある。これはもうRPGなら絶対にセーブポイント近くの伏線ハウス」
「最悪」
「同意」
トウタが乗ってきた。
「しかもヒカル、初回会話でいきなり核心匂わせNPCだろ。“また研究かい?”とか言ってくるやつ。周回プレイヤーなら『こいつ絶対知ってる』ってなる。攻略Wikiなら赤字」
「攻略Wiki作るな!」
「いや作るならタイトルは『ヒカル宅チャート:黒い本回収ルート』だな」
「トウタ」
「はい黙ります」
僕はその軽口を聞きながら、端末へアスミの証言を入力していった。
道順。
目印。
植栽。
坂。
写真館。
古い書店。
塀の高さ。
玄関の位置。
階段の角度。
二階の部屋。
PCの配置。
本の置かれた位置。
ヒカルが立っていた場所。
アスミが見たものは、断片だ。けれど断片は、並べれば地図になる。人間の記憶は完璧な録画ではないが、空間記憶だけは別種の強度を持つ。特に、恐怖と警戒の中で歩いた道は、筋肉と内耳に残る。
「アスミ」
「何」
「君がその家へ向かった時、どこで迷った?」
彼女は少し眉を寄せた。
「迷ってない」
「なら、君の体は道順を覚えている。地図じゃなく、運動記憶として」
「……そういうこと」
「ああ。だから再構成できる。言葉だけじゃなく、身体感覚も使う。曲がる前の歩数、坂の傾斜、門までの距離、玄関に入った時の匂い、階段の軋み。全部ログ化する」
ミサキが小さく頷く。
「記憶誘導は慎重にやった方がいい。無理に思い出させると、別の記憶と混線するかもしれない」
「うん。だから圧迫質問はしない」
チイロがホワイトボードに大きく書いた。
《ヒカル宅再訪計画》
《Phase 0:アスミ記憶地図の再構成》
《Phase 1:現在地図との照合》
《Phase 2:土地履歴・登記・旧住宅地図の検索》
《Phase 3:現地非接触確認》
《Phase 4:侵入禁止。接触禁止。観測のみ》
そして、最後に赤いペンで追記する。
《絶対にノリで突撃しない》
トウタが片手を上げた。
「質問。絶対にノリで突撃しないって、俺向け?」
「九割あなた向け」
「残り一割は?」
チイロは僕を見た。
「ユウマ」
「僕?」
「そう。君、普段は慎重ぶってるけど、アスミが危ないってなると普通に単騎突入するタイプだから。タナトス君、そういうとこある。闇を歩く光とか言われて調子乗るなよ?」
「乗ってないし、言われたの初めてだ」
アスミが微妙に目を逸らした。
「……今それ言う必要ある?」
「ある。量子ネコさんのログは歴史的資料なので」
「消しなさい!」
「消したら歴史修正主義なので駄目です」
「この変態っ!」
アスミの叫びがノード・ゼロに反響した。
一瞬、全員が止まった。
そして、トウタが無言でスマホに何か打ち込もうとした。
「トウタ?」
「いや、今のは保存すべき文化遺産かなって」
「消して!」
「まだ打ってない」
「なら考えも消して!」
「脳内ログ削除不可だ!」
「削除しなさい!」
「無理ゲー」
チイロが笑いすぎて机に突っ伏した。
「だめだ、朝五時台のノード・ゼロ、情報量が多すぎる。ヒカル、黒い本、三重家族、量子ネコ、この変態。スレ民なら考察放棄してAA貼るレベル」
「だからスレ民を基準にするな!」
アスミは顔を赤くしながらも、完全には怒っていなかった。たぶん、怒ることで息をしている。恥ずかしさや恐怖を、怒りの形に変換して処理している。
僕はその隙に話を戻した。
「ヒカル宅再訪で確認すべきものは三つだ。一つ、場所そのものが現在に残っているか。二つ、残っているなら、矢那瀬ヒカルという人物の痕跡があるか。三つ、昭和アスミの部屋に相当する構造が残っているか」
ミナトが補足する。
「さらに四つ目。家が残っていない場合、跡地に何が建っているかを見る。消失も情報だ。特に、宅地が公共施設、学園関連施設、研究所、駐車場、空き地になっている場合は要注意だ」
「空き地も?」
ミサキが聞く。
「空き地は隠蔽に使いやすい。建物がないということは、痕跡がないように見える。しかし土地の履歴は残る。古い住宅地図、固定資産記録、航空写真、地籍図。そこを見れば、消されたものの輪郭が出る」
チイロが頷いた。
「昭和五十六年の住宅地図を当たるのが早いね。あと電話帳。ヒカルが心理学者で非常勤講師なら、大学や学園側の名簿にも載る可能性がある。問題は、矢那瀬ヒカルが本名かどうか」
アスミが顔を上げた。
「本名じゃない可能性?」
「ある。というか、そこは疑うべき。ヒカルが人間側観測者なら、研究者としての戸籍名と、養父としての名義が一致しない可能性がある。矢那瀬という姓を使っている時点で、アスミとの接続を優先した名義かもしれない」
僕はその言葉を頭の中で反復した。
矢那瀬ヒカル。
もし、その名前が彼の本名ではなく、アスミを固定するために選ばれた名義だとしたら。
彼は、父親ですらない。
父親の役を与えられた観測者だ。
「黒い本の同定に移ろう」
ミナトが言った。
モニターが切り替わる。
《黒い本》
《外観:黒い装丁》
《入手経路:ヒカルが用意》
《依頼者:昭和アスミと思われる》
《関連候補:選別遊戯系統論・基礎篇》
《危険性:理論転用/記憶混入/起動キー》
アスミの表情が硬くなった。
「……あれは、普通の本じゃなかった」
「読んだ?」
「読んでない。というより、読めなかった。内容より先に“構造”が入ってくる感じがした。キョウジの言っていた目次、章立て、用語の配置。閉鎖環境、倫理逆転、注目分配、生存誘導。あらゆる単語が、私の知っている地獄に近すぎた」
「タイトルの『選別遊戯系統論・基礎篇』も同じくキョウジからの情報。この情報を聞いて、黒い本を連想した。タイトルは表紙にあったのか、本文中の章題なのか、細かいことは聞けていない」
チイロはそこで、ふざけるのをやめた。
「そこ、超重要。タイトルとして読んだのか、概念として想起したのかで扱いが変わる。表紙に印刷されていたなら物理的出版物。章題なら限定流通の研究書。頭の中で合成されたなら、跳躍後の記憶統合で生成された概念名」
「つまり、実在しない可能性もあるってこと?」
ミサキが言う。
「ある。でも、実在しないから安全、ではない。むしろ逆の場合がある。物理本なら燃やせる。記憶に埋め込まれた理論名なら、燃やせない」
アスミは唇を噛んだ。
僕は彼女の手元を見た。毛布を握る指に力が入っている。
「黒い本の同定手順は三段階に分ける」
僕は言った。
「第一段階。アスミの記憶から外観を復元する。サイズ、厚み、紙質、表紙の手触り、背表紙、文字の色、言語、奥付の有無、出版社名、著者名。思い出せる範囲でいい」
「第二段階」
ミナトが引き取る。
「既存データベース照合。国会図書館、大学図書館、古書目録、専門書店、学術引用、海外書誌。タイトル完全一致だけではなく、選別、閉鎖環境、倫理逆転、注目分配、生存誘導の語群で検索する」
「第三段階」
チイロが続ける。
「危険語彙の系譜解析。黒い本の用語がW1の惨劇後に発生した言葉なのか、それ以前から存在した理論語彙なのかを調べる。もし昭和五十六年時点で既にその語彙があるなら、W1の地獄は後発の実装。もしW1後にしか存在しない語彙なら、昭和へ未来情報が流入してる」
トウタが腕を組んで唸った。
「それ、スレで言うと“初出特定”だな。用語の初出掘るやつ。古参が『その言葉、初出は二〇〇八年の過去ログな』ってドヤるやつ」
「その感覚は使える」
ミナトが言った。
トウタが目を丸くする。
「え、今俺褒められた?」
「用語初出の追跡は有効だ。掲示板文化のログ掘りは、出典学に近い」
「マジか。俺のスレ漁り、ついに学術化」
チイロがすぐに刺した。
「ただし、トウタくんの場合は途中で『このAA懐かしすぎワロタ』って脱線するから監視付きね」
「信頼がない」
「実績に基づく評価」
「ぐうの音も出ないwww」
少しだけ笑いが起きた。
けれど、黒い本の重さは消えなかった。
僕は画面に表示された語群を見た。
選別。
閉鎖環境。
倫理逆転。
注目分配。
生存誘導。
どれも学術語の顔をしている。顔をしているだけで、中身は刃物だ。善意を点数化し、注目を資源化し、生存を誘導する。W1の惨劇は、そういう言葉で記述できてしまう。記述できるということは、再現できるということだ。
だから、アスミは恐れている。
自分がそれを言語化してしまったかもしれないことを。
僕は言った。
「黒い本を同定する目的は、アスミを責めるためじゃない」
「分かってる」
彼女は答えた。
「でも、怖いものは怖い」
「それでいい」
「よくない」
「怖いと認識できているなら、まだ手順を守れる」
アスミは僕を見た。
僕は続けた。
「怖くなくなった時が危ない。理論をただの理論として扱い始めた時、転用の危険を忘れる。君が怖がっている限り、僕たちはこの本を凶器として扱える」
アスミは何かを言おうとして、やめた。
代わりに、チイロが少しだけ柔らかい声で言った。
「そうそう。怖いはバグじゃない。警告灯。赤ランプは嫌いだけど、警告灯としてなら役に立つ。まあ、赤ランプが点いた瞬間に世界が終わる系イベントは勘弁してほしいけど」
「それは本当に勘弁して」
トウタが真顔で言った。
次の議題は、昭和アスミだった。
直接接触はしない。
その前提が、モニターの一番上に表示される。
《昭和アスミ非接触照合》
チイロがホワイトボードへ項目を書き始めた。
《1:日記・ノート》
《2:PCログ》
《3:蔵書・書き込み》
《4:学校内証言》
《5:ヒカルとの会話痕跡》
《6:生活導線》
《7:自己同一性トリガー》
「昭和アスミを直接見る前に、彼女の“思考の跡”を見る」
チイロは言った。
「人間の本体って、顔じゃなくて癖だから。字の癖、メモの癖、問題設定の癖、否定する時の語尾、仮説を立てる順番、資料の並べ方。そういうものを集めれば、本人に会わなくてもかなり輪郭が出る」
アスミが小さく言う。
「私なら、ノートの端に式を書く」
「うん」
「でも、本当に大事なことは、直接タイトルにしない。目立つところには書かない。たぶん、どうでもいいメモの隣に置く。自分だけが分かる形で」
「だろうね」
チイロは即答した。
「つまり昭和アスミのノートを探すなら、綺麗な研究ノートだけ見ても駄目。買い物メモ、放送部の原稿、授業ノート、読書記録、PCのゲームデータ、全部見る必要がある」
「……嫌ね。自分の私物を漁られる前提で話されるの」
「嫌なのは分かる。でも、非接触照合はそれしかない。本人に会ってメンタル割るよりマシ」
ミサキがアスミを見た。
「必要なら、私が同席する。記憶が混ざりそうになったら止める」
アスミは少しだけ目を伏せた。
「……ありがと」
その声は小さかったが、ちゃんと届いた。
トウタが場を軽くするように言う。
「昭和アスミのノート、もし『未来の私へ』とか書いてあったらどうする?」
チイロが即座に返す。
「激アツ。スレなら一万レス」
「いや本当にありそうで怖いんだが」
「あるなら、むしろまだ親切。問題は、本人にしか読めない暗号で書いてある場合。アスミがアスミ向けに書いたメモとか、他人にはただの毒舌落書きにしか見えない可能性ある」
アスミが眉を寄せた。
「毒舌落書きって何よ……」
「たとえば『この設計、脳が腐ってる』とか」
「書きそうで嫌」
「でしょ」
僕はその会話を聞きながら、昭和アスミという存在を想像した。
ヒカルの養子として生活している少女。
天城総合学園に在籍し、ヒカルと喫茶店で議論し、エクスエル関連書籍を頼み、黒い本を必要としていた少女。
彼女は、未来のアスミを知っていたのか。
知っていたなら、どこまで。
W1の惨劇を知っていたのか。
それとも、未来から来る“自分”の存在だけを知っていたのか。
あるいは、自分が誰かに観測されることまで見越して、痕跡を置いていたのか。
「昭和アスミの非接触照合で確認すべき核心は三つだ」
僕は言った。
「一つ目。彼女がW1の惨劇を知っていたか。二つ目。W2アスミ、つまり君の来訪を予期していたか。三つ目。ヒカルをどのように見ていたか」
アスミが目を細める。
「ヒカルを?」
「ああ。君はヒカルを義父として見た。でも昭和アスミが彼をどう見ていたかは別だ。父親、保護者、師、共同研究者、監視者、敵。どれだったのかで、ヒカルの正体も変わる」
ミナトが頷いた。
「昭和アスミの日記やメモに、ヒカルへの呼称が複数あるかを見るべきだ。お父さん、ヒカル、先生、あの人、観測者。呼称は関係性の温度を反映する」
チイロがニヤリとした。
「呼称揺れは強いよね。恋愛でも研究でも。『岡崎くん』が『ユウマ』になった瞬間、世界線が動くみたいな」
「そこでこっちを見るな!」
「いやー、被験者Yと被験者Aの呼称変化ログ、マジで尊い統計としては一級資料でして」
「……破棄して……」
アスミが低く言った。
「破棄しない。匿名化する」
「同じ!」
「違うよ。倫理審査的には大違い」
「倫理審査を盾にするな!」
トウタが吹き出した。
「この会話、完全に『研究者女子、恋バナを統計化しがち』スレ」
「立てるな!」
「立てないって」
僕は少しだけ息を吐いた。
この軽さが、今はありがたかった。
そして最後に残ったのは、アキラだった。
《アキラ誘導子仮説:確定手順》
モニターにそう表示された瞬間、空気がまた変わる。
アキラ少年。
六歳。
砂場。
式。
お姉ちゃん。
苗字への反応。
“やっとそこまで読めるようになった”。
子供の言葉としては、あまりにも不自然。けれど、完全な上位存在としては、あまりにも人間臭い。
だからこそ厄介だった。
ミナトが言った。
「アキラ誘導子仮説を確定するには、彼の発話と行動が“偶発的な子供の言動”を超えて、アスミの認知進行を特定方向へ導いているかを判定する必要がある」
「具体的には?」
ミサキが聞く。
「三条件だ」
ミナトは指を立てる。
「第一条件。情報先取り性。アキラが、アスミがまだ言語化していない仮説段階を理解していたか」
「第二条件」
チイロが続ける。
「誘導方向の一貫性。彼の言葉や行動が、毎回ヒカル、黒い本、昭和アスミ、家族タグのどれかへ繋がっているか。ただの不思議発言ならノイズ。でも毎回同じ方向へ押してくるなら誘導」
「第三条件」
僕は言った。
「接触後の情報増分。アキラと会ったあと、アスミが何を知り、何へ向かったか。彼が現れることで盤面が進んでいるなら、彼はイベントではなく機能だ」
アスミは黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……彼、寂しそうだった」
全員が彼女を見る。
「ただの誘導装置みたいには見えなかった。子供としての温度はあった。私をからかったり、試したりしてる感じもあった。でも、それだけじゃなかった。自分が何かを言わなきゃいけないって分かってるみたいな、そういう諦め方をしてた」
その言葉は、僕たちの仮説に余白を作った。
アキラは誘導子かもしれない。
でも、誘導子だから人間ではない、とは言えない。
むしろ、人間として生きながら、誘導子の役割を背負わされている可能性がある。
その場合、彼はヒカルや昭和アスミとは別の意味で被害者だ。
「なら、アキラを確かめる時の条件を一つ追加する」
僕は言った。
「彼を機能としてだけ扱わない」
チイロが僕を見る。
「甘いね」
「そうだな」
「でも必要」
「ああ」
ミナトがモニターに追記した。
《第四条件:情動反応の確認》
《アキラを単なる機能体として扱わない》
《発話内容だけでなく、孤独・恐怖・義務感の有無を評価》
トウタが小さく言った。
「六歳児にそこまで背負わせる世界、クソすぎるだろ」
誰も否定しなかった。
チイロも、ミームで崩さなかった。
アスミは目を伏せる。
「もし、アキラが本当に誘導子なら」
彼女は言った。
「私は、彼に利用されてたの?」
「違う」
僕は答えた。
「誘導されたことと、利用されたことは同じじゃない。彼が何を知っていて、どこまで自分の意思で動いていたのかを見ないといけない」
「でも、私を動かした」
「動かした。そこは認めるべきだ」
アスミの肩が少し沈む。
「腹立つ」
「うん」
「でも、子供だった」
「うん」
「……だから余計に腹立つ」
「分かる」
彼女は少しだけ僕を睨んだ。
「分かったような顔しないで」
「してない」
「してる」
「じゃあ、してたかもしれない」
「そこは否定しなさいよ!」
トウタが小声で言う。
「はいはい、ここ尊い」
「トウタ」
「すみません」
チイロがようやく少し笑った。
「でも実際、ここでアスミが怒れるのは大事。怒りが残ってるなら、まだアキラを“謎の鍵キャラ”として消費してない。人間として見てる」
「鍵キャラって言うな!」
「ごめん。じゃあ、少年A」
「もっと悪い!」
ノード・ゼロの時計は、午前六時を過ぎていた。
十五時まで、九時間を切った。
空気はまだ重い。
けれど、ただ怯えている段階は終わりつつあった。
僕たちは、モニターに並んだ検証計画を見た。
《ヒカル宅再訪》
《黒い本同定》
《昭和アスミ非接触照合》
《アキラ誘導子仮説確定》
四つの項目。
四つの地雷。
そして、その全てがアスミの記憶に依存している。
僕は改めて彼女を見る。
「アスミ」
「何」
「ここから先、君に負荷がかかる。ヒカル宅の記憶も、黒い本も、昭和アスミも、アキラも、全部君の中を通る。だから、手順を決める。君が止めると言ったら止める。記憶再構成は一回二十分まで。ミサキが生体反応を見る。チイロが質問を制御する。ミナトがログ化する。トウタは脱線しすぎたら黙る」
「俺だけ雑じゃね?」
「でも必要だ」
「了解。脱線制御役、俺」
「違う。脱線する側だ」
「ですよね」
アスミは少しだけ笑った。
笑ったというより、口元の緊張が一瞬だけほどけた。
「……分かった。やる」
「本当に?」
「やる。逃げないって言ったでしょ」
「言った」
「でも、ひとつ条件」
「何?」
アスミは、まっすぐ僕を見た。
「私が自分を元凶だって言い出したら、止めて」
その声は静かだった。
震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
僕は頷いた。
「止める」
「強めに」
「分かった」
「論理で」
「もちろん」
「変に優しくしないで」
「……努力する」
「そこは即答しなさいよ!」
チイロがニヤニヤし始めた。
「おっと、ここで“変に優しくしないで”いただきました。これは名言。尊い統計に登録……」
「しないで!」
「匿名化するから!」
「だから同じ!」
トウタが笑い、ミサキが困ったように笑い、レイカが胸に手を当てて大げさに頷いた。
「幕は決まったわね。再訪ではなく再演、接触ではなく照合。矢那瀬家という舞台を、観客席から読み解く」
ミナトが最後のチェックを入れる。
《実行順》
《1:アスミ記憶地図作成》
《2:黒い本外観復元》
《3:昭和アスミ思考痕跡リスト化》
《4:アキラ発話ログ再構成》
《5:現在地図・書誌・土地履歴照合》
《6:現地非接触観測》
僕はそのリストを見つめた。
ようやく、進むべき順番が見えた。
答えはまだ遠い。
ヒカルが何者なのかも、黒い本が実在するのかも、昭和アスミが何を知っていたのかも、アキラが本当に誘導子なのかも、まだ何も確定していない。
けれど、僕たちは少なくとも、闇を闇のまま眺める段階を終えた。
闇に輪郭を与える。
輪郭が出れば、測れる。
測れれば、壊し方ではなく、救い方を考えられる。
アスミが毛布を肩に戻す。
その動作は、さっきより少しだけ安定していた。
「じゃあ、始めよう」
僕が言うと、チイロがマーカーを構え、トウタが端末を構え、ミナトがログを開き、ミサキがアスミの脈拍モニターを確認した。
レイカは静かに、照明を少しだけ落とした。
ノード・ゼロの中央に、昭和五十六年の記憶が、これから展開される。
それは過去を懐かしむための作業ではない。
家族という名前で置かれた罠を、一つずつ分解するための手術だった。
こうして、僕たちはヒカル宅再訪のための最初の手順を決めた。
再訪と言っても、まだ足を踏み入れるわけではない。
まずはアスミの記憶から、道順を復元する。黒い本の重さを記録する。昭和アスミの痕跡を、直接会わずに照合する。アキラ少年が本当に誘導子なのか、それとも役割を背負わされた子供なのかを見極める。
どれも危険だった。
けれど、危険だからこそ順番が必要だった。
アスミは元凶ではない。
僕は、その結論をまだ仮説ではなく、彼女を守るための前提として握っていた。
もし彼女が自分を責めるなら、止める。
もし記憶が彼女を呑み込むなら、引き戻す。
もしヒカルの家へ続く道そのものが罠だったとしても、その導線を一人で歩かせたりはしない。
午前六時を過ぎたノード・ゼロで、僕たちはようやく過去への扉に手をかけた。
昭和五十六年は、まだ終わっていない。
そしてヒカル宅へ続く道は、ただの帰り道ではなかった。
アスミという存在を、もう一人のアスミへ近づけるために敷かれた、静かな選別経路だった。




