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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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206/216

EP211. 家族牽引と、人を世界に縫い留める誘導子

 僕たちは、まだ知らなかった。


 矢那瀬ヒカルという名前が、ただ一人の男を指しているだけではないことを。


 父親。養父。心理学者。認知設計者。非常勤講師。観測者。理論の保管者。


 肩書きを並べれば並べるほど、彼の輪郭は見えるどころか、むしろ曖昧になっていった。けれど、本当に恐ろしかったのはヒカルの正体そのものではない。


 彼を中心にして浮かび上がる、三つの矢那瀬家だった。


 現在のアスミが持つ家族。W1の記録に残る家族。そして昭和五十六年で、もう一人のアスミを包んでいた家族。


 同じ名前が、違う世界線に、違う意味で配置されている。


 それが偶然ではないと気づいた時、僕たちはようやく理解し始めた。


 家族とは、帰る場所である前に、人間を世界へ縫い留める識別子なのだと。


 ノード・ゼロの空気は、まだ完全には戻っていなかった。


 アスミが毛布を肩へ戻してから、ほんの数分しか経っていない。時計の表示は進んでいる。午前五時四十七分。十五時まで、九時間と少し。


 それなのに、僕たちはもう次の地雷へ足を踏み出そうとしていた。


 矢那瀬ヒカル。


 その名前が中央モニターに表示された瞬間、アスミの表情がわずかに硬くなった。


 ヒカルは、昭和五十六年で彼女が接触した義理の父親。


 心理学者。認知設計者。天城総合学園の非常勤講師。


 そして、昭和側の矢那瀬アスミの保護者。


 ただし、ここで最初に確認しなければならないのは、僕たちが昭和五十六年の矢那瀬家について直接観測したわけではないということだった。ノード・ゼロのモニターに表示されている情報は、どれだけ整然と並べられていても、その大半はアスミが昭和で見聞きし、記憶し、帰還後に言語化した断片から再構成されたものにすぎない。


 つまり、一次情報源はアスミだ。


 昭和の校舎の匂いも、玖条家の広さも、影都デパートの書架も、ヒカルの家の玄関が施錠されていなかったことも、二階の私室に置かれていた古いPCも、ヒカルが「また、研究かい?」と言った声の温度も、彼が額へ触れた手の自然さも、頼まれていた本を差し出した時の間も、全部、アスミという一個の観測装置を通してこちらへ届いたものだ。


 だからこそ、僕たちは慎重でなければならなかった。


 アスミを疑う、という意味ではない。


 むしろ逆だ。


 彼女の記憶を信じるなら、その記憶がどんな条件下で形成され、どこで恐怖や疲労や自己同一性の揺らぎに汚染され得るのかまで含めて扱わなければならない。


 ミナトが端末を操作しながら言った。


「まず前提を改めて置く。昭和五十六年に関する情報源は、現状ほぼ矢那瀬アスミ一名の証言だ。映像ログもセンサーログもない。物証は、アスミが持ち帰った記憶と、跳躍後に残った認知的な残響だけ。したがって、俺たちは“昭和に何があったか”を直接解析しているのではなく、“アスミが昭和で何を観測したか”を解析している」


 アスミは、少しだけ目を細めた。


「それ、私の証言にバイアスがあるって言いたいの?」


「ある」


 ミナトは即答した。


 そのあまりの速さに、トウタが小さく「うわ」と呟いた。


 だがミナトは、アスミを責める声ではなかった。


「ただし、それは証言の価値が低いという意味ではない。観測者が人間である以上、バイアスは必ずある。重要なのは、バイアスの存在を消そうとすることではなく、どの方向へ歪みやすいかを把握した上で使うことだ」


 アスミは黙った。


 チイロが、机の端に腰を預けながら続ける。


「特に昭和に行ったアスミは、ずっと“定着するな”って自分に言い聞かせてたわけでしょ?生活に馴染むこと自体が帰還座標の喪失に繋がると考えてた。そうなると、家族、家、食事、呼称、帰宅、保護者、そういう生活系の情報に対して過敏になる。逆に言えば、そこはかなり精密に観測してるはず」


「……嫌な評価ね」


「良い評価だよ。怖がっていたからこそ、よく見ていた。少なくとも、見ようとしてなかった人間よりずっとマシ」


 アスミは反論しなかった。


 僕は、その沈黙を見てから口を開いた。


「だから最初に聞きたい。今の君の家族構成を、具体的に教えてほしい」


 アスミの視線が僕へ向いた。


 空気が、微妙に変わった。


 たぶん、彼女はヒカルの話をされると思っていた。昭和のアキラ少年や、黒い本や、もう一人のアスミの話へすぐ入ると思っていた。


 けれど僕が最初に聞きたかったのは、もっと手前だった。


 現在のアスミ。


 W2にいる、目の前の矢那瀬アスミの家族構成。


 そこを曖昧にしたまま昭和の矢那瀬家を論じることはできない。なぜなら、今この時点で僕たちの前には、少なくとも三つの“矢那瀬家”が並び始めているからだ。


 ひとつ目は、W2のアスミの家族。


 ふたつ目は、僕がW1の彼女の記憶に触れて接続している家族情報。


 そして三つ目は、昭和五十六年に存在しているらしい、ヒカルを保護者とする矢那瀬家。


 同じ名前が、違う層に、違う意味で貼られている。


 それを“偶然”と呼ぶには、あまりにも貼り方が整いすぎていた。


 アスミはしばらく僕を見ていた。


 怒っているようにも、困っているようにも見えた。


 やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「……聞き方がずるい」


「必要だから聞いてる」


「分かってる。分かってるから、ずるいって言ってるのよ」


 僕は何も言わなかった。


 アスミは毛布の端を指で握り、少しだけ目を伏せた。


「W2の私の家族構成は、少なくとも公的には父、母、私。妹はいない。戸籍上の構成もそれに近い。ただ、父との関係は……普通の親子って言うには少しズレてる。研究に対する距離感も、放任と管理の中間みたいなところがあった。母は生活の側にいる人で、私の研究や過去改変について深く踏み込むタイプじゃない」


「父親の名前は?」


 僕が聞くと、アスミの指が止まった。


 ほんの一瞬。


 でも、止まった。


「……ヒカルじゃないわよ……矢那瀬アキラ」


 その答えは、予想していたよりも重かった。


 トウタが、口を開きかけて閉じる。


 ミサキがアスミを見る。


 レイカは腕を組んだまま、あえて何も言わない。


 ミナトが端末に入力する。


《W2アスミ:父アキラ》

《W2アスミ:妹なし》

《W2アスミ:母カスミ》

《W1接続情報:母カスミ/妹ミズキ/父アキラ》

《昭和側:義父ヒカル/昭和アスミ/アキラ少年》


 僕は画面の文字を見つめた。


 アスミは唇を噛んだ。


「W1では、君の記録の中に母カスミと妹ミズキが出てくる。そこにアキラという名前も接続する。だけど、それをW2の君が“普通の家族記憶”として持っていなかった。いや、眠っているだけかもしれない。W1の記憶は、君の人生そのものというより、惨劇の記録と一緒に流れ込んできた家族タグに近い。つまり、W2の現在家族と、W1由来の家族情報は一致しない。そして、昭和のアスミは、ヒカルの養子、というか、そう扱われていた。さらにそこに、昭和のアキラ少年がいる」


 アスミは顔を上げた。


 その瞳に、はっきりと警戒が戻る。


「……いる。少なくとも、私の前には現れた」


 ミナトが静かに言った。


「これで三層になる」


 モニターに図が表示される。


《W2:矢那瀬アスミ》

《家族構成:父/母/本人》

《父:アキラ》

《母:カスミ》

《妹:なし》


《W1接続情報:矢那瀬アスミ》

《父:アキラ》

《母:カスミ》

《妹:ミズキ》


《昭和五十六年層:矢那瀬アスミ》

《義父:矢那瀬ヒカル》

《アキラ少年:存在確認中》

《もう一人のアスミ:存在可能性高》


 チイロが低く呟いた。


「三つの家族構成。しかも全部、“アスミ”という中心名義へ接続してる。これ、普通に考えると血縁の話じゃない。索引構造だね」


「索引?」


 ミサキが聞く。


「うん。家族名が、人物の生物学的な関係じゃなく、世界線間で同じ情報束を呼び出すためのタグになってる可能性。母、妹、父、義父、兄弟、養子。そういう家族語彙が、アスミという個体を固定するための座標指定に使われてる」


 アスミの顔が歪んだ。


「家族を、座標指定に使うってこと?」


「嫌な言い方だけど、そう。家族って、一番強い自己同一性の固定装置だから。名前より強い。学校より強い。だって人間は、自分が誰かを説明するとき、“誰の子か”“誰の姉か”“誰の妹か”を使える。世界が人間を固定したいなら、家族構成を使うのは合理的」


「合理的とか言わないで」


「ごめん。でも、そういう構造に見える」


 アスミは黙り込んだ。


 僕は彼女の顔を見ながら、言葉を選んだ。


「なら、昭和の矢那瀬家は“家族”であると同時に、君を固定するための実験環境だった可能性がある」


 アスミの肩がわずかに揺れる。


「……実験環境」


「君が昭和で目覚めたあと、最初に考えたのは“馴染むな”だった。生活に馴染めば定着する。定着すれば帰れなくなる。君はそう判断していた」


「うん」


「でも世界側は逆に、君を馴染ませるものを次々に置いてきた。玖条家。リツコ。食事。放送部。影都デパート。七不思議。街の記憶。そしてヒカルの家」


 僕は一度息を吸った。


「その中で、ヒカルの家だけが異質だ。リツコたちは生活として君を受け止めた。でもヒカルは、生活の顔をしながら、君の違和感を保留した」


 ミナトが頷く。


「そこが重要だ」


 彼はモニターに、アスミの証言から抽出した項目を並べる。


《玄関無施錠》

《二階私室で接触》

《PCモニタを見て「また、研究かい?」》

《額へ触れる》

《天城在籍を示唆》

《記憶研究への助言》

《頼まれていた本を手渡し》

《「お父さん」呼称に反応》

《追及せず》

《退出を自然に受け入れる》


 トウタが画面を見て、顔をしかめた。


「これ、改めて見ると怖いな。普通の父親なら、娘の様子が変だったらもっと聞くだろ。いや、うちの親なら絶対聞く。なんならスマホ没収されるレベルで聞く」


「昭和にスマホはないけどね」


 チイロが即座に突っ込む。


「そこじゃねえよ」


「でも言いたいことは分かる」


 チイロは画面を見たまま続けた。


「ヒカルの反応は、親として自然に見えるんだけど、自然すぎる。普通の親なら心配が先に出る。心理学者なら観察が先に出る。だけどヒカルは、その二つをかなり高精度で混ぜてる。心配の形を取りながら、観察をしている。追及しないことで、アスミから余計な情報を引き出そうとしているようにも見える」


 アスミが低く言った。


「……やっぱり、気づいてたと思う?」


 ミナトは即答しなかった。


 彼は画面を数秒見つめ、そこからアスミへ視線を移す。


「高確率で気づいていた。少なくとも、“いつもの昭和アスミではない可能性”までは検出していたはずだ」


 アスミの喉が小さく動く。


「なら、なんで何も言わなかったの」


「言わない方が情報量が増えるからだ」


 ノード・ゼロが沈黙した。


 ミナトの言葉は冷たい。


 けれど、たぶん正しかった。


「問い詰めれば、相手は防御する。防御すれば、得られる情報は減る。逆に、自然に受け入れれば、相手は自分から動く。部屋を見る。本を受け取る。呼称を誤る。帰る。次の接触点を残す。ヒカルが認知設計者なら、あそこで最適な行動は追及ではなく保留だ」


 アスミが小さく笑った。


 笑いというより、息が壊れた音だった。


「最低」


「最低だ」


 僕は言った。


「でも、ヒカルが元凶だと決めるにはまだ早い」


「……またそれ」


「大事なことだ」


 僕はアスミを見る。


「ヒカルは君を観測していた可能性が高い。でも、観測していたことと、加害者であることは同じじゃない。W1の記憶の残滓で僕は嫌というほど見た。観測は加害へ転倒する。でも、すべての観測が最初から加害として始まるわけじゃない」


 アスミは僕を睨んだ。


「ヒカルを庇ってるの?」


「違う」


「じゃあ何?」


「分類してる」


 僕は答えた。


「ヒカルが何者なのかを考えるなら、感情で“父親失格”と言って終わらせるわけにはいかない。彼は父親で、心理学者で、認知設計者で、書籍の調達者で、PCや研究を黙認する保護者で、もう一人のアスミの存在を把握していたかもしれない観測者だ。これらは全部、同時に成立し得る」


 レイカが静かに言った。


「舞台で言えば、役者であり、演出助手であり、小道具係であり、客席の観察者でもある。ひとつの肩書きに閉じ込めると、見誤るわね」


 チイロが頷く。


「しかも、一番嫌なのは“養父”って点だよ」


 アスミが目を向ける。


「どういう意味……?」


「実父じゃない。義理の父。つまり家族関係が血ではなく、制度と選択で作られている。これ、世界線干渉の文脈ではかなり重要。血縁なら生物学的連続性の話になる。でも養子なら、誰かが“この子を矢那瀬家に入れる”という決定をしたことになる」


 ミナトが続ける。


「つまり昭和アスミは、矢那瀬家に生まれたのではなく、矢那瀬家へ配置された」


 配置。


 その言葉が、ノード・ゼロの空気に落ちた。


 アスミの顔から、少し血の気が引く。


「……配置された……?」


「……仮説だ」


 ミナトは言った。


「だが、この仮説は説明力が高い。昭和アスミがヒカルの養子であること。ヒカルが心理学者であること。彼女がエクスエル関連書籍を必要としていたこと。私室に閉鎖環境下の行動分岐モデルに近いPCプログラムがあったこと。そして、W2由来のアスミが接触しても、ヒカルが大きく崩れなかったこと。これらを一つの線で結ぶなら、“ヒカルは昭和アスミを保護していた”だけでは足りない」


「じゃあ、何……?」


 アスミの声は低い。


 怒りではなく、答えを求める低さだった。


 僕は言った。


「ヒカルは、昭和アスミを育てていたんじゃない。世界線干渉に耐えられる観測者として、調整していた可能性がある」


 アスミは黙った。


 チイロが、机の上で指を組む。


「言い換えるなら、ヒカルは“父親の形をしたラボ環境”だったのかもしれない」


「チイロ」


 ミサキが咎めるように言った。


 チイロは一度だけ目を伏せる。


「言い方が悪いのは分かってる。でも、ここは濁すと危ない。昭和アスミが被害者だったとしても、同時に研究主体だった可能性がある。ヒカルに利用されていただけとは限らない。むしろ、黒い本とエクスエル書籍を頼んでいたのが昭和アスミなら、彼女はかなり能動的に動いている」


「それは……」


 アスミは言いかけて、止まった。


 たぶん、彼女自身も分かっている。


 昭和のもう一人のアスミが、自分ならどうするか。


 自分の部屋に誰かが入り、自分のPCを触り、ヒカルと会話し、自分と似た語彙を持ちながら微妙にズレた呼称を使った異物がいると知ったら、彼女は探す。


 保留では終わらせない。


 接触点を洗う。


 ヒカルの表情を読む。


 PCの起動痕を確認する。


 本の位置を調べる。


 そして、その異物が何者なのかを突き止める。


 それは、アスミ自身が一番よく知っているはずだった。


 僕は言った。


「もう一人のアスミと接触していたら、どうなっていたと思う?」


 アスミは、ゆっくり顔を上げた。


「最悪」


「具体的に」


「……まず、互いに相手を偽物だとは断定しない。そこまで雑じゃない。たぶん最初にするのは、同一性の確認。記憶、語彙、研究内容、家族構成、ヒカルへの呼称、エクスエルに対する理解、W1の惨劇に関する反応。そういうものを質問で突き合わせる」


「戦闘にはならない?」


「初手ではならないと思う。少なくとも、私なら相手を壊すより先に情報を取る」


「その後は?」


 アスミは少し黙った。


「その後は、どちらがより“この世界に認められているか”の問題になる」


 ミナトの指が止まった。


 アスミは続ける。


「昭和の私が本当にこの世界の学籍、戸籍、生活、ヒカルとの関係を持っているなら、世界はそっちを“正規の矢那瀬アスミ”として扱う。私は異物。たとえ記憶や知識が本物でも、社会的承認では負ける。逆に、私がヒカルやアキラや黒い本に関する何かを先に掴んでいたなら、情報優位は私にある。そうなると、二人のアスミは物理的な本物偽物じゃなく、世界から見た正規個体と、情報から見た正規個体に分裂する」


 チイロが小さく息を吐いた。


「自己同一性の競合ね。しかも、同じ名前、近い思考形式、同じ研究対象、違う家族構成。普通にメンタルが割れるやつ」


 トウタが顔をしかめる。


「いや、それ会ったらアウトじゃね? 同じ顔かどうかは知らんけど、同じ名前で同じ頭の回転のやつが目の前にいて、お互いに“お前何者?”ってなるんだろ。怖すぎるだろ」


「怖いだけじゃない」


 ミナトが言う。


「観測上も危険だ。同一名義の二個体が直接接触した場合、世界側がどちらを正規として扱うか再計算する可能性がある。タイムパラドクスだ。最悪の場合、片方の履歴が削除される。あるいは、両者の記憶が混線する」


 ミサキが小さく言った。


「だから、昭和で接触しなかったことは、結果的にはよかったのかもしれない」


 アスミは答えなかった。


 その沈黙の中で、僕は画面のアキラという名前を見た。


 昭和五十六年時点、六歳。


 けれど、アスミの証言では、彼はただの六歳児ではなかった。


 彼は砂場に式を描いた。


 “戻る”という現象を、時間反転ではなく座標の再同定として扱っていた。


 アスミが考えていた理論と骨格が近すぎるものを、六歳の少年が、当たり前のように口にした。


 そして、彼は言った。


 お姉ちゃん、やっとそこまで読めるようになったんだ。


 “やっと”。


 その一語が、どうしても引っかかる。


 僕は言った。


「アキラ少年について考えよう」


 アスミの表情が変わった。


 ヒカルよりも、昭和アスミよりも、その名前に対する反応は複雑だった。


 家族タグ。


 六歳。


 少年。


 でも、ただの子供ではない。


「彼は君を“お姉ちゃん”と呼んだ」


「うん」


「そして、君の理解段階を以前から見ていたような言い方をした」


「……うん」


「苗字を聞かれたとき、明らかに反応した」


「そう」


「なら、アキラは単に昭和にいる少年ではない。彼は、矢那瀬家の索引構造の中で、かなり深い位置にいる」


 ミナトが頷く。


「アキラの正体仮説は、現状四つに分けられる」


 画面が切り替わる。


《A:昭和側の実在児童》

《B:W1家族情報から投影された弟/兄弟タグ》

《C:未来情報を持つ観測補助体》

《D:ヒカルまたは黒い本側のインターフェース》


 トウタが眉を上げる。


「インターフェースって、六歳児が?」


「外見年齢は信用できない」


 ミナトは淡々と言った。


「昭和層では、年齢は社会的役割の偽装に使われている可能性がある。アキラが六歳に見えることと、彼の認知内容が六歳相当であることは同義ではない」


 チイロが腕を組む。


「でも、いきなり人外扱いするのも危ない。私はBとCの混合が一番腹落ちするかな」


「どういう仮説?」


 ミサキが聞く。


「アキラは、W1または未確定の矢那瀬家情報に含まれる“家族タグ”が、昭和層で少年として具現化した存在。ただし、単なる投影じゃなく、昭和アスミとW2アスミの接触を調停するための観測補助機能を持っている。だから子供の姿をしている。警戒されにくいし、“お姉ちゃん”という呼称でアスミの防御を崩せるから」


 アスミが低く言った。


「……最悪」


「うん。最悪。でも説明力はある」


 僕は画面を見る。


 たしかに、それが一番腹落ちする。


 アキラがただの子供なら、理論の理解が異常すぎる。


 未来から来た存在なら、昭和で六歳の社会的立場を持つ理由が弱い。


 ヒカルの実子なら、なぜアスミの理論に先回りできるのか説明が足りない。


 だが、家族タグとして配置され、同時に観測補助体として機能しているなら、彼の曖昧さはむしろ自然になる。


 彼は人間ではない、という意味ではない。


 人間として生きている可能性はある。


 けれど、その役割が単なる子供ではない。


 僕は言った。


「アキラは、ヒカルよりも“世界側”に近いかもしれない」


 アスミが僕を見る。


「ヒカルより?」


「ああ。ヒカルは人間として観測し、保留し、研究している。でもアキラは、君の理解段階を知っているような発話をした。つまり、彼はヒカルのように“見て判断した”のではなく、“すでに知っていた”可能性がある」


 ミナトが続ける。


「なら、ヒカルとアキラの関係も重要だ。ヒカルがアキラを管理しているのか。アキラがヒカルの観測環境に紛れ込んでいるのか。それとも両者が同じ上位構造に属しているのか」


「一番腹落ちするのは?」


 アスミが聞いた。


 僕は少しだけ考えた。


 ここで安易に答えれば、彼女はその仮説に引っ張られる。


 でも、答えなければ解析は進まない。


「ヒカルは、昭和アスミを保護する名目で観測していた人間側の研究者。アキラは、その観測環境に配置された家族タグ兼ガイド。つまり、ヒカルは“観測者”、アキラは“誘導子”だと思う」


 ノード・ゼロの空気が重くなった。


「誘導子……」


 アスミが繰り返す。


「アキラは、君を直接支配しない。けれど、必要な問いへ向かわせる。砂場に式を描き、苗字を聞かせ、ヒカルや黒い本や六月二十四日へ意識を向けさせる。彼は答えそのものじゃない。答えに近づくための角度を調整している」


 チイロが頷く。


「ガイドキャラね。ただし、親切なナビじゃない。プレイヤーを安全地帯へ導くんじゃなく、必要な地雷を踏ませるタイプ」


「ゲームで言わないで」


 アスミが低く言う。


「ごめん。でも、構造としては近い」


 ミナトが端末に入力する。


《暫定仮説:ヒカル=人間側観測者/認知設計者》

《暫定仮説:アキラ=家族タグ由来の誘導子》

《昭和アスミ=正規名義保持者/解析者》

《W2アスミ=外来観測者/干渉者》

《黒い本=選別遊戯系統論またはその前駆資料》

《エクスエル=選別国家モデル/理論参照元》


 レイカが言った。


「なら確かめ方が必要ね。舞台上で役者を疑うだけでは、演出家の位置は見えない」


「確かめる方法は五つある」


 ミナトはすぐに答えた。


「一つ目。家族構成の照合。W2の戸籍、W1記録、昭和層の矢那瀬家情報を並べ、共通名と欠落名を見る。名前が一致する箇所ではなく、一致しない箇所が重要だ」


 僕は頷いた。


「一致は罠になり得る。違いの方が、世界が隠しきれなかった継ぎ目になる」


「二つ目。ヒカルの職歴と研究分野の照合。心理学者、認知設計者、非常勤講師という肩書きが、具体的に何を意味するのかを分解する。特に記憶研究、児童心理、閉鎖環境実験、集団行動誘導、教育工学との接点を見る」


「三つ目は?」


 アスミが聞く。


「PCのプログラム解析。昭和アスミの私室にあった1977年製PCと、そこで動いていた死の分岐モデルらしきプログラム。あれがゲームなのか、行動分岐シミュレーションなのか、選別遊戯系統論の前段なのかを判定する」


 チイロが口を挟む。


「ただし現物がない。だからアスミの記憶から画面構成、入力方式、出力文言、分岐条件を再構成するしかない。記憶ベースのリバースエンジニアリングね。精度は落ちるけど、やらないよりマシ」


「四つ目。黒い本の同定」


 ミナトの声が低くなる。


「『選別遊戯系統論・基礎篇』が実在するのか。実在するなら、昭和の紙媒体として存在したのか、それとも跳躍後に記憶へ混入した概念なのかを判定する。これは最優先に近い」


 アスミが唇を噛む。


「もし実在したら?」


 僕は答えた。


「転用経路を追う」


「破棄じゃなくて?」


「破棄も選択肢だ。でも、破棄だけでは足りない。誰が書いたのか、誰が読んだのか、どこへ渡ったのかを知らないまま消せば、別の写しが残る。構造を断つには、流通経路を断たなければならない」


 ミナトが最後の項目を出す。


「五つ目。もう一人のアスミとの非接触照合」


「非接触?」


 ミサキが聞き返す。


「直接会うのは危険すぎる。だから、日記、PCログ、本の書き込み、ヒカルとの会話記録、学校内での言動、放送部や天城側の証言から、昭和アスミの思考形式を間接的に復元する。本人接触は最後の手段だ」


 アスミは、少しだけ苦く笑った。


「私を、私に会わせないための計画ね」


「そうだ」


 ミナトは言った。


「同一性競合を避けるためには、それが最も合理的だ」


 アスミは目を伏せた。


 しばらく、誰も話さなかった。


 ノード・ゼロのサーバー音だけが低く鳴っている。


 午前五時五十六分。


 十五時まで、九時間と四分。


 時間はまだある。


 でも、その時間はもう猶予ではなく、解剖台の上に置かれた刃物のようだった。


 僕はモニターを見る。


 ヒカル。


 昭和アスミ。


 アキラ。


 カスミ。


 ミズキ。


 W1。


 W2。


 昭和五十六年。


 三つの家族構成。


 三つの矢那瀬。


 そして、その全部を貫く“家族”という最も柔らかく、最も残酷な固定装置。


「結論を置く」


 僕は言った。


 アスミが顔を上げる。


「ヒカルは元凶とは断定できない。むしろ、元凶そのものではない可能性が高い。でも無関係では絶対にない。彼は昭和アスミを保護者として受け入れたのではなく、世界線干渉に耐えうる観測者として育成、または調整していた可能性がある」


 僕は続けた。


「アキラ少年は、単なる子供ではない。最も腹落ちするのは、矢那瀬家の家族タグから派生した誘導子、あるいは観測補助体としての存在だ。彼はヒカルの管理下にあるとは限らない。むしろ、ヒカルが人間側の観測者であるなら、アキラは世界側に近い」


 アスミの瞳が揺れる。


「じゃあ、昭和の私は?」


「昭和の君は、被害者であり、解析者だ」


 僕は言った。


「そしてたぶん、引き継ぎ主体でもある」


「引き継ぎ主体……」


「黒い本とエクスエル書籍は、彼女が未来から来た君に渡すために用意していた可能性がある。あるいは、ヒカルに預けていた。どちらにせよ、昭和アスミは何かを知っていた。ただ利用されていただけじゃない」


 アスミは、何か言おうとして、言えなかった。


 その沈黙の代わりに、僕は言葉を重ねた。


「でも、君は元凶じゃない」


 アスミの目が僕を見た。


「昭和の君が理論を解析していたとしても、ヒカルと共同で選別遊戯系統論に近いものを組み上げていたとしても、それはデスゲームを作るためだったとは限らない。むしろ、W1の惨劇を再現不可能にするための構造理解だった可能性が高い」


 チイロが静かに頷いた。


「防災マニュアルが攻撃マニュアルに転用されるみたいにね」


 レイカが続ける。


「舞台を守る者は、舞台の壊し方も知ってしまう。そこに罪があるとすれば、知識そのものではなく、知識を奪って演目へ変えた者の方よ」


 アスミは、モニターを見た。


 そこにはミナトが追加した一行があった。


《元凶断定は禁止》

《家族タグ解析を優先》

《ヒカル=観測者仮説》

《アキラ=誘導子仮説》

《昭和アスミ=解析者/引継ぎ主体候補》

《接触は非接触照合後》


 アスミは、その最後の行を見つめた。


「……私に、私と会うなって言うのね」


 僕は答えた。


「今は」


「いつかは?」


「必要なら」


「その時、私が壊れたら?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 けれど、答えないわけにはいかなかった。


「壊れないように、僕たちがいる」


 アスミの眉がわずかに動いた。


「綺麗事」


「そうだな」


「否定しないの?」


「綺麗事でも、手順に落とせば使える」


 チイロが小さく笑った。


「いいこと言うじゃん、ユウマ。正しさ=生存手順。今のはまあ、採用してもいい」


「上から目線だな」


「ゲームマスターなので」


「うざ」


 アスミが小さく言った。


 それは、ほんの少しだけ空気を戻した。


 でも、完全には戻らない。


 戻るはずがなかった。


 僕たちは今、彼女の家族という最も触れてはいけない領域を、世界線の索引として扱い始めている。


 優しく聞こえる言葉で包んでも、やっていることは解剖だ。


 それでも、やらなければならない。


 十五時が来る。


 その前に、僕たちは知らなければならない。


 矢那瀬ヒカルは、父親なのか。


 観測者なのか。


 設計者なのか。


 それとも、未来の地獄を最初に“防ぐべき構造”として見てしまい、その構造を誰かに奪われた、最初の敗北者なのか。


 そして、アキラ少年は何者なのか。


 弟なのか。


 記憶なのか。


 タグなのか。


 誘導子なのか。


 それとも、アスミという存在が世界線を跨ぐたびに必ず現れる、家族という形をした警告なのか。


 アスミは毛布を握ったまま、低く言った。


「ヒカルに会う必要がある」


 僕は頷いた。


「ああ」


「でも、会う前に調べる」


「その方がいい」


「昭和の私には、まだ会わない」


「それがいい」


「アキラは?」


 僕は画面を見た。


 六歳。


 少年。


 お姉ちゃん。


 やっとそこまで読めるようになったんだ。


 その声が、僕の記憶ではないのに、妙に耳の奥で響いた気がした。


「アキラには、会うんじゃない」


 僕は言った。


「まず、彼が何へ誘導しているのかを見る」


 アスミは、少しだけ目を伏せた。


「……分かった」


 その声は震えていた。


 でも、折れてはいなかった。


 ノード・ゼロの中央モニターに、三つの矢那瀬家が並んでいる。


 W2。


 W1。


 昭和五十六年。


 家族とは、帰る場所の名前だと思っていた。


 でも今は違う。


 家族は、世界が人間を固定するために使う、最も古く、最も強い識別子だった。


 そして、矢那瀬アスミという少女は、その識別子を三つも背負わされている。


 現在の家族。


 記録の家族。


 過去に配置された家族。


 そのどれが本物かを問うことは、たぶん意味がない。


 本当に問うべきなのは、どの家族構成が、どの世界線で、どの目的のために彼女を固定しようとしているのか。


 その答えに近づいた瞬間、僕たちはようやく理解した。


 昭和五十六年は、過去ではない。


 W1の惨劇を生む前段階でもない。


 もっと嫌なものだ。


 未来が、自分自身を解析するために置いた、冷たい実験台。


 そしてその実験台の上には、家族という名前のメスが、最初から置かれていた。


 この時、僕たちは一つの結論に辿り着いたわけではなかった。


 むしろ逆だ。


 矢那瀬ヒカルを調べれば調べるほど、アスミという存在の輪郭が分裂していく。昭和のアスミ。W1のアスミ。W2のアスミ。そして、その間に置かれたアキラ少年。


 誰が本物なのか。


 誰が偽物なのか。


 その問いは、たぶん最初から間違っている。


 問題は、本物か偽物かではない。


 どの世界が、どの矢那瀬アスミを必要としていたのか。どの家族構成が、彼女をどこへ固定しようとしていたのか。そして、誰がその固定を利用しようとしていたのか。


 ヒカルに会う必要がある。


 アキラを調べる必要がある。


 もう一人のアスミを、まだ直接観測してはいけない。


 僕たちはそう決めた。


 十五時まで、まだ時間はある。


 けれどその時間は、猶予ではなかった。


 アスミという少女が、いくつもの家族に切り分けられていく前に、僕たちが彼女を彼女として繋ぎ止めるための、最後の準備時間だった。


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