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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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204/216

EP209. 嘘を終わらせる時間

 信頼が壊れる音は、たぶん実際には聞こえない。


 でも、あの時の僕には聞こえた気がした。


 アスミは昭和五十六年の一週間を話した。


 リツコ、シズク、キョウジ、ケイ先輩、矢那瀬ヒカル、エクスエル、黒川総理、南浜沖地震、選別遊戯系統論。


 彼女は、自分が持ち帰ったものを全部差し出した。


 証拠もない。

 保証もない。

 世界に丸められるかもしれない記憶を、それでも言葉にした。


 だから今度は、僕たちの番だった。


 アスミの独白を解析したこと。

 W1への宣戦布告を凍結したこと。

 彼女の知らないW1の記憶に触れていたこと。

 チイロのPixel Jump。

 そして、僕が考えた時葬。


 それらは全部、理由があった。


 けれど理由がある嘘は、嘘ではなくなるのか。


 答えは、違う。


 僕たちはアスミを守ろうとした。


 その結果、彼女から知る権利を奪った。


 午前五時二十八分。


 十五時まで、九時間三十二分。


 僕は、嘘を終わらせるために口を開いた。


 僕は、すぐには答えられなかった。


 言うと決めていた。


 もう隠さないと、さっき自分で言った。


 なのに、アスミに真正面からそう言われた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。


 ノード・ゼロの空調は一定だ。温度も湿度も、記録上は異常なし。酸素濃度も、二酸化炭素濃度も、人体に影響を与える数値ではない。


 なのに、舌の裏だけが紙みたいに乾いている。


 隠し事をしている人間の沈黙。


 自分でも分かるくらい、最悪の沈黙だった。


「ユウマ」


 アスミの声は静かだった。


 静かだからこそ、逃げ道がなかった。


「話して」


 僕は一度、チイロを見た。


 チイロは目を逸らした。


 その瞬間、アスミの眉がほんのわずかに動いた。


 しまった、と思った。


 今の視線は駄目だ。


 完全に駄目だ。


 問い詰められた瞬間、隣にいる共犯者を見てしまった。浮気を隠している男が、言い訳の前に相手の顔色を確認するみたいな、最低の挙動だった。


 しかも、より悪いことに。


 チイロは本当に、僕の共犯者だった。


 恋愛ではない。


 だからまだ軽い、なんてことはない。


 むしろ逆だ。


 僕たちは、アスミの人生に関わることを、アスミ抜きで決めていた。


「……うわ、今の目線、修羅場のやつ」


 トウタが、ほとんど息だけで呟いた。


「黙って」


 ミサキが即座に言った。


 その声は鋭かった。


 けれど、その鋭さの中に、いつもの保健委員らしい制止だけではないものが混じっていた。


 ミサキも分かっている。


 今の僕は、どう見ても言い逃れを探している。


 レイカは壁際で腕を組み、何も言わなかった。舞台袖で、取り返しのつかない台詞を待つ演出家みたいな顔をしていた。


 ミナトは端末の記録を続けている。けれど、入力速度は明らかに落ちていた。


 記録者として残すべきか。


 仲間として聞くべきか。


 彼の中でも、その二つが拮抗しているのが分かった。


 チイロは、笑っていなかった。


 あのチイロが、だ。


 普段ならここで、意味不明なミームを投げ込む。空気の圧力を下げる。笑えない状況を笑えないまま少しだけ軽くする。


 でも今の彼女は、膝の上で手を握ったまま、カフェオレの紙パックすら持ち上げない。


 僕が彼女を見る。


 彼女が目を逸らす。


 その構図がすべてだった。


 アスミは、それを見ていた。


「……まず」


 僕はようやく声を出した。


 自分の声が、思ったより掠れていた。


「前提から話す」


「前提で薄めないで……」


 アスミが遮った。


 静かだった。


 でも、言葉の切断面だけが異様に鋭かった。


「何を隠してたのかを言って!」


 喉が詰まる。


 正しい。


 彼女は正しい。


 説明の順番を作ろうとした時点で、僕はもう“弁明”を始めている。


 僕は端末に手を伸ばした。


 だが、指が止まる。


 どのファイルを開くべきか。


 どの順番で出せば、彼女を壊さずに済むか。


 どの言葉なら、彼女が怒りすぎずに済むか。


 どの図なら、責任の輪郭を少しだけ曖昧にできるか。


 そう考えた瞬間、自分で自分に吐き気がした。


 まただ。


 また僕は、彼女に見せる情報を選別しようとしている。


 アスミは、それを見逃さなかった。


「今、選ぼうとしたでしょ?」


 僕の指が止まったまま固まる。


「私が壊れない順番。私が怒りすぎない言い方。私が暴発しない出し方。私があなたを嫌いになりすぎない見せ方。今、それを考えた……違う?」


 図星だった。


 誰も何も言わない。


 アスミは笑わなかった。


「そういうところ」


 彼女は言った。


「そういうところが、私は一番嫌い!」


 胸の奥が沈む。


 僕は端末から手を離した。


「……口で言う」


「そうして」


 アスミは椅子に座っている。


 毛布を肩に掛けたまま。


 一週間分遠くなった目で、僕を見ている。


 その目に、昭和五十六年の夕暮れがまだ沈んでいた。


 リツコ。


 シズク。


 キョウジ。


 ケイ。


 矢那瀬ヒカル。


 アキラ少年。


 僕たちが知らない一週間を見てきた彼女が、今度は僕たちの数十分を見ようとしている。


 僕は、その目から逃げずに言った。


「一つ目。君の独白ログについて」


 アスミの表情は変わらない。


「独白そのものは、NOXに共有されている。そこは、君も分かっていると思う」


「……うん」


「隠していたのは、その解析結果だ」


 チイロの指が、机の上でわずかに動いた。


 アスミはそちらを見ない。


 僕だけを見ている。


「君のW1独白を再演シミュレーションにかけた。最初の結果では、W1への再干渉成功率が異常に高く出た……」


「……何パーセント?」


 即答だった。


 感情ではなく数字を要求する声。


 それが、いかにもアスミだった。


「五十九・一三」


 アスミの目が一瞬だけ細くなる。


「……随分高いね」


「ああ。高すぎた」


「……本来値は?」


「三×十のマイナス十乗パーセント」


 トウタが思わず低く呻いた。


「桁がバグってる……」


 ミナトが静かに補足する。


「事実上、不可能という意味だ。理論の隙間に針一本だけ通っている程度の確率」


 アスミはミナトを一瞥した。


「ありがとう。で、ユウマ。どうして跳ねたの?」


 僕は続ける。


「理由を調べた。君の独白は、W1の生ログそのものじゃない可能性が高かった」


 アスミは動かなかった。


 でも、ノード・ゼロの空気が一段冷えた気がした。


「何それ……私の独白が、嘘だったってこと?」


「違う」


 僕は即答した。


 今度は、即答できた。


「嘘じゃない。むしろ、痛みは本物だ。ただ、その痛みが、君自身の語りによって“耐えられる形”に変換されていた」


「耐えられる形?」


「ああ」


「誰にとって?」


 僕は一瞬、言葉に詰まった。


 アスミの目が細くなる。


「私にとって? それとも、それを読むあなたたちにとって?」


「……両方だ」


「両方……?」


 彼女が繰り返す。


「便利な言葉ね」


 僕は続けるしかなかった。


「語尾丸め率、緩衝語密度、自己帰責から構造帰責への置換比、罰概念の意味化。君の独白には、痛みをそのまま記録するのではなく、語りとして再構成する処理が入っていた」


「処理……ですって?」


 アスミの声が低くなる。


「私の言葉を、処理って呼ぶの?」


「違う。そういう意味じゃ――」


「じゃあどういう意味?」


 返せなかった。


 アスミは畳みかける。


「具体的に言って。私は何をどう変換してたの? どこが生ログじゃなかったの? どの文章? どの感情? どの痛み?」


 胸の奥が痛む。


 彼女は知らない。


 自分の独白がどう解析されたかを。


 自分の痛みが、どんな数値で見られたかを。


 今、彼女は初めて、それを知ろうとしている。


「……君は、W1で起きたことを“意味のある痛み”として書いていた」


「意味のある痛み?」


「本来なら、意味なんてないはずの暴力や死に、理由を与えていた。自分が耐えられるように。読んだ者が、それを“構造”として理解できるように」


「それで?」


「だから、再演器は錯覚した。地獄に構造があるなら、介入できる。痛みに理由があるなら、ルートがある。救えなかった出来事にも、再計算の余地がある、と」


 アスミは、静かに息を吸った。


「つまり、私が自分を壊さないために書いた言葉を、あなたたちは攻略データとして解析した……」


 僕は答えられない。


「そして、その攻略データは信用できないと判断した……」


「……そうだ」


「だから凍結した……」


「ああ」


「W1への宣戦布告を……」


「凍結した」


「私に言わずに……」


「……言わずに」


 アスミは、ゆっくり頷いた。


「なるほど……」


 その声は平らだった。


 平らすぎて、怖かった。


「私の独白は共有されている。でも、それを解析した結果、私の計画が危険だと判断したことは共有しなかった」


「そうだ」


「私の覚悟は、私抜きで凍結した」


 僕は答えられなかった。


 答えられないことが、答えだった。


「過去改変は保留。W1への宣戦布告は凍結。私には“まだ研究中”みたいな顔をしておいて、裏では結論が出ていた」


「……」


「ユウマ」


「……ああ」


「それ、優しさじゃない」


 彼女の声が、ほんの少しだけ震えた。


「管理だよ」


 ミサキが小さく息を呑む。


 レイカは目を伏せている。


 トウタはスマホを握ったまま、画面を見ていなかった。


 ミナトは端末を閉じていた。


 記録を続けるより、聞くことを選んだのだと思った。


 チイロが小さく口を開いた。


「アスミ、それは――」


「先輩」


 アスミはチイロを見ずに言った。


「今、フォローしようとした?」


 チイロが固まる。


「……いや、その」


「ミームに変換しないで」


 チイロの表情から、最後の逃げ場が消えた。


「ごめん」


「謝罪は後でまとめて聞く。今は事実だけ」


 チイロは黙った。


 あのチイロが、黙った。


 僕は、それがいかに異常かを理解していた。


 アスミの怒りは、チイロの軽さより強い。


 冗談で薄められない。


 ミームで切り抜けられない。


 場の空気を支配しているのは、帰還者でも、観測者でもなく、ただ自分の権利を奪われた少女だった。


「二つ目は?」


 アスミが言った。


 僕は、胸の奥の痛みを押し込めた。


「W1の君の記憶に触れたこと」


 今度は、アスミの表情が明確に変わった。


「……何?」


 声が低い。


 低すぎる。


「Xシリーズとの戦闘中、僕は君の精神領域に入った。その時、偶発的にW1の記録断片に触れた」


「私の?」


「ああ」


「どの記憶?」


 答えたくなかった。


 けれど、ここで言わなければ、何も変わらない。


「EXIT:CODEに参加する前の君だ。封書、家族、借金、君の妹のミズキちゃん。2025年W1の矢那瀬アキラさん。お母さんの矢那瀬カスミさん。君がどうして逃げられなかったのか。どうして、あの場所へ行くことを選ばされたのか」


 アスミの顔から血の気が引いた。


 ミサキが立ち上がりかける。


 アスミが手だけで制した。


「……待って」


 アスミの声は、さっきよりもさらに低かった。


「封書って何……?」


 僕は息を呑む。


「ミズキって、私の妹のこと……?」


「ああ」


「アキラとカスミも出てきた?」


「ああ」


「借金?」


「……ああ」


「私が、逃げられなかった?」


「そうだ」


「それを、あなたが見たの?」


「見た」


「どこまで?」


 僕は黙った。


「どこまで見たのって聞いてる」


「……君が匿名ホットラインに通報して、それを撤回したところ。ミズキが帰ってきたところ。首筋の注射痕。父親のノートを燃やしたところ。屋上で、僕からEXIT:CODEの解析USBを受け取ったところ」


 アスミは、椅子の背に手を置いた。


 身体を支えるためだった。


 怒りより先に、衝撃が来ていた。


「……私、そんなこと知らない……」


「分かってる」


「私は……知らないのよ、ユウマ……」


「……分かってる」


「分かってない!」


 初めて、声が跳ねた。


 ノード・ゼロの壁が、かすかに震えたような気がした。


「私は知らない! 私の記憶なのに、私は知らない! なのに、あなたは知ってる! 何それ!?」


「アスミ」


「呼ばないで!」


 僕は黙った。


「私の妹が脅されたの? 首筋に何かされたの? 父のノートを燃やしたの? 私が? 私がそんなことをしたの?」


「……ログ上は」


「ログ上って何!?」


 アスミの声が震える。


「それ、私の人生でしょ!? 私の家族でしょ!? 私の地獄でしょ!? なんで“ログ上”なんて言い方できるの!?」


 何も言えなかった。


 その通りだった。


「NOXには?」


 アスミは続けた。


「共有してないって言ったよね」


「ああ」


「じゃあ、あなた一人で読んだんだ」


「……そうだ」


「私にも言わずに」


「ああ」


「私が知らない私を」


「……ああ」


「あなたが先に知ってた」


 僕は、何も言えなかった。


 違うと言いたかった。


 そんな単純な話じゃないと言いたかった。


 でも、彼女から見ればその通りだった。


 あの記録断片を見た時、僕は思った。


 これは誰にも渡せない。


 見た瞬間に観測軸が壊れる。


 彼女の前史を、彼女自身に見せたら、彼女はまた自分を責める。


 だから隔離した。


 NOX-A1。


 共有禁止。


 言葉としては立派だ。


 でも、今アスミの前に立つと、それはただの鍵付きの箱だった。


 彼女の記憶を、彼女から隠すための箱。


「しかも」


 アスミは言う。


「それを見た上で、私を止めたんだ」


 僕は黙った。


「私がどうしてW1に触ろうとしているのか。何を取り返そうとしているのか。何を背負っているのか。あなたは、私以上に材料を持っていた」


「……」


「その上で、私の計画を止めた」


「そうだ」


「私に判断させずに」


「……そうだ」


 アスミは、机の縁を指で押さえた。


 爪が白くなる。


 ミサキが小さく言った。


「アスミ、手」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「今は私の手より、ユウマの口を動かして」


 ミサキは言葉を失った。


 保健委員としては止めたい。


 仲間としては聞かせたい。


 その矛盾が、彼女の顔を歪ませていた。


「三つ目……」


 アスミは言った。


「まだあるんでしょ……?」


 僕はチイロを見なかった。


 今度は見なかった。


 けれど、チイロの方から小さく息を吸う音がした。


「私が話す」


 チイロが言った。


 声が、いつもの彼女よりずっと低い。


「Pixel Jump……私がやったこと……」


 アスミの視線がチイロへ向く。


「……ピクセル、ジャンプ?」


 完全な初耳の声だった。


 疑問。


 警戒。


 怒りの予備動作。


 その三つが混じっていた。


「何それ?」


 チイロは、冗談を探すように一瞬だけ口元を歪めた。


 だが、何も出てこなかった。


「時空を連続体じゃなく、観測単位のピクセルとして扱うモデル。写真、動画、夢、記憶。視た情報を座標化して、対応するセルへ認識を跳ばす」


「待って……?」


 アスミが遮った。


「今、何て言った?」


「視た情報を、座標化して――」


「違う……」


 アスミの声が強くなる。


「その前。写真、動画、夢、記憶。視た情報を座標化? それ、つまり」


 彼女はゆっくり立ち上がった。


「過去へ行ける可能性を、自分で作ったってこと?」


 チイロは目を伏せる。


「……理論上は」


「理論上?」


 アスミが笑った。


 震えた笑いだった。


「先輩。今、理論上って言った?」


「……ごめん。実際に試した」


 アスミの表情が固まった。


 時間が止まったようだった。


「試した……?」


「うん」


「いつ?」


 チイロは答えられなかった。


 アスミの目が細くなる。


「ねえ、いつ?」


 チイロの肩が、小さく跳ねた。


「…… 双灯祭DAY1終了後……に……」


 その反応だけで、答えは十分だった。


 アスミの顔から、一瞬で色が抜けた。


「は?」


 彼女は呟いた。


「放課後の廊下で、ユウマが言った日?」


 僕の背筋に冷たいものが走る。


「『チイロ。今夜、家に来てくれ』」


 アスミは、僕の声色まで真似るように言った。


 静かに。


 でも、今にも割れそうに。


「あの日、私は聞いた。理由を述べよって。あなたは言った。言えない。チイロ先輩にだけ来てほしいって」


 チイロが顔を上げられない。


「ミサキは慌ててた。トウタはいなかったけど、いたら絶対茶化してた。私は腹が立った。でも、あなたの目が変だったから、たぶん本当に何かあるんだと思った」


 アスミの呼吸が少しずつ荒くなる。


「あの日のこと、私、覚えてるよ。あなたが私を外した日だから」


 僕は何も言えない。


「でも、それだけじゃなかったんだ」


 アスミがチイロを見る。


「その後、先輩がPixel Jumpをやった?」


「……正確には、その理論の検証は私の側で進めていて、事故として――」


「事故?」


 アスミの声が鋭くなる。


「事故って言えば、責任が薄くなるの?」


「違う。薄くならない」


「じゃあ言い直して」


 チイロは、唇を噛んだ。


「私がやった」


「何を?」


「黒葬の虚数座標を誤読した。記録されない場所を、存在しない処理じゃなくて“どこかにある座標”だと思った。そこから、観測像を座標として踏む理論を作った」


 アスミは黙って聞いていた。


「そして、試した」


 ノード・ゼロが静まり返る。


「結果、私は過去の地層を踏んだ」


 アスミの目が見開かれた。


「……踏んだ?」


「比喩じゃない。ログを見たんじゃない。観測したんでもない。過去の地層そのものに、足を置いた」


 チイロは両手を膝の上で握る。


「W1を触るつもりだった。でも引っ張られた。もっと下へ。W0へ。夢野りうの、本当の最期の地層へ」


 アスミは、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙が、怖かった。


「……待って」


 彼女は低く言った。


「私の過去改変は危険だから止めた」


「うん」


 チイロが答える。


「でも、先輩は過去の地層を踏んだ」


「うん」


「それを、ユウマは知ってた」


「うん」


「みんなも?」


 チイロは目を伏せる。


「最終的には」


「最終的には」


 アスミが反復した。


 その言葉だけで、チイロの肩が小さく落ちた。


「便利な言い方」


「……ごめん」


「ごめんで済ませる話じゃない」


「うん」


「うん、じゃない!!」


 アスミの声が跳ねた。


 チイロが身を竦める。


「何なの、それ! 私には過去に触るなって言って、私の過去改変は危ないって凍結して、その裏でチイロ先輩は過去の地層を踏んだ!? しかもW0!? りうの本当の最期!?」


 アスミは机に手を叩きつけた。


 乾いた音が、ノード・ゼロに響いた。


「ふざけないでよ」


 声が震えている。


「ふざけないで!!」


 繰り返す。


 今度はもっと低く。


「私は何だったの?」


 誰も答えられない。


「危険だから止められたんじゃないの? 私が暴走するから? 私が盤面を割るから? 私がW1に囚われてるから? だから止めたんじゃないの?」


 アスミは僕を見る。


「ねえ、ユウマ」


「……ああ」


「あなた、私には“過去に触るな”って言ったよね」


「言った」


「危険だからって」


「言った」


「成功率が低いからって」


「言った」


「再演になるからって」


「言った」


「なのに、その裏で、チイロ先輩は過去の地層を踏んだ」


 誰も答えない。


「しかもW0。りうの真実の死。私が触ろうとしていたW1より深い。より危険な層」


 レイカが小さく息を吐いた。


「……舞台の床を抜かないように主役を止めておいて、袖で舞台そのものを掘っていたようなものね」


 アスミはレイカを見た。


「そう。しかもその穴に落ちたのはチイロ先輩で、埋めに行こうとしたのがユウマ」


 レイカは何も言えなかった。


 アスミは僕を見る。


「で?」


「……」


「それを止めるために、何を考えたの?」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 そこまで、もう見えているのか。


 いや、当然だ。


 アスミは観測者だ。


 ここまで話せば、次に何があるかは分かる。


「時葬……」


 僕は言った。


 その言葉を出した瞬間、アスミの顔から完全に表情が消えた。


「……なに、それ……?」


「黒葬では、Pixel Jumpによる地層接合を止められない。黒葬は記録を非記録化する技だ。でもPixel Jumpは、過去の物理地層そのものを現在へ接合する。だから、記録を消しても物理は残る」


「説明は後でいい」


 アスミが言った。


「それで、何をする技なの?」


 僕は息を吸った。


「現在と過去の時間差、Δtを殺す」


 ミサキが目を閉じた。


 レイカが息を止めた。


 トウタが「やべ」と言いかけて、飲み込んだ。


 ミナトが、静かに口を開いた。


「補足する。黒葬は事象の非記録化。時葬は時間差そのものの破壊。階層が違う。黒葬がログの処理なら、時葬は時空構造への殺害行為に近い」


「ミナト」


 アスミは彼を見る。


「使用者は?」


 ミナトは答えなかった。


 僕が答えるべきだった。


「……無事では済まない」


「死ぬの?」


 即答だった。


 彼女が聞く場所は、そこだった。


 僕は答えられなかった。


 アスミの声が硬くなる。


「死ぬの?」


「十中八九」


 言った瞬間。


 空気が割れた。


 アスミが立ち上がった。


 椅子が床を擦り、乾いた音を立てる。


「ふざけないで」


 低い声だった。


 怒鳴る前の声。


「私には危険だからやめろって言った」


 一歩。


「私の過去改変は危険だから凍結した」


 もう一歩。


「私の独白を解析して、私の覚悟を止めた」


 さらに一歩。


 僕との距離が縮まる。


「その裏で」


 彼女は僕の目の前まで来た。


「あなたは自分が死ぬ技を作ってたの?」


 僕は答えられなかった。


「答えて」


「……作っていた」


「使うつもりだった?」


「最終手段として」


 その瞬間、アスミの手が僕の胸元を掴んだ。


 強くはない。


 でも、逃がさない力だった。


「最終手段って言えば、自殺計画が作戦になると思ってるの?」


 僕は言葉を失った。


 アスミの目が赤くなっている。


 でも泣いてはいない。


 泣くより先に、怒りが立っている。


「私が危険?」


「ああ」


「暴発する?」


「そう思った」


「盤面を割る?」


「……思った」


「じゃあ聞く」


 彼女の声が震える。


「ピクセルジャンプを考えたのは誰?」


 答えない。


「それを知って黙ってたのは誰?」


 答えない。


「W1の私の記憶を覗いたのは誰?」


 答えない。


「時葬なんて狂った技を考えたのは誰?」


 答えられない。


 アスミは、僕の胸元を掴む手に力を込めた。


「全部」


 声が割れる。


「全部、お前たちじゃない!!」


 ノード・ゼロの白い壁に、その声が跳ねた。


「私は危険だから止めた!! 私は暴発するから外した!! 私は盤面を割るから保留した!!」


 アスミの呼吸が荒くなる。


「でも、実際に過去を踏んだのはチイロ先輩で、それを背負って死ぬ技を作ったのはあなたで、私の記憶まで勝手に見て、それでも私には言わなかった!!」


 彼女の手が震える。


 胸元を掴む力が、強くなる。


「ねえ、ユウマ……」


 その声は、叫びより痛かった。


「危険なのはどっちなのよ!!」


 誰も動けなかった。


 チイロさえ、何も言えなかった。


 いつもなら、ここでミームを入れる。


 空気を壊す。


 笑わせる。


 誰かが呼吸できるように、わざと軽くする。


 でも今のアスミの怒りは、チイロの軽さを正面から押し潰していた。


 ミームでは誤魔化せない。


 冗談では逃げられない。


 これは、正論だった。


 ただ、アスミだけが僕の前に立っていた。


 一週間を持ち帰った帰還者ではなく。


 W1の独白を書いた証人でもなく。


 ただ、仲間に置いていかれた少女として。


 僕を睨んでいた。


 そして僕は。


 その怒りに対して、何ひとつ反論できなかった。


 言い訳なら、いくらでもあった。


 君を守りたかった。


 W1の真実を君に再接続させたくなかった。


 チイロが壊れかけた。


 りうの地層が逆流した。


 黒葬では届かなかった。


 時葬しかなかった。


 全部、本当だった。


 でも、本当の言葉がいつも正しいとは限らない。


 むしろ本当だからこそ、いちばん汚く聞こえることがある。


 僕はアスミを守るために黙った。


 その結果、アスミを一人にした。


 僕は誰も死なせないために時葬を考えた。


 その結果、自分だけが死ぬことを計算に入れた。


 僕はアスミを危険から遠ざけようとした。


 その結果、彼女から“決める権利”を奪った。


 沈黙の中で、アスミの手が少しだけ緩んだ。


 でも離れない。


 彼女は僕を見上げた。


「私を守るって、そういうこと?」


 声が掠れていた。


「私を外して、私に黙って、私の記憶を読んで、私の覚悟を凍結して、自分は死ぬ準備をすること?」


 僕は、答えなかった。


 答えられなかった。


 アスミは、ほんの少しだけ笑った。


 泣く寸前の人間が、泣かないために作る笑いだった。


「最低」


 その一言は、怒鳴り声よりもずっと深く刺さった。


「本当に、最低」


 そして、彼女は僕の胸元から手を離した。


 解放されたはずなのに、息ができなかった。


 アスミは一歩下がる。


 毛布が肩から少しずり落ちる。


 ミサキが反射的に動こうとして、止まった。


 チイロも動かない。


 レイカも、トウタも、ミナトも。


 誰も、今のアスミに触れられなかった。


「……続けて」


 アスミは言った。


 僕は顔を上げる。


「まだ、隠してることがあるなら」


 彼女の目は、真っ赤だった。


 それでも、涙は落ちていなかった。


「全部、出して」


 午前五時三十分。


 十五時まで、九時間半。


 信頼は戻らない。


 謝罪でも戻らない。


 正しさでも戻らない。


 でも、嘘を続けるよりは、まだましだ。


 そう思うしかなかった。


 いや。


 そう思うことさえ、僕の都合かもしれない。


 僕は、もう一度息を吸った。


 そして、次の隠し事を探すのではなく。


 自分がどれだけ彼女から奪っていたのかを、初めて数え始めた。


 アスミは怒った。


 当然だった。


 僕たちは、彼女の独白を読んだ。

 彼女の覚悟を解析した。

 彼女の計画を止めた。

 彼女の知らない記憶に触れた。

 チイロは過去の地層を踏み、僕はそれを押し返すために、時葬という自殺に近い技を考えた。


 そのすべてを、アスミだけに隠していた。


 守るためだった。


 そう言えば聞こえはいい。


 でも、アスミが言った通り、それは優しさではなく管理だった。


 危険だから止める。

 暴発するから外す。

 壊れるから見せない。


 その判断の中に、彼女自身はいなかった。


 僕は彼女を守ろうとして、彼女から選ぶ権利を奪った。


 そして、彼女に問われた。


 危険なのはどっちなのか、と。


 僕は答えられなかった。


 答えられないことが、答えだった。


 信頼は戻らない。

 謝罪でも戻らない。

 正しさでも戻らない。


 けれど、嘘を続けるよりはまだましだ。


 そう思うことさえ、僕の都合かもしれない。


 それでも、ここから始めるしかなかった。


 アスミを外さないこと。

 アスミに隠さないこと。

 彼女を危険物ではなく、同じ盤面に立つ仲間として扱うこと。


 午前五時三十分。


 十五時まで、九時間半。


 僕たちは、まだ壊れた信頼の上に立っていた。


 でも初めて、同じ地面に立っていた。


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