EP209. 嘘を終わらせる時間
信頼が壊れる音は、たぶん実際には聞こえない。
でも、あの時の僕には聞こえた気がした。
アスミは昭和五十六年の一週間を話した。
リツコ、シズク、キョウジ、ケイ先輩、矢那瀬ヒカル、エクスエル、黒川総理、南浜沖地震、選別遊戯系統論。
彼女は、自分が持ち帰ったものを全部差し出した。
証拠もない。
保証もない。
世界に丸められるかもしれない記憶を、それでも言葉にした。
だから今度は、僕たちの番だった。
アスミの独白を解析したこと。
W1への宣戦布告を凍結したこと。
彼女の知らないW1の記憶に触れていたこと。
チイロのPixel Jump。
そして、僕が考えた時葬。
それらは全部、理由があった。
けれど理由がある嘘は、嘘ではなくなるのか。
答えは、違う。
僕たちはアスミを守ろうとした。
その結果、彼女から知る権利を奪った。
午前五時二十八分。
十五時まで、九時間三十二分。
僕は、嘘を終わらせるために口を開いた。
僕は、すぐには答えられなかった。
言うと決めていた。
もう隠さないと、さっき自分で言った。
なのに、アスミに真正面からそう言われた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。
ノード・ゼロの空調は一定だ。温度も湿度も、記録上は異常なし。酸素濃度も、二酸化炭素濃度も、人体に影響を与える数値ではない。
なのに、舌の裏だけが紙みたいに乾いている。
隠し事をしている人間の沈黙。
自分でも分かるくらい、最悪の沈黙だった。
「ユウマ」
アスミの声は静かだった。
静かだからこそ、逃げ道がなかった。
「話して」
僕は一度、チイロを見た。
チイロは目を逸らした。
その瞬間、アスミの眉がほんのわずかに動いた。
しまった、と思った。
今の視線は駄目だ。
完全に駄目だ。
問い詰められた瞬間、隣にいる共犯者を見てしまった。浮気を隠している男が、言い訳の前に相手の顔色を確認するみたいな、最低の挙動だった。
しかも、より悪いことに。
チイロは本当に、僕の共犯者だった。
恋愛ではない。
だからまだ軽い、なんてことはない。
むしろ逆だ。
僕たちは、アスミの人生に関わることを、アスミ抜きで決めていた。
「……うわ、今の目線、修羅場のやつ」
トウタが、ほとんど息だけで呟いた。
「黙って」
ミサキが即座に言った。
その声は鋭かった。
けれど、その鋭さの中に、いつもの保健委員らしい制止だけではないものが混じっていた。
ミサキも分かっている。
今の僕は、どう見ても言い逃れを探している。
レイカは壁際で腕を組み、何も言わなかった。舞台袖で、取り返しのつかない台詞を待つ演出家みたいな顔をしていた。
ミナトは端末の記録を続けている。けれど、入力速度は明らかに落ちていた。
記録者として残すべきか。
仲間として聞くべきか。
彼の中でも、その二つが拮抗しているのが分かった。
チイロは、笑っていなかった。
あのチイロが、だ。
普段ならここで、意味不明なミームを投げ込む。空気の圧力を下げる。笑えない状況を笑えないまま少しだけ軽くする。
でも今の彼女は、膝の上で手を握ったまま、カフェオレの紙パックすら持ち上げない。
僕が彼女を見る。
彼女が目を逸らす。
その構図がすべてだった。
アスミは、それを見ていた。
「……まず」
僕はようやく声を出した。
自分の声が、思ったより掠れていた。
「前提から話す」
「前提で薄めないで……」
アスミが遮った。
静かだった。
でも、言葉の切断面だけが異様に鋭かった。
「何を隠してたのかを言って!」
喉が詰まる。
正しい。
彼女は正しい。
説明の順番を作ろうとした時点で、僕はもう“弁明”を始めている。
僕は端末に手を伸ばした。
だが、指が止まる。
どのファイルを開くべきか。
どの順番で出せば、彼女を壊さずに済むか。
どの言葉なら、彼女が怒りすぎずに済むか。
どの図なら、責任の輪郭を少しだけ曖昧にできるか。
そう考えた瞬間、自分で自分に吐き気がした。
まただ。
また僕は、彼女に見せる情報を選別しようとしている。
アスミは、それを見逃さなかった。
「今、選ぼうとしたでしょ?」
僕の指が止まったまま固まる。
「私が壊れない順番。私が怒りすぎない言い方。私が暴発しない出し方。私があなたを嫌いになりすぎない見せ方。今、それを考えた……違う?」
図星だった。
誰も何も言わない。
アスミは笑わなかった。
「そういうところ」
彼女は言った。
「そういうところが、私は一番嫌い!」
胸の奥が沈む。
僕は端末から手を離した。
「……口で言う」
「そうして」
アスミは椅子に座っている。
毛布を肩に掛けたまま。
一週間分遠くなった目で、僕を見ている。
その目に、昭和五十六年の夕暮れがまだ沈んでいた。
リツコ。
シズク。
キョウジ。
ケイ。
矢那瀬ヒカル。
アキラ少年。
僕たちが知らない一週間を見てきた彼女が、今度は僕たちの数十分を見ようとしている。
僕は、その目から逃げずに言った。
「一つ目。君の独白ログについて」
アスミの表情は変わらない。
「独白そのものは、NOXに共有されている。そこは、君も分かっていると思う」
「……うん」
「隠していたのは、その解析結果だ」
チイロの指が、机の上でわずかに動いた。
アスミはそちらを見ない。
僕だけを見ている。
「君のW1独白を再演シミュレーションにかけた。最初の結果では、W1への再干渉成功率が異常に高く出た……」
「……何パーセント?」
即答だった。
感情ではなく数字を要求する声。
それが、いかにもアスミだった。
「五十九・一三」
アスミの目が一瞬だけ細くなる。
「……随分高いね」
「ああ。高すぎた」
「……本来値は?」
「三×十のマイナス十乗パーセント」
トウタが思わず低く呻いた。
「桁がバグってる……」
ミナトが静かに補足する。
「事実上、不可能という意味だ。理論の隙間に針一本だけ通っている程度の確率」
アスミはミナトを一瞥した。
「ありがとう。で、ユウマ。どうして跳ねたの?」
僕は続ける。
「理由を調べた。君の独白は、W1の生ログそのものじゃない可能性が高かった」
アスミは動かなかった。
でも、ノード・ゼロの空気が一段冷えた気がした。
「何それ……私の独白が、嘘だったってこと?」
「違う」
僕は即答した。
今度は、即答できた。
「嘘じゃない。むしろ、痛みは本物だ。ただ、その痛みが、君自身の語りによって“耐えられる形”に変換されていた」
「耐えられる形?」
「ああ」
「誰にとって?」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
アスミの目が細くなる。
「私にとって? それとも、それを読むあなたたちにとって?」
「……両方だ」
「両方……?」
彼女が繰り返す。
「便利な言葉ね」
僕は続けるしかなかった。
「語尾丸め率、緩衝語密度、自己帰責から構造帰責への置換比、罰概念の意味化。君の独白には、痛みをそのまま記録するのではなく、語りとして再構成する処理が入っていた」
「処理……ですって?」
アスミの声が低くなる。
「私の言葉を、処理って呼ぶの?」
「違う。そういう意味じゃ――」
「じゃあどういう意味?」
返せなかった。
アスミは畳みかける。
「具体的に言って。私は何をどう変換してたの? どこが生ログじゃなかったの? どの文章? どの感情? どの痛み?」
胸の奥が痛む。
彼女は知らない。
自分の独白がどう解析されたかを。
自分の痛みが、どんな数値で見られたかを。
今、彼女は初めて、それを知ろうとしている。
「……君は、W1で起きたことを“意味のある痛み”として書いていた」
「意味のある痛み?」
「本来なら、意味なんてないはずの暴力や死に、理由を与えていた。自分が耐えられるように。読んだ者が、それを“構造”として理解できるように」
「それで?」
「だから、再演器は錯覚した。地獄に構造があるなら、介入できる。痛みに理由があるなら、ルートがある。救えなかった出来事にも、再計算の余地がある、と」
アスミは、静かに息を吸った。
「つまり、私が自分を壊さないために書いた言葉を、あなたたちは攻略データとして解析した……」
僕は答えられない。
「そして、その攻略データは信用できないと判断した……」
「……そうだ」
「だから凍結した……」
「ああ」
「W1への宣戦布告を……」
「凍結した」
「私に言わずに……」
「……言わずに」
アスミは、ゆっくり頷いた。
「なるほど……」
その声は平らだった。
平らすぎて、怖かった。
「私の独白は共有されている。でも、それを解析した結果、私の計画が危険だと判断したことは共有しなかった」
「そうだ」
「私の覚悟は、私抜きで凍結した」
僕は答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
「過去改変は保留。W1への宣戦布告は凍結。私には“まだ研究中”みたいな顔をしておいて、裏では結論が出ていた」
「……」
「ユウマ」
「……ああ」
「それ、優しさじゃない」
彼女の声が、ほんの少しだけ震えた。
「管理だよ」
ミサキが小さく息を呑む。
レイカは目を伏せている。
トウタはスマホを握ったまま、画面を見ていなかった。
ミナトは端末を閉じていた。
記録を続けるより、聞くことを選んだのだと思った。
チイロが小さく口を開いた。
「アスミ、それは――」
「先輩」
アスミはチイロを見ずに言った。
「今、フォローしようとした?」
チイロが固まる。
「……いや、その」
「ミームに変換しないで」
チイロの表情から、最後の逃げ場が消えた。
「ごめん」
「謝罪は後でまとめて聞く。今は事実だけ」
チイロは黙った。
あのチイロが、黙った。
僕は、それがいかに異常かを理解していた。
アスミの怒りは、チイロの軽さより強い。
冗談で薄められない。
ミームで切り抜けられない。
場の空気を支配しているのは、帰還者でも、観測者でもなく、ただ自分の権利を奪われた少女だった。
「二つ目は?」
アスミが言った。
僕は、胸の奥の痛みを押し込めた。
「W1の君の記憶に触れたこと」
今度は、アスミの表情が明確に変わった。
「……何?」
声が低い。
低すぎる。
「Xシリーズとの戦闘中、僕は君の精神領域に入った。その時、偶発的にW1の記録断片に触れた」
「私の?」
「ああ」
「どの記憶?」
答えたくなかった。
けれど、ここで言わなければ、何も変わらない。
「EXIT:CODEに参加する前の君だ。封書、家族、借金、君の妹のミズキちゃん。2025年W1の矢那瀬アキラさん。お母さんの矢那瀬カスミさん。君がどうして逃げられなかったのか。どうして、あの場所へ行くことを選ばされたのか」
アスミの顔から血の気が引いた。
ミサキが立ち上がりかける。
アスミが手だけで制した。
「……待って」
アスミの声は、さっきよりもさらに低かった。
「封書って何……?」
僕は息を呑む。
「ミズキって、私の妹のこと……?」
「ああ」
「アキラとカスミも出てきた?」
「ああ」
「借金?」
「……ああ」
「私が、逃げられなかった?」
「そうだ」
「それを、あなたが見たの?」
「見た」
「どこまで?」
僕は黙った。
「どこまで見たのって聞いてる」
「……君が匿名ホットラインに通報して、それを撤回したところ。ミズキが帰ってきたところ。首筋の注射痕。父親のノートを燃やしたところ。屋上で、僕からEXIT:CODEの解析USBを受け取ったところ」
アスミは、椅子の背に手を置いた。
身体を支えるためだった。
怒りより先に、衝撃が来ていた。
「……私、そんなこと知らない……」
「分かってる」
「私は……知らないのよ、ユウマ……」
「……分かってる」
「分かってない!」
初めて、声が跳ねた。
ノード・ゼロの壁が、かすかに震えたような気がした。
「私は知らない! 私の記憶なのに、私は知らない! なのに、あなたは知ってる! 何それ!?」
「アスミ」
「呼ばないで!」
僕は黙った。
「私の妹が脅されたの? 首筋に何かされたの? 父のノートを燃やしたの? 私が? 私がそんなことをしたの?」
「……ログ上は」
「ログ上って何!?」
アスミの声が震える。
「それ、私の人生でしょ!? 私の家族でしょ!? 私の地獄でしょ!? なんで“ログ上”なんて言い方できるの!?」
何も言えなかった。
その通りだった。
「NOXには?」
アスミは続けた。
「共有してないって言ったよね」
「ああ」
「じゃあ、あなた一人で読んだんだ」
「……そうだ」
「私にも言わずに」
「ああ」
「私が知らない私を」
「……ああ」
「あなたが先に知ってた」
僕は、何も言えなかった。
違うと言いたかった。
そんな単純な話じゃないと言いたかった。
でも、彼女から見ればその通りだった。
あの記録断片を見た時、僕は思った。
これは誰にも渡せない。
見た瞬間に観測軸が壊れる。
彼女の前史を、彼女自身に見せたら、彼女はまた自分を責める。
だから隔離した。
NOX-A1。
共有禁止。
言葉としては立派だ。
でも、今アスミの前に立つと、それはただの鍵付きの箱だった。
彼女の記憶を、彼女から隠すための箱。
「しかも」
アスミは言う。
「それを見た上で、私を止めたんだ」
僕は黙った。
「私がどうしてW1に触ろうとしているのか。何を取り返そうとしているのか。何を背負っているのか。あなたは、私以上に材料を持っていた」
「……」
「その上で、私の計画を止めた」
「そうだ」
「私に判断させずに」
「……そうだ」
アスミは、机の縁を指で押さえた。
爪が白くなる。
ミサキが小さく言った。
「アスミ、手」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「今は私の手より、ユウマの口を動かして」
ミサキは言葉を失った。
保健委員としては止めたい。
仲間としては聞かせたい。
その矛盾が、彼女の顔を歪ませていた。
「三つ目……」
アスミは言った。
「まだあるんでしょ……?」
僕はチイロを見なかった。
今度は見なかった。
けれど、チイロの方から小さく息を吸う音がした。
「私が話す」
チイロが言った。
声が、いつもの彼女よりずっと低い。
「Pixel Jump……私がやったこと……」
アスミの視線がチイロへ向く。
「……ピクセル、ジャンプ?」
完全な初耳の声だった。
疑問。
警戒。
怒りの予備動作。
その三つが混じっていた。
「何それ?」
チイロは、冗談を探すように一瞬だけ口元を歪めた。
だが、何も出てこなかった。
「時空を連続体じゃなく、観測単位のピクセルとして扱うモデル。写真、動画、夢、記憶。視た情報を座標化して、対応するセルへ認識を跳ばす」
「待って……?」
アスミが遮った。
「今、何て言った?」
「視た情報を、座標化して――」
「違う……」
アスミの声が強くなる。
「その前。写真、動画、夢、記憶。視た情報を座標化? それ、つまり」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「過去へ行ける可能性を、自分で作ったってこと?」
チイロは目を伏せる。
「……理論上は」
「理論上?」
アスミが笑った。
震えた笑いだった。
「先輩。今、理論上って言った?」
「……ごめん。実際に試した」
アスミの表情が固まった。
時間が止まったようだった。
「試した……?」
「うん」
「いつ?」
チイロは答えられなかった。
アスミの目が細くなる。
「ねえ、いつ?」
チイロの肩が、小さく跳ねた。
「…… 双灯祭DAY1終了後……に……」
その反応だけで、答えは十分だった。
アスミの顔から、一瞬で色が抜けた。
「は?」
彼女は呟いた。
「放課後の廊下で、ユウマが言った日?」
僕の背筋に冷たいものが走る。
「『チイロ。今夜、家に来てくれ』」
アスミは、僕の声色まで真似るように言った。
静かに。
でも、今にも割れそうに。
「あの日、私は聞いた。理由を述べよって。あなたは言った。言えない。チイロ先輩にだけ来てほしいって」
チイロが顔を上げられない。
「ミサキは慌ててた。トウタはいなかったけど、いたら絶対茶化してた。私は腹が立った。でも、あなたの目が変だったから、たぶん本当に何かあるんだと思った」
アスミの呼吸が少しずつ荒くなる。
「あの日のこと、私、覚えてるよ。あなたが私を外した日だから」
僕は何も言えない。
「でも、それだけじゃなかったんだ」
アスミがチイロを見る。
「その後、先輩がPixel Jumpをやった?」
「……正確には、その理論の検証は私の側で進めていて、事故として――」
「事故?」
アスミの声が鋭くなる。
「事故って言えば、責任が薄くなるの?」
「違う。薄くならない」
「じゃあ言い直して」
チイロは、唇を噛んだ。
「私がやった」
「何を?」
「黒葬の虚数座標を誤読した。記録されない場所を、存在しない処理じゃなくて“どこかにある座標”だと思った。そこから、観測像を座標として踏む理論を作った」
アスミは黙って聞いていた。
「そして、試した」
ノード・ゼロが静まり返る。
「結果、私は過去の地層を踏んだ」
アスミの目が見開かれた。
「……踏んだ?」
「比喩じゃない。ログを見たんじゃない。観測したんでもない。過去の地層そのものに、足を置いた」
チイロは両手を膝の上で握る。
「W1を触るつもりだった。でも引っ張られた。もっと下へ。W0へ。夢野りうの、本当の最期の地層へ」
アスミは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、怖かった。
「……待って」
彼女は低く言った。
「私の過去改変は危険だから止めた」
「うん」
チイロが答える。
「でも、先輩は過去の地層を踏んだ」
「うん」
「それを、ユウマは知ってた」
「うん」
「みんなも?」
チイロは目を伏せる。
「最終的には」
「最終的には」
アスミが反復した。
その言葉だけで、チイロの肩が小さく落ちた。
「便利な言い方」
「……ごめん」
「ごめんで済ませる話じゃない」
「うん」
「うん、じゃない!!」
アスミの声が跳ねた。
チイロが身を竦める。
「何なの、それ! 私には過去に触るなって言って、私の過去改変は危ないって凍結して、その裏でチイロ先輩は過去の地層を踏んだ!? しかもW0!? りうの本当の最期!?」
アスミは机に手を叩きつけた。
乾いた音が、ノード・ゼロに響いた。
「ふざけないでよ」
声が震えている。
「ふざけないで!!」
繰り返す。
今度はもっと低く。
「私は何だったの?」
誰も答えられない。
「危険だから止められたんじゃないの? 私が暴走するから? 私が盤面を割るから? 私がW1に囚われてるから? だから止めたんじゃないの?」
アスミは僕を見る。
「ねえ、ユウマ」
「……ああ」
「あなた、私には“過去に触るな”って言ったよね」
「言った」
「危険だからって」
「言った」
「成功率が低いからって」
「言った」
「再演になるからって」
「言った」
「なのに、その裏で、チイロ先輩は過去の地層を踏んだ」
誰も答えない。
「しかもW0。りうの真実の死。私が触ろうとしていたW1より深い。より危険な層」
レイカが小さく息を吐いた。
「……舞台の床を抜かないように主役を止めておいて、袖で舞台そのものを掘っていたようなものね」
アスミはレイカを見た。
「そう。しかもその穴に落ちたのはチイロ先輩で、埋めに行こうとしたのがユウマ」
レイカは何も言えなかった。
アスミは僕を見る。
「で?」
「……」
「それを止めるために、何を考えたの?」
心臓が、嫌な音を立てた。
そこまで、もう見えているのか。
いや、当然だ。
アスミは観測者だ。
ここまで話せば、次に何があるかは分かる。
「時葬……」
僕は言った。
その言葉を出した瞬間、アスミの顔から完全に表情が消えた。
「……なに、それ……?」
「黒葬では、Pixel Jumpによる地層接合を止められない。黒葬は記録を非記録化する技だ。でもPixel Jumpは、過去の物理地層そのものを現在へ接合する。だから、記録を消しても物理は残る」
「説明は後でいい」
アスミが言った。
「それで、何をする技なの?」
僕は息を吸った。
「現在と過去の時間差、Δtを殺す」
ミサキが目を閉じた。
レイカが息を止めた。
トウタが「やべ」と言いかけて、飲み込んだ。
ミナトが、静かに口を開いた。
「補足する。黒葬は事象の非記録化。時葬は時間差そのものの破壊。階層が違う。黒葬がログの処理なら、時葬は時空構造への殺害行為に近い」
「ミナト」
アスミは彼を見る。
「使用者は?」
ミナトは答えなかった。
僕が答えるべきだった。
「……無事では済まない」
「死ぬの?」
即答だった。
彼女が聞く場所は、そこだった。
僕は答えられなかった。
アスミの声が硬くなる。
「死ぬの?」
「十中八九」
言った瞬間。
空気が割れた。
アスミが立ち上がった。
椅子が床を擦り、乾いた音を立てる。
「ふざけないで」
低い声だった。
怒鳴る前の声。
「私には危険だからやめろって言った」
一歩。
「私の過去改変は危険だから凍結した」
もう一歩。
「私の独白を解析して、私の覚悟を止めた」
さらに一歩。
僕との距離が縮まる。
「その裏で」
彼女は僕の目の前まで来た。
「あなたは自分が死ぬ技を作ってたの?」
僕は答えられなかった。
「答えて」
「……作っていた」
「使うつもりだった?」
「最終手段として」
その瞬間、アスミの手が僕の胸元を掴んだ。
強くはない。
でも、逃がさない力だった。
「最終手段って言えば、自殺計画が作戦になると思ってるの?」
僕は言葉を失った。
アスミの目が赤くなっている。
でも泣いてはいない。
泣くより先に、怒りが立っている。
「私が危険?」
「ああ」
「暴発する?」
「そう思った」
「盤面を割る?」
「……思った」
「じゃあ聞く」
彼女の声が震える。
「ピクセルジャンプを考えたのは誰?」
答えない。
「それを知って黙ってたのは誰?」
答えない。
「W1の私の記憶を覗いたのは誰?」
答えない。
「時葬なんて狂った技を考えたのは誰?」
答えられない。
アスミは、僕の胸元を掴む手に力を込めた。
「全部」
声が割れる。
「全部、お前たちじゃない!!」
ノード・ゼロの白い壁に、その声が跳ねた。
「私は危険だから止めた!! 私は暴発するから外した!! 私は盤面を割るから保留した!!」
アスミの呼吸が荒くなる。
「でも、実際に過去を踏んだのはチイロ先輩で、それを背負って死ぬ技を作ったのはあなたで、私の記憶まで勝手に見て、それでも私には言わなかった!!」
彼女の手が震える。
胸元を掴む力が、強くなる。
「ねえ、ユウマ……」
その声は、叫びより痛かった。
「危険なのはどっちなのよ!!」
誰も動けなかった。
チイロさえ、何も言えなかった。
いつもなら、ここでミームを入れる。
空気を壊す。
笑わせる。
誰かが呼吸できるように、わざと軽くする。
でも今のアスミの怒りは、チイロの軽さを正面から押し潰していた。
ミームでは誤魔化せない。
冗談では逃げられない。
これは、正論だった。
ただ、アスミだけが僕の前に立っていた。
一週間を持ち帰った帰還者ではなく。
W1の独白を書いた証人でもなく。
ただ、仲間に置いていかれた少女として。
僕を睨んでいた。
そして僕は。
その怒りに対して、何ひとつ反論できなかった。
言い訳なら、いくらでもあった。
君を守りたかった。
W1の真実を君に再接続させたくなかった。
チイロが壊れかけた。
りうの地層が逆流した。
黒葬では届かなかった。
時葬しかなかった。
全部、本当だった。
でも、本当の言葉がいつも正しいとは限らない。
むしろ本当だからこそ、いちばん汚く聞こえることがある。
僕はアスミを守るために黙った。
その結果、アスミを一人にした。
僕は誰も死なせないために時葬を考えた。
その結果、自分だけが死ぬことを計算に入れた。
僕はアスミを危険から遠ざけようとした。
その結果、彼女から“決める権利”を奪った。
沈黙の中で、アスミの手が少しだけ緩んだ。
でも離れない。
彼女は僕を見上げた。
「私を守るって、そういうこと?」
声が掠れていた。
「私を外して、私に黙って、私の記憶を読んで、私の覚悟を凍結して、自分は死ぬ準備をすること?」
僕は、答えなかった。
答えられなかった。
アスミは、ほんの少しだけ笑った。
泣く寸前の人間が、泣かないために作る笑いだった。
「最低」
その一言は、怒鳴り声よりもずっと深く刺さった。
「本当に、最低」
そして、彼女は僕の胸元から手を離した。
解放されたはずなのに、息ができなかった。
アスミは一歩下がる。
毛布が肩から少しずり落ちる。
ミサキが反射的に動こうとして、止まった。
チイロも動かない。
レイカも、トウタも、ミナトも。
誰も、今のアスミに触れられなかった。
「……続けて」
アスミは言った。
僕は顔を上げる。
「まだ、隠してることがあるなら」
彼女の目は、真っ赤だった。
それでも、涙は落ちていなかった。
「全部、出して」
午前五時三十分。
十五時まで、九時間半。
信頼は戻らない。
謝罪でも戻らない。
正しさでも戻らない。
でも、嘘を続けるよりは、まだましだ。
そう思うしかなかった。
いや。
そう思うことさえ、僕の都合かもしれない。
僕は、もう一度息を吸った。
そして、次の隠し事を探すのではなく。
自分がどれだけ彼女から奪っていたのかを、初めて数え始めた。
アスミは怒った。
当然だった。
僕たちは、彼女の独白を読んだ。
彼女の覚悟を解析した。
彼女の計画を止めた。
彼女の知らない記憶に触れた。
チイロは過去の地層を踏み、僕はそれを押し返すために、時葬という自殺に近い技を考えた。
そのすべてを、アスミだけに隠していた。
守るためだった。
そう言えば聞こえはいい。
でも、アスミが言った通り、それは優しさではなく管理だった。
危険だから止める。
暴発するから外す。
壊れるから見せない。
その判断の中に、彼女自身はいなかった。
僕は彼女を守ろうとして、彼女から選ぶ権利を奪った。
そして、彼女に問われた。
危険なのはどっちなのか、と。
僕は答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
信頼は戻らない。
謝罪でも戻らない。
正しさでも戻らない。
けれど、嘘を続けるよりはまだましだ。
そう思うことさえ、僕の都合かもしれない。
それでも、ここから始めるしかなかった。
アスミを外さないこと。
アスミに隠さないこと。
彼女を危険物ではなく、同じ盤面に立つ仲間として扱うこと。
午前五時三十分。
十五時まで、九時間半。
僕たちは、まだ壊れた信頼の上に立っていた。
でも初めて、同じ地面に立っていた。




