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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第五章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY2-編

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202/217

EP207. 欠落した帰還者の証言

 僕は、矢那瀬アスミが戻ってきた瞬間の目を、たぶん一生忘れない。


 一秒前まで、僕の腕の中には彼女がいた。

 一秒後にも、彼女は同じ場所にいた。

 ログ上は、それだけの話だった。


 けれど、彼女の中では一週間が過ぎていた。


 僕たちは、彼女を守るつもりで彼女を外した。

 アスミの独白を解析し、チイロのPixel Jumpを検証し、DAY2に備えるための手順を組んだ。

 そのすべてに理由はあった。

 正しさも、必要性も、説明できる。


 でも、説明できる裏切りは、裏切りではなくなるのか。


 答えは、たぶん違う。


 ノード・ゼロで再び動き出した時間は、僕たちの準備を待ってくれなかった。

 ZAGIという赤い警告。

 W1由来のアニマトロニクス。

 昭和五十六年。

 矢那瀬ヒカル。

 アキラ少年。

 戌神キョウジ。

 そして、DAY2に開かれるデスゲームの証言。


 彼女が持ち帰った一週間は、僕たちが隠していた数十分より、ずっと重かった。


 だから、ここからは記録する。

 彼女を危険物として棚に置くためではなく。

 帰還者として、証人として、そして同じ盤面に立つ仲間として。


 僕はもう、彼女を外さない。

 たとえその選択で、盤面が割れるとしても。


 ――記録を始める。


 僕の腕の中で、矢那瀬アスミが目を開けた。


 その瞬間、ノード・ゼロの空気が変わった。


 音が戻ったわけじゃない。光が変わったわけでもない。けれど、そこにいた全員が同じ違和感を覚えたはずだった。


 彼女は、さっき消えたアスミではなかった。


 同じ制服。同じ髪。同じ顔。同じ身体。


 けれど、目が違った。


 人間の目は、たった一秒であそこまで変わらない。


 疲労、恐怖、怒り、喪失、そして、何かを置いてきた人間だけが持つ、戻れなかった場所への視線。


 それらが、彼女の瞳の奥に層になって沈んでいた。


「……ユウマ?」


 アスミは、僕の名前を呼んだ。


 名前を呼ぶというより、照合していた。


 僕が本物かどうか。


 ここが本当にノード・ゼロなのか。


 今いる世界が、自分の帰るべき場所なのか。


 そのすべてを、僕の名前で確かめようとしている声だった。


 僕は、どうにか返事をした。


「僕だ。アスミ、分かるか……?」


「……分かる。分かるけど……」


 彼女はゆっくりと周囲を見た。


 チイロ、ミサキ、ミナト、トウタ、レイカ。


 そして、臨時端末。


 落ちた電源。


 床を這うケーブル。


 ノード・ゼロの白い壁。


 彼女の視線が一つずつそれらを拾っていく。その動きが遅い。遅いのではなく、慎重だった。まるで、一つでも見落とせば、また別の時間へ弾かれるとでも思っているみたいに。


「……なんで、みんな、いるの……?こんな早い時間に……ここで何してたの?」


 チイロが口を開きかけて、閉じた。


 いつものチイロなら、ここで冗談を挟む。空気に穴を開けて、呼吸を通す。でもその時だけは、彼女でさえ言葉を選んでいた。


 ミサキがそっと近づく。


「アスミ、気分は? 吐き気、頭痛、視界の異常、手足のしびれは?」


 アスミはミサキを見る。


 少しだけ、不思議そうに。


 それから、小さく笑った。


「まるで……保健委員みたいね」


「保健委員だよ」


 ミサキの声が震えた。


「だから答えて。今、あなたがどれくらい危ないか、ちゃんと知りたい」


 アスミは目を伏せた。


「頭痛はある。吐き気も少し。視界は……今は戻ってる。手足は動く。たぶん、神経伝達は正常。でも、変な感じがする」


「変な感じ?」


「身体が、私より一週間遅れてる」


 その言葉で、全員の呼吸が止まった。


 僕は、彼女を支えていた腕に力を入れすぎないようにしながら、聞き返した。


「一週間?」


 アスミは僕を見る。


 その目が、少しだけ揺れた。


「……今、何時?」


 ミナトが即座に答える。


「2025年10月26日、午前4時58分21秒。アスミが消失してから帰還するまでの外部経過時間は、正確には1.37秒」


 アスミの顔から、血の気が引いた。


「……嘘」


「ログ上はそうだ」


「嘘でしょ……?」


 彼女は、今度は僕を見た。


 責めている目ではなかった。


 信じたいのに、信じられない目だった。


 僕は首を横に振れなかった。


「本当だ。僕たちにとっては、一秒ちょっとしか経っていない」


 アスミは、唇を少し開けたまま固まった。


 その沈黙が、痛かった。


 やがて彼女は、僕の腕から自分の体重を引き剥がすようにして立とうとした。膝が揺れる。僕は反射的に支えようとしたが、彼女は手のひらで制した。


「……大丈夫」


 大丈夫な人間の声ではなかった。


 それでも、彼女は立った。


 ノード・ゼロの床に、両足で立った。


 その立ち方が、さっきまでのアスミと違っていた。


 警戒している。けれど、ただの警戒ではない。足裏で床の反力を確かめ、空気の密度を読み、壁との距離を測っている。ここが本当に“いつものノード・ゼロ”かどうかを、身体全部で観測している。


 チイロが、ようやく息を吐いた。


「……1秒後に、一週間分の疲れを背負った顔して帰ってくるの、さすがにバグが強いんだけど?」


 アスミはチイロを見る。


「チイロ先輩……」


「うん」


「今の、笑っていいところ?」


「笑っていい。泣いてもいい。キレてもいい。全部正規ルート」


「じゃあ、後で全部やる」


「了解。感情フルコース予約入りました〜」


 軽口だった。


 でも、それでようやく空気が少し動いた。


 トウタがペットボトルを拾い、キャップを開けて差し出した。


「水、ほら! 実況民からの支援物資。毒もバグも流れないけど、喉は動く」


 アスミは数秒それを見つめてから、受け取った。


「ありがとう」


 その「ありがとう」が、妙に丁寧だった。


 トウタも気づいたらしい。彼は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。


 アスミは水を一口飲んだ。


 喉が動く。


 その小さな動作だけで、僕はようやく彼女が本当にここにいるのだと理解した。


「アスミ」


 僕は言った。


「何があった?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 代わりに、臨時端末のあった場所を見た。


「ZAGIが出た」


 その単語だけで、全員の表情が変わった。


 ミナトが端末を握り直す。


「こちらのログにも残っている。《WARNING : ZAGI》。ただし、通常の警告形式じゃない。端末表示というより、神経入力に近い」


「そう。画面に出たけど、画面じゃなかった。目で見たのに、目だけで見てない。視神経から直接、脳に書き込まれた感じ」


 ミサキの顔が険しくなる。


「神経ジャック?」


「近い。でも、外部から乗っ取られたというより……鍵を挿された感じ」


「鍵?」


 アスミは小さく頷いた。


「私の脳が鍵にされた。ZAGIは警告じゃない。たぶん起動語。あるいは、転送キー」


 僕は、言葉を失いそうになった。


 だが、ここで止まるわけにはいかない。


「………………転送先は?」


 アスミは、少しだけ息を吸った。


 そして、言った。


「昭和五十六年」


 誰もすぐには反応できなかった。


 昭和五十六年。


 数字としては理解できる。


 1981年。


 けれど、それがアスミの口から出ると、ただの年号ではなくなった。


 ノード・ゼロの床下が、突然何十年も下へ抜け落ちたような感覚がした。


 レイカが静かに呟く。


「……舞台転換どころじゃないわね。時代そのものが変わっている」


 トウタが頭を抱えた。


「一秒で昭和往復。情報量が重すぎるわ! スレタイにしたら釣り扱いされるやつだなこれ」


 チイロは笑わなかった。


「アスミ。昭和で、どれくらいいた?」


「一週間」


「それがさっきの身体が遅れてるって体感?」


「体感じゃない。日付を追った。会話もした。食事もした。眠った。喫茶店でプリンも食べた」


 プリン、という単語だけが妙に生活的で、だからこそ怖かった。


 僕は聞いた。


「誰かに会ったか?」


 アスミは、僕を見た。


 その瞬間、何かを言うか迷った顔をした。


 僕は、その迷いの中に僕の知らない名前があることを直感した。


「……矢那瀬ヒカル」


 僕は眉を寄せた。


「矢那瀬?」


「私の義理の父親らしい人。二十代だった。あの時代では、私と暮らしていた」


 ミサキが小さく息を呑む。


 チイロの目が細くなる。


 ミナトは即座に端末へ記録し始めた。


「待って」とミサキが言う。「アスミの義理の父親が、昭和五十六年に二十代? じゃあ、アスミのお母さんは……」


「まだ生まれてない」


 アスミが遮った。


 声は冷静だった。


 冷静すぎた。


「私の母親は、あの時代には存在していない。だから、私は自分が何なのか分からなくなった」


 ノード・ゼロが、無音のまま沈んだ。


 彼女は続ける。


「それから、アキラという六歳の少年に会った。たぶん……私の実の父親になる存在」


「でも六歳!!??」


 トウタが呟く。


「父親が六歳。情報の圧縮率がエグいwww」


「笑えないわよ」


 ミサキが言う。


「分かってる。笑ってないと無理なだけな」


 トウタの声は、ほんの少しだけ掠れていた。


 僕はアスミから目を離せなかった。


 彼女は、昭和で自分の父親になる少年と会った。


 まだ生まれていない母親を思い、存在しているはずのない自分の生活を見た。


 そして、一週間を過ごして帰ってきた。


 僕たちにとっての一秒後に。


「他には……?」


 僕は聞いた。


「誰に会った……?」


 アスミの表情が変わった。


 そこには、さっきよりずっと強い喪失があった。


「戌神キョウジ。ケイ先輩。リツコ。シズク」


 キョウジ……?


 その名前で、僕の心臓が一拍遅れた。



 小学校からの幼なじみ。


 今は確か、影村学園にいるはずの男。


 久しく会っていないな。


 僕は思わず聞き返した。


「キョウジに会ったのか?」


 アスミの目が、僕の反応を見た。


「やっぱり、知ってるのね」


「知ってる。小学校からの幼なじみだ」


「彼は、あなたのことを知っていた。私とユウマが知り合いなのも知っていた。DAY1のメイドカフェで、私が接客していたことまで」


 チイロが吹き出しかけて、必死で止めた。


「ごめん。そこ笑うところじゃないのは分かってる。でもメイド服ログが因果の接続証明になるの、文化祭って怖い」


 アスミが睨む。


「笑ったら殴る」


「殴らないで。今の私は観測倫理的に非武装」


 僕は、笑えなかった。


 アスミがキョウジに会っている。


 つまり、キョウジも過去にいたことになる。


 あり得ない。今、一秒間のうちにキョウジもどこかでタイムリープしたとでもいうのか?


 そして、キョウジは何かを知っている。


 いや、それだけじゃない。


 アスミはもう知ってしまっているのかもしれない。


 キョウジはDAY1で僕達をみた。このニュアンスから推測すると、キョウジは、今日、このDAY2で何が起こるのかを知っている時間軸から移動してきた可能性……。


「キョウジは、何を言った」


 僕の声が、少し低くなった。


 アスミはそれに気づいた。


 そして、正面から答えた。


「今日、双灯祭DAY2で、学園はデスゲーム会場になる」


 その言葉が、ノード・ゼロの中心に落ちた。


 誰も動かなかった。


 僕たちは、御影シオンが何かを起こすことは理解していた。


 EXIT:CODE - Day2 Core Phase。


 それが危険であることも、想定していた。


 けれど、“デスゲーム”という言葉を、過去から戻った者の証言として聞くのは別だった。


 ミナトが静かに言った。


「情報源は、キョウジか……」


「そう。彼らは、2025年のDAY2から昭和へタイムリープしていた。何度も繰り返しているみたいだった。戻ると記憶に齟齬が出る。リツコとシズクからは、キョウジとケイ先輩の記憶が消える」


「記憶消去……」


 ミサキの声が沈む。


 アスミは頷く。


「消えるだけじゃない。消えたあと、世界が“最初からそうだった”みたいに辻褄を合わせる。七不思議の放送も、放送室での会話も、喫茶店へ行く導線も、因果の束ごと抜けた」


 彼女の手が、わずかに震えた。


 僕はそれを見た。


 彼女はすぐに手を握った。


 震えを隠すためではない。


 震えを制御するために。


「アスミ」


 僕は言った。


「無理に全部話さなくていい。一旦情報整理をしよう」


「話す」


 即答だった。


「話さないと、また世界が勝手に整合する。証拠はない。証明もできない。でも、私が保持しているうちに言語化する。言語化しない記憶は、時間に食われる」


 その言葉で、僕は理解した。


 彼女は、帰ってきたばかりではない。


 帰ってきた瞬間から、もう時間と戦っている。


 自分の記憶が本物であるうちに。


 その痛みが、まだ温度を持っているうちに。


「キョウジは、書物を探して破棄しろと言った」


 アスミは続けた。


「タイトルは――」


 彼女は一度だけ息を整えた。


「『選別遊戯系統論・基礎篇――閉鎖環境下における倫理逆転・注目分配・生存誘導の数理』」


 空気が変わった。


 チイロの顔から、軽さが消えた。


 ミナトの指が止まった。


 レイカが、目を細める。


 トウタが小さく「うわ」と言った。


「……つまり、デスゲームの設計書か……?」


 僕は言った。


 アスミは頷く。


「理論書の顔をした手順書。第一章、閉鎖選別遊戯の定義。第二章、善意行動の費用反転。第三章、観測圧と役割固定。第四章、共同体圧縮と同調破断。第五章、注目飢餓環境における判断偏倚。第六章、生存誘導設計の標準変数。第七章、模擬試験片と教育転用。附録、簡易実装仕様一覧」


 ミナトが低く言った。


「目次まで覚えているのか」


「キョウジが読み上げた。忘れたくても忘れられない」


 チイロが、珍しく口調を崩さずに言う。


「その目次、アスミが独白で書いていた内容に近い。まさにそれを顕在化したのがW1のデスゲーム。かなり一致する」


 アスミはチイロを見た。


「私の独白からこの理論が読めたの?」


 チイロは一瞬、言葉を止めた。


 その一瞬で、僕は悟った。


 今、僕たちはまた“アスミの知らない情報”を持っている。


 そして、彼女はそれに気づいた。


「えっ……何……?」


 アスミの声が低くなる。


「今の反応、何……?」


 チイロはカフェオレの紙パックを置いた。


「ごめん。そこも説明する。たぶん、順番を間違えると全部燃える」


「もう燃えてる」


「だよね。知ってた」


 僕は間に入った。


「アスミ。まず、ノード・ゼロで何が起きたかを整理させてほしい。その後に全部説明する。もう隠さない」


 アスミは、僕を見た。


 長い沈黙。


 その目には怒りがあった。


 当然だ。


 失望もあった。


 それも当然だ。


 けれど、その奥に、まだ僕の言葉を聞こうとする意思が残っていた。


 それが、痛いほどありがたかった。


「……分かった」


 彼女は言った。


「でも、順番を決めるのはあなたじゃない。私も決める」


「分かった」


「私を危険物として棚に置かないで」


「置かない」


「嘘ついたら、今度こそ許さない」


「嘘はつかない」


 アスミは小さく息を吐いた。


「じゃあ、始めて」


 その言葉で、ノード・ゼロの空気が再び動いた。


 僕はミナトを見る。


「解析を」


 ミナトは頷き、端末のログを中央モニターに送った。


 そこに映し出されたのは、アスミが消失していた一・三七秒間の記録だった。


 白い欠落。


 赤い警告。


 歪んだ空間相関。


 そして、巨大な目を持つアニマトロニクスの輪郭。


 ミナトは、静かに言った。


「結論から言う。このノード・ゼロで起きた現象は、単なる幻覚でも、単なるセキュリティでもない。空間の相関構造が、アスミ一人を対象に再定義されていた」


 トウタが眉を寄せる。


「チイロ! 翻訳希望!」


 チイロが答える。


「ノード・ゼロが、アスミ専用のお化け屋敷兼スキャナになってた」


「最悪の翻訳ありがとうwww」


 ミナトは続ける。


「通常、ノード・ゼロは観測前の空白として扱われる。だが今回、そこに状態方程式に近いものが一時的に立ち上がった。床の反力、音響経路、光の散乱、慣性補正、すべてがアスミの生体反応に追従していた」


 アスミが腕を組む。


「やっぱり。空間が私を怖がらせて、心拍や皮膚電位を入力にしてた」


「その通りだ」


 ミナトが頷く。


「追跡モデルは恐怖反応を前提にしている。対象が怖がれば怖がるほど、信号が増える。信号が増えれば、捕捉精度が上がる。だから追跡器は、対象を怖がらせるように空間を最適化した」


 ミサキが眉を寄せる。


「つまり、アスミの身体を測定機にした」


「そうだ」


 アスミは静かに笑った。


 笑いというより、吐息だった。


「ほんと、悪趣味」


 レイカが画面のアニマトロニクスを見つめる。


「この顔。完全な怪異ではないわね。舞台装置の匂いがする。怖がらせるための顔。怖がらせた後の反応まで台本に入っている顔」


 チイロが頷く。


「黒沼カイト系の怪異アニマトロニクス設計データに近い。でも完全一致じゃない。W1由来の“恐怖テンプレート”と、現行W2の装置モデルが混線してる」


「W1のテンプレート」


 アスミが呟く。


「私もそう感じた。あれは怪物じゃない。機械。シリコン皮膜、ジンバル眼球、床下誘導、外部電源。悲鳴も帯域加工だった」


 ミナトが画面を切り替える。


 アニマトロニクスの移動軌跡。


 その下に、アスミの心拍の波形。


 両者は一部で同期していた。


「ここだ。アスミが呼吸を止めた瞬間、アニマトロニクスも停止している。つまり、追跡体はアスミの生体リズムを制御入力にしていた」


「捕まえるためじゃない」


 アスミが言う。


「同期させるため」


 ミナトは頷いた。


「おそらく」


 チイロが端末を睨む。


「つまり、アスミを観測装置の一部にするための追跡。捕獲じゃなく同期。うわ、気持ち悪。人間の尊厳をUSBポートだと思ってるタイプの設計」


 トウタがぼそっと言う。


「差し込むな、抜くな、認識するな」


 ミサキがアスミを見た。


「その時、あなたはどうやって抜けたの?」


 アスミは短く答えた。


「怖がり方を変えた」


 チイロが軽く手を叩いた。


「ほら来た。やっぱり」


 アスミはチイロを睨む。


「何が? やっぱり?」


「追跡器って、対象の反応モデルを持ってるの。恐怖で心拍が乱れる、皮膚電位が跳ねる、呼吸が崩れる、瞳孔が開く。そういう“怖がる人間テンプレ”に合わせて追ってくる。だから、怖いまま、怖がり方だけ変えればモデルが壊れる」


「実際、心拍を偽装して、皮膚電位を乱数化して、呼吸周期を理想値に寄せた」


「人間がやることじゃない」


「でも、やった」


「知ってる。だから可愛くない後輩なんだよ」


 そのやり取りで、ほんのわずかに場が緩んだ。


 けれど、すぐにミナトが次の画面を出した。


 ZAGI警告。


 赤いログ。


 神経入力の波形。


 その横に、一つの仮説が表示される。


《ZAGI = Observation Initiation Key》


 観測開始キー。


 僕はその文字を見つめた。


 アスミも、黙って見ていた。


「ZAGIはAIじゃないのか?」


 僕が言うと、ミナトは首を横に振った。


「少なくとも今回のZAGIは、人格AIとして機能していない。むしろ、観測を開始するための認証語、あるいは神経インターフェースの起動キーに近い」


 チイロが言う。


「ZAGIっていう名前がロゴ化してるせいで分かりづらいけど、本体はりうの残響そのものじゃない。りうの“観測しています”が世界に残した起動形式。聞こえてる? から始まる、接続の呪文」


 トウタが小さく言った。


「りうをロゴにするな、って何度も言ってるのに、世界の方がロゴ化してくるのほんと最低だよな」


 レイカが目を伏せる。


「名前が照明記号になってしまったのね。人間の名前だったものが、舞台のキューになった」


 ミサキは唇を噛んだ。


「じゃあ、アスミがZAGIを見た瞬間に飛ばされたのは……」


「ZAGIが転送を実行したというより、アスミの神経が“観測開始条件を満たした”と判定された可能性が高い」


 ミナトが言う。


「ノード・ゼロは彼女の生体反応を取り、独白ログを燃料にし、W1恐怖テンプレートで追跡し、最終的にZAGIを表示した。つまり、ここまでが一連の認証手順だった」


「けど認証されたら、なんで昭和五十六年に飛ぶ?」


 トウタが顔をしかめる。


「認証システム、行き先の癖が強すぎる」


 ミナトは淡々と続ける。


「昭和五十六年という行き先に意味がある。そこには、選別遊戯系統論の紙媒体、キョウジたちのタイムリープが存在した。つまり、ノード・ゼロはアスミをランダムに飛ばしたのではなく、“観測すべき座標”へ送った」


 アスミの顔が強張った。


「誰が?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 その問いだけが、ノード・ゼロに残った。


 誰が、アスミを昭和へ送ったのか。


 ZAGIか。


 りうの残響か。


 ノード・ゼロか。


 それとも、ノード・ゼロを使っている誰かか。


 僕はモニターの前に立ち、白い欠落ログを見つめた。


 その中に、一瞬だけ黒い影がある。


 アスミが見たという、人の“手”の痕跡。


 僕はそれを拡大した。


 画面の粒子が荒れる。


 解像度を上げる。


 ノイズを除去する。


 輪郭は出ない。


 けれど、そこにあるものは、コードでも自動処理でもなかった。


 人間が触れた痕跡。


 誰かが、ここに手を入れている。


 僕は、声を低くした。


「ZAGIはキーだ。ノード・ゼロは装置だ。アニマトロニクスは追跡モデルだ。じゃあ、操作者は誰だ……」


 アスミが僕を見る。


 チイロが息を吐く。


 ミナトがログを保存する。


 トウタが小さく笑う。


 レイカが照明のない天井を見上げる。


 ミサキが、アスミの脈を測る手をそっと離す。


 アスミは言った。


「私、昭和で黒い本を見た」


 僕たちは、全員彼女を見た。


「ヒカルの家にあった。エクスエル関連の本と、もう一冊。黒い書物。正体はまだ分からない。でも、キョウジが言っていた選別遊戯系統論と繋がる可能性が高い」


「エクスエル……?……黒い本……?」


 僕は呟いた。


 その瞬間、すべてが一本の線になりかけた。


 アスミの独白。


 W1残滓。


 ZAGI。


 昭和五十六年。


 矢那瀬ヒカル。


 アキラ少年。


 選別遊戯系統論。


 御影シオンのCore Phase。


 そして、十五時のDual Lumen Sync Session。


 まだ、線は完全には繋がらない。


 けれど、点はもう十分すぎるほど多かった。


 僕は言った。


「アスミ。改めて君が見てきた一週間を、全部記録させてほしい」


 彼女はすぐには答えなかった。


 それから、静かに言った。


「私も条件がある」


「何だ?」


「あなたたちが隠していたことも、全部出して」


 当然だった。


 僕は頷いた。


「分かった」


 チイロが苦笑する。


「じゃあ、ここから地獄の情報交換会だね。議題、重すぎ。お菓子ほしい」


 トウタがペットボトルを掲げる。


「次スレタイトル、『一秒後の一週間、情報量で殴る会』」


 レイカが小さく笑った。


「照明は落としたままでいいわ。こういう告白には、明るすぎる光は向かない」


 ミサキはアスミの肩に毛布を掛けた。


「まず座って。話は長くなる。呼吸を忘れないで」


 アスミは毛布を見て、少しだけ目を細めた。


「……ありがとう」


 やはり、その声は一週間分だけ遠かった。


 僕はその距離を、痛いほど感じた。


 けれど、今度は外さない。


 彼女を棚に置かない。


 危険物として扱わない。


 たとえ彼女が盤面を割るとしても、その割れ方を一緒に見る。


 僕は中央モニターに新しいファイルを開いた。


 タイトル欄に、手が止まる。


 数秒考え、こう打ち込んだ。


《帰還者の一週間:一次聴取ログ》


 その文字を見たアスミが、少しだけ笑った。


「聴取って、容疑者みたい」


「違う」


 僕は言った。


「証人だ」


 アスミは黙った。


 それから、ほんのわずかに頷いた。


 止まっていた時間が、ようやく動き出す。


 その最初の音は、アスミが息を吸う音だった。


 アスミは、一秒後に帰ってきた。


 けれど、その一秒は空白ではなかった。

 彼女の中には、昭和五十六年の一週間があった。

 僕たちの知らない家、知らない喫茶店、知らない少年、知らない書物、そして、僕たちがまだ到達していないDAY2の結末に触れた者たちの証言があった。


 僕たちは、ノード・ゼロで何が起きたのかを解析した。


 ZAGIは警告ではなく、観測開始の鍵だった。

 アニマトロニクスは怪物ではなく、恐怖を入力にする追跡モデルだった。

 ノード・ゼロは空白ではなく、アスミを対象に再定義された装置になっていた。


 だが、いちばん大きな問題はそこではない。


 誰が、それを起動したのか。


 誰がアスミの独白を読み、彼女の恐怖を燃料にし、彼女を昭和五十六年へ送ったのか。


 その答えは、まだ出ていない。


 ただ、点は揃い始めている。


 選別遊戯系統論。

 御影シオンのCore Phase。

 W1の恐怖テンプレート。

 りうの名を冠したZAGI。

 そして、十五時に予定されたDual Lumen Sync Session。


 光が重なる時、影もまた濃くなる。


 アスミは証人として話すと言った。

 僕たちは、隠していたことをすべて出すと約束した。

 その約束が信頼を取り戻すとは限らない。

 けれど、約束をしない限り、信頼は始まらない。


 DAY2は、もう始まっている。


 次に動くのは、僕たちだ。


 ――岡崎ユウマ


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