EP206. 一秒後の一週間
僕は、時間というものを信じていた。
昨日が終われば今日が来る。
一秒経てば、その次の一秒が来る。
人間は、それを疑わないから生きていられる。
でも、本当は違う。
時間は誰にでも平等なんかじゃない。
同じ一秒を過ごしても、その一秒が誰かには人生を変える一瞬になり、誰かには文字通り瞬きをした程度の出来事にしかならない。
僕は、その理不尽を知っていたつもりだった。
それでも、この日の出来事だけは予測できなかった。
ノード・ゼロ。
観測以前の空白。
何も存在しないはずだった場所で、僕たちは初めて「時間そのもの」が裂ける瞬間を目撃する。
そして、その裂け目に落ちたのは、矢那瀬アスミだった。
あの時の僕は、まだ知らない。
僕たちにとって一秒にも満たない沈黙が、彼女には一週間という現実になることを。
あの日、止まったのは時計じゃない。
僕たちの理解だった。
僕は、時間が止まる瞬間を何度か見たことがある。
時計の針が止まる、という意味ではない。物理現象としての停止でもない。もっと人間に近い、もっと質の悪い停止だ。
誰かが息を呑む。誰かが言葉を失う。誰かの指先が、触れるべきものの手前で固まる。そこにいた全員が同じ方向を見ているのに、見ているものの意味だけが一人ずつ違う。そういう時、時間は秒針ではなく、人間の理解の側で止まる。
双灯祭DAY2の朝、ノード・ゼロで止まったのは、そういう時間だった。
そして、その止まった時間が再び動き出した時、矢那瀬アスミだけが、別の時間を抱えて帰ってきた。
話は、その数十分前に戻る。
⸻
午前四時四十七分。
ノード・ゼロは、相変わらず無口だった。
地下深くに沈んだその空間には、温度というものが薄い。寒いわけではない。空調は一定、床面温度も、壁面の放射熱も、記録上は異常なし。けれど、人が普通の部屋に入った時に感じる、生活の残滓がない。
誰かが椅子を引いた跡。飲み物の匂い。昨日の会話の残響。そういうものが、ノード・ゼロにはない。
ここは、観測以前の空白だ。
そう定義してきたし、そう扱ってきた。
だからこそ、僕たちはここへ集まっていた。
僕、雲越チイロ、霧島ミサキ、立花ミナト、亞村トウタ、火宮レイカ。
アスミだけがいない。
その事実が、部屋の中央に置かれた臨時モニターよりも、床を這うケーブルよりも、ずっと大きな異物としてそこにあった。
「で?」
チイロがゲーミングチェアでもないただの折り畳み椅子に片膝を抱えて座り、紙パックのカフェオレをストローで吸いながら言った。
「ユウマくん。朝五時前に女子高生と男子高校生その他もろもろを地下七階に召喚した理由、そろそろ本題に入っていい? こっちは脳がまだ布団からログアウトできてないんだけど」
いつもの軽さだった。
いや、いつもの軽さに聞こえるようにしているだけだ。
チイロは、こういう時ほど喋り方を崩す。ミームで覆い、冗談で包み、相手に呼吸の余白を作る。けれど目だけは笑っていない。ピンクの髪の隙間から覗く瞳は、モニターの起動ログを一行も取り逃さない速度で動いていた。
「先に結論から言う」
僕はモニターへ手を伸ばし、最初の資料を投影した。
アスミの独白ログ。
その構文解析結果。
そして、チイロのPixel Jump後に観測された地層干渉ログ。
同時に表示した瞬間、トウタが低く呻いた。
「うわ、出た! 朝イチから胃もたれ三点セットかよ!?独白、地層、そして意味深なグラフ。これ、普通に朝食前に浴びるもんじゃないんだよなぁ」
「朝食後でも浴びたくないけどね」
レイカが壁際にもたれ、腕を組んで言った。黒い髪の影が頬に落ちている。舞台袖に立つ人間みたいに、彼女はこの空間の光量を目で測っていた。
「でも、ユウマがここまで照明を落とした理由は分かるわ。これは会議じゃない。上演前の非常確認。違う?」
「近い」
僕は頷いた。
「今日はDAY2だ。御影シオンが何かを起こす。EXIT:CODE - Day2 Core Phaseという名称も出ている。ただ、僕たちはまだCore Phaseの意味を知らない。けれど、その前に確認しなきゃいけないことが二つある」
ミナトが白いシャツの袖を肘までまくり、端末を膝に置いたまま言った。
「アスミの独白ログと、チイロのPixel Jumpか」
「そう」
僕は画面を切り替える。
独白ログの一部が表示された。
W1の惨劇。痛み。絶望。観測。りう。ZAGI。救えなかったもの。救おうとして歪んだもの。
あまりにも鋭い文章。
けれど、その鋭さの奥に、別の処理が挟まっている。
僕は喉の奥が乾くのを感じながら続けた。
「アスミの独白は、僕たちが最初に考えていたような“W1の生ログ”じゃない可能性が高いとはすでに話した通りだ。だからW1への宣戦布告は凍結した」
ミサキの指が、救護バッグの持ち手を強く握った。
「……それがどうこの会合に繋がるの?」
彼女の声は静かだった。保健委員としての声。だけど、わずかに心拍が上がっている。ユウマ、と名前を呼ばなくても、彼女の視線は僕の脈を測っている。
僕は即答した。
「話を続ける。アスミの独白は嘘じゃない。むしろ、嘘にしては痛すぎる。ただ、あれはたぶん、アスミがそのまま見た地獄じゃない。アスミが耐えられる形に、アスミ自身が変換した地獄だ」
チイロがストローを口から離した。
「優しい鞘、ってやつね」
「そう」
僕は次のグラフを出す。
語尾丸め率。緩衝語密度。自己帰責から構造帰責への置換比。罰概念の意味化。痛みの理由化。
数字は冷たい。冷たいのに、並んだ時だけ、人間の優しさを残酷なほど正確に示すことがある。
「アスミのログは、再演シミュレーションに入れると異常な結果を出す。W1の惨劇を再演・改変できる理論上の事前成功率は、ほとんどゼロに近い。だけど、この独白ログを使うと成功率が跳ね上がる」
トウタが頭を掻いた。
「つまり、地獄が攻略可能っぽく見えるようになってるってことだろ? 改めてとんでも話だよな」
「見える、というより、演算が近道を取れる。角が落ちて、因果の凹凸が滑らかになっている。だから、再演器が“これなら届く”と錯覚する」
「やっぱ、何度聞いても最悪じゃん」
トウタは笑った。笑ったのに、顔は引きつっていた。
「優しく書いたせいで、地獄が再利用しやすくなるとか、地獄側のUX設計どうなってんだよ。レビュー星一つだわwww」
「レビューできるだけマシよ」
レイカが低く言う。
「本当に酷い舞台は、終演後のアンケート用紙すら渡してくれない」
ミサキが画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「ユウマ。前にも聞いたけど、アスミ自身はそれを知らないんだよね?」
僕は答えられなかった。
答えなかったことが、答えになった。
ミサキは目を伏せる。
「彼女に言う前に、僕たちで改めて共有したかった」
言った瞬間、自分の言葉の形が嫌になった。
共有したかった。
その言い方は正しい。けれど、その正しさの裏側に、アスミを外した事実がある。
アスミに言う前に。
アスミ抜きで。
彼女の独白を、彼女抜きで分析している。
どれほど目的が安全のためでも、そこにある形は裏切りと似ていた。
チイロは、僕の沈黙を読んだみたいに目を細めた。
「ユウマ。今、自分のことを最低だと思ってる顔してる」
「思ってるよ」
「それ、あとで本人に言いな。今ここで自傷ポエム始められると、議事進行が詰むんだが?」
「自傷ポエムじゃない」
「じゃあ高解像度反省文」
トウタがすぐに乗った。
「タイトルは『僕は彼女を守るために彼女を外した』でいこう。副題、優しさは時々ただの鍵付きフォルダ」
「笑えないよ」
ミサキが冷たく言った。
トウタは両手を上げた。
「はい、すみません。今のは保守失敗。dat落ちしてきます」
「落ちなくていい。残って」
レイカが小さく笑う。
「あなたのそういう軽さが、今は必要だから」
場に薄い呼吸が戻った。
僕は次の資料を出した。
チイロのPixel Jump。
彼女が踏んだW0の地表。踏んだ、という言葉が正しいかどうかは分からない。観測、接触、干渉、設置。どの語も少しずつ違う。けれど、結果だけは残っている。
W2側への地震残滓の流入。
観測震域の揺らぎ。
過去の地層に何かを置いてしまった痕跡。
チイロが、いつもの顔で笑った。
「はい、ここで私のやらかしターン。みんな拍手しないで。拍手SEはトラウマなので」
ミナトが端末を操作しながら言った。
「Pixel Jump後の位相残差は、通常の観測誤差では説明できない。W0地表に“足場”が発生している。物理的な足場ではないが、情報地質学的には設置に近い」
「情報地質学って何!? 今できたジャンル?」
トウタが言う。
ミナトは真顔で答えた。
「必要なら作る」
「作るな! 学会が泣くわ!」
チイロはカフェオレのストローを指で折りながら、軽い口調で続けた。
「つまり、私がやったのは“覗き見”じゃなかった。観測だけのつもりで、過去の地表に靴跡を残した。で、その靴跡がW2側の床にまで響いてる。地震の残響みたいにね」
ミサキの顔色が変わった。
「それ、アスミに言ったら……」
「怒るね」
チイロはあっさり言った。
「いや、怒るだけならいい。たぶん傷つく。アスミは自分の過去改変を止められた。『危険だから』『成功率が低いから』『再演になるから』って。でもその横で、私がもっと危ない“直接設置”をやらかしてた。しかも本人抜きで解析中。うん、炎上確定。謝罪文テンプレじゃ足りない」
レイカが目を伏せる。
「舞台で言えば、主演に知らせず床下を抜いていたようなものね」
「照明的には?」
トウタが聞く。
「主役のピンスポを落とす前に、舞台そのものが傾いていた。最悪」
「なるほど。最悪の比喩が上手いwww」
僕は拳を握った。
「だから、今日ここで全員に説明したかった。アスミに伝える前に、どう伝えるか、何を先に言うべきか、そして彼女が動いた場合にどう支えるかを決めるために」
ミサキがこちらを見た。
「“動いた場合”じゃなくて、動くよ。アスミは絶対に動く」
「分かってる」
「分かってるなら、彼女を外しちゃだめだった」
その言葉は鋭かった。
僕は反論しなかった。できなかった。
ミサキは続ける。
「ユウマ、あなたは優しい。でも時々、その優しさを手順に変えすぎる。守るために説明を遅らせる。傷つけないために情報を丸める。だけど、アスミは“丸められること”が一番嫌いな子でしょ」
「……そうだな」
「そうだよ」
ミサキの声が少し震えた。
「だから、あとでちゃんと言って。隠したんじゃない、じゃなくて。隠した。結果として隠した。それがまずかった。そこまで言って」
僕は頷いた。
「言う」
その時、臨時端末の右下で小さな通知が跳ねた。
《NODE-0:ACCESS REQUEST / TRACE CONTINUING》
ミナトが先に反応した。
「待て。今のは俺たちの内部参照じゃない」
チイロが椅子から滑るように立った。
「ログ開いて」
僕は端末に手を伸ばす。
画面に、アスミの独白ログへの閲覧履歴が出た。
参照元、ノード・ゼロ。
時刻、午前四時台。
ステータス、継続中。
空気が一段、冷えた。
トウタが低く言う。
「……継続中って、今も読んでるって意味?」
「読む、というより接続が閉じていない」
ミナトの声が硬くなる。
「閲覧セッションが残存している。匿名化パターンは……リリのトークン形式に近い。ただし完全一致ではない」
「踏み台?」
チイロが言う。
「っぽい。でも踏み台にするには癖が綺麗すぎる。綺麗すぎるものはだいたい罠。ネットの常識。いや、人生の常識」
レイカがモニターを見つめる。
「誰かが彼女の独白を舞台装置にしている」
その言い方が、妙に正確だった。
舞台装置。
アスミの独白は文章だ。ログだ。けれど、今このノード・ゼロでは、文章が入力になっている。痛みが燃料になっている。読まれることで、空白に意味が流れ込んでいる。
僕は、胸の奥に嫌な圧を感じた。
「切れるか?」
チイロが操作する。
「無理。こっちから切ると逆に根が深くなる。これ、セッションというより牽引ロープに近い。向こう側が閉じてないんじゃなくて、こっち側に“閉じさせない理由”が発生してる」
ミナトが補足する。
「ノード・ゼロの相関長が局所的に短くなっている。空間解像度が上がっている、と言った方が近い」
「空間解像度?」
トウタが顔をしかめる。
「監視カメラの画質が上がるみたいな話?」
「比喩としては近い。空間そのものが対象を追跡しやすくなる」
「最悪の画質向上だな」
その時、僕の端末が震えた。
アスミからの着信。
画面に名前が出た瞬間、全員が同時に僕を見た。
喉が乾いた。
僕は一瞬だけためらった。
出るべきか。
出ないべきか。
そんな問いを立てた時点で、僕はもう間違えている。
僕は通話を取った。
「……アスミ?」
自分の声が、思ったより低かった。
疲れている。緊張している。そして、隠し事をしている声だった。
彼女はすぐに言った。
『出られるのね。よかった』
軽い言葉だった。
軽い言葉なのに、刃が入っていた。
画面の向こうで、彼女はもう何かを見つけている。こちらが隠したものに手をかけている。そう分かった。
「今、どこ?」
僕は座標から入った。
彼女の状態を知りたかった。彼女がどれくらい怒っているか、どれくらい傷ついているか、どれくらい一人で走ろうとしているかを知りたかった。
でも、その質問は彼女にはきっと、位置ではなく状態を測る言葉に聞こえたはずだ。
『家を出た。学園に向かってる。……確認したいことがある』
チイロが無言で手を伸ばし、通話ログの補助解析を開始した。僕は頷きもせず、ただアスミの声だけを聞く。
『私の独白ログ。閲覧履歴が付いてた。ほぼ同時刻に、ノード・ゼロ』
ノード・ゼロの空気が、さらに薄くなった気がした。
僕は否定できなかった。
否定すれば嘘になる。驚けば演技になる。謝れば、まだ早い。
「……どのページだ」
最低の返しだと思った。
でも、事実を掘るしかなかった。
アスミは一拍遅れて答える。
『W1残滓の検証。……保留にされた過去改変のところ。私が一番、毒を吐いてる箇所』
その言葉で、胸が痛んだ。
毒。
彼女は自分の言葉をそう呼ぶ。
そして僕たちは、その毒を彼女抜きで解析していた。
「閲覧者の匿名化パターンは?」
『短絡経路。キャッシュの捨て方が……知ってる癖。あと参照元、リリのトークン形式に近い』
「“近い”って?」
『完全一致じゃない。でも、似せられる。踏み台の可能性もある』
チイロが横から口元だけで「合ってる」と言った。
僕は目だけで返す。
アスミの声は落ち着いていた。
落ち着いているほど、危ない。
感情が消えているのではない。感情を圧縮している。圧縮された感情は、展開された時に周囲を壊す。
『ユウマ。あなたたち、もう学園にいるの?』
そこに来た。
僕は短く息を吸った。
嘘はつけない。
「……いる」
通話の向こうで、沈黙があった。
それは怒りの沈黙ではなかった。怒りより先に、理解が来た沈黙だった。
僕は続ける。
「移動はした。理由はある。今は――言えない部分もある」
言った瞬間、自分の舌を噛みたくなった。
言えない。
この言葉ほど、アスミに向いていない言葉はない。
『私には?』
「アスミに、っていうより……今の状態のアスミに、だ」
チイロが顔をしかめた。
ミサキが目を閉じた。
トウタが小さく「うわ」と言った。
僕だって分かっている。
最悪の言い方だ。
でも、本音でもあった。
今のアスミに言えば、彼女は動く。動くこと自体は悪くない。問題は、彼女の動きが盤面を割れることだ。
そして僕は、その割れ方を恐れていた。
『私、そんなに分かりやすく“暴発”しそうに見える?』
皮肉の形をした痛みだった。
僕は目を伏せずに答える。
「分かりやすいとかじゃない。アスミは……盤面を割れる。割れるから、割れ方を制御したい」
言った瞬間、通話の向こうの温度が落ちた気がした。
制御。
僕はまた、最悪の単語を選んだ。
『割れ方を制御したいなら、私を外すのは逆だよ? 外された人間は、割れ方を選べない。選べない人間は、最悪の割れ方をする』
正しい。
あまりにも正しい。
僕はすぐに返せなかった。
その沈黙が、さらに彼女を傷つけると分かっていたのに。
チイロが解析画面を見て、急に眉を寄せた。
彼女がモニターを僕の方へ向ける。
通話チャネルが、二枚ある。
一枚は僕。
もう一枚は、ノード・ゼロの補正レイヤ。
背中に冷たいものが走った。
チイロが、音を出さずに口だけで言う。
“声が添削されてる”。
僕は一瞬、言葉を失いかけた。
僕はアスミと話している。
でも、アスミが聞いている僕の声は、僕だけではない。
僕の間、僕の呼吸、僕の抑揚に、ノード・ゼロがわずかな補正を乗せている。彼女を導くために。彼女の判断を、ほんの少しだけ押すために。
僕の声が、彼女を箱の奥へ押し込む道具になっている。
「アスミ」
僕は言った。
「ノード・ゼロのアクセス、継続中だ。こっちでも確認している。けど、これは僕たちの想定と違う。誰かが、離れられなくなってる可能性がある」
『想定してたの?』
「してた。けど“継続中”は違う」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
全部を言う前に、彼女は学園に来る。来てしまう。
「合流できるか?」
『できる。今、学園の手前。ゲートログ、どう抜ければいい?』
その直後、こちらの端末にも警告が出た。
《NOX TOKEN:SUSPENDED(DAY2-LOCK)》
《ACADEMY-GATE v3.1 / AUTHORITY CONFLICT》
アスミの権限が止められている。
僕のものではない。チイロのものでもない。学園側のDAY2ロック。いや、正確には、彼女だけを想定したような停止処理。
「今送る」
僕は正規の盲点を送った。
偽装ではない。監視の穴でもない。設計上、通れるが使われない経路。
それが誘導に見えることは分かっていた。それでも、彼女を門の外に置くよりはいい。
「アスミ、先に言う。怒るなとは言わない。怒っていい。……ただ、怒りだけで動くな」
『分かってる』
分かっている声ではなかった。
分かっている、と言いながら、自分に命令している声だった。
数秒、通話の中にノイズが乗る。
そのノイズの向こうで、アスミが最後に聞いた。
『ユウマ。私の独白、読んだの……あなたじゃないよね』
僕は即答できなかった。
即答すべきだった。
でも、僕は彼女の独白を読んだ。
解析もした。
ただし、ノード・ゼロの継続アクセスは僕ではない。
その差を一瞬で言語化できなかった。
だから沈黙した。
その沈黙が、また彼女を傷つける。
「……違う」
僕は答えた。
「ノード・ゼロの継続アクセスは、僕じゃない」
彼女は何も言わなかった。
通話が切れた。
同時に、チイロが吐き捨てるように言った。
「やばい。今の通話、途中からユウマの音声にNODE-0補正が乗ってた。声のなりすましじゃない。声の添削。うわ、最悪。最悪の国語教師かよ!」
ミサキが青ざめる。
「それ、アスミは気づいた?」
「たぶん。あの子、そういう呼吸の違和感には異常に鋭い」
トウタが両手で顔を覆った。
「つまり、俺たちが彼女抜きで集まって、彼女のログを見て、しかもユウマの声がノードゼロに加工されて、彼女をここへ誘導したってこと?」
誰も答えなかった。
トウタは笑った。
「終わってる。関係性の炎上として満点。倫理委員会も裸足で逃げる」
「逃げない」
ミサキが言った。
「逃げないで、迎える」
僕は頷いた。
「アスミが来る。そこで全部話す」
「全部?」
レイカが聞いた。
「全部だ。独白のことも、Pixel Jumpのことも、通話補正のことも」
「その前に」
ミナトが端末を見て言った。
「ノード・ゼロの相関構造が変わっている。入口側に空間歪みが出ている。これは通常のセキュリティレイヤじゃない」
「何が起きてる」
「分からない。ただ、空白だった場所に、状態方程式のようなものが立っている」
チイロが顔を上げる。
「アスミが入ったら、食われるかも」
その言葉の直後、入口側センサーが反応した。
⸻
アスミがノード・ゼロに入った。
僕はすぐに駆け出した。
けれど、三歩目で視界が白く歪んだ。
ノード・ゼロの入口通路が、ほんの一瞬だけ別の場所になった。
壁面の白が、粒子の粗い灰色に変わる。音が遅れる。床の反力が均一化する。アスミの姿が見えたはずの方向に、歪んだ光の筋だけが残る。
「アスミ!」
声を出した。
返ってこない。
チイロが後ろで叫ぶ。
「追跡レイヤ起動してる! ACTIVE CHASE! 誰だよこんな趣味悪い名前つけたやつ!」
ミナトが端末を操作する。
「空間解像度が彼女の周囲だけ上がっている。アスミを対象にしている」
「止めろ!」
僕は制御端末へ飛びついた。
画面には赤い文字が流れていた。
《SECURITY LAYER:NODE-0 / ACTIVE CHASE》
《BIOMETRIC LOCK:Y.ASUMI》
《NEURAL INTERFACE:PENDING》
pending。
保留。
その単語を見た瞬間、嫌な予感が確信に変わった。
ノード・ゼロはアスミを止めようとしているのではない。
アスミを“鍵”として待っている。
「ユウマ!」
レイカが叫んだ。
「奥に影が出てる!」
中央モニターに映ったノード・ゼロの深部。
そこに、輪郭だけの人影があった。
顔は見えない。なのに、見られていると分かる立ち方。観測者の姿勢。自分が見られることを前提にしていない人間の立ち方。
そして、その後方に何かが動いた。
巨大な目。裂けた口。滑るような移動。
トウタが息を呑む。
「……W1産の恐怖テンプレ」
チイロが叫ぶ。
「違う、完全な幻覚じゃない! 黒沼カイト系の怪異アニマトロニクス設計データに似た物理モデルが混ざってる。ノード・ゼロが“恐怖の形”として再構成してる!」
「アスミは?」
僕は聞いた。
ミナトがログを追う。
「中にいる。だが位置が確定しない。彼女のバイタルだけが跳ねている。心拍、皮膚電位、瞳孔反応。全部、追跡側に入力されている」
ミサキが声を上げた。
「それ、恐怖で追跡精度を上げてるってこと?」
「そうだ」
ミナトの声は硬かった。
「対象を怖がらせるほど、信号が増える。信号が増えるほど、捕捉できる」
僕は歯を食いしばった。
「ふざけるな」
声が自分でも驚くほど低かった。
タナトスの声だ。
「アスミの恐怖を、入力にするな」
制御パネルに手を置く。
けれど、指示は通らない。
《ACCESS DENIED》
《NODE-0 PRIORITY:SCHRODINGER》
《OBSERVATION LOCK》
シュレディンガー。
アスミのコードネーム。
ノード・ゼロは、彼女をそう呼んでいる。
いや、違う。
彼女のコードネームを使って、彼女を箱に戻している。
「ユウマ、無理に切るな!」
チイロが叫ぶ。
「ここで切ると、アスミごと未確定領域に残る!」
「じゃあどうする!」
「彼女が自力で追跡モデルを壊すのを待つ!」
「待つ?」
「そう! あの子ならやる! 怖がり方を変える。モデルの外へ出る。そういうクソ面倒なことを平気でやる!」
チイロの声は震えていた。
信じている声だった。
僕は画面を見る。
アスミのバイタルが一瞬、異常なほど綺麗になった。
心拍が整う。呼吸が理想値へ寄る。皮膚電位が乱数化する。
ミナトが呟いた。
「追跡器の信頼度が落ちた」
トウタが笑う。
「やった。あいつ、恐怖テンプレにバグを食わせやがった」
画面の中で、アニマトロニクスの挙動が乱れる。
そして、ノード・ゼロ深部の光が強くなった。
人影が、アスミに向いたように見えた。
次の瞬間、すべてのログが白く飛んだ。
《ERROR / ACCESS VIOLATION》
《NEURAL INTERFACE DETECTED》
《WARNING : ZAGI》
ZAGI。
その文字が出た瞬間、ミサキが叫んだ。
「アスミから離して!」
⸻
僕は走った。
モニターの前に、いつの間にかアスミがいた。
いや、違う。
僕たちの目には、彼女が突然そこに戻ってきたように見えた。
ついさっきまでノード・ゼロの深部にいたはずの彼女が、臨時端末の前で膝を折りかけていた。画面は真っ赤で、ZAGIの警告が網膜を焼くように明滅している。
「アスミ!」
僕は彼女の肩を掴もうとして、止めた。
触れていい状態じゃない。
でも、彼女は倒れる。
だから僕は、止めるより早く、腕で受けた。
彼女の身体は軽かった。
軽いのに、信じられないほど遠い場所から落ちてきた重さがあった。
「アスミ、目を開けろ。僕の声が聞こえるか!?」
返事はない。
彼女の瞳孔が揺れる。焦点が合わない。呼吸が浅い。喉の筋肉が痙攣し、声にならない空気だけが漏れる。
ミサキが横に膝をつく。
「ユウマ、支えて。頭を打たせないで。チイロ、画面切って! レイカ、照明落として。トウタ、水。ミナト、神経ノイズのログ!」
指示が一気に走る。
レイカが非常灯以外の照明を落とす。赤い画面の光だけが残る。チイロが端末に噛みつくみたいな勢いで操作する。
「切れない! これ、アスミの生体認証を鍵にしてる。画面を消しても信号が残る!」
「物理電源!」
トウタが床のケーブルを引き抜く。
火花が散った。
画面が消えた。
その瞬間、アスミの身体がびくりと跳ねた。
そして、僕の腕の中から消えた。
⸻
消えた、という表現が一番近い。
重さがなくなった。
触れていたはずの肩が、空気になった。
僕は何も抱えていない腕を見た。
時間が止まった。
チイロの口が開いたまま固まっている。
ミサキの手が、アスミの脈を取ろうとした位置で空を掴んでいる。
トウタの水のペットボトルが床に落ちる途中で、妙にゆっくり見えた。
レイカの照明操作用端末が、彼女の指の中で震えていた。
ミナトの画面には、白い欠落だけが残った。
僕は、腕の中の空白を見ていた。
そこに、さっきまでアスミがいた。
一秒にも満たない時間。
その一秒の中で、僕は理解した。
僕たちは彼女を守るために、彼女抜きで準備した。
僕たちは彼女の毒を見た。
僕の声は、彼女をここへ導く道具にされた。
そして今、彼女は僕の腕の中から消えた。
「……アスミ」
名前を呼んだ。
返事はなかった。
ノード・ゼロは、いつものように無口だった。
ただ、臨時端末の電源が落ちた暗い画面に、最後の一行だけが、焼き跡みたいに残っている気がした。
《WARNING : ZAGI》
チイロが震える声で言った。
「……飛ばされた」
誰も聞き返さなかった。
聞き返す必要がなかった。
ミナトが、白い欠落ログを見つめたまま言う。
「主観時間は不明。座標も不明。ただ、消失は空間転移ではない。履歴ごと切り出されている」
レイカが唇を噛む。
「舞台から降りたんじゃない。舞台ごと別の幕に移された」
トウタが小さく笑った。
「次スレ、どこだよ……」
ミサキが僕を見る。
「ユウマ」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、さっきまで彼女を支えていた腕に、彼女の体温だけが残っていた。
残っていたから、余計にひどかった。
彼女は、ここにいた。
そして、いない。
時間が止まった。
その停止は、一秒だったのかもしれない。
あるいは、それより短かったのかもしれない。
けれど、次の瞬間。
ノード・ゼロの空気が、ぱちん、と切り替わった。
⸻
僕の腕の中に、重さが戻った。
アスミがいた。
同じ場所に。
同じ身体で。
でも、同じ時間ではなかった。
彼女は僕の腕を押しのけるようにして、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
その目を見た瞬間、僕は呼吸を忘れた。
アスミは、さっき消えた彼女ではなかった。
顔立ちも、制服も、髪も、全部同じだ。
なのに、瞳の奥に、疲労と、説明不能な喪失と、知らない時代の夕暮れが沈んでいるように見えた。
「……ユウマ?」
彼女は僕の名前を呼んだ。
確認するように。
戻ってきた場所が本物かどうか、僕の名前で測るように。
僕は喉の奥から、どうにか声を出した。
「アスミ。……今、何があった……?」
彼女は何かを言おうとして、失敗した。
唇が震える。
それから、僕たちを見た。
チイロ、ミサキ、ミナト、トウタ、レイカ。
全員が揃っている。
彼女は、その事実に傷ついたような顔をした。
そして、かすれた声で言った。
「……さっきまで、追われてた」
僕たちは誰も、すぐには答えられなかった。
なぜなら、僕たちにとっては、彼女が消えてから戻るまで、一秒も経っていなかったからだ。
止まっていた時間が、音を立てて動き出す。
その音は、時計の秒針ではない。
誰かの喉の奥で、言葉になれなかった痛みが鳴る音だった。
僕は、ようやく理解した。
これは、予兆ではない。
もう、始まっている。
アスミは戻ってきた。
少なくとも、僕たちの目にはそう見えた。
制服も同じ。
髪も同じ。
傷も、外から見ればほとんど増えていない。
なのに、戻ってきた彼女は、もう僕たちと同じ時間を歩いていなかった。
あの一秒の間に、彼女だけが別の時間を生きていた。
僕たちはその事実を理解できず、「何があった」と問い続けるしかなかった。
けれど今になって思う。
あの問いそのものが間違っていた。
何があったのか、じゃない。
誰が、あの時間を用意したのか。
なぜノード・ゼロだけが異質な空間へ変貌していたのか。
なぜW1由来のアニマトロニクスが、あそこに存在していたのか。
なぜ僕の声は、彼女に届く途中で書き換えられていたのか。
そして、なぜZAGIという名前だけが、あの瞬間に反応したのか。
まだ答えはない。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの日、ノード・ゼロで起きた現象は偶然じゃない。
あれは誰かが配置した盤面だった。
その盤面の中心にいたのが、アスミだった。
僕たちは彼女を守ろうとした。
結果として、彼女を一人で送り出した。
その事実だけは、どれだけ時間が経っても変わらない。
だから僕は忘れない。
あの一秒を。
僕たちには一秒だった。
でも彼女にとっては、この先のすべてを動かす最初の一歩だった。




