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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP202. 白い檻の覚醒――欠落を抱いて立つ

 目覚めとは、必ずしも回復を意味しない。


 人間は意識を取り戻せば生還したと思い込む。瞼が開き、呼吸が整い、名前を言えれば、まだ自分は自分であると信じたがる。けれど、それはあまりに雑な判定だ。人格とは、氏名と現在地を答えられる程度の薄い膜ではない。記憶、関係、執着、憎悪、保護欲、嫌悪、喪失、そしてそれらを結ぶ意味連鎖によって、ようやく自分という構造は成立する。


 ならば、私はこの時点で既に欠けていた。


 何を失ったのか分からない。


 それでも、失ったという事実だけは残っている。


 この白い病室は治療の場所ではない。生かしたまま観測し、壊れた部分を分類し、再利用可能かどうかを判定するための檻だ。ミネルヴァらしい。優しさの形をした管理。保護の顔をした拘束。人間を壊さないためではなく、壊れた人間をまだ使える形へ戻すための設計。


 不愉快だ。


 けれど、合理的でもある。


 そして私は、合理的な檻を嫌いきれない。


 雨宮、ネヤム、レイラ、ソウヤ。彼らは私の喪失を埋めるために来たのではない。私が空白に沈みきらないよう、現実へ打ち込まれた杭としてそこにいた。優しさとは呼ばない。依存とも呼ばない。今はまだ分類しない。


 分類すれば、私はまた支配しようとする。


 それでも私は立つ。


 何かを忘れたまま。


 何かを失ったまま。


 白い檻の中で、私は自分がまだ使えるかどうかを観測する。


 ――始める。


 ――入院区画・白い檻


 私は、自分が何を失ったのか分からなかった。


 ただ、失ったという事実だけが、胸郭の内側に残っていた。


 記憶には穴がある。


 穴というより、そこだけ世界の定義が抜け落ちている。名前も、顔も、声も、関係性も、憎悪も、執着も、保護対象も、敵意の輪郭も、すべてが消えている。けれど、消えたという痕跡だけが残っていた。巨大な図書館から特定の本だけが抜き取られ、その本の存在を証明するのは棚に残った埃の形だけ、という状態だった。


 不愉快だった。


 観測者にとって、喪失とは情報欠損である。


 情報欠損は、本来なら補完できる。ログを漁り、他者証言を集め、物理痕跡を解析し、神経反応を測定し、欠落部の形を推定する。犯罪史でも戦争史でも同じだ。虐殺の現場には、常に燃やされた文書、消された名簿、洗浄された血痕、口を閉ざした証人が残る。政治的粛清の後には、不自然に空いた役職と、集合写真から削られた人物の影が残る。人体実験施設の廃墟には、薬品棚のラベル跡と、記録者だけが知っていた番号体系が残る。


 だからこそ、観測者は欠落を見る。


 欠落とは、そこに何かがあった証拠だから。


 だが、今回の欠落は違った。


 補完できない。


 補完しようとすると、思考そのものが白く崩れる。私はそこにあったはずの名前へ手を伸ばす。けれど、指先が触れる直前に、対象の側が世界から退く。顔を思い出そうとすると視覚野の奥が痺れ、声を探そうとすると聴覚記憶が水に沈み、関係性を推定しようとすると胸の内側で意味だけが破裂する。


 失ったものは、存在しなかったことにされている。


 にもかかわらず、私の身体だけが、それを喪失として覚えている。


 私は病院のベッドで目を覚ました。


 白い天井。


 消毒液の匂い。


 右腕には点滴。


 心電図の低い電子音。


 窓はあるが、外は見えない。すり硝子ではない。投影式の疑似窓だ。光量、色温度、時間帯に応じた影の角度まで精密に調整されている。患者の概日リズムを保つための環境制御。あるいは、外界との接続感を残したまま隔離状態を維持するための心理的拘束具。


 趣味が悪い。


 病室は広かった。


 広いが、自由ではない。


 ベッドから壁までの距離は八歩。扉までの距離は十二歩。天井の隅には監視カメラが三つ。正面から二つ、死角補正用に一つ。赤外線、熱源、瞳孔追跡、筋電位測定を兼ねているタイプだろう。壁面の白さは清潔感のためではない。血液、薬液、皮膚片、その他の異常付着物を即座に検出するための反射率設定。床材は柔らかい。転倒防止用ではあるが、同時に衝撃音を吸収する。患者が暴れても外部へ音が漏れにくい。


 医療区画。


 そう呼ぶには、あまりに設計思想が冷たい。


 ここは治療室ではない。


 対象を生かしたまま観測するための白い檻だ。


 私は視線だけで周囲を確認した。


 拘束具はない。


 少なくとも表面上は。


 だが、点滴ラインの薬剤構成には鎮静系が混じっている。呼吸の重さからして、筋弛緩ではなく神経過活動抑制。意識を濁らせず、発作だけを抑える配合。つまり、私は暴れる可能性がある対象として処理されていた。


 当然か。


 私なら、そうする。


 雨宮が窓際に立っていた。


 黒い医療端末を片手に、こちらを観察している。白衣ではない。戦闘時と同じ黒を基調とした矯正技師用の装備。ただし、肘から手首にかけて細い制御針が並んでいる。私が急変した場合、筋、神経、関節、呼吸を一括で制御するためのものだ。


 護衛ではない。


 医師でもない。


 私という危険物を、必要ならその場で折り畳むための係。


 雨宮は私の覚醒に気づくと、いつもの無表情に近い顔でこちらを見た。けれど、その眼底だけがわずかに疲れていた。睡眠不足。交感神経過負荷。判断疲労。私が眠っている間、彼はかなり長く待機していたのだろう。


「リゼ様。意識は明瞭ですか?」


「質問が雑ね。意識が明瞭かどうかを本人に訊く時点で、自己認識の信用性を前提にしている。今の私は記憶欠損を起こしている可能性が高いのだから、客観指標で確認しなさい」


 私の声は掠れていた。


 だが、言葉は組める。


 論理も走る。


 なら、まだ壊れてはいない。


 少なくとも、運用可能な範囲では。


「瞳孔反応、脈拍、発汗、呼吸間隔、神経応答はすべて正常値に近いです。ですが、精神負荷係数はまだ通常運用に耐える値ではありません」


「それを先に言いなさい。あなた、医療補佐としての順序が悪いわ」


「いつものリゼ様です」


「それは診断ではなく感想でしょ?」


 雨宮は小さく息を吐いた。


 彼は私に叱責されて安心したらしい。そういう反応は嫌いではない。人間は、対象がいつも通りの攻撃性を示すと、そこに健康を見出す。奇妙な生物だと思う。怒れるなら大丈夫。皮肉が言えるなら大丈夫。命令できるなら大丈夫。人はそうやって、崩壊の前兆を見逃す。


 壊れている人間ほど、いつも通りを上手く演じることがある。


 独裁者も、軍人も、医師も、革命家も、虐殺の設計者も、処刑命令の直前に朝食を取る。人間は、最も壊れている瞬間にこそ、日常の手順へ逃げ込む。


「では、氏名を」


「鏡ヶ原リゼ。ミネルヴァ教育機構特使」


「現在地は」


「医療区画。おそらくミネルヴァ系列施設。照明温度、空調音、薬剤管理ラックの配置、監視カメラの死角設定から見て、通常病院ではない。機密治療区画か、隔離医療区画。外界との接続は疑似窓。扉の内側に手動ロックはなく、開閉は外部制御。つまり私は患者ではなく、管理対象として収容されている」


「正確です」


「嬉しくないわ」


「記憶混濁は?」


「ある」


 即答した。


「どの範囲ですか?」


「分からない。けれど、分からないことだけが分かる。特定の人物、もしくは関係性に関する意味連鎖が消えている。名前を聞けば反応するかもしれない。でも、感情と結びつかない可能性が高い。たとえるなら、索引だけ残って本文が燃えている状態ね」


 雨宮は沈黙した。


 その沈黙は、肯定に近かった。


 私は少しだけ身体を起こそうとした。胸部に鈍い痛みが走る。肋骨ではない。心肺でもない。もっと内側。精神負荷が身体感覚へ変換された痛み。脳は、処理できない情報をしばしば身体へ投げる。トラウマが胃を締め、恐怖が手を震わせ、喪失が胸を痛ませるのと同じだ。


 安っぽい身体ね。


 私はそう思いながら、ベッド柵に指をかけた。


 指先が震えていた。


 不愉快だった。


「雨宮」


「はい」


「私は何を忘れたの?」


 雨宮は答えなかった。


 医療従事者としての沈黙ではない。部下としての遠慮でもない。彼は知っている。だが言えない。あるいは、言っても意味がないと判断している。


 私はその沈黙を観測し、分類した。


 恐怖。


 躊躇。


 哀れみ。


 そして、私に対する警戒。


 美しい反応だった。


 壊れかけた対象が、それでもこちらを保護しようとしている時の表情には、構造的な美しさがある。私はそれを嫌いではない。嫌いではないから、自分の異常性を再確認する。


「言いなさい」


「……今のリゼ様には、おそらく届きません」


「届くかどうかは私が判断する」


「いいえ。これは判断ではなく、構造上の問題です。記憶が消えたのではなく、意味を結ぶ権限そのものが切断されています。名前や出来事を入力しても、リゼ様の内側では対象として成立しません」


「つまり、私は誰かを失った」


「はい」


「それは重要だった?」


 雨宮は、ほんのわずかに視線を落とした。


「リゼ様が、自分の意思で手放した相手です」


 胸の奥が軋んだ。


 痛みではない。


 怒りでもない。


 ただ、空白が反応した。


 私はその反応を測定しようとした。心拍数、呼吸、皮膚温、眼球運動、記憶検索の失敗による頭痛。だが、どれも意味に届かない。対象がない感情は、どこにも向けられない。向けられない感情は、内部で腐る。


「私が、自分の意思で……」


「はい」


「手放した」


「はい」


「そして、私はその理由を覚えていない」


「はい」


 雨宮の声は平坦だった。


 だが、平坦さの奥に痛みがあった。


「最悪ね」


「そう思います」


「あなたが同意するのは珍しいわね」


「医療的にも、個人的にも、最悪です」


 私は、雨宮を見た。


「個人的?」


「はい」


「あなたが私に対して個人的感情を持つことは、職務上不適切よ」


「承知しています」


「なら切除しなさい」


「できません」


「無能」


「その通りです」


 あまりに素直な返答だったので、私は少しだけ黙った。


 雨宮は私を見ていた。


 その目には、奇妙な覚悟があった。


「リゼ様。私は、あなたが自分を器官の集合として扱うことを止められません。あなたが精神負荷を管理対象として扱うことも、喪失を情報欠損として処理することも、おそらく止められません。ですが、少なくとも今だけは、ご自身を運用可能な観測装置として扱わないでください」


「雨宮」


「はい」


「それは命令?」


「お願いです」


「私にお願いをするの?」


「はい」


「珍しいわね。あなた、そんなに追い詰められているの?」


「追い詰められています」


 彼は即答した。


「あなたが、今、何かを失ったまま立ち上がろうとしていることが分かるからです。あなたは空白を埋めるために、より大きな構造へ手を伸ばす。支配で喪失を処理する。管理で不安を消す。観測で孤独を形式化する」


「随分と私を理解したつもりなのね」


「理解したつもりはありません。ただ、長く見ています」


「観測者の真似?」


「補佐官の職務です」


 私は笑った。


 乾いた笑いだった。


「いいわ。合格点には遠いけれど、今の発言は記録しておく価値がある」


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「存じています」


 会話の途中で、病室の扉が静かに開いた。


 ネヤムが立っていた。


 その後ろにレイラとソウヤもいる。三人とも、正規の医療区画に入るには不自然な装備のままだった。つまり、彼らも単なる面会ではなく、私の周囲へ再配置された戦力としてここへ来た。


 ネヤムは腕を組み、いつものように不機嫌そうな顔をしていたが、その表情の奥に明確な心配がある。レイラは扉の陰から半分だけ顔を出し、私を見つけると安心したように目を丸くした。ソウヤは最後尾に立ち、病室全体を一度見渡してから、私の顔へ視線を戻した。


「入室許可を出した覚えはないわ」


 私が言うと、ネヤムは眉を上げた。


「病人が偉そうにしないでほしいな」


「病人扱いしないで。私は管理対象よ」


「なお悪い」


 ネヤムは遠慮なくベッド脇まで歩いてきた。彼女は私の顔色を見て、唇を引き結ぶ。


「ひどい顔」


「あなたほどではないわ」


「言い返せるなら生きてるわね」


「それで判断するのをやめなさい。雨宮と同じ失敗をしている」


「じゃあ、どう判断すればいいの?」


「私があなたを不快に思えるかどうか」


「じゃあ元気ね」


「そういうことにしておく」


 レイラがベッドの反対側から恐る恐る覗き込んだ。


「リゼ、痛い?」


「痛みはある。でも管理可能よ」


「それ、痛いってことだよね」


「あなたにしては正しい変換ね」


「えへへ」


「褒めていない」


「でも、リゼが喋ってるから、ちょっと安心した」


 レイラはそう言ってから、急に表情を曇らせた。


「でも、なんか違う。リゼ、ここにいるのに、ちょっと遠い」


 私は彼女を見た。


 レイラの直感は、時々、不愉快なほど正確だ。論理構築ではなく、捕食者に近い感覚で対象のズレを拾う。今の私の人格連続性の揺らぎを、彼女は言語化できないまま感じている。


「遠い、ね」


「うん。なんか、リゼの中に知らない部屋が増えたみたい」


 ソウヤが静かに口を開いた。


「比喩としては的確です。記憶の欠落だけなら空室ですが、今のリゼさんには空室だけでなく、外部から搬入された家具の気配があります」


「詩的ね」


「観察です」


「あなたまで観測者気取り?」


「いいえ。私は状況を言語化しているだけです」


 私はソウヤを見た。


 彼は落ち着いている。


 だが、彼の落ち着きは感情の薄さではない。思考の手順で感情を包んでいる。悪くない。こういう人間は、混乱した場で役に立つ。


「あなたたちは、私の部下になるの?」


 私が訊くと、ネヤムが露骨に顔をしかめた。


「その言い方、すごく嫌ね」


「事実確認よ」


「ヒュドラに言われた。雨宮は補佐官。私たち三人はミネルヴァ特使として、あなたの直下に再配置。拒否権はないって」


「拒否権がないのは当然として、あなた達が特使……ヒュドラらしい」


「当然じゃない。こっちはまだ納得してない」


「納得は運用条件に含まれないわ」


「それが嫌なの」


 ネヤムの声には怒りがあった。


 だが、その怒りは私ではなく、この状況そのものへ向いている。彼女は私を責めたいのではない。私が何か大きな構造に飲み込まれようとしていることを察して、それに苛立っている。


 その反応は、美しい。


 同時に、少しだけ煩わしい。


「ネヤム」


「何」


「私を止めたいの?」


「止められるなら」


「止められないわ」


「知ってる」


「なら、なぜここにいるの」


 ネヤムは一瞬黙った。


 それから、吐き捨てるように言った。


「見てないところで壊れられると、後味悪いから」


 私は笑った。


「あなた、私に似てきたわね」


「最悪の評価をありがとう」


「褒めていない」


「知ってる」


 レイラが不安そうに私とネヤムを交互に見た。


「ねえ、リゼ、これからどこ行くの?」


「母胎降臨地点」


「なにそれ。怖いやつ?」


「おそらく」


「行かなきゃだめ?」


「だめでしょうね」


「じゃあ、私も行く」


「許可されていない」


「でも行く」


「あなたが来ても処理負荷になるだけよ」


 レイラは少しだけ傷ついた顔をした。


 その表情を見て、胸の奥にわずかな痛みが走る。これは記憶欠損由来ではない。明確な情動反応。私はレイラを傷つけたくないと思ったらしい。


 厄介ね。


「……訂正するわ」


 私は言った。


「あなたが来れば、私の処理負荷は増える。でも、あなたがここで不安定になるよりは、観測圏内に置いた方が管理しやすい」


 レイラが少しだけ笑った。


「それ、優しいの?」


「違う」


「でも、ちょっと優しい」


「あなたの分類は甘い」


 ソウヤが静かに言った。


「私たちは同行を許可されていません。ですが、リゼさんが戻った後の運用体制を確認するため、ここで待機することはできます」


「現実的ね」


「詩的ではないでしょう」


「今回は評価するわ」


 ソウヤが静かに口を開いたのは、私がベッドから足を下ろそうとした直前だった。


「リゼさん」


「何」


「ひとつ、確認しておきたいことがあります」


 彼の声は、いつもの詩的な遠回しさを含んでいたが、その奥に、普段よりも明確な熱があった。ネヤムが不審そうに眉を寄せ、レイラが首を傾げる。雨宮だけは何も言わなかった。彼は知っている顔をしていた。


 私はソウヤを見た。


「手短に」


「私があなたの拘束を受け入れた時の条件です」


 その言葉で、記憶が接続した。


 完全ではない。


 だが、断片はあった。


 銀色の神経糸。


 Echo-marionnette。


 拘束。


 甘く乱れる呼吸。


 そして、昭和五十八年。


 事件コード――《玻璃》。


「……ああ」


 私は目を細めた。


「そんな条件もあったわね」


 ソウヤの表情が、静かに明るくなった。喜びというより、長く待っていた舞台の幕がようやく上がるのを見た演出家の顔だった。


「お忘れではなかったので安心しました」


「忘れていたら、あなたはどうするつもりだったの?」


「恨みはしませんよ。ただ、少しだけ失望したでしょうね。鏡ヶ原リゼという観測者が、自分で結んだ契約を記録から落とすようなら、それはもう美しくありませんから」


「随分と言うわね」


「契約とは、支配の最小単位です。あなたなら軽んじない」


 雨宮が無言で一歩前に出た。


 彼の手には、薄い黒色のアーカイブケースがあった。紙資料ではない。だが、完全な電子記録でもない。内部に隔離型記憶媒体、封印処理済みフィルム、手書き調書の高精細複製、舞台設計図の多層スキャン、証拠写真、捜査員の音声記録、そして郵送物の繊維分析結果まで含まれている。ミネルヴァが本気で隠す時に使う、物理・電子混合型の記録棺。


 雨宮はそれをソウヤへ差し出した。


「ミネルヴァ封印アーカイブ。昭和五十八年、事件コード《玻璃》。閲覧権限は鏡ヶ原リゼ様の一時許可によって限定開放されています」


 ソウヤは、すぐには受け取らなかった。


 まるで、そこにあるものを目だけで舐めるように見ていた。


「捜査資料は?」


「全量あります」


「舞台設計図は?」


「原本スキャン、改訂差分、照明卓の操作記録まで含まれています」


「証拠写真は?」


「未公開分を含みます」


「担当警部の長文調書は?」


「全文。削除前稿、修正版、提出用、三系統」


「投函された葉書は?」


「繊維片、筆圧、消印、裏面の皮脂反応まで」


 ソウヤの喉が、わずかに鳴った。


 気持ち悪い。


 だが、その気持ち悪さには純度がある。


 彼にとって殺人は快楽ではなく、段取りの極北なのだろう。人が死ぬことではなく、人が死ぬように世界が組まれていく過程に陶酔している。舞台、導線、誤認、遅延、照明、役割、動機、隠蔽、そして最後に残る一文。彼はそこに美を見ている。


 危険な人間だ。


 だから使える。


「ソウヤ」


 私は言った。


「条件は履行したわ」


 ソウヤは両手でアーカイブケースを受け取った。抱えるように。祈るように。あるいは、まだ開けていない棺の中に眠る死者へ敬意を払うように。


「ありがとうございます、リゼさん」


「礼は不要よ。これは報酬ではなく拘束の一部。あなたの欲望を満たすために渡したのではない。あなたの欲望の輪郭をこちらが把握し、鎖の位置を明確にするために渡した」


「ええ。分かっています」


「分かっていないなら、今ここで焼く」


「分かっています」


 ソウヤは笑った。


 薄く、艶のある笑みだった。


「ですが、やはり素晴らしい。未完の段取り。五で閉じるはずだった死が六へ跳ね、犯人の意図と現実の事故が絡み合い、人名ではなく手順だけが宙に残った事件。あれは殺人ではなく、遅延した舞台装置です」


 ネヤムが心底嫌そうな顔をした。


「こいつ、本当に仲間でいいの?」


「仲間ではないわ。部下よ」


「もっと嫌」


 レイラが小声で訊いた。


「玻璃って、何?」


「あなたは知らなくていい」


「え、なんで?」


「あなたが知ると、夜中に変なものを真似しそうだから」


「しないよ!」


「信用していない」


「ひどーい!」


 ソウヤは、レイラの抗議を聞いても、ケースから視線を離さなかった。


「リゼさん」


「何」


「これで私は、あなたの命令待ちの人形師です。式典、発表、処刑、葬儀、選抜、戴冠、終業式、どの舞台でも構いません。人は内容よりも先に段取りを信じる。あなたが支配の言葉を与えるなら、私はその言葉が最も美しく響く場所を作りましょう」


「勘違いしないで」


 私はベッドの柵に指をかけたまま、彼を見た。


「私はあなたを信用していない」


「光栄です」


「褒めていない」


「知っています」


「あなたがどこかで《玻璃》を模倣した作品を作った瞬間、Echo-marionnetteを起動する。神経糸を脳幹まで戻し、内側から焼き切る。死なせないわ。死は罰として軽い。あなたの演出衝動だけを切除して、二度と舞台を作れない身体にする」


 病室が静まり返った。


 ネヤムが息を止める。


 レイラが不安そうに私を見る。


 雨宮は動かない。


 ソウヤだけが、嬉しそうに目を細めた。


「それは、恐ろしい」


「恐怖している顔ではないわね」


「ええ。私は今、非常に安心しています」


「安心?」


「はい。あなたは私を放置しない。私の美学を許可しながら、境界線を引く。つまり、私はあなたの舞台の内側でだけ、私でいられるということでしょう?」


「依存の宣言としては気持ち悪いわ……」


「支配者にとって、依存は安定化プロセスでしょう?」


 私は少しだけ笑った。


「よく覚えているわね」


「刻まれていますから」


 ソウヤは自分の手袋越しに、指を軽く撫でた。


「Echo-marionnetteの銀糸が入った時の感覚も、あなたの声も、契約の冷たさも。あれは忘れがたい」


「本当に気持ち悪い」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「知っています」


 ネヤムが頭を抱えた。


「もうやだ、この会話」


「同感ね」


 私は雨宮を見た。


「閲覧制限は?」


「設定済みです。単独複製不可。外部転送不可。閲覧ログは全てリゼ様と私の端末へ同期されます。模倣兆候、異常検索、舞台設計図への過剰アクセスがあれば自動警告」


「よろしい」


「加えて、Echo-marionnetteとの連動閾値も調整済みです」


 ソウヤが楽しそうに目を細めた。


「厳重ですね」


「あなたには必要よ」


「愛されていますね、私は」


「管理されているの」


「私には似たようなものです」


「違うわ」


 私は立ち上がる準備をしながら、ソウヤを見据えた。


「ソウヤ。私はあなたに自由を与えない。あなたの美学は危険すぎる。けれど、完全に潰すには惜しい。だから、使用する。あなたの演出能力、構造把握、段取りへの執着、異常な長文処理能力、その全てを新生ミネルヴァの式典、発表、統制、教育設計に組み込む」


「はい」


「あなたは人形師ではない。舞台監督でもない。私の支配構造における演出機構よ」


「素晴らしい肩書きです」


「皮肉で言っている」


「私は本気で受け取ります」


「勝手にしなさい」


 ソウヤは、ようやくケースを胸から少し離した。


「リゼさん」


「何」


「契約は履行されました。私はあなたに従います。ただし、一つだけ訂正を」


「言ってみなさい」


「私はあなたの作品を作るのではありません。あなたが作る世界の、照明と幕の上げ下ろしを担当するだけです。主役はあなたで、私は舞台袖にいる。だからこそ、私は裏切らない」


「理由になっていない」


「私にとっては十分です」


 私は彼を観測した。


 狂気。


 執着。


 美学。


 危険性。


 従属。


 そして、契約への奇妙な誠実さ。


 悪くない。


 まともではないが、悪くない。


「いいわ。なら舞台袖で待ちなさい。私が戻ったら、あなたの仕事は増える」


「喜んで」


 ソウヤは深く頭を下げた。


 その所作だけは、ぞっとするほど美しかった。


 私はようやくベッドから立ち上がった。


 床の冷たさが皮膚に刺さる。


 雨宮が支えようと手を伸ばす。


「触らないで」


「転倒します」


「転倒したら起こせばいい」


「非効率です」


「知っている」


 私は立ち上がった。


 視界が揺れた。


 身体が重い。


 精神はもっと重い。


 それでも、立てる。


 なら、行ける。


 私は扉へ向かった。


 その背中に、ネヤムの声が飛ぶ。


「リゼ」


「何」


「帰ってきなさいよ」


 私は振り返らなかった。


「命令?」


「お願い」


「今日はお願いばかりね」


「お願いされるうちが花よ」


「意味が分からない」


「分からなくていい。帰ってきて」


 胸の空白が、また反応した。


 帰ってきて。


 その言葉に、何かが引っかかった。


 誰かに、そう言われた気がした。


 誰かの声で。


 誰かの顔で。


 けれど、その誰かはもういない。


 私は、答えた。


「努力するわ」


「そこは帰るって言いなさい」


「努力する」


「ほんと可愛げない」


「今さらよ」


 レイラが小さく笑った。


 雨宮は呆れた顔をした。


 ソウヤは《玻璃》のアーカイブケースを抱えたまま、次に上がる幕を待つ演出家のように静かに佇んでいた。


 私は病室を出た。


 白い医療区画の廊下は、清潔で、冷たく、非人道的で、よくできていた。


 ミネルヴァらしい。


 人間を守るためではなく、人間を壊さずに使い続けるための場所。


 その中を歩きながら、私は思った。


 ここは病院ではない。


 始まりの場所だ。


 私が、何かを失ったまま、新しい支配体制へ歩き出すための、白い産道だった。


 病室を出る時、私はまだ何も取り戻していなかった。


 失った名前も、顔も、声も、関係性も、胸の奥に残った喪失の正体も、何ひとつ思い出せないままだった。ただ、空白だけがあった。空白は沈黙ではない。むしろ、絶えず私の内側を叩く。ここに何かがあった。ここに誰かがいた。ここに、お前が手放したものがある、と。


 雨宮は私を止めようとした。


 ネヤムは帰ってこいと言った。


 レイラは私を遠いと言った。


 ソウヤは契約の報酬として《玻璃》のアーカイブを受け取った。


 全員が、私を違う角度から現実へ縫い止めていた。滑稽で、非効率で、鬱陶しくて、それでも必要だった。私は彼らを愛しているわけではない。少なくとも、その言葉を使う気はない。だが、観測圏内に置く価値はある。壊れる瞬間まで見届ける価値がある。


 そして、おそらく彼らも私を見ている。


 私がどこまで私でいられるのか。


 私がいつ、保護を支配へ変えるのか。


 私がいつ、必要という言葉で境界を踏み越えるのか。


 白い檻は、終わりではなかった。


 あれは産道だった。


 喪失を抱いたまま、私は次の場所へ向かう。


 母胎が降りる場所へ。


 私が、私ではないものを受け入れ、新しい支配体制の頂点へ立つための場所へ。


 この時点で、私はまだ知らなかった。


 忘却は終わりではない。


 忘れたものを取り戻そうとする衝動こそが、最も危険な支配欲の母胎になるのだと。


 おめでとう。

 そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


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