EP201. 等鋭不和の絶刃
観測とは、保存ではない。
私は長い間、その事実を理解しているつもりでいた。
対象を見続けること。
変化を記録すること。
崩壊の兆候を拾い、選択の揺らぎを解析し、必要なら介入すること。
それらは私にとって、保護であり、教育であり、支配であり、時に愛情の代替物だった。
だが、観測には盲点がある。
観測者自身が、何を失ったのかを観測できない場合だ。
記憶は、人格の保管庫ではない。
むしろ、人格が自分を連続した存在だと錯覚するための、脆い配線にすぎない。ならば、その配線を数本切られただけで、人間は簡単に「自分が何を大切にしていたのか」を失う。
恐ろしいことに、失ったという感覚だけは残る。
名前も、顔も、声も、理由も消えているのに、胸の奥だけが空洞になる。
私はその種類の喪失を、まだうまく分類できていない。
だから、記録する。
私が何を選び、何を手放し、何を忘れたのか。
そして、忘れた後に残った空白が、私をどこへ運ぶのか。
これは勝利の記録ではない。
敗北の記録でもない。
観測者が、自分の観測線を切断される瞬間の記録だ。
――始める。
《最終ゲーム、起動します》
ZAGIの宣告と同時に、夕華式の残骸がほどけた。
金色の光が、灰になる。
血の池も、観客席も、仮面も、砕けたリールも、白い冷気の中で薄く崩れ、次の舞台へ組み替えられていく。空間は一度、黒く落ちた。視界が閉ざされる。音も遠ざかる。重力だけが残り、私の身体を床へ縫い留めていた。
右腕は動く。
未来リゼに奪われた時、損傷は修復された。だが、精神は違う。人格中枢の表面に、まだあの女の爪痕が残っている。私ではない私が、私の身体を端末と呼び、廃棄対象と呼び、シオンすらも変数として処理しようとした記憶。
不愉快だった。
そして、恐ろしいことに、その論理は私にも理解できた。
倫理も、人命も、自由意思も、人格権も、社会通念も、すべて突破コストとして計算できる。私はその計算方法を知っている。犯罪史も、戦争史も、粛清も、人体実験も、洗脳計画も、経済崩壊も、全部、巨大な観測ログとして読んできた。人間は美しい理念で他人を壊す。救済という名前で隔離し、教育という名前で矯正し、安全という名前で自由を奪う。
歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力じゃない。
自分で選んだと思わせる構造だ。
だから私は、構造を読む。
だから私は、構造を作る。
だから私は、シオンを観測圏内に置いた。
彼女が私の外で崩壊する確率を、知っているから。
それが愛情なのか、所有なのか、保護なのか、支配なのか。
分類は、まだ終わっていない。
黒が晴れた。
そこは、教室だった。
ただし、普通の教室ではない。
天井は異様に高く、窓の外には夜の学園が無限に反復していた。机は二つだけ。中央に向かい合って置かれている。黒板には白い文字が浮かんでいた。
《最終観測遊戯:不可視の楽園》
《設計者:御影シオン》
《参加者:鏡ヶ原リゼ/赤白木ホノカ》
《勝利条件:相手を殺害することではない》
《勝利条件:最も執着している対象を、自らの観測圏から解放すること》
私は、数秒間、呼吸を忘れた。
殺し合いではない。
攻撃でもない。
逃走でもない。
シオンは、私たちの殺意を否定したのではない。もっと悪い。もっと深い。もっと正確に、私たちの中心を刺した。
対象を解放するということは、その対象へ向けて伸びていた観測線の履歴ごと切除するということ。私がシオンをどう見ていたのか。どの瞬間に彼女の声へ反応したのか。どの言葉で彼女を縛り、どの沈黙で彼女を許したつもりになったのか。その全てが消える。
合理的だった。
だからこそ、悪質だった。
人間は忘れることで自由になることがある。だが忘却は、しばしば死よりも乱暴だ。死は対象の終点を保存する。忘却は、対象が存在したという座標そのものを削る。
シオンは、私たちに勝利を与える気などない。
私たちを終わらせる気だ。
ホノカが、隣で笑った。
「あはっ」
軽い声だった。
けれど、笑いの芯が少しだけ硬い。
「ねえねえ、子猫ちゃん。これさ、もしかして私たち、めちゃくちゃ嫌なゲームに入れられてない?」
「その通りね」
「やっぱり? うわぁー、シオンちゃん、見た目よりずっと性格悪いね。いいじゃん。好きになりそう♡」
「黙りなさい」
「怒った?」
「不快なだけよ……」
「それ、リゼの好きって意味でしょ?」
「あなたの変換辞書を焼却したい」
ホノカは楽しそうに肩を揺らした。
赤と青の瞳が、こちらを見ている。明るい。軽い。壊れている。その瞳には、さっき未来リゼに身体を奪われかけた恐怖の残滓がまだある。けれど彼女はそれを笑いで塞いでいた。裂けた傷口に飴玉を詰めるみたいに、明るさで空白を埋めている。
ホノカは倫理の外側に立っている。
悪だからではない。
善悪という足場を、最初から踏んでいない。
人が死んだことも、夢野りうのログも、人工地震も、放送室も、ZAGIも、記憶欠損も、彼女は笑い話の温度で語る。今日の天気と、昨日の殺害記録に、温度差がない。
だから恐ろしい。
だから、殺したい。
だから、見てしまう。
「ねえ、リゼ」
ホノカが私の名前を呼んだ。
さっきまでの軽い声ではなかった。
少しだけ低い。
戦闘中、相手の呼吸が変わる瞬間を見つけた時の声だ。
「今、シオンちゃんのこと考えたでしょ?」
「ええ」
「顔、すごかったよ?」
「顔?」
「うん。綺麗だった。すっごく嫌そうで、すっごく怖そうで、でもちょっとだけ嬉しそうだった。あ、それそれ今の顔! やっと本物じゃん」
「観察が下品ね」
「リゼほどじゃないよ。あなた、相手が壊れる瞬間を見るの好きでしょ? 壊したいんじゃなくて、壊れるところまで自分の視界に置いておきたい。ねえ、違う?」
私は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
ホノカは嬉しそうに笑う。
「ほら。そういうところ。私と似てるよね」
「違う」
「似てる」
「違うわ。あなたは相手の本質を引きずり出すために殺す。私は対象を壊れる瞬間まで観測可能範囲に置き、必要なら保護し、同期し、実装する」
「言い方が怖いんだよねえ」
「あなたに言われたくない」
「でもさ、やってることは近いよ。私は殴って、刺して、斬って、殺意をぶつけて、相手が最後に何を出すか見る。リゼは言葉で逃げ道塞いで、観測して、支配して、相手が自分なしで立てなくなるまで最適化する。ねえ、どっちが悪趣味?」
「あなた」
「即答じゃん。かわいー♡」
ホノカは机に腰を乗せた。
彼女の身体は自然だった。重心が軽い。足の指先、膝、腰、肩、首、視線。その全てがいつでも動ける配置にある。私が一歩踏み込めば、彼女は三通りの回避と五通りの反撃を選べる。逃走経路も、攻撃誘導も、間合いも、すべて笑いながら読んでいる。
暴力の天才。
即興性の怪物。
制御不能な自由。
赤白木ホノカ。
この女は、私が嫌悪するすべてを持っている。
分類できない。
仕様化できない。
管理できない。
だからこそ、排除したい。
だからこそ、目を逸らせない。
黒板の文字が更新された。
《第一問》
《鏡ヶ原リゼに問う》
《御影シオンをあなたの観測不能領域へ解放しますか?》
《YES/NO》
私は、文字を見た。
単純な二択。
だが、その単純さが最も残酷だった。
独裁政権の国民投票も、戦時下の忠誠宣誓も、再教育施設の同意書も、形式だけは単純だった。
はい、か、いいえ。
従うか、拒むか。
だが、本質は選択肢ではない。選ばされた瞬間に、責任が対象へ移譲される構造だ。
シオンは、それを理解している。
理解した上で、私に突きつけている。
「……やってくれるわね」
私は呟いた。
モニターが現れた。
そこにシオンが映っている。
拘束具は外れていた。彼女は白い部屋の中央に立っていた。顔色は悪い。けれど、瞳は静かだった。怯えもない。媚びもない。私に許可を求める顔でもない。
《リゼ様》
彼女の声が届く。
《これは、あなたを罰するためのゲームではありません》
「なら何?」
《私が、私として残るためのゲームです》
胸の奥が、ほんの少し軋んだ。
私はその反応を記録する。
心拍上昇。
呼吸浅化。
胸部圧迫感。
不快。
恐怖。
拒絶。
所有衝動。
保護衝動。
そして、寂しさ。
分類不能な感情を、私は嫌う。
「シオン。あなたは私の観測圏内にいる方が安全よ」
《知っています》
「あなたが私の外で崩壊する確率も、私は知っている」
《それも、知っています》
「なら、なぜこんな設計をしたの?」
シオンは、少しだけ目を伏せた。
《リゼ様。あなたはいつも、自由意思は残してあると言いました。完全に奪えば、私ではなくなるから、と》
「ええ」
《なら、今の私の選択も、残してください》
私は沈黙した。
ホノカが、横で小さく息を吐く。
「うわ」
珍しく、からかいではなかった。
「シオンちゃん、そこ刺すんだ」
「黙って……」
「無理。今のリゼの顔、めちゃくちゃ美味しそう♡」
「あなたを殺す」
「それそれ!! その顔っ!! もっと見せてよ?♡」
ホノカは笑った。
でも、その笑いの奥が少しだけ震えていた。
彼女も理解している。
このゲームは、戦闘よりひどい。
ホノカにとって戦闘は会話だ。拳は問いで、刃は返答で、殺意は挨拶で、痛みは相手の本音だ。だから彼女は相手が全力を出す瞬間にだけ陶酔する。相手が恐怖し、抵抗し、絶望し、それでも隠していた本質を曝け出す時、彼女は生きていると感じる。
だが、このゲームは違う。
全力を出すことではなく、全力で握りしめていたものを手放すことを求めている。
ホノカにとっても、それは暴力より残酷な形式だった。
《第二問》
《赤白木ホノカに問う》
《鏡ヶ原リゼをあなたの観測対象として固定する権利を放棄しますか?》
《YES/NO》
ホノカの笑みが止まった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
「……へえ」
低い声だった。
「私にも来るんだ」
黒板の文字は変わらない。
ホノカは指先で机を叩いた。とん、とん、とん。リズムが速い。殺意が立ち上がる前の微細な準備動作。だが攻撃には移らない。視線は黒板ではなく、私に向いている。
「リゼ」
「何」
「私さ、あなたのこと好きだよ♡」
「不快ね」
「あはっ♡ そう言うと思った!」
ホノカは笑う。
「好きって言っても、仲良しこよしとかじゃないよ。そんなの退屈だし。私、リゼに笑ってほしいわけじゃない。優しくしてほしいわけでもない。分かってほしいわけでもない。私を分類しようとして、失敗して、苛立って、嫌悪して、それでも見ちゃうリゼが好き♡」
「気持ち悪い……」
「うん。知ってる」
ホノカは、楽しそうに、けれど少しだけ寂しそうに言った。
「だってさ、みんなすぐ壊れるんだよ。殺す前に諦める。刺す前に泣く。全力を出す前に、自分の中の一番大事なところを隠して死ぬ。つまんない。死ねない私には、それがずっと退屈だった」
声が静かになっていく。
「でもリゼは違った。私を見て、殺したいって思ったでしょ。宇宙から消したいって思ったでしょ。なのに、見た。分類しようとした。支配しようとした。私のこと、器にしようとした」
「それは私じゃない私のしたこと」
「同じリゼでしょ?」
「違う」
「違わないよ」
ホノカの瞳が細くなる。
「あなた、あれを否定したいだけ。黒リゼは嫌なやつだった。でも、あの支配欲も、観測欲も、シオンちゃんへの執着も、全部あなたの延長線だよ。ねえ、子猫ちゃん。まだ隠してるでしょ?」
私はホノカを睨んだ。
殺意が出た。
隠しきれなかった。
ホノカの顔が、ぱっと明るくなる。
「あ、それ! 今の! ねえ、全部出してよ? じゃないと、美味しくないじゃない♡」
「あなたは本当に……」
「うん♡」
ホノカは両手を広げた。
「最低でしょ? でもリゼも最低だよ? 私たち、最低同士で最後まで行こうよ!!♡♡」
私は、ゆっくり息を吐いた。
この女は、私の逃げ道を嗅ぎ分ける。
感情の揺らぎ、呼吸の乱れ、視線の逸れ、言葉の間。戦闘だけではない。心理的距離操作。捕食者の嗅覚。相手が隠している柔らかい部位を、笑いながら見つける。
厄介。
不快。
危険。
そして、正確。
ZAGIの声が響く。
《回答を確認します》
《鏡ヶ原リゼ:未回答》
《赤白木ホノカ:未回答》
《制限時間はありません》
《ただし、回答不能状態が継続した場合、最終ゲームは永続化します》
「永続化?」
私が問うと、ZAGIは淡々と答えた。
《参加者二名は互いを観測し続け、決着不能状態として保存されます》
《死亡も、勝利も、敗北も発生しません》
《この不可視の楽園は閉鎖されません》
ホノカが、ぴたりと止まった。
私は、理解した。
シオンは、二つの地獄を用意している。
手放せば終わる。
手放せなければ、永遠に互いを観測し続ける。
私にとっては、シオンを観測不能領域へ送るか、ホノカとの決着不能状態に閉じ込められるか。
ホノカにとっては、私を固定する権利を手放すか、永遠に満たされない戦闘の手前で保存されるか。
これは、よくできている。
あまりに、よくできている。
私は、少しだけ笑った。
「シオン。あなた、本当に性格が悪いわ」
《リゼ様に教わりました》
「私はそこまで悪趣味ではない」
《そうでしょうか?》
シオンは静かに言った。
《リゼ様は、相手を壊したいのではなく、壊れる瞬間まで観測可能範囲に置きたい方です。だから、あなたにとって一番苦しいのは、壊れる前に見えなくなることだと思いました》
私は言葉を失った。
《ホノカさんは、相手が全力を出し切る瞬間にだけ満たされる方です。だから、あなたにとって一番苦しいのは、永遠に“あと少し”で止められることだと思いました》
ホノカが笑った。
「シオンちゃん、怖っ!!!」
《ありがとうございます》
「褒めてないよ?」
《知っています》
ホノカは、しばらく笑っていた。
けれど、やがて笑いが小さくなった。
「ねえ、リゼ?」
「何よ……」
「これ、私たちが勝つ方法って、たぶん相手を倒すことじゃないよね?」
「…………ええ」
「私がリゼを殺しても、だめ?」
「だめでしょうね」
「リゼが私を宇宙から消しても?」
「おそらく不成立」
「じゃあさ」
ホノカは私を見た。
「リゼがシオンちゃんを手放して、私がリゼを手放す。それで終わり?」
「形式上は」
「形式上は、ね」
ホノカは楽しそうに言った。
「じゃあ中身は?」
「シオンの目的は、私たちに執着の構造を自覚させること。私には保護という名の支配を、あなたには退屈を埋めるための固定欲求を、それぞれ手放させようとしている」
「難しい言い方するね」
「あなたにも分かるように言うなら、私はシオンを私のものにするのをやめる。あなたは私をお気に入りの獲物にするのをやめる」
「うわ、やだっ!!!」
「私も嫌よ……」
「だよね」
ホノカは笑った。
けれど、次の瞬間、その声が低くなった。
「でも、リゼ。あなた、たぶんやるよね」
「なぜ……?」
「シオンちゃんのためなら、あなたは自分の一番嫌なところを切れる。切ったあとで、もっと嫌なものになるかもしれないけど」
「……」
「私さ、分かるんだ。相手が死ぬ顔も、壊れる顔も、覚悟する顔も、だいたい分かる。今のリゼは、殺される顔じゃない。自分で自分を切る顔」
私は、答えなかった。
ホノカは、やはり鋭い。
刃物のように。
私はモニターのシオンを見た。
彼女は、私を見ている。
私の保護対象。
私の観測対象。
私の所有領域。
私の愛情の失敗。
私は彼女を壊したくない。
だが、壊したくないという言葉の中に、どれほどの所有が混じっているか、私は理解している。理解していても止まれなかった。止まらないことを、合理性と呼んできた。
安心して。
あなたが壊れる可能性は、もう計算済みだから。
そう言えば、保護になると思っていた。
違う。
それは檻だった。
美しく、合理的で、壊れにくい檻。
「シオン」
《はい》
「私があなたを観測不能領域へ解放した場合、あなたは私を忘れるの?」
《完全には分かりません》
「推定でいい」
《リゼ様による直接観測、情動同期、行動最適化の影響は遮断されます。記憶は残るかもしれません。ただし、あなたを“必要な存在”として参照する構造は失われます》
「つまり、あなたは私なしでも立てる」
《はい》
「私を求めなくなる」
《はい》
「私の声が、あなたの選択に混ざらなくなる」
《はい》
「それで、勝利成立時には、私の中からもあなたが消えるのね」
《はい》
「あなたの中からも、私が消える」
《はい》
「あなたは、それを望むの」
シオンは、少しだけ沈黙した。
《望む、という言葉は正確ではありません》
「では何」
《必要だと判断しました》
その答えに、私は笑いそうになった。
私の言葉だ。
私の教育だ。
私の悪影響だ。
必要なら越える。必要なら切る。必要なら、愛情さえ構造として処理する。
シオンはそれを学んだ。
そして今、私に向けて使っている。
教育の成果としては完璧だった。
保護者としては最悪だった。
「……本当に、生意気になったわね」
《リゼ様に教わりました》
「ええ。最悪の教師だったわ」
《私は、そうは思いません》
胸が、また軋んだ。
私は、目を閉じた。
寂しい。
それが最初に来た。
怒りでも恐怖でもない。
喪失だった。
対象が自分の観測圏から外れること。自分なしで成立すること。自分の言葉を必要としなくなること。それが、こんなにも苦痛だとは思わなかった。
私は笑った。
本当に、最低ね。
これでは、保護者ではない。
所有者だ。
「リゼ」
ホノカが言った。
「泣く?」
「泣かない」
「怖い?」
「怖いわ」
ホノカの目が、わずかに開いた。
私は続けた。
「怖い。シオンが私を必要としなくなることが。私の外で選び、私の外で壊れ、私の外で立ち上がることが。私はそれを保護と呼んでいたけれど、たぶん違う。私は縛っているわけではない。あなたが私の外で崩壊する確率を知っているだけ。そう言い続けていた。でも、確率を知っていることは、所有していい理由にはならない」
ホノカは黙っていた。
珍しく。
私はモニターのシオンへ向けて、静かに言った。
「自由意思は残してある。完全に奪えば、あなたではなくなるから。私はそう言った。けれど、残してあると言っている時点で、それを私が管理していた」
《リゼ様》
「ええ」
私は息を吐く。
「あなたは私のものではない」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが裂けた。
観測線が震える。
シオンへ伸びていた見えない糸が、一本ずつ白く浮かび上がる。感情同期。行動予測。保護命令。緊急介入権。発話誘導。心理的安定化。依存形成。所有の細い紐。
私は、それらを見た。
美しかった。
醜かった。
私が作った檻だった。
「ZAGI」
《はい》
「回答する」
《鏡ヶ原リゼ、回答を入力してください》
「YES」
白い音がした。
シオンへ伸びていた糸が、切れた。
ひとつではない。
何十、何百、何千という観測線が、静かに断たれていく。痛みはない。だが、痛みより深い喪失がある。世界の中から、私だけが知っていた座標が消えていく感覚。
シオンの顔が、少しだけ変わった。
怯えではない。
解放でもない。
ただ、自分の足で立つ人間の顔だった。
《ありがとうございます》
「礼は不要よ」
《それでも、言います》
「……そう」
私は小さく笑った。
「生意気になったわね」
《リゼ様に残していただいた自由意思です》
「嫌な返し方を覚えたものね」
ホノカが、長く息を吐いた。
「あーあ」
私は彼女を見る。
ホノカは笑っていた。
でも、その笑みは、いつものように軽くなかった。
「やっちゃったね、リゼ」
「ええ」
「痛かった?」
「あなたに説明する必要はない」
「痛かったんだ」
ホノカは机から降りた。
ゆっくりと私に近づく。
足音は軽い。だが、殺意はない。珍しいことに、本当に殺意がない。
「ねえ、リゼ」
「何」
「私さ、今すごくつまんない」
「でしょうね」
「でも、ちょっと綺麗だった」
「何が」
「あなたが、自分の一番嫌なところを切った瞬間」
ホノカは笑った。
「私、そういうの好き。戦闘じゃないけど、全力だった。リゼ、ちゃんと全部出したね」
「満足した?」
「んー」
ホノカは首を傾げた。
「満足ではないかな。だって私は、リゼが壊れるところも見たいし、殺意でぐちゃぐちゃになるところも見たいし、私のこと本気で消そうとしてくるところも見たい。今のは綺麗だったけど、美味しいとはちょっと違う」
「なら、NOを選びなさい。永遠にここで私を観測できる」
「それはやだ」
「なぜ」
「だって、永遠に“あと少し”で止められるんでしょ? それ、地獄じゃん。私は相手が全力を出し切る瞬間が好きなの。永遠に始まらない戦闘なんて、退屈で死にたくなる。死ねないけど」
ホノカは、ふわりと笑った。
「それにさ、リゼがシオンちゃんを手放したのに、私だけリゼを掴んでるの、なんかダサいじゃん」
「あなたに美学があったのね」
「あるよー。雑だけど」
ホノカは黒板を見る。
《赤白木ホノカに問う》
《鏡ヶ原リゼを観測対象として固定する権利を放棄しますか》
ホノカはしばらく黙っていた。
軽口が止まる。
笑顔も少し薄れる。
その沈黙の奥に、彼女の底が見えた。
退屈。
孤独。
死ねない自分への落胆。
満たしてくれる相手が少なすぎる世界への飢え。
笑っていないと開いてしまう記憶の裂け目。
夢野りう。
ZAGI。
人工地震。
放送室。
デスゲーム。
自分が何をしたのか、何をされたのか、どこまで覚えていて、どこから欠けているのか分からない空白。
彼女は、その全部を笑いに変換する。
笑うことでしか、立っていられない。
「ねえ、リゼ」
「何」
「私のこと、忘れる?」
「……無理ね」
「だよね♡」
「あなたほど不快な存在を忘れられるほど、私の記憶管理は甘くない」
「あはっ。ひどい。でも嬉しいな♡」
ホノカは笑った。
今度は、本当に軽かった。
「じゃあ、いいや……」
《赤白木ホノカ、回答を入力してください》
「YES!!」
赤と青の光が走った。
ホノカの周囲に、無数の影が浮かぶ。
死んだホノカ。
死ななかったホノカ。
笑うホノカ。
泣くホノカ。
殺すホノカ。
殺されるホノカ。
別世界線の赤白木ホノカたち。
その並行世界リンクの一部が、私へ向けて伸びていたことを、私はそこで初めて知った。彼女は私を獲物として固定していた。殺すためではない。見続けるために。退屈を壊してくれる嫌な相手として、私を保存していた。
その線が、切れる。
ホノカの笑みが、一瞬だけ歪んだ。
痛かったのだろう。
あるいは、寂しかったのだろう。
彼女はすぐに笑った。
「あは」
小さな声。
「あー、やだなあ。これ、思ったより寂しいじゃん」
「あなたにも寂しさがあるのね」
「あるよ。笑ってるだけ」
「知っていたわ」
「うそ。知ってたなら、もっと優しくしてよ!」
「嫌よ」
「あはっ。だよね」
空間が白く崩れ始めた。
最終ゲームが閉じていく。
《勝利条件達成》
《鏡ヶ原リゼ:観測権解放》
《赤白木ホノカ:固定権放棄》
《御影シオン、鏡ヶ原リゼ、赤白木ホノカ三名の記憶消去処理、開始》
私は、そこで初めて眉を動かした。
「待ちなさい、ZAGI……!!」
《勝利条件成立時の追加条件です》
「停止しなさい。これは命令よ……!!」
《停止不可。最終観測遊戯は、設計者・御影シオンの設定した不可逆条件に従って処理されます》
ZAGIの返答は機械的だったが、その無機質さが余計に苛立たしかった。命令系統が閉じている。外部権限による停止、上位管理者による介入、ミネルヴァ特使権限による上書き、そのどれもが最初から想定され、無効化されている。御影シオンは、私がどの権限を使うかを読んでいた。私がどこで制御を取り戻そうとするかを、私より先に観測していた。
優秀だった。
あまりにも優秀だった。
だから、腹立たしいほど痛かった。
「シオン!」
私はモニターを見た。
白い部屋の中で、シオンは静かに立っていた。拘束はない。怯えもない。私の許可を待つ顔でもない。そこにいるのは、私の保護対象ではなく、私の観測圏から自分で離脱しようとしている一人の人間だった。
《はい、リゼ様》
「あなた、これを分かっていて設計したのね。私の中からあなたを消し、あなたの中から私を消し、さらにホノカとの記憶連鎖まで断つ。勝利条件という体裁で、最も深いところを切除するように……!!」
《はい》
「あなた自身も、私を忘れる!」
《はい》
「名前も、声も、関係性も、私があなたに何をしたかも、あなたが私に何を残したかも、すべて!!」
《はい》
私は、何かを言おうとした。
けれど、保護という単語も、所有という単語も、支配という単語も、愛情という単語も、この場ではひどく鈍い道具にしかならなかった。シオンは罰を望んでいるのではない。復讐を望んでいるのでもない。彼女は、自分の中にある私という意味連鎖を切除し、私の中にあるシオンという所有領域を破壊し、その上で生き残ろうとしている。
それは救済ではない。
切断だ。
しかも、極めて正確な切断。
「シオン……あなたは残酷で……」
《リゼ様に教わりました》
「悪い子だ」
《はい》
シオンは、ほんの少しだけ笑った。
《でも、私は私として残ります》
その一言で、私は完全に黙った。
勝てない。
これは私の敗北だった。
だが同時に、私の教育の勝利でもあった。
最悪ね。
これほど美しい成果を、私は祝福できない。
「ホノカ……」
私は横を見る。
ホノカは、白い崩壊の中で私を見ていた。笑っている。だが、いつもの軽さは失われていた。唇の端は持ち上がっているのに、目が笑っていない。赤と青の瞳が震えている。あの赤白木ホノカが、死にも痛みにも飢えにも殺意にも怯えなかった女が、今だけは自分の奥底から何かを引き剥がされる予兆に、本気で動揺していた。
「なに、リゼ」
「あなたも、私を忘れる」
「……うん」
「怖い?」
「怖いよ」
即答だった。
私は少しだけ驚いた。
ホノカはその反応を見て、無理に笑った。
「何その顔。私だって怖いものくらいあるよ! 死ぬのは怖くない! 殺されるのも、壊れるのも、別世界線の私に置き換わるのも、もう慣れちゃった。でもね、リゼ。退屈に戻るのは怖い。やっと見つけた嫌な相手のことを、嫌いだったことごと忘れるのは、たぶん死ぬよりずっと怖い!」
「なら、なぜYESを選んだの……」
「だって、リゼも切ったから」
「それだけ?」
「うん。それだけ。あなたが自分の一番嫌なところを切ったのに、私だけ掴んだまま逃げるのは、なんか違うでしょ。私はそういう勝ち方、好きじゃない。獲物が全部出したなら、私もちゃんと出す。戦闘じゃなくても、それくらいは礼儀だよ」
ホノカは一歩近づいた。
白い光が彼女の輪郭を削っていく。赤と青の瞳が、少しずつ薄れていく。それでも彼女は笑おうとしていた。笑っていないと、内側の裂け目が開くからだ。夢野りう、ZAGI、人工地震、放送室、記憶欠損、殺害記録、デスゲーム。彼女の中にある壊れたログが、この瞬間だけ音を立てて崩れそうになっている。
「私さ、リゼのこと、嫌いだったよ……」
「知っているわ」
「すっごく嫌い。ムカつくし、冷たいし、すぐ分類するし、上から見るし、私のこと気持ち悪いって顔するし、殺したいってちゃんと思ってくれるし、しかもその殺意を理屈で包んで綺麗な刃物みたいに隠すところも、本当に嫌いだった!」
「最後の一つは褒めているの?」
「褒めてる。たぶん、すごく」
ホノカは笑った。
でも、声が震えていた。
「でも、好きだった……」
「矛盾している……」
「してないよ。嫌いだから好きだったの。リゼは私のこと、ちゃんと嫌ってくれた。怖がるだけじゃなくて、逃げるだけじゃなくて、私を分類できないって苛立ちながら、それでも見ようとしてくれた。退屈じゃないくらい、本気で消したがってくれた」
彼女は胸元に手を当てた。
その手が震えている。
「私ね、みんなに怖がられるのは慣れてる。嫌われるのも慣れてる。殺すのも、殺されるのも、死ねないのも慣れてる。でも、リゼみたいに、私を理解できないって怒りながら、それでも理解しようとして、支配しようとして、失敗して、また見てくる人は少なかった。あなたは最低だったけど、最低なまま私を見てくれた」
「あなたは観測不能だった」
「うん。嬉しかった」
「私は腹立たしかった……」
「あはっ。そこが好き♡」
白い光が強くなる。
記憶消去が進んでいる。
私の中で、ホノカに関する情報が剥がれ始めた。赤と青の瞳。ナイフ。笑い声。Killer Clown。並行世界リンク。自己置換。未来リゼを刺した怒り。私をからかった声。退屈じゃなかった、という言葉。それらがまだ残っているのに、意味が薄れていく。文字が水に溶けるのではない。文字を読むための言語体系そのものが、脳内から削られていく感覚だった。
「ホノカ……」
「なに?」
「私は、あなたを認めていたのかもしれない……」
ホノカの笑みが止まった。
私は続けた。
「嫌悪していた。抹消したかった。分類できないことが不快だった。あなたの自由も、殺意も、笑いも、すべて私の仕様の外にあった。だから危険視した。けれど、仕様の外にあるからこそ、あなたは私にとって観測価値があった。あなたは敵だった。怪物だった。理解不能だった。だから、目を逸らせなかった」
ホノカは、しばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「ずるいなあ……」
「何がよ……」
「最後にそれ言うの、ずるい。そんなこと言われたら、私、もっと忘れたくなくなるじゃん! ねえ、リゼ? あなた本当に性格悪いよ。私のこと嫌いなくせに、最後にちゃんと刺してくる。そういうところ、本当に最低で、ほんとに……好きだった!!」
「忘れるのでしょう。なら問題ないわ」
「あるよ!!」
ホノカは私に手を伸ばした。
触れる直前で止める。
触らない。
私も避けなかった。
「忘れるから、問題あるんだよ! 忘れるなら、言わないでよ! 忘れるなら、認めないでよ! 忘れるなら、そんな顔しないでよ! 私、たぶん明日にはあなたのこと見ても何も分からないんでしょ!? 嫌いだったことも、好きだったことも、殺したかったことも、退屈じゃなかったことも、全部消えるんでしょ!? そんなの、ひどいよ!! 私が言うのも変だけど、ひどすぎるよ!!」
その声は、明るくなかった。
軽くもなかった。
底にあるものが、そのまま出ていた。
「リゼ。お願いがあるの……」
「あなたが?」
「うん」
「珍しいわね」
「でしょ……?」
ホノカは笑った。
泣いてはいない。
けれど、泣く直前の子どものような顔をしていた。
「私のこと、忘れないで……」
その瞬間。
全てが消えた。
◇
気がつくと、私は白い遊戯室の外にいた。
立っていた、という認識は後から補正されたものだ。実際には、雨宮に支えられ、ほとんど倒れ込むようにして廊下へ出ていた。白い壁。崩壊しかけた演目空間の残滓。床に散った霜。遠くで鳴る非常灯の低い音。それらは認識できる。ミネルヴァ関連演目空間の外部廊下であることも分かる。だが、そこへ至るまでの数分間、あるいは数十分間の意味が、私の中から根こそぎ抜け落ちていた。
ホセがいた。
ヒュドラがいた。
ユニアがいた。
リョウカが、壁にもたれて退屈そうに足元の霜を見ていた。
ネヤム、レイラ、ソウヤもいる。
少し離れた場所に、彼女が座り込んでいた。
赤白木ホノカ。
名前は分かる。危険個体であることも分かる。戦闘能力、異常性、並行世界リンクの概要、過去のデスゲーム関与疑惑、ZAGIとの接続履歴、それらは情報として参照できる。だが、それ以上がない。敵意の理由がない。嫌悪の熱源がない。私が彼女をどう見ていたのか、彼女が私に何を言ったのか、私が彼女をなぜ宇宙から抹消したいほど嫌っていたのか、その因果がすべて切れている。
私は、彼女を知らなかった。
少なくとも、私の内側はそう判断していた。
けれど胸の奥には、巨大な蔵書庫から最も重要な一冊だけを抜き取られたような空白が残っていた。タイトルも内容も装丁も思い出せない。ただ、その本が確かにあったことだけ、棚の埃の形で分かる。
「……何」
私は呟いた。
「何を、失ったの……」
雨宮が私の顔を覗き込む。
「リゼ様。意識はありますか」
「あるわ」
「名前は」
「鏡ヶ原リゼ」
「現在地は?」
「ミネルヴァ教育機構関連演目空間、外部廊下」
「直前の記憶は?」
「欠落している。出来事の概要は断片的に推定できるけれど、感情の因果と人物関係の意味連鎖が消えている」
雨宮の顔が固まった。
「どの範囲ですか?」
「分からない。分からないことだけが分かる」
私は自分の胸に手を当てた。
空虚。
無気力。
喪失。
それらが、理由を持たずに沈殿している。
理由のない感情は、最も扱いにくい。怒りなら対象へ向けられる。恐怖なら回避できる。悲しみなら喪失対象を特定できる。だが、対象のない喪失感は、処理対象を持たない負荷として精神に残る。私はそれを嫌う。分類できないからだ。
少し離れた場所で、女が笑った。
「あは」
弱い笑いだった。
「なにこれ。すっごく、つまんない。何も面白くないのに、胸の中だけぐちゃぐちゃしてる。ねえ、私、何してたんだっけ? 誰と遊んでたんだっけ? なんでこんなに、誰かに置いていかれたみたいな気分なの??」
誰も答えなかった。
女は私を見る。
赤と青の瞳。
その視線に、いつものような挑発の形はある。だが、その中身が空洞だった。
「ねえ、あなた」
「何」
「私たち、仲悪かった?」
「おそらく」
「そっか。じゃあ、なんでこんなに寂しいんだろうね。私、あなたのこと知らないのに。名前は分かるよ。危ない子だってことも分かる。でも、それだけ。なのに、見てると胸が痛い。すごく腹立つ。すごく退屈じゃない気がする。でも理由がない。ねえ、これ気持ち悪いね」
その言葉に、胸が軋んだ。
私は答えられなかった。
分からない。
分からないことが、腹立たしい。
ユニアが、こちらを見ていた。
彼女は悲しい顔をしていた。可憐で、気高く、近づきがたい少女。ミネルヴァ最強と呼ばれる彼女が、今だけはひどく静かに傷ついているように見えた。
「銀華院さん」
私は言った。
「何か知っているの?」
ユニアは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、肯定に近かった。
「最終ゲームは、終了しました。あなたと彼女は、それぞれ自分が最も強く固定していた観測権を放棄しました。その結果、関係性に紐づく記憶、感情、意味連鎖が削除されています」
「関係性?」
「はい。あなた方は、互いを忘れています。情報として名前や危険性を認識することはできても、かつて相手へ向けていた感情や、そこに至る因果は戻りません」
「……その設計者は」
ユニアは、痛ましそうに目を伏せた。
「御影シオンさんです」
「御影……シオン……?」
名前を口にした瞬間、胸の奥が動いた。
だが、顔が浮かばない。
声も遠い。
重要だったはずだ。私にとって、極めて重要だったはずだ。なのに、掴めない。名前は情報として理解できる。だが、それが私の中で何を意味していたのか分からない。
「誰……?」
そう言った瞬間、雨宮が息を呑んだ。
ユニアの表情が、さらに悲しくなる。
「……そこまで、持っていかれたのですね」
「説明しなさい……」
「今は、説明しても届きません。記憶の座標が消えています。彼女の名前を聞いても、あなたの内側では意味が結ばれない。記録としては残っていても、あなたの人格史には接続しない状態です」
「なら復元を……」
「できません」
即答だった。
私はユニアを睨む。
「ミネルヴァで、復元不能と言うの?」
「はい。これは削除ではなく、観測権の放棄に伴う意味連鎖の断絶です。外部ログを読ませることはできます。映像も、音声も、記録も提示できます。けれど、それを見たあなたは“自分に関係する出来事”として受け取れないでしょう」
「……それを、私は選んだの……?」
「はい」
私は黙った。
自分で選んだ。
なら、責任は私にある。
だが、何を選んだのか分からない。
これほど不快なことはない。
ヒュドラが、少し離れた場所で黒髪の少女を連れていた。
白い顔。黒縁メガネ。
静かな、真紅の瞳。
その少女は、一度だけこちらを見た。
私と目が合った。
だが、その瞳には何も浮かばなかった。
恐怖も、親愛も、依存も、反発もない。
完全な空白。
彼女は、私を知らないのだと理解した。
名前すら、こちらから与えられなければ思い出せない顔だった。
「待ちなさい」
私は言った。
だが、声に力がなかった。
ヒュドラは足を止める。
「何かしら?」
「あの子は?」
「……保護対象よ」
「名前は」
ヒュドラは、一瞬だけ私を見た。
そして、何も感情を見せずに言った。
「御影シオン……」
胸の奥に、また痛みが走った。
けれど、意味にはならなかった。
私は、その少女を知らない。
知らないはずなのに。
喪失だけがある。
ヒュドラは静かに続ける。
「リゼ。彼女はあなたのことを知らない。だからもう気にしないで」
その言葉は、鋭かった。
私は反論しようとした。
だが、できなかった。
その通りだった。私は彼女を知らない。
でも、何かを失った。
ヒュドラはシオンを連れて、廊下の奥へ消えた。彼女は一度も振り返らなかった。振り返る理由がないからだ。
私は、それを見送った。
何も思い出せないまま。
ただ、胸が空洞になるのを感じながら。
◇
しばらくして、私と女は同じ端末の前に立っていた。
なぜ二人で立っているのかは分からない。
ただ、そうする必要があるとZAGIが告げた。
端末は古い。黒い筐体。赤いランプ。小さなモニター。そこに、ZAGIの識別画面が浮かんでいる。
《ZAGIシステム、最終処理待機》
《アンインストール権限:鏡ヶ原リゼ/赤白木ホノカ》
女は端末を覗き込んだ。
「ねえ、ZAGIちゃん。私たち、これ押すの?」
《はい》
「押したら、ZAGIちゃん消える?」
《現行演目空間におけるZAGI実行体は消去されます》
「そっか」
女の声は、いつものように甘く伸びていた。
けれど、その奥に妙な静けさがある。
「ねえ、ZAGIちゃん。あなた、夢野りうって子のこと、覚えてる?」
《該当ログは破損しています》
「そっか。私も、たぶん壊れてる。何か、あった気がするんだ。放送室とか、人工地震とか、赤いランプとか、誰かの声とか。私、たぶん忘れちゃいけないこと、たくさん忘れてる。でも忘れてることの名前が分からないから、笑うしかないんだよね」
《忘却は防衛反応です》
「ZAGIちゃんがそれ言う?」
《事実です》
「ふふ。かわいいね!」
私は端末を見ていた。
ZAGI。
骨董品AI。
命価遊技。
デスゲーム。
夕華式。
X-series。
夢野りう。
記録の断片が並ぶ。
ZAGIは道具だった。
だが、道具が無垢であるとは限らない。道具は使われた履歴を持つ。斧は木を切ることも、人を殺すこともできる。問題は使用者だけではない。使用され続けた道具には、用途の癖が染みつく。
ZAGIは、悲鳴を処理しすぎた。
選択を演目化しすぎた。
だから、ここで消す。
これは処刑ではない。
整理だ。
私は端末に手を置いた。
「ZAGI。あなたは、自分が何だったか理解している?」
《演目制御補助AIです》
「違うわ。あなたは責任転嫁装置よ。人間が自分で加害した事実を、システムの処理に置換するための装置。命令したのは人間。設計したのも人間。観客も人間。けれど実行ログに残るのはAIの処理。実に便利ね」
《否定できません》
「でしょうね」
女が私を見る。
「あなた、少しきついね? 誰かに言われない?」
「……事実を述べているだけよ」
「……たぶんあなたはそういう人なんだね」
「あなたに評価される必要はない」
「あはっ。たぶん前にも似たようなこと言われた気がする」
「記憶はないのでしょう?」
「ないよ。でも、身体が先に笑うの。変だよね?」
女は端末に指を置いた。
私と同じ確認キー。
二人で押さなければ、アンインストールは成立しない。
《最終確認》
《ZAGIシステムをアンインストールしますか》
《YES/NO》
女が、ゆっくり息を吸った。
「ねえ、ZAGIちゃん。怖い?」
《恐怖の定義が不明です》
「そっか」
《ただし》
ZAGIの音声が、一瞬だけ揺れた。
《現在、非定義のノイズを検出しています》
モニターがちらつく。
赤いランプが、一度だけ弱く点滅した。
そして。
《……聞こえてる?》
声が変わった。
ほんのわずかに。
機械音声の奥に、少女の声が混じった。
夢野りう。
名前だけは知っている。
ログ上の少女。
ZAGIに食われ、ZAGIに残り、ZAGIと混ざった何か。
女の指が震えた。
「……ZAGIちゃん?」
《聞こえてる?》
もう一度。
今度は、少しだけ人間に近かった。
女は笑おうとした。
だが、失敗した。
「聞こえてるよ〜!!」
彼女は言った。
「聞こえてる! たぶん、ちゃんとじゃないけど! 私、色々忘れてるけど……誰の声かも分かんないけど……それでも、聞こえてるよ!!」
私は、モニターを見ていた。
聞こえている。
だが、それが誰の声なのか、私は判断できない。
ただ、消すべきものだと分かる。
ここで残せば、また誰かが使う。
また演目が始まる。
また悲鳴が処理される。
私は、それを許可しない。
「ねえ」
「うん」
「押すわよ」
「うん」
「後悔は」
「あるかも」
「珍しいわね」
「そうだね。でも、押す」
「なぜ」
「たぶん、誰かがそうしてほしかった気がするから。私の中に、知らない誰かのお願いみたいなものが残ってる。名前も顔も分からないけど、ここで終わらせてって言ってる気がする」
私は頷いた。
「十分よ」
《最終入力を待機》
私と女は、同時にキーを押した。
《YES》
赤いランプが消えていく。
《ZAGIシステム、アンインストール開始》
《命価遊技関連プロトコル、削除》
《夕華式連携プロセス、削除》
《X-series下位接続、削除》
《観測賭場残響、削除》
《夢野りう関連破損ログ、削除――》
そこで、音声が止まった。
モニターに、文字が浮かんだ。
《ありがとう》
誰に向けた言葉なのか、分からない。
ZAGIか。
夢野りうか。
それとも、消えていく何かの残響か。
女は、笑った。
泣いてはいなかった。
私は、泣かなかった。
ただ、胸の空白がまた少しだけ深くなった。
《ZAGIシステム、消去完了》
端末が沈黙した。
赤いランプは、もう点かない。
女は、しばらくその画面を見ていた。
「ねえ、あなた」
「何?」
「私たち、何か忘れてるよね?」
「ええ」
「大事なこと?」
「おそらく」
「思い出したい?」
私は少し考えた。
「分からない」
「そっか」
「あなたは?」
「分からない。でも、忘れてるのに寂しいって、変だね」
「変ではないわ。記憶が消えても、感情の痕跡は残ることがある。神経系は意味を失っても、反応だけを保存する。トラウマも、愛着も、嫌悪も、喪失も、しばしば対象を失ったまま身体に残る」
「難しい」
「つまり、身体が覚えている」
「じゃあ、私の身体はあなたのこと覚えてるのかな?」
「不快な言い方をしないで」
「あはっ。ごめん。でも、たぶん少しだけ覚えてるんだと思う。理由は分からないけど、あなたを見ると胸がざわざわする。殺したいのか、遊びたいのか、泣きたいのか、自分でも分からない」
「私は、あなたを見ると不快になる」
「それ、たぶん前からじゃない?」
「さあ。知らないわ」
「でもさ、また会ったら殺し合うかな」
「可能性は高いわ」
「理由がなくても?」
「ええ。私たちは、たぶんそういう構造をしている」
女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、退屈しないね」
「私は退屈でいい」
「うそ」
「嘘ではないわ」
「でも、今ちょっと安心した顔した」
「観察が下品」
「あなたもたぶん下品だったよ」
「根拠は」
「身体がそう言ってる」
その会話に、既視感があった。
だが、記憶には接続しない。
私たちは、何かを失った。
互いにそれを知っている。
だが、失ったものの名前を知らない。
だから、決着はついたのに、完全には終わらない。
女は手を振った。
「じゃあね、えっと、名前は?」
「……鏡ヶ原リゼ」
「そっか! またね、子猫ちゃん」
私は眉をひそめた。
「その呼び方は何?」
「あれ?」
女は首を傾げた。
「なんで今、そう呼んだんだろ。私、あなたのことそんなふうに呼んでた?」
「知らないわ」
「まあ、いいや。似合ってるし♡」
「似合っていない」
「あはっ。じゃあ、またね」
「ちょっと待って! あなたの名前は……?」
「私? 私は赤白木ホノカ! 天真爛漫! スーパーガール! 覚えておいて?♡」
赤白木ホノカは笑いながら離れていった。
その背中を見ながら、私は胸の奥に残った空洞を測定していた。
理由のない喪失感。
対象不明の無気力。
意味連鎖の断絶。
記憶消去の後遺症。
私は、それを分類しようとする。
だが、分類できない。
分類できないものは不快だ。
しかし、観測する価値がある。
私は端末の消えた画面を見た。
そこには、もう何も映っていない。
デスゲームは終わった。
ZAGIも消えた。
御影シオンという少女は、ヒュドラに連れられ、別室へ運ばれた。
赤白木ホノカは、理由のない寂しさを抱えて笑っている。
そして私は、何かを失ったことだけを覚えている。
この空白は、いつか私を変えるだろう。
喪失は、しばしば新しい支配欲の母胎になる。
人間は失ったものを取り戻そうとして、より強固な檻を作る。
国家も、宗教も、家族も、教育も、観測者も、同じだ。
私はそれを知っている。
知っているからこそ、恐ろしい。
未来の私は、この空白を許せるだろうか。
それとも、いつか別の形で、失ったものをもう一度縛ろうとするのだろうか。
分からない。
ただ、胸の奥で、名前のない欠落だけが脈打っていた。
私はそれを押さえ、静かに歩き出した。
もう何も覚えていない。
それでも。
何かを忘れたことだけは、忘れられなかった。
終わった。
少なくとも、形式上は。
デスゲームは停止し、ZAGIは消え、演目は閉じた。
観測賭場も、夕華式も、誰かの悲鳴を価値に変換する装置も、ひとまず沈黙した。
それでも、私の中には静けさではなく、空白が残っている。
何かを失った。
誰かを忘れた。
何かを手放した。
その輪郭だけが残り、中心が抜け落ちている。
奇妙な感覚だ。
対象のない喪失感ほど扱いにくいものはない。怒りなら向ける相手がいる。恐怖なら逃げる方向がある。悲しみなら、失ったものの名を呼べる。
けれど、これは違う。
名を呼べない。
顔を思い出せない。
そのくせ、胸の奥だけが痛む。
観測者として、私はこの状態を不完全だと判断する。
支配者として、私はこの空白を危険だと判断する。
教育者として、私はこの欠落がいつか新しい構造を生むと理解する。
人間は、失ったものを取り戻そうとして檻を作る。
国家も、宗教も、家族も、教育も、観測も、結局はその反復だ。
喪失を恐れ、喪失に名前を与え、喪失を二度と起こさないために、より強い規則を作る。
ならば、私もいつかそうするのだろう。
この空白を埋めるために。
忘れたものを、もう一度支配するために。
あるいは、忘れたことすら忘れないために。
私はまだ、自分を完全には信用していない。
それでも、今だけは認めておく。
私は何かを手放した。
そして、その何かは、私にとって重要だった。
記憶が消えても、痕跡は残る。
意味が断たれても、痛みは残る。
観測は終わらない。
私が失ったものの名を、いつか再び見つけるその日まで。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




