EP200. 壊れた世界からの黒電話
観測とは、対象を救う行為ではない。
少なくとも、私はそう定義している。
救済には祈りが混じる。保護には願望が混じる。愛情には、どうしても所有が混じる。ならば観測者が最初に捨てるべきものは、善意という名の濁りだ。
私は、濁りを嫌う。
けれど、完全に捨てられたことは一度もない。
私の中には、まだ声が残っている。
帰ってきて、と呼んだ声。
私の名を、私のものとして引き戻した声。
その声を守りたいと思うことが、保護なのか、依存なのか、支配なのか、まだ分類できない。分類できないものは不快だ。だが、不快であるということは、観測する価値があるということでもある。
だから私は、見る。
赤白木ホノカを。
御影シオンを。
W1からこちらを覗く者たちを。
そして、私自身の中に残った未来リゼの痕跡を。
倫理は理解している。
人命の重さも、自由意思の尊さも、境界を踏み越えることの罪も、すべて理解している。
理解した上で、必要なら越える。
観測者は、嫌悪される側でいい。
――始める。
ZAGIが最終ゲームの構築へ移行しようとした、その直前だった。
ホセ理事長が、静かに口を開いた。
「その前に、赤白木ホノカさん。最終演目へ進む前に、ひとつだけ整理しておくべき事項があります」
「えっ? なになに? なにかな、なにかな? もしかして私の出番? いいよ、今ならちょっとテンション戻ってきたから、何でも聞いて! 殺した人数以外ならだいたい答えられるよ? いや、殺した人数も聞かれたら答えるけど、たぶん途中で飽きると思う♡」
ホノカは両手を広げ、くるりとその場で半回転した。
さっきまで未来リゼに身体を奪われかけ、怒りと恐怖と屈辱で顔から笑みを消していた女が、もうこれだ。
回復ではない。自己修復でもない。破綻を破綻として保存しないだけ。感情の傷を、より強い刺激で上書きしている。
彼女にとって傷は履歴ではなく、燃料だ。
だから厄介なのだ。
……本当に、宇宙から削除したい。
「エクスエル七貴族、ドミーテ家当主ピンクス・ドミーテ女史の件です」
「あっ……」
ホノカは目を丸くした。
そして、次の瞬間には腹を抱えて笑った。
「あははははははっ! 忘れてた! そうだ、ピンクスちゃん殺したんだったね? あの女、最後まで偉そうだったよ!犯罪シンジケートの元締めって、もっと怖いのかと思ったらさ、意外と声かわいかったなぁー! 二十代で七貴族の裏社会仕切ってるとか、設定盛りすぎじゃない? 麻薬、闇金融、暗殺仲介、闇市場、全部まとめて“私の庭”みたいな顔してたのに、死ぬ時は普通だった。そこだけちょっと残念でしたー!」
「……あなた、本当に反省という概念がないのね」
「あるよー?」
「どこに……?」
「面白くなかった時にホノカちゃんは反省するから」
「それは反省ではない」
「じゃあ演出調整!」
ホノカは満面の笑みで言い切った。
雨宮の表情がわずかに険しくなる。ネヤムは呆れたように目を細め、レイラは理解できないものを見る顔をし、ソウヤは黙っていた。彼はこういう時、言葉を探すよりも沈黙で相手の異常性を測る。
ホセ理事長は、少しも動じなかった。
「ホホ、その件については、既にビフォアル家と協議し、政治的な調整を済ませています。ドミーテ家内部の権力移行についても、表向きは病没処理で整えられるでしょう。ピンクス・ドミーテ氏の不在によって発生する裏市場の空白も、短期的には制御可能です」
「……待って……!?」
私は反射的に口を挟んでいた。
「理事長。今、あなたは何を言ったの?」
「ピンクス・ドミーテ氏の死亡処理についてです」
「問題はそこではないわ。七貴族の一角、ドミーテ家当主。しかも彼女は、ただの貴族ではない。麻薬流通、闇金融、暗殺仲介、違法市場の大半を握る犯罪シンジケートの元締め。裏社会の価格決定権に手を掛けていた人物。その死亡を、ミネルヴァ教育機構の理事長が“ビフォアル家と調整した”と言って終わり?」
私は言葉を切った。
ホセを見る。
「あなたの権限は、どこまで届くの?」
ホセは穏やかに微笑んでいた。
その微笑みは、優しさではない。拒絶でもない。情報を与える範囲を、既に決めている者の顔だった。
「教育とは、未来の器を整えることです。時に、器の周囲にある毒を除く必要もある」
「ピンクス・ドミーテを毒と呼ぶなら、そこは同意するわ。でも、毒を除去するには解毒権限が要る。あなたは教育者では説明できない領域に手を伸ばしている。政治、犯罪市場、七貴族間の均衡、そして死亡処理。普通の教育機関が持つべき権限ではない」
「説明できないのではありません。まだ説明する段階ではないのです」
「それは返答になっていない……」
「承知しています」
その瞬間、私はホセの背後にあるものを再計算した。
ビフォアル家。
七貴族筆頭格。
ミネルヴァ。
リメイク・ファクトリー。
ヒュドラ。
吹雪リョウカ。
そして、まもなく到来すると言われた――母胎。
線が繋がる。
証拠はない。
だが、構造は見える。
「……母胎」
私が呟くと、ヒュドラの笑みがわずかに深くなった。
ホセは何も言わない。
否定しない。
それだけで十分だった。
母胎は、ミネルヴァの後ろにいる。
あるいは、ミネルヴァそのものの根にある。
教育機構という顔で人間を育て、リメイク・ファクトリーという檻で異常個体を保存し、七貴族の政治すら調整する何か。
それは教育ではない。
繁殖に近い。
器の選別。
未来の栽培。
私は、少しだけ笑った。
「なるほど。ミネルヴァ教育機構は、やはり学校ではないのね」
「学校ですよ」
ホセは丁寧に答えた。
「ただし、未来を教える場所ではなく、未来に耐え得る者を育てる場所です」
「それを非人道と呼ぶ人間もいるでしょうね」
「ええ。ですが、人道という語は、しばしば未来に対して無責任です」
いい返答だった。
冷たい。
穏やかで、丁寧で、残酷だ。
私はそれが嫌いではなかった。
その時、空間の奥で黒電話が鳴った。
じりりりりりりりりりりり。
古い音。
だが、ただのベル音ではない。
空間の表面を削るような、神経に金属片を押し当てるような音だった。夕華式の残骸が、その音に反応して細かく震える。ZAGIの警告灯が赤く瞬き、リョウカが面倒そうに眉を寄せた。
「なんか……うるさい」
彼女が小さく言う。
それだけで、黒電話の音が半拍だけ凍りついた。
しかし、すぐに鳴り直す。
じりりりりりり。
ジリリリリリリリ……
しつこい。
これは通信ではなく侵入だ。
黒電話が、白く断たれた夕華式の断面から滲み出るように現れた。受話器が勝手に跳ね、空中で揺れる。線はどこにも繋がっていない。それなのに、向こう側に誰かがいる。
《……やってくれたね》
少女の声だった。
冷たい。
幼い。
けれど、幼さの奥に、腐った静けさがある。
空間に映像が開く。
暗い部屋。
赤い椅子。
黒いセーラー服。
赤い瞳。
少女は足を組み、受話器を片手にこちらを見下ろしていた。
その横に、別の映像が開く。
モニター群に囲まれた男。
大きな身体。
脂ぎった指。
反射する眼鏡。
笑っている。
それだけで、場の空気が一段重くなった。
圧迫感。
通信越しのはずなのに、首筋を握られているような感覚。世界線を跨いだ干渉が、こちらの空間の空気圧そのものを変えている。単なる映像ではない。観測圧が乗っている。
壊れた世界線の匂いがした。
《X-13を壊したの、誰?》
少女が言った。
リョウカが、だるそうに手を上げる。
「はい、私だけど」
《あなた?》
「うん」
《そう……。あれは私たちのお気に入りだった。よく叫びを集めたし、よく真似たし、よく人を壊した。壊す側の道具として、とても出来がよかった》
「そうなんだ」
《壊していいものじゃなかった》
「うるさかったから」
《うるさかったから壊したの?》
「うん」
男が、そこで大きく笑った。
《あは、はははははっ! いいねえ、その子! 可愛い顔して怖いなあ。怖い怖い。そういう無感情っぽい子が一番エグいことするんだよね。ねえ君、名前は? どこ所属? リメイク・ファクトリー? ミネルヴァ? それとも別の檻?》
リョウカは男を見た。
赤い瞳が、ほんの少しだけ温度を落とす。
「吹雪リョウカ」
《リョウカちゃんかあ。いい名前だ。冷たそうで、壊れそうで、壊す側っぽい》
「あなたも、うるさいね」
《おっと、嫌いにならないでよ》
男が笑う。
《可愛い子に圧かけられたら興奮するだろ》
瞬間、床の霜が男の映像へ向かって伸びた。
通信越しにもかかわらず、モニター内の画面端が白く凍りつく。
男の笑みが一瞬だけ引きつった。
《……おお。この線に届くんだ》
「……みたいだね」
リョウカは言った。
「次、もっと届くかも」
男は笑った。
興奮が混ざっている醜い反応だった。
少女がリョウカから視線を外し、ユニアを見た。
《それで、夕華式を斬ったのはあなた?》
「ええ」
ユニアは静かに答えた。
「銀華院ユニア。ミネルヴァ教育機構生徒会長です」
《生徒会長が、他人の劇場を壊すんだ》
「生徒を傷つける劇場は、教育機構の秩序に反します」
《秩序》
少女は小さく笑った。
《その言葉、好きだよ。壊れた時に一番いい音がするから》
男が続けた。
《いやあ、困るんだよね。こっちもスポンサーがいるんだ。富裕層、支配層の退屈した連中。君たちの世界で言うところの上澄み? そういう人たちはさ、ただの映像じゃ満足しない。ちゃんと本物の悲鳴、本物の選択、本物の裏切り、本物の死が欲しいんだよ。彼らは安全な椅子に座って、本物が壊れるところだけを欲しがる。だから僕たちは、それを提供している。需要と供給だよ。市場原理ってやつだ」
私は、その言葉を聞きながら静かに呼吸を整えた。
吐き気はしない。
怒りも、まだ制御できている。
だが、分類は完了した。
下だ。
この二人は、下。
無能ではない。
危険ではある。
だが精神構造が浅い。
自分たちの嗜虐を、観測や芸術や選択という言葉で飾っているだけだ。
人類史に、こういう者はいくらでもいた。公開処刑を娯楽にした群衆。植民地で人間を展示した博覧会。収容所の統計を研究成果として扱った医師。市場崩壊をゲームのように眺めた金融家。人間は、他人の破滅に意味を与えることで、自分の退屈を正当化する。
私は、それを知っている。
そして、知っているからこそ軽蔑する。
ユニアは一歩も退かなかった。
彼女の立ち姿は、あまりに静かだった。可憐で、気高く、近づきにくい。包容力はある。だが、その包容は誰も彼もを抱きしめるためのものではない。秩序の内側に立つ者を守るための湖だ。踏み荒らす者は、その透明な水面に自分の醜さを映される。
「あなた方は、W1世界線のデスゲーム主催側ですね?」
《……さあ?》
少女が笑う。
「否定が遅い。肯定と見なします」
《ひどい決めつけ》
「決めつけではありません。観測結果です」
男が口笛を吹いた。
《強いなあ、生徒会長ちゃん。ねえ、君さ。X-13がどれだけいい子だったか分かってる? 叫びを拾って、音にして、同調させて、参加者の喉を借りて再演する。あの子は優秀だった。W1のデスゲームを苗床にしたX-seriesの中でも上位。壊れるには惜しかった。また作るには数回のデスゲームが必要だ。あれはね、ただの怪物じゃない。僕らの選別の成果なんだよ。無駄な人間を削り、役に立つ叫びだけを残し、恐怖の中でもっとも響きのいい喉を選び続けた、その積層なんだ」
「残念ですが、惜しむ対象が違います」
ユニアの声は柔らかい。
だが、鋭い。
「あなた方が惜しむべきだったのは、X-13ではなく、X-13の中に保存された叫びの発生源です」
男の笑みが僅かに止まった。
ユニアは続ける。
「あなた方は悲鳴を作品と呼び、死を演出と呼び、責任を参加者の選択に偽装している。ですが、それは芸術ではありません。ただの搾取です」
《搾取?》
少女が首を傾げる。
《人は見たいものを見るだけだよ。私たちは、その見たいものを隠さないだけ。弱い人間が潰れて、強い人間が残る。綺麗な顔をした偽善者が、最後には誰かを蹴落とす。優しい人が、優しいまま死んでいく。私たちは、そういうものを見せてあげているだけ》
「いいえ違います」
ユニアは即座に否定した。
「あなた方は“見たいもの”が発生する環境を作っている。そこに自然はありません。偶然もありません。あるのは設計された絶望だけです」
少女は、初めて少しだけ不快そうに眉を動かした。
《絶望を設計できるなら、それは才能だと思わない?》
「才能は、用途によって罪になります」
《退屈な答え》
「退屈で構いません。秩序とは、退屈な反復に耐えることです」
私は、内心でその言葉を評価した。
正確だ。
ユニアは、ただ善良なだけではない。
構造を見ている。
だから強い。
正しさを感情で振り回す者ではなく、正しさを運用できる者。
それは、時に暴力よりも恐ろしい。
少女は椅子の上で足を組み直した。
《あなた、綺麗な言葉を使うんだね》
「汚い現実ほど、言葉は綺麗であるべきです。そうでなければ、こちらまで濁りますから」
《刺すね》
「刺しているつもりはありません」
ユニアはわずかに微笑んだ。
「あなた方が、勝手に刺さっているだけです」
ホノカが声を上げて笑った。
「あはははははっ! ユニアちゃん最高! その言い方いいね! 綺麗な顔して、ざくざく刺すじゃん! ねえねえ、もっと言って! あの子たち、すっごい顔してる! 安全圏から人の悲鳴売ってるくせに、自分たちが言葉で刺されるとちゃんと痛がるの、可愛いね!」
「赤白木さん。静かに」
「はーい!」
ホノカは妙に素直だった。
テンションは高い。
だが、今は楽しんでいる。自分以外の誰かが、異常者を言葉で追い詰める場面を。
気持ちは分かる。
不本意だけど。
その時、男の画面に映るモニターの一つが切り替わった。
そこには、矢那瀬アスミの映像があった。
雨の中を走る彼女。
誰かを庇う彼女。
泣きそうな顔で、それでも前へ出る彼女。
イルマが反応した。
「……ッ」
彼女の身体は、まだ未来リゼの汚染でまともに動かない。だが、指が床を掻く。呼吸が荒くなる。瞳孔が狭まる。
男が、それを見て愉悦を深めた。
《お、反応した。君、あの子と関係あるんだ? 矢那瀬アスミ。いいよねえ。あの子、本当にいい。助けたい、救いたい、守りたいって顔で、いつも一番壊れやすい場所に走っていく。こっちは何度も止めたくなったよ。いや、嘘だ。止めたくはならなかった。もっと見たかった。あの子が誰かを助け損ねた時の顔、誰かを選べなかった時の喉の震え、間違ったと気づいても前に進むしかない背中。あれはね、上質だよ》
「黙れ」
イルマの声は掠れていた。
《僕、ずっと見てたんだよ。W1でね。彼女が選ぶところ。迷うところ。自分を犠牲にするところ。ああいう子は観測しがいがある。彼女はあのゲームでは人として最低最悪の選択をしていたよ。ゲーム攻略としてはベストだったけど。あと、助けられなかった時の顔が、特に――》
「黙れと言った……!!」
イルマの殺気が跳ねる。
床の空気が震えた。
汚染され、倒れ、傷つき、それでも反応する。
矢那瀬アスミ。
その名前は、イルマにとって単なる情報ではない。
保護対象。
責務。
あるいは、罪。
後で必ず掘る。
今は、観測のみ。
ユニアが、男の言葉を遮った。
「あなたは矢那瀬アスミさんを監視していたのですね」
《監視じゃないよ。観測》
「違います」
ユニアの否定は、美しかった。
「観測には対象への敬意が必要です。あなたがしているのは覗き見です」
男の笑顔が、一瞬だけ崩れた。
私は、その瞬間に少しだけ満足した。
逃げ道を言葉で塞がれる者の表情は、美しい。
粗暴な快楽ではない。
構造美だ。
相手が自分の立っている場所の低さに、ほんの一瞬だけ気づく。その瞬間にだけ発生する、透明な揺らぎ。
観測しがいがある。
少女が、低く言った。
《あなたたちさ》
空間がさらに重くなる。
《分かってないよね。人間は本来、選別されるべきなんだよ。弱い個体、鈍い個体、群れるだけの個体、守られることを当然だと思っている個体、泣けば誰かが救ってくれると思っている個体。そういうものを残すから、世界は腐る。私たちは腐った肉を切り落としただけ》
「いいえ」
ユニアは静かに返した。
「壊れたのです」
《違う》
「壊れたのです」
《違うって言ってる》
少女の声がわずかに鋭くなる。
黒電話のコードが、蛇のように空中で揺れた。
世界線干渉圧が上がっている。
ZAGIが警告を発する。
《外部干渉圧、上昇》
《W1残響、増大》
《通信遮断困難》
リョウカが一歩だけ前に出た。
「もう切る?」
ホセが穏やかに首を振る。
「まだです」
「面倒だなー」
「もう少しだけお願いします」
「じゃあアイス六つ」
「ホホホ……交渉が上手くなっていますね」
「たくさん待ってるから」
男が笑った。
《あはは、いいなあリョウカちゃん。君、ほんと怖い。可愛い顔で、何でも凍らせそうな目をする。ねえ、僕たちの世界に来ない? きっと人気出るよ。壊す側としても、壊される側としても》
「あなた……凍る?」
《遠慮したいけど、ちょっと見たい気もするね》
「気持ち悪い」
《それもいい》
リョウカの赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
通信画面の縁がさらに白く凍った。
男が初めて、椅子を少し引いた。
安全圏にいる者が、安全ではない可能性を認識した瞬間。
美しい。
ユニアは、その揺らぎを背景に、少女と男へ向けて言った。
「あなた方がどこにいるのか、正確な座標はまだ取得できません」
《取れるわけないよ》
少女が冷たく笑う。
「現時点では、です」
《……》
「ですが接続方式から推測できます。あなた方はW2にはいない。別の世界線から、こちらへ干渉している。夕華式を媒介に、ZAGI系統の演目プロトコルを経由し、X-seriesの残響を中継点にしている」
男の指が止まる。
ユニアは続けた。
「安全圏から一方的にこちらの世界線へ干渉し、悲鳴と損耗を商品化し、富裕層や支配層に見せ物を用意している。あなた方の行為は、芸術でも観測でもありません。壊れた世界の延命処置です」
少女の表情が消えた。
ユニアは、さらに踏み込む。
「なぜ、そこまでして他世界線へ演目を輸出するのか。当ててみせましょうか」
《……言ってみなよ》
「W1が、既に壊れているからです」
沈黙。
重い沈黙だった。
黒電話の向こうで、空気が止まる。
男の笑顔が、ほんの少しだけ歪む。
少女の指が、受話器を握る力を強める。
図星。
「あなた方の劇場は、もう自分たちの世界では成立しない。観客が足りない。生存者が足りない。悲鳴の鮮度が足りない。世界そのものが壊れ、舞台装置も観客席も崩れ、残ったのは、壊れた劇場にしがみつく主催者だけ」
ユニアの声は、穏やかだった。
残酷なほど穏やかだった。
「あなた方は支配者ではありません。終演後の客席に取り残された、帰る場所のない観客です」
ホノカが、ひゅう、と口笛を吹いた。
「刺したねえ」
私は言った。
「ええ。綺麗に刺した」
ユニアの刃は、物理だけではない。
言葉も刃だ。
そしてその刃は、不和を無理に溶かさない。
分かり合えないものを、分かり合えないまま裁定する。
等鋭不和の絶刃。
ホノカと私の不和。
W1とW2の不和。
観測者と被観測者の不和。
秩序と演目の不和。
それらを、和解ではなく、刃で断つ。
《……ふざけるな》
少女の声が低くなる。
《私たちがいなければ、誰も本当の顔なんて見せない。安全な学校で、安全な祭りをやって、安全な友情ごっこをして、安全な未来を語るだけ。そんなもの、人間じゃない》
「いいえ」
ユニアは言った。
「それも人間です」
《違う》
「弱さを隠して生きることも、痛みを避けることも、誰かを傷つけずに済む環境を作ることも、人間の営みです。あなた方は極限状態だけを本質と呼びますが、それは人間の一部でしかありません」
少女は黙る。
「人間を暴くことと、人間を育てることは違います」
ユニアの翡翠色の瞳が、真っ直ぐに黒電話の向こうを射抜いた。
「ミネルヴァは、少なくともその違いを忘れません」
私は、思わず小さく笑った。
ミネルヴァも十分に非人道的だ。
人格介入も、観測教育も、特使制度も、零群隔離も、外から見れば倫理の墓場だろう。
だが、ユニアはその墓場の上に立ってなお、秩序を語る。
その姿は美しい。
危うく、気高く、残酷で、正しい。
だから眩しい。
男が、最後に笑った。
《いいよ。覚えた。銀華院ユニア。吹雪リョウカ。鏡ヶ原リゼ。赤白木ホノカ。それから……》
男の視線が、モニターの向こうのシオンへ向く。
《御影シオン》
私の中で、何かが冷えた。
「その名前を呼ばないで」
《おっと》
男が笑う。
《怖い怖い。そこが急所か》
私は静かに返す。
「急所ではない。所有領域よ」
雨宮が息を呑む。
ネヤムが眉をひそめる。
レイラが困った顔をする。
ソウヤは何も言わない。
ホノカは、にやりと笑った。
《所有領域、ねえ》
男が嬉しそうにする。
《君もこっち側じゃない?》
「違う」
《本当に?》
「私は自分の異常性を理解している。あなた達は自分を演出家だと思い込んでいる。その差よ」
少女が私を見る。
《鏡ヶ原リゼ》
「なに」
《あなたは、いつかこっちに来るよ》
「来ないわ」
《支配したいんでしょ》
「ええ」
《壊れるところを見たいんでしょ》
「ええ」
《なら同じだよ》
「違う」
私は、淡々と言った。
「私は最後まで見る。あなた達は途中で売る。その差よ」
少女の赤い瞳が細くなった。
《そのうちあなたもわかるよ》
黒電話が軋む。
通信が乱れ始める。
ユニアが静かに告げた。
「この通信は遮断します。次にこちらへ干渉する時は、安全圏にいるつもりでいないことです」
《できるならやってみなよ。君たちは私たちの結果なんだから。W2世界線がどれだけイレギュラーな線なのか、そのうちわかるから》
「そうですか。ご解説ありがとうございます」
ユニアは微笑んだ。
「その時は、もっと近くでお話ししましょう」
綺麗な言葉だった。
だが、意味は明確。次は斬るということ。
黒電話が、ひび割れた。
リョウカが小さく息を吐く。
今度は、ため息というより、冷たい吐息だった。
受話器に白い霜が走る。
少女の映像が歪む。
男が笑いながら叫ぶ。
《またねえ! 矢那瀬アスミにもよろしく! 次はもっといい悲鳴を――》
黒電話が砕けた。
音が消える。
W1の圧迫感が、ようやく薄れる。
ZAGIが告げた。
《外部世界線干渉、遮断》
《発信元座標、不明》
《W1系統残響を検出》
《デスゲーム主催側個体の可能性、九六・八%》
《警戒レベル、更新》
私は静かに息を吐いた。
最終ゲームは、まだ始まっていない。
なのに、盤面は既に変質している。
ホノカ。
シオン。
W1主催者。
母胎。
ホセ。
ユニア。
リョウカ。
イルマと矢那瀬アスミ。
線が増えていく。
観測対象が増えることは、本来なら喜ばしい。だが、今の私の精神状態では負荷が大きい。雨宮の計測器が、また小さく警告音を鳴らした。
「リゼ様」
「何」
「今の会話で、精神負荷がさらに上昇しています」
「知っている」
「知っているなら」
「止まらないわ」
雨宮は、もう何も言わなかった。
私はシオンを見る。
モニターの向こうで、彼女は静かに私を見ている。
私のもの。
私の観測対象。
私の保護領域。
その定義が、どれほど歪んでいるかは理解している。
理解した上で、なお手放せない。
自由意思は残してある。
完全に奪えば、あなたではなくなるから。
そして今、彼女はその自由意思で、私とホノカの最後のゲームを設計している。
ホノカが隣で跳ねるように笑った。
「ねえねえリゼ、敵増えたね! すごくない? もう最終ゲーム前なのに、観客席から変なの生えてきたよ!」
「あなたはなぜ嬉しそうなの」
「だって面白いから!」
「その感性が心底嫌い」
「知ってる! でもリゼ、今ちょっと楽しそうだよ」
「黙りなさい」
「あはっ、図星?」
違う。
違うはずだ。
だが、観測対象が増えたことに、私の一部が反応しているのは事実だった。
最低ね。
私は、自分に対してそう評価した。
ホノカは笑う。
ユニアは静かに立つ。
リョウカは退屈そうに霜を踏む。
ホセは何もかも知っているように穏やかで、ヒュドラは支配者の笑みを崩さない。
そしてZAGIが、最後の宣告を下す。
《最終ゲーム、起動準備完了》
私は目を閉じ、一度だけ呼吸を整えた。
W1の安全圏の観測者たちは、また覗きに来るだろう。
ならば、見せてやる。
ただし、彼らの望む悲鳴ではない。
私たちが選ぶ、最後の観測を。
「始めなさい、ZAGI」
《了承》
《最終ゲーム、起動します》
デスゲームは終わった。
けれど、終幕ではない。
むしろ、ようやく余計な装飾が剥がれたのだと思う。悲鳴を売る者。秩序を守る者。退屈を殺す者。未来を育てる者。誰かを所有しようとする者。誰かの自由意思に縋る者。
全員が、自分の役割を隠せなくなった。
私も同じだ。
私はシオンを守りたい。
けれど、それは綺麗な感情ではない。私の保護は、観測圏内への固定に近い。私の愛情は、所有と隣り合っている。自由意思は残してある。完全に奪えば、彼女ではなくなるから。
その危うさを、私は知っている。
知った上で、手放せない。
赤白木ホノカは笑っている。
御影シオンは選ぼうとしている。
W1の観測者たちは、また覗きに来るだろう。
ならば、見せてあげる。
あなたたちが望む悲鳴ではなく、私たちが選ぶ結末を。
観測は続く。
私が壊れる瞬間まで。
あなたが壊れる瞬間まで。
それでも、最後に選んだのが私自身なら、それは敗北ではない。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




