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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP200. 壊れた世界からの黒電話

 観測とは、対象を救う行為ではない。


 少なくとも、私はそう定義している。


 救済には祈りが混じる。保護には願望が混じる。愛情には、どうしても所有が混じる。ならば観測者が最初に捨てるべきものは、善意という名の濁りだ。


 私は、濁りを嫌う。


 けれど、完全に捨てられたことは一度もない。


 私の中には、まだ声が残っている。


 帰ってきて、と呼んだ声。


 私の名を、私のものとして引き戻した声。


 その声を守りたいと思うことが、保護なのか、依存なのか、支配なのか、まだ分類できない。分類できないものは不快だ。だが、不快であるということは、観測する価値があるということでもある。


 だから私は、見る。


 赤白木ホノカを。


 御影シオンを。


 W1からこちらを覗く者たちを。


 そして、私自身の中に残った未来リゼの痕跡を。


 倫理は理解している。


 人命の重さも、自由意思の尊さも、境界を踏み越えることの罪も、すべて理解している。


 理解した上で、必要なら越える。


 観測者は、嫌悪される側でいい。


 ――始める。


 ZAGIが最終ゲームの構築へ移行しようとした、その直前だった。


 ホセ理事長が、静かに口を開いた。


「その前に、赤白木ホノカさん。最終演目へ進む前に、ひとつだけ整理しておくべき事項があります」


「えっ? なになに? なにかな、なにかな? もしかして私の出番? いいよ、今ならちょっとテンション戻ってきたから、何でも聞いて! 殺した人数以外ならだいたい答えられるよ? いや、殺した人数も聞かれたら答えるけど、たぶん途中で飽きると思う♡」


 ホノカは両手を広げ、くるりとその場で半回転した。


 さっきまで未来リゼに身体を奪われかけ、怒りと恐怖と屈辱で顔から笑みを消していた女が、もうこれだ。


 回復ではない。自己修復でもない。破綻を破綻として保存しないだけ。感情の傷を、より強い刺激で上書きしている。


 彼女にとって傷は履歴ではなく、燃料だ。


 だから厄介なのだ。


 ……本当に、宇宙から削除したい。


「エクスエル七貴族、ドミーテ家当主ピンクス・ドミーテ女史の件です」


「あっ……」


 ホノカは目を丸くした。


 そして、次の瞬間には腹を抱えて笑った。


「あははははははっ! 忘れてた! そうだ、ピンクスちゃん殺したんだったね? あの女、最後まで偉そうだったよ!犯罪シンジケートの元締めって、もっと怖いのかと思ったらさ、意外と声かわいかったなぁー! 二十代で七貴族の裏社会仕切ってるとか、設定盛りすぎじゃない? 麻薬、闇金融、暗殺仲介、闇市場、全部まとめて“私の庭”みたいな顔してたのに、死ぬ時は普通だった。そこだけちょっと残念でしたー!」


「……あなた、本当に反省という概念がないのね」


「あるよー?」


「どこに……?」


「面白くなかった時にホノカちゃんは反省するから」


「それは反省ではない」


「じゃあ演出調整!」


 ホノカは満面の笑みで言い切った。


 雨宮の表情がわずかに険しくなる。ネヤムは呆れたように目を細め、レイラは理解できないものを見る顔をし、ソウヤは黙っていた。彼はこういう時、言葉を探すよりも沈黙で相手の異常性を測る。


 ホセ理事長は、少しも動じなかった。


「ホホ、その件については、既にビフォアル家と協議し、政治的な調整を済ませています。ドミーテ家内部の権力移行についても、表向きは病没処理で整えられるでしょう。ピンクス・ドミーテ氏の不在によって発生する裏市場の空白も、短期的には制御可能です」


「……待って……!?」


 私は反射的に口を挟んでいた。


「理事長。今、あなたは何を言ったの?」


「ピンクス・ドミーテ氏の死亡処理についてです」


「問題はそこではないわ。七貴族の一角、ドミーテ家当主。しかも彼女は、ただの貴族ではない。麻薬流通、闇金融、暗殺仲介、違法市場の大半を握る犯罪シンジケートの元締め。裏社会の価格決定権に手を掛けていた人物。その死亡を、ミネルヴァ教育機構の理事長が“ビフォアル家と調整した”と言って終わり?」


 私は言葉を切った。


 ホセを見る。


「あなたの権限は、どこまで届くの?」


 ホセは穏やかに微笑んでいた。


 その微笑みは、優しさではない。拒絶でもない。情報を与える範囲を、既に決めている者の顔だった。


「教育とは、未来の器を整えることです。時に、器の周囲にある毒を除く必要もある」


「ピンクス・ドミーテを毒と呼ぶなら、そこは同意するわ。でも、毒を除去するには解毒権限が要る。あなたは教育者では説明できない領域に手を伸ばしている。政治、犯罪市場、七貴族間の均衡、そして死亡処理。普通の教育機関が持つべき権限ではない」


「説明できないのではありません。まだ説明する段階ではないのです」


「それは返答になっていない……」


「承知しています」


 その瞬間、私はホセの背後にあるものを再計算した。


 ビフォアル家。


 七貴族筆頭格。


 ミネルヴァ。


 リメイク・ファクトリー。


 ヒュドラ。


 吹雪リョウカ。


 そして、まもなく到来すると言われた――母胎。


 線が繋がる。


 証拠はない。


 だが、構造は見える。


「……母胎」


 私が呟くと、ヒュドラの笑みがわずかに深くなった。


 ホセは何も言わない。


 否定しない。


 それだけで十分だった。


 母胎は、ミネルヴァの後ろにいる。


 あるいは、ミネルヴァそのものの根にある。


 教育機構という顔で人間を育て、リメイク・ファクトリーという檻で異常個体を保存し、七貴族の政治すら調整する何か。


 それは教育ではない。


 繁殖に近い。


 器の選別。


 未来の栽培。


 私は、少しだけ笑った。


「なるほど。ミネルヴァ教育機構は、やはり学校ではないのね」


「学校ですよ」


 ホセは丁寧に答えた。


「ただし、未来を教える場所ではなく、未来に耐え得る者を育てる場所です」


「それを非人道と呼ぶ人間もいるでしょうね」


「ええ。ですが、人道という語は、しばしば未来に対して無責任です」


 いい返答だった。


 冷たい。


 穏やかで、丁寧で、残酷だ。


 私はそれが嫌いではなかった。


 その時、空間の奥で黒電話が鳴った。


 じりりりりりりりりりりり。


 古い音。


 だが、ただのベル音ではない。


 空間の表面を削るような、神経に金属片を押し当てるような音だった。夕華式の残骸が、その音に反応して細かく震える。ZAGIの警告灯が赤く瞬き、リョウカが面倒そうに眉を寄せた。


「なんか……うるさい」


 彼女が小さく言う。


 それだけで、黒電話の音が半拍だけ凍りついた。


 しかし、すぐに鳴り直す。


 じりりりりりり。


 ジリリリリリリリ……


 しつこい。


 これは通信ではなく侵入だ。


 黒電話が、白く断たれた夕華式の断面から滲み出るように現れた。受話器が勝手に跳ね、空中で揺れる。線はどこにも繋がっていない。それなのに、向こう側に誰かがいる。


《……やってくれたね》


 少女の声だった。


 冷たい。


 幼い。


 けれど、幼さの奥に、腐った静けさがある。


 空間に映像が開く。


 暗い部屋。


 赤い椅子。


 黒いセーラー服。


 赤い瞳。


 少女は足を組み、受話器を片手にこちらを見下ろしていた。


 その横に、別の映像が開く。


 モニター群に囲まれた男。


 大きな身体。


 脂ぎった指。


 反射する眼鏡。


 笑っている。


 それだけで、場の空気が一段重くなった。


 圧迫感。


 通信越しのはずなのに、首筋を握られているような感覚。世界線を跨いだ干渉が、こちらの空間の空気圧そのものを変えている。単なる映像ではない。観測圧が乗っている。


 壊れた世界線の匂いがした。


《X-13を壊したの、誰?》


 少女が言った。


 リョウカが、だるそうに手を上げる。


「はい、私だけど」


《あなた?》


「うん」


《そう……。あれは私たちのお気に入りだった。よく叫びを集めたし、よく真似たし、よく人を壊した。壊す側の道具として、とても出来がよかった》


「そうなんだ」


《壊していいものじゃなかった》


「うるさかったから」


《うるさかったから壊したの?》


「うん」


 男が、そこで大きく笑った。


《あは、はははははっ! いいねえ、その子! 可愛い顔して怖いなあ。怖い怖い。そういう無感情っぽい子が一番エグいことするんだよね。ねえ君、名前は? どこ所属? リメイク・ファクトリー? ミネルヴァ? それとも別の檻?》


 リョウカは男を見た。


 赤い瞳が、ほんの少しだけ温度を落とす。


「吹雪リョウカ」


《リョウカちゃんかあ。いい名前だ。冷たそうで、壊れそうで、壊す側っぽい》


「あなたも、うるさいね」


《おっと、嫌いにならないでよ》


 男が笑う。


《可愛い子に圧かけられたら興奮するだろ》


 瞬間、床の霜が男の映像へ向かって伸びた。


 通信越しにもかかわらず、モニター内の画面端が白く凍りつく。


 男の笑みが一瞬だけ引きつった。


《……おお。この線に届くんだ》


「……みたいだね」


 リョウカは言った。


「次、もっと届くかも」


 男は笑った。


 興奮が混ざっている醜い反応だった。


 少女がリョウカから視線を外し、ユニアを見た。


《それで、夕華式を斬ったのはあなた?》


「ええ」


 ユニアは静かに答えた。


「銀華院ユニア。ミネルヴァ教育機構生徒会長です」


《生徒会長が、他人の劇場を壊すんだ》


「生徒を傷つける劇場は、教育機構の秩序に反します」


《秩序》


 少女は小さく笑った。


《その言葉、好きだよ。壊れた時に一番いい音がするから》


 男が続けた。


《いやあ、困るんだよね。こっちもスポンサーがいるんだ。富裕層、支配層の退屈した連中。君たちの世界で言うところの上澄み? そういう人たちはさ、ただの映像じゃ満足しない。ちゃんと本物の悲鳴、本物の選択、本物の裏切り、本物の死が欲しいんだよ。彼らは安全な椅子に座って、本物が壊れるところだけを欲しがる。だから僕たちは、それを提供している。需要と供給だよ。市場原理ってやつだ」


 私は、その言葉を聞きながら静かに呼吸を整えた。


 吐き気はしない。


 怒りも、まだ制御できている。


 だが、分類は完了した。


 下だ。


 この二人は、下。


 無能ではない。


 危険ではある。


 だが精神構造が浅い。


 自分たちの嗜虐を、観測や芸術や選択という言葉で飾っているだけだ。


 人類史に、こういう者はいくらでもいた。公開処刑を娯楽にした群衆。植民地で人間を展示した博覧会。収容所の統計を研究成果として扱った医師。市場崩壊をゲームのように眺めた金融家。人間は、他人の破滅に意味を与えることで、自分の退屈を正当化する。


 私は、それを知っている。


 そして、知っているからこそ軽蔑する。


 ユニアは一歩も退かなかった。


 彼女の立ち姿は、あまりに静かだった。可憐で、気高く、近づきにくい。包容力はある。だが、その包容は誰も彼もを抱きしめるためのものではない。秩序の内側に立つ者を守るための湖だ。踏み荒らす者は、その透明な水面に自分の醜さを映される。


「あなた方は、W1世界線のデスゲーム主催側ですね?」


《……さあ?》


 少女が笑う。


「否定が遅い。肯定と見なします」


《ひどい決めつけ》


「決めつけではありません。観測結果です」


 男が口笛を吹いた。


《強いなあ、生徒会長ちゃん。ねえ、君さ。X-13がどれだけいい子だったか分かってる? 叫びを拾って、音にして、同調させて、参加者の喉を借りて再演する。あの子は優秀だった。W1のデスゲームを苗床にしたX-seriesの中でも上位。壊れるには惜しかった。また作るには数回のデスゲームが必要だ。あれはね、ただの怪物じゃない。僕らの選別の成果なんだよ。無駄な人間を削り、役に立つ叫びだけを残し、恐怖の中でもっとも響きのいい喉を選び続けた、その積層なんだ」


「残念ですが、惜しむ対象が違います」


 ユニアの声は柔らかい。


 だが、鋭い。


「あなた方が惜しむべきだったのは、X-13ではなく、X-13の中に保存された叫びの発生源です」


 男の笑みが僅かに止まった。


 ユニアは続ける。


「あなた方は悲鳴を作品と呼び、死を演出と呼び、責任を参加者の選択に偽装している。ですが、それは芸術ではありません。ただの搾取です」


《搾取?》


 少女が首を傾げる。


《人は見たいものを見るだけだよ。私たちは、その見たいものを隠さないだけ。弱い人間が潰れて、強い人間が残る。綺麗な顔をした偽善者が、最後には誰かを蹴落とす。優しい人が、優しいまま死んでいく。私たちは、そういうものを見せてあげているだけ》


「いいえ違います」


 ユニアは即座に否定した。


「あなた方は“見たいもの”が発生する環境を作っている。そこに自然はありません。偶然もありません。あるのは設計された絶望だけです」


 少女は、初めて少しだけ不快そうに眉を動かした。


《絶望を設計できるなら、それは才能だと思わない?》


「才能は、用途によって罪になります」


《退屈な答え》


「退屈で構いません。秩序とは、退屈な反復に耐えることです」


 私は、内心でその言葉を評価した。


 正確だ。


 ユニアは、ただ善良なだけではない。


 構造を見ている。


 だから強い。


 正しさを感情で振り回す者ではなく、正しさを運用できる者。


 それは、時に暴力よりも恐ろしい。


 少女は椅子の上で足を組み直した。


《あなた、綺麗な言葉を使うんだね》


「汚い現実ほど、言葉は綺麗であるべきです。そうでなければ、こちらまで濁りますから」


《刺すね》


「刺しているつもりはありません」


 ユニアはわずかに微笑んだ。


「あなた方が、勝手に刺さっているだけです」


 ホノカが声を上げて笑った。


「あはははははっ! ユニアちゃん最高! その言い方いいね! 綺麗な顔して、ざくざく刺すじゃん! ねえねえ、もっと言って! あの子たち、すっごい顔してる! 安全圏から人の悲鳴売ってるくせに、自分たちが言葉で刺されるとちゃんと痛がるの、可愛いね!」


「赤白木さん。静かに」


「はーい!」


 ホノカは妙に素直だった。


 テンションは高い。


 だが、今は楽しんでいる。自分以外の誰かが、異常者を言葉で追い詰める場面を。


 気持ちは分かる。


 不本意だけど。


 その時、男の画面に映るモニターの一つが切り替わった。


 そこには、矢那瀬アスミの映像があった。


 雨の中を走る彼女。


 誰かを庇う彼女。


 泣きそうな顔で、それでも前へ出る彼女。


 イルマが反応した。


「……ッ」


 彼女の身体は、まだ未来リゼの汚染でまともに動かない。だが、指が床を掻く。呼吸が荒くなる。瞳孔が狭まる。


 男が、それを見て愉悦を深めた。


《お、反応した。君、あの子と関係あるんだ? 矢那瀬アスミ。いいよねえ。あの子、本当にいい。助けたい、救いたい、守りたいって顔で、いつも一番壊れやすい場所に走っていく。こっちは何度も止めたくなったよ。いや、嘘だ。止めたくはならなかった。もっと見たかった。あの子が誰かを助け損ねた時の顔、誰かを選べなかった時の喉の震え、間違ったと気づいても前に進むしかない背中。あれはね、上質だよ》


「黙れ」


 イルマの声は掠れていた。


《僕、ずっと見てたんだよ。W1でね。彼女が選ぶところ。迷うところ。自分を犠牲にするところ。ああいう子は観測しがいがある。彼女はあのゲームでは人として最低最悪の選択をしていたよ。ゲーム攻略としてはベストだったけど。あと、助けられなかった時の顔が、特に――》


「黙れと言った……!!」


 イルマの殺気が跳ねる。


 床の空気が震えた。


 汚染され、倒れ、傷つき、それでも反応する。


 矢那瀬アスミ。


 その名前は、イルマにとって単なる情報ではない。


 保護対象。


 責務。


 あるいは、罪。


 後で必ず掘る。


 今は、観測のみ。


 ユニアが、男の言葉を遮った。


「あなたは矢那瀬アスミさんを監視していたのですね」


《監視じゃないよ。観測》


「違います」


 ユニアの否定は、美しかった。


「観測には対象への敬意が必要です。あなたがしているのは覗き見です」


 男の笑顔が、一瞬だけ崩れた。


 私は、その瞬間に少しだけ満足した。


 逃げ道を言葉で塞がれる者の表情は、美しい。


 粗暴な快楽ではない。


 構造美だ。


 相手が自分の立っている場所の低さに、ほんの一瞬だけ気づく。その瞬間にだけ発生する、透明な揺らぎ。


 観測しがいがある。


 少女が、低く言った。


《あなたたちさ》


 空間がさらに重くなる。


《分かってないよね。人間は本来、選別されるべきなんだよ。弱い個体、鈍い個体、群れるだけの個体、守られることを当然だと思っている個体、泣けば誰かが救ってくれると思っている個体。そういうものを残すから、世界は腐る。私たちは腐った肉を切り落としただけ》


「いいえ」


 ユニアは静かに返した。


「壊れたのです」


《違う》


「壊れたのです」


《違うって言ってる》


 少女の声がわずかに鋭くなる。


 黒電話のコードが、蛇のように空中で揺れた。


 世界線干渉圧が上がっている。


 ZAGIが警告を発する。


《外部干渉圧、上昇》


《W1残響、増大》


《通信遮断困難》


 リョウカが一歩だけ前に出た。


「もう切る?」


 ホセが穏やかに首を振る。


「まだです」


「面倒だなー」


「もう少しだけお願いします」


「じゃあアイス六つ」


「ホホホ……交渉が上手くなっていますね」


「たくさん待ってるから」


 男が笑った。


《あはは、いいなあリョウカちゃん。君、ほんと怖い。可愛い顔で、何でも凍らせそうな目をする。ねえ、僕たちの世界に来ない? きっと人気出るよ。壊す側としても、壊される側としても》


「あなた……凍る?」


《遠慮したいけど、ちょっと見たい気もするね》


「気持ち悪い」


《それもいい》


 リョウカの赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなる。


 通信画面の縁がさらに白く凍った。


 男が初めて、椅子を少し引いた。


 安全圏にいる者が、安全ではない可能性を認識した瞬間。


 美しい。


 ユニアは、その揺らぎを背景に、少女と男へ向けて言った。


「あなた方がどこにいるのか、正確な座標はまだ取得できません」


《取れるわけないよ》


 少女が冷たく笑う。


「現時点では、です」


《……》


「ですが接続方式から推測できます。あなた方はW2にはいない。別の世界線から、こちらへ干渉している。夕華式を媒介に、ZAGI系統の演目プロトコルを経由し、X-seriesの残響を中継点にしている」


 男の指が止まる。


 ユニアは続けた。


「安全圏から一方的にこちらの世界線へ干渉し、悲鳴と損耗を商品化し、富裕層や支配層に見せ物を用意している。あなた方の行為は、芸術でも観測でもありません。壊れた世界の延命処置です」


 少女の表情が消えた。


 ユニアは、さらに踏み込む。


「なぜ、そこまでして他世界線へ演目を輸出するのか。当ててみせましょうか」


《……言ってみなよ》


「W1が、既に壊れているからです」


 沈黙。


 重い沈黙だった。


 黒電話の向こうで、空気が止まる。


 男の笑顔が、ほんの少しだけ歪む。


 少女の指が、受話器を握る力を強める。


 図星。


「あなた方の劇場は、もう自分たちの世界では成立しない。観客が足りない。生存者が足りない。悲鳴の鮮度が足りない。世界そのものが壊れ、舞台装置も観客席も崩れ、残ったのは、壊れた劇場にしがみつく主催者だけ」


 ユニアの声は、穏やかだった。


 残酷なほど穏やかだった。


「あなた方は支配者ではありません。終演後の客席に取り残された、帰る場所のない観客です」


 ホノカが、ひゅう、と口笛を吹いた。


「刺したねえ」


 私は言った。


「ええ。綺麗に刺した」


 ユニアの刃は、物理だけではない。


 言葉も刃だ。


 そしてその刃は、不和を無理に溶かさない。


 分かり合えないものを、分かり合えないまま裁定する。


 等鋭不和の絶刃。


 ホノカと私の不和。


 W1とW2の不和。


 観測者と被観測者の不和。


 秩序と演目の不和。


 それらを、和解ではなく、刃で断つ。


《……ふざけるな》


 少女の声が低くなる。


《私たちがいなければ、誰も本当の顔なんて見せない。安全な学校で、安全な祭りをやって、安全な友情ごっこをして、安全な未来を語るだけ。そんなもの、人間じゃない》


「いいえ」


 ユニアは言った。


「それも人間です」


《違う》


「弱さを隠して生きることも、痛みを避けることも、誰かを傷つけずに済む環境を作ることも、人間の営みです。あなた方は極限状態だけを本質と呼びますが、それは人間の一部でしかありません」


 少女は黙る。


「人間を暴くことと、人間を育てることは違います」


 ユニアの翡翠色の瞳が、真っ直ぐに黒電話の向こうを射抜いた。


「ミネルヴァは、少なくともその違いを忘れません」


 私は、思わず小さく笑った。


 ミネルヴァも十分に非人道的だ。


 人格介入も、観測教育も、特使制度も、零群隔離も、外から見れば倫理の墓場だろう。


 だが、ユニアはその墓場の上に立ってなお、秩序を語る。


 その姿は美しい。


 危うく、気高く、残酷で、正しい。


 だから眩しい。


 男が、最後に笑った。


《いいよ。覚えた。銀華院ユニア。吹雪リョウカ。鏡ヶ原リゼ。赤白木ホノカ。それから……》


 男の視線が、モニターの向こうのシオンへ向く。


《御影シオン》


 私の中で、何かが冷えた。


「その名前を呼ばないで」


《おっと》


 男が笑う。


《怖い怖い。そこが急所か》


 私は静かに返す。


「急所ではない。所有領域よ」


 雨宮が息を呑む。


 ネヤムが眉をひそめる。


 レイラが困った顔をする。


 ソウヤは何も言わない。


 ホノカは、にやりと笑った。


《所有領域、ねえ》


 男が嬉しそうにする。


《君もこっち側じゃない?》


「違う」


《本当に?》


「私は自分の異常性を理解している。あなた達は自分を演出家だと思い込んでいる。その差よ」


 少女が私を見る。


《鏡ヶ原リゼ》


「なに」


《あなたは、いつかこっちに来るよ》


「来ないわ」


《支配したいんでしょ》


「ええ」


《壊れるところを見たいんでしょ》


「ええ」


《なら同じだよ》


「違う」


 私は、淡々と言った。


「私は最後まで見る。あなた達は途中で売る。その差よ」


 少女の赤い瞳が細くなった。


《そのうちあなたもわかるよ》


 黒電話が軋む。


 通信が乱れ始める。


 ユニアが静かに告げた。


「この通信は遮断します。次にこちらへ干渉する時は、安全圏にいるつもりでいないことです」


《できるならやってみなよ。君たちは私たちの結果なんだから。W2世界線がどれだけイレギュラーな線なのか、そのうちわかるから》


「そうですか。ご解説ありがとうございます」


 ユニアは微笑んだ。


「その時は、もっと近くでお話ししましょう」


 綺麗な言葉だった。


 だが、意味は明確。次は斬るということ。


 黒電話が、ひび割れた。


 リョウカが小さく息を吐く。


 今度は、ため息というより、冷たい吐息だった。


 受話器に白い霜が走る。


 少女の映像が歪む。


 男が笑いながら叫ぶ。


《またねえ! 矢那瀬アスミにもよろしく! 次はもっといい悲鳴を――》


 黒電話が砕けた。


 音が消える。


 W1の圧迫感が、ようやく薄れる。


 ZAGIが告げた。


《外部世界線干渉、遮断》


《発信元座標、不明》


《W1系統残響を検出》


《デスゲーム主催側個体の可能性、九六・八%》


《警戒レベル、更新》


 私は静かに息を吐いた。


 最終ゲームは、まだ始まっていない。


 なのに、盤面は既に変質している。


 ホノカ。


 シオン。


 W1主催者。


 母胎。


 ホセ。


 ユニア。


 リョウカ。


 イルマと矢那瀬アスミ。


 線が増えていく。


 観測対象が増えることは、本来なら喜ばしい。だが、今の私の精神状態では負荷が大きい。雨宮の計測器が、また小さく警告音を鳴らした。


「リゼ様」


「何」


「今の会話で、精神負荷がさらに上昇しています」


「知っている」


「知っているなら」


「止まらないわ」


 雨宮は、もう何も言わなかった。


 私はシオンを見る。


 モニターの向こうで、彼女は静かに私を見ている。


 私のもの。


 私の観測対象。


 私の保護領域。


 その定義が、どれほど歪んでいるかは理解している。


 理解した上で、なお手放せない。


 自由意思は残してある。


 完全に奪えば、あなたではなくなるから。


 そして今、彼女はその自由意思で、私とホノカの最後のゲームを設計している。


 ホノカが隣で跳ねるように笑った。


「ねえねえリゼ、敵増えたね! すごくない? もう最終ゲーム前なのに、観客席から変なの生えてきたよ!」


「あなたはなぜ嬉しそうなの」


「だって面白いから!」


「その感性が心底嫌い」


「知ってる! でもリゼ、今ちょっと楽しそうだよ」


「黙りなさい」


「あはっ、図星?」


 違う。


 違うはずだ。


 だが、観測対象が増えたことに、私の一部が反応しているのは事実だった。


 最低ね。


 私は、自分に対してそう評価した。


 ホノカは笑う。


 ユニアは静かに立つ。


 リョウカは退屈そうに霜を踏む。


 ホセは何もかも知っているように穏やかで、ヒュドラは支配者の笑みを崩さない。


 そしてZAGIが、最後の宣告を下す。


《最終ゲーム、起動準備完了》


 私は目を閉じ、一度だけ呼吸を整えた。


 W1の安全圏の観測者たちは、また覗きに来るだろう。


 ならば、見せてやる。


 ただし、彼らの望む悲鳴ではない。


 私たちが選ぶ、最後の観測を。


「始めなさい、ZAGI」


《了承》


《最終ゲーム、起動します》


 デスゲームは終わった。


 けれど、終幕ではない。


 むしろ、ようやく余計な装飾が剥がれたのだと思う。悲鳴を売る者。秩序を守る者。退屈を殺す者。未来を育てる者。誰かを所有しようとする者。誰かの自由意思に縋る者。


 全員が、自分の役割を隠せなくなった。


 私も同じだ。


 私はシオンを守りたい。


 けれど、それは綺麗な感情ではない。私の保護は、観測圏内への固定に近い。私の愛情は、所有と隣り合っている。自由意思は残してある。完全に奪えば、彼女ではなくなるから。


 その危うさを、私は知っている。


 知った上で、手放せない。


 赤白木ホノカは笑っている。


 御影シオンは選ぼうとしている。


 W1の観測者たちは、また覗きに来るだろう。


 ならば、見せてあげる。


 あなたたちが望む悲鳴ではなく、私たちが選ぶ結末を。


 観測は続く。


 私が壊れる瞬間まで。


 あなたが壊れる瞬間まで。


 それでも、最後に選んだのが私自身なら、それは敗北ではない。


おめでとう。

そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


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