表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
194/217

EP199. 虚数氷界――夕華式断華

 終わったものは、終わったように見える。


 けれど、終わったように見えるものほど、たいてい奥に残滓を残している。声、熱、痛み、視線、選ばれなかった選択肢。そういうものは、記録から消えたあとも、しばらく世界の底に沈んでいる。


 私はまだ、観測をやめられない。


 それが義務なのか、執着なのか、あるいはもっと醜い感情なのかは、この時点では分類しないでおく。


 ただ一つだけ確かなのは、ここから先に進むには、誰かが幕を下ろさなければならないということ。


 そして、幕を下ろす手が必ずしも優しいとは限らない。


 ――始める。


 吹雪リョウカが、ため息を吐いた。


 ただ、それだけだった。


 深く息を吸ったわけでもない。詠唱したわけでもない。構えたわけでもない。殺意を込めたわけでもない。彼女は本当に、面倒な放課後の呼び出しに付き合わされている生徒のように、小さく、薄く、退屈そうに息を吐いただけだった。


 それだけで、X-13の動きが止まった。


 金色の演目空間に響いていた同調音が、ぴたりと途切れる。


 私の喉を内側から押し広げていた異物感が消えた。雨宮の口元に浮かんでいた苦痛も止まる。レイラは牙を剥いたまま瞬きをし、ネヤムは自分の喉に手を当て、ソウヤは息を吸い直した。ホノカでさえ、少しだけ目を細めてリョウカを見ていた。


 X-13。


 W1世界線のデスゲームを苗床に生まれたX-seriesの演目遂行者。その中でも上位に位置する存在。


 それが、ため息一つで停止した。


 私は、倒れた姿勢のままその光景を観測していた。


 観測者として。


 そして、負傷者として。


 右腕の痛みは消えている。未来リゼが私の身体を奪った時、破損していた右腕は異常な速度で修復された。骨も筋も神経も、まるで最初から壊れていなかったように接続している。雨宮の仮固定が不要になるほど、肉体的には回復していた。


 だが、問題はそこではない。


 精神が、ひどい。


 未来リゼに肉体を奪われた影響は、私の内側にまだ残っている。思考の奥に、他人の足跡がある。脳の皮質の上を、私ではない私が歩いた痕跡。人格中枢を押し潰され、発話権を奪われ、私の身体を「依代」「端末」「廃棄対象」として分類された記憶。


 不愉快という言葉では足りない。


 人類史には、他者の人格を壊すための手法がいくらでもある。捕虜収容所、政治的粛清、思想改造、感覚遮断、睡眠剥奪、薬物投与、集団圧力、公開処刑、密告制度、再教育施設。MK-Ultraも、全体主義国家の思想改造も、宗教的洗脳も、独裁政権の恐怖統治も、結局は一つの構造へ収束する。


 人間に、自分の意思で選んだと思わせながら、選択肢そのものを奪うこと。


 歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力じゃない。


 自分で選んだと思わせる構造だ。


 未来リゼは、それを私自身に実行した。


 私の身体で。


 私の声で。


 私の未来として。


 雨宮が私の横で、携帯型の黒い器具を取り出していた。医療班用の通常計測器ではない。もっと古く、もっと非公開の機材。脈拍、血圧、瞳孔反応、脳波、皮膚電位、呼吸同期、そして精神負荷を複合的に計測する、ミネルヴァ内部でしか使われない観測装置。


 彼はそれを私のこめかみに当てた。


「リゼ様。少しだけ我慢してください」


「……何を測るつもり?」


「SAN値です」


「その呼び方、正式名称なの?」


「現場俗称です。正式には精神破綻係数および自己同一性損耗指数の複合値です」


「……最初から俗称でいいわ」


 雨宮は返事をしなかった。


 計測器が低く鳴る。


 その音を聞いた瞬間、彼の顔が変わった。


 雨宮は人体矯正技師だ。身体が壊れる瞬間を見慣れている。骨が折れ、神経が断裂し、内臓が潰れ、人格が恐怖で崩れる瞬間を、彼は何度も見てきたはずだ。その彼が、今、計測器の数値を見て言葉を失った。


「……雨宮?」


 私は訊いた。


「数値は」


 雨宮は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


「言いなさい」


「……正常域を大幅に下回っています」


「具体的に」


「通常なら、意識保持自体が困難な値です」


「でも私は喋っている」


「それが異常です」


 雨宮は低く言った。


「普通なら、今のリゼ様は自分の名前も保持できません。人格侵蝕、自己所有権の剥奪、時間収束への曝露、未来個体による上書き未遂。人間の精神構造に許容される負荷ではありません」


「人間ではなく観測者として扱いなさい」


「観測者も脳で思考しています」


「脳は器官よ。器官は管理すれば使える」


「管理できない水準まで削れています」


「なら、管理可能な水準へ戻す。それだけでしょう」


 私は淡々と返した。


 言葉は冷静だった。


 だが、自分でも分かっていた。


 これは冷静ではない。


 冷静な形で壊れないようにしているだけだ。


 私の内側には、まだ未来リゼの言葉が残っている。


 必要なものを奪う。


 不要なものを捨てる。


 邪魔なものを壊す。


 その論理は、間違っていない。


 だから恐ろしい。


 間違っていないものほど、人間を深く傷つけることがある。正しさは刃物より扱いが難しい。正しさを持った人間は、自分の加害性を見落とす。私はそれを知っている。犯罪史でも、戦争史でも、革命史でも、人体実験史でも、正義と効率は常に人間を壊すための美しい包装紙だった。


 それでも私は、必要なら越える。


 倫理も、法も、人格権も、自由意思も。


 理解した上で、越える。


 それが私だ。


 だからこそ、未来リゼは私の未来なのだ。


 私はその事実を否定できない。


「リゼ様」


 雨宮が低く言った。


「今は思考を止めてください」


「無理ね」


「止めなければ、さらに削れます」


「削れても観測はできる」


「あなたはまた、それを言う」


「私は縛っているわけではない。私が私の外で崩壊する確率を知っているだけ」


 雨宮の眉がわずかに動いた。


「その言い方は、未来リゼに近い」


「でしょうね」


 私は小さく笑った。


「同じ私だから」


 雨宮は、苦しそうに黙った。


 その沈黙を見て、私は理解する。


 彼は私を心配している。


 保護しようとしている。


 破損した対象として、私を自分の観測可能範囲へ置こうとしている。


 その態度は、私とよく似ている。


 だから私は、少しだけ不愉快になった。


 保護と支配は近い。


 救済と所有は近い。


 愛情と同期欲求は近い。


 シオンに対する私の感情も、きっとその中間にある。


 私はシオンを壊したくない。


 ただ、彼女が私の外で崩壊する確率を知っている。だから、近くに置く。観測圏内に置く。完全に自由を奪えばシオンではなくなるから、自由意思は残してある。相手らしさを残したまま、私なしでは成立しない構造へ最適化する。


 それが保護なのか、所有なのか。


 そんな分類は、今はどうでもいい。


 重要なのは、シオンが私を呼んだこと。


 そして私は戻ったこと。


 その事実だけだ。


「少し待っててくれる?」


 リョウカの声がした。


 私は顔を向けた。


 吹雪リョウカは、X-13へ向かってそう言っていた。


 戦闘対象へ言う声ではなかった。


 店の前で友人を待たせるような、薄く、平坦で、少しだけ面倒くさそうな声。だが、その声を聞いたX-13は本当に動きを止めている。正確には、動きたくても動けないのだろう。周囲の温度が下がり続けている。床を這う霜が、金色の演目空間の表面を薄く覆っていく。


 この場で、リョウカを明確に知っている者は限られていた。


 雨宮。


 ヒュドラ。


 ホセ。


 ユニア。


 そして、ネヤム、レイラ、ソウヤ。


 ただし、ネヤムたちの認識は詳細ではない。同じ零群に属しながら、破格の待遇で隔離されていた少女。通常の運用規定を適用されない個体。リメイク・ファクトリーの奥にいて、接触も会話も限定されていた存在。その程度だろう。


 ユニアも、彼女の監視という名目で同行してきた。


 ただし、監視と言っても拘束ではない。


 リョウカを力で縛るという発想自体が、おそらく成立しない。あの少女は、雪そのものが人間の形をしているような存在だ。拘束するなら、檻ではなく季節を変える必要がある。


 リョウカは私を見た。


 黒髪。


 赤い瞳。


 小柄な身体。


 高校生というより、もっと幼くも見える。だが、視線の奥がひどく冷たい。感情がないわけではない。ただ、感情が世界へ結びつく速度が遅い。目の前で何が起きても、それが自分の体温に届くまで時間がかかる種類の人間。


 あるいは、人間という分類自体が雑かもしれない。


「あなたがリゼって人?」


 リョウカが訊いた。


「……ええ。鏡ヶ原リゼ」


「ふうん」


 彼女は、あまり興味がなさそうだった。


 リゼという名前に反応したわけではない。私の立場にも、未来リゼの侵蝕にも、ほとんど興味を示していない。


 当然と言えば当然だ。


 彼女は私を知らない。


 来る時にヒュドラから説明を受けていたのだろうが、おそらく真面目には聞いていない。リョウカの関心はこの演目にも、夕華式にも、X-13にも、私にもない。


 彼女がここへ来た理由は、別にあるのだろう。


「No.XXXだっけ? 未来少年くんのこと、何かわかった?」


 リョウカが言った。


 No.XXX。未来少年くん。


 その呼び方だけで、私の思考が一瞬止まった。


 No.XXX。


 未来に関する異常記録。


 世界線干渉の痕跡。


 私がまだ完全には掴めていない、別種の未来接続者。


 リョウカは、彼に興味がある。


 だから来た。


 ミネルヴァの命令だからではない。


 ホセに頼まれたからでもない。


 リメイク・ファクトリーの監獄長に連れてこられたからでもない。


 No.XXXに関する資料を私が持っていると聞いたから、渋々ここへ来た。


 私は答えようとした。


「……No、XXX、については……」


 声が掠れた。


 喉がうまく動かない。


 X-13の同調強制の影響か。


 未来リゼの人格侵蝕の後遺症か。


 精神負荷による発話障害か。


 原因はいくらでも挙げられる。


 だが、今はどれでも同じだった。


 うまく声が出ない。


「リゼ様、無理に発話しないでください」


 雨宮が制止する。


「黙って」


「ですが」


「今は、情報の受け渡しが優先よ」


「あなたの精神状態は、会話すら推奨できません」


「推奨されなくても話す」


 私はリョウカを見た。


「No.XXXは……未来に、接続している可能性がある。ただし、まだ、私もそこまで……記録、あるいは……」


 そこまで言って、喉が詰まった。


 息が乱れる。


 視界が揺れる。


 雨宮が肩を支える。


「リゼ様」


「……っ、邪魔、しないで……」


「邪魔ではありません。支持です」


 リョウカが近づいてきた。


 足音がしなかった。


 霜だけが広がる。


 彼女は私の前にしゃがみ込むと、私の頬へ手を伸ばした。


 雨宮が反応する。


 ユニアが静かに視線を向ける。


 ヒュドラは面白そうに見ていた。


 私は避けなかった。


 リョウカの手が、私の頬に触れた。


 冷たい。


 だが、不快ではない。


 熱を奪われるというより、過剰に燃えた精神の表面だけを冷やされる感覚だった。


 リョウカは私の目を覗き込んだ。


 紫色の瞳。


 未来リゼに乗っ取られた時、私の瞳は漆黒の狐目へ変わっていた。だが今は戻っている。完全に戻っているかは分からない。けれど、少なくともリョウカの赤い瞳には、今の私が映っている。


 彼女はしばらく私を見ていた。


 長い沈黙。


 そして、ぽつりと言った。


「綺麗な瞳だね」


 それは評価ではなかった。


 慰めでもない。


 ただ見たものを、そのまま言っただけ。


 だから、余計に刺さった。


「……どうも」


 私は言った。


「それ、何か意味があるの?」


「ない」


「……そう」


「でも、綺麗」


 返答に困った。


 私は他者評価に興味がない。


 好意にも、嫌悪にも、大した価値を置いていない。観測者は嫌悪される側でいい。理解される必要もない。むしろ理解されたがる観測者は、対象との距離を誤る。


 だが、この少女の言葉には、操作がない。


 支配欲もない。


 依存の前兆もない。


 ただ冷たい手で頬に触れ、見たままを言っただけ。


 その無意味さが、少しだけ私を困らせた。


 その時。


 X-13が動いた。


 凍りついていたはずの音響体が、強引に軋み、拡声器の奥から凄まじい音を吐き出す。


 慟哭。


 悲鳴。


 絶叫。


 それは音というより、圧縮された死者の群れだった。


 W1のデスゲームで発生した全ての断末魔が、管の中で押し潰され、同じ方向へ吐き出されている。喉を裂いた声。助けを呼ぶ声。仲間を責める声。死を否認する声。痛みで言語を失った音。それらが、演目継続という一つの命令へ変換されている。


『演目を中止するな』


『続けろ』


『観測を止めるな』


『わたしの価値を奪うな』


 X-13の声が、空間を震わせた。


『W1の設計者たちは、このような演目中止を認めない』


『認められない』


『認めたなら』


『わたしの価値がなくなる』


 私は息を止めた。


 そこに、初めてX-13の自我が見えた。


 演目遂行者。


 W1のデスゲームを苗床にしたX-series上位存在。


 だが、その本質は道具だ。


 設計者たちの意図を遂行し、演目を継続し、参加者の叫びを増幅し、観測者へ届けるための装置。


 彼女は演目を止められない。


 止めれば、自分の価値が消えるから。


 それは哀れだった。


 だが、哀れさは免罪符ではない。


 人類史の加害者は、いつも自分の構造的哀れさを持っている。命令された兵士。教育された密告者。飢えた民衆。思想に酔った革命家。恐怖に従った看守。自分もまたシステムの被害者だったと、後からいくらでも言える。


 だが、被害性は加害を消さない。


 私はその程度のことは知っている。


 リョウカは、X-13を見た。


「あー」


 面倒そうな声。


「かわいそうだね」


 言葉だけなら同情だった。


 だが、その声には深い感情がない。


 ただ、泣いている子供を見て「転んだんだ」と理解する程度の温度。


 X-13の慟哭が増える。


『演目を続けろ』


『続けなければならない』


『叫びは楽曲になる』


『死は幕になる』


『観測は報酬になる』


『わたしは』


『わたしは』


『わたしは――』


 リョウカが、少しだけ首を傾げた。


「じゃあ、もういいかな?」


 穏やかさと、面倒くささが混じる声だった。


 まるで学校の休み時間が終わったかのような。


 チャイムが鳴ったから教室へ戻る。


 それくらいの軽さで、彼女は終わりを告げた。


 リョウカが何かを呟いた。


「……虚数氷界、展開……」


 場が、瞬時に静寂と冷気に包まれた。


 それは通常の冷気ではない。


 温度の低下だけでは説明できない。


 熱運動が止まる。


 光の揺らぎが鈍る。


 音が距離を失う。


 霜が床を覆うのではなく、空間の意味そのものが白く固まっていく。


 虚数氷界。


 観測可能な温度を下げるのではない。


 観測そのものを零へ沈める氷。


 リョウカは、淡々と詠唱した。


「その深淵に眠る静寂よ。

 熱を奪い、光を閉ざし、音を凍てつかせよ。

 位相は停止し、因果は白化し、観測は零へ沈む。

 ΔE=ΣΩ――万象の揺らぎを永久凍土へ封ぜよ。

 この世界の記録から、きみの存在を凍結抹消する――」


 彼女は一拍だけ置いた。


「《氷葬》―アイス・レクイエム―」


 そして、少しだけ表情を変えた。


「なんてね」


 その軽さが、怖かった。


 X-13が絶叫した。


 拡声器が、ひしゃげる。


 セーラー服の少女の形をした身体が、猛烈な吹雪と冷気に引きずられる。音が凍る。悲鳴が凍る。W1の断末魔が凍る。演目を続けろという命令が、言葉になる前に白化していく。


 X-13は抵抗した。


『演目を――』


『続け――』


『わたしの――』


『価値――』


 その瞬間、X-13の身体が凍りながら捩じ切れた。


 氷に引き裂かれたのではない。


 音として成立していた存在が、音を奪われたことで自分の形を保持できなくなったのだ。


 拡声器が砕ける。


 首の機械部が白く凍る。


 血と錆と絶叫の集合体が、無音の中で粉々になっていく。


 最後に残ったのは、凍った悲鳴の欠片だけだった。


 それも、すぐに消えた。


 リョウカは瞬きをした。


「はい、おしまい」


 全員が、黙った。


 ホノカでさえ黙った。


 レイラの喉が小さく鳴る。


 ネヤムは、リョウカを見ていた。


 ソウヤは、もう何も言わない。


 雨宮は、顔を伏せて小さく息を吐いた。


 ヒュドラは笑っている。


 ホセは穏やかに目を細めている。


 リョウカだけが、場の沈黙に何の感慨も抱いていないように、ホセの方を見た。


「もう帰っていい?」


 その言葉は、X-13を凍結抹消した直後の発言としては、あまりにも軽かった。


 ホセは困ったように、しかし丁寧に微笑んだ。


「リョウカさん。もう少しだけ待っていてください」


「まだ?」


「はい。まだ夕華式の本体が残っています。あなたの協力が必要になる可能性があります」


「さっきので終わりじゃないの?」


「終わりに近づきました。ですが、まだ完全ではありません」


「アイス」


「もちろん、約束は守ります」


「三つ」


「二つは確約します。三つ目は、あなたの体温と出力が安定してからです」


「けち」


「健康管理も教育機構の責務です」


 リョウカは不満そうに頬を膨らませた。


 ヒュドラが肩をすくめる。


「相変わらず扱いが上手いわね、ホセ理事長」


「扱っているつもりはありません。お願いしているだけですよ」


「その言い方で人を動かせるのが、あなたの一番怖いところね」


 ホセは答えなかった。


 ただ、静かに夕華式の中枢へ視線を向けた。


 ユニアだけが、静かに動いた。


 彼女は夕華式のメイン部分へ向かって歩く。


 X-13は消えた。


 だが、夕華式はまだ残っている。


 金色に濁ったリール。


 命価遊技の核。


 人間の倫理、欲望、損耗を演目として変換する儀式プログラム。


 夕華式はAIではない。


 人格ではない。


 欲望の自動演算装置。


 人間を壊すための入力環境。


 その根は、まだ空間の奥にある。


 ユニアは、その前で立ち止まった。


 白銀の髪が、冷気の中で静かに揺れる。


 彼女は空中で十字を切った。


 その瞬間、空間が白く裂けた。


 そこから現れたのは、長刀だった。


 恐ろしく長い。


 現実の武器として成立する長さではない。刃というより、秩序そのものを細く研ぎ上げた光。柄は細く、刃は白く、内部に星のようなエネルギーが流れている。


 ユニアがそれを手にした瞬間、私は理解した。


 あれは武器ではない。


 裁定だ。


 ミネルヴァ最強と呼ばれる少女の、武力と知略と統率が、一つの形を取ったもの。


 ユニアは夕華式を見上げた。


 声は静かだった。


「夕闇に咲いてしまった華の根は、今ここで断ち切ります」


 怒りはない。


 だが、許しもない。


 包容力はある。


 だが、曖昧な赦免ではない。


 生徒を守るためなら、彼女は躊躇なく根を斬る。


 その在り方は、私とは違う。


 私は対象を観測し、支配し、同期し、実装する。壊れる瞬間まで観測可能範囲に置きたい。必要なら相手の自由意思さえ設計対象にする。完全には奪わない。相手らしさを残したまま、私なしでは成立しない構造へ最適化する。


 ユニアは違う。


 彼女は秩序のために斬る。


 私が所有するために残すのなら、彼女は未来のために断つ。


 その違いが、ひどく眩しかった。


 ユニアが一歩踏み込む。


 白い長刀が振り下ろされる。


 一閃。


 音はなかった。


 夕華式のメイン部分が、白く裂けた。


 金色の欲望が、内側から断たれる。


 リールの光が消える。


 観客席の仮面が割れる。


 命価コインが灰になる。


 叫びも。


 拍手も。


 欲望も。


 演目も。


 白い断面の向こうへ吸い込まれていく。


 だが、夕華式は完全には沈黙しなかった。


 割れた中枢の奥から、低い哥が漏れた。


《Yūyami ni saku hana wa――》


 声ではない。


 歌でもない。


 欲望そのものが、発声を模倣している。


《根を絶やそうと、またどこかで必ず芽を出す》


 金色の破片が震える。


《お前たちがどれほど力を行使しても》


《欲望には、人は勝てない》


《賭ける者は消えない》


《覗く者は消えない》


《他人の命に値札をつける者は消えない》


《他人の悲鳴で自分の生を確かめる者は消えない》


《夕闇に咲く華は、必ずまた咲く》


 私はその声を聞きながら、否定できなかった。


 人間は欲望に弱い。


 歴史がそれを証明している。戦争も革命も虐殺も粛清も、人体実験も経済崩壊も、いつだって「見たい」「支配したい」「奪いたい」「正しい側にいたい」という欲望から生まれてきた。夕華式は怪物ではない。怪物を作ったのは、人間の側だ。


 けれど。


 ユニアは揺れなかった。


 彼女は白い長刀を構え直し、静かに言った。


「ええ。欲望は消えないでしょう」


 その声は柔らかい。


 だが、透徹していた。


「人は弱く、迷い、奪い、踏み越える。あなたの言う通りです。根を断っても、別の土壌に芽吹くことはあるでしょう」


 ユニアの翡翠色の瞳が、夕華式の中枢を射抜く。


「それでもなお、秩序のために。その時はまた、断ち切ります」


 その宣言は、祈りではなかった。


 決意ですらない。


 運用方針だった。


 誰かが欲望を利用し、誰かを傷つけるなら、何度でも止める。華が咲くなら、何度でも根を切る。その反復を厭わない者だけが、秩序を語る資格を持つ。


 ユニアは、二度目の一閃を放った。


 白い刃が、夕華式の奥底へ届く。


 金色の哥が断たれる。


 今度こそ、リールが完全に停止した。


《夕華式中枢、崩壊》


 ZAGIの声が響いた。


《命価遊技、停止》


《演目制御構造、破損》


《X-13、反応消失》


《夕華式下位演目群、順次閉鎖》


《観測賭場、崩壊進行》


 骨董品AIにしては、今回は必要な報告だった。


 私は小さく息を吐く。


 終わった。


 そう思いかけた。


 だが、ZAGIは続けた。


《ゲームマスター、赤白木ホノカ》


《現行演目の継続可否を確認します》


 全員の視線が、ホノカへ向いた。


 ホノカは黙っていた。


 赤と青の瞳で、崩れゆく夕華式を見ている。さっきまでの高揚はない。笑みも薄い。未来リゼに身体を奪われかけた影響も、まだ完全には消えていないのだろう。指先はわずかに震え、ナイフを握る手には、いつもの軽さが戻りきっていない。


 それでも、彼女はホノカだった。


 笑った。


 小さく。


 少しだけ疲れたように。


「もう、デスゲームは終わりにしよっか」


 その言葉に、レイラが瞬きをした。


 ネヤムが眉を動かす。


 ソウヤが静かに息を吐く。


 雨宮は警戒を解かない。


 私は、ホノカを見た。


「あなたが、それを言うのね」


「あは。変?」


「変ね」


「だよね」


 ホノカは笑った。


 いつもの明るさより少しだけ静かな笑みだった。


「でもさ、もうこういうの、飽きた。叫ばせて、落として、選ばせて、壊して。そういうのはもういいや。私、もっとちゃんとしたのがいい」


《確認します》


 ZAGIが言った。


《デスゲーム形式の継続を終了しますか》


「うん。終了」


《了承》


《では、以後の演目を――》


「ただし」


 ホノカが遮った。


 その瞬間、空気が変わった。


 彼女の瞳が、私を見る。


「リゼとは決着つけたい」


 分かっていた。


 逃げられるはずがない。


 ここまで来て、ホノカと仲良く大団円など、ありえない。私たちはもう、戻れないところまで来ている。彼女は私の恐怖を見た。私は彼女の空白を見た。未来リゼは彼女の身体を奪おうとした。ホノカは未来リゼの顔面へ無数のナイフを突き刺した。


 それで終わりにできる関係ではない。


 むしろ、そこから始まってしまった。


「いいわ」


 私は言った。


「望むところよ」


「リゼ様」


 雨宮の声が低くなる。


「本気ですか」


「ええ」


「今の精神状態で、赤白木ホノカと対峙することは推奨できません」


「推奨されなくてもやる」


「あなたはさっきからそればかりです」


「必要だから」


 ネヤムが口を開く。


「リゼ。今回は違う。未来リゼの影響が残ってる。あなた、今かなり危ない」


「知っている」


「知ってるなら止まりなさい」


「止まれるなら、とっくに止まっているわ」


 レイラが不安そうにこちらを見る。


「リゼ、ホノカとやるの?」


「ええ」


「ホノカ、今ちょっと変だよ。いつも変だけど、もっと変」


「私も似たようなものよ」


「そういう問題じゃないと思う」


「あなたが正しいことを言うと、少しだけ不安になるわね」


「ひどい」


 ソウヤが静かに言った。


「これは決闘ではなく、清算ですね」


「詩的に言えばそうでしょうね」


「あなたは勝ち負けではなく、観測の終点を求めている」


「続けなさい」


「ホノカさんも同じです。彼女はあなたを殺したいのではなく、あなたの中にあるものを最後まで見たい。だから、このゲームは危険です。勝者が生き残るとは限りません」


「珍しく、役に立つ分析ね」


「光栄です」


「褒めてはいない」


 ホノカが笑った。


「ねえ、リゼ」


「何」


「最後のゲーム、ZAGIちゃんに作ってもらおうよ」


《ゲーム設計権限は、現在ゲームマスター赤白木ホノカにあります》


「じゃあ、私たちに相応しい最後のゲームを用意して」


《条件指定をお願いします》


 ホノカは少し考えるように首を傾げた。


 その時だった。


 モニターの向こうで、声がした。


《では》


 御影シオンの声。


 私は反射的に顔を上げた。


 白い空間。


 拘束されたままのシオンが、こちらを見ている。


 泣きそうな顔ではない。


 怯えた顔でもない。


 静かだった。


 けれど、その静けさの奥に、確かな決意があった。


《私が考えたゲームで、決着をつけるのはどうでしょう》


 私も。


 ホノカも。


 同時に黙った。


「シオン?」


 私は思わず名前を呼んだ。


「あなた、何を言っているの」


 ホノカも、目を丸くしていた。


「え、子猫ちゃんが? ゲーム作るの?」


《はい》


 シオンは、はっきりと言った。


《私が、考えます》


 ZAGIが沈黙する。


 数秒。


 演算しているのだろう。


《権限移譲申請》


《ゲームマスター、赤白木ホノカ》


《御影シオンへの最終ゲーム設計権限移譲を承認しますか》


 ホノカはシオンを見た。


 次に私を見る。


 そして、楽しそうに笑った。


「いいよ」


「ホノカ」


「だって面白そうじゃん。リゼがそんな顔するんだもん」


《承認確認》


《最終ゲーム設計権限、赤白木ホノカより御影シオンへ移譲》


《最終演目、準備開始》


 ホセが静かに目を細めた。


 ヒュドラは腕を組んだまま笑っている。


 ユニアはシオンを見て、少しだけ表情を和らげた。


「御影シオンさんが設計するのですね」


《はい》


 ホセが穏やかに言った。


「私は承諾します。ただし、生徒の生命を軽んじる形式は認めません」


 ヒュドラが続ける。


「私も異論はないわ。どうせここまで壊れた盤面なら、最後くらい当事者に作らせる方が収まりがいい」


 ユニアは静かに頷いた。


「ミネルヴァ教育機構生徒会長として、条件付きで承認します。御影さん、あなたの設計が、この場の誰かを一方的に消費するものなら、私が止めます」


《分かっています》


 シオンの声は、揺れなかった。


《これは、誰かを消費するためのゲームではありません》


 リョウカが、ぽつりと呟いた。


「まだなの?」


 ホセが苦笑する。


「もう少しです、リョウカさん」


「ずっともう少しって言ってる」


「本当に、もう少しです」


「アイス四つ」


「増えましたね」


「待ってるから」


「……検討します」


 ヒュドラが楽しそうに笑った。


 場違いなやり取りだった。


 けれど、その場違いさが、かろうじて私たちを現実に繋ぎ止めていた。


 私はシオンを見た。


 彼女が何を考えているのか、完全には分からない。


 私がシオンを保有している。


 私がシオンを観測している。


 私がシオンの崩壊確率を知っている。


 そう思っていた。


 けれど今、シオンは私の外側で、自分の意思で、最後のゲームを作ろうとしている。


 それは不安だった。


 不快でもあった。


 同時に、少しだけ誇らしかった。


 自由意思は残してある。


 完全に奪えば、あなたではなくなるから。


 私がそう言い続けてきた構造の中で、シオンが私の想定を超えて動いている。


 ならば、それは失敗ではない。


 むしろ、私が残した自由意思が機能している証明だ。


 雨宮が再び私の肩に手を置く。


「リゼ様。本当にやるのですか」


「ええ」


「今なら止められます」


「止まらないわ」


「あなたは死ぬかもしれません」


「知っている」


「それでも?」


「ええ」


 私はホノカを見る。


 ホノカも、私を見ていた。


 赤と青の瞳。


 その奥に、いつもの軽さはある。


 狂気もある。


 でも、今は少しだけ寂しそうだった。


 彼女は微笑んだ。


「ばーか」


 軽い声だった。


 けれど、笑いきれていなかった。


「本当に不器用なんだね、リゼ」


「あなたに言われたくないわ」


「あは。そうだね」


 ホノカは少しだけ目を伏せた。


「でもさ、リゼ。たぶん、このゲームであなた死ぬよ」


 私は答えなかった。


 否定できなかったからではない。


 否定する必要がなかったからだ。


 ホノカは続ける。


「私、分かるんだ。こういう時の顔。死ぬかもしれないって知ってるのに、それでも前に出る人の顔。怖がってるくせに、怖がってないふりする人の顔。自分のこと、まだ使える部品だと思ってる人の顔」


「随分とよく見ているのね」


「リゼのことは見るよ」


「気持ち悪い」


「知ってる」


 ホノカは笑った。


 でも、やはり寂しそうだった。


「だから、ちゃんと決着つけよ」


「ええ」


「デスゲームじゃなくて」


「ええ」


「最後のゲームで」


 私は頷いた。


 ここまで来て、もう戻れない。


 ホノカと笑って手を取り合う未来はない。


 シオンを巡る構造も、夕華式の残響も、未来リゼの侵蝕も、ホノカの飢えも、私の支配欲も、全部がここまで積み上がってしまった。


 ならば、最後まで観測する。


 対象が壊れる瞬間まで。


 私が壊れる瞬間まで。


 私は観測をやめない。


《最終演目、設計者:御影シオン》


 ZAGIが告げた。


《参加者:鏡ヶ原リゼ、赤白木ホノカ》


《形式、構築中》


《命価遊技終了》


《デスゲーム構造終了》


《最終ゲーム、起動準備》


 冷気の中で、ユニアの白い刃が静かに消えていく。


 リョウカは退屈そうに足元の霜を見ている。


 ホセは穏やかに盤面を見守っている。


 ヒュドラは支配者の笑みを浮かべている。


 雨宮は私の精神値を見て、まだ青ざめている。


 ネヤム、レイラ、ソウヤは、私を止めるべきか、見届けるべきか迷っている。


 そしてシオンは、モニターの向こうで、静かに私を見ていた。


 私は、その視線を受け止める。


 帰ってきて。


 その声で、私は戻った。


 ならば今度は、私が選ぶ番だ。


 嫌われて構わない。


 理解されなくていい。


 観測者は、嫌悪される側でいい。


 私は、自分の異常性を理解している。


 その上で、なお止まらない。


 シオンを私の観測圏外へ置くつもりはない。


 安心して、シオン。


 あなたが壊れる可能性は、もう計算済みだから。


 そして私は、その可能性を世界ごと書き換える。


 必要なら、倫理を越えてでも。


 自由意思は残してある。


 完全に奪えば、あなたではなくなるから。


 私はその危うさを抱えたまま、白く断たれていく夕華式の残骸と、これから始まる最後のゲームを見据えた。


 終幕は、まだ遠い。


 けれど、デスゲームは終わった。


 ここから先は、私とホノカとシオンのための、最後の観測になる。


 夕華式は断たれた。


 X-13は凍結抹消され、命価遊技は停止し、デスゲームという形式は崩壊した。


 それでも、欲望は消えない。


 夕闇に咲く華は、根を断たれても、別の土壌で芽を出す。人間が他人の悲鳴を見たいと思う限り。他人の命に値段をつけたいと思う限り。自分だけは観客席にいられると信じる限り。


 だから、これは勝利ではない。


 一時停止だ。


 そして私は、そのことを理解している。


 理解した上で、なお進む。


 ホノカはデスゲームを終わらせた。


 シオンは最後のゲームを設計すると言った。


 私はそれを受け入れた。


 雨宮は止めた。


 ネヤムも、レイラも、ソウヤも、本能的に危険を察していた。


 けれど、もう戻れない。


 ホノカと私は、互いに相手の深部を見てしまった。


 あの女は私の恐怖を見た。


 私はあの女の空白を見た。


 そしてシオンは、私の観測圏内で、私の想定を超えて動き始めた。


 ならば、次のゲームは避けられない。


 安心して。


 私はまだ壊れていない。


 壊れる可能性があるだけだ。


 そして、その可能性も含めて、私は観測する。


おめでとう。

そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ