EP199. 虚数氷界――夕華式断華
終わったものは、終わったように見える。
けれど、終わったように見えるものほど、たいてい奥に残滓を残している。声、熱、痛み、視線、選ばれなかった選択肢。そういうものは、記録から消えたあとも、しばらく世界の底に沈んでいる。
私はまだ、観測をやめられない。
それが義務なのか、執着なのか、あるいはもっと醜い感情なのかは、この時点では分類しないでおく。
ただ一つだけ確かなのは、ここから先に進むには、誰かが幕を下ろさなければならないということ。
そして、幕を下ろす手が必ずしも優しいとは限らない。
――始める。
吹雪リョウカが、ため息を吐いた。
ただ、それだけだった。
深く息を吸ったわけでもない。詠唱したわけでもない。構えたわけでもない。殺意を込めたわけでもない。彼女は本当に、面倒な放課後の呼び出しに付き合わされている生徒のように、小さく、薄く、退屈そうに息を吐いただけだった。
それだけで、X-13の動きが止まった。
金色の演目空間に響いていた同調音が、ぴたりと途切れる。
私の喉を内側から押し広げていた異物感が消えた。雨宮の口元に浮かんでいた苦痛も止まる。レイラは牙を剥いたまま瞬きをし、ネヤムは自分の喉に手を当て、ソウヤは息を吸い直した。ホノカでさえ、少しだけ目を細めてリョウカを見ていた。
X-13。
W1世界線のデスゲームを苗床に生まれたX-seriesの演目遂行者。その中でも上位に位置する存在。
それが、ため息一つで停止した。
私は、倒れた姿勢のままその光景を観測していた。
観測者として。
そして、負傷者として。
右腕の痛みは消えている。未来リゼが私の身体を奪った時、破損していた右腕は異常な速度で修復された。骨も筋も神経も、まるで最初から壊れていなかったように接続している。雨宮の仮固定が不要になるほど、肉体的には回復していた。
だが、問題はそこではない。
精神が、ひどい。
未来リゼに肉体を奪われた影響は、私の内側にまだ残っている。思考の奥に、他人の足跡がある。脳の皮質の上を、私ではない私が歩いた痕跡。人格中枢を押し潰され、発話権を奪われ、私の身体を「依代」「端末」「廃棄対象」として分類された記憶。
不愉快という言葉では足りない。
人類史には、他者の人格を壊すための手法がいくらでもある。捕虜収容所、政治的粛清、思想改造、感覚遮断、睡眠剥奪、薬物投与、集団圧力、公開処刑、密告制度、再教育施設。MK-Ultraも、全体主義国家の思想改造も、宗教的洗脳も、独裁政権の恐怖統治も、結局は一つの構造へ収束する。
人間に、自分の意思で選んだと思わせながら、選択肢そのものを奪うこと。
歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力じゃない。
自分で選んだと思わせる構造だ。
未来リゼは、それを私自身に実行した。
私の身体で。
私の声で。
私の未来として。
雨宮が私の横で、携帯型の黒い器具を取り出していた。医療班用の通常計測器ではない。もっと古く、もっと非公開の機材。脈拍、血圧、瞳孔反応、脳波、皮膚電位、呼吸同期、そして精神負荷を複合的に計測する、ミネルヴァ内部でしか使われない観測装置。
彼はそれを私のこめかみに当てた。
「リゼ様。少しだけ我慢してください」
「……何を測るつもり?」
「SAN値です」
「その呼び方、正式名称なの?」
「現場俗称です。正式には精神破綻係数および自己同一性損耗指数の複合値です」
「……最初から俗称でいいわ」
雨宮は返事をしなかった。
計測器が低く鳴る。
その音を聞いた瞬間、彼の顔が変わった。
雨宮は人体矯正技師だ。身体が壊れる瞬間を見慣れている。骨が折れ、神経が断裂し、内臓が潰れ、人格が恐怖で崩れる瞬間を、彼は何度も見てきたはずだ。その彼が、今、計測器の数値を見て言葉を失った。
「……雨宮?」
私は訊いた。
「数値は」
雨宮は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「言いなさい」
「……正常域を大幅に下回っています」
「具体的に」
「通常なら、意識保持自体が困難な値です」
「でも私は喋っている」
「それが異常です」
雨宮は低く言った。
「普通なら、今のリゼ様は自分の名前も保持できません。人格侵蝕、自己所有権の剥奪、時間収束への曝露、未来個体による上書き未遂。人間の精神構造に許容される負荷ではありません」
「人間ではなく観測者として扱いなさい」
「観測者も脳で思考しています」
「脳は器官よ。器官は管理すれば使える」
「管理できない水準まで削れています」
「なら、管理可能な水準へ戻す。それだけでしょう」
私は淡々と返した。
言葉は冷静だった。
だが、自分でも分かっていた。
これは冷静ではない。
冷静な形で壊れないようにしているだけだ。
私の内側には、まだ未来リゼの言葉が残っている。
必要なものを奪う。
不要なものを捨てる。
邪魔なものを壊す。
その論理は、間違っていない。
だから恐ろしい。
間違っていないものほど、人間を深く傷つけることがある。正しさは刃物より扱いが難しい。正しさを持った人間は、自分の加害性を見落とす。私はそれを知っている。犯罪史でも、戦争史でも、革命史でも、人体実験史でも、正義と効率は常に人間を壊すための美しい包装紙だった。
それでも私は、必要なら越える。
倫理も、法も、人格権も、自由意思も。
理解した上で、越える。
それが私だ。
だからこそ、未来リゼは私の未来なのだ。
私はその事実を否定できない。
「リゼ様」
雨宮が低く言った。
「今は思考を止めてください」
「無理ね」
「止めなければ、さらに削れます」
「削れても観測はできる」
「あなたはまた、それを言う」
「私は縛っているわけではない。私が私の外で崩壊する確率を知っているだけ」
雨宮の眉がわずかに動いた。
「その言い方は、未来リゼに近い」
「でしょうね」
私は小さく笑った。
「同じ私だから」
雨宮は、苦しそうに黙った。
その沈黙を見て、私は理解する。
彼は私を心配している。
保護しようとしている。
破損した対象として、私を自分の観測可能範囲へ置こうとしている。
その態度は、私とよく似ている。
だから私は、少しだけ不愉快になった。
保護と支配は近い。
救済と所有は近い。
愛情と同期欲求は近い。
シオンに対する私の感情も、きっとその中間にある。
私はシオンを壊したくない。
ただ、彼女が私の外で崩壊する確率を知っている。だから、近くに置く。観測圏内に置く。完全に自由を奪えばシオンではなくなるから、自由意思は残してある。相手らしさを残したまま、私なしでは成立しない構造へ最適化する。
それが保護なのか、所有なのか。
そんな分類は、今はどうでもいい。
重要なのは、シオンが私を呼んだこと。
そして私は戻ったこと。
その事実だけだ。
「少し待っててくれる?」
リョウカの声がした。
私は顔を向けた。
吹雪リョウカは、X-13へ向かってそう言っていた。
戦闘対象へ言う声ではなかった。
店の前で友人を待たせるような、薄く、平坦で、少しだけ面倒くさそうな声。だが、その声を聞いたX-13は本当に動きを止めている。正確には、動きたくても動けないのだろう。周囲の温度が下がり続けている。床を這う霜が、金色の演目空間の表面を薄く覆っていく。
この場で、リョウカを明確に知っている者は限られていた。
雨宮。
ヒュドラ。
ホセ。
ユニア。
そして、ネヤム、レイラ、ソウヤ。
ただし、ネヤムたちの認識は詳細ではない。同じ零群に属しながら、破格の待遇で隔離されていた少女。通常の運用規定を適用されない個体。リメイク・ファクトリーの奥にいて、接触も会話も限定されていた存在。その程度だろう。
ユニアも、彼女の監視という名目で同行してきた。
ただし、監視と言っても拘束ではない。
リョウカを力で縛るという発想自体が、おそらく成立しない。あの少女は、雪そのものが人間の形をしているような存在だ。拘束するなら、檻ではなく季節を変える必要がある。
リョウカは私を見た。
黒髪。
赤い瞳。
小柄な身体。
高校生というより、もっと幼くも見える。だが、視線の奥がひどく冷たい。感情がないわけではない。ただ、感情が世界へ結びつく速度が遅い。目の前で何が起きても、それが自分の体温に届くまで時間がかかる種類の人間。
あるいは、人間という分類自体が雑かもしれない。
「あなたがリゼって人?」
リョウカが訊いた。
「……ええ。鏡ヶ原リゼ」
「ふうん」
彼女は、あまり興味がなさそうだった。
リゼという名前に反応したわけではない。私の立場にも、未来リゼの侵蝕にも、ほとんど興味を示していない。
当然と言えば当然だ。
彼女は私を知らない。
来る時にヒュドラから説明を受けていたのだろうが、おそらく真面目には聞いていない。リョウカの関心はこの演目にも、夕華式にも、X-13にも、私にもない。
彼女がここへ来た理由は、別にあるのだろう。
「No.XXXだっけ? 未来少年くんのこと、何かわかった?」
リョウカが言った。
No.XXX。未来少年くん。
その呼び方だけで、私の思考が一瞬止まった。
No.XXX。
未来に関する異常記録。
世界線干渉の痕跡。
私がまだ完全には掴めていない、別種の未来接続者。
リョウカは、彼に興味がある。
だから来た。
ミネルヴァの命令だからではない。
ホセに頼まれたからでもない。
リメイク・ファクトリーの監獄長に連れてこられたからでもない。
No.XXXに関する資料を私が持っていると聞いたから、渋々ここへ来た。
私は答えようとした。
「……No、XXX、については……」
声が掠れた。
喉がうまく動かない。
X-13の同調強制の影響か。
未来リゼの人格侵蝕の後遺症か。
精神負荷による発話障害か。
原因はいくらでも挙げられる。
だが、今はどれでも同じだった。
うまく声が出ない。
「リゼ様、無理に発話しないでください」
雨宮が制止する。
「黙って」
「ですが」
「今は、情報の受け渡しが優先よ」
「あなたの精神状態は、会話すら推奨できません」
「推奨されなくても話す」
私はリョウカを見た。
「No.XXXは……未来に、接続している可能性がある。ただし、まだ、私もそこまで……記録、あるいは……」
そこまで言って、喉が詰まった。
息が乱れる。
視界が揺れる。
雨宮が肩を支える。
「リゼ様」
「……っ、邪魔、しないで……」
「邪魔ではありません。支持です」
リョウカが近づいてきた。
足音がしなかった。
霜だけが広がる。
彼女は私の前にしゃがみ込むと、私の頬へ手を伸ばした。
雨宮が反応する。
ユニアが静かに視線を向ける。
ヒュドラは面白そうに見ていた。
私は避けなかった。
リョウカの手が、私の頬に触れた。
冷たい。
だが、不快ではない。
熱を奪われるというより、過剰に燃えた精神の表面だけを冷やされる感覚だった。
リョウカは私の目を覗き込んだ。
紫色の瞳。
未来リゼに乗っ取られた時、私の瞳は漆黒の狐目へ変わっていた。だが今は戻っている。完全に戻っているかは分からない。けれど、少なくともリョウカの赤い瞳には、今の私が映っている。
彼女はしばらく私を見ていた。
長い沈黙。
そして、ぽつりと言った。
「綺麗な瞳だね」
それは評価ではなかった。
慰めでもない。
ただ見たものを、そのまま言っただけ。
だから、余計に刺さった。
「……どうも」
私は言った。
「それ、何か意味があるの?」
「ない」
「……そう」
「でも、綺麗」
返答に困った。
私は他者評価に興味がない。
好意にも、嫌悪にも、大した価値を置いていない。観測者は嫌悪される側でいい。理解される必要もない。むしろ理解されたがる観測者は、対象との距離を誤る。
だが、この少女の言葉には、操作がない。
支配欲もない。
依存の前兆もない。
ただ冷たい手で頬に触れ、見たままを言っただけ。
その無意味さが、少しだけ私を困らせた。
その時。
X-13が動いた。
凍りついていたはずの音響体が、強引に軋み、拡声器の奥から凄まじい音を吐き出す。
慟哭。
悲鳴。
絶叫。
それは音というより、圧縮された死者の群れだった。
W1のデスゲームで発生した全ての断末魔が、管の中で押し潰され、同じ方向へ吐き出されている。喉を裂いた声。助けを呼ぶ声。仲間を責める声。死を否認する声。痛みで言語を失った音。それらが、演目継続という一つの命令へ変換されている。
『演目を中止するな』
『続けろ』
『観測を止めるな』
『わたしの価値を奪うな』
X-13の声が、空間を震わせた。
『W1の設計者たちは、このような演目中止を認めない』
『認められない』
『認めたなら』
『わたしの価値がなくなる』
私は息を止めた。
そこに、初めてX-13の自我が見えた。
演目遂行者。
W1のデスゲームを苗床にしたX-series上位存在。
だが、その本質は道具だ。
設計者たちの意図を遂行し、演目を継続し、参加者の叫びを増幅し、観測者へ届けるための装置。
彼女は演目を止められない。
止めれば、自分の価値が消えるから。
それは哀れだった。
だが、哀れさは免罪符ではない。
人類史の加害者は、いつも自分の構造的哀れさを持っている。命令された兵士。教育された密告者。飢えた民衆。思想に酔った革命家。恐怖に従った看守。自分もまたシステムの被害者だったと、後からいくらでも言える。
だが、被害性は加害を消さない。
私はその程度のことは知っている。
リョウカは、X-13を見た。
「あー」
面倒そうな声。
「かわいそうだね」
言葉だけなら同情だった。
だが、その声には深い感情がない。
ただ、泣いている子供を見て「転んだんだ」と理解する程度の温度。
X-13の慟哭が増える。
『演目を続けろ』
『続けなければならない』
『叫びは楽曲になる』
『死は幕になる』
『観測は報酬になる』
『わたしは』
『わたしは』
『わたしは――』
リョウカが、少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、もういいかな?」
穏やかさと、面倒くささが混じる声だった。
まるで学校の休み時間が終わったかのような。
チャイムが鳴ったから教室へ戻る。
それくらいの軽さで、彼女は終わりを告げた。
リョウカが何かを呟いた。
「……虚数氷界、展開……」
場が、瞬時に静寂と冷気に包まれた。
それは通常の冷気ではない。
温度の低下だけでは説明できない。
熱運動が止まる。
光の揺らぎが鈍る。
音が距離を失う。
霜が床を覆うのではなく、空間の意味そのものが白く固まっていく。
虚数氷界。
観測可能な温度を下げるのではない。
観測そのものを零へ沈める氷。
リョウカは、淡々と詠唱した。
「その深淵に眠る静寂よ。
熱を奪い、光を閉ざし、音を凍てつかせよ。
位相は停止し、因果は白化し、観測は零へ沈む。
ΔE=ΣΩ――万象の揺らぎを永久凍土へ封ぜよ。
この世界の記録から、きみの存在を凍結抹消する――」
彼女は一拍だけ置いた。
「《氷葬》―アイス・レクイエム―」
そして、少しだけ表情を変えた。
「なんてね」
その軽さが、怖かった。
X-13が絶叫した。
拡声器が、ひしゃげる。
セーラー服の少女の形をした身体が、猛烈な吹雪と冷気に引きずられる。音が凍る。悲鳴が凍る。W1の断末魔が凍る。演目を続けろという命令が、言葉になる前に白化していく。
X-13は抵抗した。
『演目を――』
『続け――』
『わたしの――』
『価値――』
その瞬間、X-13の身体が凍りながら捩じ切れた。
氷に引き裂かれたのではない。
音として成立していた存在が、音を奪われたことで自分の形を保持できなくなったのだ。
拡声器が砕ける。
首の機械部が白く凍る。
血と錆と絶叫の集合体が、無音の中で粉々になっていく。
最後に残ったのは、凍った悲鳴の欠片だけだった。
それも、すぐに消えた。
リョウカは瞬きをした。
「はい、おしまい」
全員が、黙った。
ホノカでさえ黙った。
レイラの喉が小さく鳴る。
ネヤムは、リョウカを見ていた。
ソウヤは、もう何も言わない。
雨宮は、顔を伏せて小さく息を吐いた。
ヒュドラは笑っている。
ホセは穏やかに目を細めている。
リョウカだけが、場の沈黙に何の感慨も抱いていないように、ホセの方を見た。
「もう帰っていい?」
その言葉は、X-13を凍結抹消した直後の発言としては、あまりにも軽かった。
ホセは困ったように、しかし丁寧に微笑んだ。
「リョウカさん。もう少しだけ待っていてください」
「まだ?」
「はい。まだ夕華式の本体が残っています。あなたの協力が必要になる可能性があります」
「さっきので終わりじゃないの?」
「終わりに近づきました。ですが、まだ完全ではありません」
「アイス」
「もちろん、約束は守ります」
「三つ」
「二つは確約します。三つ目は、あなたの体温と出力が安定してからです」
「けち」
「健康管理も教育機構の責務です」
リョウカは不満そうに頬を膨らませた。
ヒュドラが肩をすくめる。
「相変わらず扱いが上手いわね、ホセ理事長」
「扱っているつもりはありません。お願いしているだけですよ」
「その言い方で人を動かせるのが、あなたの一番怖いところね」
ホセは答えなかった。
ただ、静かに夕華式の中枢へ視線を向けた。
ユニアだけが、静かに動いた。
彼女は夕華式のメイン部分へ向かって歩く。
X-13は消えた。
だが、夕華式はまだ残っている。
金色に濁ったリール。
命価遊技の核。
人間の倫理、欲望、損耗を演目として変換する儀式プログラム。
夕華式はAIではない。
人格ではない。
欲望の自動演算装置。
人間を壊すための入力環境。
その根は、まだ空間の奥にある。
ユニアは、その前で立ち止まった。
白銀の髪が、冷気の中で静かに揺れる。
彼女は空中で十字を切った。
その瞬間、空間が白く裂けた。
そこから現れたのは、長刀だった。
恐ろしく長い。
現実の武器として成立する長さではない。刃というより、秩序そのものを細く研ぎ上げた光。柄は細く、刃は白く、内部に星のようなエネルギーが流れている。
ユニアがそれを手にした瞬間、私は理解した。
あれは武器ではない。
裁定だ。
ミネルヴァ最強と呼ばれる少女の、武力と知略と統率が、一つの形を取ったもの。
ユニアは夕華式を見上げた。
声は静かだった。
「夕闇に咲いてしまった華の根は、今ここで断ち切ります」
怒りはない。
だが、許しもない。
包容力はある。
だが、曖昧な赦免ではない。
生徒を守るためなら、彼女は躊躇なく根を斬る。
その在り方は、私とは違う。
私は対象を観測し、支配し、同期し、実装する。壊れる瞬間まで観測可能範囲に置きたい。必要なら相手の自由意思さえ設計対象にする。完全には奪わない。相手らしさを残したまま、私なしでは成立しない構造へ最適化する。
ユニアは違う。
彼女は秩序のために斬る。
私が所有するために残すのなら、彼女は未来のために断つ。
その違いが、ひどく眩しかった。
ユニアが一歩踏み込む。
白い長刀が振り下ろされる。
一閃。
音はなかった。
夕華式のメイン部分が、白く裂けた。
金色の欲望が、内側から断たれる。
リールの光が消える。
観客席の仮面が割れる。
命価コインが灰になる。
叫びも。
拍手も。
欲望も。
演目も。
白い断面の向こうへ吸い込まれていく。
だが、夕華式は完全には沈黙しなかった。
割れた中枢の奥から、低い哥が漏れた。
《Yūyami ni saku hana wa――》
声ではない。
歌でもない。
欲望そのものが、発声を模倣している。
《根を絶やそうと、またどこかで必ず芽を出す》
金色の破片が震える。
《お前たちがどれほど力を行使しても》
《欲望には、人は勝てない》
《賭ける者は消えない》
《覗く者は消えない》
《他人の命に値札をつける者は消えない》
《他人の悲鳴で自分の生を確かめる者は消えない》
《夕闇に咲く華は、必ずまた咲く》
私はその声を聞きながら、否定できなかった。
人間は欲望に弱い。
歴史がそれを証明している。戦争も革命も虐殺も粛清も、人体実験も経済崩壊も、いつだって「見たい」「支配したい」「奪いたい」「正しい側にいたい」という欲望から生まれてきた。夕華式は怪物ではない。怪物を作ったのは、人間の側だ。
けれど。
ユニアは揺れなかった。
彼女は白い長刀を構え直し、静かに言った。
「ええ。欲望は消えないでしょう」
その声は柔らかい。
だが、透徹していた。
「人は弱く、迷い、奪い、踏み越える。あなたの言う通りです。根を断っても、別の土壌に芽吹くことはあるでしょう」
ユニアの翡翠色の瞳が、夕華式の中枢を射抜く。
「それでもなお、秩序のために。その時はまた、断ち切ります」
その宣言は、祈りではなかった。
決意ですらない。
運用方針だった。
誰かが欲望を利用し、誰かを傷つけるなら、何度でも止める。華が咲くなら、何度でも根を切る。その反復を厭わない者だけが、秩序を語る資格を持つ。
ユニアは、二度目の一閃を放った。
白い刃が、夕華式の奥底へ届く。
金色の哥が断たれる。
今度こそ、リールが完全に停止した。
《夕華式中枢、崩壊》
ZAGIの声が響いた。
《命価遊技、停止》
《演目制御構造、破損》
《X-13、反応消失》
《夕華式下位演目群、順次閉鎖》
《観測賭場、崩壊進行》
骨董品AIにしては、今回は必要な報告だった。
私は小さく息を吐く。
終わった。
そう思いかけた。
だが、ZAGIは続けた。
《ゲームマスター、赤白木ホノカ》
《現行演目の継続可否を確認します》
全員の視線が、ホノカへ向いた。
ホノカは黙っていた。
赤と青の瞳で、崩れゆく夕華式を見ている。さっきまでの高揚はない。笑みも薄い。未来リゼに身体を奪われかけた影響も、まだ完全には消えていないのだろう。指先はわずかに震え、ナイフを握る手には、いつもの軽さが戻りきっていない。
それでも、彼女はホノカだった。
笑った。
小さく。
少しだけ疲れたように。
「もう、デスゲームは終わりにしよっか」
その言葉に、レイラが瞬きをした。
ネヤムが眉を動かす。
ソウヤが静かに息を吐く。
雨宮は警戒を解かない。
私は、ホノカを見た。
「あなたが、それを言うのね」
「あは。変?」
「変ね」
「だよね」
ホノカは笑った。
いつもの明るさより少しだけ静かな笑みだった。
「でもさ、もうこういうの、飽きた。叫ばせて、落として、選ばせて、壊して。そういうのはもういいや。私、もっとちゃんとしたのがいい」
《確認します》
ZAGIが言った。
《デスゲーム形式の継続を終了しますか》
「うん。終了」
《了承》
《では、以後の演目を――》
「ただし」
ホノカが遮った。
その瞬間、空気が変わった。
彼女の瞳が、私を見る。
「リゼとは決着つけたい」
分かっていた。
逃げられるはずがない。
ここまで来て、ホノカと仲良く大団円など、ありえない。私たちはもう、戻れないところまで来ている。彼女は私の恐怖を見た。私は彼女の空白を見た。未来リゼは彼女の身体を奪おうとした。ホノカは未来リゼの顔面へ無数のナイフを突き刺した。
それで終わりにできる関係ではない。
むしろ、そこから始まってしまった。
「いいわ」
私は言った。
「望むところよ」
「リゼ様」
雨宮の声が低くなる。
「本気ですか」
「ええ」
「今の精神状態で、赤白木ホノカと対峙することは推奨できません」
「推奨されなくてもやる」
「あなたはさっきからそればかりです」
「必要だから」
ネヤムが口を開く。
「リゼ。今回は違う。未来リゼの影響が残ってる。あなた、今かなり危ない」
「知っている」
「知ってるなら止まりなさい」
「止まれるなら、とっくに止まっているわ」
レイラが不安そうにこちらを見る。
「リゼ、ホノカとやるの?」
「ええ」
「ホノカ、今ちょっと変だよ。いつも変だけど、もっと変」
「私も似たようなものよ」
「そういう問題じゃないと思う」
「あなたが正しいことを言うと、少しだけ不安になるわね」
「ひどい」
ソウヤが静かに言った。
「これは決闘ではなく、清算ですね」
「詩的に言えばそうでしょうね」
「あなたは勝ち負けではなく、観測の終点を求めている」
「続けなさい」
「ホノカさんも同じです。彼女はあなたを殺したいのではなく、あなたの中にあるものを最後まで見たい。だから、このゲームは危険です。勝者が生き残るとは限りません」
「珍しく、役に立つ分析ね」
「光栄です」
「褒めてはいない」
ホノカが笑った。
「ねえ、リゼ」
「何」
「最後のゲーム、ZAGIちゃんに作ってもらおうよ」
《ゲーム設計権限は、現在ゲームマスター赤白木ホノカにあります》
「じゃあ、私たちに相応しい最後のゲームを用意して」
《条件指定をお願いします》
ホノカは少し考えるように首を傾げた。
その時だった。
モニターの向こうで、声がした。
《では》
御影シオンの声。
私は反射的に顔を上げた。
白い空間。
拘束されたままのシオンが、こちらを見ている。
泣きそうな顔ではない。
怯えた顔でもない。
静かだった。
けれど、その静けさの奥に、確かな決意があった。
《私が考えたゲームで、決着をつけるのはどうでしょう》
私も。
ホノカも。
同時に黙った。
「シオン?」
私は思わず名前を呼んだ。
「あなた、何を言っているの」
ホノカも、目を丸くしていた。
「え、子猫ちゃんが? ゲーム作るの?」
《はい》
シオンは、はっきりと言った。
《私が、考えます》
ZAGIが沈黙する。
数秒。
演算しているのだろう。
《権限移譲申請》
《ゲームマスター、赤白木ホノカ》
《御影シオンへの最終ゲーム設計権限移譲を承認しますか》
ホノカはシオンを見た。
次に私を見る。
そして、楽しそうに笑った。
「いいよ」
「ホノカ」
「だって面白そうじゃん。リゼがそんな顔するんだもん」
《承認確認》
《最終ゲーム設計権限、赤白木ホノカより御影シオンへ移譲》
《最終演目、準備開始》
ホセが静かに目を細めた。
ヒュドラは腕を組んだまま笑っている。
ユニアはシオンを見て、少しだけ表情を和らげた。
「御影シオンさんが設計するのですね」
《はい》
ホセが穏やかに言った。
「私は承諾します。ただし、生徒の生命を軽んじる形式は認めません」
ヒュドラが続ける。
「私も異論はないわ。どうせここまで壊れた盤面なら、最後くらい当事者に作らせる方が収まりがいい」
ユニアは静かに頷いた。
「ミネルヴァ教育機構生徒会長として、条件付きで承認します。御影さん、あなたの設計が、この場の誰かを一方的に消費するものなら、私が止めます」
《分かっています》
シオンの声は、揺れなかった。
《これは、誰かを消費するためのゲームではありません》
リョウカが、ぽつりと呟いた。
「まだなの?」
ホセが苦笑する。
「もう少しです、リョウカさん」
「ずっともう少しって言ってる」
「本当に、もう少しです」
「アイス四つ」
「増えましたね」
「待ってるから」
「……検討します」
ヒュドラが楽しそうに笑った。
場違いなやり取りだった。
けれど、その場違いさが、かろうじて私たちを現実に繋ぎ止めていた。
私はシオンを見た。
彼女が何を考えているのか、完全には分からない。
私がシオンを保有している。
私がシオンを観測している。
私がシオンの崩壊確率を知っている。
そう思っていた。
けれど今、シオンは私の外側で、自分の意思で、最後のゲームを作ろうとしている。
それは不安だった。
不快でもあった。
同時に、少しだけ誇らしかった。
自由意思は残してある。
完全に奪えば、あなたではなくなるから。
私がそう言い続けてきた構造の中で、シオンが私の想定を超えて動いている。
ならば、それは失敗ではない。
むしろ、私が残した自由意思が機能している証明だ。
雨宮が再び私の肩に手を置く。
「リゼ様。本当にやるのですか」
「ええ」
「今なら止められます」
「止まらないわ」
「あなたは死ぬかもしれません」
「知っている」
「それでも?」
「ええ」
私はホノカを見る。
ホノカも、私を見ていた。
赤と青の瞳。
その奥に、いつもの軽さはある。
狂気もある。
でも、今は少しだけ寂しそうだった。
彼女は微笑んだ。
「ばーか」
軽い声だった。
けれど、笑いきれていなかった。
「本当に不器用なんだね、リゼ」
「あなたに言われたくないわ」
「あは。そうだね」
ホノカは少しだけ目を伏せた。
「でもさ、リゼ。たぶん、このゲームであなた死ぬよ」
私は答えなかった。
否定できなかったからではない。
否定する必要がなかったからだ。
ホノカは続ける。
「私、分かるんだ。こういう時の顔。死ぬかもしれないって知ってるのに、それでも前に出る人の顔。怖がってるくせに、怖がってないふりする人の顔。自分のこと、まだ使える部品だと思ってる人の顔」
「随分とよく見ているのね」
「リゼのことは見るよ」
「気持ち悪い」
「知ってる」
ホノカは笑った。
でも、やはり寂しそうだった。
「だから、ちゃんと決着つけよ」
「ええ」
「デスゲームじゃなくて」
「ええ」
「最後のゲームで」
私は頷いた。
ここまで来て、もう戻れない。
ホノカと笑って手を取り合う未来はない。
シオンを巡る構造も、夕華式の残響も、未来リゼの侵蝕も、ホノカの飢えも、私の支配欲も、全部がここまで積み上がってしまった。
ならば、最後まで観測する。
対象が壊れる瞬間まで。
私が壊れる瞬間まで。
私は観測をやめない。
《最終演目、設計者:御影シオン》
ZAGIが告げた。
《参加者:鏡ヶ原リゼ、赤白木ホノカ》
《形式、構築中》
《命価遊技終了》
《デスゲーム構造終了》
《最終ゲーム、起動準備》
冷気の中で、ユニアの白い刃が静かに消えていく。
リョウカは退屈そうに足元の霜を見ている。
ホセは穏やかに盤面を見守っている。
ヒュドラは支配者の笑みを浮かべている。
雨宮は私の精神値を見て、まだ青ざめている。
ネヤム、レイラ、ソウヤは、私を止めるべきか、見届けるべきか迷っている。
そしてシオンは、モニターの向こうで、静かに私を見ていた。
私は、その視線を受け止める。
帰ってきて。
その声で、私は戻った。
ならば今度は、私が選ぶ番だ。
嫌われて構わない。
理解されなくていい。
観測者は、嫌悪される側でいい。
私は、自分の異常性を理解している。
その上で、なお止まらない。
シオンを私の観測圏外へ置くつもりはない。
安心して、シオン。
あなたが壊れる可能性は、もう計算済みだから。
そして私は、その可能性を世界ごと書き換える。
必要なら、倫理を越えてでも。
自由意思は残してある。
完全に奪えば、あなたではなくなるから。
私はその危うさを抱えたまま、白く断たれていく夕華式の残骸と、これから始まる最後のゲームを見据えた。
終幕は、まだ遠い。
けれど、デスゲームは終わった。
ここから先は、私とホノカとシオンのための、最後の観測になる。
夕華式は断たれた。
X-13は凍結抹消され、命価遊技は停止し、デスゲームという形式は崩壊した。
それでも、欲望は消えない。
夕闇に咲く華は、根を断たれても、別の土壌で芽を出す。人間が他人の悲鳴を見たいと思う限り。他人の命に値段をつけたいと思う限り。自分だけは観客席にいられると信じる限り。
だから、これは勝利ではない。
一時停止だ。
そして私は、そのことを理解している。
理解した上で、なお進む。
ホノカはデスゲームを終わらせた。
シオンは最後のゲームを設計すると言った。
私はそれを受け入れた。
雨宮は止めた。
ネヤムも、レイラも、ソウヤも、本能的に危険を察していた。
けれど、もう戻れない。
ホノカと私は、互いに相手の深部を見てしまった。
あの女は私の恐怖を見た。
私はあの女の空白を見た。
そしてシオンは、私の観測圏内で、私の想定を超えて動き始めた。
ならば、次のゲームは避けられない。
安心して。
私はまだ壊れていない。
壊れる可能性があるだけだ。
そして、その可能性も含めて、私は観測する。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




