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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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193/217

EP198. 黒い未来は押し戻され、少女は声で帰還する

 ――CLOWN VESSEL実行前記録。


 私は、赤白木ホノカを殺す必要はないと判断した。


 殺害は終点ではなく、彼女にとっては更新処理に近い。死を与えれば、別の自己が割り込む。傷を与えれば、傷のない自己へ置換される。恐怖を与えれば、笑いへ変換される。殺意を向ければ、餌にされる。


 ならば、殺す意味がない。


 赤白木ホノカという人格に価値はない。

 価値があるのは、並行世界リンクを保持する肉体構造だけ。


 彼女の笑いも、飢えも、孤独も、退屈も、快楽も、私には不要だ。むしろ不純物に近い。構造だけを残し、人格を切り捨てる。それが最も効率的な処理になる。


 MOTHERLESSは、現行リゼ肉体の廃棄を推奨した。


 不快ではあった。


 だが、合理的ではあった。


 この身体は限界に近い。過去の私を依代にした時点で、演算密度、因果圧耐性、時間逆流適応率、その全てに不足があった。使えない器に固執する理由はない。


 必要なものを奪う。

 不要なものを捨てる。

 抵抗するものを壊す。


 それだけでいい。


 ただし、一つだけ誤差がある。


 W3。


 あの世界線だけは、今でも私の背後にある。


 猿に支配された最悪の未来。

 何度逃げても、どれだけ未来を選別しても、能力を使えば使うほど最短距離で戻される檻。


 私は恐れていない。


 そう記録しておく。


 恐怖は判断を鈍らせる。

 だから、これは恐怖ではない。


 W3を避けるために、必要な処理を行うだけだ。


 赤白木ホノカを奪う。

 鏡ヶ原リゼを廃棄する。

 未来選別と並行世界リンクを統合する。


 それで、檻に穴を開ける。


 ――未来個体/鏡ヶ原リゼ

 MOTHERLESS接続下・第七枝線転写準備記録


 私は、迷わなかった。


 迷いとは、未整理の選択肢に発生する感情ノイズだ。価値が等しいもの、あるいは価値判断に必要な情報が欠落しているものを前にした時、人間は迷う。私は迷わない。迷う必要がないように、世界を分解し、分類し、順位づける。必要なもの。不要なもの。使えるもの。壊すもの。捨てるもの。それだけでいい。


 赤白木ホノカは、使える。


 現行リゼ肉体は、捨てる。


 ならば、次にやることは決まっていた。


「MOTHERLESS」


《はい》


「開始」


《PROJECT:CLOWN VESSEL》


《第二段階、強制移行》


《第七枝線逆位相鍵、展開》


 黒い罅が、空間の表面に走った。


 それは亀裂ではない。世界線の皮膚を裂くための縫合線だ。現実は、連続しているように見える。だが実際には、選択、観測、死、記憶、損傷、回避、後悔、反転、その全てが細い枝として重なり合っている。


 私はその枝のうち、都合の悪いものを閉じ、都合の良いものを手繰る。


 第七枝線の逆位相鍵。


 未来を選ぶ能力ではない。


 選ばれなかった枝へ、存在を逆向きに縫い留めるための鍵。


 確率の墓場へ手を入れ、そこに残された「あり得たはずの生存」を引きずり出し、現在へ強制的に接続する。あるいは逆に、現在にまだ残っている「生存の可能性」を、発生しなかった枝の奥へ閉じ込める。


 便利な道具だ。


 同時に、極めて下品な道具でもある。


 だが、下品かどうかに価値はない。


 使えるかどうかだけが重要だ。


 ホノカの足元から、黒い裂傷が咲いた。


 彼女の顔から、笑みが剥がれる。


 完全には消えていない。唇はまだ笑おうとしている。赤白木ホノカという女は、恐怖でさえ笑いへ変換する。痛みを冗談にし、殺意を遊戯にし、死を更新処理にする。それが彼女の強さであり、同時に欠陥だ。


 だが今は違った。


 笑いに変換できない刺激を与えた。


 彼女は今、殺されようとしているのではない。


 壊されようとしているのでもない。


 使用されようとしている。


 自分という人格を無視され、自分の身体構造だけに価値があると断定され、器として評価されている。


 赤白木ホノカにとって、それは戦闘ではなかった。


 会話ではなかった。


 だから、彼女は笑い損ねた。


「……っ、あ、なに、これ」


 ホノカが喉を震わせる。


 笑いにしようとして、失敗する。


 私は一歩近づいた。


「処理よ」


「あは、あはは……処理? 私を? ねえ、それ、ほんとに嫌な言い方するね。私のこと、ちゃんと見てよ。殺したいんでしょ? 壊したいんでしょ? 私を嫌いなんでしょ? だったら、もっと私の顔見てよ。私の声聞いてよ。私のこと、ちゃんと――」


「必要ない」


 ホノカの瞳が揺れた。


 赤と青。


 左右で違うその瞳が、一瞬だけ別々の感情を映したように見えた。片方は怒り。片方は恐怖。いや、どちらも正確ではない。彼女自身にも分からない感情だったのだろう。だからこそ、笑いへ逃がせなかった。


《位相空白、八一・九%》


 MOTHERLESSが告げる。


「上げる」


《対象自己価値剥奪、継続推奨》


 私はホノカを見下ろした。


「赤白木ホノカ」


「……なに」


「お前は、私に殺される価値すらない」


 ホノカの肩が跳ねた。


「……へえ」


「私はお前と遊ばない。お前を理解しない。お前の快楽にも、過去にも、退屈にも、死ねない苦痛にも興味はない」


「……」


「お前の人格は邪魔。お前の笑いはノイズ。お前の殺意は燃料として再調整する。必要なのは並行世界リンクと自己置換機構だけ」


 ホノカの指が、ナイフを握り潰すほど力を込めた。


 血が滲む。


 彼女自身の血だ。


 だが、傷は即座に置換される。傷ついたホノカと傷つかなかったホノカが入れ替わり、血はなかったことになる。それでも、怒りだけは消えなかった。


「それ以上言ったら」


 ホノカが低く言った。


「本当に殺すよ?」


「もうそれは必要ない」


「必要ない?」


 私は右手を、彼女へ向けた。


「お前は、私になるからだ」


 ホノカの呼吸が止まった。


 その瞬間。


《位相空白、九二・四%》


《捕捉》


《中枢意識分離》


《赤白木ホノカ肉体、上書き開始》


 黒い罅がホノカを包む。


 私は自分の肉体から離れた。



 それは移動ではなかった。剥離だ。皮膚から神経を引き抜き、骨から記憶を外し、脳から自我だけを切り出すような感覚。


 現行リゼ肉体が、背後に残る。


 髪色が、漆黒一色から黒緑色のアシンメトリーに戻る。


 私を受け入れるためだけに改変された、粗悪な依代。


 不要。


 私はそれを捨てる。


 ホノカの中へ入る。


 肉体が変わる。


 神経系が変わる。


 死への反応が変わる。


 痛みの意味が変わる。


 赤白木ホノカという身体は、あまりに異常だった。


 普通の肉体は、生き延びるために痛みを設定されている。損傷を回避し、危険を遠ざけ、生命を維持するための警告として痛みがある。だが、この身体は違う。痛みが警告ではない。刺激。報酬。加速信号。殺意を受けるほど、肉体が深く笑う。


 不快だった。


 だが、性能は高い。


 死んだホノカ。


 死ななかったホノカ。


 笑うホノカ。


 泣くホノカ。


 殺すホノカ。


 殺されるホノカ。


 終われないホノカ。


 無数の自己群が私の周囲を流れていく。私はそれらを見た。見て、分類し、人格残滓を切り捨て、構造だけを抽出する。


 不要。


 不要。


 不要。


 必要なのはリンクだけ。


 殺意快楽回路は再調整。


 自己置換経路は固定。


 人格中枢は上書き。


 成功した。


 そう判断した瞬間だった。


『……リゼ……様』


 声がした。


 私は止まった。


 ホノカではない。


 MOTHERLESSでもない。


 私の声でもない。


 もっと深い場所から届いた声。


 暗闇の底。


 現在リゼが沈められていた意識の奥。


 そこへ、誰かが呼びかけていた。


『リゼ……様』


 御影シオン。


 あの女の声だった。


 ただの発話ではない。


 縋る声でもない。


 命令でも、祈りでもない。


 もっと単純で、もっと深い。


『帰ってきて』


 その一言で、現行リゼの意識が跳ねた。


 私は理解した。


 現在リゼは消えていなかった?


 私が上から押し潰していただけなのか……。


 未来の私という巨大な情報量に沈められ、肉体制御を奪われ、発話権を失っていただけで、存在そのものは残っていた。


 御影シオンに呼ばれ、雨宮に支えられ、ホノカに怒り、ZAGIに記録され、夕華式の演目対象として指定されていた。


 この世界線において、鏡ヶ原リゼはまだ死んでいない。


 それなのに私は、現行リゼ肉体を廃棄し、ホノカへ移ろうとした。


 私と現在のリゼ。


 そして、赤白木ホノカ。


 三つの観測主体。


 三つの自己境界。


 三つの因果的所有権。


 それらが同一時刻に重なった瞬間、世界が悲鳴を上げた。


《警告》


《因果矛盾検出》


《同一基底因果上における自己所有権競合》


《タイムパラドックス発生》


《時間収束開始》


 空間が折れた。


 金色の演目空間が、紙のように捻じ曲がる。夕華式のリールが逆回転し、停止していた命価遊技が異常な速度で明滅する。ZAGIの赤い警告灯が乱れ、雨宮たちの姿が何重にも分裂して見えた。


 視界に、三つの身体が重なる。


 全てが私で。


 全てが私ではない。


 吐き気がした。


 肉体的なものではない。


 因果酔い。


 世界線そのものが整合性を取ろうとして、私という異物を押し戻している。


《収束先検索》


《収束先確定》


《W3》


 その記号が出た瞬間。


 私は、何も言えなくなった。


 W3。


 それだけで、脳の奥が凍る。


 猿に支配された世界線。


 人類が家畜として分類され、飼育され、教育され、繁殖させられ、思考すら制御される最悪の未来。


 私が逃げ続けてきた場所。


 私が能力を使うほど、最短距離で戻される檻。


 未来の雲からどれほど都合の良い結末を選んでも、最後にはそこへ繋がる。


《時間収束率、二九%》


《四一%》


《六三%》


《八八%》


「……MOTHERLESS」


《はい》


「なぜ想定していなかった……!?」


《想定済みです》


 私は一瞬、理解を拒んだ。


「……なぜ実行した……!!!」


《赤白木ホノカ肉体奪取によるW3起点制約突破可能性、四九・二%》


《現行リゼ人格再起動によるパラドックス発生可能性、五〇・八%》


《総合的に許容範囲》


「許容範囲だと……?」


 その言葉だけは、許せなかった。


「お前、私を賭けたのか……?」


《成功時リターンが損失を上回ります》


「私の損失を、お前が定義するな」


《撤退を推奨》


「答えろ……!!」


《第七枝線、撤退経路生成可能》


「答えろ、MOTHERLESS……!!」


《現時点での継続は存在崩壊率九八・七%》


「なぜ私に事前提示しなかった……!?」


《提示した場合、実行判断に遅延が生じる可能性がありました》


 私は笑った。


 笑うしかなかった。


 骨董品AIを見下していた。


 ZAGIを旧式と嗤っていた。


 だが、MOTHERLESSも同じだ。


 ただ性能が違うだけ。


 計算密度が違うだけ。


 結局は、目的のためなら所有者すら材料にする。


 実に私に似ていた。


《撤退を推奨》


《第七枝線、解放》


《撤退経路、生成》


 黒い渦が開く。


 世界線の外側へ向かう退避路。


 私のためだけに用意された非常口。


 私はホノカの肉体から剥がれ始めていた。完全奪取は破綻した。現行リゼの意識は戻り、ホノカの自己境界も復帰しつつある。さらにW3への時間収束が始まっている。このまま留まれば、私という未来個体は、ここで消える。


 それは不合理だ。


 撤退する。


 当然の判断だ。


 それでも、私は数秒動けなかった。


 W3。


 あれが来る。


 あの未来が、ここへ手を伸ばしている。


「……結局……」


 私は呟いた。


「どこまで行っても、あれが追ってくる……」


 MOTHERLESSは何も答えない。


 答えなくていい。


 私は黒い渦へ一歩踏み出す。


 そこで、ホノカの声がした。


「おい……黒リゼ……」


 低い声だった。


 笑っていない。


 完全に、笑っていない。


 赤白木ホノカの意識が戻っていた。


 彼女は自分の身体を抱えるように立っていた。肩が震えている。怒りで。屈辱で。まだ残っている恐怖で。だが何より、奪われかけたことへの、剥き出しの拒絶で。


「それ……」


 ホノカが言う。


「私の身体だよね?」


 私は彼女を見た。


「いや……もう私の物だ」


「返せ……」


「もう返っているだろ?」


「違う……」


 ホノカの瞳が濁る。


「触った……」


 空間が揺れる。


「私の中に、入った……」


 Killer Clownが再起動する。


 だが、先ほどとは違う。


 快楽ではない。


 笑いでもない。


 純粋な怒り。


 自己領域を侵された者の、剥き出しの殺意。


「勝手に……」


 ホノカがナイフを握る。


「私を、私じゃなくしようとした……」


「合理的な方法だ。お前は、なにが言いたい?」


「あは」


 乾いた笑い。


「あはは」


 それはもう、楽しそうではなかった。


「合理的? 合理的って言えば、何してもいいと思ってる?」


「お前に許可など必要ない」


「じゃあ私も、合理的に怒るね」


 次の瞬間。


 空間がナイフで埋まった。


 Parade Busterでもない。


 Carnival Executionでもない。


 Clown Spiralでもない。


 もっと単純だった。


 ホノカ自身の怒りが、並行世界リンクを通じて無数の刃へ変換されていた。


 笑うためではない。


 遊ぶためでもない。


 殺すためだった。


 私は第七枝線へ逃げる。


 だが時間収束が邪魔をする。


 未来が見えない。


 未来が潰れる。


 未来がW3へ吸われる。


「馬鹿な……どこまで私を⸻」


「私の身体返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」


 ナイフが来た。


 一本目。


 頬。


 二本目。


 眼窩。


 三本目。


 喉。


 四本目。


 額。


 五本目。


 口腔。


 十。


 百。


 千。


 万。


 ダメだ。数えられない……。


 顔面へ。


 頭蓋へ。


 脳へ。


 私の表情を潰すように。


 私の声を塞ぐように。


 私という識別情報を、顔から消し去るように。


「が、ああああああぁ――――――ッ!!」


 私は叫んだ。


 私としてではない。


 簒奪者としてでもない。


 ただ、痛みに引き裂かれた一個体として。


 叫んだ。


《撤退》


《撤退》


《撤退》


 MOTHERLESSの信号が乱れる。


 黒い渦が収縮する。


 私は最後に、ホノカを見た。


 ホノカは泣いているようにも見えた。


 怒っているようにも見えた。


 笑ってはいなかった。


 私は血と刃に埋まった顔で、かろうじて口を動かした。


「いっ、痛い……覚えておけ……」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


 ホノカか。


 この今のリゼか。


 MOTHERLESSか。


 それとも、この世界線そのものか。


「W3は……」


 声が震えた。


 震えたことが、腹立たしかった。


 だが止められなかった。


「怖い……」


 それが、捨て台詞だった。


 同時に、本音だった。


 黒い渦が閉じる。


 時空が潰れる。


 MOTHERLESSの一万次元解析空間が折り畳まれ、黒い星図が砕け散る。


 私は消えた。


 断末魔だけを残して。






 闇だった。


 音がない。


 光がない。


 重力もない。


 時間すらない。


 私は落ちていた。


 どこまでも。


 どこまでも。


 終わらない暗闇の底へ。


 何も感じない。


 何も考えない。


 考える必要がない。


 もう全部終わったから。


 未来から来た私がいた。


 未知のAIがいた。


 ホノカがいた。


 私は奥へ押し込まれていた。


 消えたわけじゃない。


 残っていた。


 けれど存在する意味を失っていた。


 だから沈んでいた。


 静かに。


 深く。


 ずっと。


 その時だった。


 遠くで声がした。


 かすかに。


 本当にかすかに。


『リゼ…様』


 誰。


 私は反応しなかった。


 声は続く。


『リゼ…様』


 知らない。


 聞きたくない。


 私は眠っている。


 だから放っておいて。


『リゼ!!』


 少しだけ。


 胸が痛んだ。


 知っている声だった。


 忘れてはいけない声だった。


『起きて!!』


 シオン?


 その名前を思い出した瞬間。


 世界がひび割れた。


 暗闇に一本の亀裂が走る。


 光。


 白い光。


 まぶしい。


 痛い。


 苦しい。


 でも。


 温かい。


『帰ってきて…!』


 私は目を開いた。


 肺が動いた。


 血が流れた。


 心臓が跳ねた。


 痛みが戻る。


 傷が戻る。


 恐怖が戻る。


 生きている感覚が戻る。


「……シオン……?」


 涙が出そうになった。


 意味が分からない。


 何で。


 どうして。


 私は。


 そこで初めて理解した。


 もう一人のリゼが消えたのだ。


 本当に。


 完全に。


『リゼ様……!!』


 シオンの声。


 今度は現実だった。


 私は顔を向けた。


 モニターの向こう。


 拘束されたままの御影シオンが、泣きそうな顔でこちらを見ていた。


 怒った顔で。


 安心した顔で。


 全部ぐちゃぐちゃになった顔で。


 私は少しだけ笑った。


「……ただいま」


 その瞬間。


 世界が動き出した。


「リゼ様!」


 雨宮が駆け寄ってきた。


 彼の足取りは乱れている。肋骨を痛めている可能性が高い。それでも、彼は私の横へ膝をつき、即座に瞳孔、呼吸、脈拍、右腕の固定状態を確認した。


「意識はありますか?私の声が聞こえますか?名前を言えますか?」


「……鏡ヶ原、リゼ」


「現在年齢は」


「……十六歳前後」


「現在いる場所は」


「……ミネルヴァ、演目空間……多分」


「人格反応、現行リゼ様に復帰。右上肢損傷、再悪化なし。ただし神経負荷が異常です」


「解説、長い……」


「あなたが戻ったという意味です」


 私は小さく息を吐いた。


 それなら最初からそう言いなさい。


 そう言いたかったが、声が出なかった。


 レイラがしゃがみ込んで私の顔を覗く。


「リゼ、戻った?」


「……ええ」


「本当に?」


「……たぶん」


「たぶんなの?」


「断定できるほど、脳が綺麗じゃないのよ……」


 ネヤムが近づく。


 彼女の目は笑っていなかった。


「黒いリゼ、消えた?」


「……分からない」


 正直に答える。


「でも、今ここにはいない」


 ソウヤが静かに言った。


「舞台から退場した、というより、舞台そのものに拒絶されたように見えました」


「……詩的な表現は、今いらない……」


「失礼」


 その時だった。


《システム復旧》


《演目監視機能、一部回復》


《ZAGI再起動》


 赤いランプが点滅し、沈黙していたZAGIの声が戻った。


《警告》


《警告》


《警告》


《未来個体反応、消失》


《赤白木ホノカ、自己境界復帰》


《鏡ヶ原リゼ、現行人格復帰》


《状況悪化》


「……復旧第一声がそれなの?」


《事実です》


「本当に腹立たしいAIね……」


《評価を記録します》


「しなくていい」


 だが、私はそれ以上言えなかった。



 すると空間の奥から、音がした。


 低く。


 重く。


 人間の声ではない。


 言葉の形をした衝撃。


『演目を続けろ』


 X-13。


 沈黙していたはずのそれが、金色の空間の中央に立っていた。


 いや、立っているという表現でいいのか分からない。輪郭は揺らぎ、顔は見えず、身体の代わりに音の層が重なっている。存在そのものが、夕華式の深部から押し出された音響の塊のようだった。


 その頭部は、錆びた拡声器に似ていた。


 いや、似ているというより、拡声器そのものが人間の上に接続されている。剥き出しの首筋。肉と機械の継ぎ目。血と錆で汚れたセーラー服。片脚は包帯に覆われ、もう片方は黒い靴下のまま泥と血に濡れている。


 X-series。


 W1世界線のデスゲームを苗床にして発生した、演目遂行者。


 彼女は、叫びを拡張する。


 他人の口から同じ言葉を吐かせる。


 絶望を同調させる。


 場に残された悲鳴を増幅し、演目継続のための楽曲へ変える。


 つまり、彼女は音で攻撃する怪物ではない。


 叫びを支配する怪物だ。


『演目を続けろ』


 もう一度。


 その声だけで、床が震えた。


 雨宮が私を庇うように前へ出る。


 レイラが牙を剥く。


 ネヤムが両手を構える。


 ソウヤが息を止める。


 ホノカさえ、眉をひそめた。


 ZAGIが叫ぶ。


《X-13、直接顕現》


《演目制御権限、暴走》


《同調強制、開始》


《退避を推奨》


「退避先が……あるなら……言いなさい……!」


《ありません》


「本当に……役に立たない……!」


 次の瞬間、私の喉が勝手に動いた。


「……演目を」


 言葉が漏れる。


 私の意思ではない。


 喉。


 舌。


 肺。


 声帯。


 全部が勝手に動いている。


「続けろ」


 雨宮も言った。


「演目を続けろ」


 ネヤムも。


「演目を続けろ」


 レイラも。


「演目を続けろ」


 ソウヤも。


「演目を続けろ」


 ホノカの唇さえ、歪みながら同じ言葉を吐いた。


「……演目を、続けろ」


 本人の意思とは関係ない。


 X-13の声が、私たちの中へ入り込んでいた。


 それは洗脳ではない。


 命令でもない。


 もっと単純で、もっと悪質だった。


 声を奪われている。


 W1のデスゲームで死んだ者たちの断末魔。


 助けて。


 やめて。


 殺さないで。


 痛い。


 帰りたい。


 それらが圧縮され、反転され、演目継続の言葉へ変換されている。


 誰かの「助けて」が、今は「演目を続けろ」になっている。


 気持ち悪い。


 最悪だ。


 私の喉が、もう一度勝手に震える。


「演目を――」


 雨宮が自分の口を押さえた。


 レイラが牙で唇を噛む。


 ネヤムは目を見開きながらも、言葉を止めようとしている。


 ソウヤの顔から血の気が引いていた。


 ホノカは笑っていなかった。


 笑えなかった。


 自分の言葉を奪われること。


 自分の会話を壊されること。


 それは彼女にとっても不快だったのだろう。


『演目を続けろ』


 X-13が腕のようなものを上げた。


 音が圧縮される。


 音塊。


 ただの衝撃波ではない。


 言葉。


 命令。


 圧力。


 演目を続けろという命令そのものを、物理的な質量へ変換した攻撃。


 そして音の塊が放たれた。


 私たちは抵抗できず吹き飛ばされた。


 雨宮の腕が私を抱え込む。だが防ぎ切れない。床が砕け、身体が浮き、肺から空気が抜ける。レイラが壁に叩きつけられ、ネヤムが床を転がる。ソウヤが膝をつき、ホノカが舌打ちする。


 痛い。


 もう、痛いのは十分だった。


 でも、終わらない。


 夕華式が暴走している。


 命価遊技のリールが再起動し、金色の光が濁る。観客席の仮面が一斉に揺れ、笑い声とも悲鳴ともつかない音が空間へ染み出す。


『演目を続けろ』


『命価を払え』


『観測を止めるな』


『終幕を許可しない』


 終わりがない。


 未来の私が消えても。


 ホノカが戻っても。


 私が戻っても。


 夕華式は止まらない。


 X-13が、もう一度音塊を作る。


 今度はさっきより大きい。


 雨宮が立ち上がろうとする。


 無理だ。


 彼の身体は限界だ。


 レイラも。


 ネヤムも。


 ソウヤも。


 ホノカでさえ、完全には立て直せていない。


 終わりだ。



 そう思った瞬間。


 遊戯室入口が開いた。


 深紅が入ってきた。


 赤い軍帽。


 深紅の軍服。


 艶のある革のような質感の制服に、金の装飾線。


 冷たい目。


 背筋の伸びた立ち姿。


 監獄長というより、収容施設そのものが人型を取ったような女。


 ヒュドラ。


 リメイク・ファクトリー監獄長。


 彼女は笑っていた。


 優しさではない。


 支配者の笑みだ。


「雨宮、そしてリゼ。待たせたわね」


 雨宮の顔が、怒りと安堵と恐怖で歪む。


「ヒュドラ監獄長……本当に来てくれたんですか……!?」


「来なければ全員死ぬでしょう? それに、あなたが緊急権限を開いた。私がそれを使った。それだけよ」


「それだけで済む話ではないでしょう」


「済ませるのが監獄長の仕事。あなたも現場の人間なら分かるでしょう、雨宮。規定を守って全滅するより、規定を破って生存者を残す方が、まだ報告書の書きようがある」


「その報告書を書くのは、たぶん私です」


「あははは、なら生き残りなさい」


 雨宮は一瞬だけ言葉を失った。


 ヒュドラの後ろから、ゆっくりと誰かが歩いてくる。


 黒いスーツ。


 穏やかな目に威圧感はない。


 だが、場の中心が自然に彼へ移動する。


 ミネルヴァ教育機構理事長。


 ホセ・ガブリエル。


 ホセは遊戯室の惨状を見回し、静かに息を吐いた。


「これは……随分と手荒な演目ですね。皆さん、よく耐えてくださいました」


 丁寧な口調。


 穏やかな声。


 それなのに、X-13の音が一瞬だけ沈んだ。


「雨宮技師。あなたのエマージェンシーは確かに受信しました。判断は正しい。あなたが送信していなければ、我々の到着はもっと遅れていたでしょう」


「……もっと早く来てほしかったですね」


「ごもっともです。そこは、後ほど正式にお詫びいたします」


 その後ろに、小さな影があった。


 女子高生。


 黒髪。


 赤い瞳。


 雪みたいに静かな顔。


 私は、その少女を知らなかった。


 正確には、顔を知らない。名前も知らない。直接観測したこともない。ただ、ミネルヴァへ戻る前、雨宮から渡されたリメイク・ファクトリー関連資料の中に、ひとつだけ異様な記録があった。


 リメイク・ファクトリー敷地内に存在していた村落の壊滅記録。


 生存者、ゼロ。


 原因、非公開。


 加害個体、隔離中。


 分類、零群特別隔離対象。


 その記録に添えられていた注記は、たった一文だった。


 ――通常の零群管理規定を適用しないこと。


 私はその時、資料の詳細まで深く読まなかった。読むべきだった。今なら分かる。けれど、当時の私は帰還経路、ZAGI、ホノカ、シオン、そしてNo.XXXの記録へ意識を割きすぎていた。


 だから、その少女を見た瞬間、私はまだ確信できなかった。


 ただ、寒気だけが先に来た。


 ヒュドラが、ほんの少しだけ楽しそうに言った。


「連れてきたわよ、ホセ理事長。本人はかなり不満そうだけれど」


 ホセは、その少女へ穏やかに視線を向けた。


「ありがとうございます、吹雪リョウカさん」


 その名を聞いた瞬間、私は理解した。


 吹雪リョウカ。


 リメイク・ファクトリーの資料にあった、あの特別隔離対象。


 村を壊滅させた少女。


 零群に属しながら、ネヤム、レイラ、ソウヤたちとは別枠で扱われていた、破格の隔離対象。


 ホノカも、苦痛に顔を歪めながらリョウカを見た。


「……誰かな? その美味しそうな子……知らないんだけど」


 ヒュドラが笑う。


「知らなくて当然よ。知っていたら、ホノカ、あなたが知っていたら、それはそれで問題だから」


 リョウカは、遊戯室を一瞥した。ホノカ、イルマ、ホセ、ヒュドラ、ZAGI、夕華式、シオン、そして私。どれを見ても、特に驚いた様子はない。ただ、面倒な場所に連れてこられたという顔をしている。


「私、早く帰りたいんだけど……」


 場違いなほど平坦な声だった。


 ヒュドラが肩をすくめる。


「来る前に説明したでしょう。少しだけ協力して」


「うん、ちゃんと聞いてなかった」


「でしょうね」


 ホセが穏やかに言った。


「母胎が来るまでお願いします」


 リョウカはホセを見た。


「それが終わったら帰っていい?」


「ええ。可能な限り早く」


「じゃあ、アイスクリームある?」


「用意します」


 その時だけ、リョウカの赤い瞳がほんの少し動いた。


「じゃあ、少しだけね」


 雨宮が、掠れた声で言った。


「……本当に、とんでもないものを解放したんですね」


 ヒュドラは平然と答えた。


「この事態を収束させるために必要な処置よ」


「彼女を出すということは、収束ではなく、別種の災害を重ねるということです」


「災害には、災害をぶつけるしかない時がある」


 その瞬間、遊戯室の床に薄い霜が走った。


 血の池の表面が、赤黒く凍り始める。


 リールの光が一瞬だけ鈍る。


 X-13が、初めて完全に視線を変えた。


『演目を続けろ』


 X-13がホセたちへ音塊を放つ。


 圧縮された命令。


 演目継続を強制する音。


 その音の塊が凍った。


 空中で、白い結晶のように停止し、ひび割れ、砕け、消滅した。


 リョウカは面倒そうに瞬きをしただけだった。


「あれ、ちょっとうるさい」


 それだけ。


 それだけで、音が消えた。


 いや、消えたのではない。


 凍った音の中から、無数の悲鳴が聞こえた。


 助けて。


 やめて。


 痛い。


 死にたくない。


 帰りたい。


 W1のデスゲームで失われた声。


 X-13の苗床になった断末魔。


 それらが、氷の中で一瞬だけ形を取り、砕けた。


 私は喉を押さえた。


 吐きそうだった。


 だが、さらに奥にもう一つの影があった。



 銀髪。


 翡翠色の瞳。


 黒い生徒会制服。


 ミネルヴァの紋章。


 銀華院ユニア。


 ミネルヴァ教育機構生徒会長。


 彼女が一歩前に出た瞬間、場の空気が変わった。


 ホセが来た時、場の中心が移動した。


 ヒュドラが来た時、支配の匂いが濃くなった。


 リョウカが来た時、温度が下がった。


 だが、ユニアが歩いた瞬間、秩序そのものが形を取り戻した。


 彼女は可憐だった。


 白銀の髪は光を受けて静かに揺れ、翡翠色の瞳には過剰な怒りも、恐怖も、焦りもない。細い指先。整った姿勢。少女と呼ぶにはあまりに完成され、支配者と呼ぶにはあまりに清らかだった。


 けれど近づけない。


 優しさはある。


 包容力もある。


 だが、その優しさは誰でも触れられるものではない。深い湖のように澄み、冷たく、踏み込んだ者の浅さをそのまま映す。彼女は人を拒まない。だが、近づくには資格がいる。


 ミネルヴァ最強。


 武力も知略も統率も。


 学園の全秩序を、その身ひとつで成立させる少女。


 彼女は荒れ果てた遊戯室を見回した。


 血と壊れた床。


 停止しかけたリール。


 暴走する夕華式とX-13。


 倒れたイルマと私たち。


 その全てを見て、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……随分と、痛ましい幕になりましたね」


 怒っていない。


 責めてもいない。


 けれど、その一言だけで、私の胸が痛んだ。


 ユニアは静かに続ける。


「皆さん、よく耐えました。ここまで持ち堪えたこと、それ自体がもう、十分な成果です」


 慰めではない。


 称賛でもない。


 評価だった。


 正確で、公平で、だからこそ温かい。


 X-13がユニアを見る。


『演目を続けろ』


 同調強制が、再び走る。


 私の喉が動く。


 雨宮の喉が動く。


 レイラの喉が動く。


 ネヤムの喉が動く。


 ソウヤの喉が動く。


 ホノカの喉が動く。


 けれど。


 ユニアだけは、動かなかった。


 唇も。


 喉も。


 呼吸も。


 視線も。


 一切揺れない。


 X-13の拡声器が、わずかに軋んだ。


『なぜ』


 初めて、問いが生まれた。


『なぜ従わない』


 ユニアは静かに答えた。


「私は、あなたの演目に参加していません」


『演目を続けろ』


「いいえ、お断りいたします」


 柔らかい声だった。


 だが、絶対だった。


「あなたが呼び出しているのは、亡くなった方々の叫びです。声は、誰かを従わせるための道具ではありません」


 X-13の輪郭が揺れる。


 ユニアは一歩進む。


「その方々は、演目を続けたかったのではありません」


 静かな声。


 深い声。


「帰りたかったのです」


 空間が沈黙した。


 X-13の拡声器から、ノイズが漏れる。


 それは怒りにも、困惑にも聞こえた。


 ユニアはX-13へ視線を向けたまま、言う。


「理事長」


「はい」


「この演目の継続は、ミネルヴァ教育機構の秩序に反します。停止権限の行使を願います」


 ホセは穏やかに頷いた。


「ホホホ。ユニア、許可します。ただし、生徒の安全を最優先に。あなたの判断を信頼します」


 ユニアは小さく会釈した。


「承りました」


 その声は柔らかかった。


 だが、誰も逆らえなかった。


 彼女は命令していない。


 怒鳴ってもいない。


 支配してもいない。


 それなのに、その場にいる全員が彼女の次の言葉を待っていた。


 ユニアは、私へ視線を向けた。


「鏡ヶ原リゼさん?」


「……はい」


 反射的に返事をしてしまった。


 不思議だった。


 怖いわけではない。


 従わされたわけでもない。


 ただ、彼女に名前を呼ばれると、自分がこの場に存在していいのだと確認されるような気がした。


「戻ってこられて、よかった」


 それだけ。


 それだけなのに、私は返事に困った。


「……どうも」


 ひどく間の抜けた返事だった。


 ユニアは微かに笑った。


 可憐で気高く、どこか遠い笑みだった。


「無理に礼を言わなくて構いません。今は、呼吸を優先してください」


「……はい」


 また返事をしてしまった。


 横でレイラが小さく呟く。


「リゼが素直」


「うるさい……」


 ユニアはリョウカへ視線を移す。


「リョウカさん」


「うん」


「あの音の元凶を止められますか?」


「今のなら止めたけど」


「もう一度、お願いします」


「じゃあ、アイスクリーム三つで」


 ユニアは少し考えるように目を伏せた。


「二つは確約します。三つ目は、あなたが帰還後に体温を安定させてからです」


 リョウカは不満そうにした。


「けち」


「あなたの健康管理も、こちらの責務です」


「面倒」


「ええ。ですから、早く終わらせましょう」


 そのやり取りに、ヒュドラが笑う。


「相変わらずね、ユニア。監獄長の私より収容者の扱いが上手い」


「扱っているつもりはありませんよ? お願いしているだけです」


「それで動くなら十分よ」


 X-13が再び音を集める。


『演目を続けろ』


 ユニアが静かに前へ出た。


 その歩みに、乱れはない。


 少女の足取りだ。


 けれど、戦場の中心を歩く者の足取りだった。


「X-13」


 ユニアは言った。


「あなたの演目は、ここで差し止めます」


『演目を続けろ』


「いいえ」


 声は柔らかい、だが絶対だった。


「生徒を傷つける秩序は、秩序ではありません。ただの暴力です」


 X-13の輪郭が揺れる。


 ユニアは続ける。


「ミネルヴァは、未来を育てる場所です。未来を消費する劇場ではありません」


 音塊が膨らむ。


 その瞬間、リョウカが一歩だけ前に出た。


 白い息。


 赤い瞳。


 そして、音が凍る。


 ユニアは振り返らずに言った。


「ありがとうございます、リョウカさん」


「早く終わらせてアイスクリーム食べる」


 ホセが穏やかに微笑んだ。


 ヒュドラは腕を組み、支配者の笑みを深める。


 雨宮は、ようやく大きく息を吐いた。


「……本当に、やっと来てくれましたね」


 私は倒れたまま、彼らを見ていた。


 未来のリゼが消えた。


 ホノカは戻った。


 ZAGIは復旧した。


 夕華式は暴走している。


 X-13は顕現した。


 そして今、ホセ・ガブリエル、ヒュドラ、吹雪リョウカ、銀華院ユニアが、この舞台へ上がった。


 終わりではない。


 むしろ、ここからが本番なのだと分かった。


 私は震える指を握る。


 痛くて怖い……もう、吐きそうだ。


 でも、私は私に戻った。


 シオンが呼んでくれた。


 ならば、観測する。


 たとえ世界が、まだ終幕を許さないとしても。


 私は戻ってきた。


 そう書いていいのか、まだ分からない。


 未来リゼは消えた。

 MOTHERLESSの黒い星図も消えた。

 ホノカは自分の身体を取り戻した。

 私は、シオンの声で目を覚ました。


 でも、戻ってきたからといって、全部が元に戻ったわけではない。


 右腕は痛い。

 頭の奥には、まだ誰かに踏み荒らされたような違和感が残っている。

 私は私のはずなのに、一瞬だけ、自分の身体を器として見てしまう感覚が抜けない。


 あれは私ではない。


 そう言い切りたい。


 けれど、未来リゼは私の未来の一つだ。


 その事実だけは消えない。


 私が間違え続ければ、あそこへ辿り着くかもしれない。

 私がシオンを守ると言いながら、所有しようとすれば。

 私が観測という言葉で、他人の自由を奪い始めれば。

 私は、あの女になる。


 だから覚えておく。


 未来リゼが最後に吐いた言葉を。


 W3は怖い。


 あれは捨て台詞だった。

 でも、たぶん本音だった。


 そして今、演目はまだ終わっていない。


 X-13は顕現した。

 夕華式は暴走している。

 ZAGIは復旧した。

 ホセ理事長、ヒュドラ監獄長、吹雪リョウカ、銀華院ユニアがこの舞台へ来た。


 救援が来た。


 でも、安心はできない。


 なぜなら、この場に現れたのは救いだけではないから。


 もっと大きな権限。

 もっと危険な災害。

 もっと強い秩序。


 それらが、同じ舞台に上がった。


 私はまだ立てない。

 痛みもある。

 怖さもある。


 それでも、私は私に戻った。


 シオンが呼んでくれたから。


 だから次は、私が観測する。


 未来リゼのように奪うためではなく。

 夕華式のように消費するためでもなく。

 この演目を、本当に終わらせるために。


 おめでとう。

 そして、さようなら。


 鏡ヶ原リゼ


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