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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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192/217

EP197. CLOWN VESSEL転写前処理記録

 ――転写前処理記録。


 私は、赤白木ホノカを殺す必要はないと判断した。


 正確に言えば、殺害は非効率だった。

 彼女は死を終点として処理しない。損傷を交換し、死を置換し、自己を並行世界群へ逃がす。ならば、殺すという行為は彼女にとって敗北ではなく、むしろ最も得意な更新処理に近い。


 馬鹿馬鹿しい。


 相手の得意領域で相手を処理するほど、私は暇ではない。


 だから、殺害案を棄却する。


 赤白木ホノカは敵ではない。

 獲物でもない。

 会話相手でもない。

 ましてや、理解すべき人格でもない。


 器だ。


 並行世界リンクを保持する肉体構造。

 死を別個体へ流す自己置換機構。

 殺意を燃料へ変換する異常な神経系。

 それだけに価値がある。


 ホノカ自身には価値がない。


 笑いも、飢えも、孤独も、退屈も、殺意も、私には必要ない。

 必要なのは、あの身体に搭載された機能だけだ。


 MOTHERLESSは、現行リゼ肉体の廃棄を推奨した。


 不快ではある。

 だが、合理的ではある。


 ならば、選ぶ。


 必要なものを奪う。

 不要なものを捨てる。

 邪魔なものを壊す。


 世界を進める方法など、それだけで十分だ。


 MOTHERLESSの一万次元解析空間は、まだ開いていた。


 黒い星図のようだった。


 いや、星図という表現は正確ではない。


 星図には、まだ美しさがある。規則性がある。人間が夜空を見上げ、そこに意味を見つけたいという幼稚な願望が貼りついている。だが、今そこに開かれているものには、そうした情緒が一切なかった。


 それは地図ではない。


 墓標でもない。


 演算途中で切り捨てられた、無数の死の断面だった。


 死。


 分岐。


 自己置換。


 損傷記録。


 殺害可能性。


 未発生の断末魔。


 発生したが採用されなかった未来。


 死んだホノカ。


 死ななかったホノカ。


 死ぬはずだったホノカ。


 死ぬことを許されなかったホノカ。


 それらが、一万次元という、人間の脳が本来触れるべきではない仮想位相空間上に展開されていた。


 通常の認識なら、見るだけで壊れる。


 雨宮は視線を逸らしている。ネヤムは理解しようとして、すぐに諦めた。レイラは本能で危険を察し、喉の奥で小さく唸っている。ソウヤは沈黙していた。死を芸術として扱いたがる男ですら、これは美とは呼べないらしい。


 当然だ。


 美ではない。


 これは処理だ。


 そして処理とは、理解されるためのものではない。


 完了するためのものだ。


 赤白木ホノカは、その前で笑っていた。


 ナイフを指先で回しながら、左右で色の違う瞳を、これ以上ないほど輝かせている。


「あはっ。ねえねえ、まだ? まだ解析終わらないの? 一万次元って、やっぱり時間かかる? それとも私が面倒すぎる? ねえ、どっち? 私、面倒な女? 面倒な獲物? 面倒な化け物? どれでもいいよ。どれでもちょっと嬉しい」


 ホノカは胸の前で両手を組み、わざとらしく身をよじった。


「待ってる間にもう一回遊ぶ? さっきみたいに殴る? 刺す? 斬る? それとも今度は目からいく? 子猫ちゃんのその真っ黒な目、すっごく綺麗だからさあ、ナイフの先でちょっとだけ開いて、中がどうなってるのか見てみたいんだよね」


「黙れ」


「やだ」


 即答だった。


 私は表情を動かさなかった。


 表情を動かす価値がない。


 この女は、反応を食う。殺意を食う。嫌悪を食う。恐怖を食う。私が不快になればなるほど喜ぶ。こちらが黙れば黙ったで、その沈黙を勝手に味付けして楽しむ。話しかければ会話として楽しみ、殺せば快楽として受け取り、無視すれば退屈に怯えながら、その怯えさえ笑いへ変換する。


 最低の構造だった。


 だが、構造である以上、利用できる。


 赤白木ホノカの最大の弱点は、死ではない。


 痛みでもない。


 孤独でもない。


 退屈だ。


 死ねない個体にとって、退屈は緩慢な壊死に近い。終わらない。満たされない。刺激がない。誰も最後まで向き合わない。誰も自分の全力を受け止めてくれない。殺しても死なない。殺されても終われない。笑い続けるしかない。


 その空白が、赤白木ホノカという存在の底にある。


 私は、その空白を使う。


 その程度の結論なら、すでに出ていた。


 だが。


 MOTHERLESSは、私よりも先へ行った。


《解析進捗、九十一・四七%》


 MOTHERLESSの声が、右手周辺に浮いた仮想端末からではなく、頭蓋の内側に直接響いた。


 耳ではない。


 鼓膜でもない。


 聴覚野でもない。


 もっと深い。


 脳波の位相そのものへ、情報が挿し込まれる。言葉として聞こえるより先に、意味が理解される。MOTHERLESSは音声を使用していない。私の神経活動の隙間へ、最適化された信号を注入している。


 不快ではない。


 むしろ効率的だった。


 ただし、周囲の者には何も聞こえていない。


 雨宮も。


 ネヤムも。


 レイラも。


 ソウヤも。


 ホノカでさえ、まだこちらを見て笑っているだけだ。


 ZAGIは沈黙したまま、赤い警告灯を点滅させている。機能停止というより、喉を潰された状態に近い。演目管理AIとしての出力、警告、音声制御、その大半をMOTHERLESSに押さえられている。骨董品は骨董品らしく、光ることしかできない。


 静かでいい。


《赤白木ホノカ完全殺害案、現行戦術リソースでは棄却》


《一秒間に十の五百乗規模の同時終了は、第七枝線干渉単独では達成不能》


《一万次元仮想位相空間においても、対象自己群の置換経路は閉鎖不能》


 私はホノカを見た。


 ホノカはにこにこしていた。


 こちらの沈黙を、私が困っている証拠だと解釈したのだろう。あるいは、そうであってほしいと願っているだけか。どちらでもいい。彼女は肩を揺らしながら笑った。


「あれ? どうしたの? 黒リゼちゃん、固まった? もしかして、私の殺し方分かんなくて困ってる? あはっ。いいよいいよ、困って。悩んで。私のことで頭いっぱいにして。私をどう壊すか、どう殺すか、どう泣かせるか、どう叫ばせるか、それだけ考えて。ねえ、すっごくうれしい。誰かの頭の中を私でいっぱいにするの、最高に気持ちいいんだよ?」


 私は答えなかった。


 MOTHERLESSの信号は続く。


《最適解を提示》


 その瞬間、脳の奥に別の座標が開いた。


 ホノカの身体。


 赤白木ホノカという個体の神経系。


 並行世界リンクを受け入れるために変質した脳幹。


 自己置換時に発生する認識断層。


 死亡確定直前に生じる人格位相の跳躍。


 肉体が死ぬより先に、別世界線の自己が割り込むための空白。


 その空白の形が、私の中へ流れ込んでくる。


 構造が見えた。


 完全ではない。


 だが、輪郭は見える。


 ホノカを殺す方法ではない。


 ホノカを利用する方法だ。


《赤白木ホノカ肉体奪取が最適》


 私は、沈黙した。


 本当に。


 そこで初めて、数秒間、何も言わなかった。


 理由は驚愕ではない。


 嫌悪でもない。


 慈悲でもない。


 倫理的抵抗でもない。


 それらは全て不要な反応だ。


 必要だったのは、再計算だった。


 赤白木ホノカの肉体を奪う。


 赤白木ホノカという制御不能な自由を、私の器にする。


 殺意を餌にする脳。


 死を別個体へ流す神経系。


 並行世界リンクを維持する肉体構造。


 自己置換に耐える人格座標。


 それらを、私が使う。


 不愉快だった。


 だが、合理的だった。


《未来選別能力と並行世界リンクの統合により、W3起点制約の迂回可能性を確認》


《現行個体:鏡ヶ原リゼ未来個体は、過去肉体との同期負荷が上限に接近》


《現行肉体は器として不適》


《神経伝達速度、骨格密度、因果圧耐性、時間逆流適応率、すべて不足》


《結論》


《現行リゼ肉体は廃棄推奨》


 廃棄。


 その単語は、ひどく静かに届いた。


 私は自分の右手を見た。


 黒い罅を操る指。


 修復したばかりの肉体。


 過去の鏡ヶ原リゼの身体。


 緑の髪を失い、漆黒に染まり、狐目となり、未来の私を受け入れる器として使われている肉体。


 この身体は私のものだ。


 そう判断していた。


 だが、正確には違う。


 この身体は、過去の私だったものだ。


 依代。


 仮の接続端子。


 実験成功のために消費された旧式端末。


 私はそれを、すでに十分理解していたはずだった。


 それなのに、MOTHERLESSが「廃棄」と明言した瞬間、私の思考は一拍だけ止まった。


 未練ではない。


 情ではない。


 過去の自分への愛着でもない。


 そんな柔らかいものは、とっくに磨耗している。


 所有感だ。


 私はこの身体を奪った。


 奪ったものは私のものだ。


 私のものを、外部から廃棄推奨と判断されるのが不快だった。


 それだけだ。


 それだけのはずだ。


「……なるほど」


 私は小さく呟いた。


 ホノカが目を輝かせた。


「え、なになに? なんか分かった? 私の殺し方? 私の壊し方? それとも、私ともっと楽しく遊ぶ方法? あ、もしかして、私を全部殺す道が見つかった? ねえ、そうならちゃんと言って。私、心の準備するから。うそ、しないけど。準備する前に殺してほしいけど」


 私はホノカを見た。


 赤と青の瞳。


 明るい笑顔。


 殺意に酔い、退屈を恐れ、死ねない自分を笑い話に変換している女。


 この女の肉体を奪う。


 その選択肢を、脳内で転がす。


 未来選別能力は、W3の私を起点にする限り、最悪の未来への収束を補強する。私は未来を選んでいるようで、実際にはW3から逃げるための因果を、W3へ戻る形に繋ぎ直している。未来の可能性を掴む力は強力だ。だが、その強力さゆえに、起点の呪縛から逃れられない。


 ホノカの並行世界リンクは違う。


 未来ではない。


 同一時間帯に並行して存在する膨大な赤白木ホノカ。


 死を別個体へ流し、傷を置換し、自己を交換する力。


 それを私が得れば、未来の選別と並行自己の置換が重なる。


 つまり。


 未来を選ぶだけではなく、選んだ未来へ到達するための器を、並行世界側から差し替えられる。


 過去を変えた瞬間に能力を持たない世界線へ弾かれる問題。


 過去肉体へ潜入した意識が維持できない問題。


 過去の自分の拒絶パルス。


 そしてW3起点の因果収束。


 そのすべてに、穴が開く可能性がある。


 ホノカの肉体は鍵だ。


 最低の鍵だ。


 笑っている。


 うるさい。


 制御不能。


 殺意を食う。


 私が宇宙から消したいと感じるほど不快。


 だが、鍵だ。


 鍵なら使う。


 鍵に意志は要らない。


 鍵に尊厳は要らない。


 鍵に幸福は要らない。


 必要なのは、開くことだけだ。


《推奨手順を提示》


 MOTHERLESSは、私の沈黙を肯定と処理した。


《第一段階:赤白木ホノカを退屈恐怖状態へ誘導》


《第二段階:Killer Clown増幅率を意図的に飽和させる》


《第三段階:自己置換時の位相空白を検出》


《第四段階:第七枝線の逆位相鍵により、置換前後の自己境界を固定》


《第五段階:MOTHERLESSによる人格転写補助》


《第六段階:現行リゼ肉体より中枢意識を分離》


《第七段階:赤白木ホノカ肉体へ上書き》


《第八段階:現行リゼ肉体を廃棄》


 私は呼吸を整えた。


 肺がわずかに軋む。


 器の反応だ。


 MOTHERLESSの報告どおり、肉体同期率は低下している。さっきのホノカとの交戦で、私は損傷を非採用にした。現実ログを補正し、被撃履歴を削った。だが、肉体そのものが完全に損傷を忘れるわけではない。神経系には負荷が残る。筋線維は追いつかない。骨格は熱を持つ。脳は、未来リゼの演算密度に耐えるには小さすぎる。


 この身体は限界に近い。


 それは事実だ。


 ならば捨てる。


 単純な話だ。


 ただし、問題がある。


 赤白木ホノカは奪われることに喜ぶ可能性がある。


 いや、喜ぶ。


 間違いなく喜ぶ。


 この女は、私が本気で自分を奪いに来たと知れば、戦闘快楽をさらに増幅させる。それはKiller Clownの強化へ繋がる。強化されれば、置換速度も上がる。置換速度が上がれば、奪取の窓は狭まる。


 しかし、同時にその瞬間こそ、自己置換の頻度が最も高まり、位相空白も増える。


 危険と好機が同じ場所にある。


 厄介だ。


 だが、使える。


「MOTHERLESS」


《はい》


「位相空白の捕捉精度は」


《現状、二・四%》


「低い」


《対象の殺意増幅により最大一七・九%まで上昇可能》


「十分ではない」


《退屈恐怖誘導により、自己置換リズムに乱れを発生させた場合、捕捉精度四三・二%まで上昇見込み》


「そこまで上げる」


《推奨》


「人格転写時、ホノカ側の抵抗は」


《不明》


「推定でいい」


《抵抗というより、歓迎反応を示す可能性があります》


 私は眉をひそめた。


「最悪ね」


《対象は強い干渉を快楽として処理する傾向あり》


「知っている」


《ただし、退屈恐怖状態では歓迎反応と拒絶反応が混在する可能性あり》


「つまり、壊せる」


《はい》


 私はホノカを見た。


 彼女は待っていた。


 ナイフを回し、笑いながら、こちらの沈黙を楽しんでいる。


「ねえ、黒リゼちゃん。何を考えてるの? 私のこと? 私の殺し方? 私の中身? それとも、私の身体のこと?」


 最後の一語だけ、妙に楽しそうだった。


 鋭い。


 馬鹿ではない。


 狂っているが、馬鹿ではない。


 戦闘と殺意と間合いと心理距離に関して、この女は異常な感度を持っている。私の視線のわずかな変化から、肉体そのものへ興味が移ったことを嗅ぎ取ったのだろう。


「子猫ちゃん?」


 ホノカは一歩近づく。


「もしかして、私を食べたいの?」


「不愉快な表現をするな」


「あはっ、図星?」


「違う」


「じゃあ、私の身体が欲しい?」


 周囲の空気が変わった。


 雨宮が息を呑む。


 ネヤムの目が細くなる。


 レイラが低く唸る。


 ソウヤが初めて、こちらを恐ろしいものを見る目で見た。


 ホノカは笑っている。


 楽しそうに。


 嬉しそうに。


 だが、私はその笑顔の奥に一瞬だけ影を見た。


 自分の身体を欲しがられること。


 それはホノカにとって快楽だ。


 同時に、退屈ではないという証明でもある。


 だが、その奥にあるのは別の恐怖だ。


 自分が自分でなくなることへの恐怖ではない。


 自分が奪われても、なお終われないかもしれない恐怖。


 自分の身体さえ、自分を満たすための舞台にされる恐怖。


 その恐怖は使える。


「赤白木ホノカ」


 私は静かに言った。


「お前を殺すのは非効率だ」


「うんうん」


「お前を壊すのも非効率だ」


「うんうんうん」


「だから、別の使い方をする」


 ホノカの笑みが深くなる。


「へえ」


 声が低くなった。


「何に使うの?」


「器」


 その一語で、ホノカの瞳が揺れた。


 ほんのわずかに。


 だが、確かに。


 笑みは残っている。


 けれど、呼吸が変わった。


 Killer Clownの増幅が一瞬だけ乱れた。


 退屈ではない。


 恐怖でもない。


 期待でもない。


 その全部が混ざった、異様な揺らぎ。


《位相空白、発生》


《捕捉精度、一二・八%へ上昇》


 MOTHERLESSが脳内で告げる。


 私は満足した。


 やはり、そこだ。


 ホノカは殺されることを喜ぶ。


 痛めつけられることも喜ぶ。


 嫌悪されることも喜ぶ。


 だが、器にされることは別だ。


 それは戦闘ではない。


 会話でもない。


 彼女の求める快楽ではない。


 赤白木ホノカという存在を、赤白木ホノカのまま楽しむのではなく、ただの乗り物として扱う行為。


 それは、私の領域だ。


「……あは」


 ホノカが笑った。


「やば」


 声が震えている。


 嬉しさか。


 怖さか。


 両方だろう。


「ねえ、未来ちゃん。今の、すっごい嫌な感じした」


「そう」


「私のこと殺してくれるんじゃなくて」


「ええ」


「私のこと壊してくれるんじゃなくて」


「ええ」


「私のこと、私じゃなくする気?」


「その方が効率的だから」


 ホノカは、数秒だけ黙った。


 赤と青の瞳が、私を見る。


 そこに初めて、純粋な笑顔ではないものが浮かんだ。


 興奮。


 恐怖。


 怒り。


 期待。


 拒絶。


 快楽。


 全部がぐちゃぐちゃに混ざっている。


「……最悪」


 ホノカは囁いた。


 そして次の瞬間、顔いっぱいに笑みを広げた。


「最悪すぎて、ちょっと吐きそうなくらい最高!」


 やはり面倒だ。


 私は内心で舌打ちした。


 恐怖へ触れても、快楽へ変換してくる。だが完全ではない。今、確かに揺れた。位相空白は発生した。ならば続ければいい。


「MOTHERLESS」


《はい》


「計画を組む」


《作戦名を設定しますか》


「不要」


《便宜上、仮称を付与》


《PROJECT:CLOWN VESSEL》


「趣味が悪い」


《評価を記録》


「記録するな」


《了解》


 私はホノカから視線を外さず、思考を組み立てる。


 第一に、ホノカを即座に殺す必要はない。


 むしろ殺すほど彼女は安定する。死んで置換し、笑って戻る。その繰り返しは、彼女の得意領域だ。そこへ付き合うのは無駄。


 第二に、退屈恐怖を刺激する。


 遊ばない。


 応じない。


 殺し合いの会話に乗らない。


 ただし完全無視ではなく、「器として見る」。これが最も効果的だ。ホノカは自分を相手にしてほしい。自分の戦闘、自分の殺意、自分の笑い、自分の死ねなさを見てほしい。ならば、その欲求を否定する。


 お前ではなく、お前の機構だけに価値がある。


 そう扱う。


 第三に、Killer Clownを飽和させる。


 殺意を与えすぎると強化される。だが強化の上限を超えれば、並行自己群の同期にノイズが出る可能性がある。快楽と恐怖が同時に流れ込む状態を作り、置換リズムを乱す。


 第四に、置換直後の空白へ第七枝線の逆位相鍵を差し込む。


 ホノカが死ぬ。


 別のホノカへ置換される。


 その一瞬、赤白木ホノカという自己の境界が揺らぐ。


 そこへ私の中枢意識を流し込む。


 第五に、この肉体を捨てる。


 現行リゼ肉体は廃棄。


 廃棄。


 その言葉が、再び思考の表面に浮かぶ。


 私は自分の手を見た。


 この身体はもう限界だ。


 私の演算に耐えない。


 ホノカの攻撃を非採用にし続けるだけで、神経が悲鳴を上げている。痛みは消せる。損傷は補正できる。だが、負荷そのものは消えない。器の容量が足りない。


 ならば捨てる。


 私はそう結論づけた。


 過去の私がどう思うか。


 現在のリゼがこの奥でまだ残っているか。


 そんなものは知らない。


 必要なら回収する。


 不要なら廃棄する。


 それだけだ。


 なのに。


 ほんの僅かに、思考の底が濁った。


 何かが抵抗した。


 現在のリゼか。


 過去の私の残滓か。


 それとも、この肉体を得るために何十万回も失敗した記憶か。


 くだらない。


 私はその濁りを切り捨てた。


「黒リゼちゃん?」


 ホノカが首を傾げる。


「今、ちょっと迷った?」


「迷っていない」


「嘘」


 ホノカは笑う。


「今の顔、ちょっとだけ人間っぽかったよ」


「不快なことを言うな」


「不快なんだ」


「ええ」


「じゃあ、もっと言お。ねえ、黒リゼちゃんってさ、ほんとはちょっと可愛いよね。ぜんぶ捨てたふりしてるのに、捨てるって言葉だけは嫌なんだ。奪ったものは自分のものだから? それとも、捨てられる側になるのが怖い?」


 私はホノカを見た。


「黙れ」


「あはっ」


 ホノカは楽しそうに笑った。


「効いた」


 殺す。


 という選択肢を、一瞬だけ選びかけた。


 だが、それはホノカの望む反応だ。


 私はそれを不採用にした。


 代わりに右手を上げる。


 黒い罅が広がる。


 MOTHERLESSの一万次元解析空間が、さらに深い層へ沈む。


《PROJECT:CLOWN VESSEL》


《第一段階、開始準備完了》


《推奨:対象に対し、自己価値剥奪発話を継続》


「分かっている」


 私はホノカを見る。


 そして、言った。


「赤白木ホノカ」


「なあに?」


「お前の戦闘には価値がない」


 ホノカの笑みが止まった。


 一瞬。


 本当に一瞬。


 だが、止まった。


「……へえ」


「お前の殺意にも価値はない」


「ふうん」


「お前の死ねなさにも価値はない」


「あは」


「お前の笑いにも、孤独にも、退屈にも、飢えにも、価値はない」


 ホノカの指が止まる。


「価値があるのは、お前の肉体構造だけだ」


 ホノカの瞳が細くなる。


 笑っている。


 だが、奥が笑っていない。


「それ、すっごい失礼」


「事実よ」


「私のこと、見てないんだ」


「見ている」


「嘘。私じゃなくて、私の身体を見てる」


「そう言っている」


 ホノカのナイフが、きい、と音を立てた。


 握力が上がっている。


 怒った。


 同時に、喜んでいる。


 だが、退屈恐怖も混ざっている。


《位相空白、二一・六%》


 いい。


 上がっている。


 私はさらに続けた。


「お前と遊ぶ気はない」


「……」


「お前を理解する気もない」


「……」


「お前の殺しの作法にも、快楽にも、会話にも、何の興味もない」


「……」


「ただ、その並行世界リンクだけは使える」


 ホノカは笑っていた。


 笑っていたが、頬が引きつっている。


「……ねえ」


 声が低い。


「それ、本気で言ってる?」


「ええ」


「私のこと、そんな風に扱うんだ」


「ええ」


「ひっど」


「そう」


「最低」


「そう」


「……最高に、ムカつく」


「ようやく会話になったわね」


 その瞬間、ホノカが消えた。


 殺意が爆発した。


 Killer Clownがさらに増幅する。だが、さっきとは質が違う。快楽だけではない。怒りだけでもない。自己価値を奪われたことへの反発。遊び相手としてではなく器として見られたことへの屈辱。退屈への恐怖。それらが殺意に混ざり、ホノカの動きを歪ませる。


 速い。


 だが、乱れている。


《位相空白、三四・九%》


 MOTHERLESSが告げる。


 私は笑った。


 これでいい。


 ホノカは私へ飛び込んでくる。


 ナイフが閃く。


 拳が来る。


 笑い声が重なる。


 だが、私はもう先ほどのように受けない。


 殺し合いには乗らない。


 私はホノカの攻撃を見ず、その奥を見る。


 死んだホノカ。


 置換されるホノカ。


 割り込むホノカ。


 その境界。


 その隙間。


 その空白。


 私はそこへ、鍵を合わせる。


 第七枝線の逆位相鍵。


 黒い罅が、ホノカの背後に開いた。


 ホノカが笑う。


「あはっ! いい顔! やっぱり本気じゃん!」


「違う」


 私は言った。


「これは戦闘ではない」


 ホノカのナイフが私の喉へ届く。


 届いた未来を、私は切り落とす。


 同時に、ホノカの首が半分裂ける。


 彼女は笑う。


 置換が始まる。


 その瞬間。


 私は見た。


 ほんの一瞬、赤白木ホノカという個体が、死んだ自分と死ななかった自分の間で空白になる。


 MOTHERLESSが信号を送る。


《位相空白、四二・八%》


《捕捉可能》


《中枢意識分離準備》


《現行リゼ肉体廃棄準備》


 私は目を細めた。


 まだだ。


 まだ足りない。


 四二・八%では不十分。


 失敗すれば、私はホノカの並行自己群のどこかへ弾かれる。あるいは、ホノカに喰われる。あるいは、この粗悪なリゼ肉体ごと崩壊する。


 それは許容できない。


 成功率を上げる。


 そのために、さらにホノカを揺らす。


「赤白木ホノカ」


 私は囁いた。


「お前は面白くない」


 ホノカの動きが止まった。


 一瞬。


 十分だった。


《位相空白、五一・三%》


 私は笑った。


 ホノカの顔から、完全に笑みが消えた。


「……それ」


 声が低い。


 震えている。


「言っちゃだめなやつだよ、黒リゼちゃん」


「事実よ」


「殺すよ?」


「やってみろ」


「殺す。殺す殺す殺す殺す殺す。絶対殺す。何回でも殺す。あなたが私のこと見るまで、ちゃんと私を見て、私でいっぱいになるまで、殺してあげる。顔を刻んで、目を潰して、喉を開いて、あなたがその冷たい声で私の名前しか呼べなくなるまで、何回でも、何回でも、何回でも」


「必要ない」


「必要ない?」


「ええ」


 私は右手を、彼女へ向けた。


「お前は、私になる」


 ホノカの瞳が、初めて本当に揺れた。


 MOTHERLESSの信号が、脳内で静かに鳴る。


《位相空白、六八・七%》


《転写成功率、上昇》


《PROJECT:CLOWN VESSEL、第二段階へ移行可能》


 私は沈黙した。


 成功率はまだ足りない。


 だが、道は見えた。


 赤白木ホノカの肉体を奪う。


 未来選別と並行世界リンクを統合する。


 W3起点の檻に穴を開ける。


 過去の私の器を捨てる。


 現行リゼを廃棄する。


 そして、次の段階へ進む。


 私はホノカを見る。


 ホノカは笑っていない。


 やっとだ。


 やっと、この女の笑いを止めた。


 私は内心で、ほんの少しだけ満足した。


 ホノカが低く言う。


「……最悪」


「さっきも聞いた」


「ほんとに最悪」


「語彙が貧弱ね」


「黙って」


「嫌よ」


 私は言った。


 そして、黒い罅をさらに広げる。


「ここから先は、お前の遊びではない」


 MOTHERLESSが、一万次元解析空間の深部で演算を進める。


 ZAGIは沈黙したまま。


 夕華式も黙ったまま。


 命価遊技も止まったまま。


 イルマは床で呼吸を続けている。


 雨宮たちは動けない。


 赤白木ホノカは、初めて笑えない顔で私を睨んでいる。


 そして私は、ようやく次の器を見つけた。


 不快だ。


 極めて不快だ。


 だが、合理的だ。


 ならば、選ぶ。


 私は未来リゼだ。


 必要なものを奪う。


 不要なものを捨てる。


 邪魔なものを壊す。


 それだけで、世界は十分に整理できる。


 たとえ次に捨てるものが、鏡ヶ原リゼの肉体だったとしても。


 私は、私以外のすべてを材料として扱う。


 それを悪と呼ぶなら呼べばいい。


 私は悪を処理対象に含めていない。


 善も同じだ。


 価値のあるものを残す。


 価値のないものを捨てる。


 抵抗するものを壊す。


 それ以外に、世界を進める方法など必要ない。


 ここまで読んだのなら、あなたはまだ観客席にいる。


 幸運ね。


 舞台に引きずり出されていないだけ、まだ価値のない安全圏にいるということだから。


 赤白木ホノカは、自分が特別だと思っている。

 死ねないこと。

 殺意を食うこと。

 笑いながら他人の限界を裂けること。

 退屈を恐れながら、退屈そのものを他人へ押しつけること。


 たしかに、珍しい。


 けれど、珍しいことと価値があることは違う。


 彼女の人格に価値はない。

 価値があるのは、構造だけ。


 ならば、構造だけを残せばいい。


 鏡ヶ原リゼの肉体も同じだ。


 器として不足するなら捨てる。

 同期に耐えないなら切り離す。

 未来へ到達できないなら、別の器へ移る。


 それだけ。


 あなたがそれを残酷だと思うなら、まだ人間側にいる。

 それを合理的だと思うなら、もうこちら側に片足を入れている。


 どちらでもいい。


 観測結果は変わらない。


 次に捨てられるものが誰なのか。

 それを決めるのは、善悪ではない。


 有用性だ。


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