EP196. 退屈処刑――母亡き者の一万次元解析
赤白木ホノカを殺すことは、問題の解決にならない。
それが今回の前提条件だった。
蒼井イルマは、到達する個体だった。
矢那瀬アスミの名を呼びながら、何度でも私の前に立つ。その性質は不快だったが、まだ分かりやすい。到達因果を封じれば、処理は成立する。
だが、赤白木ホノカは違う。
あれは到達しない。
あれは割り込む。
戦闘へ。
死へ。
嫌悪へ。
殺意へ。
こちらが処理しようとした瞬間、その行為そのものを餌にして現れる。
死を恐れないのではない。
死を娯楽にしている。
痛みを嫌わないのではない。
痛みを会話にしている。
殺されても平気なのではない。
殺されることを、自分が相手にされた証拠として消費している。
最悪だ。
この手の個体は、戦闘力よりも構造が厄介になる。
倒せば喜ぶ。
殺せば喜ぶ。
嫌えば喜ぶ。
本気になれば、さらに喜ぶ。
つまり、通常の敵対行動がすべて赤白木ホノカへの報酬になる。
だから殺害では足りない。
破壊でも足りない。
必要なのは、報酬系の剥奪。
赤白木ホノカが最も嫌がる処理。
すなわち、退屈。
私はこれから、この女を殺す方法ではなく、満たさずに壊す方法を検証する。
赤白木ホノカ。
お前は死ねない怪物ではない。
死では満たされないだけの、空腹な現象だ。
ならば私は、お前に何も与えない。
私は蒼井イルマへ歩いた。
イルマはまだ動いていた。
床に倒れ、全身の駆動系を因果ごと締め上げられ、呼吸すらまともに整っていない。それでも指先だけがわずかに床を掻く。武器へ伸びているわけではない。反撃でもない。ただ、まだ終わっていないと主張するだけの、無意味で、非効率で、腹立たしい動きだった。
私はそれを見下ろし、結論を更新した。
やはり、ここで処理しておくべきだ。
「蒼井イルマ……」
私は右手を下ろした。
「お前は残すと面倒だ……やはりここで死ね」
黒い罅が空間に走る。
第七枝線の逆位相鍵。
すでに彼女の到達因果は封じた。だが、それでもこの女は指を動かしている。つまり、生存そのものが未処理だ。ならば次に閉じるべきものは単純だった。
心拍。
呼吸。
神経伝達。
生存選択。
蒼井イルマという現象を、ここで完全に停止させる。
雨宮が呻いた。
ネヤムが唇を噛んだ。
レイラの喉が低く鳴った。
ソウヤは、もう何も言わない。
ZAGIは沈黙していた。
さっきまで不快なほど繰り返されていた警告音はない。危険。危険。危険。あの語彙の乏しい骨董品AIは、MOTHERLESSの干渉で出力系を落とされている。完全停止ではない。だが少なくとも今は、喋れない。演目進行も、警告も、記録音声も、すべて赤いランプの点滅に押し込められている。
静かでいい。
私はイルマの額へ指先を向けた。
その瞬間。
肩を掴まれた。
「ねえねえねえねえねえっ!」
耳元で、やたら明るい声が弾けた。
「ちょっと待ってよ、子猫ちゃん。そこ、今いちばん美味しいところじゃん!」
振り返るより早く、頬に衝撃が走った。
私が殴られた?
ただの拳だった。
だが、ただの拳ではなかった。
踏み込み、腰の回転、肩甲骨の解放、肘の角度、握り込み、接触の瞬間にだけ殺意を濃縮する身体操作。兵器でも因果干渉でもない。むき出しの肉体を、殺意という燃料で限界まで加速させた殴打。
私の身体が横へ飛んだ。
床を削り、金色の空間に黒い擦過痕を残しながら、数メートル滑る。頬の内側が切れた。血の味がした。私は舌先でそれを確認し、ゆっくり顔を上げる。
そこにいたのは、赤白木ホノカだった。
モニターの向こうにいたはずの女。
白い空間でシオンの傍にいたはずの女。
左右異色の瞳を爛々と輝かせ、まるで遊園地の開園直後に走り出す子供みたいな顔で、こちらを見ていた。
「あはっ!」
ホノカは笑った。
「あははははっ、やばっ、今の顔! すっごい嫌そう! え、なにそれ、最高なんだけど! ねえねえ、もう一回して? その、私のこと心底気持ち悪いって思ってる顔! あ、だめ、待って、保存したい! 今の表情、永久保存したい! すっごい綺麗! 怒ってるのに冷たいふりしてて、嫌悪してるのに観察やめられなくて、殴られてムカついたのに『殴られた』って認めたくない感じ!」
うるさい。
第一印象はそれだった。
次に来たのは嫌悪。
そして三番目に、警戒。
ホノカの殺意は、普通の殺意ではなかった。方向がない。密度はある。熱量もある。だが、対象へ向かって直線的に伸びてこない。周囲に撒き散らされ、跳ね、笑い、転がり、突然背後から手を伸ばしてくる。
自由すぎる。
殺意が、躾けられていない。
「赤白木ホノカ」
私は立ち上がった。
「邪魔をするな」
「やだ!」
即答だった。
ホノカは両手を広げ、くるりと回った。血と金色の光の中で、スカートが軽く揺れる。ナイフが指先で跳ねる。戦場の中央で踊るその姿は、異常というより、場違いだった。だが、場違いだからこそ怖い。
死の気配が充満する場所で、彼女だけが誕生日会のテンションだった。
「だってさあ、黒リゼちゃん。今イルマちゃん、めちゃくちゃ良い顔してたんだよ? 折れそうで、でも折れなくて、息できなくて、でもまだ誰か呼ぼうとしてて、指だけ動いててさあ!」
ホノカは胸の前で手を組んだ。
うっとりと。
本当にうっとりと。
「なのに殺すの? もったいなーい。熟す前の果物を踏み潰すみたいなことするじゃん。ひどいよ。最低。最高に最低。ちょっと好き。ああいう子はね、最後の最後まで追い詰めて、呼吸が壊れて、声が掠れて、それでも『嫌だ』って言うところまで見なきゃ。そこでやっと味が出るの。分かる? 分かんない? 分かんないかあ。つまんない女」
「理解不能だな」
「えー? 分かるでしょ? 分かんない? だよねえ。あなた、処理とか回収とか封鎖とか、そういう言葉好きそうだもんね。相手が震えるところとか、泣きそうになるところとか、やめてって言う瞬間とか、そういう一番おいしいところを全部『未処理』って呼んで捨てちゃうんだ。最悪。食べ物を粗末にする人って嫌い」
「お前に言われる筋合いはない」
「あはっ、怒った? 怒ったよね? 今ちょっと怒った! やった! ねえ、怒っていいよ。もっと怒って。嫌って。気持ち悪がって。私、そういうの大好き。あなたみたいに冷たい顔した子猫ちゃんが、我慢できなくなって牙を出す瞬間って、ほんとに、ほんっとに――」
ホノカの声が、甘く蕩けた。
「美味しそう……♡」
ホノカは跳ねた。
文字通り、跳ねた。
床を蹴り、視界から消える。次の瞬間、彼女は私の左側にいた。ナイフが喉を狙う。私は右手を動かす。刃が届く未来を切り落とす。
ホノカの首が飛んだ。
違う。
飛んだのは、その未来のホノカだけだった。
私の眼前で、確かに赤白木ホノカは死んだ。頸部を断たれ、笑顔のまま崩れた。だが、それと同時に、別のホノカが背後にいた。
「あははっ、痛ぁい! 今の即死? 即死だよね? え、すごっ。すごいじゃん、黒リゼちゃん! 私のこと、迷わず殺してくれた! 今、躊躇なかったよね? ねえ、好き! そういうところ、ほんと嫌いで好き!」
無傷。
呼吸も乱れていない。
笑顔も変わらない。
だが私は見逃さなかった。
一瞬だけ、彼女の瞳の奥に裂け目が開いた。
死の記録。
置換の断片。
死んだホノカと、死ななかったホノカの境界。
その隙間を、彼女は笑いで塞いだ。
「あはっ、あははははっ! 大丈夫大丈夫、ホノカちゃん新品交換済みでーす! ほら、傷なし。返品交換無料。死んでも安心。便利でしょ? でもねえ、便利すぎるのって、ちょっと寂しいんだよ?」
ホノカは自分の首元を指でなぞった。
「だって、誰も最後まで遊んでくれないんだもん。みんな死んじゃう。みんな壊れちゃう。みんな途中で泣いちゃう。せっかく本気になってくれたと思ったら、すぐ終わる。ねえ、つまんないよね? 終われる人ばっかりで」
私は答えなかった。
知らない。
彼女の能力の詳細は知らない。
だが構造の輪郭は見える。
並行世界リンク。
自己置換。
死の代替。
私に似ている。
いや、似て非なる。
私は未来の可能性を選別し、因果を強制的に手繰る。未来を使う。
ホノカは違う。
彼女は並行する自己を、ほとんど反射のように交換している。選んでいるのではない。生き残っているのでもない。死んだ自分の代わりに、死んでいない自分が割り込んでくる。
自分の死を、別の自分へ押し付けている。
その結果、彼女はここにいる。
笑っている。
壊れている。
「MOTHERLESS」
私は短く呼んだ。
黒い仮想端末が、右手の周囲に展開する。世界の座標が剥がれ、別位相の情報層が露出する。ZAGIは沈黙したまま、金色の空間の奥で赤い警告灯だけを点滅させている。声はない。骨董品は黙っていればいい。
《はい》
「対象、赤白木ホノカ。能力構造を解析」
《対象の並行世界同期を確認》
《自己置換型生存機構》
《推定同時接続規模、算出不能》
「概算でいい」
《暫定値。一秒間に十の五百乗規模の自己存在群と接続》
「完全殺害条件を試算しろ」
《一秒間に十の五百乗規模の赤白木ホノカを同時終了させる必要があります》
《現行リソースでは不可能》
「不可能、ね」
《一次元時間軸上での同時終了は不可能》
《三次元空間全域への同時破壊投射、不足》
《多世界干渉域、到達不可》
《解析を一万次元仮想位相空間へ拡張します》
その瞬間、仮想端末の黒い面が開いた。
空間に表示されたのは数式ではなかった。
立方体でもない。
超立方体ですらない。
人間の脳が形として理解できる限界を無視した、異常な座標の束。点と線と面と時間と確率と記憶と死のログが、全て同じ平面上に押し潰され、同時に奥行きを持っていた。見るだけで平衡感覚が壊れそうになる。
雨宮が吐き気を堪える。
ネヤムが目を細め、すぐに視線を逸らす。
レイラは本能的に牙を剥いた。
ソウヤは息を呑んだ。
《一万次元仮想解析層、展開》
《対象:赤白木ホノカ》
《並行自己群、写像開始》
《死亡可能性クラスタ、抽出》
《十の五百乗規模同時殺害シミュレーション開始》
ホノカの目が輝いた。
「えっ」
その声は、歓喜だった。
「え、え、え、ちょっと待って。なに? なにそれ? 一万次元? ねえ今、一万次元って言った? すっご! すごいすごいすごい! 私をちゃんと殺すために、そんな大きいところまで広げてくれるの? やば、やばいやばいやばい! ねえ未来ちゃん、あなた今、私のこと、ちゃんと相手にしてくれてる?」
「黙れ」
「無理! 嬉しい時に黙れる人間じゃないもん、私!」
ホノカは頬を赤らめて笑った。
戦場で。
殺される解析を受けて。
彼女は嬉しそうだった。
「うわあ……いいなあ、これ。十の五百乗の私を一秒で殺すんだ。しかも一万次元で考えてくれるんだ。すごいね。夢みたい。ねえ、それできたらさ、私、初めてちゃんと死ねるのかな? それとも、もっと遠くの私が来ちゃうのかな? それとも、私っていう概念ごと消えるのかな? ねえねえ、どれ? どれがいいと思う? 私はねえ、痛いのがいいな。怖いのもいい。あ、でも退屈なのは嫌。退屈に殺されるのだけはほんとに嫌」
「興味がない」
「ひどーい! 私めっちゃ興味あるのに!」
ホノカはナイフを逆手に持つ。
笑みがさらに深くなる。
「でも、解析してる間、退屈だよね?」
空気が変わった。
軽い声のまま、殺意だけが増えた。
「Killer Clown♡」
私はホノカの技名の具体は知らないが、現象は想像に難しくない。こちらが殺そうとすればするほど、彼女の身体能力が上がる。私の解析、MOTHERLESSの演算、イルマへの処理、周囲の恐怖。それらすべてが、ホノカにとって餌になっている。
彼女は殺意を食っている。
私は心底うんざりした。
「本当に、宇宙から消したい女だな」
「あはっ、うれしー! 宇宙規模の嫌悪じゃん! それ、愛より重いよ? ねえねえ、もっと言って。もっと嫌って。私のこと、めちゃくちゃ嫌いって言って。頭おかしいって言って。制御不能って言って。宇宙から消したいって、もう一回言って? 前のリゼちゃんも同じこと言ってたっけかな?」
「黙れ売女」
「黙らないってば!」
ホノカが指を鳴らした。
空間に黒いレールが敷かれる。
金色の演目空間の上に、別の舞台が重なった。オペラ座のような赤黒い幕。観客席には白い仮面。天井からは血のような紙吹雪。レールの先に、巨大なピエロ顔の先頭車両が現れる。
「Carnival Execution!♡」
ホノカは満面の笑みで叫んだ。
「出発進行ぉぉぉぉぉっ!♡♡♡」
黒い列車が突っ込んでくる。
煙ではない。
絶叫を吐いている。
客車の窓には、死の演出が並んでいた。火。落下。水。刃。銃口。首吊り。見た者が最も嫌がる死を、わざわざ飾り付けて見せてくる悪趣味な処刑遊戯列車。
だが、ホノカはそれを悪趣味だと思っていない。
彼女は手を振っていた。
遠足のバスを見送る子供のように。
「いってらっしゃーい! ちゃんと怖がってねー! 怖がらないと、美味しくないから! ほらほら、火炙り車両いくよー! 次は落下! 次は溺水! あ、斬首もあるよ! どれが好き? 私はねえ、相手が一番嫌なやつが好き!♡」
私は第七枝線へ接続する。
列車が私に届かない未来を選ぶ。
だが、列車が分裂した。
殺意の層が三つ以上。私の殺意、ホノカの殺意、演目の悪意。それらが処刑列車の車両数を増やす。回避した先にもレールがある。消した先にも車両が来る。未来を選んでも、別の死の演出が割り込む。
肩が裂かれる。
脚を打たれる。
腹部に衝撃。
背中に熱。
過去の私の肉体が悲鳴を上げる。
「使えない身体だ……」
ここで問題になるのは、私ではない。
器だ。
この身体は、まだ私の処理速度に追いついていない。
未来を選ぶ意識は届く。因果を切る判断も届く。MOTHERLESSの演算も動いている。だが、肉体が遅い。筋繊維が遅い。骨格が足りない。神経の伝達速度が、私の選んだ未来に追従しきれない。結果として、避けたはずの攻撃が皮膚を裂く。無効にしたはずの衝撃が骨に残る。選ばなかったはずの痛みが、遅延して現実へ染み出してくる。
屈辱的だった。
私が遅いのではない。
この身体が遅い。
過去の私という器が、あまりにも粗悪なのだ。
「いいねいいねいいね! あははははっ! その顔! 痛い? 痛いよね? でも怒ってる。怒ってるのに冷静ぶってる。そういうの、すっごい性格悪くて好き!♡」
私は右手を振る。
ホノカの上半身が消し飛ぶ。
だが、次の瞬間には別のホノカがその場で手を叩いていた。
「はい、残念! 次のホノカちゃんでーす!♡」
「不愉快だ……いい気になるなゴミ」
「褒めてる?」
「侮辱している」
「じゃあご褒美!」
彼女は跳ねる。
「Parade Buster!♡」
今度は空間が裂けた。
一人のホノカではない。
百でも千でもない。
視界の端から端まで、赤白木ホノカが溢れた。
軍服のホノカが敬礼する。
着物のホノカが袖から刃を抜く。
囚人服のホノカが裸足で笑う。
血まみれのホノカが腹を抱えて笑う。
白いワンピースのホノカが手榴弾を投げる。
ピエロマスクのホノカが観客席の仮面を剥ぐ。
包帯だらけのホノカが、折れた腕で拍手する。
泣き顔のホノカが、泣きながら笑っている。
片目を失ったホノカが、残った片目を輝かせる。
全部ホノカ。
全部笑っている。
全部、私を見ている。
「あははははははははははっ!♡♡♡♡」
「あっそぼ!」
「ねえ、殺して!」
「ねえ、壊して!」
「ねえ、怖がって!」
「ねえ、嫌がって!」
「ねえ、もっと怒って!」
「ねえ、私の中に全部出して!♡♡」
笑い声が重なる。
ZAGIの声はない。
警告もない。
ただホノカの笑いだけが、金色の空間を満たしていく。
私は未来を選ぶ。
攻撃が逸れる未来。
避けられる未来。
ホノカの同期が崩れる未来。
だが、攻撃の総量が未来の選択を塗り潰す。どの回避先にも別のホノカがいる。どの安全地帯にも別の殺意がいる。未来の選別ではなく、未来そのものをホノカがパレードで埋めている。
私は斬られた。
殴られた。
撃たれた。
蹴られた。
投げられた。
爆風を受けた。
黒い制服が裂け、長い髪が舞う。血が出る。痛みが走る。だが私は倒れない。倒れない未来を選び続ける。
選ぶ。
切る。
繋ぐ。
補正する。
捨てる。
採用する。
不採用にする。
現実ログを上書きする。
それでも、肉体が悲鳴を上げる。
視界の端で、MOTHERLESSが一万次元解析を続けていた。
《一万次元仮想位相空間、第八層展開》
《赤白木ホノカ自己群、二・七三×十の四百九十九乗まで写像》
《殺害同期誤差、未収束》
《置換速度、予測値を超過》
《殺意連動増幅を検出》
《対象は解析行為そのものを強化燃料として利用しています》
「だからなんだ…」
私は奥歯を噛んだ。
「だから不快だ」
それを見て、ホノカはさらに昂ぶった。
「やばいやばいやばい! 倒れない! なんで倒れないの!? ねえ、最高! 私、こういうの待ってた! すぐ壊れる子ばっかりでさ、つまんなかったんだよね! ちょっと殴ったら泣くし、切ったら叫ぶし、殺したら終わるし、死んだらもう喋ってくれないし!」
彼女の声が、ほんの一瞬だけ寂しくなった。
「悲しいんだよ? 私だけ、終われないのに」
だが次の瞬間には、また笑顔だった。
「あはっ、なーんてね! しんみり禁止! 楽しくいこ! 悲しい話はあとあと! 今は殴る! 斬る! 刺す! 殺す! 殺しても戻る! 戻ったらまた殺す! ね、最高でしょ!?」
ホノカの身体が沈む。
殺意がさらに濃くなる。
「Clown Spiral!!♡♡」
ホノカが加速した。
いや、加速という言葉では足りない。
時間軸が細かく分裂し、そのすべてにホノカがいる。右から来る拳が左からの蹴りに接続され、正面のナイフが背後の絞殺へ変わり、死んだホノカの殺意が次のホノカの体技を押し上げる。
殺意が速度になる。
速度が数になる。
数が暴力になる。
暴力が笑いになる。
視界全体がホノカの笑顔で埋まった。
「ほらほらほらほらほらほらほらほら! どうしたの? 未来ちゃん! もっと選んで! もっと捨てて! もっと私を殺して! もっと私を嫌って! もっともっともっともっと!♡♡♡」
拳。
膝。
刃。
肘。
足。
噛みつき。
ワイヤー。
額。
掌底。
投げ。
爆裂。
私は受け続ける。
未来を選び続ける。
損傷を浅くする。
致命傷を不成立にする。
だが、器が追いつかない。
身体が沈む。
膝が落ちる。
視界が揺れる。
ホノカが目の前に来た。
彼女は私の胸元を掴み、顔を近づけた。息が甘い。血の匂いがする。笑顔なのに、目だけが飢えている。
「ねえ?♡」
声が低くなる。
「まだ隠してるでしょ?」
私は答えない。
「全部出してよ?」
ホノカの瞳が細くなる。
「じゃないと、美味しくない」
その瞬間、私は沈黙した。
殴られ、斬られ、撃たれ、無数のホノカに囲まれながら、私は一瞬だけ動きを止めた。
ホノカが笑った。
「……あ、今の顔」
彼女は囁く。
「やっと本物じゃん……♡」
「いい気になるな……」
直後、ホノカの頭が吹き飛んだ。
今度は単なる破壊ではない。
私が選んだのは、彼女の頭部が存在しない未来。
頭蓋が砕けるより早く、笑顔という結果が切断される。血が遅れて現実へ追いつき、赤い線となって空間に散った。
ホノカの身体が崩れかける。
だが、即座に置換が始まった。
傷が消える。
顔が戻る。
瞳が開く。
赤と青。
ホノカが振り向く。
そして、彼女は固まった。
私は無傷で立っていた。
裂けていた制服は元に戻っている。
頬の血もない。
呼吸も乱れていない。
ホノカから受けた打撃も、損傷も、包囲も、すべて現在の私には残っていなかった。
MOTHERLESSが静かに告げる。
《損傷履歴、逆位相修復完了》
《現実ログ補正》
《被撃記録の一部を非採用》
《ただし、肉体同期率低下》
《神経系負荷、上昇》
《過去肉体の許容量、危険域へ接近》
「黙って処理を続けろ」
《了解》
雨宮が絶句した。
ネヤムの表情が凍った。
レイラが一歩退いた。
ソウヤは、初めて本当に黙った。
ZAGIはまだ沈黙している。
声を失った骨董品AIの赤い警告灯だけが、空しく点滅していた。
ホノカは私を見た。
数秒。
本当に数秒だけ、笑わなかった。
そして。
「あは」
笑った。
「あはは」
笑いが大きくなる。
「あははははははははははははっ!」
彼女は腹を抱えて笑った。
涙すら浮かべて。
心底嬉しそうに。
「すごい! すごいすごいすごい! ねえ、何それ!? ずるい! 私みたいじゃん! でも違う! 似てるのに違う! うわ、最悪! 最高! ねえ黒リゼちゃん、あなた、ほんとに嫌い! 大好き! 最悪に美味しそう! しかも無傷のふりしてるけど、ほんとは中で軋んでるでしょ? 分かるよ。分かっちゃうよ。身体が追いついてない。意識だけ先に走って、肉が遅れてる。ねえ、それ、痛い? 苦しい? 悔しい? いいねえ。すっごくいい!」
私は冷たく見返した。
「私はお前を満たすために存在していない」
「知ってる!」
ホノカは笑う。
「だから欲しいんじゃん!」
その言葉は、明るかった。
狂っていた。
そして、底なしに孤独だった。
私はホノカを見た。
並行世界に逃げ続ける女。
死ねない女。
死を快楽へ変換しないと、自分の空白に飲まれる女。
相手の本気だけを食べて、それでも満たされない女。
私と似ている。
だが違う。
私は選ぶ。
ホノカは置換される。
私は未来を回収する。
ホノカは死を交換する。
私は支配する。
ホノカは制御されない。
似て非なるもの。
だから、私はこの女を嫌悪する。
「MOTHERLESS」
《解析継続中》
「十の五百乗同時殺害、可能性は」
《現時点で実行不能》
「一万次元解析の進捗は」
《三・一九%》
「遅い」
《対象の殺意連動増幅が解析空間へ逆流》
《ホノカ自己群の置換速度が演算負荷に比例して上昇》
《対象は解析されるほど強化されます》
「本当に不快な構造だ」
ホノカの目が、また輝いた。
「いいねえ」
彼女はナイフをくるりと回す。
「じゃあさ、解析が終わるまで遊ぼっか?♡」
「遊ばない」
「遊ぶよ」
「断る」
「断られても遊ぶのがホノカちゃんでーす!」
彼女は笑った。
明るくて、軽くて、どうしようもなく壊れた笑顔で。
「ねえ、黒リゼちゃん」
赤白木ホノカは言った。
「ちゃんと私を退屈させないでね?」
私は黒い罅を広げた。
「お前が退屈する未来を選んでやる」
その瞬間。
ホノカの笑みが、一瞬だけ止まった。
死ではなく。
痛みでもなく。
孤独でもなく。
退屈。
彼女にとって最大の空白。
そこへ触れた。
そしてすぐに、ホノカはまた笑った。
ただし、その笑いは少しだけ乾いていた。
「あは」
彼女は低く言う。
「それ、いちばん嫌かも」
ようやく。
私は少しだけ満足した。
だが同時に理解した。
この女は、殺すよりも面倒だ。
壊すよりも面倒だ。
消すよりも面倒だ。
なぜなら、赤白木ホノカは勝利を求めていない。
生存すら求めていない。
彼女が求めているのは、私が本気で嫌がること。
私が本気で殺そうとすること。
私が本気で処理対象として扱うこと。
その全部を、快楽として食べている。
私は黒い罅を握り潰した。
「なら、覚えておけ」
「なに?」
「私はお前を殺さない」
「えー」
ホノカは頬を膨らませた。
わざとらしく。
子供みたいに。
「つまんないこと言わないでよ」
「お前を殺すと、お前が喜ぶ」
「うん!」
「お前を壊しても、お前が喜ぶ」
「うんうん!」
「なら」
私は一歩、前へ出た。
身体の奥で神経が軋む。
MOTHERLESSが警告を出しかける。
私は無視した。
「お前が一番嫌がる形で、処理する」
ホノカは笑っていた。
しかし、その瞳の奥だけが、笑っていなかった。
「……なにそれ」
「退屈させると言った」
金色の空間に、再び沈黙が落ちる。
ZAGIはまだ喋れない。
夕華式も黙っている。
命価遊技のリールも止まったまま。
その中で、ホノカだけが、口元に笑みを貼り付けたまま動かなかった。
初めて。
ほんの一瞬だけ。
赤白木ホノカは、殺意ではなく恐怖に似たものを見せた。
それは死への恐怖ではない。
終わりへの恐怖でもない。
満たされないまま続くことへの恐怖。
誰にも本気で相手にされないまま、永遠に笑い続けることへの恐怖。
私はその表情を観測し、記録し、分類した。
そして結論を出した。
この女は、殺すよりも、放置する方が壊れる。
最低の設計だった。
だが、使える。
ホノカはゆっくりナイフを構え直した。
「あは」
声が低い。
乾いている。
それでも、笑っている。
「やっぱり最悪」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてない」
「知っている」
私は答えた。
選別者として。
そして、まだこの粗悪な過去肉体に閉じ込められたままの、苛立たしい不完全な存在として。
黒い罅が、私の周囲で静かに広がる。
ホノカの背後で、無数のホノカが笑う。
MOTHERLESSの一万次元解析空間が、冷たい星図のように展開する。
ZAGIは沈黙したまま赤い警告灯を瞬かせる。
蒼井イルマは床でまだ息をしている。
雨宮たちは動けない。
そして、私は思った。
この盤面は、まだ終わらない。
面倒だ。
実に面倒だ。
けれど、ほんの少しだけ退屈ではなくなった。
結論から書く。
赤白木ホノカは、殺すより放置する方が壊れる。
肉体破壊は無効。
即死も無効。
並行自己群による置換が速すぎる。MOTHERLESSの試算では、一秒間に十の五百乗規模の赤白木ホノカを同時終了させる必要がある。現行リソースでは不可能。少なくとも、この粗悪な過去肉体に入った今の私では実行できない。
だが、それは敗北ではない。
殺せないなら、殺さなければいい。
赤白木ホノカは、死を求めているのではない。
本気を求めている。
嫌悪を求めている。
自分へ向けられる殺意を、存在証明として摂取している。
だから、私が本気で殺そうとするほど、あの女は満たされる。解析すれば喜ぶ。攻撃すれば笑う。拒絶すれば近づく。宇宙から消したいと感じるほど、あれはその感情を食べる。
不快な構造だ。
だが、構造が見えれば処理できる。
あの女が本当に恐れているのは死ではない。
退屈だ。
誰にも相手にされないこと。
誰も本気で嫌ってくれないこと。
誰も自分を殺そうとしてくれないこと。
永遠に笑い続けながら、何も満たされないこと。
その空白だけが、赤白木ホノカの奥に届く。
だから私は決めた。
あの女は殺さない。
少なくとも、今は。
殺せば喜ぶ。
壊せば笑う。
ならば、与えない。
殺意も、嫌悪も、達成も、終幕も。
赤白木ホノカを処理するには、戦場ではなく空白が要る。
これは戦闘ではない。
餌やりの拒否だ。
そして、あの女は初めて笑いを乾かした。
ほんの一瞬だけ。
だが十分だ。
私は観測した。
赤白木ホノカは、退屈を恐れる。
その事実だけで、次の処理方針は決まった。
蒼井イルマは到達因果を封じた。
赤白木ホノカは報酬系を断つ。
そして、残るのは矢那瀬アスミ。
面倒な盤面だ。
だが、少なくとも退屈ではなくなった。
それだけが、今回の唯一の誤算だった。
そこのあなたは今まで通りでいい。
気付かなかったことにしておいて。
――鏡ヶ原リゼ




