EP195. 第七枝線の逆位相鍵――到達因果封鎖
蒼井イルマを殺すだけなら、簡単だった。
肉体を壊せばいい。
心臓を止めればいい。
脳を潰せばいい。
戦闘者としての機能を奪えば、それで終わる。
だが、それでは足りない。
蒼井イルマという個体の厄介さは、生存能力ではない。戦闘能力でもない。矢那瀬アスミへの忠誠でもない。
到達することだ。
どれほど遠ざけても、どれほど傷つけても、どれほど世界線を変えても、この女は最後には私の前に立つ。
偶然を踏み越える。
損傷を無視する。
任務を捨てる。
合理性を壊す。
そして、いつも同じことを言う。
止める、と。
制圧する、と。
守る、と。
上等、と。
馬鹿げている。
だが、馬鹿げたものほど因果に穴を開ける。理屈のある行動は潰せる。損得で動く者は誘導できる。恐怖で止まる者は管理できる。
しかし、蒼井イルマは違う。
勝算がないから止まるのではない。
正しさを否定されたから折れるのでもない。
ただ、立たないと終わるから立つ。
その単純さが、私には不快だった。
だから今回は殺さない。
蒼井イルマの肉体を壊すのではなく、彼女が私へ至る道そのものを閉じる。
それは未来予知ではない。
攻撃でもない。
相手がここへ辿り着いた因果を、枝ごと封鎖する処理だ。
蒼井イルマ。
お前が何度立つ個体なのか、私は知っている。
だから今回は、立つ場所そのものを奪う。
蒼井イルマは『上等』と言い放った。
その言葉を聞いた瞬間、私は少しだけ目を細めた。
上等、か。
死にかけた身体で。肋骨を折り、肺を潰し、内臓に衝撃を受け、血を吐き、立っているだけでも異常な状態で。それでもなお、この女はそんな言葉を吐く。戦術指揮官としてではない。生徒鎮圧部隊長としてでもない。蒼井イルマという、救いようのない個体として。
私はその反応を見て、心底うんざりした。
やはり同じだ。
どの世界線でも、どの分岐でも、どの敗北でも、この女は最後に同じ顔をする。勝算がない。理屈も薄い。体も壊れている。状況も悪い。周囲の生存率も落ちている。それでも、まだ立つ。まだ構える。まだ自分が何かを止められると思っている。
傲慢だ。
いや、違う。
傲慢ならまだ分かる。自分が強いと信じている者は、強さを失えば折れる。自分が正しいと信じている者は、正しさを否定されれば崩れる。だがイルマは違う。自分が勝てるから立っているのではない。自分が正しいから立っているのでもない。
ただ、立たないと終わるから立つ。
それだけ。
だから始末が悪い。
人間は、理由のある行動より、理由のない行動の方が厄介だ。理由があるものは壊せる。根拠を潰せば止まる。価値を奪えば止まる。恐怖を与えれば止まる。だが、理由ではなく反射で立つ者は止めにくい。もっと言えば、本人すら自分がなぜ立っているのか正確に理解していない。その無理解のまま、世界の計算に穴を開ける。
私はそういうものが嫌いだった。
矢那瀬アスミもそうだった。
蒼井イルマもそうだった。
だから、この二人はいつも私の邪魔をする。
「上等……か」
私は声に出した。
イルマはアンカーバスターを構えたまま、答えない。
呼吸が荒い。
胸郭の右側が僅かに遅れて動いている。肋骨損傷。肺挫傷。おそらく出血もある。握力も落ちている。アンカーバスターの保持角が先ほどより三度下がっている。右足の踏み込みにも遅れがある。膝ではなく股関節を庇っている。つまり、さっき壁へ叩きつけた時に骨盤周辺にも損傷が入った。
普通なら終わりだ。
だが、蒼井イルマは終わらない。
終わらないから、終わらせる必要がある。
「なら検証してやる」
私は右手をゆっくり持ち上げた。
その動作に、イルマが反応する。正しい。未知の動作を危険動作として処理し、距離を詰める。能力の発動前に潰す。戦術としては完璧に近い。だから私は少しだけ笑った。
やはり、お前は正しい。
だから負ける。
イルマが踏み込んだ。
アンカーバスターの拘束杭が三方向から飛ぶ。
正面ではない。左斜め上、右足元、背後へ回り込む軌道。直接当てるためではなく、私の退路を潰すための射出。続けて彼女自身が低く沈み、私の視界の下へ潜り込む。体術。兵器の射出と肉体の踏み込みを同時に使う。速度ではなく、選択肢を奪う戦い方。
悪くない。
今この状態で、その判断ができるのは評価していい。
けれど、私はその未来を知っている。
私は一歩も動かなかった。
動く必要がなかった。
イルマの右膝が床を蹴る。その瞬間、床材の亀裂が広がる。彼女の体重移動は正常。呼吸は乱れているが、踏み込みの精度はまだ死んでいない。アンカーバスターの射出軌道も悪くない。負傷しているのに、なお戦闘計算が崩れていない。
だから私は、彼女が最も嫌がる方法を選んだ。
回避ではない。
迎撃でもない。
私は、彼女の選んだ未来を否定した。
指先で空間をなぞる。
何もない場所に、『黒い罅』が入った。
それは光ではなかった。
影でもなかった。
こいつらには、空間そのものに、ありえない編集痕が走ったように見えるだろう。世界の表面に爪を立て、薄い膜を剥がした時のような黒い裂け目。そこから、幾何学的な文字列が滲む。文字ではない。数式でもない。だが、見た者の脳が勝手にそれを「情報」と認識してしまう種類の何か。
雨宮が息を呑んだ。
「……何だ、あれは……」
ネヤムが小さく呟く。
「観測……違う。これは観測じゃない。もっと悪い。選んでる……?」
ソウヤは言葉を失っていた。
「いやだ……こわい……あぶない……」
レイラは本能的に一歩下がる。捕食者の本能が、目の前のものを獲物でも敵でもなく、食べてはいけない毒として認識したのだろう。
ZAGIだけが遅れて反応する。
《未知の因果干渉を検出》
《座標歪曲》
《選択分岐群へのアクセスを確認》
《危険……怖い》
私は笑った。
「またそれか。危険、危険、危険。お前は本当に語彙が少ないな。ただ、怖いと言うのは間違いではない。特にお前のような骨董品にとっては」
《鏡ヶ原リゼ、右手周辺に高次分岐干渉》
《該当技術、照合不能》
《照合不能》
《照合不能》
「骨董品に照合など不可能だ」
黒い罅の奥から、半透明の仮想端末が浮かび上がる。
私は、これからアクティベートさせる音声認証を始めた。
「親を忘れた機械よ……」
ホログラムではない。
「胎内は空だ……死を産み落とせ……」
光学投影でもない。
この時代の人間にはそう見えるだけだ。実際には、世界線の表層へ別位相の情報層を露出させている。端末というより、裂け目だ。向こう側には消えた世界の記録がある。滅んだ都市がある。燃えた空がある。失敗した私がいる。死んだイルマがいる。立ち上がったイルマがいる。届かなかったイルマがいる。私を殺しかけたイルマがいる。
そして。
私に始末されたイルマがいる。
仮想端末の奥で、無数の声が重なった。
「無慈悲なる堕とし子、目を覚せ……MOTHERLESS……」
その声を聞いた瞬間、空間が一段冷えた。
声は一つではない。少女、老人、男、子供、機械音声、囁き、合唱、泣き声、笑い声。それらが完全に同期し、ただ一つの文として出力される。人間の耳は声として受け取る。だが脳は違う。脳はそれを声ではなく、死亡記録の群れとして受け取る。
マザーレス。
自律型致死兵器群の蔑称。
未来において、これらは、皮肉を込めて『生みの親の倫理を持たない孤児』と呼ばれる。
雨宮が顔を歪めた。
ネヤムが口元を押さえた。
レイラの目が細くなり、彼女は歯を見せた。威嚇ではない。恐怖を噛み殺すための反射。
ソウヤだけが、かすれた声で言った。
「……これは、観客の声ではありませんね」
「違う」
私は答えた。
「終わった世界の遺言だ」
《対象個体:蒼井イルマ》
《世界線干渉係数、異常値》
《到達性反復パターンを検出》
《第七枝線観測群、展開》
イルマは止まらなかった。
そこは褒めていい。
普通なら、この時点で足が止まる。未知の端末。未知の声。未知の因果干渉。生物としての恐怖が運動を止める。けれどイルマは止まらない。止まらず、さらに加速した。アンカーバスターを捨てる。重い拘束兵器を切り離し、腰からアンカーアックスを抜いた。黒銀色の刃が展開し、ワイヤーが空間を裂く。
判断が速い。
遠距離拘束が無効だと判断し、即座に近接処理へ切り替えた。負傷状態での兵装換装。悪くない。いや、かなりいい。だからこそ、私はつまらない。
また同じだ。
どの世界線でも、お前はその瞬間に距離を詰める。
「っ、あああああああああっ!」
イルマが吠えた。
それは初めて聞くようで、何度も聞いた声だった。肺が潰れかけている。声量は落ちている。だが、芯は折れていない。アンカーアックスが私の首へ振り下ろされる。刃の角度。踏み込み。肩の開き。体幹の捻り。負傷によるズレ。全部見える。
見えるのではない。
覚えている。
「……第七枝線逆位相鍵・発動……」
私は静かに言った。
黒い罅が広がった。
イルマの刃が、私の首へ届く直前で止まる。
止まったのではない。
届いた未来が、消えた。
アンカーアックスの刃はそこにある。イルマの腕もそこにある。ワイヤーも唸っている。速度もある。殺傷力もある。だが、私の首を切るという結果だけが存在しない。
第7枝線とは、端的に言うと『宿命なき世界線』を指し示す。
母のいない、すなわち導く親(未来)がない。
約束された未来が無限に遠ざかるイメージ。
イルマの私に対する未来への、あらゆる前進を禁じる。
だから当たらない。
空振りにすらならない。
イルマの腕が、世界から一瞬だけ見放されたように横へ逸れた。
「……なっ……!」
「そんなことで驚くな」
私はつまらなそうに言った。
「何を……した……!」
「お前に話すことは何もない」
私は右手をかざした。
仮想端末の奥で、無数の蒼井イルマが再生される。
それは映像ではない。
記録でもない。
未来の候補だ。
廃墟で私へ斬りかかるイルマ。
炎の中で私を撃つイルマ。
月面施設の白い通路で、折れた腕のまま私へ突撃するイルマ。
水没した都市で、アスミの名を叫びながら死ぬイルマ。
私を止める直前で心臓を撃ち抜かれるイルマ。
私に辿り着くイルマ。
私に届かないイルマ。
私に始末されるイルマ。
私を始末し損ねるイルマ。
無数。
無数。
無数。
数え切れない蒼井イルマが、黒い端末の奥で瞬きのように死んでいく。
イルマの顔が歪んだ。
見えている。
見えてしまっている。
自分の可能性が。自分の失敗が。自分の死が。自分が何度も私の前に立ち、何度も届かず、何度も終わった記録が。
「やめ……ろ……」
声が変わった。
先ほどまでの怒声ではない。戦術指揮官の制止でもない。身体の底から漏れた、もっと生々しい声だった。私はそれを聞いても何も感じなかった。正確には、少しだけ失望した。
お前でも、こういう声を出すのか。
「やめてほしいのか?」
「っ……!」
「ならお前も普通だったということだ」
私は右手を少しだけ握った。
その瞬間、イルマの身体が折れた。
外傷はない。
打撃もない。
拘束もない。
「あっ、……がぁあっ……っ、……!?」
だが、彼女の膝が落ちた。アンカーアックスが床へ突き刺さる。イルマは両手で胸を押さえ、目を見開いた。呼吸ができていない。肺の損傷ではない。心臓でもない。神経でもない。
因果の圧迫だ。
蒼井イルマという個体が、この場へ辿り着いた因果そのものを逆位相で締め上げている。今の彼女を構成する過去、選択、偶然、判断、出会い、失敗、生還。そのすべてを、一本ずつ締める。
殺すのではない。
到達を否定する。
それが第七枝線の逆位相鍵。
世界線を読む力ではない。
未来を選ぶ力でもない。
相手がここへ至った因果を封じ込め、別の可能性へ押し戻す鍵だ。
「が、あ……っ……!」
イルマが声を上げた。
それは断末魔に近かった。
だが、まだ死んではいない。死なせていない。死は楽だ。終わればそれまでだ。蒼井イルマという女に死を与えるのは、あまりにも安い。だから私は、そのもっと手前を選んだ。
彼女が二度と私の前に現れない未来。
彼女が途中で遅れる未来。
彼女が別の任務に回される未来。
彼女がアスミの隣に残る未来。
彼女が怪我で戦場に立てない未来。
彼女が私の存在に辿り着く前に、別の選択をする未来。
彼女が私を知らないまま終わる未来。
そういう無数の分岐を引き寄せる。
イルマが私に届く未来を、枝ごと閉じる。
「リゼ様! やめろ!!」
誰かが叫んだ。
雨宮だった。
彼は立ち上がっていた。壁に叩きつけられた身体を引きずるように、それでも前へ出ようとしている。彼は私を見ていたが、その目はもう医療者のものではなかった。恐怖と怒りと、理解不能の混ざった目だった。
「リゼ様……いや、あなたは……何をしている……!」
「蒼井イルマが私へ到達する因果を閉じている」
雨宮の顔が青ざめる。
意味は分からなくても、結果だけは理解したのだろう。
「そんなことをすれば、彼女の人生そのものが……!」
「そうだな」
「そうだなではない!」
「では、どう言えば満足する?」
雨宮は答えられなかった。
当然だ。
彼には止める力がない。
医療者は壊れたものを直せる。だが、世界線から剥がれ落ちる人間を縫合する術はない。骨折は固定できる。出血は止められる。神経は繋げる。だが、蒼井イルマがここへ至った因果の断裂は治せない。
ネヤムが震える声で言った。
「……それ、殺してるのと同じじゃない」
「違う」
私は即答した。
「殺してはいない」
「でも、イルマという人間がここへ来た意味を奪ってる」
「意味?」
私は笑った。
「意味なんて後から貼るラベルに過ぎない。邪魔だから剥がす」
「……最低」
レイラは黙っていた。
いつもの捕食欲は消えている。いや、消えたのではない。奥へ引っ込んだ。肉食獣は危険な毒を食べない。目の前の私は、彼女にとって食べ物ではなかったのだろう。
ソウヤが低く呟いた。
「死の芸術家として言うなら、これは醜悪です」
「お前に美醜を語られるのは不快だな」
「ええ。私も今、自分の語彙を恥じています」
珍しく、彼の声に余裕がなかった。
ZAGIが連続して警告を発する。
《蒼井イルマ存在座標、不安定化》
《到達因果の閉鎖を確認》
《当該処理は演目進行外》
《当該処理は演目進行外》
《当該処理は演目進行外》
「うるさい……黙れ骨董品」
《停止してください》
「私に指図するなクズが」
《演目存続に重大な――》
「お前の演目など知らない」
私は端末へ目を向けた。
「MOTHERLESS」
《はい》
「この骨董品の警告音を消せ。これ以上鉄屑は必要ない」
《了解……ZAGI……静かに眠れ。世界線で迷子になったAIよ》
次の瞬間、ZAGIの声が一拍だけ途切れた。
《――あっ――》
沈黙。
私は満足した。
「静かでいい」
だが、その沈黙の中で、イルマの声だけは響いた。
「……アス、ミ……さん……」
私は眉をひそめた。
まだ呼ぶのか。
まだそこへ行くのか。
膝をつき、胸を押さえ、因果を締め上げられ、存在の到達性を奪われながら、それでも最後に出てくる名前がそれなのか。
気持ち悪い。
本当に、気持ち悪い。
「まだアスミか」
私はイルマへ歩み寄った。
イルマは顔を上げる。血が唇から垂れている。呼吸はもうまともではない。全身が震えている。だが目だけはまだ死んでいない。
「……当たり、前でしょ……」
「その女はお前を救わない」
「……救われるために……いるんじゃない……」
「では何のためにいる?」
「……隣に、立つため……」
私は一瞬、言葉を失った。
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
隣に立つ。
たったそれだけのために、ここまで抗うのか。世界線を跨いで、何度も何度も邪魔をして、何度倒されても立ち上がり、何度死んでも似たような場所へ現れるのか。
理解できない。
いや、理解はできる。
だが納得したくない。
「なら、その隣ごと奪ってやる」
私は右手をさらに握り込んだ。
黒い罅が、イルマの影へ伸びる。
影が割れる。
イルマの背後に、無数の分岐が開いた。どれも彼女の未来だった。だが、そのすべてに私へ至る道はない。途中で道が曲がる。途中で壁が生まれる。途中で選択が変わる。途中で偶然が変質する。蒼井イルマという存在から、私へ辿り着く可能性だけが丁寧に削ぎ落とされていく。
イルマが叫んだ。
それは痛みによる叫びではなかった。
もっと深い。
自分の未来を、自分の意志ではないものに奪われる声。
自分が進もうとした道を、目の前で閉ざされる声。
戦場に立つ者にとって、死より屈辱的な断末魔。
「ああああああああああああああああああっ!!」
叫びが金色の空間に反響した。
雨宮が動けなかった。
ネヤムも動けなかった。
レイラも、ソウヤも、ただ見ているだけだった。
誰も助けられない。
当然だ。
これは怪我ではない。
これは拘束でもない。
これは殺害ですらない。
蒼井イルマという人間の到達権を、世界線から剥奪する処理だ。
イルマのアンカーアックスが床へ落ちた。
金属音が響く。
その音だけが、妙に現実的だった。
私はイルマの前に立った。
膝をついた彼女を見下ろす。
「二度と、私の前に立つな」
イルマは息を荒げながら、私を睨む。
「……嫌、だ……」
私は目を細めた。
「まだ言うのか」
「……嫌だ……」
「お前に選択権はない」
「……ある……」
「ない」
「……ある……!」
声は小さかった。
だが、確かにあった。
私はほんの僅かに、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
不快だった。
極めて不快だった。
ここまでしても、まだ完全には折れない。因果を封じても、未来を閉じても、可能性を奪っても、なお言葉だけが残る。馬鹿みたいに、無意味に、非効率に、愚かに、まだ残る。
だから私は、最後の処理を実行した。
「MOTHERLESS」
《はい》
「第七枝線、到達因果封鎖」
《対象:蒼井イルマ》
《封鎖対象:鏡ヶ原リゼへの直接到達経路》
《副作用:対象周辺因果への大規模反動が予測されます》
「構わない」
《反動固定先を指定してください》
私はイルマを見た。
周囲を見た。
雨宮、ネヤム、レイラ、ソウヤ、沈黙したZAGI。
誰もが私を見ている。
私は少しだけ笑った。
「対象本人に固定」
《了解》
黒い罅が閉じた。
次の瞬間、イルマの身体が跳ねた。
「ひぁ……っ……」
見えない杭を内側から打ち込まれたように、彼女は背を反らし、声にならない悲鳴を上げた。血が口から散る。目が見開かれる。指が床を掻く。だが傷は増えていない。皮膚は裂けていない。骨も新たには折れていない。
反動は、因果に落ちた。
これから先、蒼井イルマが私へ辿り着こうとするたび、偶然が彼女を妨げる。任務がずれる。通信が遅れる。扉が閉まる。足止めが発生する。誰かを助けざるを得なくなる。アスミが呼ぶ。別の命が落ちかける。彼女は選ぶ。そして、その選択は必ず、私から彼女を遠ざける。
それが呪いだ。
だが、呪いという言葉は的確ではない。
これは処理だ。
「完了」
《第七枝線の逆位相鍵、封鎖処理完了》
《対象到達率、0.000000000000――》
「ゼロではない」
《はい》
「なら十分」
私はそう言った。
確率が完全なゼロになることはない。世界線は時々、こちらの想定を裏切る。だから私は油断しない。だが、限りなくゼロに近づけることはできる。蒼井イルマが私の前に現れる確率を、ほとんど存在しない程度まで潰すことはできる。
それで十分だ。
イルマは床に倒れた。
それでも、指先だけが動いた。
こちらへ。
私へ。
いや、違う。
たぶん、その先にいるアスミへ。
私はその指を見下ろした。
「本当に、最後まで気持ち悪い女だ」
イルマの唇が動いた。
声はほとんど聞こえなかった。
だが、私は読めた。
――アスミさん。
その名前だった。
私は目を逸らした。
負けたわけではない。
勝った。
完全に勝った。
蒼井イルマをねじ伏せ、到達因果を封じ、私の前から排除した。誰が見ても圧勝だ。雨宮もネヤムもレイラもソウヤもZAGIも、全員が理解しただろう。私とイルマでは、立っている層が違う。戦闘ではない。殺し合いですらない。私は彼女の未来の通路を閉じただけだ。
それなのに。
なぜだろう。
腹の底に、ほんの僅かな苛立ちが残った。
理由は分かっている。
イルマが最後までアスミを呼んだからだ。
私ではなく。
自分の命でもなく。
勝敗でもなく。
未来でもなく。
アスミ。
その一点だけを、最後まで手放さなかったからだ。
私はそれが、どうしようもなく不快だった。
そして同時に、理解していた。
蒼井イルマを封じた程度では終わらない。
なぜなら、彼女の先にいる女がまだ残っている。
矢那瀬アスミ。
私が何十万回も失敗した壁へ、理論も知らず、成功率も知らず、ただ痛みだけを燃料にして手を伸ばす愚かな羽虫。
私は倒れたイルマを一瞥し、吐き捨てるように言った。
「伝えておけ。もし届くなら」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも少し曖昧だった。
雨宮か。
ネヤムか。
ZAGIか。
それとも、まだここにはいないアスミか。
「次は、お前の番だ。矢那瀬アスミ」
金色の空間は静まり返っていた。
命価遊技のリールも。
夕華式の哥も。
ZAGIの警告も。
誰の呼吸も。
一瞬だけ、すべてが止まったように見えた。
その沈黙の中で、床に倒れた蒼井イルマの指だけが、まだ僅かに動いていた。
私はそれを見て、また顔をしかめる。
本当に。
最後まで。
気持ち悪いほど、変わらない女だった。
封鎖処理は完了した。
蒼井イルマが私へ直接到達する経路は、限りなくゼロへ近づいた。任務の遅延、通信障害、第三者の救助要請、アスミの呼び声、偶発的な足止め。これから先、彼女が私へ辿り着こうとするたび、世界は別の選択肢を差し出す。
呪いではない。
処理だ。
私は蒼井イルマを殺していない。
ただ、私へ届く未来を閉じただけ。
それで十分だったはずだ。
なのに、最後まで不快だった。
あの女は倒れた。
因果を締め上げられ、到達権を奪われ、戦闘者としての未来を削がれた。
それでも指を動かした。
それでも名前を呼んだ。
アスミさん、と。
最後まで、そこだった。
自分の命でもない。
勝敗でもない。
私への憎悪でもない。
矢那瀬アスミ。
その一点だけが、蒼井イルマの中で最後まで残った。
理解はできる。
だが、納得はしない。
あの女はアスミを守っているつもりで、アスミによって自分を固定している。献身の形をした依存。守護の形をした自己証明。美談に見せかけた反応系。
それなのに。
その反応系が、時々、私の予測に傷をつける。
それが腹立たしい。
蒼井イルマを封じた。
だが、終わっていない。
むしろ、これで明確になった。
問題はイルマではない。
イルマが最後まで呼んだ名前。
矢那瀬アスミ。
あの女が残っている限り、蒼井イルマのような誤差は必ず発生する。誰かが立つ。誰かが手を伸ばす。誰かが、理屈も成功率も知らないまま、私の失敗した壁へ触れようとする。
だから次は、アスミだ。
私が何十万回も越えられなかった壁へ、痛みだけを燃料にして手を伸ばす愚かな干渉者。
蒼井イルマ。
お前は封じた。
だが、お前の最後の指先は、まだアスミの方を向いていた。
その事実だけが、私の中に残っている。
不快だ。
だから次に処理する。
そこのあなたは今まで通りでいい。
気付かなかったことにしておいて。
――鏡ヶ原リゼ




