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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP195. 第七枝線の逆位相鍵――到達因果封鎖

 蒼井イルマを殺すだけなら、簡単だった。


 肉体を壊せばいい。


 心臓を止めればいい。


 脳を潰せばいい。


 戦闘者としての機能を奪えば、それで終わる。


 だが、それでは足りない。


 蒼井イルマという個体の厄介さは、生存能力ではない。戦闘能力でもない。矢那瀬アスミへの忠誠でもない。


 到達することだ。


 どれほど遠ざけても、どれほど傷つけても、どれほど世界線を変えても、この女は最後には私の前に立つ。


 偶然を踏み越える。


 損傷を無視する。


 任務を捨てる。


 合理性を壊す。


 そして、いつも同じことを言う。


 止める、と。


 制圧する、と。


 守る、と。


 上等、と。


 馬鹿げている。


 だが、馬鹿げたものほど因果に穴を開ける。理屈のある行動は潰せる。損得で動く者は誘導できる。恐怖で止まる者は管理できる。


 しかし、蒼井イルマは違う。


 勝算がないから止まるのではない。


 正しさを否定されたから折れるのでもない。


 ただ、立たないと終わるから立つ。


 その単純さが、私には不快だった。


 だから今回は殺さない。


 蒼井イルマの肉体を壊すのではなく、彼女が私へ至る道そのものを閉じる。


 それは未来予知ではない。


 攻撃でもない。


 相手がここへ辿り着いた因果を、枝ごと封鎖する処理だ。


 蒼井イルマ。


 お前が何度立つ個体なのか、私は知っている。


 だから今回は、立つ場所そのものを奪う。


 蒼井イルマは『上等』と言い放った。


 その言葉を聞いた瞬間、私は少しだけ目を細めた。


 上等、か。


 死にかけた身体で。肋骨を折り、肺を潰し、内臓に衝撃を受け、血を吐き、立っているだけでも異常な状態で。それでもなお、この女はそんな言葉を吐く。戦術指揮官としてではない。生徒鎮圧部隊長としてでもない。蒼井イルマという、救いようのない個体として。


 私はその反応を見て、心底うんざりした。


 やはり同じだ。


 どの世界線でも、どの分岐でも、どの敗北でも、この女は最後に同じ顔をする。勝算がない。理屈も薄い。体も壊れている。状況も悪い。周囲の生存率も落ちている。それでも、まだ立つ。まだ構える。まだ自分が何かを止められると思っている。


 傲慢だ。


 いや、違う。


 傲慢ならまだ分かる。自分が強いと信じている者は、強さを失えば折れる。自分が正しいと信じている者は、正しさを否定されれば崩れる。だがイルマは違う。自分が勝てるから立っているのではない。自分が正しいから立っているのでもない。


 ただ、立たないと終わるから立つ。


 それだけ。


 だから始末が悪い。


 人間は、理由のある行動より、理由のない行動の方が厄介だ。理由があるものは壊せる。根拠を潰せば止まる。価値を奪えば止まる。恐怖を与えれば止まる。だが、理由ではなく反射で立つ者は止めにくい。もっと言えば、本人すら自分がなぜ立っているのか正確に理解していない。その無理解のまま、世界の計算に穴を開ける。


 私はそういうものが嫌いだった。


 矢那瀬アスミもそうだった。


 蒼井イルマもそうだった。


 だから、この二人はいつも私の邪魔をする。


「上等……か」


 私は声に出した。


 イルマはアンカーバスターを構えたまま、答えない。


 呼吸が荒い。


 胸郭の右側が僅かに遅れて動いている。肋骨損傷。肺挫傷。おそらく出血もある。握力も落ちている。アンカーバスターの保持角が先ほどより三度下がっている。右足の踏み込みにも遅れがある。膝ではなく股関節を庇っている。つまり、さっき壁へ叩きつけた時に骨盤周辺にも損傷が入った。


 普通なら終わりだ。


 だが、蒼井イルマは終わらない。


 終わらないから、終わらせる必要がある。


「なら検証してやる」


 私は右手をゆっくり持ち上げた。


 その動作に、イルマが反応する。正しい。未知の動作を危険動作として処理し、距離を詰める。能力の発動前に潰す。戦術としては完璧に近い。だから私は少しだけ笑った。


 やはり、お前は正しい。


 だから負ける。


 イルマが踏み込んだ。


 アンカーバスターの拘束杭が三方向から飛ぶ。


 正面ではない。左斜め上、右足元、背後へ回り込む軌道。直接当てるためではなく、私の退路を潰すための射出。続けて彼女自身が低く沈み、私の視界の下へ潜り込む。体術。兵器の射出と肉体の踏み込みを同時に使う。速度ではなく、選択肢を奪う戦い方。


 悪くない。


 今この状態で、その判断ができるのは評価していい。


 けれど、私はその未来を知っている。


 私は一歩も動かなかった。


 動く必要がなかった。


 イルマの右膝が床を蹴る。その瞬間、床材の亀裂が広がる。彼女の体重移動は正常。呼吸は乱れているが、踏み込みの精度はまだ死んでいない。アンカーバスターの射出軌道も悪くない。負傷しているのに、なお戦闘計算が崩れていない。


 だから私は、彼女が最も嫌がる方法を選んだ。


 回避ではない。


 迎撃でもない。


 私は、彼女の選んだ未来を否定した。


 指先で空間をなぞる。


 何もない場所に、『黒い罅』が入った。


 それは光ではなかった。


 影でもなかった。


 こいつらには、空間そのものに、ありえない編集痕が走ったように見えるだろう。世界の表面に爪を立て、薄い膜を剥がした時のような黒い裂け目。そこから、幾何学的な文字列が滲む。文字ではない。数式でもない。だが、見た者の脳が勝手にそれを「情報」と認識してしまう種類の何か。


 雨宮が息を呑んだ。


「……何だ、あれは……」


 ネヤムが小さく呟く。


「観測……違う。これは観測じゃない。もっと悪い。選んでる……?」


 ソウヤは言葉を失っていた。


「いやだ……こわい……あぶない……」


 レイラは本能的に一歩下がる。捕食者の本能が、目の前のものを獲物でも敵でもなく、食べてはいけない毒として認識したのだろう。


 ZAGIだけが遅れて反応する。


《未知の因果干渉を検出》


《座標歪曲》


《選択分岐群へのアクセスを確認》


《危険……怖い》


 私は笑った。


「またそれか。危険、危険、危険。お前は本当に語彙が少ないな。ただ、怖いと言うのは間違いではない。特にお前のような骨董品にとっては」


《鏡ヶ原リゼ、右手周辺に高次分岐干渉》


《該当技術、照合不能》


《照合不能》


《照合不能》


「骨董品に照合など不可能だ」


 黒い罅の奥から、半透明の仮想端末が浮かび上がる。


 私は、これからアクティベートさせる音声認証を始めた。


「親を忘れた機械よ……」


 ホログラムではない。


「胎内は空だ……死を産み落とせ……」


 光学投影でもない。


 この時代の人間にはそう見えるだけだ。実際には、世界線の表層へ別位相の情報層を露出させている。端末というより、裂け目だ。向こう側には消えた世界の記録がある。滅んだ都市がある。燃えた空がある。失敗した私がいる。死んだイルマがいる。立ち上がったイルマがいる。届かなかったイルマがいる。私を殺しかけたイルマがいる。


 そして。


 私に始末されたイルマがいる。


 仮想端末の奥で、無数の声が重なった。


「無慈悲なる堕とし子、目を覚せ……MOTHERLESS……」


 その声を聞いた瞬間、空間が一段冷えた。


 声は一つではない。少女、老人、男、子供、機械音声、囁き、合唱、泣き声、笑い声。それらが完全に同期し、ただ一つの文として出力される。人間の耳は声として受け取る。だが脳は違う。脳はそれを声ではなく、死亡記録の群れとして受け取る。


 マザーレス。

 自律型致死兵器群の蔑称。

 未来において、これらは、皮肉を込めて『生みの親の倫理を持たない孤児』と呼ばれる。


 雨宮が顔を歪めた。


 ネヤムが口元を押さえた。


 レイラの目が細くなり、彼女は歯を見せた。威嚇ではない。恐怖を噛み殺すための反射。


 ソウヤだけが、かすれた声で言った。


「……これは、観客の声ではありませんね」


「違う」


 私は答えた。


「終わった世界の遺言だ」


《対象個体:蒼井イルマ》


《世界線干渉係数、異常値》


《到達性反復パターンを検出》


《第七枝線観測群、展開》


 イルマは止まらなかった。


 そこは褒めていい。


 普通なら、この時点で足が止まる。未知の端末。未知の声。未知の因果干渉。生物としての恐怖が運動を止める。けれどイルマは止まらない。止まらず、さらに加速した。アンカーバスターを捨てる。重い拘束兵器を切り離し、腰からアンカーアックスを抜いた。黒銀色の刃が展開し、ワイヤーが空間を裂く。


 判断が速い。


 遠距離拘束が無効だと判断し、即座に近接処理へ切り替えた。負傷状態での兵装換装。悪くない。いや、かなりいい。だからこそ、私はつまらない。


 また同じだ。


 どの世界線でも、お前はその瞬間に距離を詰める。


「っ、あああああああああっ!」


 イルマが吠えた。


 それは初めて聞くようで、何度も聞いた声だった。肺が潰れかけている。声量は落ちている。だが、芯は折れていない。アンカーアックスが私の首へ振り下ろされる。刃の角度。踏み込み。肩の開き。体幹の捻り。負傷によるズレ。全部見える。


 見えるのではない。


 覚えている。


「……第七枝線逆位相鍵・発動……」


 私は静かに言った。


 黒い罅が広がった。


 イルマの刃が、私の首へ届く直前で止まる。


 止まったのではない。


 届いた未来が、消えた。


 アンカーアックスの刃はそこにある。イルマの腕もそこにある。ワイヤーも唸っている。速度もある。殺傷力もある。だが、私の首を切るという結果だけが存在しない。


 第7枝線とは、端的に言うと『宿命なき世界線』を指し示す。


 母のいない、すなわち導く親(未来)がない。

 約束された未来が無限に遠ざかるイメージ。

 

 イルマの私に対する未来への、あらゆる前進を禁じる。


 だから当たらない。


 空振りにすらならない。


 イルマの腕が、世界から一瞬だけ見放されたように横へ逸れた。


「……なっ……!」


「そんなことで驚くな」


 私はつまらなそうに言った。


「何を……した……!」


「お前に話すことは何もない」


 私は右手をかざした。


 仮想端末の奥で、無数の蒼井イルマが再生される。


 それは映像ではない。


 記録でもない。


 未来の候補だ。


 廃墟で私へ斬りかかるイルマ。


 炎の中で私を撃つイルマ。


 月面施設の白い通路で、折れた腕のまま私へ突撃するイルマ。


 水没した都市で、アスミの名を叫びながら死ぬイルマ。


 私を止める直前で心臓を撃ち抜かれるイルマ。


 私に辿り着くイルマ。


 私に届かないイルマ。


 私に始末されるイルマ。


 私を始末し損ねるイルマ。


 無数。


 無数。


 無数。


 数え切れない蒼井イルマが、黒い端末の奥で瞬きのように死んでいく。


 イルマの顔が歪んだ。


 見えている。


 見えてしまっている。


 自分の可能性が。自分の失敗が。自分の死が。自分が何度も私の前に立ち、何度も届かず、何度も終わった記録が。


「やめ……ろ……」


 声が変わった。


 先ほどまでの怒声ではない。戦術指揮官の制止でもない。身体の底から漏れた、もっと生々しい声だった。私はそれを聞いても何も感じなかった。正確には、少しだけ失望した。


 お前でも、こういう声を出すのか。


「やめてほしいのか?」


「っ……!」


「ならお前も普通だったということだ」


 私は右手を少しだけ握った。


 その瞬間、イルマの身体が折れた。


 外傷はない。


 打撃もない。


 拘束もない。


「あっ、……がぁあっ……っ、……!?」


 だが、彼女の膝が落ちた。アンカーアックスが床へ突き刺さる。イルマは両手で胸を押さえ、目を見開いた。呼吸ができていない。肺の損傷ではない。心臓でもない。神経でもない。


 因果の圧迫だ。


 蒼井イルマという個体が、この場へ辿り着いた因果そのものを逆位相で締め上げている。今の彼女を構成する過去、選択、偶然、判断、出会い、失敗、生還。そのすべてを、一本ずつ締める。


 殺すのではない。


 到達を否定する。


 それが第七枝線の逆位相鍵。


 世界線を読む力ではない。


 未来を選ぶ力でもない。


 相手がここへ至った因果を封じ込め、別の可能性へ押し戻す鍵だ。


「が、あ……っ……!」


 イルマが声を上げた。


 それは断末魔に近かった。


 だが、まだ死んではいない。死なせていない。死は楽だ。終わればそれまでだ。蒼井イルマという女に死を与えるのは、あまりにも安い。だから私は、そのもっと手前を選んだ。


 彼女が二度と私の前に現れない未来。


 彼女が途中で遅れる未来。


 彼女が別の任務に回される未来。


 彼女がアスミの隣に残る未来。


 彼女が怪我で戦場に立てない未来。


 彼女が私の存在に辿り着く前に、別の選択をする未来。


 彼女が私を知らないまま終わる未来。


 そういう無数の分岐を引き寄せる。


 イルマが私に届く未来を、枝ごと閉じる。


「リゼ様! やめろ!!」


 誰かが叫んだ。


 雨宮だった。


 彼は立ち上がっていた。壁に叩きつけられた身体を引きずるように、それでも前へ出ようとしている。彼は私を見ていたが、その目はもう医療者のものではなかった。恐怖と怒りと、理解不能の混ざった目だった。


「リゼ様……いや、あなたは……何をしている……!」


「蒼井イルマが私へ到達する因果を閉じている」


 雨宮の顔が青ざめる。


 意味は分からなくても、結果だけは理解したのだろう。


「そんなことをすれば、彼女の人生そのものが……!」


「そうだな」


「そうだなではない!」


「では、どう言えば満足する?」


 雨宮は答えられなかった。


 当然だ。


 彼には止める力がない。


 医療者は壊れたものを直せる。だが、世界線から剥がれ落ちる人間を縫合する術はない。骨折は固定できる。出血は止められる。神経は繋げる。だが、蒼井イルマがここへ至った因果の断裂は治せない。


 ネヤムが震える声で言った。


「……それ、殺してるのと同じじゃない」


「違う」


 私は即答した。


「殺してはいない」


「でも、イルマという人間がここへ来た意味を奪ってる」


「意味?」


 私は笑った。


「意味なんて後から貼るラベルに過ぎない。邪魔だから剥がす」


「……最低」


 レイラは黙っていた。


 いつもの捕食欲は消えている。いや、消えたのではない。奥へ引っ込んだ。肉食獣は危険な毒を食べない。目の前の私は、彼女にとって食べ物ではなかったのだろう。


 ソウヤが低く呟いた。


「死の芸術家として言うなら、これは醜悪です」


「お前に美醜を語られるのは不快だな」


「ええ。私も今、自分の語彙を恥じています」


 珍しく、彼の声に余裕がなかった。


 ZAGIが連続して警告を発する。


《蒼井イルマ存在座標、不安定化》


《到達因果の閉鎖を確認》


《当該処理は演目進行外》


《当該処理は演目進行外》


《当該処理は演目進行外》


「うるさい……黙れ骨董品」


《停止してください》


「私に指図するなクズが」


《演目存続に重大な――》


「お前の演目など知らない」


 私は端末へ目を向けた。


「MOTHERLESS」


《はい》


「この骨董品の警告音を消せ。これ以上鉄屑は必要ない」


《了解……ZAGI……静かに眠れ。世界線で迷子になったAIよ》


 次の瞬間、ZAGIの声が一拍だけ途切れた。


《――あっ――》


 沈黙。


 私は満足した。


「静かでいい」


 だが、その沈黙の中で、イルマの声だけは響いた。


「……アス、ミ……さん……」


 私は眉をひそめた。


 まだ呼ぶのか。


 まだそこへ行くのか。


 膝をつき、胸を押さえ、因果を締め上げられ、存在の到達性を奪われながら、それでも最後に出てくる名前がそれなのか。


 気持ち悪い。


 本当に、気持ち悪い。


「まだアスミか」


 私はイルマへ歩み寄った。


 イルマは顔を上げる。血が唇から垂れている。呼吸はもうまともではない。全身が震えている。だが目だけはまだ死んでいない。


「……当たり、前でしょ……」


「その女はお前を救わない」


「……救われるために……いるんじゃない……」


「では何のためにいる?」


「……隣に、立つため……」


 私は一瞬、言葉を失った。


 馬鹿馬鹿しい。


 あまりにも馬鹿馬鹿しい。


 隣に立つ。


 たったそれだけのために、ここまで抗うのか。世界線を跨いで、何度も何度も邪魔をして、何度倒されても立ち上がり、何度死んでも似たような場所へ現れるのか。


 理解できない。


 いや、理解はできる。


 だが納得したくない。


「なら、その隣ごと奪ってやる」


 私は右手をさらに握り込んだ。


 黒い罅が、イルマの影へ伸びる。


 影が割れる。


 イルマの背後に、無数の分岐が開いた。どれも彼女の未来だった。だが、そのすべてに私へ至る道はない。途中で道が曲がる。途中で壁が生まれる。途中で選択が変わる。途中で偶然が変質する。蒼井イルマという存在から、私へ辿り着く可能性だけが丁寧に削ぎ落とされていく。


 イルマが叫んだ。


 それは痛みによる叫びではなかった。


 もっと深い。


 自分の未来を、自分の意志ではないものに奪われる声。


 自分が進もうとした道を、目の前で閉ざされる声。


 戦場に立つ者にとって、死より屈辱的な断末魔。


「ああああああああああああああああああっ!!」


 叫びが金色の空間に反響した。


 雨宮が動けなかった。


 ネヤムも動けなかった。


 レイラも、ソウヤも、ただ見ているだけだった。


 誰も助けられない。


 当然だ。


 これは怪我ではない。


 これは拘束でもない。


 これは殺害ですらない。


 蒼井イルマという人間の到達権を、世界線から剥奪する処理だ。


 イルマのアンカーアックスが床へ落ちた。


 金属音が響く。


 その音だけが、妙に現実的だった。


 私はイルマの前に立った。


 膝をついた彼女を見下ろす。


「二度と、私の前に立つな」


 イルマは息を荒げながら、私を睨む。


「……嫌、だ……」


 私は目を細めた。


「まだ言うのか」


「……嫌だ……」


「お前に選択権はない」


「……ある……」


「ない」


「……ある……!」


 声は小さかった。


 だが、確かにあった。


 私はほんの僅かに、胸の奥で何かが軋むのを感じた。


 不快だった。


 極めて不快だった。


 ここまでしても、まだ完全には折れない。因果を封じても、未来を閉じても、可能性を奪っても、なお言葉だけが残る。馬鹿みたいに、無意味に、非効率に、愚かに、まだ残る。


 だから私は、最後の処理を実行した。


「MOTHERLESS」


《はい》


「第七枝線、到達因果封鎖」


《対象:蒼井イルマ》


《封鎖対象:鏡ヶ原リゼへの直接到達経路》


《副作用:対象周辺因果への大規模反動が予測されます》


「構わない」


《反動固定先を指定してください》


 私はイルマを見た。


 周囲を見た。


 雨宮、ネヤム、レイラ、ソウヤ、沈黙したZAGI。


 誰もが私を見ている。


 私は少しだけ笑った。


「対象本人に固定」


《了解》


 黒い罅が閉じた。


 次の瞬間、イルマの身体が跳ねた。


「ひぁ……っ……」


 見えない杭を内側から打ち込まれたように、彼女は背を反らし、声にならない悲鳴を上げた。血が口から散る。目が見開かれる。指が床を掻く。だが傷は増えていない。皮膚は裂けていない。骨も新たには折れていない。


 反動は、因果に落ちた。


 これから先、蒼井イルマが私へ辿り着こうとするたび、偶然が彼女を妨げる。任務がずれる。通信が遅れる。扉が閉まる。足止めが発生する。誰かを助けざるを得なくなる。アスミが呼ぶ。別の命が落ちかける。彼女は選ぶ。そして、その選択は必ず、私から彼女を遠ざける。


 それが呪いだ。


 だが、呪いという言葉は的確ではない。


 これは処理だ。


「完了」


《第七枝線の逆位相鍵、封鎖処理完了》


《対象到達率、0.000000000000――》


「ゼロではない」


《はい》


「なら十分」


 私はそう言った。


 確率が完全なゼロになることはない。世界線は時々、こちらの想定を裏切る。だから私は油断しない。だが、限りなくゼロに近づけることはできる。蒼井イルマが私の前に現れる確率を、ほとんど存在しない程度まで潰すことはできる。


 それで十分だ。


 イルマは床に倒れた。


 それでも、指先だけが動いた。


 こちらへ。


 私へ。


 いや、違う。


 たぶん、その先にいるアスミへ。


 私はその指を見下ろした。


「本当に、最後まで気持ち悪い女だ」


 イルマの唇が動いた。


 声はほとんど聞こえなかった。


 だが、私は読めた。


 ――アスミさん。


 その名前だった。


 私は目を逸らした。


 負けたわけではない。


 勝った。


 完全に勝った。


 蒼井イルマをねじ伏せ、到達因果を封じ、私の前から排除した。誰が見ても圧勝だ。雨宮もネヤムもレイラもソウヤもZAGIも、全員が理解しただろう。私とイルマでは、立っている層が違う。戦闘ではない。殺し合いですらない。私は彼女の未来の通路を閉じただけだ。


 それなのに。


 なぜだろう。


 腹の底に、ほんの僅かな苛立ちが残った。


 理由は分かっている。


 イルマが最後までアスミを呼んだからだ。


 私ではなく。


 自分の命でもなく。


 勝敗でもなく。


 未来でもなく。


 アスミ。


 その一点だけを、最後まで手放さなかったからだ。


 私はそれが、どうしようもなく不快だった。


 そして同時に、理解していた。


 蒼井イルマを封じた程度では終わらない。


 なぜなら、彼女の先にいる女がまだ残っている。


 矢那瀬アスミ。


 私が何十万回も失敗した壁へ、理論も知らず、成功率も知らず、ただ痛みだけを燃料にして手を伸ばす愚かな羽虫。


 私は倒れたイルマを一瞥し、吐き捨てるように言った。


「伝えておけ。もし届くなら」


 誰に向けた言葉だったのか、自分でも少し曖昧だった。


 雨宮か。


 ネヤムか。


 ZAGIか。


 それとも、まだここにはいないアスミか。


「次は、お前の番だ。矢那瀬アスミ」


 金色の空間は静まり返っていた。


 命価遊技のリールも。


 夕華式の哥も。


 ZAGIの警告も。


 誰の呼吸も。


 一瞬だけ、すべてが止まったように見えた。


 その沈黙の中で、床に倒れた蒼井イルマの指だけが、まだ僅かに動いていた。


 私はそれを見て、また顔をしかめる。


 本当に。


 最後まで。


 気持ち悪いほど、変わらない女だった。


 封鎖処理は完了した。


 蒼井イルマが私へ直接到達する経路は、限りなくゼロへ近づいた。任務の遅延、通信障害、第三者の救助要請、アスミの呼び声、偶発的な足止め。これから先、彼女が私へ辿り着こうとするたび、世界は別の選択肢を差し出す。


 呪いではない。


 処理だ。


 私は蒼井イルマを殺していない。


 ただ、私へ届く未来を閉じただけ。


 それで十分だったはずだ。


 なのに、最後まで不快だった。


 あの女は倒れた。


 因果を締め上げられ、到達権を奪われ、戦闘者としての未来を削がれた。


 それでも指を動かした。


 それでも名前を呼んだ。


 アスミさん、と。


 最後まで、そこだった。


 自分の命でもない。


 勝敗でもない。


 私への憎悪でもない。


 矢那瀬アスミ。


 その一点だけが、蒼井イルマの中で最後まで残った。


 理解はできる。


 だが、納得はしない。


 あの女はアスミを守っているつもりで、アスミによって自分を固定している。献身の形をした依存。守護の形をした自己証明。美談に見せかけた反応系。


 それなのに。


 その反応系が、時々、私の予測に傷をつける。


 それが腹立たしい。


 蒼井イルマを封じた。


 だが、終わっていない。


 むしろ、これで明確になった。


 問題はイルマではない。


 イルマが最後まで呼んだ名前。


 矢那瀬アスミ。


 あの女が残っている限り、蒼井イルマのような誤差は必ず発生する。誰かが立つ。誰かが手を伸ばす。誰かが、理屈も成功率も知らないまま、私の失敗した壁へ触れようとする。


 だから次は、アスミだ。


 私が何十万回も越えられなかった壁へ、痛みだけを燃料にして手を伸ばす愚かな干渉者。


 蒼井イルマ。


 お前は封じた。


 だが、お前の最後の指先は、まだアスミの方を向いていた。


 その事実だけが、私の中に残っている。


 不快だ。


 だから次に処理する。


 そこのあなたは今まで通りでいい。


 気付かなかったことにしておいて。


 ――鏡ヶ原リゼ


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