EP194. 逆位相の番犬と、届かない牙
蒼井イルマという個体について、先に結論を書く。
あれは強者ではない。
英雄でもない。
守護者でもない。
ただの反応系だ。
矢那瀬アスミという入力に対して、過剰な忠誠、怒り、保護衝動、自己犠牲、戦闘行動を出力する。構造としては単純。解析も容易。対処も本来なら難しくない。
だが、問題はそこではない。
蒼井イルマは、壊しても停止しない。
折っても、立つ。
奪っても、前へ出る。
失わせても、同じ目でこちらを見る。
それは勇気ではない。精神論でもない。もっと不快なものだ。世界線が変わり、環境が変わり、記憶が失われ、状況が書き換わっても、なお同じ振る舞いを再現する、異常な恒常性。
私はそれを何度も観測した。
そして、何度も不快になった。
今回の蒼井イルマは、まだ私を知らない。アスミから聞いた断片的な警告と、鏡ヶ原リゼに一致する識別コードだけを頼りに、私を危険対象として処理している。
浅い。
あまりにも浅い。
だが、その浅さのまま私の前に立つ。
それが腹立たしい。
何も知らないくせに。
何万回も失敗した未来を知らないくせに。
アスミがどれほど危険な存在かも知らないくせに。
それでも、あの女は言うのだろう。
制圧する、と。
だから、この記録を残す。
蒼井イルマを倒すためではない。
蒼井イルマという現象が、なぜ私の予測に小さな傷をつけ続けるのか。
その不快な誤差を、ここで再検証する。
蒼井イルマが「制圧する」と口にした瞬間、私は思わず顔を覆いたくなった。もちろん恐怖でも緊張でもない。本当に、心の底からうんざりしたのである。
何だそれは?
またそれか?
本当にそれしかないのか?
世界線が違っても、お前は毎回同じことを吐くのか?
私はしばらく彼女の顔を眺めていた。
青い瞳。無駄のない姿勢。即応戦闘態勢。周囲の被害を計算しながら、それでも最短距離で敵を制圧しようとする思考回路。その全部に見覚えがあった。
いや、見覚えがあるという表現は生ぬるい。私は知りすぎていた。蒼井イルマという人間を。本人よりも、おそらく彼女を慕う者よりも、彼女が命を賭けて守ろうとしている矢那瀬アスミよりも、ずっと深く、ずっと長く、ずっと不愉快な密度で知っていた。
イルマは私を睨んでいた。だが、その視線には完全な確信がない。敵を見る目ではある。危険対象を見る目でもある。
けれど、既知の相手を見る目ではない。アスミから聞いた断片的な警告、識別コード、鏡ヶ原リゼと一致する外見、しかし元のリゼとは明らかに違う発話、姿勢、反応速度、殺意の質。それらを彼女なりに組み合わせて、目の前の私を「リゼではない何か」として処理している。そこまでは悪くない。悪くはないが、浅い。あまりにも浅い。
だから私は、彼女がこちらを測るより先に、その測定の未熟さを切り捨てることにした。
「識別コードは一致。けど、反応が違う。アスミさんが言っていた危険個体の条件にも近い。だから止める」
イルマはそう言った。冷静な声だった。戦闘者としては悪くない判断だ。正体不明の対象を相手に、不要な会話を避け、識別情報と危険度だけで行動へ移る。
だが私は、その言葉を聞いた瞬間に笑ってしまった。危険個体。条件に近い。止める。なんて可愛い分類だろう。まるで嵐を「風が強い」と報告する観測員みたいだった。
「アスミから聞いたのか?」
私がそう言うと、イルマの肩が僅かに動いた。ほんの僅かな反応だったが、私にはそれで十分だった。アスミの名を出した瞬間に反応する。戦闘中でも、損傷中でも、未知の敵を前にしていても反応する。本当に分かりやすい。私はその揺らぎを見ながら、早くもこの女の核心へ指が届いた感覚を覚えていた。
「アスミさんの名前を、気安く出さないで」
「気安く?」
私は少しだけ首を傾けた。心底不思議だった。名前を呼ぶことに資格が要ると思っているのか。それとも、お前はアスミの門番のつもりなのか。私はゆっくり息を吐きながら続けた。
「お前はあの女の所有物か?あるいは神殿の番犬か?名前を出す権限まで管理しているつもりなら、ずいぶん献身的なことだな」
イルマの目が細くなる。だが、すぐには踏み込まない。私が元のリゼとは違う個体だと認識しているからだ。危険だと判断しているからだ。正体不明の相手に無策で突っ込むほど馬鹿ではない。そのあたりは評価してもいい。だから私はさらに不愉快だった。強い。正しい。冷静だ。だから読める。だから届かない。
「あなたが何者かは知らない。けど、リゼの姿でその声を出している時点で、放置する理由はない。制圧する」
「何者かは知らないのに制圧するのか?」
「危険なら止める。正体の確認はその後でいい」
「逆だろう。正体も知らない相手を止められると思う方が傲慢だ」
「止められるかどうかじゃない。止めると決めた」
その返答に、私は一瞬だけ目を細めた。理屈ではない。決定だ。因果ではなく意志だ。私はそういうものが嫌いだった。なぜなら、それはしばしば確率の外側へ足を出すからだ。理屈で動く相手は読みやすい。損得で動く相手も読みやすい。恐怖で動く相手も、怒りで動く相手も、欲望で動く相手も、結局は数式に落とせる。だが「決めた」と言う人間は面倒だ。その言葉の中にあるのは、計算ではなく自己固定だからだ。
「反吐が出るほど、アスミに似ているな」
私がそう言うと、イルマの顔が分かりやすく険しくなった。
「似ている?」
「そうだ。根拠が薄いくせに結論だけは早い。理論が足りないくせに行動だけは速い。失敗の総量を知らないくせに、自分の選択だけは正しいと思っている。愚かなところがよく似ている」
「アスミさんを侮辱するな……」
「侮辱ではない。分類だ」
「それが侮辱だと言ってる……!」
「フッ……、クク……」
イルマの指がアンカーバスターのグリップを握り直す。私はその動きも見ていた。怒りで出力が上がる直前の動き。左肩に余計な力が入る前兆。踏み込みの角度が半度変わる。視線が一瞬だけ私の足元へ落ち、次に肩へ戻る。拘束の起点を探している。逃走ではなく制圧。殺害ではなく固定。蒼井イルマらしい。相手を殺すより先に、行動を奪おうとする。合理的だ。だから読みやすい。
「何がおかしい……」
イルマが低く言った。ああ、その声も知っている。怒っている時の声だ。自分では冷静なつもりの声だ。だが私は知っている。お前は怒っている。怒りながら理性を保とうとしている。理性を保ちながら怒ろうとしている。その不器用さまで含めて、何も変わらない。私は肩を竦めた。
「別に。何度も踏み潰した虫が、何に対して怒りを燃やしているのか理解できないだけだ」
もちろん「別」ではなかった。別であるはずがなかった。目の前にいるこの女は、私が渡ってきた世界線のどこかで何度も私の邪魔をし、何度も私の予測を汚し、何度も私の選別した未来に傷をつけてきた。そして何より不快なのは、この女が私のことをまだ知らないことだった。
今のイルマは、私を完全には認識していない。彼女の目に映っているのは、鏡ヶ原リゼという識別コードに一致した危険対象であり、同時にアスミから断片的に聞かされていた何かの輪郭だった。元々のリゼとは違う。明らかに別個体。人格反応が違う。姿勢が違う。発話の温度が違う。そういった判断はしているのだろう。だが、その程度だ。その程度の浅い識別で私を制圧しようとしている。
だから私は笑った。笑うしかなかった。何も知らないくせに。何も理解していないくせに。お前の知っているアスミから聞いた断片的な警告だけで、私の前に立てると思っているのか。
「何をだ」
イルマが問う。短い言葉だが、その内側で思考が動いているのは分かった。私が何者か。なぜ自分の名を知っているのか。なぜ鏡ヶ原リゼの外見でありながら別の人格反応を示しているのか。なぜ今の攻撃を受けても焦りがないのか。どこまでが脅威で、どこからが未知か。
彼女はそれを分類しようとしている。その癖も知っていた。理解できないものを理解しようとする癖。理解できれば対処できると思っている癖。だから私は、わざと先回りすることにした。
「本当に変わらないな、お前。次にお前は私が何者か考える。その次に情報を集める。その次に戦闘で確認する。そして失敗する。私は何度も見た。お前がそうやって、正しい手順で、正しい判断をして、正しい速度で、正しく負けるところを」
「……あなた、本当に私を知ってるみたいに喋るのね」
イルマはそこで初めて、わずかに会話の角度を変えた。警戒と怒りだけではない。疑念が混ざっている。私はその変化に少しだけ満足した。ようやくそこへ来たか。だが遅い。遅すぎる。
「知っている」
「私はあなたを知らない」
「だろうな」
「なのに、なんで私を知ってる……」
「お前が立ち上がり続けたからだ」
イルマが僅かに眉を寄せる。分からないという顔だ。私はその顔を見ながら続ける。
「私は価値のない人間を覚えない。死んだ者、壊れた者、諦めた者、従った者、逃げた者。そういうものは記録に残しても邪魔になるだけだ。だが、お前は残った。何度処理しても、何度壊しても、何度失わせても、必ずどこかで立ち上がる。だから覚えた。お前が特別だからではない。しつこいからだ」
「褒めてるつもり?」
「侮辱している」
「なら、ありがと。あなたに褒められるよりずっといい」
その返しに、私は少しだけ眉を動かした。そういうところだ。痛みを軽口に変える。傷を言葉の支えにする。折れそうな身体のまま、まだ自分の形を保とうとする。イルマはそういう女だった。だから面倒だった。だから記憶に残った。だから嫌いだった。
空気が変わった。イルマの目が細くなる。
「本当に分かりやすい。だから退屈なのだ」
「黙れ」
たったそれだけだが、私はその一語だけで十分だった。
戦闘に入った蒼井イルマは急激に語彙が減る。頭の回転が止まるわけではない。むしろ速くなる。ただ、思考の大半を戦闘へ回すせいで会話能力が死ぬ。目の前の敵を倒すことに最適化され、言葉の使い方が荒くなる。怒りと制御の境界が薄くなる。だから私はさらに言った。
「またそれか。お前、本当に語彙が少ないな」
「黙れ……!!」
私は思わず笑う。
「ほらな。もう二回目だぞ」
彼女はほんの一瞬だけ唇を噛んだ。怒りではない。図星を突かれた時の反応だ。本人は認めないだろうが、私は知っている。痛いところを突かれた人間はまず怒る。怒りで覆えないほど深い場所を突かれた時だけ、沈黙する。今のイルマはまだ怒れる。つまり、まだ浅い。まだ壊れていない。まだ剥がせる皮が残っている。
そこでイルマが動いた。床が砕け、踏み込みの衝撃が粉塵を巻き上げ、アンカーバスターが展開される。巨大な拘束杭が空間を裂いて飛来し、周囲で悲鳴が上がる。誰かが叫んでいる。何を叫んでいるのかは知らない。興味もない。私の視界にはイルマしかいなかった。
そしてそのイルマは、相変わらず私の知っているイルマだった。軌道が分かる。癖が分かる。狙いが分かる。最初の一本は牽制。二本目は進路封鎖。三本目は重心移動の誘導。四本目は足を止めるための保険。五本目は本命ではなく、私が本命だと思い込むことを期待した囮。
その組み立ては悪くない。むしろ、この時代のイルマにしてはかなり精度が高い。だが、私はその攻撃で何度も殺されかけた。昔は。遥か昔は。今の私は知っている。知りすぎている。だから避ける必要すらない。
私はその場に立ったまま、飛来するアンカーを眺めていた。結果として、拘束杭は頬の横を掠め、髪を数本切っただけで終わった。イルマの瞳が開かれる。その反応を見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。
「その顔」
「何だ」
私は少しだけ首を傾けた。
「久しぶりに見た。理解できない時の顔だ」
「何を言っている……」
さらに踏み込む。出力が上がる。アンカーが増える。速度も上がる。正しい判断だった。だから駄目だった。
蒼井イルマはいつだって正しい。だから届かない。間違った人間は予測できない。狂った人間も予測できない。だが正しい人間は予測できる。論理で動くから。経験で動くから。誇りで縛られているから。自分の中で正しいと判断した行動を捨てられないから。だから私は知っている。次に何をするか。その次に何をするか。どこで怒り、どこで無茶をし、どこで諦めず、どこで負けを拒否するのか。その全部を知っている。
「左肩」
私は言った。イルマの身体が僅かに止まる。彼女は反射的にその情報の意味を探ったのだろう。私は続ける。
「三秒後に力む。二秒後に怒る。一秒後に無茶をする」
「黙れッ……!!」
ほらな。私は笑った。本当に変わらない。だから覚えている。だから面倒だった。だから嫌いだった。
私はアンカーの嵐の中を歩いた。散歩でもするみたいに、一本が横を通り、もう一本が背後を通り、さらに一本が髪を掠める。だが当たらない。当たるはずがない。私は知っている。お前を知っている。お前が思っているより、お前自身より、ずっと。
「蒼井イルマ……お前、本当に気持ち悪いな」
その言葉にイルマの眉が動いた。怒ったのではない。困惑したのだ。私はそれが少しだけ面白かった。今の言葉は罵倒だが、私の中では評価でもある。普通は折れる。百回負ければ折れる。千回負ければ壊れる。一万回負ければ死ぬ。なのにお前は毎回立ち上がる。だから覚えている。それは私にとって最大級の評価だったが、本人にそんなつもりはない。
ただの事実だった。
「だから何だ……!!」
イルマが吐き捨てる。昔も血を流しながら、怒りを隠さず、それでも前へ出ながら、「だから何だ」と繰り返す。
私はしばらく考えた。そして本当に不思議そうに首を傾げた。いや、別に特に意味はない。
私は指を一本伸ばす。
額へ。軽く。本当に軽く触れる。
イルマの瞳が開かれる。防御、回避、迎撃、全部やる。全部正しい。だから意味がない。
「ただ、お前が何万回やり直しても、私には届かなかったって話だ」
私はイルマの額を指で弾いた。
「……な?……っあ……!?」
衝撃は、彼女の身体を施設の奥へ叩き込んだ。壁が割れ、隔壁が歪み、瓦礫が波のように押し広げられる。
私はその結果を見ても特に何も感じなかった。
蒼井イルマは死なない。死ぬなら、それは蒼井イルマではない。私が知る限り、この程度で死ぬ個体ではない。
案の定、瓦礫の奥で鉄筋が軋み、粉塵の中から血まみれの影が起き上がる。私はその姿を見ながら、うんざりと、苛立ちと、そしてほんの僅かな不快な納得を同時に覚えていた。
私は蒼井イルマを見ていた。見ていたというより、確認していたという表現の方が正確だったかもしれない。別に生存確認をしたいわけではない。この程度で死なないことなど知っている。
むしろ死んだら困る。困るというのも少し違う。
期待外れと言うべきか。何故なら蒼井イルマという人間は、私の中では既に一つの現象として分類されているからだ。雨が降れば地面は濡れる。重力があれば物は落ちる。
そして蒼井イルマは立ち上がる。そこに感情は介在しない。好き嫌いですらない。ただそういう現象として存在している。だからこそ私はうんざりしていた。
瓦礫を押し退けながら立ち上がるその姿は、正直なところ見飽きていた。世界線が違っても同じだった。文明水準が違っても同じだった。戦争の規模が違っても同じだった。人類が滅びかけていても同じだった。仲間を失っても同じだった。アスミを失っても同じだった。
毎回立ち上がる。毎回こちらを見る。そして毎回戦おうとする。その一貫性だけは認めてもいい。認めてもいいが、だから理解できるわけではない。
私は理解できないものが嫌いだ。理解できるものは分類できる。分類できるものは利用できる。利用できるものは管理できる。だが理解できないものは違う。観測結果として存在しているにもかかわらず理屈が成立しない。
そして蒼井イルマという存在は、私にとってまさにその理屈の外側にいた。
だから私は覚えている。数え切れないほどの人間を見てきた。私を憎んだ人間もいた。私を崇拝した人間もいた。私を神だと思った馬鹿もいた。私を怪物と呼んだ人間もいた。
私を殺そうとした人間もいた。その大半は記憶から消えた。価値がなかったからだ。死んだ人間の名前を何十万も覚えていられるほど私は暇ではない。
だが蒼井イルマだけは消えなかった。何故なら結果が同じにならなかったからだ。普通は途中で壊れる。途中で諦める。途中で折れる。ところがこの女は違う。折れても立つ。壊れても立つ。絶望しても立つ。
だから記憶に残る。記憶に残るから余計に嫌いになる。その繰り返しだった。
イルマは口元の血を乱暴に拭いながら、瓦礫の上でどうにか身体を支えていた。肩が落ちている。呼吸も乱れている。肺の一部は潰れているだろう。肋骨も何本か持っていった。まともに立っていること自体がおかしい。それでも睨んでくる。その視線を見た瞬間、私は思わず笑いそうになった。本当に変わらない。世界線が何万回分岐しても変わらない。
私は変わった。変わらざるを得なかった。未来を観測するたびに変わった。失敗するたびに変わった。過去へ自分を送り込む実験に失敗するたびに変わった。能力を持たない世界線へ弾き飛ばされるたびに変わった。過去の私自身に拒絶されるたびに変わった。脳を焼き切る寸前まで抵抗されるたびに変わった。何十万回も失敗した。何十万回も。途中から回数を数えることすらやめた。
それでも私は変わった。だがイルマは変わらない。その異常さが腹立たしかった。
いや、違う。腹立たしいのは変わらないことではない。変われるはずなのに変わらないことだ。私は知っている。人間は環境で変わる。喪失で変わる。絶望で変わる。痛みで変わる。だから私は変わった。何十万回も変わった。変わらなければ耐えられなかったからだ。だがイルマは違う。変わる理由がいくらでもあった。それでも変わらなかった。まるで最初から答えを決めているみたいに。まるで誰か一人だけを基準にして生きているみたいに。その在り方が、どうしようもなく気に入らなかった。
「……またその顔か」
私が呟くと、イルマは血を吐きながら、それでも声の芯だけは失っていない。
「……っ……そっちこそ、毎回同じこと言ってるじゃない」
掠れた声だった。それでも妙に強い。
「飽きないのか」
「飽きてるわよ」
「じゃあ何故立つ」
「立たないと終わるから……!!」
「終わればいいだろう」
「嫌……!!」
あまりにも単純な返答に、私は眉をひそめる。
「理屈になっていない。因果も計算もない」
「別に理屈で立ってない……!!」
私はその言葉に一瞬だけ沈黙した。瓦礫の上で血まみれになりながら、それでも冗談めかして言う。その姿が腹立たしい。理解できないからではない。
「理由のない行動は再現性がない」
「じゃあ私は再現性の塊じゃない。毎回立ってるんだから」
その返しは稚拙で、乱暴で、理論としては破綻している。だが、観測結果としては正しい。だから私は余計に苛立った。間違っているのに、現象として成立しているものほど不快なものはない。
そして結局のところ、私が本当に苛立っている理由はイルマ自身ではないのだろうと改めて思う。
問題はその背後にいる。どの世界線を観測しても、どの結末を覗いても、蒼井イルマという女を辿ると最後には矢那瀬アスミへ行き着く。
私はそれが気に入らなかった。
矢那瀬アスミという女は、私にとって理論の外側にいる。
私は未来を観測する。数億の可能性を観測する。確率がゼロでない限り、そこへ収束する未来を掴み取る。そして因果を捻じ曲げる。
それが私の能力だ。
昔は自由だと思っていた。未来を選べるのだと思っていた。頭を撃たれれば不発の未来を選び、事故に遭えば回避した未来を選び、敗北すれば勝利した未来を選ぶ。私はそうやって生き延びてきた。
だが違った。今なら分かる。私は選んでいたのではない。選ばされていた。能力を使うたび、私はW3を補強していた。私がいる最悪の未来を。私は脱出しようとしていた。
だが実際には檻の補強工事をしていただけだった。能力を使えば使うほど、因果は最も効率良くW3へ到達する形へ収束していく。私はそれを理解してしまった。理解してしまったからこそ、もう後戻りはできなかった。
だからアスミが嫌いだった。理論を知らないから嫌いなのではない。因果律を知らないから嫌いなのでもない。私が何十万回も失敗した方法へ平然と手を伸ばすから嫌いだった。
私は知っている。過去改変がどれほど困難か。未来起点の人格固定がどれほど不安定か。世界線収束がどれほど強固か。全部知っている。その結果として私は諦めた。正確には諦めざるを得なかった。
ところがアスミは違う。諦めない。
理論も知らない。成功率も計算しない。
それなのに進む。その姿が気に入らなかった。
気に入らないという言葉だけでは足りない。私は恐れていた。認めたくないが恐れていた。もし届いたらどうする。もし成功したらどうする。もし私が何十万回も越えられなかった壁を越えたらどうする。その可能性だけが私には許せなかった。
だからイルマを見るたびに腹が立つ。この女は何も知らない。私が積み上げた失敗の総量を知らない。私が何十万回も繰り返した実験を知らない。私がどれだけの人格を捨て、どれだけの未来を踏み潰してきたのかも知らない。それなのに平然と立っている。アスミの隣に。私が届かなかった場所の近くに。だから私は笑うしかなかった。
「なあ、蒼井イルマ」
私はそこで口を開いた。だがそれは問い掛けではなかった。答えは知っているからだ。ただ観測結果を確認したかっただけだ。
「お前、本気で自分がアスミを支えている側だと思っているのか」
イルマの眉が僅かに動く。私がアスミの名を口にした瞬間、彼女の呼吸が変わった。それは戦闘反応ではない。もっと個人的で、もっと深い場所から出る反応だ。彼女は私を警戒している。アスミさんから断片的に聞いた危険人物。鏡ヶ原リゼの識別コードと一致するが、元のリゼとは違う何か。そう認識しているのだろう。だが、アスミの名に反応したその一瞬だけは、危険対象を見る目ではなかった。守るべき名前を汚された者の目だった。
「……アスミさんの名前を、気安く出さないで」
イルマはそう言った。怒りを抑えている声だった。だが私は、その抑制がかえって彼女の依存の深さを示しているように見えて、心底不愉快になった。
「気安く?」
私は笑った。
「面白い言い方をする。お前はあの女の所有物か、あるいは門番か。名前を出す権限まで管理しているつもりなのか」
「違う」
「なら何だ」
「アンタみたいな得体の知れないものに、アスミさんを語られたくないだけ」
その言葉には怒りがあった。だが同時に、迷いもあった。イルマは私を完全には知らない。危険人物として認識している。リゼの姿をした別個体として警戒している。けれど、私がアスミを知っていることは理解してしまっている。だから揺れる。否定したいのに、否定しきれない。そこが可哀想だった。いや、可哀想ではない。滑稽だった。
「得体が知れないもの、か。まあ、今のお前の認識としては妥当だな。アスミから何か聞いているのだろう。鏡ヶ原リゼに似た何か。世界線を渡る危険因子。未来から来る可能性。そういう断片を。だが残念ながら、お前が知っている情報は全部浅い。浅すぎる。危険人物という分類で私を扱うには、世界線の数が足りない」
「何が言いたいの」
「そのままの意味だ」
私は肩を竦める。
「お前は勘違いしている。アスミを守っているつもりでいる。支えているつもりでいる。だが実際は逆だ」
「逆?」
「ああ」
私は笑った。
「お前がアスミに寄り掛かっている」
イルマの目が細くなる。今度は明確に怒った。彼女は一歩踏み出そうとして、身体の損傷に妨げられた。足が僅かに沈み、呼吸が詰まり、それでも彼女は私を睨みつけたまま言う。
「ふざけないで……!!」
「ふざけていない」
「アスミさんがどれだけ無茶すると思ってるのよ。放っておいたら真っ先に自分を後回しにする。自分が壊れても、誰かのために動こうとする。だから私が止める。だから私が前に出る。だから私が――」
「だからお前が必要だと?」
私は言葉を遮った。
「そう思いたいだけだ」
空気が張り詰める。イルマは何かを言い返そうとして、一瞬だけ言葉を失った。その反応だけで十分だった。私は知っている。痛いところを突かれた人間ほど、最初に沈黙する。怒るのはその後だ。否定するのはさらにその後だ。最初の一瞬だけ、真実に触れてしまう。
私はイルマの目を見ながら、ゆっくり続けた。お前はアスミがいるから立てる。アスミがいるから戦える。アスミがいるから正しさを信じられる。アスミがいるから蒼井イルマでいられる。そう言えば、イルマは「違う」と言うだろう。だから私はその言葉を待たずに続けた。
「お前がアスミを守っているのではない。お前はアスミという存在を使って、自分を維持している。自分が必要とされていると信じたいから命を張る。自分が彼女の隣にいる資格があると証明したいから前へ出る。自分の感情を献身という形に包装して、まるで美しいものみたいに扱っている。だがな、蒼井イルマ。それは愛でも献身でもない。依存だ」
イルマの拳が強く握られる。血が指の隙間から落ちる。だが彼女はすぐには殴りかかってこない。身体が壊れているからではない。言葉が刺さったからだ。私はそれを見て、さらに続ける。
「アスミがいなくなった世界線で、お前は何度壊れたと思う?」
「黙れ」
「何度絶望したと思う?」
「黙れ」
「何度アスミを追い掛けたと思う?」
「黙れ!」
怒声が響く。だが私は確信していた。この女は気付いている。気付いていて認めたくないだけだ。私はイルマの反応を見る。その僅かな揺らぎを見ながら、この女がまだ完全には自覚していないことを確信していた。自分が支えているのではない。寄り掛かっているのだということを。守っているのではない。利用しているのだということを。そして何より、自分がアスミを必要としている量と、アスミがお前を必要としている量が同じだと本気で思い込んでいることを。
「お前はアスミの駒だ」
私は静かに言った。
「違う」
「捨て駒だ」
「違う!」
「都合の良い女だ」
その瞬間、イルマの顔が変わった。怒りではない。怒りよりも深い場所が傷ついた顔だった。私は知っている。その顔も見たことがある。アスミのために命を張った者たちが、自分が唯一ではないと知った時の顔。自分の献身が美談ではなく配置された役割にすぎないと気付いた時の顔。私は何人も見た。そして何人も壊した。
「違うと言いたいなら言えばいい。だが、お前の否定には根拠がない。お前はアスミのためなら動く。アスミが危険なら前へ出る。アスミが泣けば怒る。アスミが自分を壊せば、その壊れ方を自分の痛みみたいに受け取る。お前は自分で選んでいるつもりなのだろうが、外から見れば反応系だ。入力がアスミで、出力が蒼井イルマ。それだけの装置だ」
「アンタに……何が分かる」
イルマの声は低かった。だが震えていた。私はその震えを聞き逃さなかった。
「分かる。嫌になるほど分かる。私は見た。お前のような人間を何人も見た。アスミのために剣を取った女を見た。銃を持った男を見た。世界を敵に回した者を見た。自分の名前を捨てた者を見た。自分の人生を切り捨てた者を見た。全員、同じような顔をしていた。自分は特別だと思っていた。自分だけが彼女を理解していると思っていた。自分だけが彼女を守れると思っていた。だが、結果は同じだった。死んだ。壊れた。消えた。あるいは生き残っても元には戻らなかった」
イルマは何も言わない。私は続ける。
「でもアスミは残った」
その言葉を落とした瞬間、イルマの呼吸が止まった。ほんの一瞬。だが十分だった。
「お前にとっては残酷だろうが、観測結果としてはそうだ。アスミの周囲にいる者は死ぬ。壊れる。消える。けれど彼女は残る。何故なら彼女は過去へ向かうからだ。彼女は自分の痛みを燃料にできる。失ったものを目的に変換できる。だから残る。だから進む。だから恐ろしい。お前はその隣に立っているつもりだろうが、実際には彼女が進むための足場の一つにすぎない」
「やめろ」
「やめない」
「それ以上、アスミさんを侮辱するな……!!」
「侮辱しているのはお前だ」
私は即答した。
イルマの目が揺れる。
「お前はアスミを守りたいと言いながら、彼女を自分の存在理由にしている。彼女の痛みを自分の価値証明に使っている。彼女の危うさを、自分が必要とされるための条件にしている。だから言っただろう。お前は彼女を守っているのではない。彼女に寄り掛かっている」
イルマは血を吐きながら、それでもこちらへ一歩踏み出した。身体は限界に近い。だが目は折れていない。その目を見て、私はまた腹が立った。なぜ折れない。なぜ崩れない。なぜそこまで言われてもまだ立つ。私はその問いを口にはしなかった。口に出せば、自分がこの女に動揺していることを認めることになるからだ。
「アンタは……」
イルマが言った。
「アスミさんを知ってるような口を利くけど、たぶん何も見てない」
私は眉を動かした。
「何?」
「アンタが見てるのは、アスミさんの周りで誰が死んだかとか、誰が壊れたかとか、そういう結果だけでしょ。アスミさんが何を背負って、それでもどうやって立っていたのかを見てない」
その言葉に、私は初めて明確な不快感を覚えた。イルマは続ける。
「私もアンタのことを全部知ってるわけじゃない。アスミさんから少し聞いただけ。リゼに似た危険な何かがいるかもしれないって。世界線を弄る、最悪の未来から来る何かがいるかもしれないって。だから識別コードが一致した時点で止めると決めた。でも今なら分かる。アンタは危険だから止めるんじゃない」
イルマは苦しそうに息を吸った。
「アンタは、アスミさんを怖がってるから止めるんだ」
その瞬間、私は笑った。笑ったつもりだった。だが、頬の筋肉が思ったより硬かった。イルマの言葉は雑だ。理論もない。根拠も浅い。だが、その浅い言葉が不快だった。なぜなら近かったからだ。正解ではない。だが近かった。
「随分と安い分析だな」
「アンタほど高尚じゃないからね」
「無知は強いな。何も知らないから、そんなことが言える」
「知ってるよ」
「何を」
「アスミさんが、それでも進む人だってこと」
イルマの声は掠れていたが、その言葉だけは妙にはっきりしていた。
「アスミさんは怖がりだし、無茶するし、自分を後回しにするし、失敗もする。でも、誰かを道具みたいには扱わない。少なくとも、アンタみたいには」
私は少しだけ目を細めた。
「綺麗事だな」
「そうかもね」
「その綺麗事で何人死んだと思う」
「知らない」
「知らないのに語るのか」
「知らないから、これから止めるんでしょ!!」
私は沈黙した。イルマはその沈黙を勝利だとは思っていないだろう。ただ、立っている。血まみれで、壊れかけで、それでも立っている。それが不快だった。あまりにも不快だった。
私はゆっくり息を吐いた。怒りではない。少なくとも、そう分類した。怒りという言葉はあまりに人間的で、私には似合わない。これは誤差だ。観測結果と予測結果のズレだ。蒼井イルマという個体は、何度見ても完全には収束しない。だから嫌いだ。だから覚えている。だから、今ここで壊しておく必要がある。
「なら立っていろ、蒼井イルマ」
私は右手を持ち上げた。
「お前がアスミの隣に立つ資格を、私が検証してやる」
イルマはアンカーバスターを構え直した。腕は震えていた。呼吸も荒い。まともに戦える状態ではない。それでも、彼女は笑った。
「上等……じゃない……」
その笑顔を見た瞬間、私はまた思った。
本当に気持ち悪い女だ、と。
結果から言えば、蒼井イルマは壊れなかった。
正確には、肉体は壊れた。
肋骨、肺、筋繊維、神経伝達、姿勢制御。どれも綺麗に損傷していた。通常個体なら戦闘続行不能。一般的な戦闘者なら意識を失う。低耐久個体なら死んでいてもおかしくない。
だが、蒼井イルマは立った。
まただ。
何度見ても不快な光景だった。
あの女は、自分が何をしているのか理解していない。アスミを守っているつもりで、自分の存在理由をアスミに預けている。献身と依存の区別もついていない。守護者のふりをした信者。番犬。反応系。そう分類するのが最も近い。
けれど、完全には一致しない。
そこが問題だ。
入力がアスミで、出力がイルマ。
その構造は正しい。
だが、時々、予測値から外れる。
こちらが折れる角度を与えても、折れない。
言葉で傷を入れても、崩れない。
肉体を砕いても、視線だけが残る。
その視線が、アスミに似ているのが最悪だった。
根拠が薄い。
理論が甘い。
成功率も知らない。
それなのに進む。
私は、その手の人間が嫌いだ。
なぜなら、私が何十万回も観測し、計算し、失敗し、諦めざるを得なかった領域へ、何も知らないまま足を踏み入れるからだ。
アスミもそうだ。
イルマもそうだ。
あの二人は、違う形で同じ誤差を持っている。
アスミは世界線の外側へ手を伸ばす。
イルマは、そのアスミの隣に立つことで自分を固定する。
愚かしい。
非効率。
不安定。
だが、観測結果として無視できない。
私は蒼井イルマを嫌っている。
嫌っているから覚えている。
覚えているから、次はもっと正確に壊せる。
そうでなければ困る。
もし、あの女が何度壊しても立ち上がる現象だとするなら。
もし、アスミの隣にいる者たちが、私の知らない形で世界線へ干渉し始めているのだとするなら。
それは、ただの番犬ではない。
アスミへ至る導線だ。
ならば次は、蒼井イルマを倒すのではなく、その因果を断ち切る。
イルマが何を守り、何に寄り掛かり、どこで折れ、どこで折れないのか、正直どうでもいい。
イルマごときが、私の世界線に傷をつけられるものか。
そこのあなたは今まで通りでいい。
気付かなかったことにしておいて。
――鏡ヶ原リゼ




