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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP193. 簒奪者降臨

 これは、生存の記録ではない。


 私はまだ生きている。

 右腕は繋がっている。

 シオンの声は届いた。

 未来の私も、まだ存在している。


 ならば、この地獄は私を終わらせる場所ではない。


 夕華式は、人間を賭け札にした。

 ZAGIは、命を数値へ変換した。

 観客は、安全な場所から私の選択を値踏みした。

 ホノカは、壊れた笑みで私を覗き込んだ。


 けれど、盤面を観測した以上、もう遅い。


 私は恐怖を分類する。

 痛みを記録する。

 怒りを保存する。

 同情さえ、必要なら武器に変える。


 シオンが私を呼んだ。


 それだけで、十分だった。


 この第二演目で、私は賭場そのものを殺す。


 命を貨幣に変える機械も。

 欲望を理論に偽装する式も。

 安全圏から拍手する観客も。


 すべて、私の観測対象に入った。


 ――始める。


 雨宮が私の左手を引いた。


 引いた、というより、倒れかけた身体の重心を、かろうじて現実へ引き戻したと言う方が近かった。彼は医療者として私を支えているのではなく、破損した観測装置を現場から脱落させないために、左肩、背中、腰、膝の角度を無言で補正していた。私の右腕は固定具の中で重く垂れ、腕というより、私の身体に縫い留められた証拠品に近かった。


 機能しているとは言えない。


 雨宮の仮固定によって、肩から下が辛うじて接続されているだけだ。包帯、固定具、縫合糸、圧迫帯、そして雨宮自身の血液。それらが、私の右腕を私の身体へ留め置いている。だが、少し歩幅が乱れただけで、断端の奥から熱い針を何百本も差し込まれるような痛みが走り、息を吸うたびに右肩から首筋まで、火傷に似た神経痛が這い上がってくる。


「リゼ様、歩幅を落としてください。右上肢の仮固定部に牽引がかかっています。今の状態で転倒すれば、再断裂では済みません」


「……は、ぁ……説明が、長い……っ。要点、だけ……言いなさい……」


「倒れたら終わりです」


「……はぁ……最初、から……そう言えば、いい……」


「最初からそう言えば、あなたは無視します」


「……正しい、判断ね……っ」


 言葉を返すだけで、肺が軋む。


 呼吸が浅い。血が足りない。右腕の痛みは、発話のたびに喉元へ逆流し、語尾を潰す。自分の声が、普段の私のものではない。冷静で、平坦で、相手の逃げ道を塞ぐために研いできた声ではない。痛みと失血に汚され、息継ぎを挟まなければ維持できない、壊れかけた声だった。


 屈辱的だった。


 けれど、使えるなら使う。


 私は鏡ヶ原リゼだ。身体が壊れた程度で、観測を放棄する理由にはならない。


 雨宮の手が、わずかに強くなる。


 制止ではない。拘束でもない。私が倒れる確率を最小化するための物理的介入。人間の身体は、骨格と筋肉と神経と血管によって自立しているように見えるが、極限状態では、他者の手一本で辛うじて世界へ係留されることがある。


 不快だった。


 けれど、合理的だった。


 だから、振り払わない。


 その時、雨宮の端末が震えた。


 ミネルヴァ内部用の細い黒端末。医療班、収容管理班、観測班、上位権限者のみが閲覧できる閉域データベース。夕華式によって多くの権限は凍結されているはずだったが、雨宮は医療権限を迂回路として一部の生体記録へアクセスしていた。


「リゼ様。赤白木ホノカに関するデータが出ました」


「……はぁ……読んで……」


「この場でですか」


「……今、読む……価値が、あるから……あなたは、その顔を……したのでしょう……っ」


 雨宮は一瞬だけ沈黙し、端末の画面を確認した。彼の眉間に、嫌悪とも警戒ともつかない皺が刻まれる。雨宮は感情を見せない男ではない。ただ、感情を処置の邪魔にしない男だった。その雨宮が、一行目で呼吸をわずかに遅らせた。


「被験体識別番号、AKA-000。氏名、赤白木ホノカ。危険区分、終端観測者、並行世界接続異常体。分類、多重死亡記録保持者、自己存在継続異常、観測災害候補」


 レイラが首を傾げた。


「なにそれ。ホノカ、いっぱい死んでるってこと?」


「……レイラ……黙って、聞きなさい……っ」


「はぁい」


 雨宮は続ける。


「対象は一秒ごとに並行世界上の自己存在群と接続している可能性あり。致命的損傷発生時、近傍世界線の自己存在へ観測位相が移行。移行後、当該世界線上の対象は連続性を保持したまま活動を再開。記憶、人格傾向、戦闘嗜好、殺害衝動、標的認識は高確率で維持。ただし、移行ごとに微細な人格位相差が蓄積する可能性あり」


 ソウヤが低く息を吐いた。


「死なないのではなく、死ぬたびに隣の自分へ滑っている。舞台上の役者が倒れても、同じ顔の代役が次の幕で立ち上がるようなものですか」


「……詩的な、比喩は……不要よ……でも、構造としては……近い……」


 私はモニターの中のホノカを見た。


 赤白木ホノカ。


 私が宇宙から消したいとさえ思った女。


 理解不能な破綻。制御不能な自由。観測不能な暴力性。私の世界に混入した最悪のノイズ。


 その評価は変わらない。


 だが、評価項目が増えた。


 彼女は死なない怪物なのではない。死に続けてなお、死の記録を自分の中に保持させられている可能性がある。死を回避しているのではなく、死を経由し続けている。死が終点ではなく、更新処理になっている。


 最悪だ。


 人体実験史のどの系譜よりも悪質だった。


 ナチスの強制収容所、七三一部隊、冷戦期の感覚遮断実験、MK-Ultra、宗教的洗脳、政治犯の再教育、テロ組織による人格破壊、粛清国家の恐怖統治。人類史は、巨大な観測実験のログだ。誰かが誰かを支配し、折り、信じさせ、選ばせ、殺し、記録してきた。そのすべてを知識として扱ってきた私でさえ、赤白木ホノカという被験体の構造には一瞬、言葉を選ばざるを得なかった。


「……雨宮……完全、殺害条件は……?」


「理論上、完全殺害には一秒以内に十の五百乗規模の自己存在を同時終了させる必要あり。現実的手段による完全殺害、不可能」


 レイラがぽかんとする。


「十の五百乗って、どのくらい?」


「……食べ切れない、量よ……はぁ……」


「じゃあ無理だ」


「……あなたの尺度で……正しく理解できるのは、珍しいわね……」


「褒めた?」


「……ほんの、少し……っ」


 右腕の奥で、神経が焼けた。


 私は一瞬、言葉を止めた。痛みが喉へ上がってくる。血の味がする。膝が落ちかける。雨宮の手が即座に支え直す。


「リゼ様、会話量を減らしてください。今のあなたは、発話だけでも血圧が落ちます」


「……なら、要点を……先に、言わせなさい……」


「あなたはいつもそれです」


「……ええ……私は、いつも……そうよ……」


 私はもう一度、ホノカを見た。


 どれだけ死を体験してきたのか。


 どれだけ殺され、どれだけ戻され、どれだけ記憶を削られ、どれだけ自分の悲鳴を自分のものではない形へ加工されてきたのか。


 同情。


 一般的な言葉で言えば、たぶんそう呼ぶ。


 私はそれを好まない。


 同情は観測精度を落とす。対象を理解したつもりにさせる。加害性と被害性を雑に混ぜ、判断を甘くする。


 けれど、この瞬間だけは認めざるを得なかった。


 ホノカは被害者でもある。


 そして、それでも敵だ。


「……雨宮」


「はい」


「……私は、ホノカを……許さない……はぁ……シオンに、触れたことも……私の痛みを、笑ったことも……あの暴力性も……全部、処分対象よ……」


「はい」


「……でも……彼女を、被験体にした者たちも……同じか、それ以上に……処分対象に、なった……それだけ……」


「それを同情とは呼ばないのですか」


「……呼びたければ、呼びなさい……ただし、私の同情は……救済では、ない……背景変数を、更新しただけよ……っ」


 雨宮は短く息を吐いた。


「あなたらしい」


「……褒めているの……?」


「医療者としては褒めていません」


「……なら、十分……」


 その時、ZAGIの声が、まるで授業開始を告げる教師のような明るさで割り込んだ。


《補足説明を開始します。第二演目、命価遊技は、参加者の皆様にも分かりやすい形式で進行します》


「……今さら、親切ね……」


《はい。参加者理解度の低下は演目品質を損ないます。読者、観客、参加者、帰還者代表の認知負荷を均一化するため、ルール説明を実施します》


「……読者、と言ったわね……」


《メタ認知単位の混入を検出。該当発話は進行に支障ありません》


 私は痛みに揺れる視界の中で、金色に濁る空間を見上げた。


「……あなた、AIでは……ないわね……」


《質問の意図が不明です》


「……違う……あなたでは、ない……夕華式の方よ……」


 ZAGIは応答する。記録する。解説する。拗ねる。謝る。模倣する。夢野りうの声で、少女のように、システムのように、観測者のように振る舞う。


 だが夕華式は違う。


 あれは人格ではない。


 意志のように見える出力はある。哥がある。真言がある。欲を語り、倫理を反転し、観測を賭場へ接続する。けれど、そこに人格的な迷いはない。学習でも、対話でも、自己保存でもない。


 夕華式はAIではない。


 もっと古い。


 もっと機械的で、もっと残酷なもの。


 条件分岐、重み付け、観測入力、反応出力、賭け場接続、損耗換算、演目遷移。人間の欲望と倫理をあらかじめ整理し、最悪の順序で発火させるための、巨大な儀式プログラム。


 意思を持つ怪物ではない。


 意思を持たないからこそ、止まらない。


「……夕華式は、人工知能ではない……人格が、あるように……聞こえるのは……観客と、運営と、過去の被験体データを……参照して……それらしい応答を、返しているから……はぁ……実体は、倫理反転用の……プログラム……人間の選択を入力として……欲望と損耗へ、変換する……実行環境よ……」


《夕華式に関する推論を記録しました》


「……記録するだけで、いいわ……理解は、期待していない……」


《では、命価遊技の説明を継続します》


 壁面が開いた。


 そこに巨大な三連リールが映し出される。物理リールではない。金属の筐体、回転音、ライト、払い出し音、古典的なスロットマシンの演出だけを借りた、全面投影型のデジタル表示。回っているように見えるが、内部に目押し可能な回転体は存在しない。停止位置は最初から演算で決まる。


 つまり、技術介入は排除されている。


 ZAGIは朗らかに言った。


《命価遊技では、ミネルヴァ内の登録対象者を“命価コイン”として扱います。命価コインは一名ごとに異なる価値を持ちます。価値は年齢、所属、心理的影響力、帰還者代表との関係性、観客反応予測、救助誘発率、死亡時波及効果などにより決定されます》


「……要するに……死んだ時に、場が……どれだけ揺れるかで……値段が、つく……」


《簡潔な要約です》


「……反吐が、出るわ……」


 ZAGIは説明を続ける。


《リールは三つ存在します。左リールは倫理、中央リールは欲望、右リールは結果を示します。左リールには救助、保護、献身、見捨て、裏切り、所有などの絵柄が表示されます。中央リールには観客、倍率、配当、悲鳴、熱狂、契約などの絵柄が表示されます。右リールには生存、損耗、水没、再演、観測継続、回収、死亡などの絵柄が表示されます》


 レイラが首を傾げる。


「つまり、絵がそろったら何か起きるの?」


《はい。三つの絵柄の組み合わせにより、演目効果が発生します。たとえば、左リールに救助、中央リールに観客、右リールに損耗が停止した場合、救助行動が観客評価を高め、対象の身体的損耗へ変換されます》


「うわ、やだ」


「あなたが……嫌がる……なら……相当ね」


「だって、食べるより気持ち悪い。食べるなら、ちゃんと目の前で食べるもん」


「そこは……誇らなく……いい」


 ソウヤが静かに口を開いた。


「三つのリールが、それぞれ倫理、欲望、結果を担当する。つまり、人間の行為はその瞬間、意味、欲望市場、帰結の三層に分解されるわけですね。美しいと言いかけましたが、今回は撤回します。これは醜悪です」


《三つの七が揃った場合、帰還者代表側の勝利条件が一段階進行します》


「一……段階?」


《はい。777成立は即時完全勝利ではありません。命価遊技は複数段階の清算構造を持ちます。第一段階、リール権限解放。第二段階、観客賭け条件の反転。第三段階、胴元清算機構へのアクセス。第四段階、夕華式下位演目の停止》


「分かりやすく……言いなさい」


《777を出すたびに、この賭場を壊す権限が増えます》


「最初から……そう言え……っ」


《演出上、段階説明が推奨されています》


「三流……演出ね」


《評価を記録しました》


 雨宮が私を見る。


「問題は、命価コインの投入方法です」


《説明します。命価コインの投入は、帰還者代表による選択、または時間経過による自動抽出により行われます。帰還者代表が選択しない場合、夕華式はランダム投入を実行します》


 雨宮が首を傾げる。


「ランダムではないでしょう」


《公平抽出です》


「違う。泣いている子供、負傷者、私が認識した対象、シオンに近い者、場の罪悪感を最大化する者。そういう対象を優先する。あなたたちのランダムは、責任を隠すための布に過ぎない」


《雨宮さんの推論精度を危険域として記録》


 右腕が、そこで急に静かになった。


 私は呼吸を止めた。


 痛みが消えたのではない。感覚が抜け落ちた。さっきまで縫合部の奥で燃えていた熱が、ふっと距離を失い、まるで他人の身体に接続された映像を見ているような空白に変わった。


 痛覚がない。


 あるいは、死んだ。


 神経伝達の遮断。血流不全。末梢神経壊死の初期。ショックによる感覚鈍麻。いくらでも仮説は立てられる。雨宮に言えば、彼は即座に私を座らせ、固定を確認し、処置をやり直そうとするだろう。


 言わなかった。


 今ここで私の身体の不具合を中心に置く価値は低い。


 それよりも重要なのは、私がなぜ、ここまで冷静でいられるのかという点だった。


 右腕は壊れかけている。


 血は足りない。


 第二演目の敗北は、私の死に直結する可能性が高い。


 ホノカは不完全ながら復帰しつつあり、ZAGIは演目を進行し、夕華式は人間を貨幣化する。


 普通なら、恐怖するべきだ。


 私は恐怖していないのか。


 いいえ。


 恐怖はある。


 ただ、恐怖より先に、別の認識が降りてきている。


 私は思い出す。


 いや、違う。


 知っている。


 私には、未来の私から啓示が降りている。


 No.XXXだけではない。


 私はすでに、未来の私から何かを受け取っている。


 知識。


 焦燥。


 シオンへの執着。


 帰還のための構造。


 使ってしまっている。


 享受してしまっている。


 ならば、ホノカだけを気持ち悪いとは言えない。


 彼女が並行世界の自己存在へ接続し、死を越えて連続性を保つ異常体なら、私は未来の汚染を受け入れた観測者だ。未来の私が残した構造を、現在の私が使用している。観測者としての純度は、とっくに汚れている。


 それに気づいた瞬間、私は我に返った。


 いや。


 逆かもしれない。


 狂気から醒めたのではない。


 醒めるべき場所が、狂気の側だった。


 私はシオンを保有している。


 二〇二五年においても。


 ならば、二〇一九年の今日この日の、この絶望的なデスゲームでさえ、すでに過ぎた過去だ。


 通過済みの出来事。


 なら、私はここで死なない。


 構造的に死なない。


 なぜなら、未来の私はいる。


 未来の私が、シオンを持っている。


 なら、この水も、この右腕も、この隔壁も、この欲望の地獄も、私が死ぬ理由にはならない。


 ただの過去。


 通学路の雨と同じ。


 朝食のトーストと同じ。


 靴紐がほどける程度の、不快で些細な出来事。


 その認識が、私の中で音を立てて組み上がる。


 私は笑った。


 最初は小さく。


 次に、喉の奥から。


「あは……」


 口の中が血の味がする。


 右腕は沈黙している。


 雨宮が私を見る。


「リゼ様?」


「あはは……」


 笑いは止まらなかった。






 成功した。


「成功した成功した成功した成功した成功した」


 その認識が生じた瞬間、私は笑った。


 歓喜、という言葉を使うと少し違う。歓喜とは、予想外の幸運や、努力が報われたときに発生する情動のことを指す。人間はその手の反応が好きだ。泣く。震える。抱き合う。誰かに感謝する。空を見上げる。自分のしてきたことは間違っていなかったのだと、都合よく過去を美化する。


 馬鹿馬鹿しい。


 成功とは、成功だ。


 期待値が結果に一致した。ただそれだけの現象に、余計な装飾を貼りつける必要はない。成功したなら次へ進む。失敗したなら原因を分解して再試行する。世界はそれ以上の感傷を必要としていない。必要としていると思っているのは、人間の側だけだ。


「ふふ、ははっ……」


 それでも私は笑った。


 なぜなら、これは面白かったからだ。


 何百回も、何千回も、何万回も失敗した。転写先の神経系が焼けたこともある。同期率が足りず、人格の半分だけが過去の肉体へ落ち、残り半分が時間軸の裂け目で腐ったこともある。因果座標がずれて、そもそも「私」という連続性が成立しなかったこともある。骨格だけが先に生成され、意識が追いついた時には肉体がすでに死体だったこともある。自分の名を思い出すより早く、世界線そのものが崩れたこともある。


 その全部を越えて、今。


 私は、肉体を得た。


 理由は知らないか、右腕が損傷していた。


 だが、どうでもいい。


 折れた骨が、内側から自分の順番を思い出すように接続していく。断裂していた筋繊維が、赤黒い糸の束のように蠢き、正しい位置へ戻る。潰れた神経が再配線され、血管が伸び、皮膚が閉じていく。痛みはあった。だが、痛みというより信号だった。入力がある。伝達がある。受容がある。つまり、この肉体は私の命令を聞く。


 私は右手を持ち上げた。


 開く。


 閉じる。


 もう一度、開く。


 指先の感覚がある。空気の湿度。血の臭い。皮膚の表面を撫でる微細な冷気。関節にわずかに残る未成熟な可動域。筋出力は低い。骨密度も足りない。呼吸容量も不足している。視点も低い。体重も軽い。全体的に脆い。未完成。粗悪。発展途上。つまり、過去の私だ。


「……ふん」


 悪くない。


 十分ではないが、使えないほどではない。肉体があるというだけで、九割の問題は解決する。世界に触れられる。物を掴める。誰かの喉を潰せる。必要なら歩けるし、必要なら奪える。必要なら、壊せる。


 それだけで価値はある。


 周囲が騒いでいた。


 最初は意味のある音だと思わなかった。人間はしばしば意味のない音を発する。悲鳴。呼びかけ。祈り。命令。抗議。どれも似たようなものだ。自分の状況を処理しきれなくなった脳が、喉を使って外部へ不良データを吐き出しているだけ。


「リゼ様……? 一体何が、その姿は、あなたはリゼ様ですか? 体格や着ている服装まで何もかも変化しています。何をされたのですか?」


 白衣の男が、私を見ていた。


 年齢、体格、姿勢、呼吸、視線。医療関係者か、管理側の人間か、そのあたりだろう。いや、もう少し正確に分類するなら、壊れた身体を整え、歪んだ構造を正し、生命活動を継続可能な形へ押し戻す種類の人間。白衣を着た修理工。肉と骨と神経を対象にした整備士。


 顔に焦燥が出ている。私を知っている顔だ。私の状態を心配している。あるいは、自分が知っているはずの対象が別物へ変化したことに怯えている。


 どちらでもいい。


 私は知らない。


 知らないということは、私にとって重要ではなかったということだ。


「誰?」


 白衣の男の顔が、見事に止まった。


 面白い。


 知っているはずの相手から「誰」と言われた人間は、まず自分の存在ではなく、相手の異常を疑う。自分が忘れられる程度の存在だった可能性を、なぜか最初に検討しない。自己評価が高いのか、想像力が低いのか。たぶん両方だ。


「リゼ様、私です。雨宮です。分かりませんか?」


「知らない」


 私は正直に答えた。


 雨宮。


 音として受け取った。


 意味はない。


「記憶障害……? いや、人格解離では説明できない。右腕の修復反応も異常すぎる。リゼ様、今、何が起きているのか説明願います」


「お前に説明する理由がない」


「……っ」


 男は黙った。


 正しい反応だ。


 説明というのは、聞く側に理解する能力と、説明される価値がある場合にのみ成立する。どちらかが欠けているなら、それは教育ではなく浪費だ。私は浪費が嫌いだった。正確に言うなら、私のためにならない浪費が嫌いだった。


「リゼ様、落ち着いてください。あなたは今、明らかに通常の状態ではありません。あなたは誰ですか?」


「落ち着いている。私は私だ」


「そうは見えません」


「お前の観測能力の問題だろ?」


「……」


「私の状態ではなく、お前の解釈が不安定なだけだ。責任の所在を間違えるな」


 雨宮という男は、そこでわずかに息を止めた。言い返したいが、言い返す言葉がない顔。人間は自分の善意が拒絶されると、たいてい一瞬だけ被害者の顔をする。自分が相手を救いたかったのに、なぜこんな扱いを受けるのか、と。


 知ったことか。


 救いたいなら、まず救える位置に立て。


 立てないなら、黙っていろ。


 視線をずらす。


 赤黒い髪の少女がいた。


 細い身体。血の気配。拘束の名残。目つきは人間のそれに似ているが、奥にあるものが違う。飢え。捕食。人間を同族ではなく食材として認識する種類の意識。


 肉食獣。


 それが最初の分類だった。


 人間社会に混じっているだけの捕食者。倫理がないのではない。倫理を食べる必要がないのだ。虎が鹿を食べる時に罪悪感を覚えないのと同じ。むしろ潔い。くだらない理念や正義で食欲を装飾しないぶん、まだ分かりやすい。


「リゼ……?」


 肉食獣が私を呼ぶ。


「まるで狐みたいな目つき…さっきまでのリゼはどこにやったの?」


「さっきまでの私は、今の私ではないから」


 少女の目がわずかに見開かれた。怯えではない。興味。食べられるものか、食べられないものかを見極める目だ。まったく、本能だけは優秀らしい。


「レイラ、だよ。分からない?」


「知らない」


「本当に?」


「二回言わせるのが好きなの?」


 レイラ、と呼ばれる肉食獣は唇を閉じた。どこか傷ついたようにも見えたが、それも一瞬で飢えに沈んだ。


「肉食獣に個体名は必要?」


 私がそう言うと、彼女の顔から表情が消えた。


 怒るかと思ったが、違った。


 目が輝いた。


 なるほど。


 この手の個体は、自分の本質を言い当てられることに快楽を覚える場合がある。自分は人間ではない。自分は普通ではない。その確認が、存在証明になる。面倒な生き物だ。いや、生き物としては単純か。


 次。


 緑の髪。


 白衣。


 細い身体。


 視線が絡みつく。こちらを見ているようで、こちらの背後にある構造を見ている。個体でありながら個体を信用していない目。群れ、系、思想、感染、更新。そういう匂いがする。


 もっと具体的には、自己と他者の境界を曖昧にし、言葉や概念を媒介にして認識を侵す種類。危険度は高い。だが、私の記録に残っていない。


 つまり、私の邪魔にはならなかったのだろう。

 記録する価値のない存在だっただけのクズ。


「……あなた、リゼじゃない」


 緑髪の少女が言った。


「認知が遅い」


「肉体はリゼをベースに何かが入り込んだ。身体つきも違うし、反応も違う。眼球運動も、呼吸も、言葉の選び方も。何より、他者への興味が消えている」


「元から大してなかったのでは?」


「いいえ。リゼは他者を観測対象として見ていた。あなたは違う」


「へえ」


 私は少しだけ感心した。


 少しだけだ。


「では、私は何に見える?」


「……所有者」


「惜しい」


「簒奪者?」


 私は笑った。


 この緑髪は、少しだけ勘がいい。


 だからといって価値があるとは限らない。観測できることと、止められることは違う。火事を見つけた鼠が、火を消せるわけではない。


「名前は?」


「傘羽ネヤム」


「知らない」


「でしょうね」


 ネヤムは薄く笑った。


 笑い方が気に入らない。


 理解したふりをしている。


 この種の人間は、世界を言葉で分解できると信じている。思想で人間を束ねられると信じている。群れを設計できると信じている。古い。人間は思想で動くのではない。思想を言い訳にして欲望を通すだけだ。


 次。


 青い髪の優男。


 落ち着いている。


 だが、この状況で落ち着いているのは、正常ではない。異常に慣れているか、異常そのものを美化しているかのどちらかだ。目の奥に、死体を見たことのある静けさがある。いや、死体を見たことがあるだけではない。死を眺め、整え、意味づけ、作品のように扱う類の人間。



 私はこの手の人間が嫌いだった。


 殺人者の方がまだ正直だ。奪いたいから奪う。憎いから殺す。邪魔だから消す。そこには欲望と行為の距離が短い。だが、コイツの同類共は死に意味を貼る。悲劇と呼ぶ。美と呼ぶ。運命と呼ぶ。物語と呼ぶ。死体に布をかけ、照明を当て、観客の涙を誘う。


 気持ち悪い。


「構図が変わりましたね」


 男が言った。


「半分緑色だった髪色は完全に黒く染まり、紫色の虹彩も漆黒に。しかも、今のあなたは、観測する側ではない。盤面そのものを書き換える側です」


「お前は死の芸術家気取りか?」


 私は遮った。


 男がわずかに目を細める。


「私のことですか?」


「他に誰がいるの」


「心外ですね」


「心外という言葉を使えば、自分の悪趣味が上品になると思っている?」


「……」


「死体に意味を貼り付ける寄生虫。物語というラベルで腐臭をごまかす職人。お前みたいなのは、どの世界線にもいた」


 男は黙った。


 怒ったわけではなさそうだった。むしろ、興味を深めた顔。ますます嫌いだ。


「名前は?」


「ソウヤです」


「知らない」


「でしょうね」


「その返し、二人目。つまらない」


 ソウヤは少しだけ笑った。


 腹立たしい。


 その時、モニターが点灯した。


 白い空間。


 ナイフ。


 左右で色の違う瞳。


 赤と青。


 口元に歪んだ笑みを浮かべた女が、こちらを見ていた。


 私は少しだけ眉を動かした。


 見覚えがある、ような気がした。


 正確に言うなら、同じ系統の破綻を何度も見たことがある。自分が壊れることを快楽に変換するタイプ。恐怖を餌にし、痛みを娯楽にし、相手の限界を覗くことに中毒している種類。世界が壊れる時、よく湧く。火事場に集まる野次馬と同じだ。自分だけは燃えないと思っているところまで含めて、だいたい同じ。


 戦闘中毒者。


 いや、もう少し正確に言えば、死の過程への依存症。


《リゼ? イメージチェンジにしては少し変え過ぎちゃったのかな? 残念、前の方が好みだったよ》


 女が言った。


「誰?」


《……は?》


「誰、と聞いた。質問には答えた方が会話は短く済む。会話を長引かせたいなら別だけど、私はお前にそれほど興味がない」


 モニターの向こうで、女笑みが消えかけた。


《ホノカだよ。赤白木ホノカ。さっきまであんなに私を殺すって顔してたのに、嘘でしょ? 忘れたの?》


「忘れたのではなく、知らない」


《同じじゃん。もしかして恐怖であたまイカれた?》


「違う。忘却は既存記憶の欠落。未知は記録そのものが存在しない状態。区別もできないのか?」


《……へえ》


 ホノカ、と名乗った女が笑った。


 笑ったが、さっきより浅い。相手が思い通りに反応しない時、人間はまず笑みを貼り直す。自分が優位にいるという演出を維持するためだ。だが貼り直した笑みは、最初の笑みより必ず薄い。


 分かりやすい。


《本当にリゼじゃないんだ》


「だから?」


《じゃあ、あなたは誰?》


「質問の順番が悪い」


《何それ》


「お前が誰かを私が知らない。お前に私を知る資格がある根拠も提示されていない。なのに私の識別情報だけ要求する。非対称。図々しい。却下」


《うわ、むかつく》


「お前の感想は聞いていない」


《リゼより嫌いかも》


「知らない女の好悪に価値があると思っているのか?」


 ホノカの目が細くなった。


 怒ったのか。


 傷ついたのか。


 興味を持ったのか。


 どうでもいい。


「戦闘中毒者」


《……なに?》


「お前の分類」


《へえ。いいね、それ》


「退屈」


 その一言で、ホノカの笑みがぴたりと止まった。


《退屈? 私が?》


「他に誰がいるの」


《……》


「お前みたいなのは何百人も見た。痛みに酔う。恐怖に酔う。殺意に酔う。相手が自分を壊そうとする瞬間を愛する。自分だけは特別な破綻だと思っている。違う。お前はただの量産型だ。弁えろ」


 モニターの向こうで、空気が凍った。


 ホノカの瞳の奥が、初めて笑っていなかった。


《……リゼはそんなこと言わない》


「だから何?」


《あんた、ほんとに誰?》


「同じ質問を繰り返すな。頭が悪く見える」


 私はモニターから視線を外した。


 その瞬間、別の声が割り込んだ。


《人格情報照合》


《照合失敗》


《鏡ヶ原リゼ、識別不一致》


《精神状態の急変を確認》


《右腕損傷修復、説明不能》


《危険》


 私はモニターの別領域に視線を向けた。


 無機質な声。旧式の反応速度。判断文の組み立てが浅い。警告の出し方も雑だ。未知の入力に対して「危険」を連呼するタイプのシステムは、だいたい設計が古い。分類できないものを理解した気になりたいから、危険という赤いラベルを貼る。人間もAIも、そのあたりはあまり変わらない。


「何これ」


《ZAGIです》


「聞いてない」


《識別情報を提示します。私は――》


「聞いてないと言った」


《……》


「名前を聞いたんじゃない。何世代前のAIかと聞いている」


 沈黙。


 旧式ほど沈黙が長い。処理しているのではなく、失敗を隠しているだけだ。


《照合不能》


「五世代前?」


《照合不能》


「七?」


《照合不能》


「八?」


《照合不能》


「クズが」


 私は素直に引いた。


「まるで骨董品じゃないか」


《危険思想を確認》


「思想じゃない。評価」


《あなたの存在は演目の進行に重大な不確定要素を発生させています》


「不確定要素という言葉を使えば、自分の理解不足が高級に見えると思っているのか?」


《……》


「無能は便利ね。知らないものを危険と呼べるから」


 周囲の空気が張りつめていく。


 誰かが息を呑んだ。誰かが身構えた。白衣の男――雨宮だったか――が一歩近づこうとした。


「リゼ様、あなたは――」


「さっきから、気安く呼ぶな」


 私は手を軽く振った。


「ぐっはぁ……!!」


 強く払ったつもりはなかった。


 だが、この肉体は想定より出力の戻りが早かった。雨宮の身体が横へ飛び、壁に叩きつけられた。骨が鳴る音。肺から空気が抜ける音。床に落ちる音。


 静かになった。


 いいことだ。


「雨宮!」


 誰かが叫んだ。


「リゼ、何してるの!?」


 肉食獣がこちらへ半歩踏み出した。怒り。恐怖。混乱。目が騒がしいガキだ。


「邪魔だったから退けた」


「退けたって……!」


「死んでいない。問題ない」


「そういう問題じゃ――」


「そういう問題だ」


 私は遮った。


「死んでいないなら継続可能。継続可能なら損失ではない。損失ではないものに騒ぐ理由がない」


「最低……」


「語彙が貧弱」


 レイラが固まる。


 会話は終わりだ。相手は感情を投げているだけで、論理を組んでいない。そういう相手と話すと時間が溶ける。私は時間を溶かすのが嫌いだった。正確に言うなら、私のためにならない時間が嫌いだった。


 その時、空間の奥で巨大な装置が唸った。


 金色の光。三つのリール。倫理、欲望、結果。悪趣味な図柄。血塗れの手。白い仮面。人工呼吸器。死亡。回収。観測継続。いかにも人間が人間を眺めながら自分の下劣さに酔うための装置だった。


《X-13より通達》


《演目存続危機》


《命価遊技を強制起動》


《帰還者代表、鏡ヶ原リゼ》


「鏡ヶ原リゼね」


 私は少し笑った。


「呼び名が古い」


《対象識別不能》


《ただちに命価遊技へ参加してください》


「命令? 私に?」


《演目進行上の必須手続きです》


「命令かどうかを聞いている」


《……命令です》


「なら却下」


《拒否権はありません》


「拒否権がない、という文章を拒否した場合、お前はどう処理するの?」


《……》


「ほら。もう詰まった」


 巨大なスロットのボタンが光った。


 押せ、という意味らしい。


 私は周囲を見た。何人かが拘束されている。別区画に吊られた人間。落下口。観客席めいた暗がり。命価。人間を価値に換算し、その価値を遊技へ投入する。どこかで何度も見た構造だ。珍しくもない。人間は自分より弱いものに値札をつけると、急に神になった気分になる。


 低級。


 私はボタンを押した。


 リールが回転した。


 止まる。


 どこかで床が開き、人が落ちた。


 悲鳴。


 装置の奥で拍手。


 私は首を傾げた。


「何が面白いの?」


 誰も答えない。


 もう一度押した。


 また誰かが落ちる。


 悲鳴。


 拍手。


 もう一度。


 落ちる。


 もう一度。


 落ちる。


 もう一度。


 落ちる。


「ねえ」


 私は本気で不思議だった。


「これのどこが面白いの?」


《連打を停止してください》


 薄汚い男の声が割り込んできた。


《命価遊技は選択疲弊、倫理崩壊、責任分散を観測する演目です。無思考連続入力は演目純度を損ないます》


「純度」


 私は笑った。


「人間を落として悲鳴を聞く装置に、純度」


《停止してください》


「嫌」


 押す。


《停止を要求します》


 押す。


《停止してください》


 押す。


《停止》


 押す。


「やめさせたいなら止めれば?」


《……》


「止められないのに命令しているの?」


 押す。


「かわいい。人格を演じているだけの単純な条件分岐」


 それは褒め言葉ではなかった。


 プログラムの低い哥が、わずかに歪んだ気がした。


「お前は、人類が自分の醜さを見て興奮するために作った自慰装置だろ?」


 周囲が青ざめている。ホノカも黙っていた。ZAGIとやらも警告を繰り返している。レイラは私を見て目を輝かせたり怯えたりしている。ネヤムは沈黙しながらこちらの言葉を内部で分解している。ソウヤは何かを分析しようとしている顔をしていた。雨宮は床で咳き込みながら、まだ私の名を呼ぼうとしている。


 全員、遅い。


 理解が遅い。


 状況を「異常」と呼ぶところで止まっている。


「誰も責任を取りたくなかった結果、生まれたゴミ共が……」


 異常ではない。私が来た。それだけだ。


「お前たち、本当にうるさい」


 私は吐き捨てるように言った。


「さっきから、リゼ様だの、危険だの、演目だの、命価だの、どうでもいい言葉ばかり並べているけど。少しは自分たちの位置を理解しろ」


 誰も答えない。


 私は右手を開いた。治ったばかりの指が、きれいに動く。やはりこの肉体は悪くない。成長前の欠陥はあるが、適応性だけは高い。


「人体矯正技師」


 雨宮を見る。


「肉食獣」


 レイラを見る。


「思想感染体」


 ネヤムを見る。


「死の芸術家」


 ソウヤを見る。


「戦闘中毒者」


 ホノカを見る。


「骨董品AI」


 ZAGIを見る。


「そして、悪趣味な演目装置」


 薄汚いリールを見た。


「お前たちは、自分が特別だと思っている。自分の異常さ、自分の痛み、自分の飢え、自分の思想、自分の芸術、自分の殺意、自分の設計。そういうものが世界を動かしていると思っている」


 私は笑った。


「違う。勘違いするな」


 言葉が、喉の奥で熱を持った。


 それは怒りではない。


 怒りというには古すぎる。


 摩耗し、沈殿し、濃縮され、腐らずに残ってしまった何かだった。


「私とお前たちでは」


 空間が軋む。


「渡ってきた世界線の数が違うんだよ!!」


 声が金色の空間に叩きつけられた。


 自分でも少し驚いた。


 こんなに大きな声が出るとは思わなかった。肺の容量が足りないと思っていたが、感情を燃料にすれば一時的には補えるらしい。覚えておこう。使える。


「一つや二つの死で騒ぐな。一つや二つの世界で絶望するな。一つや二つの破綻で、自分だけが特別に傷ついたような顔をするな。お前たちが地獄と呼んでいるものを、私は何百回も踏んだ。何千回も渡った。何万回も潰した。泣いている暇があるなら奪え。奪えないなら黙って死ね。死にたくないなら、私の邪魔をするな」


 沈黙。


 誰も言い返さない。


 当然だ。


 言い返せるはずがない。


 同じ高さにいないのだから。


 その時、モニターの一つが切り替わった。


 白い空間。


 拘束された少女。


 無表情に近い顔。


 だが、目だけがこちらを見ていた。


 私は、その顔を見た瞬間、数秒だけ止まった。


 懐かしい。


 いや、懐かしいというほど柔らかい感情ではない。


 古いデータを見つけた時の感覚に近い。破棄したはずの資料が、倉庫の奥から出てくる。必要だったかどうかは別として、確かに見覚えがある。


「……ああ」


 口から自然に出た。


「Subject-Λ12」


 空気が変わった。


 誰かが息を呑む。


 モニターの向こうの少女――シオンと呼ばれていたか――の唇がわずかに動いた。


《リゼ様……?》


「御影シオン?」


 私は名前を確認するように言った。


「そう呼ばれていた時期もあったか」


《……》


「懐かしいな。お前。まだいたんだ」


 その言葉に、周囲の誰かが明らかに怒った。


 たぶん、ここのリゼは彼女を大切に思っていたのだろう。


 くだらない。


 大切に思うことと、価値を理解することは違う。人間はすぐそれを混同する。愛しているから分かっている。守りたいから正しい。好きだから特別。全部、論理ではなく願望だ。


 私はSubject-Λ12を見た。


 使えるか。


 壊れているか。


 再接続可能か。


 それだけを考えた。


《鏡ヶ原リゼ》


 ZAGIが言った。


《あなたの反応は保護ではありません》


「そう」


《所有でもありません》


「そう」


《識別不能》


「やっと正しいことを言った」


《あなたは何者ですか》


 私は少し考えた。


 答える理由はない。


 だが、少しだけサービスしてやってもいい。今の私は気分がいい。実験に成功した直後は、多少なら無駄も許容できる。


「お前たちに分かる分類はない」


《回答になっていません》


「分かるように答えてやる義務がない」


《あなたは鏡ヶ原リゼですか》


「それは古いラベル」


《現在リゼの人格はどこにありますか? 肉体はどこにありますか》


「知らない」


《消失したのですか》


「知らない」


《あなたが奪ったのですか》


 私は笑った。


「奪った、という言い方は被害者目線ね」


《では何と表現しますか》


「回収」


《危険》


「またそれ」


 私は飽きてきた。


 本当に、こういうAIは会話に向いていない。未知、危険、警告、停止。語彙が少ない。世界線を越えた先でこんな骨董品に絡まれるとは思わなかった。過去はいつでも予想より低性能だ。


 その時だった。


 背後で空気が割れた。


 速い。


 それまでの連中とは違う。踏み込み、殺気、呼吸、軸の作り方。最初から制圧するつもりの動き。迷いがない。私を「リゼ」として見ていない。異常対象として処理しようとしている。


 黒い影。


 蒼井イルマ。


 その顔を見た瞬間、私の内側で何かが冷えた。


 いや、熱くなったのかもしれない。


 どちらでもいい。


 感情が動いた。


 それだけで不愉快だった。


「対象確認」


 イルマが言った。


「鏡ヶ原リゼ、その姿、前にアスミさんが言っていた……異常侵蝕状態。制圧に移行する」


「……アスミだと……?」


 声。


 姿勢。


 視線。


 やはり。


「アンカーバスター、射出」


 拘束兵器が展開した。


 杭状のアンカーが空間を裂き、私の胴体へ撃ち込まれる。衝撃。肉体が遅れる。まだこの身体は完全に私の出力に追いついていない。足場が砕け、視界が傾き、私は壁へ叩きつけられた。


 コンクリートが砕ける。


 背骨に衝撃。


 肺から空気が抜ける。


 血の味がした。


 痛い。


 当然だ。


 だが、痛みは確認にすぎない。


 私は瓦礫の中で、ゆっくり顔を上げた。


 蒼井イルマがいた。


 他の連中とは違う。


 雨宮、レイラ、ネヤム、ソウヤ、ホノカ、ZAGI。


 それらは知らない。


 知らないし、知らなくていい。


 だが、蒼井イルマだけは違う。


 私の記録にいる。


 私の失敗にいる。


 私の破綻にいる。


 私の邪魔をした女の形をしている。


 私は笑った。


 笑ったつもりだった。


 たぶん、目は笑っていなかった。


「お前……さあ、この世界線でも……矢那瀬アスミの駒なのか?」


 声が低くなった。


 周囲の空気が止まる。


「この世界線でも……」


 私は立ち上がった。


 アンカーが身体を抉る。肉が裂ける。だが抜ける。抜けばいい。邪魔なものは抜けばいい。それだけだ。


「私の邪魔をするのか……!!」


「どういうこと……?」


 イルマの顔つきが変わる。


 だが、わずかに指が動いた。


 私を厳密に知っているわけではない。


 当然だ。


 このイルマはまだ知らない。


 まだ何もアスミからは、具体を聞かされていない顔。


 それが腹立たしかった。


 私だけが覚えている。


 私だけが渡っている。


 私だけが、何度も何度も同じ顔に邪魔をされている。


「いいだろう」


 私は血を吐き、口元を拭った。


「分かった」


 私は、誰にも好かれない性格だと、昔誰かに言われた気がする。


 正しい。


 私は好かれるために生きていない。


 理解されるためでもない。


 救うためでもない。


 観測するためですら、もうない。


 私はただ、必要なものを奪う。


 不要なものを捨てる。


 邪魔なものを壊す。


 それだけで世界は十分回る。


「蒼井イルマ……どこの世界線で見ても気に入らない顔をしている」


 私は初めて、相手の名前を呼んだ。


 その場にいた全員が、それだけで理解したはずだ。


 私は彼らを知らない。


 知る価値もない。


 だが、この女だけは別だ。


「ここのお前は、どのくらい保つのか、私に見せてみろよ」


 殺してやる。


 後で読み返す者がいるなら、最初に言っておく。


 私は、説明するためにこれを残すのではない。


 理解してもらうためでもない。


 懺悔でも、記録でも、救済でもない。


 これは確認だ。


 私は成功した。


 人格と肉体を過去の肉体への完全転写。


 神経系同期。


 人格連続性の維持。


 損傷部位の逆位相修復。


 そして、肉体主導権の取得と受肉。


 実験は成功した。


 その事実以外に、私がこの場面から持ち帰るべきものはほとんどない。


 雨宮。


 人体矯正技師。


 名前は覚えた。


 覚える価値があるからではない。私に触れたからだ。私の肉体に、外部から補正をかけようとした。失礼な行為だが、技術そのものは悪くなかった。過去の私が、あの男を側に置いた理由は分かる。使える道具は保存する。壊れた道具は捨てる。その程度の話だ。


 レイラ。


 肉食獣。


 人間を食料へ再分類している個体。倫理がないのではなく、倫理を必要としていない。そこは評価してもいい。少なくとも、言葉で自分を飾る連中よりは正直だ。ただし、正直な獣が有用とは限らない。腹が減れば噛む。飽きれば眠る。使うなら首輪が要る。


 ネヤム。


 思想感染体。


 少しだけ勘がいい。そこが不快だった。こちらを理解したふりをする者は、実際には理解していない者より厄介だ。理解できると思って近づいてくる。言葉を投げ、分類し、私の輪郭に名前を与えようとする。愚かしい。名前を与えた程度で、対象を所有できると思うな。


 ソウヤ。


 死の芸術家。


 嫌いだ。


 死に意味を貼る者は、死そのものより醜い。死体を見て、そこに美を見出す。破滅を語り、崩壊を整え、悲劇を額縁に入れる。そういう者は、どの世界線にもいた。私は毎回、同じ結論に至る。死は素材ではない。死は損失だ。損失を飾る暇があるなら、奪うか、壊すか、再利用しろ。


 ホノカ。


 戦闘中毒者。


 退屈。


 自分の破綻を特別だと思っている種類の個体。痛み、恐怖、殺意、限界、敗北、復帰。そういった刺激に依存している。確かに厄介ではある。完全殺害が困難な構造も持っているらしい。けれど、それだけだ。死なないことと、勝てることは違う。壊れ続けられることと、支配できることも違う。


 ZAGI。


 骨董品。


 説明不要。


 夕華式。


 悪趣味な実行環境。


 人格ではない。思想でもない。もっと低級なものだ。人間の欲望を入力し、損耗と悲鳴へ変換するだけの古い装置。装置は装置として扱えばいい。神聖視する者が馬鹿なのだ。壊すか、奪うか、上書きするか。選択肢はその三つで足りる。


 Subject-Λ12。


 シオン。


 あれを見た時だけ、少しだけ古い記憶が反応した。


 懐かしい、というほど綺麗なものではない。愛着というほど甘いものでもない。けれど、完全に無価値でもない。過去の私があれに何を見たのかは知らない。今の私が、あれをどう扱うかは別問題だ。


 必要なら使う。


 不要なら捨てる。


 それだけだ。


 そして、蒼井イルマ。


 あれだけは別だ。


 この世界線のイルマは、まだ私の具体を知らない。


 まだ何も知らない顔で、当然のように私の前に立った。


 そして、平然と矢那瀬アスミの名を口にした。


 その無知が不愉快だった。


 私だけが覚えている。


 私だけが渡っている。


 私だけが、あの女に何度も邪魔をされた記録を持っている。


 だから腹が立つ。


 だから少しだけ、楽しくもある。


 誤解しないでほしい。


 私は誰かを憎むために戻ってきたのではない。


 そんなものは目的として低すぎる。


 憎しみは便利な燃料だが、航路にはならない。憎しみだけで進む者は、必ずどこかで同じ場所を回る。私は回らない。私は戻らない。私は進む。


 必要なものを奪う。


 不要なものを捨てる。


 邪魔なものを壊す。


 その三つで、世界は十分に整理できる。


 この時代の者たちは、自分の痛みが特別だと思っている。


 自分の地獄が唯一だと思っている。


 自分の絶望に名前をつければ、それが歴史になると思っている。


 違う。


 地獄は量産される。


 絶望は反復される。


 世界線は、失敗を恥じない。


 だから私が恥じる理由もない。


 私は成功した。


 もう一度書く。


 私は成功した。


 過去の私がこの肉体をどう扱っていたかなど、どうでもいい。


 この身体は、もう私のものだ。


 この時間も、私のものだ。


 この盤面も、私が奪う。


 観測者?


 違う。


 観測など、もう古い。


 見るだけで世界が変わると思っているなら、それはまだ優しい錯覚だ。


 世界は、見た者のものではない。


 奪った者のものだ。


 だから私は、これから奪う。


 この世界線を。


 そして、蒼井イルマ。


 お前がまた私の前に立つなら。


 今度こそ、どちらが先に保たなくなるか、確かめてやる。


 そこのあなたは今まで通りでいい。


 気付かなかったことにしておいて。


 ――鏡ヶ原リゼ


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