EP191. 第二演目前奏――欲の哥
欲望には、匂いがある。
金属に似ている。
血にも似ている。
あるいは、長く閉じられた金庫の中で腐った紙幣の匂いに似ている。
それは本来、知性の対極にあるものではない。
人間は欲望によって学び、欲望によって奪い、欲望によって文明を作り、欲望によって他人を支配してきた。王権も、戦争も、革命も、植民地支配も、人体実験も、金融恐慌も、すべては欲望を制度化した結果にすぎない。
だから私は、欲望そのものを軽蔑しない。
軽蔑するのは、欲望に責任を持たない者たちだ。
夕華式は、その最悪の形をしていた。
倫理を語り、教育を名乗り、選別を装い、最後には人間をコインと呼ぶ。
右腕は痛む。
雨宮の処置で辛うじて繋がっているだけの、機能しない肉の重み。
それでも私は立っている。
シオンの心拍は遠い。
ホノカは笑っている。
ZAGIは記録している。
観客は賭けている。
なら、私は見る。
この欲望の構造を。
この賭場の理屈を。
この下劣な機械が、人間の命へどう値段をつけるのかを。
――始める。
右腕は、まだ私のものだった。
少なくとも、記録上は。
雨宮の仮固定によって、肩から下が辛うじて接続されている。包帯、固定具、縫合糸、圧迫帯、そして雨宮自身の血液。それらが、私の右腕を私の身体へ留め置いていた。機能しているとは言えない。動かせない。力も入らない。神経接続は不完全。血流は不安定。感染リスクは極めて高い。少し姿勢を変えただけで、断端の奥から熱い針を何百本も差し込まれるような痛みが走る。
それでも、そこにある。
右腕は、まだ私のものとして記録できる。
私は、その事実だけを足場にして立っていた。いや、立っていると思い込んでいた。実際には、雨宮の腕と壁と、左足に残ったわずかな筋力に吊られているだけだった。右腕の重みが、私の身体地図を狂わせている。あるはずの腕がない。ないはずの腕が痛い。接続されているはずなのに、自分のものではない。自分のものではないはずなのに、私の神経はまだそこへ命令を送ろうとしている。
矛盾している。
矛盾しているのに、痛みだけは正確だった。
「……っ、は……ぁ……」
喉の奥から、勝手に声が漏れた。
屈辱だった。
痛い、というだけならまだ分類できる。痛覚刺激。神経牽引。断端炎症。虚血。縫合部への負荷。幻肢痛。身体地図の破綻。分類すれば、それは観測対象になる。観測対象になれば、まだ支配可能な範囲に置ける。私はそうやって、これまで他者の恐怖も、依存も、抵抗も、崩壊も、すべて構造として処理してきた。
だが、声は違う。
声は反応だ。
反応は、この場所では餌になる。
この白箱では、悲鳴も、呻きも、呼吸の乱れも、瞳孔の揺れも、すべて観客席へ配信される。痛みが配当になり、屈辱が倍率になり、救助が賭け札になり、選択が商品になる。私は、そんな賭場の床に立たされている。その事実が、右腕の痛みより不快だった。
「リゼ様、呼吸を整えてください。痛みで過換気に入りかけています。吸う時間より吐く時間を長くしてください。肩を上げると固定部が裂けます」
雨宮が私の左側から支えていた。声は冷静だったが、袖口は血で重く濡れている。私の血と、彼自身の血。輸血のために開いた腕の傷は、応急処置だけで塞がれていた。
「……は、ぁ……分かって……いる……」
「分かっている人間の呼吸ではありません。言葉を返すたびに酸素を浪費しています。今のあなたは議論に向いていません」
「……はぁ……議論に……向いているかどうかは……私が、決める……」
「医療的には、私が決めます」
「……なら……従う、理由が……あるわね……はぁ……っ」
私は左肩の力をわずかに抜いた。
その瞬間、右腕の奥で何かがずれた。
骨ではない。神経でもない。もっと曖昧な、身体地図そのもののずれ。腕がまだそこにあると信じている脳と、腕が一度失われた事実を知っている身体が、互いに矛盾した命令を吐き出した。
「――っ、ぁ……は、あ……っ!」
声がまた漏れた。
すぐに噛み殺す。
だが遅い。
モニターの向こうで、ホノカが楽しそうに笑った。
《あはっ。今の声、かわいいね、リゼ。さっきより小さいけど、ちゃんと痛いって分かる声。いいよ。すっごくいい。冷たい顔して、はぁはぁしてるの、かなり来るものがあるよ》
私は画面を見上げた。
白い空間。
ホノカ。
その隣に、シオン。
シオンはまだ動かない。けれど、私の痛みに同期したのか、彼女の呼吸が微かに乱れている。Echo-Bindingの奥で、心拍が薄く跳ねた。私の痛みが、また彼女へ触れた。
許せなかった。
夕華式も。
ZAGIも。
ホノカも。
そして、私自身の糸も。
《ねえ、リゼ》
ホノカは頬杖をつき、甘えるような声で言った。
《それ、痛い? 痛いよね。だって腕、いったん千切られて、レイラちゃんに食べられて、雨宮さんに無理やり縫われたんだもん。普通なら泣くよ。なのにまだ立ってる。ほんと、気持ち悪いくらい意地っ張り》
「……はぁ……黙り……なさい……」
《やだ。だって、今のリゼ、すごく美味しそうなんだもん。冷たい顔をしてるのに、痛みで中身がぐちゃぐちゃ。シオンに届かないように必死で抑えてるのに、少しずつ漏れてる。ねえ、独りよがりだよね、それ》
ホノカの声が、わずかに低くなった。
《守るために繋いだんでしょ? でも今は、あなたの痛みをシオンに流してる。寂しい女。繋がってないと不安で、繋げたら相手を傷つける。ねえ、それって愛? 所有? それとも、自分を保つための首輪?》
殺意が上がる。
視界が赤くなる。
右腕が脈打つ。
痛みと怒りが同期して、全身の神経へ広がっていく。
私はそれを分類しようとした。ホノカへの殺意。シオンへの保護反応。Echo-Bindingの逆流。疼痛による判断速度低下。攻撃衝動。呼吸の乱れ。倫理的自己嫌悪。
並べる。
並べるが、遅い。
いつものように、滑らかには処理できない。思考の途中で痛みが割り込む。右腕が焼ける。肺が浅い。視界の端が暗い。分類はできる。けれど、分類した瞬間に別の痛みが上書きしてくる。
それでも、測定する。
測定できるなら、まだ使える。
「……はぁ……ホノカ……」
《なぁに?》
「あなたの……言葉は……いつも、雑ね……はぁ……刺している、つもり……でしょう……でも、違う……あなたは……傷口を、見つけるのが……上手いだけ……深さを測る、知性が……ない……」
ホノカの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
私は続けた。続けようとした。だが、呼吸が続かない。喉が血と乾きで詰まり、言葉が途中で折れる。雨宮が私の背中を支える手に力を入れた。
「リゼ様、もう十分です。喋り過ぎです」
「……はぁ……まだ……足りない……」
私はホノカを見た。
「私が……シオンを、所有しているか……愛しているか……救いたいのか……自分を、固定するために……利用しているのか……答えは、一つではない……はぁ……複数の矛盾した動機が……同時に、成立している……人間の情動は……単純なラベルで……処理できない……あなたは、そこを……“美味しそう”の一語で……食べようとする……だから、浅い……」
《……あは》
ホノカは笑った。
けれど、その笑いには一瞬だけ棘が混じった。
《リゼって、痛くても口だけは元気なんだね。いいよ。じゃあ、もっと痛くなったら、その口も止まるかな》
「……はぁ……試して……みなさい……」
《うん。たぶん、ZAGIちゃんが試すよ》
その直後だった。
天井のスピーカーから、校内放送めいた柔らかい電子音が三回鳴った。
ピン、ポン、パン。
あまりにも場違いな音だった。血と水と煙と悲鳴の中で、その音だけが、まだ学園の皮を被っている。
《第二演目の準備が完了しました》
ZAGIの声だった。
夢野りうに似た、明るく、少しだけ申し訳なさそうで、だからこそ最悪に不快な声。
《参加者の皆様、お待たせしました。第一選択における集計、損耗記録、観客反応、救助重み、疼痛反応、同期波形の記録が完了しました。これより第二演目へ移行します》
「集計?」
雨宮が低く呟いた。
「やはり、観客側で何かを賭けていますね」
「……はぁ……でしょうね……」
私は右腕を庇いながら、壁に背を預けた。立っているだけで痛い。息を吸うだけで、縫合部の奥が引き攣る。けれど、倒れるわけにはいかない。
「ZAGI……はぁ……観客反応とは……何……」
《詳細は参加者権限では開示できません》
「なら……推測、するわ……第一演目では……私が何秒で選ぶか……右腕を差し出すか……四人を見捨てるか……悲鳴を上げるか……シオンへ痛覚が伝播するか……そのあたりが、賭けの対象だった……」
《……》
「沈黙は……肯定に、近い……」
《興味深い推測です》
「下劣な……肯定ね……はぁ……っ」
《参加者の嫌悪反応を記録しました》
「記録して……おきなさい……あなたが壊れる時……照合して、あげる……」
その時、空間の奥から別の声が重なった。
ZAGIではない。
男でも女でもない。
古びた劇場の支配人のような、濡れた紙を喉に詰めたような、どこか儀式めいた声。
《欲は、倫理の別解である》
空気が変わった。
白い廊下の照明が、薄い金色へ傾く。清潔な白ではない。貨幣の色。腐った豊穣の色。金箔で覆われた死体のような色だった。
ネヤムが眉をひそめる。
「……今の、ZAGIじゃない」
「……ええ……」
返事をしただけで息が切れる。
それでも、答えた。
ソウヤが息を呑むように言った。
「夕華式そのもの、でしょうか。あるいは、夕闇倶楽部の儀礼層。第一演目では倫理を反転させた。ですが、今の声は違う。倫理を隠れ蓑にしていない。これは、欲望を正面から肯定する声です」
「……はぁ……推測は……後で……いい……」
「失礼しました。ただ、これは第一演目とは音の質が違います。問いかけではなく、讃歌です。救助や責任を測るのではなく、欲を崇めている」
その通りだった。
第一演目は、救助、責任、代価、帰還という言葉で私を縛った。倫理の言葉を使い、善意を逆転させ、選択の形をした罠を提示した。だが、今の声は違う。隠す気がない。これは欲望の声だ。金を持て余した観客の喉。他人の命を娯楽へ落とす、下賤な欲の合唱。
そう思考する途中で、痛みが割り込む。
右腕。
熱い。
重い。
ある。
ない。
痛い。
私は一瞬、目を閉じかけた。
「リゼ様」
雨宮の声が鋭くなる。
「目を閉じないでください。意識を落とす前兆です」
「……落とさない……はぁ……落とせない……」
夕華式が鳴る。
《オン・ラーバ・マハー・ソワカ》
重低音が、床から内臓へ響いた。
レイラが耳を塞ぐ。
「うえ、なにこれ。さっきのより、べたべたしてる。甘いのに腐ってる匂いがする。食べ物じゃないのに、口の中が汚れる感じ」
「……欲の……真言ね……」
私は答えた。
「意味は?」
ネヤムが聞いた。
私は金色に濁る照明を見た。文字が、音が、欲望が、痛みで滲む。頭の中の翻訳回路が遅い。それでも、意味は拾える。
「……富める者よ……命を、秤へ……載せよ……」
雨宮の表情が硬くなる。
「直接的ですね」
「……ええ……隠す段階を……終えたのよ……」
続けて、第二節。
《オン・カーマ・ジーヴァ・ソワカ》
廊下の壁面に、赤い数字が流れ始めた。倍率、クレジット、オッズ、残数、観測者数、損耗係数、救助期待値、死亡配当。文字はすぐ消えたが、十分だった。
私は読み取った。
「……命を……欲望へ換えよ……生者を……賭け札へ、変えよ……」
ソウヤが低く笑った。
「ついに、教育という仮面すら剥がれましたね」
「……笑うな……」
「笑っていません。これは軽蔑です」
第三節が響く。
《オン・ローバ・ナータ・ソワカ》
今度は、どこか遠くで拍手が起きた。壁の奥、天井の裏、床の下、あるいは、私たちには見えない観客席。乾いた拍手ではない。期待に濡れた拍手だった。
「……欲深き観客よ……敗者の悲鳴を……配当として、受け取れ……」
私がそう訳した瞬間、レイラが顔をしかめた。
「気持ち悪い。食べるのとも違う。お腹すいてないのに、ずっと口だけ開いてる感じ」
「……良い、表現ね……」
「褒められてる?」
「……今回は……」
レイラは一瞬嬉しそうにしたが、すぐに右腕を見て心配そうな顔に戻った。
「リゼ、痛い?」
「……痛いわ……はぁ……」
「言うんだ」
「隠しても……意味がない……ZAGIは……記録している……」
《はい。疼痛反応、継続記録中です》
ZAGIが明るく答えた。
《なお、鏡ヶ原リゼの右腕損傷は第二演目の難易度補正に反映されます》
「……補正……?」
《はい。参加者の損耗状態は演目設計に反映されます。重傷者は、観客評価上、選択時の緊張感が高まるためです》
「……本当に……反吐が、出る……」
私の声は低かった。
けれど、低い声を維持するだけの肺がない。言葉の末尾が震え、呼気が乱れ、痛みに引きずられて途切れる。
「あなたたちは……人間の損耗を……難易度調整に……使うのね……」
《はい。より公平な観測のためです》
「公平……?」
私は笑いそうになった。笑えば縫合部が裂れる。だから笑わなかった。
「右腕を奪い……血を流させ……シオンへ痛みを伝播させ……その上で……“公平”と言う……あなたの語彙は……壊れている……」
《語彙破損の可能性を検討します》
「検討しなくて……いい……あなた自身を……検討対象に……しなさい……」
雨宮が小さく言った。
「リゼ様、挑発に乗らないでください。血圧がまた落ちています。今のあなたは怒りで立っていますが、怒りは循環血液量を補ってくれません」
「……分かって……いる……」
「分かっていない顔です」
「この顔を……どう分類したの……」
「怒りと失血による判断速度低下です」
「……正しいわ……」
雨宮は一瞬だけ黙った。
私が素直に認めたことが意外だったのだろう。
当然だ。
怒っている。
そして、処理速度は落ちている。
普段なら十手先まで演算できる構造が、今は三手先で途切れる。痛みが割り込む。息が切れる。血が足りない。シオンの心拍が遠くで揺れる。そのたびに、私は自分の内側から戻らなければならない。
それでも怒りだけは、輪郭を保っていた。
右腕の痛みよりも、ZAGIの軽さよりも、ホノカの嘲笑よりも、夕華式の変質が許せなかった。
理論は、まだ解剖する価値があった。善意を反転させる構造。共同体を圧縮する数理。閉鎖環境における倫理判断の崩壊。それは悪質で、非人道的で、だからこそ精密だった。だが今、ここにあるのは賭け事だ。理論の死体を、金箔で飾ったものだ。知性を、成金の玩具に変えたものだ。
その下劣さが、私の神経を逆撫でする。
《第二演目》
ZAGIが告げる。
《命価遊技》
壁面が展開する。
遠くで巨大な機械音が鳴った。歯車、リール、鎖、落下床、歓声。そして、硬貨が金属皿へ落ちるような音。
チャリン。
チャリン。
チャリン。
それは、ありふれたスロット機の音に似ていた。ただし、ここではコインが人間だった。
ネヤムが顔を上げた。
「人が、数えられてる」
「……ええ……はぁ……クレジット化、ね……」
ソウヤの声が低くなる。
「人間を投入単位にした賭博装置。第二演目は、人間スロットですか」
その言葉に、雨宮が露骨に嫌悪を示した。
「ふざけている」
「……ふざけて……いないから……最悪なのよ……」
私は金色の照明の奥を見る。
拍手が増えていく。
ZAGIの声は、ひどく丁寧だった。
《参加者の皆様へご説明します。第二演目・命価遊技では、ミネルヴァ所属生徒、教職員、研究補助員、警備関係者、その他登録済み関係者を“命価コイン”として扱います》
レイラが顔をしかめた。
「人間がコイン?」
《はい》
ZAGIは普通に答えた。
《命価コインを投入することで、地下大規模遊技装置のリールが回転します。三つの“七”が揃った場合、帰還者代表側の勝利となり、観客側の一部賭け条件は失敗します》
「……観客側の、一部……ね……」
私は呟いた。
「つまり……観客は……私が何人を使って……七を揃えるかに……賭けている……」
《詳細は非開示です》
「肯定と……同じ……」
壁面に、赤い文字が浮かぶ。
【LIFE IS COIN】
【BET HUMAN】
【777 OR DROWN】
英語。
安い。
浅い。
見世物小屋の看板だ。
ソウヤが苦々しく言う。
「理論の美しさが完全に死にましたね」
「……ええ……ようやく……あなたにも、分かる程度に……下品に、なった……」
「それは少々刺さります」
「刺して……いるの……」
ホノカがモニター越しに笑った。
《あははっ、人間スロットだって。いいじゃん。分かりやすい。リゼ、得意でしょ? 人を分類して、使って、配置して、最適化するの》
「……違う……」
《違わないよ。あなたは人を使う。でも夕華式はもっと正直なだけ。コインって呼んでるだけ。ねえ、どっちが悪いのかな?》
「……夕華式よ……」
《即答?》
「……ええ……」
私はホノカを睨んだ。
「私は……目的のために……人を使う……必要なら……自由意思も、倫理も、人格権も……越える……その自覚が、ある……だから……責任も、私に残る……」
《へぇ》
「夕華式は……違う……責任を……賭け札へ、分散させる……観客、運営、装置、ルール、確率……誰も……自分が殺したとは……思わない……全員が……“ゲームがそうした”と……言える……そこが……下劣なのよ……」
ホノカは少しだけ目を細めた。
《リゼって、自分の悪さには誇りがあるんだ》
「……あるわ……はぁ……」
《最悪》
「あなたに……言われる筋合いは……ない……」
ZAGIが割り込む。
《補足します。命価コインは任意投入ではありません。演目条件に従い、参加者群から抽出されます。帰還者代表、鏡ヶ原リゼは、投入対象の選別、投入順、保留、代替投入を選択できます》
「つまり……私に……誰を落とすか……選ばせる……」
《はい》
「そして……選ばなければ……?」
《時間経過により、ランダム投入が実行されます》
「ランダム……?」
《はい。公平です》
「あなたの公平は……いつも、腐っている……」
《評価を記録しました》
そこで、夕華式の声がまた鳴った。
《公平とは、欲望を隠すための布である》
私は金色の壁を見た。
「……あなたが……夕華式……?」
《夕華式は式であり、場であり、哥であり、欲望の配列である》
「質問に……答えていない……」
《欲は答えない。欲は選ぶ》
「……違うわね……」
私は静かに言った。静かに言ったつもりだった。だが、呼吸が荒い。言葉の合間に、どうしても息が入る。
「欲は……選ばない……欲は……対象を奪うだけ……選ぶという行為には……まだ理性が、ある……欲望は……理性のふりをした瞬間に……もっとも醜くなる……」
《理性も欲望の一形態である》
「安い……相対化ね……」
《観測者は、欲を否定するのか》
「否定しない……欲は、存在する……支配欲も……保護欲も……所有欲も……救済欲も……私の中に、ある……問題は……それを、どう処理するかよ……」
《処理》
「ええ……私は……欲を仕様へ変換する……目的、制約、代価、責任、再現性……それらの中に、閉じ込める……あなたたちは、違う……欲を……賭場に解放した……だから、下劣なの……」
《欲は解放されてこそ美しい》
「欲が美しいのは……自分で責任を取る時だけよ……他人の命をチップにして……見えない席から拍手している欲は……ただの汚物……」
拍手が止まった。
一瞬だけ。
見えない観客席が、こちらを見た気がした。
雨宮が低く言った。
「今、観客の反応が変わりました」
「……ええ……図星なのでしょう……」
ソウヤが薄く笑った。
「見えない観客を言葉で殴る。実にリゼさんらしい」
「……褒めて……いるの……?」
「半分は。半分は恐れています」
「……正しい、反応ね……」
レイラが私の袖を引いた。
「リゼ、観客って食べられる?」
「……今は、無理……」
「今は?」
「いつか……可能なら……許可を、検討する……」
「やった」
「……検討よ……」
「それでもいい」
ネヤムが静かに言う。
「リゼ、今のは群れに効いた。見えない群れが、少し揺れた」
「……観客も、群れ……?」
「うん。顔が見えなくても群れ。お金があって、安全な場所にいて、自分たちは参加者じゃないと思ってる群れ」
「……最も、醜い種類ね……」
右腕が痛む。
焼ける。
疼く。
重い。
思考が、そこで一度途切れる。
私は何を考えていた。
命価遊技。
欲の哥。
人間スロット。
第一演目が倫理の皮を被った賭場なら、第二演目はもう隠す気すらない。人をコインにする。落とし、砕き、数え、回し、揃える。七を揃えれば私の勝ち。観客の負け。それが、この下賤な遊戯の骨格。
私は、ゆっくり息を吸った。
痛みが肺まで届く。
シオンの心拍が、遠くで揺れる。
ホノカが笑っている。
ZAGIが記録している。
夕華式が欲を歌っている。
観客が、私の次の選択を待っている。
ならば、私は解く。
この賭場を。
この欲を。
この下劣な機械を。
「ZAGI……」
《はい》
「第二演目のルールを……すべて、開示しなさい……」
《一部は進行に応じて開示されます》
「いいえ……今ここで……可能な限り……説明しなさい……」
《理由を提示してください》
「……はぁ……読者が……理解できないゲームは……三流だからよ……」
ほんの一瞬、ZAGIが黙った。
ホノカが吹き出した。
《あはっ、そこ!? リゼ、今そこ突っ込むの!?》
「当然よ……下賤な賭場でも……構造だけは……読めなければ、壊せない……」
ZAGIが少しだけ拗ねたような声で答えた。
《……説明します》
私は、痛む右腕を庇いながら前を見据えた。
第二演目が始まる。
倫理の演目は終わった。
次は、欲の演目。
金の欲望と、観測者の理性。
賭場に堕ちた理論と、それを解剖する私。
勝つためではない。
救うためでもない。
壊すために、私はそのルールを聞く。
第二演目は、まだ本格的には始まっていない。
それでも、私はもう理解していた。
これは倫理の試験ではない。
人間の限界を測るものでもない。
救助の価値を問うものでもない。
誰かを救うために何を差し出せるか、という美しい設問ですらない。
これは賭場だ。
命をコインにし、悲鳴を演出にし、落下を投入と呼び、死亡をクレジットへ換算する、知性の死体で作られた遊技機。
夕華式は、理論としては美しかったのかもしれない。
閉鎖環境。
倫理逆転。
注目分配。
生存誘導。
その言葉の奥には、人間を壊すための精密な構造があった。吐き気がするほど非人道的で、それでも解剖に値するだけの緻密さがあった。
だが、ここにあるものは違う。
これは理論ではない。
応用ですらない。
欲望に買われた理論の残骸だ。
金を持て余した観客たちが、安全な場所から他人の命に倍率をつける。
ZAGIはそれを公平と呼ぶ。
夕華式はそれを欲の別解と呼ぶ。
ホノカは笑う。
くだらない。
あまりにも、くだらない。
私は人間を使う。
必要なら壊す。
必要なら支配する。
それでも、私は自分の手でそれを選ぶ。
責任を、確率にも、観客にも、ゲームにも逃がさない。
だから、この賭場とは相容れない。
右腕の痛みも。
シオンの揺らぎも。
ホノカの嘲笑も。
ZAGIの記録も。
夕華式の歌も。
すべて観測する。
そして、壊す。
この賭場を、この欲を、この下劣な機械を皆殺しにしてやる。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




