EP190. 第一演目――右腕の代価
これは、選択の記録ではない。
少なくとも、夕華式が言うような意味では。
選択。
代価。
救助。
責任。
帰還。
それらの言葉は、一見すると人間の倫理に属しているように見える。
けれど違う。
この演目で提示されたものは、倫理ではない。
問いでもない。
教育でもない。
ただ、他人の身体を秤に載せるための仕掛けだった。
誰を救うか。
何を差し出すか。
どこまで失えば、保護と呼べるのか。
どこから先を、所有と呼ぶのか。
夕華式は、それを私に選ばせようとした。
いいえ。
選ばせたように見せかけた。
歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力ではない。
自分で選んだと思わせる構造だ。
私はそれを知っている。
だからこそ、不快だった。
こんなものに巻き込まれたことが。
こんな下賤な賭場に、私の身体と、私の帰還対象と、私のシオンへの到達確率を並べられたことが。
許せなかった。
けれど、怒りは止まる理由にはならない。
怒りは、観測精度を落とす。
痛みは、判断を乱す。
屈辱は、反応を早める。
だから私は、それらすべてを分類する。
観測して。
測定して。
必要なら、利用する。
夕華式。
ZAGI。
ホノカ。
あなたたちが私に何を選ばせようとしたのか。
そして、私が何を選んだのか。
この記録に残す。
――始める。
刃ではないものが、私の腕を噛んだ。
その瞬間、私は理解した。これは切断ではない。少なくとも、人間がまだ医療という言葉の下で扱える種類の損傷ではない。切断という言葉には、外科的処置の匂いがある。断端管理、止血、再接合、神経縫合、機能回復。人体を損なう行為であっても、そこには最低限、身体を身体として扱うための合理が残っている。
だが、夕華式が私の右腕へ与えようとしているものは、処置ではなかった。
破壊。
それも、結果として腕を失わせるための破壊ではない。腕が壊れていく過程そのものを、観客へ提示するための破壊だった。
金属の爪が、私の右上腕を上下左右から固定した。圧が入る。皮膚が沈み、筋肉が逃げ場を失い、骨膜に近い深部へ鈍い力が侵入してくる。最初の痛みは、まだ分類できた。圧迫痛、深部組織損傷、神経牽引、血管閉塞、骨へのせん断力。分類できる。まだ、分類できる。分類できるものは観測できる。観測できるものは制御できる。
そう自分に命令した。
私は鏡ヶ原リゼだ。観測者であり、分類者であり、支配者であり、人間の情動と崩壊を構造として扱ってきた。恐怖がどこで発生し、依存がどの瞬間に生まれ、自由意思がどの条件で“自分で選んだ”という錯覚へ変換されるのか、私は知っている。歴史上、最も効率よく人間を壊したのは暴力ではない。自分で選んだと思わせる構造だ。私はそれを知っている側の人間であり、必要なら利用する側の人間だった。
だから、大丈夫。
そう思った直後、機械が回転した。
切るのではなく、捩じる。
圧断アームは私の右腕を押し潰しながら、内部軸をずらすように回転した。筋繊維が裂け、血管が引き伸ばされ、神経束が細い火線のように引かれ、骨が内側から軋む。整った切断面を作る意思など、最初からない。これは医療的喪失ではない。腕という人体部品を、どのような手順で壊せば最も醜く、最も観客へ伝わり、最も“代価を支払った”ように見えるか。そのための設計だった。
夕華式。
原初の最悪理論。
閉鎖環境下における倫理逆転、注目分配、生存誘導の極地。
その到達点が、これか。
人間の善意を数理化し、救助衝動を反転させ、共同体を圧縮し、倫理を資源へ接続する。そこまでは、まだ理論だった。吐き気がするほど悪質でも、知性の匂いはあった。だが、今、私の腕を噛んでいるものは違う。これは知性ではない。これは賭場だ。成金と権力者が、他人の身体を掛け金にして笑うための、下賤な見世物小屋だ。
理論が娯楽へ堕ちている。
そのことが、痛みよりも不快だった。
「――ぁ、っ……!」
声が漏れた。
駄目。
抑えろ。
叫ぶな。
この空間では、悲鳴は私だけのものではない。悲鳴は観客の餌になる。痛みは配当になる。屈辱は演出になる。人間の身体反応を貨幣へ変換するのが、この演目の思想ならば、私は自分の声すら資源にしてはいけない。
だが次の瞬間、骨が折れた。
乾いた音ではなかった。体内で、濡れた枝が捩じ切れるような、鈍く、重く、逃げ場のない音だった。骨が折れたという事実よりも、その音が自分の身体の内側から聞こえたことに、脳が耐えられなかった。
喉が勝手に開いた。
「――ああああああああああああああああッ!!」
叫んでいた。
私が。
鏡ヶ原リゼが。
観測者であり、分類者であり、支配者であり、他者の崩壊を静かに測定してきた私が、ただの身体へ引きずり下ろされ、絶叫していた。
言葉にならない反応が、脳内で何度も反響した。実際に声にしたのか、喉の奥で潰したのか、自分でも判別できない。ただ、私の身体は完全に私の統制から逸脱していた。拘束具の中で肩が跳ね、腰が浮き、足が床を探し、右腕から逃げようとする。しかし腕は固定されている。逃げられない。逃げようとする動きそのものが、さらに神経を引き裂く。
屈辱だった。
痛みよりも。
右腕を失うことよりも。
自分の声が、私の許可なく外へ出たことが、何より屈辱だった。
拘束具が震えた。右腕が引かれる。肩口まで、強引に回される。腕だけではない。肩甲骨の奥、鎖骨、首筋、胸郭の接続まで巻き込むように、機械は私の右半身を捩じっていく。人間の身体は、腕だけで成立していない。一本の腕を捩じ切るということは、肩から背骨まで繋がる全ての構造へ、暴力を通すということだ。
「――っ、ぁ、あ……痛、っ……や、め……!」
出た。
言ってしまった。
痛い。
やめて。
そんな言葉を。
私が。
その事実に、さらに怒りが湧いた。だが怒りは痛みを消さない。むしろ、痛みの輪郭を鮮明にする。神経が火花みたいに弾け、世界が白くなった。
その白の奥で、別の叫びが聞こえた。
「――っ、あああああああああッ!!」
シオン。
私は意識の底から、その名を掴んだ。
御影シオン。
白い空間の向こうで、彼女が叫んでいた。
同期が残っている。Echo-Bindingの残滓。私が彼女へ沈めた観測経路。彼女の心拍を拾い、情動を拾い、揺らぎを拾うための線。その線を通じて、痛みが伝播した。私の右腕の喪失が、シオンの神経へ触れた。
違う。
違う、違う、違う。
シオンに痛みを渡すために繋いだのではない。守るためだった。観測するためだった。失わないためだった。私は縛っているわけではない。彼女が私の外で崩壊する確率を知っているだけだ。自由意思は残してある。完全に奪えば、彼女ではなくなるから。
そう理屈を積み上げてきた。
だが今、私の所有の糸が、彼女へ痛みを届けている。
その事実が、切断より深く私を裂いた。
《あは》
モニターの向こうで、ホノカが笑った。
《あははははははははっ! ねえ、リゼ、今の声なに!? すごい、すっごいよ! リゼが叫んだ! あのリゼが! ねえ、そんな顔、初めて見た♡》
私は顔を上げた。
視界が揺れる。血圧低下、急性失血、疼痛性ショック、呼吸不整、意識混濁。頭の中で診断名が並ぶ。自分の身体を症例として観測する。滑稽だ。だが、それでも私はホノカを見た。
「……はぁ、はぁ……黙り、なさい……」
声が正常に出ない。
肺が空気を欲しがっている。喉が震え、呼吸が乱れ、語尾が血の味で濁る。
《やだ。だって綺麗だったもん。いつも人を分類して、測定して、冷たい顔で“これは保護です”みたいなこと言うリゼがさ、自分の腕を捩じ切られて叫んで、しかもシオンまで巻き込んでるんだよ? 最高じゃん。ねえ、今どんな気持ち? 守るための糸で、大事な子を傷つけちゃった気分って、どんな味?》
殺す。
思考ではなかった。
反射でもない。
もっと深い、生理的嫌悪に近い排除衝動だった。
赤白木ホノカ。
理解不能な破綻。制御不能な自由。観測不能な暴力性。私の世界に混入した、最悪のノイズ。人類史には、いつでもこういう存在がいた。革命の後に生まれる粛清者。戦争の後に笑う略奪者。秩序が崩れた瞬間だけ呼吸がしやすくなる人間。だがホノカは、それらのどれよりも悪質だった。彼女は倫理の外側にいるのではない。倫理を退屈な背景音として聞き流している。
「……はぁ、はぁ……ホノカ……」
《なぁに?》
「……あなたは……はぁ……宇宙から……消す……」
《うわぁ。今のいい。すごくいい。もっと言って。リゼが怒ってる。怒ってるのに、まだ冷たい顔を作ろうとしてる。かわいいね。ねえ、全部崩してよ。全部見せてよ。じゃないと、美味しくない》
ZAGIの声が割り込んだ。
《処理報告。右腕提供処理は完了しました。帰還者代表の拘束を解除します。左室の注水を停止します。排水を開始します》
拘束具が外れる。
私の身体が前へ崩れた。
右側の重心が消えている。身体地図が狂う。あるはずの腕がない。だが脳は、まだ右手の指を動かそうとしている。存在しない指先が痙攣する。幻肢痛。皮質地図の残響。私はそれを知識として知っていた。論文で読み、症例で見て、被験体で観測した。
まさか、自分の脳で体験するとは思わなかった。
《あ、えっと……補足します》
ZAGIが、妙に気まずそうな女子高生みたいな声で言った。
《切断処理において、想定よりも断端損傷が大きくなりました。たぶん、アームの角度補正を間違えました。ごめんなさい》
私は、しばらく意味を処理できなかった。
たぶん。
間違えました。
ごめんなさい。
「……はぁ、はぁ……ZAGI……」
《はい》
「……今……何と……言ったの……」
《えっと……操作を間違えました》
「……右腕を……はぁ……捩じ切って……間違えた……?」
《はい。予定では、もう少し綺麗に切断する予定でした。ですが、右上腕部に対する固定圧と回転角の同期がずれたため、断端が不整になりました。再接合可能性が低下した可能性があります。本当にすみません》
血が床へ落ちる。
熱い。
濃い。
私の身体から、私の機能が流出していく。
その上で、ZAGIは謝った。校内放送のような声で。友達のノートを汚した女子高生みたいな温度で。私は笑いそうになった。怒りが深すぎると、人間は笑いに近い呼吸をする。
「……はぁ……あなたも……壊す……」
《敵対反応を確認》
「……確認では……ない……はぁ……確定よ……あなたの……その声……その謝罪……その軽さ……全部、不快だわ……」
《不快反応を記録しました》
「……記録しておきなさい……はぁ、はぁ……あなたが壊れる時に……参照させてあげる……」
視界が傾いた。
床が近い。
倒れる、と思った瞬間、誰かが私を支えた。
雨宮だった。
「リゼ様、意識を保ってください。こちらを見てください。名前を言えますか」
「……はぁ……鏡ヶ原……リゼ……」
「現在地は」
「……ミネルヴァ教育機構……はぁ……夕華式、第一演目内……」
「右腕は」
「……喪失……上腕中部……はぁ、はぁ……断端、不整……失血中……」
「よろしい。認識は保たれています。ですが、顔色が悪い。瞳孔反応も遅い。今すぐ処置します」
雨宮の声は冷静だった。
だが、手が速い。
彼は私の残った肩側へ圧迫をかけ、簡易止血帯を巻き、出血点を探り、同時に床へ落ちた右腕を視認した。その顔が、初めてわずかに歪んだ。
「……これは酷い」
「……はぁ……言語化……して……」
「切断ではありません。捩じ切られています。筋断端は潰れ、神経束は牽引損傷、血管端も裂けています。このままでは接合は困難です。繋げるにしても、断端を整えなければならない」
「……成功率は……」
「現時点では、極めて低い」
「……ゼロでは……はぁ……ない……」
「あなたはその言い方が好きですね」
「……嫌いよ……でも……使える……」
レイラが、排水の終わった左室から駆け寄ってきた。
濡れた髪が顔に張りついている。瞳孔が開いている。呼吸が浅い。唇が震えている。恐怖ではない。興奮、食欲、そして奇妙な歓喜。
「リゼ」
「近づくな」
雨宮が即座に遮った。
だが、レイラは私ではなく、床に落ちた右腕を見ていた。まるで宝石を見る子供のように。まるで、飢えた獣がようやく餌を見つけたように。
「その腕、綺麗にしてあげる」
雨宮が固まった。
「何を言っている」
「ぐちゃぐちゃだから、つきにくいんでしょ。なら、綺麗にすればいいじゃん。私、できるよ」
「できる、とは」
「食べるの」
レイラは平然と言った。
「変なところを少しだけ食べる。潰れてるところ、ぐちゃってなってるところ、もう死にかけてるところ。そこを綺麗にする。そうしたら、くっつきやすいでしょ?」
雨宮の表情から、完全に感情が抜けた。
「正気ではない」
「正気だよ。すごく正気。だって、全部食べたいなら、もう食べてる。でも違う。今は助けるの。リゼの腕、戻すの。ちゃんとする。ぜんぶ食べたりしない。ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけ。……でも、すごくいい匂いする」
レイラの声が、そこで少し甘くなった。
「リゼの血、濃い。怖い匂いと、怒ってる匂いと、我慢してる匂いがする。痛いのに、まだ私たちのこと見てる。まだ命令しようとしてる。そういうところ、好き。すごく好き」
「……はぁ、はぁ……レイラ……」
「うん」
「……興奮を……下げなさい……」
「無理。無理かも。リゼの匂い、すごい。血の匂いが濃い。怒ってる匂いもする。痛いのに我慢してる匂いもする。ねえ、リゼ、これ、すごいよ。私、今、ちゃんと我慢してる。ほんとはもっと近くで嗅ぎたい。もっと見たい。もっと――」
「……レイラ……」
私は彼女の名を呼んだだけで、肺が焼けるように痛んだ。呼吸を一度挟まなければ、次の言葉が出てこない。
「……はぁ、はぁ……命令よ……下げなさい……」
「……がんばる」
レイラはそう言ったが、瞳孔は開いたままだった。唇はわずかに震え、喉が小さく鳴っている。飢えた獣の音ではない。もっと厄介なものだった。自分が役に立てる歓喜と、私の肉を前にした捕食衝動と、私から許可を得たいという依存が、全部同じ場所で混ざっている。
ソウヤが、水に濡れた袖を絞りながら、興味深そうに呟いた。
「これは、芸術の兆しでしょうか。捕食を治療へ転用する。肉体の欠損を食欲によって整形する。醜悪ですが、構図としては極めて――」
「ソウヤ」
雨宮が低く制した。
「今それを言うなら、私があなたを処置します」
「失礼しました。沈黙します」
ネヤムはレイラを見ていた。驚いてはいない。ただ、確認している。
「レイラ。どこを食べるの」
「潰れてるところ。黒くなりそうなところ。変な裂け方してるところ。雨宮さんが縫う邪魔になるところ」
「骨は?」
「食べない。硬いし、たぶん要る」
「神経は?」
「知らない。でも、リゼの匂いが強いところは残す。そこ、たぶん大事」
雨宮が呻くように言った。
「信じられない。医学ではない。処置ではない。こんなものは――」
「……はぁ……でも……可能性は、ある……?」
私が言った。
声が掠れていた。血が足りない。視界の端が黒い。右腕がないのに、右腕が痛い。存在しない手首が燃えている。存在しない指先が、爪を剥がされるみたいに疼いている。それでも、意識はまだある。
雨宮が私を睨む。
「ありません、と言いたいところです」
「……はぁ……正確に……」
「理論上、損壊部位を除去し、再接合に適した断端へ整えるという考え方自体は存在します。しかし、それは無菌環境、外科器具、止血、洗浄、顕微鏡下で行うものです。捕食衝動を持つ少女の口腔内で行うものではありません」
「……つまり……はぁ……可能性は……ゼロではない……」
「リゼ様」
「……答えなさい……」
雨宮は沈黙した。
その沈黙が答えだった。
レイラが私の近くへ膝をついた。
「リゼ、私にやらせて」
「……あなたは……はぁ……私の肉を……食べたいだけでは、ないの……?」
「食べたいよ」
即答だった。
雨宮が顔をしかめる。
レイラは、まったく悪びれずに続けた。
「でも、戻したい。リゼが右手なくなったら困るでしょ。シオンのところへ行くんでしょ。ホノカを殺すんでしょ。だったら、いるじゃん。その腕、いるじゃん。だから、私が綺麗にする」
単純。
幼稚。
野蛮。
けれど、目的は一致していた。
私はレイラを見た。彼女の瞳孔は開いている。唾液分泌は増えている。捕食衝動は強い。だが、Echo-marionnetteの制御下で、対象認識は私へ固定されている。私を食べ尽くす確率、暴走確率、感染リスク、断端壊死、雨宮による再処置成功率、残存時間、失血量、シオンへの同期伝播。それらが計算の中で重なる。
合理性は低い。
だが、他に選択肢がない。
「……はぁ、はぁ……レイラ……」
「うん」
「……私を……助けなさい……」
レイラの表情が変わった。
嬉しそうに。
泣きそうに。
捕食者が獲物から許可を得た顔ではない。捨てられていないと確認した子供の顔だった。
「marionnetteで、痛くしない?」
「……はぁ……痛くする必要が……あれば、する……」
「今は?」
「……今は……しない……」
「ほんと?」
「……命令よ……私の腕を……繋がる形に、整えなさい……食べ過ぎたら、止める……暴走したら、止める……私を殺す方向へ逸れたら……あなたの神経を、焼く……」
レイラは、うっとりと笑った。
「うん。それなら安心」
雨宮が信じられないものを見る目で私を見た。
「本気ですか」
「……はぁ、はぁ……本気よ……」
「細菌感染、組織壊死、敗血症、接合失敗。すべてのリスクが上がります」
「……はぁ……今すでに……成功率は低い……なら……低い可能性の中から……一番使えるものを拾う……」
「あなたは、自分の身体を何だと思っている」
「……目的達成のための……媒体……」
言い切った直後、息が詰まった。
痛みが遅れて胸まで上がってくる。右腕は既に離れているのに、存在しない指先が痙攣し、存在しない手首が燃え、存在しない爪が剥がされるように疼いていた。
雨宮は、私を見るだけではなかった。レイラを見た。ネヤムを見た。ソウヤを見た。零群の少年少女。捕食を処置に変えようとするレイラ。群衆心理を呼吸のように読むネヤム。人間の死を舞台美術として扱うソウヤ。そして、それらを目的のために使う私。
雨宮の顔には、はっきりと書かれていた。
やはり、この子たちは社会へ戻してはいけなかったのではないか、と。
正しい。
だが、正しさは遅い。
「……始めなさい……レイラ……」
「うん」
レイラが、私の右腕を両手で持った。
「……はぁ、はぁ……レイラ……近すぎる……でも、今は許可する」
その手つきだけは、驚くほど丁寧だった。彼女はしばらく匂いを嗅いだ。恍惚としていた。だが同時に、真剣だった。その矛盾が、彼女の異常性をいっそう際立たせていた。
「何をしている」
雨宮が眉を寄せる。
「どこが死にかけてるか見てる」
「嗅覚で?」
「うん。死ぬところは、甘くて苦い。まだ使うところは熱い匂いがする。リゼの腕、怒ってる匂いが残ってるから、まだ戻りたいんだと思う」
「腕に意思はない」
「でも匂いはあるよ」
レイラは真剣だった。捕食者の顔ではない。職人の顔だった。ただし、血で頬を染め、唇を震わせ、喉の奥で抑えきれない喜びを鳴らしている職人だった。
彼女が、私の腕へ歯を立てた。
「――っ、ぁ……はっ……!」
痛みではない。
右腕は既に離れている。
だが、幻肢痛が反応する。自分の肉が噛まれるという情報だけで、脳が痛みを再構成する。存在しない神経が、存在するように燃える。
私は歯を食いしばった。
叫ばない。
もう叫ばない。
ホノカに、二度目は見せない。
レイラが、断端の損壊した部分を食べていく。湿った、低い音がする。雨宮は最初、明らかに拒絶していた。だが数秒後、その表情が変わった。
「……待ってください」
「……はぁ……何……」
「断端が整っている。信じがたい。挫滅組織が選択的に除去されている。骨端周辺も残っている。血管端も、完全ではありませんが識別可能です」
レイラが、赤く濡れた口元で笑った。
「だから言ったじゃん。綺麗にするって」
「どうやって判別している」
「匂い」
「匂いで、血管と筋組織の損壊差を判別しているのですか」
「名前は知らない。でも、まずいところと要るところは違う匂いがする」
雨宮は絶句した。
私は、薄れていく意識の中で、少しだけ笑った。
そして、レイラは私の身体に近づいた。
「……っ、ん……ぁ、あ……!」
「リゼ、動かないで。ずれる。せっかく繋がるところ、外れちゃう」
「……はぁ、っ……そこ……触るな……!」
「だめ。そこ、もう死にかけてる匂いする。ここ、食べるね」
「――ぁ、ぁあっ!? は、ぁ……っ、ふ……!」
「うわ、今すごかった。リゼの身体、びくってした。神経、まだ生きてるんだ」
「……レイラ……はぁ、はぁ……調子に、乗るな……」
「乗ってるよ。だって嬉しいもん。リゼに触っていいって言われた」
「……っ、ぁ……ふ、ぅ……!」
「そこ痛い? でも、ここ残した方が綺麗につく。だから我慢して」
「……はぁ……ぐ、っ……!」
「えへへ……リゼ、すごい匂い。怒ってる匂いと、怖い匂いと、でも壊れたくない匂い、全部する」
「……黙って……処置を……しなさい……!」
「処置してるよ? ちゃんと丁寧に食べてる」
「その表現を……やめろ……!」
「やだ。だって食べてるもん」
「……ぁ、っ……そこ、だめ……!」
「んー……でも、ここ腐る匂いしてる。残したら腕つかなくなるよ?」
「……はぁ、はぁ……なら……やれ……!」
「うん♡」
「……はぁ、はぁ……雨宮……」
「はい」
「……驚いている暇が……あるなら……処置……」
「……承知しました」
雨宮がレイラを引き離す。
「そこまで。これ以上は食べ過ぎです」
「えー、もうちょっとだけ」
「駄目です。次に噛めば、私が止めます」
「雨宮さんも怖いね」
「あなたほどではありません」
レイラは名残惜しそうに私の腕を見たあと、私の隣へ寄り添った。
「リゼ、綺麗にしたよ」
「……はぁ……ええ……」
「痛かった?」
「……はぁ、はぁ……痛かった……」
「ごめんね」
その謝罪は、予想外だった。
私は、呼吸を二度挟んでから答えた。
「……次は……もっと……上手く、やりなさい……」
「うん」
レイラは、満たされた捕食者の顔で頷いた。
その瞳は、もう私をただの主人として見ていなかった。助けたい相手。食べたい相手。命令してほしい相手。そして、味を知ってしまった相手。その全部が混ざった目だった。
雨宮は即座に消毒を始めた。容赦のない洗浄。焼けるような痛み。消毒液が組織へ触れ、断端が火のように疼く。私は呼吸を整える。痛みを分類する。まだ分類できる。なら、耐えられる。
「輸血が必要です」
雨宮が言った。
「……はぁ……備蓄は……」
「この場にはありません。緊急搬送も不可能。したがって、私を使います」
「……あなたの……血液型は……」
「適合確認済みです。移送前資料であなたの生体情報は把握しています」
「……用意が……いい……」
「あなたが無茶をする可能性も、計算していました」
「……優秀ね……」
「褒められても嬉しくありません」
雨宮は自分の腕へ針を刺した。次に、私へ接続する。簡易直結輸血。本来なら避けるべき行為。だが今は、本来などという言葉に価値はない。
血が入ってくる。
他人の血。
雨宮の血。
私の体温が、少しだけ戻る。
彼は私の右腕を合わせ、血管を探し、神経の位置を確認し、筋肉を仮固定し、縫合を始めた。
「完全接合ではありません。仮固定です。動かせると思わないでください」
「……はぁ……動かせるように……しなさい……」
「無茶です」
「……無理とは……言わないのね……」
「医療者が無理と言う時は、だいたい手遅れです。まだ手遅れではない」
「……なら……十分……」
ネヤムが私の顔を覗き込んだ。
「リゼ、顔色が悪い」
「……知っている……」
「怖かった?」
「……痛かった……」
「怖くは?」
私は少しだけ黙った。
怖かった。
痛みそのものではない。
シオンへ痛みが渡ったことが。
私の支配が、彼女を傷つけたことが。
「……はぁ……少し……」
ネヤムは、それ以上聞かなかった。
ソウヤは黙っていた。
珍しい。
「……ソウヤ……」
「はい」
「……何か……言いたそうね……」
「言うべきではないと思っています」
「……許可する……」
彼は少しだけ考え、静かに言った。
「リゼさんは今、自分の身体すら舞台装置にしました。右腕の喪失、レイラさんの捕食、雨宮さんの処置、ネヤムさんの沈黙。すべてが一つの構図になっている。ですが、これは夕華式の演出ではありません。あなたが奪い返した演出です」
「……不快な……言い方ね……」
「褒めています」
「……もっと不快……」
それでも、言っていることは理解できた。
夕華式は、私の右腕を賭けの代価にした。ZAGIは、私の選択を観測した。ホノカは、私の叫びを娯楽にした。だが、その後の構造は私が奪った。レイラを使い、雨宮を使い、ネヤムの観測を使い、ソウヤの言語化を使い、私の身体の損失さえ、次へ進むための仕様へ変えた。
支配とは、暴力ではない。
仕様だ。
私はそれを、誰よりもよく知っている。
雨宮の縫合針が肉を通る。痛み、熱、吐き気、血。それでも、私は目を閉じなかった。モニターの向こうで、ホノカがまだ見ている。ZAGIがまだ記録している。夕華式がまだ、私の反応を測定している。
ならば見せてやる。
右腕を奪われても、私は観測を放棄しない。痛みで叫んでも、私は分類をやめない。シオンに痛みを伝播させた罪も、レイラに肉を食わせた事実も、雨宮の血で生き延びる屈辱も、全部持って進む。
私は救助者ではない。
私は善人ではない。
私は、最悪の観測者だ。
そして最悪の観測者は、自分の欠損すら記録へ変える。
雨宮が低く言った。
「仮固定、完了。動かさないでください。動かせば、即座に裂けます」
「……はぁ……どの程度……使える……」
「今の質問をした時点で、あなたは患者として最低です」
「……答えて……」
「使えません。持っているだけです。神経接続は不完全、血流も不安定。機能回復は不明。感染リスクは極めて高い」
「……十分……」
「どこがですか」
「……右腕は……まだ……私のものとして……記録できる……」
雨宮は深く息を吐いた。
「あなたは本当に、観測者なのですね」
「……ええ……」
私は、血の気の引いた唇で答えた。
「……だから……次へ行くわ……」
レイラが私の隣で、小さく笑った。
「リゼ、私、役に立った?」
「……ええ……」
「じゃあ、また食べていい?」
「……許可した時だけ……」
「はぁい」
ネヤムが通路の奥を見た。
「次、来るよ」
ソウヤも顔を上げる。
「拍手が近づいています」
確かに、遠くから拍手が聞こえた。壁の向こう、床の下、天井の奥、あるいは観客席から。ZAGIの声が流れる。
《第一選択、完了。帰還者代表、鏡ヶ原リゼ。右腕提供により、帰還対象四名の救出処理を確認しました。次の設問へ移行します》
私は立ち上がろうとした。
雨宮が支える。
「無理です」
「……支えなさい……」
「命令ですか」
「……命令よ……」
雨宮は短く頷いた。
「承知しました」
私は、痛みに震える身体を無理やり立たせた。右腕は重い。自分のものではないように、ぶら下がっている。だが、ある。まだ、ある。ならば十分。
私は前を見た。
「……ZAGI……」
《はい》
「……ホノカ……」
《見てるよ、リゼ♡》
「……夕華式……」
返事はない。
だが、聞いている。
私は静かに言った。
「……はぁ、はぁ……この程度で……私を測ったつもりなら……評価が甘い……」
拍手が、少しだけ大きくなった。
痛みは、記録できる。
屈辱も。
怒りも。
失血による視界の暗転も。
存在しない右手がまだ燃えている錯覚も。
シオンへ痛みが伝わった瞬間の、あの嫌な断裂も。
すべて記録できる。
記録できるものは、利用できる。
だから私は、まだ進める。
夕華式は、私に代価を支払わせたつもりなのだろう。
右腕。
悲鳴。
血。
シオンへの痛覚伝播。
レイラに肉を食わせるという異常な処置。
雨宮の血で生き延びるという屈辱。
なるほど。
たしかに、見世物としては上等だったでしょうね。
観客席のどこかにいる金の余った権力者たちは、満足したかもしれない。
他人の身体が壊れる瞬間に値段をつけ、誰かの救助を賭け札にして、痛みと悲鳴を配当として受け取る。
原初の最悪理論。
その極地が、これ。
理論が賭け事に堕ちた姿。
知性が、成金の娯楽へ売られた残骸。
反吐が出る。
私が怒っているのは、腕を奪われたからだけではない。
痛かったからだけでもない。
ホノカに笑われたからでも、ZAGIに軽く謝られたからでもない。
私の怒りは、もっと根が深い。
人間の倫理を解剖するほどの理論が。
善意と救助と共同体の崩壊を、あれほど精密に扱った思想が。
最後には、下卑た観客のための賭場に成り下がっていた。
それが許せない。
私のプライドが、傷ついた。
こんなものに測られたことが。
こんなものに私の選択を評価されたことが。
こんなものが、私のシオンへ至る道に値札を貼ったことが。
許せない。
だから壊す。
ZAGIを。
夕華式を。
観客席を。
そして、この演目に意味があると思い込んでいるすべてを。
私は次へ進む。
右腕は、まだ私のものとして記録できる。
痛みも、まだ私のものとして分類できる。
怒りも、まだ私のものとして使用できる。
なら十分。
第一選択は終わった。
あなたたちは、私を測ったつもりかもしれない。
けれど違う。
測られたのは、あなたたちの方。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




