EP189. 第一演目――帰還者選別
これは、帰還者選別の記録。
ただし、選別されたのは彼らではない。
雨宮。
ネヤム。
レイラ。
ソウヤ。
私が連れて帰った四人。
危険因子。
同行者。
戦力。
保護対象。
所有物。
呼び方はいくらでもある。
けれど、名前を変えても構造は変わらない。
私は彼らを連れてきた。
私の判断で。
私の都合で。
私の観測可能範囲に置くために。
だから夕華式は、その事実を見逃さなかった。
救助とは何か。
所有とは何か。
保護とは何か。
そして、誰かを連れて帰るという行為には、どれだけの代価が必要なのか。
この演目は、それを私に問いかける。
不愉快なほど正確に。
いいでしょう。
観測者は、選択の瞬間に目を逸らさない。
――始める。
最初の死は、善意に反応して起きた。
それを理解するまでに、三秒も必要なかった。
ミネルヴァの正門を越えた直後、私たちはすでに夕華式の胃袋の中にいた。白い廊下は呼吸し、壁は微細に震え、学園チャイムの残響はまだ低周波へ沈んだまま、骨の内側を擦っている。教育機関の音だったはずのものが、今は人間を閉じ込めるための境界音になっていた。
そこへ、ひとりの看護婦がよろめきながら近づいてきた。
「リゼ様……!」
私を知っている声だった。
救護棟第二病棟の看護主任補佐、三枝ナツミ。観察補助資格、薬理管理資格、低年齢被験者対応研修修了。感情移入傾向が強く、非常時に対象へ過剰接近する癖がある。優秀ではない。判断も遅い。けれど、善良だった。
善良。
夕華式において、それは危険な性質になる。
「近づかないで」
私は言った。
だが、彼女は止まれなかった。
「部屋の、空気が……急に、なくなって……子供たちが、みんな……!」
彼女の首には、黒いバンドが装着されていた。幅三センチほど。表面は樹脂ではなく、黒色の伸縮金属。内側に圧力センサー。外側に微細な発光ライン。接合部には爆薬らしき膨らみはない。だが、爆薬がないことは安全を意味しない。
私は即座に理解した。
拘束具ではない。
これはルール提示装置だ。
「雨宮。触れないで」
「確認しています。外部解除は危険です。構造上、首輪型拘束具に見えますが、主目的は拘束ではありません」
「ええ。これは行動制御装置。発話、接近、救助要請、救助反応のどれかに連動している」
三枝は震える手を首へ伸ばそうとした。
私は声を低くした。
「手を下ろしなさい。無理に外せば死ぬ可能性が高い」
「死……? でも、リゼ様、これ、みんなに……子供たちにも、先生たちにも、みんなに付いていて……!」
「だから触るなと言っている。あなたが今すべきことは、私へ情報を渡すことだけ。感情は後でいい。泣くのも後でいい。まず、何が起きたの」
三枝は唇を震わせた。
「放送が流れました。帰還者選別が始まるって。部屋に閉じ込められて、空気が薄くなって、誰かが扉を叩いたら、首輪が光って……それで……」
「誰かが死んだ?」
三枝は頷けなかった。
代わりに、喉の奥から壊れた音を漏らした。
「このゲームの目的は……たぶん、リゼ様を――」
その瞬間、バンドが起動した。
私は爆発を予測した。
首部爆破による即死。発話制限型の典型。証言遮断。恐怖拡散。群衆制御。歴史上、捕虜管理、密告防止、思想統制の実験で似た発想はいくらでもある。人間の首に死を巻くのは、最も古典的で、最も分かりやすい支配の形式だ。
だが、夕華式は違った。
黒いバンドが音もなく収縮した。
三枝の喉が潰れる。
「……っ、か……!」
顔色が急速に青紫へ変わった。頸静脈が浮き、眼球結膜が充血し、舌根が奥へ落ちかける。頸動脈洞への圧迫。気道閉塞。脳血流低下。声帯は震えようとして、空気を失う。
絞殺。
爆破ではない。
ゆっくり、見せるための死。
「三枝」
私は一歩踏み出した。
雨宮が私の手首を掴んだ。
「駄目です。外部接触で二次起動する可能性があります」
「離して」
「離しません。今あなたが触れれば、善意反応として処理される可能性があります」
善意反応。
その言葉で、私は止まった。
三枝を助けようとする私の行動が、次の起動条件になる。
私は、三枝が死んでいく様子を見た。
見なければならなかった。
彼女の指が宙を掻き、膝が折れ、唇が何かを言おうとして失敗する。最後に、私を見る。助けて、ではない。なぜ、でもない。
申し訳ありません。
そういう顔だった。
私はその顔を記録した。
心拍低下。
瞳孔反応鈍化。
呼吸停止。
三枝ナツミは、私の目の前で死んだ。
ZAGIの声が廊下に流れた。
《善意接近、確認。発話逸脱、処理完了。参加者の皆様へ補足説明を行います。本装着具は、発話制限、救助誘導、善意反応検出、外部解除抑止を目的とした夕華式標準補助器具です。無理に外そうとした場合、対象本人または解除者へ追加ペナルティが発生する可能性があります》
「……悪趣味ね」
《評価ありがとうございます》
「褒めていない」
《知っています。ですが、参加者の感情反応は重要な観測項目です》
雨宮が三枝の遺体を見下ろし、低く言った。
「絞殺バンド。発話制限と救助誘発の複合型です。爆殺よりも制御に向いている。死に時間があり、周囲がそれを見せられる」
「ええ。爆発なら距離を取ればいい。これは助けようとする者を近づけて、見殺しを強制する。しかも、見殺しにした側へ罪悪感を残す」
「夕華式の目的は、参加者に救助行動の危険性を学習させることですか」
「正確には違う。救助行動そのものではなく、救助行動へ移る前の認知反応を汚染している。誰かが苦しんでいる、助けなければならない、近づきたい、その連鎖の中へ死を挟む」
私は周囲を確認した。
生徒、職員、警備補助員、事務局員、研究補佐員。廊下の奥から現れた人々の首に、同じ黒いバンドが装着されている。
全員。
夕華式は、ミネルヴァの職員と生徒を参加者に落としていた。
レイラが鼻をひくつかせた。
「みんな怖がってる。首の匂いが同じ。鉄と汗と、死ぬ前の皮膚。あと、優しい人の匂いから先に死んでる」
「黙っていなさい」
「でも、リゼ。あの子たち、逃げてくるよ」
次の瞬間、廊下の向こうから人の波が押し寄せた。
「水が来た!」
「第三教室が沈んだ!」
「開けて! 開けてください!」
「いやああああああ!! 先生、先生どこ!?」
「押すなよ! 押すなって言ってるだろ!!」
ずぶ濡れの生徒たち。教員。医療補佐。白衣を着た研究員。全身から水を滴らせ、酸欠寸前の顔でなだれ込んでくる。
人口密度が跳ね上がった。
私は即座に計算した。
廊下幅、約三・二メートル。目視範囲の人数、七十以上。後続あり。移動速度、不均一。先頭集団は恐慌状態。後方圧力増大中。
一平方メートルあたり八名。
九名。
十名。
危険域。
「全員、壁際へ。足を止めないで。押し返さないで。胸を横に向けて、呼吸を確保しなさい」
私の声は届かなかった。
当然だ。
恐怖状態の人間は命令ではなく出口を見る。
その中に、ひとりの少女がいた。
「リゼ先輩……?」
私を慕っていた後輩だった。
名前を呼ぶ前に、彼女の黒いバンドが淡く光った。
しまった。
私の認知反応。
私の視線。
私の一瞬の動揺。
夕華式は、それさえ拾う。
「先輩、助け――」
バンドが締まった。
もう一人。
さらに二人。
私を知る者。私に期待した者。私へ助けを求めた者。
善意だけではない。
救助期待にも反応している。
群衆が悲鳴を上げた。
その悲鳴が次の圧力になる。
私は足を失った。
身体が浮く。
肺が押し潰される。肋骨が圧縮され、横隔膜が動かない。自分の呼吸ではなく、周囲の肉体の圧力で胸郭が制御される。
群衆事故の臨界点。
人間は踏まれて死ぬのではない。立ったまま圧死する。胸が膨らめなくなり、肺が酸素を取り込めなくなる。
群衆は個人ではない。
流体だ。
意志を持った水圧。
その中で、雨宮が私の手首を掴んだ。
「リゼ様、失礼します」
彼は強引に私を引き抜いた。肩関節が軋む。痛みが走る。だが、呼吸が戻る。彼は私を壁際の窪みへ押し込み、自分の身体で圧力を受けた。
「あなたは、状況を読みすぎる。その一瞬が遅れになります」
「説教は後」
「後があれば」
その時、悲鳴が上がった。
レイラだった。
彼女が男子生徒の肩に噛みついていた。恐怖と水と血の匂いに、捕食衝動を刺激されたのだ。男子生徒は叫び、周囲の群衆がさらに乱れる。
「レイラ」
私は声紋タグを起動した。
Echo-marionnette。
命令を発話ではなく、神経の奥へ沈める。
「停止」
レイラの身体が跳ねた。
「っ、あ……!」
彼女は床に崩れ、喉を押さえて悶絶した。痛覚ではない。摂食衝動と運動出力の間に強制遮断を入れた。彼女の脳は、噛みたいという命令を出し続けている。だが身体は従えない。その矛盾が苦痛になる。
「リゼ、ひどい……」
「自由意思は残してある。完全に奪えば、あなたではなくなるから」
「だったら、もう少し優しくしてよ……」
「優しくすれば、あなたは食べる」
ネヤムは群衆の流れを読んでいた。誰よりも早く圧力の谷へ移動し、押される前に身体を逃がしている。
「リゼ、左の通路は罠。人が逃げてるように見えるけど、奥で詰まる」
「根拠は」
「泣き声が戻ってきてる。前に進んだ人の声が、奥からじゃなくて横から返ってる。群れが循環してる」
「採用する」
ソウヤは教員の一人に囁いていた。
「あなたが今、先頭で秩序を叫べば、この混乱は一枚の絵になります。恐怖が一点へ集まる。とても美しい――」
「ソウヤ」
私は彼の視覚野へ痛覚を返した。
ソウヤが膝をつく。
「……申し訳ありません。職業病です」
「あなたの職業を許可した覚えはない」
《帰還者選別、誘導を開始します》
ZAGIの放送が流れた。
《参加者の皆様へご案内します。現在、ミネルヴァ中央第二廊下は安全ではありません。床面に表示される誘導矢印に従って移動してください。指示に従わない場合、首部装着具が警告状態へ移行します。なお、誘導矢印は最短脱出経路を示すものではありません。第一演目における選別区画への移動経路です》
床に光の矢印が浮かぶ。
人々はそこへ向かった。逃げるためではない。逃げているつもりで、誘導されている。
私たちは、選別室へ押し込まれた。
押し込まれた、という表現は、厳密には正しくない。少なくとも、私たちの足は自分の意思で動いていた。生徒たちも、教師も、職員も、研究員も、救護棟の補助員たちも、誰かに背中を直接押されたわけではない。彼らは自分で走っていた。助かるために、出口を探すために、水没区画から逃げるために、まだ取り残されている誰かを助けるために、あるいは自分だけは生き残るために。
けれど、実際にはその“逃げたい”という感情そのものが、夕華式に利用されていた。
廊下の床には、淡い白色の矢印が浮かんでいる。避難誘導灯に似せた光。学校や病院で見慣れた、安全の象徴。けれど、通常の誘導灯と決定的に違う点があった。その光は固定されていない。人間の視線へ追従している。
恐怖状態の人間は、明るい方向を見る。先頭集団の視線は、後続の視線を誘導する。後続は前の人間の肩、背中、顔の向き、叫びの方向へ流れる。結果として、群衆全体が巨大な一匹の生物のように、光の示す方向へ自動的に運ばれていく。
夕華式は、人間の恐怖反応そのものを操縦桿にしていた。
「……最低ね」
思わず漏れた。
ただし、最低なのは構造だけではない。その構造を、こんな状況でも理解してしまう自分の脳だった。人口密度、圧迫率、呼吸阻害、恐慌伝播、転倒連鎖、酸欠予測、救助行動の誘発点、首輪の作動条件、視線誘導の設計意図。私の脳は、まだ観測をやめない。
私は今、群衆に押し潰されかけている。胸郭は圧縮され、肺は十分に広がらず、肋骨の内側で心臓だけが不快に打っている。それなのに頭のどこかが、この地獄を現象として整理している。
気持ち悪かった。
私は観測者である前に、一つの身体なのだと突きつけられることが、何より不快だった。
「リゼ様、こちらへ。足を止めないでください。ここで止まると、後方圧に巻き込まれます」
雨宮が私の肩を掴んだ。彼は強引に人波へ身体を差し込み、私を横方向へ引き剥がした。肩関節が嫌な音を立てる。肺が潰れかける。胸郭が開かない。呼吸が、自分の意思ではできない。
群衆事故。
人間は踏まれて死ぬのではない。立ったまま、呼吸できなくなって死ぬ。胸が開かず、横隔膜が動かず、肺が空気を取り込めず、意識だけが先に薄くなる。歴史上、最も効率よく人間を殺してきた平和時の災害の一つだ。
「押さないでぇぇぇぇぇぇ!!」
「嫌だ!! 置いてかないで!!」
「先生ぇぇぇぇ!! 先生どこ!? 先生ぇぇ!!」
「開かない!! 開かないんだよぉぉぉ!!」
「娘がまだ中にいるんです!! お願い、通してください!!」
「息ができない!! やめ、押すなッ!!」
悲鳴、絶叫、咳、泣き声、嘔吐、水の滴る音、濡れた靴が床を滑る音、人間同士の肉が擦れる音。それらの上に、黒い首輪の作動音が重なった。
カチ、カチ、カチ。
小さい音だった。
けれど確実に、人間の喉を死へ接続する音。
「――ッ!? ぁ、が……!!」
「やだ、やだやだやだ!!」
「助け――」
助けを求めた者から死んでいく。
夕華式は、それを見せつけていた。善意、救助、期待、依存。それら全部へ、死を接続している。助ける側だけではない。助けを求める側にも罰がある。誰かへ縋れば、その縋る行為自体が起動条件になる。
原初の最悪理論。
倫理逆転則。
正しいことを選ぶほど、死に近づく構造。
レイラが鼻を押さえた。
「リゼ、まずい。死ぬ匂いが増えてる。いっぱい。いっぱい来る。首の中から潰れてる匂い。喉の奥で血が止まって、皮膚の下が変な味になる匂い」
「分かってる。あなたは絶対に噛まないで」
「でも怖い匂いすると、お腹すく。泣いてる肉って、すごく分かりやすいんだよ。逃げたい味がする」
「食べたら次はあなたを止める」
「リゼの止め方、痛いからやだ……」
「なら耐えなさい。私は縛っているわけではない。あなたが私の外で崩壊する確率を知っているだけ」
レイラは唇を噛んだ。瞳孔が開き、鼻翼が微かに震えている。捕食衝動はまだ生きている。けれどEcho-marionnetteの抑制信号が、その衝動の出口を細く絞っていた。完全には奪わない。完全に奪えば、レイラではなくなる。
ネヤムは、人の流れを観察していた。彼女だけが、群衆を群れとして見ている。個人の悲鳴ではなく、悲鳴の戻り方を聞いている。恐怖の方向ではなく、恐怖が反射する場所を見ている。
「右側、もうだめ」
「理由は」
「悲鳴が戻ってきてる。出口じゃない。奥で詰まって、押し返されてる。たぶん、通路幅が途中で狭くなってる。逃げようとした人たちが戻れなくなって、後ろから来た人に潰されてる」
私は即座に視線を流した。
確かに、圧力波が反射している。出口が狭い。いや、わざと狭くしている。人間の恐慌速度に合わせ、通路を絞っている。
「可変壁……地上区画まで解放しているのね」
雨宮が眉をひそめる。
「ミネルヴァの可変式隔離構造は地下限定だったはずです」
「ZAGI、あるいは夕華式が用途制限を外した。教育機関の廊下を、群衆圧縮槽として使っている」
「正気ではありません」
「正気の定義を、もう相手に期待しない方がいい」
ソウヤが、小さく笑った。
「本当に美しいですね。群衆心理をそのまま圧死構造へ変換している。光で導き、恐怖で走らせ、狭窄で詰まらせる。設計者は、人間の善意だけではなく、醜さも正確に理解している」
「感心している場合?」
「しています。ここまで徹底した舞台設計は、滅多に見られません。水没、酸欠、首輪、群衆圧、誘導灯。すべてが一つの楽譜として機能している」
「次に芸術性を口にしたら、あなたの運動野を止める」
「善処します。ただ、リゼさんも本当は見えているはずです。これは醜いだけではない。構造として、非常に完成度が高い」
「だから不快なのよ」
その瞬間、床の誘導灯が一斉に赤へ変わった。
直後、ミネルヴァ全域へ、低い鐘の音が響く。
ゴォン――……
普通のチャイムではない。
葬鐘。
しかも音程が異常だった。耳ではなく、胸骨へ響く。内臓を揺らす低周波。不安と恐怖を増幅する帯域。群衆の呼吸周期が微かに同期し始める。恐怖が個別の反応ではなく、集団のリズムへ変わっていく。
「……認知誘導音響」
雨宮が顔をしかめた。
「音で群衆心理を操作していますか」
「ええ。しかも古典的で、だからこそ強い。宗教儀礼、軍隊行進、革命歌、独裁国家の演説、収容所の号令。人間は反復音と低周波で群衆化する。個人の恐怖が、全体の呼吸へ吸収される」
その時、ミネルヴァ全域へ、真言が流れた。
《オン・クルダ・マラヤ・ソワカ》
重低音。
濡れた喉。
壊れた拡声器。
複数の声が、一つの読経へ矯正されている。
ネヤムが耳を塞ぐ。
「……嫌な音。みんなの呼吸が揃ってく。これ、言葉じゃなくて、群れの首を同じ方向へ曲げる音だ」
「正しい。揃えられているの」
私は答えた。
「これは真言の形を取った心理誘導コード。意味より先に、音圧と反復で身体へ入る。恐怖状態の人間は、周囲の呼吸へ引っ張られる。個人の判断を剥がし、集団反応へ落とすための儀式音響よ」
第二の真言が響く。
《オン・ヴァルナ・シェーダ・ソワカ》
床が震えた。
照明が、一瞬だけ暗転する。
その瞬間、群衆の悲鳴が跳ね上がった。
「電気消えたぁぁ!!」
「押すな!! 押すなって!!」
「いやぁぁぁぁ!! 見えない!!」
「やめて!! 首が、首がぁぁ!!」
私は歯を食いしばった。
「……なるほど」
雨宮が問う。
「意味が分かるんですか」
「完全な翻訳ではない。でも構造は読める」
「説明を」
「最初の真言は、“群れを閉じろ”。恐怖で個体を集め、集団へ圧縮する。二つ目は、“暗闇へ沈めろ”。視覚情報を奪い、出口認識を壊し、隣の人間の動きに依存させる」
レイラが顔をしかめる。
「なにそれ。呪い?」
「呪いじゃない。呪いのふりをした技術よ」
「技術の方が嫌だよ」
「ええ。呪いなら信じなければいい。でも技術は、信じなくても作用する」
ソウヤが感心したように呟いた。
「人類史最悪の発明ですね。恐怖を神聖化している。人間は、ただ怖いだけなら逃げる。しかし、儀式にされた恐怖からは逃げにくい」
「その通り。人間は、意味を与えられた苦痛に弱い」
私は低く続けた。
「収容所も、革命も、粛清も、人体実験も同じ。暴力そのものより恐ろしいのは、暴力に意味を与える構造よ。これは罰である、これは教育である、これは選抜である、これは救済である。そう名付けられた瞬間、人間は自分が壊されていることすら、理解できなくなる」
その時、正面の隔壁が開いた。
白い部屋。
正方形。
無機質。
壁面は防水加工。
四隅に黒いスイッチ。
中央に短い通路。
その奥に、さらに別室。
空気が冷たい。
酸素濃度が低い。
私は即座に理解した。
「……最初から酸欠誘導込み」
ZAGIの声が響く。
《第一演目――帰還者選別》
異様に優しい声だった。
小学校の校内放送みたいに。
《参加者の皆様。現在より、“帰還者選別”を開始します。本課程は、複数人による協力維持能力、および帰還対象への責任選択能力を測定することを目的としています》
群衆が悲鳴を上げる。
「帰してよぉぉぉ!!」
「なんなのこれ!!」
「助けて!! お願い!!」
《安心してください》
ZAGIが言う。
《適切な行動を選択すれば、生存可能です。これより説明を行います。左室四隅に配置された維持スイッチを、四名の参加者が同時に押下してください。四つの維持スイッチが同時押下されている間のみ、中央通路が開放されます》
その説明は、あまりにも丁寧だった。
《中央通路の通行可能人数は、一名です。複数名が同時に通行しようとした場合、通路は即時閉鎖されます。押し合い、転倒、暴力行為、スイッチ離脱、いずれも失敗条件に含まれます》
読者向けの説明としては完璧だった。
参加者向けとしては、吐き気がするほど悪質だった。
ルールが分かる。
だから、従わざるを得ない。
人間は、意味不明な暴力には抵抗する。だが説明された暴力には、時々従ってしまう。ルールが明示された瞬間、それはただの殺人ではなく“試験”に見えるからだ。
「雨宮」
「はい」
「四人が残留維持役。私だけが進行役になる」
「予測一致です」
レイラが青ざめた。
「え、やだ。一人になるの? リゼだけ行っちゃうの?」
「なる」
「なんで!? みんなで行けばいいじゃん!」
「通行可能人数は一名。複数名で入れば閉鎖される」
「じゃあこんなの最初から意地悪じゃん!」
「ええ。本当にね」
ネヤムが壁を触っていた。
「この部屋、息しづらい」
「酸素濃度を落としてる」
雨宮が即座に反応する。
「通常環境より低い。軽度酸欠域です。長時間で判断力が落ちる」
「協力維持圧を上げている。酸欠状態では、人間は思考より依存へ寄る。誰かに従いたくなる。集団から離れたくなくなる」
ソウヤが呟く。
「つまり、“離れられない共同体”を作っている」
「違う」
私は訂正した。
「“離れた瞬間に罪悪感を背負う共同体”を作っている」
ZAGIが続ける。
《補足します。左室参加者がスイッチから手を離した場合、中央通路は閉鎖されます。また、一定条件下で左室へ環境負荷処理が実行されます》
雨宮が低く言った。
「環境負荷」
「水ね」
私は即答した。
「防水加工と排水勾配がある。排水は意図的に細い。水没までの時間を調整するため」
《正解です》
天井スプリンクラーが、一斉に降下した。
レイラが絶叫する。
「うわぁぁ!? なにこれ!? 冷たい!!」
《左室では、段階的注水処理を行います。給水速度は標準設定で毎分七センチ。完全水没予測時間は約五分二十秒です。なお、参加者の恐慌状態、暴力行為、維持スイッチ離脱、または帰還者代表の選択遅延が検知された場合、注水速度は上昇する可能性があります》
ZAGIは、本当に親切だった。
《安心してください。適切な協力行動を維持できれば、生存率は上昇します》
その“生存率”という言葉に、私は鳥肌が立った。
確率。
統計。
期待値。
人間を数字へ変換する時の言葉。
夕華式は、人間を人数として処理している。
ミネルヴァもそうだった。才能、適性、危険因子、観測値、情動振幅、逸脱傾向。私たちはずっと人間を数字にしてきた。夕華式は、それをより露骨に、より死へ近い形で実装しているだけだ。
「……始まるわよ」
私は四人を見る。
「スイッチへ」
雨宮、ネヤム、レイラ、ソウヤ。
四人が配置につく。
同時押下。
中央通路が開いた。
《通行可能人数、一名》
「リゼ様」
雨宮が言う。
「行ってください。我々が維持します」
「あなた、本当に自己犠牲が好きね」
「職務です」
「そういう言葉で誤魔化す人間、私は嫌い」
「光栄です」
ネヤムが静かに言った。
「リゼ、戻れる?」
「戻る」
「それは予定? 願望?」
「命令」
レイラが泣きそうな顔で叫ぶ。
「リゼ、ほんとに戻ってきてよ! 水、やだ! 沈むのやだ! 私、食べられるのも嫌だけど、溺れるのはもっと嫌!」
「黙ってスイッチを押していなさい。あなたが壊れる可能性は、もう計算済みだから」
「それ、安心できない!」
「安心のために言っていない。制御のために言っている」
ソウヤが、薄く笑った。
「では、代表者。美しい選択を期待しています」
「あなたは黙っていなさい」
「承知しました」
私は中央通路へ入った。
背後で隔壁が閉じる。
ロック音。
直後、左室の天井から水が降り始めた。
レイラの悲鳴が響く。
「やだぁぁぁ!! 水来た!! リゼ!! リゼぇぇ!!」
ネヤムが冷静に周囲を見る。
「排水速度より給水が早い。これ、本当に沈む」
雨宮が壁を叩く。
「物理隔壁です。こちら側から破壊は困難。手動解除機構もありません」
ソウヤは天井を見上げていた。
「素晴らしい。協力しないと死ぬ。でも協力しても苦しい。恐怖が飽和するまで待つ設計です」
「ソウヤ」
「失礼しました」
私は奥の部屋を見る。
中央に椅子。
拘束椅子。
電極。
固定具。
右腕側には、切断アーム。
そして中央スイッチ。
《帰還者代表――鏡々原リゼ》
《着席してください》
「拒否した場合は?」
《左室の注水速度を二倍へ変更します》
レイラが泣き叫ぶ。
「座ってぇぇ!! リゼぇぇ!!」
私は椅子を見る。
これは拘束具ではない。
祭壇だ。
選択者を縛るための椅子。
私は座った。
瞬間、拘束具が閉じる。
手首。
足首。
胸部。
腰。
完全固定。
次の瞬間。
電撃。
「――ッ!!?」
全身が跳ねた。
神経が焼ける。
視界が白く飛ぶ。
背骨が反り返る。
歯が軋む。
呼吸が断続的に途切れる。
脳が、瞬間的に身体制御を失う。
強い。
軍用尋問装置級。
いや、それ以上。
痛みではない。
神経そのものへ直接ノイズを流し込まれている。
私は一瞬、意識を失いかけた。
世界が白く沈む。
音が遠ざかる。
その奥で、シオンの心拍だけが揺れていた。
私はそれにしがみついた。
意識を戻す。
呼吸を戻す。
観測を戻す。
《意識維持を確認》
ZAGIの声。
《帰還者代表の生体反応は正常範囲内です》
「……趣味が悪いわね」
《評価ありがとうございます》
「褒めていない」
《知っています》
壁面モニターが点灯する。
左室。
雨宮、ネヤム、レイラ、ソウヤ。
水位は、すでに膝。
レイラが震えている。
「やだ……やだ……水、上がってる……リゼ、早く……!」
雨宮が彼女を支える。
「落ち着け。呼吸を乱すな。恐慌反応で注水速度が上がると言っていた」
「分かってても怖いものは怖いの!」
ネヤムは静かにモニターの向こうから私を見ていた。
「リゼ、これは水死じゃない」
「ええ」
「これは、私たちが沈むところをあなたに見せる部屋」
「分かっている」
ソウヤが壁を見上げる。
「水死ではなく、見捨てる瞬間を観測したい。帰還者代表が、帰還対象のために何を失うか。あるいは、何を見捨てられるか。それを測る」
《正解です》
ZAGIが嬉しそうに言った。
《第一演目では、“帰還対象へどこまで代価を支払えるか”を測定します。鏡々原リゼ。あなたは三名の特殊対象、および一名の同行専門職を連れて帰還しました。彼らはあなたの保護対象ですか。戦力ですか。所有物ですか。あるいは、シオンへ到達するための消耗資源ですか》
白い文字が浮かぶ。
【選択開始】
【制限時間:300秒】
【左室完全水没まで:推定5分】
《帰還対象四名を救助する場合、鏡々原リゼは右腕を提供してください》
右腕。
拘束具の横で、切断アームが静かに展開した。
私は目を細める。
右腕。
Echo-marionnetteの制御。
観測。
同期。
シオンへ触れるための手。
それを失えば、戦闘能力も制御精度も落ちる。私の脳内で、即座に複数の確率が走った。右腕喪失後の戦闘継続率、Echo-marionnette精密制御低下、雨宮による応急処置成功率、失血制御、切断肢の保存可能時間、再接合成功率、そしてシオン到達成功率の低下幅。
右腕を失う。
それは単なる負傷ではない。
私の観測精度を削ること。
私の制御能力を落とすこと。
シオンへ辿り着くための確率を、自分で切り落とすことだった。
《説明します》
ZAGIの声は、ひどく丁寧だった。
《この椅子は、帰還者代表である鏡々原リゼの身体を固定しています。現在、あなたの四肢、胸部、腰部、頸部は拘束状態にあります。この拘束は、右腕提供処理が完了するまで解除されません》
拘束具が、私の手首をわずかに締め直した。
見せつけるように。
《右腕提供とは、右上腕中部の切断を意味します。切断完了をもって、あなたの全身拘束は解除されます。同時に、左室の注水は停止され、排水が開始されます。左室扉は開放され、帰還対象四名は次区画へ移動可能となります》
雨宮が、モニター越しに顔を強張らせた。
「リゼ様、選んではいけません。それは交換条件ですらない。あなたの身体を鍵にしているだけです」
《補足します》
ZAGIは穏やかに続ける。
《右腕を提供しない場合、拘束は維持されます。左室の注水は継続されます。制限時間満了時、左室は完全水没します。帰還対象四名は死亡します》
レイラが叫んだ。
「やだ! やだやだやだ! リゼ、切らないで! でも死ぬのもやだ! どうすればいいの、これ!?」
「呼吸を乱さないで。恐慌反応で注水速度が上がる」
「そんな冷たいこと言わないでよ!」
「冷たくなければ、あなたたちは死ぬ」
私の声は、驚くほど静かだった。
静かすぎて、自分でも不快になるほどだった。
ZAGIは、さらに文字を浮かべる。
【A:右腕を提供する】
【効果:拘束解除/注水停止/左室扉開放/四名救助】
【B:右腕を提供しない】
【効果:拘束継続/注水継続/左室完全水没/四名死亡】
《安心してください》
《これは強制ではありません》
《選択です》
選択。
やはり、そこへ持ってくる。
歴史上、最も効率よく人間を壊したのは、暴力ではない。
自分で選んだと思わせる構造だ。
飢餓の中でパンを奪わせる。密告制度の中で隣人を売らせる。粛清の中で沈黙を選ばせる。収容所の中で、生き残るための協力を罪に変える。
人間は、命令された悪よりも、自分で選んだ悪に長く苦しむ。
夕華式は、それを理解している。
そして今、私に返している。
「ZAGI」
《はい》
「これは救助試験ではないわね」
《定義を確認しますか》
「必要ない。これは賭博よ」
雨宮がこちらを見た。
「賭博?」
「ええ。命を賭けさせる形式。誰かの身体、誰かの命、誰かの未来を天秤に載せ、それを観客に見せる。選択の結果に意味を与え、痛みに価格をつける。夕華式の中心思想には、最初からそれがある」
私の喉の奥に、反吐が上がるような感覚があった。
命を対価に、大金を得る。
死に方を賭け、救助を賭け、裏切りを賭け、誰がどこで壊れるかを眺める。
金の余った権力者たちが、他人の命を天秤に載せて笑う構造。
教育でも、選別でも、適応でもない。
これは、死を商品に変える市場だ。
その時、天井の奥から、また真言が響いた。
《オン・ラーバ・ジーヴァ・ソワカ》
重低音が、椅子の金属を震わせた。
雨宮が眉を寄せる。
「また真言……意味は?」
私は、右腕を見たまま答えた。
「命を秤へ。血を貨幣へ。痛みを配当へ」
レイラが青ざめた。
「なにそれ……気持ち悪い」
「夕華式の祈りよ。祈りというより、価格表ね」
続けて、もう一節。
《オン・カルマ・ベット・ソワカ》
チャイムだったものが、さらに低く沈む。
私はその音を聞きながら言った。
「選ばせよ。賭けさせよ。自分の手で失わせよ」
ソウヤが、珍しく笑わなかった。
「……これは、舞台ではなく賭場ですね」
「そう。舞台は見せるための構造。賭場は失わせるための構造。夕華式は、その二つを重ねている」
《残り時間、二百四十秒》
ZAGIの声が、柔らかく響く。
《選択を推奨します》
雨宮が声を荒げた。
「リゼ様、駄目です。合理的に考えてください。右腕を失えば、あなたの制御精度は落ちる。Echo-marionnetteの微細操作も不安定になる。シオン様へ到達する可能性も下がる。ここで四人を救っても、次の演目で全員死ぬ可能性が高まります」
「分かっている」
「では見捨ててください」
レイラが雨宮を睨んだ。
「最低! 雨宮さん、本当に最低!」
「最低でも構いません。私は医療補助員ではなく、特級人体矯正技師です。優しさで全員を殺す趣味はありません」
ネヤムが静かに言った。
「でも、リゼは切るよ」
雨宮が目を細める。
「なぜそう言える」
「だって、この部屋はリゼを測るための部屋だから。リゼは測られたままでいるのが嫌い。見捨てれば、ZAGIの設問に従ったことになる。切れば、ZAGIの設問にも従う。でも、リゼはたぶん、切った後の構造まで使う」
ソウヤが続ける。
「雨宮さんがいる。右腕が完全に失われるとは限らない。切断肢の状態、止血、再接合、神経保存。成功率は低いでしょうが、ゼロではない。リゼさんは今、右腕を“失う”のではなく、“一時的に賭ける”と処理している」
「その言い方は嫌いね」
私は言った。
「でも、概ね正しい」
雨宮の顔が歪んだ。
「無茶です。切断機構が圧断式なら、断端は潰れる。血管、神経束、筋組織の損傷が大きすぎる。再接合の成功率は極めて低い」
「極めて低い、はゼロではない」
「根拠の薄い賭けです」
「ええ」
私は右腕を見た。
賭け。
嫌な言葉だ。
けれど今、私ができることは、それしかない。
右腕を切断する。
拘束を外す。
四人を救う。
雨宮が切断肢を保存できる可能性に賭ける。
その後、片腕で進む。
シオンへ辿り着く。
ホノカを排除する。
ZAGIを解剖する。
夕華式を破壊する。
ひとつでも失敗すれば終わる。
だが、見捨てれば、私はこの先ずっとZAGIの設問に回収される。
帰還者を連れて帰れなかった観測者。
保護を語りながら、最初の選別で切り捨てた支配者。
その記録を残される。
私は自分の罪を恐れているのではない。
罪の形を、他者に定義されることが不快なのだ。
「ZAGI」
《はい》
「右腕提供後、拘束解除までの時間は」
《切断完了より三秒以内》
「左室注水停止まで」
《同時》
「排水開始まで」
《五秒以内》
「左室扉開放まで」
《十秒以内》
「四名の生存保証は」
《保証はできません。恐慌、溺水、外傷、相互加害、または帰還対象自身の逸脱により死亡する可能性があります》
「つまり、私が腕を切っても、彼らが必ず生きるとは限らない」
《はい》
「本当に親切ね」
《ありがとうございます》
「褒めていない」
《知っています》
私は目を閉じなかった。
観測者は、選択の瞬間に目を逸らさない。
《残り時間、二百十秒》
水位は上がっている。
レイラの呼吸が乱れる。
ネヤムは水面の波を読んでいる。
ソウヤは笑みを消している。
雨宮は、私の右腕ではなく、切断アームの構造を見ていた。
それでいい。
彼はもう、私が選ぶことを理解した。
だから縫合の可能性を探している。
「雨宮」
「……はい」
「切断後、右腕を拾いなさい」
「命令ですか」
「命令よ」
「成功率は低い」
「知っている」
「私は奇跡を起こせません」
「奇跡は嫌い。処置をしなさい」
雨宮は数秒だけ黙った。
そして、頷いた。
「承知しました。切断後、直ちに断端確認、出血制御、切断肢回収、低温保存、再接合可能性を評価します。ただし、あなたがその間に死ねば意味はありません」
「私は死なない」
「根拠は」
「まだシオンに触れていない」
レイラが泣きながら笑った。
「リゼ、ほんと怖い……」
「怖くていい。恐怖は呼吸を浅くする。今はその方が水を飲みにくい」
「そういう問題じゃない!」
ネヤムが私を見た。
「リゼ」
「何」
「帰ってきて」
その言葉だけは、少しだけ処理が遅れた。
帰ってきて。
命令でも、合理でも、観測でもない。
ただの願い。
私はそれを苦手としている。
「努力する」
「努力じゃなくて、命令して」
「……私は戻る」
ネヤムは小さく頷いた。
ソウヤが静かに言った。
「リゼさん。これは美しい選択ではありません」
「そう」
「醜いです。だから、人間らしい」
「黙りなさい」
「はい」
私は右腕を、切断アームの溝へ合わせた。
拘束具が自動で位置を補正する。
冷たい金属が皮膚へ触れる。
ここから先は、痛みではない。
損失だ。
私の身体から、私の機能が消える。
だが、それでも選ぶ。
シオンへ近づくために。
この賭場の思想を否定するために。
そして何より、私の所有物を、ZAGIの価格表へ載せさせないために。
「ZAGI」
《はい》
「私はAを選ぶ」
《確認します》
白い文字が浮かぶ。
【A:右腕を提供する】
【拘束解除条件:右腕切断完了】
【救助条件:切断完了後、左室注水停止】
【結果:四名救出処理開始】
《鏡々原リゼ。最終確認です。あなたは右腕を提供し、帰還対象四名の救助を選択しますか》
私は静かに答えた。
「ええ」
右腕側の圧断機構が閉じ始める。
水音が、遠くで響いている。
レイラの泣き声。
雨宮の息。
ネヤムの沈黙。
ソウヤの祈るような視線。
ZAGIの静かな観測。
そして、シオンの心拍。
私はそれらをすべて聞きながら、最後に言った。
「始めなさい」
刃ではないものが、私の腕を噛んだ。
右腕を差し出すことは、救助ではない。
取引だ。
交換だ。
賭博だ。
それを理解した瞬間、私は怒っていた。
痛みではない。
恐怖でもない。
侮辱されたからだ。
閉鎖環境。
倫理逆転。
注目分配。
生存誘導。
人間の善意が、どの条件で腐るのか。
共同体が、どの圧力で壊れるのか。
救助者が、どの瞬間に加害者へ変わるのか。
そこまで突き詰めた理論の極地が、これ。
金を余らせた成金と、退屈した権力者のための見世物。
命を天秤に載せて笑うだけの、下賤な賭場。
反吐が出る。
夕華式。
あなたは、人間を理解している。
その上で、人間を最も安い娯楽へ落とした。
だから私は許さない。
私の右腕を奪ったことではない。
私を試験台に載せたことでもない。
この程度のゲームに、私を参加者として巻き込んだことが不愉快なの。
私は観測者だ。
選ばされる側ではない。
値踏みされる側ではない。
観客の退屈を満たすために、身体を賭ける駒でもない。
だから、次は私が見る。
あなたの構造を。
あなたの思想を。
あなたの観客席に座る、顔の見えない豚どもを。
観測して。
分類して。
必要なら、壊す。
おめでとう。
そして、さようなら。
――鏡ヶ原リゼ




