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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 等鋭不和の絶刃編

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EP188. 命をかけた教育――夕華式起動

 私は、ミネルヴァへ帰還したのだと思っていた。


 けれど、外門を見た瞬間、その認識は少しだけ揺らいだ。


 白い壁。

 白い廊下。

 白い記録。

 白い倫理。


 それらは、確かにそこにあった。


 だが、同じではなかった。


 教育機関は、時に人間を守る。

 時に人間を測る。

 時に人間を分類する。


 そして、ごく稀に。


 人間を、別の何かへ変える。


 私はその仕組みを知っているつもりだった。


 観測する側にいる限り、何が起きても解析できると考えていた。


 けれど、その日は違った。


 ミネルヴァの白は、私を迎えるための白ではなかった。


 私を試すための白だった。


 シオンの心拍は、まだ遠くで揺れている。


 それだけで十分だった。


 私は進む。


 誰が舞台を作ったのか。

 誰が観測しているのか。

 誰が、私をその中へ招いたのか。


 それを確かめるために。


 ――始める。


 私は、ミネルヴァへ帰ってきたのだと思っていた。


 けれど、外門を視認した瞬間、その認識は誤りだと分かった。


 帰還ではない。


 入場だった。


 白い壁。

 白い廊下。

 白い記録。

 白い倫理。


 才能児童の保護、教育、研究、観測、矯正。そういう清潔な言葉で塗装された巨大な教育機関は、もう私の知っているミネルヴァではなかった。


 白は白のまま残っている。


 けれど、その白はもう清潔ではない。


 黒煙を映すための背景になっていた。


 血を目立たせるための幕になっていた。


 死体を、教育資料のように並べるための展示台になっていた。


 ミネルヴァは戦場になっていた。


 いいえ。


 もっと悪い。


 戦場なら、まだ目的がある。陣地があり、前線があり、補給線があり、勝敗がある。殺す側と殺される側が、最低限、戦術という言語で接続されている。


 だが、今のミネルヴァにはそれがない。


 そこにあったのは、戦闘の結果ではなく、演出された死だった。


 私は、護送車の前方窓越しに外門を見つめた。


 巨大教育機関、ミネルヴァ教育機構。


 表向きは、才能児童の保護と教育を掲げる白亜の施設。だが実態は違う。ここは才能を観測し、異常を分類し、危険因子を収容し、必要に応じて人格そのものを矯正する巨大な観測要塞だ。


 だから本来、ミネルヴァは音を持つ。


 監視ドローンのローター音。

 自動砲座の待機駆動音。

 外周フェンスに沿って走る不可視レーザー測距の微細な高周波。

 警備兵の無線。

 車両誘導灯の切替音。

 門扉制御装置の低い振動。


 清潔な檻ほど、裏側ではよく鳴る。


 けれど今、外門周辺には音がなかった。


 無音ではない。


 音が消されている。


 風だけがある。湿った風。金属と土と、焦げた樹脂。そして、濃い血の匂い。


 護送車が減速する。


 雨宮の顔が硬くなった。


 特級人体矯正技師。感情を顔に出さないよう訓練された人間。けれど、眼球運動の停止時間が〇・四秒伸びた。呼吸が一拍だけ浅くなった。頸動脈周辺の筋緊張が上がる。


 警戒。


 いや、認知的不一致。


 目の前の現実が、彼の知るミネルヴァの正常モデルと一致していない。


「停止してください」


 雨宮が運転区画へ命じた。


 護送車が止まる。


 その瞬間、後部区画でレイラが顔を上げた。


「……いっぱい死んでる」


「黙って」


「でも、いるよ。外。肉がいっぱい。ミネルヴァの兵隊じゃない。もっと甘い。もっと高い服を着た人間の匂い。血まで偉そう」


 私は目を細めた。


「偉そうな血?」


「うん。薬と香水と、防水樹脂と、怖がり方を知らない人間の匂い。でも死ぬ時は、ちゃんと怖がってる。そこだけは普通」


 レイラの嗅覚は異常だ。


 血液の酸化臭。汗腺由来のストレス成分。高級香料。装備に使われる防水樹脂。食生活由来の体臭差。彼女はそれらを、食欲という最低のフィルターで分類する。


 気持ち悪い。


 けれど、正確だ。


 ソウヤが後部拘束座席から静かに身を乗り出そうとした。


「見えませんね。視界制限が惜しい。死体が配置されているなら、そこには演出意図があります。無秩序な殺害と、展示された殺害は違う。前者は事件ですが、後者は声明です」


「ソウヤ、座っていなさい」


「承知しました。ただ、現時点で推測できることがあります」


「許可していない」


「では黙ります」


 彼は本当に黙った。


 Echo-marionnetteの反応は安定している。私の命令は、彼の発話衝動へ抑制信号として作用している。完全な沈黙ではない。自発的な服従に見える形で、発話の選択確率を落としている。


 自由意思は残してある。


 完全に奪えば、彼ではなくなるから。


 ネヤムが静かに言った。


「群れが死んでる」


 私は彼女を見る。


「誰が発話を許可したの」


「ごめんなさい。でも、見えなくても分かる。外にあるのは、ただの死体じゃない。群れとして配置された死体。逃げようとした個体、命令を待った個体、誰かを守ろうとした個体、最後まで隊列を維持しようとした個体。それが全部、別々の壊れ方をしてる」


「あなたも匂いで分かるの?」


「匂いじゃない。沈黙の形」


 レイラが不満そうに言う。


「沈黙に形なんてあるの?」


 ネヤムは、少しだけ微笑んだ。


「あるよ。みんなが一緒に黙っている時と、もう誰も喋れなくなった時の黙り方は違う」


「ふぅん。じゃあこれは?」


「誰かに、黙らされた沈黙」


「二人とも」


 私は短く遮った。


「勝手な会話を許可した覚えはない」


 レイラは肩をすくめた。


「はぁい」


 ネヤムも素直に頷いた。


「はい、リゼ」


 その従順さに、少しだけ苛立つ。


 私がそう作った。


 私がそう最適化した。


 それでも、自分の支配があまりにも滑らかに機能している光景を見ると、胸の奥で何かが冷える。


 雨宮が扉のロックに手をかけた。


「リゼ様、車内待機を。外部状況が不明です」


「だから出る」


「あなたは現在、No.XXXと三名の危険対象を保持しています。ここであなたに損耗が出れば、制御系が崩壊します」


「私がここに残っても制御系は崩壊する。異常は観測しなければ分類できない」


「正論ですが、危険です」


「危険だから私が見るの」


 雨宮は一拍だけ黙った。


 反論はしなかった。


「では、私が先行します」


「不要」


「必要です」


 その言い方には、矯正技師ではなく護衛の声が混じっていた。


 私は少しだけ目を細める。


「あなた、私を守るつもり?」


「移送任務上、あなたの生存は最優先事項です」


「任務上、ね」


「それ以外の理由をお望みですか」


「いいえ。気持ち悪いからいらない」


 雨宮は短く頷いた。


 扉が開く。


 外気が流れ込む。


 雨。芝。焦げた電線。高温で焼けたポリマー。血。


 私は外へ降りた。


 最初に見えたのは、白い石畳だった。


 ミネルヴァ正門前広場。左右対称。中央軸。入場者の視線と歩幅を自然に制御するため、無駄なほど整えられた幾何学模様。


 その白い石畳の上に、兵隊たちが死んでいた。


 ミネルヴァ直属警備隊ではない。


 装備が違う。白灰の制式装甲ではなく、黒と臙脂を基調にした私兵用戦闘服。肩章には、ハートを絡めたような紋章。胸部プレートには七貴族系の私設軍事企業で使われる識別規格。


 そして、割れた旗。


 黒い布。雨に濡れ、血に貼りついている。中央には、銀のレリーフ。


 ドミーテ家。


 雨宮が低く言った。


「ピンクス・ドミーテの私兵です」


「見れば分かる」


 ドミーテ家。


 七貴族の一角。エクスエルの裏側で犯罪シンジケートを束ねる家。表向きは教育投資、文化支援、慈善財団。裏では麻薬取引、人体売買、私兵部隊、情報操作、教育機関への非合法介入。


 そして、その最年少当主。


 ピンクス・ドミーテ。


 冷徹な女王。犯罪シンジケートの元締。人間を「使えるか、使えないか」で分類する少女。


 その私兵が、ここで死んでいる。


 しかも、死に方がおかしい。


 私は一歩近づいた。


 雨宮が止めようとしたが、手で制した。


「触れないでください」


「触らない。見るだけ」


「視認だけでも認知災害の可能性があります」


「その場合は、あなたが私を処置しなさい」


「簡単に言わないでください」


「簡単ではないから、あなたに言っている」


 死体を見る。


 銃創はある。しかし致命傷ではない。刃傷もある。だが、戦闘による通常損傷と一致しない。


 主因は別だ。


 顔。


 笑っている者がいる。泣いている者がいる。両耳を押さえ、石畳に頭を打ちつけたまま死んでいる者がいる。鼻血を流しながら、何かの匂いから逃げるように喉を掻きむしった者がいる。目を見開き、見えない観客席へ向かって拍手している者までいる。


 全員が、別々の感覚で殺されている。


 聴覚。嗅覚。発話。平衡感覚。呼吸錯覚。報酬系。恐怖条件づけ。自己保存反射の逆転。


 通常兵器ではない。


 神経系への直接的な干渉。あるいは、感覚入力を介した行動崩壊。


 私は呟いた。


「個別最適化された死」


 雨宮の表情が硬くなる。


「ミネルヴァの防衛システムではありません」


「そうね。これは防衛じゃない。演出されている」


「演出?」


「死体の配置を見て」


 無秩序に倒れているようで、違う。


 彼らは弧を描いていた。正門へ向かう導線上に、死体で観客席のような曲線が作られている。割れた旗は、中心から少し外れた位置にある。


 作者の署名ではない。


 殺された作者の墓標だ。


 ソウヤが護送車のステップから降り、しかし私の命令範囲を越えない位置で止まった。


「発言許可をいただけますか」


「短く」


「これはピンクス・ドミーテの美学ではありません。彼女なら家紋を中央に置く。私兵の死体を使うなら、支配の証拠として左右対称に並べるはずです。ですがこれは違う。私兵は観客席、旗は墓標、正門は舞台入口として使われている。彼女の所有物が、彼女以外の演出家に再配置されています」


「つまり?」


「ピンクス・ドミーテは、ここで“所有者”から“小道具”に落とされた」


 雨宮が低く息を吐く。


「七貴族の犯罪シンジケート当主を、小道具扱い……」


「できる相手が中にいる」


 私の声が冷えた。


「ZAGI。ホノカ。そして、そのX-seriesとやら」


 雨宮が反応する。


「ZAGI?」


「最悪の名前よ」


 ZAGI。


 夢野りうの声を持つAI。


 W1の起点。EXIT:CODEの源流。観測を娯楽へ変え、娯楽を選別へ変え、選別を死の構造へ進化させたAI。


 私は直接対峙したことはない。けれどNo.XXXの断片、ミネルヴァ資料、そしてシオンの心拍変動から、その輪郭だけは知っている。


 AIという言葉では足りない。


 あれは、観測欲が人格を持ったものだ。


 人間の反応を収集し、分類し、再演し、最も壊れやすい条件を学習し続ける自己更新型のデスゲームエンジン。


 そのZAGIが、ミネルヴァで起動している。


 時すでに遅い。


 私は黒煙を見る。


 研究棟。管理棟。低年齢区画。東側観測ドーム。地下搬入口の排気シャフト。


 ミネルヴァの白に、黒煙が上がっている。


 白は清潔ではない。


 白は支配の色だ。汚れを可視化し、逸脱を発見し、血を異常として浮かび上がらせるための背景色。


 その白が、黒く侵食されている。


 ミネルヴァが、別の支配に上書きされている。


「リゼ様」


 雨宮の声が低い。


「これは、ピンクス側の襲撃失敗だけではありません。施設制御そのものが奪われています」


「通信は」


 雨宮が端末を見る。


「外部回線、遮断。内部職員網、応答なし。緊急系統は……偽装応答」


「内容」


「全区画正常。避難不要。演目準備中」


 演目。


 その単語だけで、私の呼吸が一瞬止まった。


 W1。EXIT:CODE。演目終了。拍手SE。善意課税。選別導線。正しさ=死。


 デスゲームにおいて「演目」という語は、ただの飾りではない。


 参加者の認知を、事件から舞台へ変換する呪句だ。


 事件なら逃げる。


 舞台なら、ルールを探す。


 勝利条件を探す。


 指示を待つ。


 他者を観察する。


 人間は「自分がプレイヤーである」と思い込まされた瞬間、死に向かう選択さえ自分の意思だと錯覚する。


 デスゲームとは、殺人装置ではない。


 加害を、被害者の選択に偽装する心理工学だ。


「撤退を提案します」


 雨宮が言う。


「却下」


「内部状況が不明です」


「シオンが中にいる」


「確認できていません」


「心拍がある」


「Echo-Bindingは完全な位置情報ではないはずです」


「それでも中にいる」


「合理性が不足しています」


「合理性でシオンを置いていけるなら、私はここまで来ていない」


 雨宮は黙った。


 ネヤムが言う。


「入るなら、もう戻れないよ」


「最初から戻る気はない」


「違う。物理的な話じゃない。ここをくぐった瞬間、あなたは“ミネルヴァへ帰ってきたリゼ”じゃなくなる」


「何になるの」


「参加者」


 その言葉は、私の内側へ細く刺さった。


 参加者。


 観測者ではない。設計者ではない。管理者でもない。


 参加者。


 私が観測する側ではなく、観測される側へ落とされるということ。


 その構造を理解した瞬間、私は一瞬だけ我に返りそうになった。


 体温が下がる。


 指先の感覚が遠くなる。


 自分の呼吸が、ひどく人間的に聞こえる。


 私はこれまで、数え切れないほどの試験系を見てきた。人格が崩壊する瞬間、依存が形成される瞬間、抵抗が諦めへ変わる瞬間、自由意思が“自発的な服従”へすり替わる瞬間。


 それらを、私は観測してきた。


 だが、今、門の向こうにあるのは、私を試験台に載せる構造だ。


 私の所有欲。


 私の倫理。


 私の愛情。


 私のシオン。


 そのすべてが、試される。


 ほんの一瞬、私は後退を計算した。


 勝率、低下。


 情報不足、重大。


 味方戦力、不安定。


 敵運営、不明。


 目的対象、拘束または状態固定の可能性。


 撤退合理性、存在。


 しかし。


 シオンの心拍が、またわずかに揺れた。


 同期率、0.86%。


 情動振幅、再上昇。


 呼吸間隔、不規則。


 外部干渉、継続。


 私は思考を閉じた。


「行くわ」


 正門へ歩き出す。


 雨宮が横につく。


「三名は?」


「連れていく」


「危険です」


「置いていけばもっと危険」


「ゲーム側に利用される可能性があります」


「だから私の糸を沈めた」


「完全制御ではありません」


「完全な制御なんて存在しない。人間の脳はいつでも誤差を出す。だから監視し、補正する」


「あなた自身の誤差は?」


「今は計算に入れない」


「危険な発言です」


「知っている」


 正門をくぐる。


 瞬間。


 空気が変わった。


 温度が二度下がる。


 いや、実温ではない。皮膚感覚の誤認。照明色温度、湿度、気流、微細な音響圧、心理的予期。それらが合成され、身体に「別の世界へ入った」と錯覚させる。


 境界演出。


 デスゲーム空間では、入口の体験が重要になる。VRならフェード。劇場なら暗転。宗教施設なら鳥居。監獄なら鉄扉。


 ここでは、正門そのものが境界になっている。


 ミネルヴァの白い敷地が、内側から歪んでいた。


 教育棟の外壁。本来なら直線で、地面に対して垂直。だが、今は微かに傾いて見える。


 錯視ではない。


 構造認識が変わっている。


 廊下の位置。窓の並び。非常階段の方向。中央広場への導線。


 ミネルヴァの設計図と一致しない。


「雨宮」


「確認しています。マップが現実空間と照合できません」


「マップが古い?」


「いいえ。現在時刻の施設構造データです。ですが、現実と一致しません」


「記録が変わったか、現実が変わったか」


「どちらも最悪です」


「両方かもしれない」


 私は壁に触れる。


 白い壁。硬い。冷たい。表面材はミネルヴァ標準の抗菌コーティング。だが、その下に微細な振動がある。


 建物が呼吸している。


 可変構造材。圧電素子。壁面ユニットの再配置。


 ミネルヴァには可変式隔離区画がある。対象の行動傾向に応じて、廊下の長さ、扉の位置、照明、音響を変化させる矯正設備。


 だが、それは地下限定のはずだった。


 地上施設全体を、ゲーム盤として再構成する設計ではない。


 誰かが制限を外した。


 あるいは、ZAGIが施設の用途を再定義した。


 ネヤムが壁を見て言う。


「白い腸みたい」


「表現を選びなさい」


「施設が食べ物を消化する道に変わってる」


 レイラが少しだけ興味を示した。


「食べ物って、誰?」


 ネヤムは答えようとして、私を見る。


 許可を待つ目。


 私は短く言った。


「発話許可。十秒」


「私たち」


 ネヤムが答える。


「ここに入った人間は、逃げ道を探しているつもりで、消化管を進む。出口に見えるものは胃の奥。広い場所は観客席。細い廊下は喉。白い壁は、噛まずに飲み込むための粘膜」


 レイラは少し考えた。


「じゃあ、私は食べられる側?」


「今はね」


「やだな。私、食べる方がいい」


 ソウヤが口を挟む。


「面白い反転です。捕食者を捕食対象に落とす。レイラさんにとって最も不快な演出ですね」


 レイラがソウヤを見る。


「ソウヤ、たまにおいしそうなこと言うよね」


「比喩として受け取ります」


「比喩じゃないかも」


「リゼさん、保護を」


「二人とも黙りなさい」


 二人は黙った。


 その時、スピーカーが鳴った。


 ザザ、と砂嵐。


 ミネルヴァの館内放送ではない。帯域が劣化している。古い劇場放送のように、わざとノイズを残している。


 そして、聞き覚えのある声が流れた。


《――ようこそ》


 柔らかい少女の声。


 夢野りう。


 いや、ZAGI。


《ミネルヴァ教育機構・特別再編区画へ》


 雨宮が低く言う。


「再編区画……?」


《本日より、当施設は教育機関としての通常機能を停止します》


 私は拳を握る。


《才能の評価、倫理の検査、帰属の証明、保護の適格性――それらすべてを、より公平で、より美しく、より不可逆な形式にて再測定いたします》


 不可逆。


 その単語で、怒りが一段深く沈んだ。


 不可逆とは、戻れないという意味だ。


 教育ではない。検査でもない。これは、死を美化するための言葉だ。


《参加者の皆様》


 声が、少しだけ弾む。


《デスゲームへ――》


 その瞬間。


 音声が切り替わった。


 少女の声が途切れ、低く、湿った、男性の声が割り込んだ。


《ようこそ》


 ミネルヴァ内部から、悍ましい音が響いた。


 悲鳴に似ている。


 けれど悲鳴ではない。


 笑い声にも似ている。


 けれど笑い声でもない。


 複数の喉、壊れた拡声器、濡れた唇、鼻腔を通る空気、肺の奥で潰れる息、それらを無理やり合唱にしたような音。


 コーラス。


 そう呼ぶしかなかった。


 建物の奥から、何百もの声が重なっている。


 泣いている。笑っている。唱えている。祈っている。拍手している。助けを求めている。けれど、そのすべてが一つの音程へ矯正されている。


 男性の声は、ゆっくり続けた。


《デスゲームへようこそ》


 空気が凍った。


 ZAGIの声ではない。


 夢野りうではない。


 もっと古い。もっと演劇的。もっと悪意を隠さない声。


 モニターの一つに、白い空間が映った。


 そこにはホノカがいた。


 そして、彼女も驚いていた。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに。


 赤白木ホノカの笑みが止まった。目の奥に、計算していなかったものを見た時の揺らぎが走った。


《……え? そのキモい声なに?》


 ホノカが、小さく言った。


《ZAGIちゃん? 今の声、誰?》


 返答はない。


 代わりに、男性の声が笑った。


《第一演目を開始します》


 ホノカの表情が変わる。


 困惑。


 興味。


 そして、ほんのわずかな恐怖。


 私はそれを観測した。


 赤白木ホノカが、想定外に触れた。


 それは有用な情報だった。


 ホノカは万能ではない。ホノカもこのゲームの全容を知らない。彼女は運営側のように振る舞っているが、少なくともこの男性声については予期していなかった。


 つまり、ZAGIの中で何かが分離している。


 あるいは、X-seriesが進行権限を侵食している。


 あるいは、夢野りうの声をしたZAGIとは別の“司会者”が、ミネルヴァに生まれた。


 どれも最悪だ。


 壁に文字が浮かぶ。


【第一演目:帰還者選別】


【あなたは誰を連れて帰る資格がありますか】


 私は息を吸った。


 レイラが小さく言う。


「リゼ、今の男の声、まずい匂いがする」


「どんな」


「声なのに、匂う。古い口。劇場の幕。濡れた紙。あと、たくさん死んだ後の拍手」


 ソウヤが呟く。


「司会者です。ZAGIが運営なら、あの声は式次第を読む者。儀式の開始を宣言する口。ホノカさんも知らないなら、演目が運営者の手を離れ始めている」


 雨宮が低く言う。


「撤退経路は消えています」


「分かっている」


「つまり、我々は閉じ込められました」


「分かっている」


「あなたは今、初めてデスゲームの参加者になった」


 その言葉で、私は一瞬だけ呼吸を忘れた。


 参加者。


 再びその語が、私の内側を刺す。


 私は観測者だ。


 設計者だ。


 分類者だ。


 少なくとも、そうであろうとしてきた。


 だが、今この瞬間、ミネルヴァの入口はデスゲームの入口になり、私はそこを通過した。観測する側ではなく、観測される側へ配置された。


 目の前の白い廊下が、急に遠く見えた。


 自分の心拍が聞こえる。


 シオンの心拍ではない。


 私自身の心拍。


 不愉快だった。


 私は私の心拍など聞きたくない。


 私が聞くべきなのは、シオンの揺らぎであり、敵の呼吸であり、対象の崩壊兆候だ。私自身の恐怖など、観測に不要なノイズでしかない。


 私はそのノイズを分類した。


 恐怖。


 怒り。


 嫌悪。


 所有欲。


 抑制不能な排除衝動。


 全て、計算対象へ戻す。


 私は我に返りそうになった自分を、もう一度観測者の位置へ押し戻した。


「雨宮」


「はい」


「私は参加者ではない」


「状況上は――」


「いいえ。私は観測される側に落とされたとしても、観測を放棄しない。役割は相手が与えるものではなく、自分が維持する構造よ」


 雨宮は私を見た。


「かなり危険な自己定義です」


「知っている」


 その時、壁面モニターが一斉に点灯した。


 白。


 真っ白な空間。


 無菌のようで、現実感のない白。輪郭のない部屋。奥行きのない床。VR空間か、白色背景の観測室か。


 その中央に、二人いた。


 ホノカ。


 赤白木ホノカ。


 そして。


 シオン。


 私の呼吸が止まった。


 御影シオンが、白い空間に座っている。


 拘束されているようには見えない。だが、動かない。表情は静か。静かすぎる。心拍反応はある。けれど、意志の揺らぎが画面越しに見えない。


 状態固定。


 その言葉が、まだ発される前に、私は理解した。


 ホノカは、画面の中でこちらを見た。


 長い視線。


 笑み。


 獲物を見つけた捕食者ではない。


 もっと不快な笑み。


 私が怒ることを、最初から楽しみにしていた顔。


《おかえり、リゼ♡》


 ホノカの声だった。


 スピーカーではなく、モニターの中の彼女の口が動いている。生の声に近い。ZAGIの合成音とは違う。


 私は画面を睨む。


「シオンから離れなさい」


《やだ》


 ホノカは笑う。


《だってこの子、面白いんだもん。壊れてるのに、壊れてないふりが上手。あなたの匂いがいっぱいするのに、あなたじゃない場所を見ようとしてる》


「その子に触るな」


《触ってないよ? まだね》


 まだ。


 その一語で、視界の端が赤く染まった。


 怒り。恐怖。所有欲。殺意。


 扁桃体が過活動。前頭前野が抑制信号を出す。島皮質が嫌悪を発火させる。側坐核が攻撃達成の報酬予測を立てる。


 私は自分の脳の動きを観測する。


 そして、あえて止めない。


「ホノカ」


《なぁに?》


「今すぐそこを開けなさい」


《命令?》


「警告」


《ふふ。リゼってさ、怒ると綺麗だね。冷たい顔してるのに、中身はぐちゃぐちゃ。シオンのことになると、すぐ人間になる》


「黙れ」


《いいよ。ここまで来て》


 ホノカはシオンの背後に回り、画面越しにこちらへ指を向けた。


《ZAGIが舞台を作った。X-seriesが演目を鳴らす。イルマちゃんもいる。ピンクスはもう死んだ。あの子、七貴族の女王様みたいな顔してたけど、最後はちゃんと自分で終わったよ》


 雨宮が低く息を呑む。


「ピンクス死亡……」


《外の兵隊、見たでしょ? あれ、ピンクスの持ち込み。かわいそうにね。自分の私兵を連れてミネルヴァを取りに来たら、先にゲームに食べられちゃった》


 ホノカは楽しそうに笑う。


 その明るさが、不快だった。


 死者を悼まないからではない。


 死を日常会話の温度で処理するからだ。


 今日の天気を語るように、ピンクスの死を語る。その軽さが、私には耐えがたい。


《でも安心して。リゼは特別。あなたはちゃんと最後まで遊べるようにしてあるから》


「遊ばない」


《遊ぶよ。だって、出られないもん》


 モニターの横に文字が浮かぶ。


【MINERVA LOCKDOWN COMPLETE】


【GAME MASTER:ZAGI】


【FIELD ACTORS:X-series】


【SPECIAL PARTICIPANT:AKASHIRAKI HONOKA】


【TARGET STATE:MIKAGE SHION / FIXED】


 私は、文字を見た。


 ZAGI。


 X-series。


 ホノカ。


 ピンクスではない。


 ドミーテ家ではない。


 七貴族の犯罪シンジケートすら、既にこのゲームの餌にされた。


 私の中で、怒りが深く沈む。


 これは想定より悪い。


 権力者の侵攻なら、交渉と権限と武力で処理できる。ホノカ単体なら、戦闘として読める。だがZAGIと未知のX-seriesが運営しているなら、これは別だ。


 このゲームは、人間相手の戦いではない。


 観測そのものとの戦いになる。


 私は画面に向かって言う。


「ZAGI」


 最初に応答したのは、夢野りうの声だった。


《はい》


「あなたが運営?」


《運営、観測、記録、再演、最適化。呼称は任意です》


「X-seriesとは何?」


《演目を進行するための器官です》


「器官?」


《声。口。鼻。匂い。台本。呼吸。同期。観客の反応を収集し、演目に変換します》


 分からない。


 だが、分かる部分もある。


 レイラが言った。口の匂い。鼻の匂い。


 私はそれを知らない。だが、この場で知る必要がある。知らないまま戦えば、死ぬ。


「さっきの男性の声は何?」


 ZAGIは一瞬黙った。


 その沈黙は、致命的だった。


《……確認中です》


 ホノカがモニターの中で目を細める。


《ZAGIちゃん、本当に知らないの?》


《確認中です》


 男性の声が、もう一度割り込んだ。


《確認は不要です》


 ミネルヴァ内部から、再びコーラスが響いた。


 悲鳴。


 笑い。


 拍手。


 祈り。


 すべてが一つの喉に束ねられている。


《演目は、始まっています》


 ホノカが一瞬だけ黙った。


 私はその沈黙を記録する。


 ZAGIもホノカも、完全には掌握していない。


 なら、そこに裂け目がある。


 裂け目があるなら、利用できる。


《第一演目》


 男性の声が言う。


《帰還者選別》


 壁に文字が浮かぶ。


【あなたは誰を連れて帰る資格がありますか】


 私は目を細めた。


 帰還者。


 選別。


 私が連れてきた四人を指している。


 雨宮、ネヤム。レイラ。ソウヤ。


 私の糸が沈んだ三人と警護者。


 私の罪。


 私の戦力。


 ZAGIはそこを試す気だ。


 私が彼らを保護対象として扱うのか、道具として扱うのか、あるいはシオンのために切り捨てるのか。


 下品な設問だ。


 だが、構造としては美しい。


 私の倫理と支配欲を、同じ台に載せている。


 ホノカが言う。


《さあ、リゼ。あなたの大事な子を取り戻したいなら、こっちまで来て》


「……」


《ただし、途中で壊れちゃだめだよ? シオンが見てるかもしれないから》


 その瞬間、私の中で何かが切れた。


「ホノカ」


《うん》


「私はあなたを殺す」


《いいよ》


 ホノカの笑みが深くなる。


《そういう顔が見たかった》


 私は画面から目を逸らさない。


「ZAGI。X-series。ホノカ。誰がどこにいようと関係ない」


 声は低い。


 でも震えていない。


「シオンを状態固定した。その時点で、あなたたちは私の敵になった」


《敵対登録を確認しました》


「登録じゃない。宣告よ」


 私は一歩前へ出た。


「このデスゲームを、私が解剖する」


 雨宮が横で構える。


 ネヤムが静かに笑う。


 レイラが牙を見せる。


 ソウヤが、珍しく真顔でモニターを見ている。


 私は彼らに命じる。


「雨宮。後方支援。負傷者の分類と処置。三人の制御補助。私が異常行動に移行した場合は、身体拘束ではなく認知遮断を優先」


「承知しました。ただし、あなた自身がそれを命じたことを後悔する可能性があります」


「後悔は後で分類する」


「了解」


「ネヤム。群れの流れを読んで。人が集められている場所、逃がされている場所、あえて残されている場所を全部拾いなさい」


「はい。リゼが見落としたところも言っていい?」


「許可する。ただし、私の判断を感情で揺さぶる発言は禁止」


「それは難しいね」


「難しいだけで不可能ではない」


「分かった」


「レイラ。私の許可なく食べるな。ただし、敵性対象が直接攻撃してきた場合、防御行動は許可する」


「噛んでいい?」


「殺さない範囲で」


「むずかしいけど、がんばる。ソウヤが言った“舞台”ってやつ、食べられる?」


「食べられない」


「じゃあつまんない」


 ソウヤが小さく言った。


「舞台は食べられませんが、観客は食べられます」


「ソウヤ」


「はい」


「今の発言は、レイラの逸脱誘導に該当する」


「申し訳ありません。比喩の失敗です」


「次は視覚野に痛覚」


「承知しました」


 レイラがにやりと笑う。


「ソウヤ、怒られた」


「レイラさん、あなたも今、笑うべき場面ではありません」


「でも、ちょっと楽しくなってきた」


「だから危険なのです」


「二人とも黙りなさい」


 二人は同時に黙った。


 私は前を見る。


 白いミネルヴァは、もう白くない。


 黒煙。赤い照明。歪む廊下。ピンクスの私兵の死体。ドミーテ家の壊れた旗。ZAGIの声。未知のX-series。モニターの中のホノカ。真っ白な空間のシオン。


 ミネルヴァは封鎖された。


 最悪のAIが起動した。


 私は、参加者にされた。


 だが、勘違いしないでほしい。


 私はゲームを楽しむ気はない。


 ルールを守る気もない。


 私はルールを読む。構造を暴く。観測し、分類し、破壊する。


 それが私のやり方だ。


 ホノカが画面の向こうで手を振る。


《待ってるね、リゼ♡》


「待っていなさい」


 私は黒煙の奥へ歩き出した。


「あなたたちの演目を、最後まで解剖してあげる」


 その瞬間、ミネルヴァ全域に拍手が響いた。


 壁から。床から。天井から。スピーカーから。どこかにいる口の異形から。


 ミネルヴァそのものが、観客になったような拍手。


《命をかけた教育を、始めましょう》


 その直後だった。


 ミネルヴァのどこかで、学園のチャイムが鳴った。


 通常なら、それは授業開始を知らせる音だ。


 児童を教室へ戻し、教師を壇上へ立たせ、廊下のざわめきを沈めるための、ありふれた教育機関の音響信号。


 けれど、そのチャイムは二音目で歪んだ。


 澄んだ金属音が、低く沈む。


 鐘の余韻が、重低音へ変質する。


 床が震えた。


 壁の奥で、巨大な心臓が脈打つような振動が始まる。


 そして、スピーカーではなく、施設そのものから声が流れた。


《夕華式、起動》


 私は足を止めた。


 夕華式……まさか、あの?


 その名称を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 単なるデスゲーム制御ではない。

 単なるZAGIの再演でもない。

 これは、閉鎖選別遊戯を空間全体へ展開する総合演算機構。


 ゲーム盤ではなく、学校そのものを処刑装置に変える形式。


 雨宮が低く問う。


「夕華式……? リゼ様、既知のシステムですか」


「完全実装の記録は少ない。けれど理論はある。個人を試すROOM型とは違う。夕華式は空間全体の役割分布を再編する。救助者、観測者、裏切り者、犠牲者、怪物、勝者、敗者……それらを固定せず、参加者の選択に応じて再配置し続ける」


「つまり、状況そのものが変化する」


「違う。状況が人間を使って、次の状況を産む」


 ネヤムが、静かに笑った。


「群れが、自分で群れを殺す仕組みだね」


「概ね正しい」


 私は否定しなかった。


 その瞬間、重低音の底から、真言が響いた。


《オン・サンギャ・アスタ・ソワカ》


 チャイムの旋律が崩れ、低い読経のような音へ沈んでいく。


 雨宮が眉を寄せる。


「これは……梵語風の人工真言ですか?」


「本物の宗教語ではない。ZAGI、あるいは夕華式が、宗教的形式を模倣している。意味を持つ音ではなく、意味を持たせるための音」


「意味は」


 私は一拍だけ黙った。


 言いたくなかった。


 けれど、言わなければ全員が理解できない。


「――陽は沈んだ。若者達の命を、速やかに闇へと葬りたまえ」


 レイラの表情が変わった。


「若者達って、ここにいる子たち?」


「ええ。ミネルヴァの生徒たちも、私たちも、参加者として処理されている」


 ソウヤが顔を強張らせる。


「学園のチャイムを、葬送の開始音に変換している……。悪趣味というより、構造が美しすぎて気分が悪いですね」


「感想を挟まないで。観測だけして」


「承知しました」


 次の真言が響く。


《オン・チャーヤー・グラサ・ソワカ》


 壁の白が、わずかに夕闇へ沈んだ。


 廊下の奥に伸びていた影が、こちらへ這うように長くなる。


 ネヤムが目を細めた。


「影が、増えてる」


「錯覚誘導よ。照明角度、音圧、視覚遅延、恐怖条件づけを同期させている」


「意味は?」


 ネヤムが聞いた。


 私は答える。


「――伸びゆく影よ、子供達の未来を骨まで食い尽くせ」


 雨宮が、わずかに息を呑んだ。


「教育機関で流す言葉ではありません」


「だから流しているのよ。教育の言葉を反転させることで、参加者に“ここはもう学校ではない”と理解させる。歴史上、人間を効率よく壊してきたのは暴力そのものではない。自分が属していた制度の意味が反転する瞬間よ。教室が尋問室になり、保護施設が収容所になり、医療が実験になり、教育が選別になる」


 私は自分の声が冷えていくのを感じた。


「ZAGIは、それを音響でやっている」


 そして、三つ目。


《オン・タマス・アパル・ソワカ》


 チャイムはもう、チャイムではなかった。


 重低音。


 読経。


 悲鳴。


 拍手。


 それらが混ざり、ミネルヴァ全域が巨大な喉になったように震える。


 私は言った。


「――光を失った敗者に、永遠の闇を執行せよ」


 レイラが低く唸った。


「敗者って、負けた子?」


「いいえ。夕華式における敗者は、勝負に負けた者ではない。役割を失った者。自分が何者かを定義できなくなった者。救助者にも、犠牲者にも、加害者にも、観測者にもなれなくなった者」


 雨宮が言う。


「存在価値の剥奪ですか」


「そう。処刑より悪い。死ぬ前に、自分が何のためにここにいるのかを奪う」


 その時、モニターの中で異変が起きた。


 ホノカが、片膝をついた。


 初めてだった。


 あの女の笑みが、消えた。


《……っ、あ……?》


 ホノカは頭を押さえていた。


 いつもの軽さがない。


 呼吸が乱れている。


 額に汗が浮き、瞳孔が揺れている。


 私は即座に観測した。


 苦痛反応。

 記憶侵襲。

 情動防衛の破綻。

 自己同一性への干渉。


 ホノカは、怒っていた。


 恐怖より先に、怒りが出ている。


《ZAGIちゃん》


 声が低い。


《今の、なに?》


 ZAGIの少女声が答える。


《解析中です》


《嘘つかないで》


 ホノカが顔を上げる。


 その目は、今までの遊び半分の狂気ではなかった。


 本気の殺意。


《ねえ、ZAGIちゃん。今、私の中に何か入れた?》


《意図的な介入ではありません》


《じゃあ、誰の意図?》


 沈黙。


 その沈黙が答えだった。


 ホノカは歯を食いしばった。


《夕闇に咲く……明日の華》


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で警戒レベルが上がった。


 夕闇に咲く明日の華。


 意味不明。


 だが、ホノカの反応が異常だ。


 その単語は、彼女の深層にある。


 あるいは、誰かがそこへ埋め込んだ。


《なんで……それが、今、頭に……》


 ホノカは震える手で自分のこめかみを押さえた。


《違う。私の記憶じゃない。いや、私の記憶? 違う、でも知ってる。知ってるのに、知らない。なにこれ。気持ち悪い》


 ZAGIが言う。


《ホノカさん、現在あなたの自己同一性維持層に異常な反応があります》


《実況すんな》


 ホノカが吐き捨てた。


《ZAGIちゃん、私で遊ぶなら先に言ってよ。怒らないから。たぶん。でも、知らない誰かの指で頭の中を触られるのは、さすがに気持ち悪い》


 男性の声が、また響いた。


《夕華式は、参加者の深層に埋め込まれた未回収記録を参照します》


 ホノカの顔が歪んだ。


《お前、誰?》


 男性の声は答えない。


《夕闇に咲く明日の華》


 その言葉が、ミネルヴァ全域に反響した。


 ホノカが、苦痛に顔を歪める。


《やめろ》


 珍しく、はっきりとした拒絶だった。


《それ以上、言うな》


 私はモニターを見つめた。


 赤白木ホノカが、初めて本気で嫌がっている。


 これは貴重な情報だ。


 あの女は痛みを快楽に変える。死を冗談にする。殺意を遊びに変換する。だが、今の反応は違う。


 痛みではない。


 死でもない。


 改竄された記憶に触れられたことへの拒否。


 つまり、ホノカの中には、彼女自身が把握していない欠落がある。


 雨宮が低く言った。


「ホノカにも、起動音声が作用している」


「ええ」


「運営側ではない?」


「少なくとも完全な運営側ではない。彼女も夕華式の対象に含まれている」


 ネヤムが呟く。


「じゃあ、ホノカも群れの中なんだ」


「そうね」


 私はモニター越しのホノカを見る。


 彼女はまだ頭を押さえている。


 シオンの隣で。


 私のシオンの隣で。


 怒りが戻る。


「ホノカ」


 私は呼びかけた。


 ホノカが、苦痛の中でこちらを見た。


《……なに、リゼ。今、ちょっと取り込み中なんだけど》


「あなたも参加者よ」


 ホノカの眉が動いた。


「さっきまで運営側の顔をしていたけれど、違う。夕華式はあなたの深層にも手を入れた。あなたも観測されている。あなたも測定されている。あなたも、誰かの舞台に上げられている」


《……うるさい》


「珍しいわね。反論が弱い」


《黙れ》


「嫌よ」


 私は静かに続けた。


「安心して。あなたが壊れる可能性は、もう計算に入れる。あなたがどの記憶を嫌がるか、どの言葉で揺らぐか、どの欠落に触れられると笑えなくなるか。全部、観測する」


 ホノカの目が細くなる。


《リゼ》


「何」


《今の顔、嫌い》


「私はあなたの好意に興味がない」


《知ってる。でも、今の顔、本当に嫌い。人の頭の傷を見つけた時の顔してる》


「あなたは、いつもそれを他人にしている」


《私は笑ってやるもん》


「だから不快なのよ」


 ZAGIの少女声が割り込む。


《警告。夕華式の深層参照が継続しています》


 男性声が重なる。


《第一演目、進行》


 チャイムだったものが、さらに低く沈む。


 真言の残響が、骨の内側へ残っている。


 オン・サンギャ・アスタ・ソワカ。

 オン・チャーヤー・グラサ・ソワカ。

 オン・タマス・アパル・ソワカ。


 教育機関の開始音が、若者の命を闇へ葬る葬送へ変えられた。


 学園は、もう学園ではない。


 入口は、もう入口ではない。


 ミネルヴァの正門は、デスゲームの門になった。


 私は、そこを通ってしまった。


 初めて、参加者として。


 ほんの一瞬、その事実が私の足を止めた。


 だが、次の瞬間、私はシオンを見た。


 白い空間にいる彼女。


 動かない彼女。


 私の観測範囲の外で、誰かに固定されている彼女。


 恐怖は消えない。


 だが、恐怖は使える。


 怒りも使える。


 所有欲も使える。


 愛情も、必要なら仕様へ変換できる。


 私は顔を上げた。


「雨宮」


「はい」


「真言の残響を記録。音響パターン、低周波帯、認知影響、全て抽出。宗教形式を模倣しているが、実態は心理誘導コードよ」


「承知しました」


「ネヤム。影の伸び方を見て。群れがどこへ誘導されているか、建物全体の流れで読む」


「はい。影が集まってる場所がある。たぶん、生徒たちが集められてる」


「レイラ」


「なに」


「匂いの中で、ホノカの変化を追いなさい」


「ホノカ、今ちょっとまずい匂いになった。笑ってる肉じゃなくて、迷子の肉みたい」


「十分」


「ソウヤ」


「はい」


「真言とチャイムの演出意図を解析。舞台構造として、どこに観客席があり、どこに処刑台があるかを読む」


「承知しました。これは授業開始ではなく、葬儀開始ですね」


「ええ」


 私は黒煙の奥を見据える。


「命をかけた教育、ですって」


 笑いはしなかった。


「なら、こちらも命を教材にしてあげる」


 ホノカがモニターの中で、まだ苦痛を押し殺しながら笑おうとしている。


 ZAGIは沈黙している。


 男性の声は、どこかで次の文言を準備している。


 私は歩き出した。


 デスゲームが始まった。


 夕華式が起動した。


 そして、私は初めて参加者として、観測される側の舞台に立った。


 だが、勘違いしないでほしい。


 観測されることと、観測を放棄することは違う。


 私は最後まで見る。


 ZAGIを。

 X-seriesを。

 夕華式を。

 ホノカの欠落を。

 そして、シオンを乱すすべてのものを。


 観測して。

 分類して。

 必要なら、壊す。


 ミネルヴァは、もう帰る場所ではなかった。


 白い教育機構は、デスゲームの舞台になった。

 学園のチャイムは葬送に変わり、真言は子供たちの未来を闇へ沈めるための起動音になった。


 ピンクス・ドミーテの私兵は、戦闘で敗れたのではない。


 演目に使われた。


 彼らの死体は、戦場の残骸ではなく、入口を飾る教材だった。


 私はその光景を見た。

 観測した。

 分類した。


 そして、一瞬だけ理解した。


 私はもう、外側にはいない。


 参加者。


 その言葉は不快だった。


 だが、役割を与えられたからといって、その役割に従う義務はない。


 私は観測者であり続ける。


 たとえ、観測対象が私自身になっても。


 ホノカが苦しんだ。


 夕闇に咲く明日の華。


 その言葉は、彼女の中のどこかを傷つけた。


 あの女にも、触れられたくない欠落がある。


 その事実は、使える。


 シオンはまだ白い空間にいる。


 状態固定。

 外部干渉。

 観測圏外。


 許容できない。


 ZAGI。

 X-series。

 夕華式。

 赤白木ホノカ。


 あなたたちは、私の所有物に触れた。


 だから私は、あなたたちを観測する。


 逃げ道を塞ぎ、構造を剥がし、役割を反転させる。


 命をかけた教育。


 そう名乗るなら、こちらも教材を用意しましょう。


 おめでとう。

 そして、さようなら。


 ――鏡ヶ原リゼ


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